唇 寒(しんかん)集8

 

02年4月21日

4月16日の『なんでも鑑定団』は酷かった。テレビ画面だから本物とは違うのかも

しれないが、まず、虎の絵。確か200万円との鑑定だった。見ていて思わず「へー、

この絵が?」と叫んでしまった。三流の道具屋に並んでいる装飾画としか見えなかっ

た。次が狩野安信という人の福禄寿か何か。これがなんと2万円。テレビ画面だが、

けっこういい絵に見えた。偽物でも10万円はしてもいいように思った。その次が『子

連れ狼』の小島剛夕。私もさんざん楽しませて貰った漫画家。色紙が30枚ぐらいで

なんと200万円弱。欲しい人がいるから値も付く。そういう市場があるのだから私

みたいな貧乏人がとやかく言うことではないだろう。鑑定師もいつもの女性ではなく

漫画専門の先生だったから、番組も純絵画として扱ったわけではない。それにしても

ああやって見ると酷い絵である。直後に上村松園がちらっと映ったが、その素晴しかっ

たこと! 

『鑑定団』も最近はつまらない。少し前まではビデオに取ってでも欠かさず見ていた

が、今はそんな意欲もない。絵を描くということと絵の売買は別なこと。こちらが絵

画市場の都合に合わせるのはとても無理。「勝手にやってくれよ」という気持ち。

 

ところで、前前回、老人介護の話で「私は直って貰う方針」などと豪語したが、具体

的な方法は大したことはない。ただ車で海へ連れて行くだけ。両親ともに漁師の家の

出だから海が大好き。海へ行くだけでも物凄く元気になり、機嫌がよくなり、おしゃ

べりになる。できれば、自分たちの故郷の港へ連れて行きたい。きっと直ると思うの

だが、どうだろうか? そういえば、私も少し前に自分の故郷である東京の下町へ行っ

た。「煉瓦亭」という洋食屋のラーメンを食べた。子供の頃と同じ味。おそらく私の

脳の中はα波でいっぱいになったのだろう。それにしても下町は物凄い交通量。あん

なところでよく暮らしていたものだ。表札を見ると、昔のハナ垂れ仲間がみんな当主

になっている。あのままあそこで暮らしているのだ。羨ましいような、気の毒なよう

な。

 

絵の話の小冊子(第6集)は何とか進んでいる。今週中にはできるだろう。

さらに、本日新しい「絵の話」をアップ。No95「ヨーロッパ絵画への憧憬」の続

編。画像もあります。「わが先輩たちへの賛歌」です。

 

たっちゃんハウスでは菊地理ネット展をやって貰っている。

掲載作品はすべてたっちゃんこと原田さんにお買い上げいただいたもの。だから私に

も懐かしい展示だ。是非見てください。

 

2月3日は、けっこう知られていない地球や宇宙のコーナーを発展させた「宇宙の寸

法」の 「広がる宇宙」を更新。小林秀夫の「無常ということ」をカバーしました。

また、「偉大な天文学者たち」を少し書きました。

 

4月8日から14日までのアクセス数は193。個展のDMの影響か? 増加。

 

02年4月26日

本来なら、4月28日が更新日だが、明日から豊橋に行くので、本日更新する。とは

言っても、この「唇寒」には、小冊子『絵の話』第6集の「はじめに」をそのまま転

載するだけ。ゴメンナサイ。

しかし、新しい「絵の話」『雪舟の想い―水墨画の世界6』も更新した。これはけっ

こう大作です。

それでは、「はじめに」をどうぞ。

 

