唇 寒(しんかん)集56<18/12/1〜19/4/27>
19年4月27日
世間は「平成最後」と「10連休」でとても浮かれている。10連休が始まる前から連休に入っているムード。気候も夏日レベル。花粉も終わっている。蚊も飛んでいない。最高の季節かも。
書くほうの小説はここのところスランプ気味。読むほうの小説は『居眠り磐音シリーズ』(佐伯泰英・双葉文庫)ばかり。村山由佳はお休み。
この歳で村山官能ワールドを知って、知ってみると、知らない人間があまりにも多い、ように感じる。官能って他の動物にはない人間だけの特殊能力でもあるわけだ。そこをしっかりマ
スターするのは人の道でもあるのだろうか? 真言密教の理趣経の教えもそういうことか?
村山説では心の恋愛が先行するべきと言っている、と思う。途中までは誰でもが経験する道程。しかし、ほとんどの人は淡い恋か片想いか失恋で終わる。うまく行っても破局することも
ある。まったく難しい。村山小説の主人公はだいたいが美男美女でセレブ。こういう人じゃないと官能を経験する資格はないということなのか。
そう言えば『居眠り磐音シリーズ』の第7巻の終わりの方にちょっと濡れ場があった。びっくりした。「ああ、濡れ場もあるのかぁ〜〜」と思ったものだ。しかし、もちろん村山の比では
ない。問題にならない。実は私は官能小説の読書経験が薄い。少しは読んだこともあるけど、20ページにわたるベッドシーンなんてありえないっしょ。まったく68歳にして無駄な性教育
を受けている感じ。若い男性は全員村山小説で学んだ方がいいと思う。世の中の官能レベルが上がる。上がっていいのかどうか知らないけど、若いのにセックスレス夫婦みたいなのは減
るのでは。でも、ムチャクチャフリーセックス社会になっても困るか? たとえばフランスなんかでは村山レベルのベッドプレイは常識なんだろうか? そう言えば、26歳のころ、パリ
の安いホテルに泊まったとき、真夜中にホテル中が動物園みたいな奇声の交響楽団になった。「なんだ、なんだ」と不思議に思ったが、後で考えればあの声は人間の声。明くる朝、狭く
て薄汚いホテルのレストランではすまし顔の男女が朝食を食べていた。昨夜の声の主たちだ。凄まじいね。
村山小説のおすすめ一番は『ダブルファンタジー』(文春文庫)である。
中尾さんが新しく私の絵のページ「菊地理作品専用サイト」を作ってくれたので、リンクを張った。ご一見ください。
19年4月20日
14日の日曜日からブログで絵画小説『アルジャントゥイユの夜明け』を開始した。
1863年のパリが舞台。モネ(1840〜1926)が23歳のころだ。知っているつもりでも、いざ小説に書くとなると、いろいろ再確認する。そうすると知らないことだらけ。忘れていることも
多い。美術史家の研究も進んでいて私が若いころに知っている話も変わっている。びっくりだが、けっこう楽しい。自分自身が1860年代にタイムスリップしたみたいな感覚になる。
話は1873年まで。印象派展開催寸前までを想定している。
これからカフェゲルボワが出てくるし、普仏戦争という大事件も待っている。
モネとルノワールはいつも金欠状態。それをマネ、ドガ、バジール、シスレーなどが支える。そういう話も史実に基づいて綴りたい。どこまで調べられることやら。楽しい苦しみが続き
そう。
できればお上手に恋愛も織り込みたい。モリゾなどの美人画家も実在したわけで、そういう話まで書くとなると文庫本300ページクラスの長さになってしまう。
また、モネなどの戸外の写生とドガなどのアトリエの制作の是非の話やサロンの入落選の話などいっぱいある。根柢にはいつも絵を売って暮らす野望が横たわっている。これは私自身の
実生活でもあるわけだ。ま、こっちは68歳。20歳代前半の意欲満々の印象派予備軍と比べるのも憚れる。ゴメン。
中尾さんが新しく私の絵のページ「菊地理作品専用サイト」を作ってくれたので、リンクを張った。ご一見ください。
19年4月13日
IKKIGAKI-GALLERY
は私の絵を専門に扱うネットショップである。
ブログにも書いたが、こういうページがあるのは絵描き冥利に尽きる。ありがたい話だ。
しかし、絵って一枚もので安くない。ネットで簡単には買えない。やっぱり画廊で本物をじっくり見て購入するのが理想だ。
現実は厳しいのだ。
横尾忠則によれば欧米ではかなり前から具象の時代になっているらしい。もたもたしているのは日本だけ、とのこと。私に言わせれば、どうでもいい。本当に描きたいものを描くのだ。
それだけのことだ。ま、等身大の裸婦を油絵具で描き捲るとなると費用の面でかなり難しい。これも年に一度はやりたいけどね。
で、ネット販売だが、これって物凄い信用のうえに成り立っている。ご存知のように私はクレサンキャンバスもネットで販売している。1本(210p×10m)10万円前後のキャンバスだ。も
ちろん良心的な販売を続けている。こっちも何十年もやっているのだ。極たまにしか買ってもらえないし、利益も薄いので年間の利益は私自身のキャンバス代にもならない。でも、買っ
てくれるお客様がいる。一度も会ったこともない人間から10万円のものを買う、これって素晴らしい信用経済ではないだろうか?