中学生の頃、国語の時間に「一生は一度しかない。人生は取り返しがつかない。どの

ように生きるか真剣に考えなさい」と習った。この教えがまったく守れずにとうとう

50歳を過ぎてしまった。

越後の良寛は、大きな庄家に生まれたが、家を捨てて乞食坊主になった。若い頃から

厳しい修行を繰り返し、74歳で死ぬまで安住を求めなかった。

良寛は、円通寺での修行を終え、越後に現われるまでの数年間、どこでどうしていた

か知られていない。ちょうどこの時期に良寛らしき修行僧に巡り会ったという手記が

残っている。近藤という人が書いたものだが、その旅の僧(=良寛?)の禁欲的な姿

はまことに感動的だ(中野孝次『風の良寛』に詳しい)。

われわれが良寛を慕うのは、残念ながら、そのときそのときをないがしろにしない良

寛の真摯な生き方にではない。美しい書、率直な漢詩、心豊かな和歌があるからだ。

しかし、重大なのは良寛その人がどうだったかである。書や詩や歌は100の良寛の

実存から現われた1とか2の破片に過ぎない。

本当は絵だって同じでなければならない。まずちゃんとした人間があってこその絵だ

ろう。

ただ、人に聞いた話だが、ゴーギャンは一儲けしてやろうと絵を始めたという。とこ

ろが、始めてみると、絵画の道は奥深い。どんどんのめり込み、最後にはタヒチ行き。

命懸けの画道となった。

まず修行があって、人間ができ、作品が生まれる、というわけでもないのだ。グジグ

ジやっているうちに、人間が磨かれることもある。いい作品ができることもある。絵

を描くことが修行になることもある。絵なんて描かなくてもまともに生きるだけで、

それはもうすでに修行である。

今さら良寛というわけにはいかない。少しでも良寛様に呆れられないように、自分に

正直でありたいとは思うけれど……。

 

               2002年4月、迷いに迷い、迷いを迷う菊地理

 

4月21日にアップした「絵の話」「わが先輩たちへの賛歌」もよろしく。

 

4月15日から21日までのアクセス数は198。

金井展のDMの影響か? さらに増加。

 

02年5月5日

豊橋展は終わった。絵も買っていただき、高速代やらも出たので、また2年後予約し

た。予約といっても、すべて喫茶フォルムのマスターのご好意でやっている展覧会な

ので、とにかくやらせていただくだけである。今回も出品作を置かせて貰ったり、運

んで貰ったり、私より年長のご夫妻に負担をかけてしまった。そのうえ、地方紙の日

曜版に写真入りで大きく取り上げていただいた。これもマスターのご好意である。

明後日から金井展が始まる。金井展は画廊企画なので、金井社長の声が掛からなけれ

ば個展もない。出演以来を待つテレビタレントと同じ。確かに去年少し売れたが、金

井画廊としてはどっちでもいい絵描き。ほとんど利益にならない。それは私もよくわ

かる。私も一応自営業者だからだ。金井さんもやる以上は雑誌に宣伝したり、いろい

ろ経費をかける。まことに申し訳ない。先行投資というヤツなのか? 恩返しができ

ればいいのだが、とても当てにならない。

こちらもせめて「絵の話」ぐらいで協力させて貰おうと鋭意製作中。

もう印刷も済ませ、表紙を作るぐらいのところまでいったが、大きなミスを発見。岸

田劉生の生没年を十年も間違えてしまった。話の展開に支障はないのでご容赦願う。

 

集英社の『風の良寛』が終わって、春秋社の『良寛の呼ぶ聲』もクリアしたら、『良

寛に会う旅』(春秋社)という写真がいっぱい入っている本が見つかった。すべて中

野孝次の著作だ。この『良寛に会う旅』ももうそろそろ終わる。新潟の新しい様子も

描かれ、ビールやワインの話とか原発反対のことなど、中野先生の良識あるリベラリ

スト? って感じがチラホラ。私は酒のことはわからないし、むろん原発なんて反対

だが、電気もないと困る。とにかく大して面白くないなと思いながら読み進むと下の

一節。長いけれども引用する。禅僧の、というより良寛の「悟り」というものがどう

いうものかほの見える。

  良寛の身には、人中にあっても、深夜己の心を凝視し、己と自問自答しつつ、存

  在の真実にたえず新たに迫ろうとする人のいうにいわれぬ気配が漂っていたのだ。

  それは真実(と思い込んでいるもの)を掴み所有している人のそれではない。真

  理を所有することはできぬ、それは生きる刻々に新たにそれを問い、新たにつか

  み直さねばすぐに偽者となってしまうなにかのことだ。

  彼はだからどのような人とも、名僧知識とも違っていた。所有するものは、たと

  え知識といえども、何もないのである。その生活と同じく、無所有の空のなかに

  身を置き、日々これ新たに天地の声に耳をすます人、無空の中に身をさらして日々

  自己を新たにとらえ直す人であった。(後略=p159)

いろいろな物を一切持たない。行雲流水。何も持たず、ただ漂うごとし。何も持たな

いというのは具体的な家とか家具とか家族とか本などのことだけでなく、知識や真理

も含めてのことだったのだ。一切無一物。そういうことらしい。少しわかったような

気もする。この「わかった」という気持ちも持ってはいけない。

 

本日の更新は「今月の絵」。金井展の新作はほとんどDCに収め忘れた。会期中に撮

る予定。しかがって、本日の作品は最々新作。この絵も京橋へもって行く予定。

 

4月22日から28日までのアクセス数は219(豊橋へ行っていたので推計)。

 

02年5月12日

金井展は今日で6日目が過ぎた。なかなか絵の嫁入り先が決まらない。雨が続いてお

客さんの足も伸びない。明日から何とか10枚ぐらい嫁いで貰いたいものだ。

それなのに「絵の話」は飛ぶようになくなる。すでに100冊は出た。昨日も製本で

午前様。会期中は戦争である。

「絵の話」をこうして1年分いっぺんに読み直してみると、私は言葉が悪い。絵を見

てくださる方に対して「クソ食らえ」と言っているように取れる文章もある。これは

もちろん誤解だ。誤解だが、素直に読めばそう読める。まるで憲法解釈みたいになっ

てしまうが、そういう悪態はだいたい自分自身に言っている。それが東京弁だ。気に

さわった方はどうかご容赦ください。

また、「やっぱり、凄ぇ!」というような表現が多い。これも訛。今後は少しよそ行

きの言葉にします。

と、本日の更新も無理。へとへとに疲れている。しかし、「たっちゃんハウス」で私

の豊橋展の写真を紹介してくれている。

 

4月29日から5月5日までのアクセス数は203。金井展効果か?

 

02年5月19日

今年の金井展は梅雨入りしたようなはっきりしない天候が続き、どうなることかと心

配したが、後半になってから少し買っていただいた。何とか最低ラインはクリアした

と思う。ま、金井画廊にとってはお荷物絵描きであることに変わりない。私も自営業

者の端くれだからいろいろ計算するが、どうしても採算の取れる企画ではない。2種

類の美術雑誌(「月刊ギャラリー」と「美術の窓」)にまで宣伝していただき、記事

にもして貰った。まことに頭が上がらない。

せめてもの恩返しにと「絵の話」(第6集)を作るのだが、読み直してみると、先週

も書いたように、驚くほど言葉が悪い。さらに、じっくり読み直すとあっちこっち間

違えだらけ。実に困ったものだ。ま、話の流れに大きな支障は来さないのでご勘弁願

う。

ただ、どうしても述べておきたい点は道元や良寛はたった今、この場所でどうかとい

うことが重大である、と言っているように解してきたが、良寛のこんな詩にぶつかっ

てしまった。

  過去巳過去/未来尚未来/現在復不住(以下略)

  (過去はすでに過ぎ去り、未来はいまだ来ない。現在もまたとどまらない)

という詩だ。

もちろんショックを受けたのは「現在復不住」のところ。この詩は以下過去にこだわ

らず新奇に惑わされず参禅に参禅を重ねて「無窮」に到り、今までの自分の非なるこ

とを初めて知った、というように続く(と思う)。岩波文庫の良寛詩集(p74)。

つまり、「現在に生きる」というが、その「現在」なるものもわれわれの支配下には

ないということだ。われわれには何もないということ。今の私では、だからどうしろ

とは言えないが、自分に正直に好きなことを続けるしかないのではないか。

さらに、道元が過去の如来や菩薩や祖師を語るとき、道元は時空を超えてそれら先達

と一体化すると述べ、それを絵に例えて、中村彝がレンブラントとなり、雪村が雪舟

となり牧谿ともなるというように書いた。これは過去の画家がさらに過去の画家と一

体化するような記述になっている。しかし、道元の語るところでは過去の祖師が未来

の雲水になるという時空の逆転もあるのだ。頭がおかしくなるようなでっかいスケー

ルでものを言っている。とても追い付けない。すなわち、17世紀のオランダのレン

ブラントが20世紀の日本の中村彝となって絵筆を取るというような、普通考えられ

ない時空の逆転を語っている。これではユングの深層心理学からもはみ出してしまう。

しかし、実際考えてみれば、レンブラントの一筆に将来の数限りない画家たちが驚嘆

することは予想がつく。もちろんレンブラント自身だってそんなことは知っていただ

ろう。そうすると、日本の中村彝とは特定できなくとも、将来自分のような絵を描く

絵描きが現われるぐらいのことは漠然と思ったに違いない。と言うより、確信してい

たと思う。絵画の真髄を掴みとり、その本道を突き進む限り必ずこの同じ道を行く者

がいる。そう思うのが自然だ。だからレンブラントはゴッホにもなったし中村にもなっ

た。ゴッホも過去のミレーになりドラクロワになり、未来のブラマンクにもなり、日

本の萬鉄五郎にもなったのだ。

真なる絵画は時空を駈ける!

 

と、本日の更新も「唇寒」だけでした。

 

5月6日から5月12日までのアクセス数は260。金井展効果ますますパワーアッ

プ!

 

02年5月26日

前のも述べたが、道元の坐禅と絵を描く行為を比べるのはやっぱり無理がある。

現在の曹洞禅は、坐禅のうまい下手をけっこう言い立てるが、道元自身にはほとんど

その種の発言はない(と思う)。この近所のお寺でも坐禅はとにかく結跏趺坐(けっ

かふざ=両足を太腿の根元に乗せる本格的な坐禅の姿勢)を最上とし、半跏趺坐(は

んかふざ=左足だけ右足の太腿の根元に乗せる初心者向けの姿勢)はできるだけ避け

る指導だった。『正法眼蔵』には「結跏趺坐または半跏趺坐」とさりげなく書いてあ

り、別にどっちでも構わないような表現だ。とにかく坐禅の巧拙は語っていない。と

言うより語りたくないのだと思う。

これに対して絵を描く行為はどうだろう。私のこの「絵の話」も含めて、絵の巧拙の

ことばかり。「いい加減にしろ!」と言いたくなる。われわれもついつい巧拙を追っ

てしまう。重大なのは描くことであって、うまい下手ではないはずだ。特に絵の世界

はうまい下手が最大の関心事になっている。

実は坐禅にも巧拙がある。瞬間的に結跏趺坐を組み、数秒で深い瞑想の境地に達する

禅僧もいる。その姿はまさしく仏である。微動だにしない見事な姿勢は確かに美しい。

しかし、こういう禅僧どうしの競い合いは少なくとも表向きは禁物だった。だからな

おさら裏の競争は激しかったとも言える。

もちろん、道元のもっとも嫌うところ。そこに迷ってはおしまいである。

これを絵の世界に当てはめるのは容易ではない。前にも書いた「大巧は拙なるがごと

し」とはこういうことなのかもしれない。果たしてコレクターの方々はそこまで見て

くれるかどうか? コレクターとしても本当の「拙」では話にならないのだから。

 

本日の更新は金井展の画廊内の写真をご紹介しながら、私見・個展考と絵の経済学

 

5月13日から5月19日までのアクセス数は230。2000枚DMパワー継続中。

 

02年6月2日

先週アップした「私見・個展考と絵の経済学」では、絵の値段のねじれ現象を述べた。

つまり、買う方には思いのほか高価。売る方は涙が出るほど安値。話にならない。こ

れは絵が他の創作物とは異なり、唯一一つ一つ手作りの個別作品だからである。この

大量生産大量消費の世の中にあって信じられないような前時代的制作活動をしている。

生産コストから考えれば、ちゃんと描いた油彩画であれば、最低号15万円の価値は

ある。「ちゃんと描いた」というのは、「若い頃からきっちり修業を積み、気を入れ

てしっかり描いた」という意味。

そういう絵なら、壁に掛けておいても10年以上は楽しめるはず。10年楽しむ消耗

品と考えても決して高くはない(10号=150万円で1日420円足らずの消費)。

これがオークションに出回り額付きで2000円となっても致し方ない。すでに中古

品なのだから。そういう絵と描き立てバリバリ、未発表の新作を比べられても困る。

新作は生身の絵描きが一枚一枚描いているのである。大量コピー商品とは根本的に違

う。

私の絵など号3万。原価を大幅に割り込んだ破格値とお考えいただきたい。

サッポロ一番のサンヨー食品の社長は自らも絵を描くコレクター。コレクターとして

の氏のご意見は、絵の値段は、絵描きが30歳代なら号3万、40歳代なら4万、50

歳代なら5万と基準を決めているそうだ。これでいっても私の画料は号5万となる。

しかし、この買う側の言い分は何の根拠もない。私の号15万説は「私見・個展考と

絵の経済学」でも述べたとおり、絵描きを独り立ちさせる、つまり生産コストから割

り出した最低価格なのだ。この価格でも、たとえば私の金井画廊展でなら、完売しな

ければ人並みの暮らしはできない。しかし、ま、それは絵描きの責任。何枚売れるか

は絵の中身の問題(とりあえずここではそういうことにしておく)だ。

少し話を戻すが、本当にいい絵はオークションには滅多に出ないのだ。つまらない絵

ばかりが出る。いい絵はコレクターが手放さないからだ。たまにコレクターが死んで

しまうなどの場合に出ることもある。ま、しかし、人は滅多に死なない。不幸があっ

ても普通コレクターの家族が続けて所蔵する。

次にやっぱりどうしても書いておきたいことは、一枚の絵に掛かる時間について。ま

たは、一枚の絵に使った絵の具の分量について。個展会場のお客さんはどうしてもこ

こが気になると見える。みなさん、お尋ねになる。

はっきり申し上げて、私の絵に掛かる時間は15分前後。墨のクロッキーは2分。0

号から4号ぐらいの裸婦の油絵は5分。10号以上でも20分。裸婦は最長で20分。

裸婦はモデルが時間を計っているから間違えない。風景だともう少し時間が掛かると

思う。風景はいくらでも描いていられるからだ。もっとも太陽が刻々と動いているか

ら、あんまりのんびりやってもいられない。

私の希望はもっともっと短い時間で描きたい。一瞬で描きたい。

絵の具も多ければいいというものではない。厚塗りも一表現手段だが、減筆(かすれ

たような少ない絵の具や墨の表現)だって捨て難い秘法。ま、その辺は絵描きに任せ

て貰うしかない。そんなことは説明することでもないだろう。企業秘密と気取るつも

りもない。口で言い表せないから絵で描いているのだ。私はいつもすべてオープンで

ある。

ただし、私の絵全体に掛けている時間はたいへん長い。絵の本を読む(私は物凄い遅

読)、画集を見る、模写をする、東西の古典画家の展覧会に行く、簡単な鉛筆のスケッ

チをするなどわたしが絵に拘わっている時間の長さは日本一かもしれない。ちなみに、

絵の夢もよく見る。当然フルカラー。こうしてホームページを作っている時間だって

絵に関係している。さらに、キャンバスを張ったり、地塗りをしている時間も相当。

とにかくうんと描くからうんと張る。それをもう、どう少なく見積もっても30年以

上やっている。

一枚の絵に掛かる時間は短くてもちゃんと描いている。その証拠に、私の絵を買って

くださる方は、私と一緒にクロッキーをしている人も多い。2分の墨絵に4万円も出

してくれるのだ。これは大きな信用である。さらに、リピーター(繰り返し買ってく

れる人)も多い。前に買った絵が飽きないからである。私の絵はスルメのように見れ

ば見るほど味が出るはず。

ちなみに、使っているキャンバスはベルギー製のクレサンキャンバス。クレサンの地

塗りは油性のシルバーホワイト(猛毒で日本のメーカーは使えない。乾けば害はな

い)。日本製のキャンバスのほとんどは水性で地塗りも合成樹脂。油絵でも描けるこ

とは描けるが、発色が全然違う。古典の画家は全員シルバーホワイトを使っている。

何百年経っても輝き続けているはずだ。ついでに絵の具もベルギー製(ブロックス)、

オランダ製(タレンス)、イギリス製(ニュートン)を使っている。

ここまで宣伝したからもう一声言わせていただけば、昔の偉い画家たちのいい絵をじっ

くりご覧いただきたい。物凄い速描きばかりなのだ。上野の西洋美術館へ行って、モ

ネのどの絵でもいいから見ていただきたい。筆が走りに走っている。本物の絵描きは

感動をキャンバスに焼き付けている。絵を描いているときはたいへん忙しいのだ。実

体のないゆらゆらした「感動」が消えてなくならないうちに画面に押し込めなければ

ならない。ぐずぐずしてはいられない。みんな躍起になっている。

クラシックの巨匠のデッサンも素晴しい速描きばかり。レオナルド、ミケランジェロ、

ティツィアーノ、ラファエロ、ティントレット、ルーベンス、ベラスケス、プッサン、

レンブラント、ロラン。速くなければ役に立たない。何も描けないのと同じ。ゴヤ、

ターナー、ドラクロワ。まだまだ挙げれば切りがない。ドーミエ、ドガ、モネ、ロー

トレックなどのことはいつも言っている。日本人の洋画だって、後世に残るような名

作は速描きばかり。中村彝も速い。長谷川利行はムチャクチャ速い。富岡鉄斎は日本

画だが、これまた速い。中国宋元の水墨画はどれも数秒の傑作ばかり。日本の水墨画

も、この間の雪舟展でも見たとおり、話題は2〜3分、あるいはそれ以上の速さで仕

上げた破墨山水。中国の明から清にかけて活躍した徐渭、八大山人、石濤も速い。

とにかく速くなければ始まらないのだ。ま、オリンピックみたいなものだとお考えい

ただきたい。出来た作品に何時間掛かるかということより、裏の修練が重大なのであ

る。絵描きは時給で描いているわけではない。

繰り返して言うが、クラシックの丁寧なタブローはほとんど弟子が描いたもの。あん

なものは王様向けの看板にすぎない。この現代に王様はいない。みんな目のある絵画

愛好者ばかり(のはず)。ご丁寧なタブローは不要なのだ。でっかいキャンバスにイッ

キに殴り描けばいい。本物の絵描きの一閃の筆捌きをご覧いただこうというのだ。

これでもまだ私の絵、買いませんか?

 

と自己宣伝はここまでにして、前回の続き。道元禅のこと。

昨日やっと『アウトローと呼ばれた画家―長谷川利行』を読み終わった。長谷川の一

番カッコいい台詞は「生きることは絵を描くことに値するか」というやつ。ちょっと

聞いたのでは意味がわからない。「生きること」と「絵を描くこと」を秤に掛けて「絵

を描くこと」の喜びを語っている。「生きること」に引き比べているところが凄い。

しかも、長谷川は49とか50歳で行き倒れている。そういう人間が吐いた言葉だか

らなおさら迫力もあり説得力もある。決定的な切り札は長谷川の絵。絵を描くことに

飢えた筆跡が、画肌がこの台詞でますます光輝く。

ま、しかし生きていなければ絵は描けない。命あっての物種。当り前である。絵は所

詮モノ。物質に過ぎない。たかが絵である。そんなに大した物じゃあない。

長谷川は絵画のモノとしての価値を問うていないこところが救いだ。長谷川は描く行

為を最上のランクに押し上げているのだ。ここが道元禅に繋がる。坐禅という行為が

もっとも重大だと説く道元に一脈通じている。行為者としての人間を最上とする。

「生きることは絵を描くことに値するか」

このすべてをむき出しにした男の叫び。ひりひり痛むような心の髄をさらけ出した叫

びはわれわれを圧倒する。しかし、長谷川は不幸ではなかった。最上の喜びをたっぷ

り味わって死んでいった。絵を描く本当の喜びにどっぷり漬かった数少ない絵描きの

一人である。絵描きは、本当の絵描きは絵を描いている瞬間にすべてがあり、すべて

が完結している。後の世の絵画の評価なんて庇みたいなものだ。

 

本日の更新は「唇寒」だけです。次週は大幅にページを改める予定。

 

5月20日から5月26日までのアクセス数は214。5月月間アクセス数1019。

過去最高(1084=2001年9月)に迫る勢い。

 

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