いっぽう、私の絵はクレサンキャンバス以上に高額だ。これをネットで購入するのはかなり勇気が要る。いやいや、返品システムなどがしっかりしていれば多少は安心だが、返品ばかり
喰らっても商売にならない。そんなことはないと思うが、売る方だって怖い。
やっぱり、現物をじっくり見られる展示会が必要。展示会とネットが良好に相互作用すれば新しい販売システムが生まれる可能性がある。
IKKIGAKI-GALLERYは絵画販売の新しい時代を作り出すキッカケになるかもしれない。でも現実は簡単じゃない。印象派の誕生だって生死ギリギリのところで成功した。何十年もかかって
いる。
現実は厳しい。でも誰かが何かをやらなければ新時代は来ない。
19年4月6日
どう考えても父は私の絵の師だ。美術研究所に行くことをすすめたのも父だし(辞めるのもすすめた)、20歳代の公募展出展を禁じたのも父。いっぱい描かなければならないという教え
も父から。
極たまに父から褒められたこともあったが、だいたいはボロクソに貶される。気持ちいいぐらい貶される。プレバトの俳句の夏井先生でもあんなには貶さない。
父の時代はマチピカブラ。つまり、日本画壇全体がマチス、ピカソ、ブラマンクに熱中していた時代だ。いっぽう、私の若いころには大型のカラー画集がどんどん出版され、ルーベンス
もレンブラントも現実味を帯びて目の前に現れた。平和と繁栄のおかげでヨーロッパ古典美術の展覧会もいっぱいやってくれた。
マチピカブラ時代の父はそういう絵も肯定し、自分自身どんどん吸収していた。
私の時代には中国の宋元画も紹介されていった。私は大学で東洋哲学(ほとんど仏教)を学んでいたので、宋元画はまさに禅をビジュアルで見る想いだった。どうやってあの線描を獲得
できるのだろうかと思い悩んだ。とにかくたくさん描かなければ始まらない、というような気はした。悟りとかも本気で考えたが、理屈じゃないんだよね。
たくさん描くという方法はピカソの最晩年画法とも繋がる。ガンガン描かないとあの線描には達しないのだ。父も実践していた。
ほんと、しっかり地塗りのしてある大画面にド太い筆でジャンジャン描きたいよ。
私は父の墓がどこにあるのかも知らない親不孝者(母の墓も知らない)だが、父の教えを実践しているという意味では最高の孝行息子。そう言えば朝の水浴も父の教え。68歳の真冬も乗
り切った。年に1度か2度の墓参りよりずっと辛くて厳しい、のだ。
ちなみに、私は仏教にもかなり詳しい。仏教というのはお釈迦様の教えだ。お釈迦様が何を伝えたかったのか、ということ。で、私は、それはウォーキングと丹田呼吸であるという結論
に達した。墓参りや葬式ではない。
私は父から習ったことをより多くの人に知ってもらいたい。それで、このページの「絵の話」を書いたり、小説も書いた。今また新しい小説に挑戦中。多くの人に伝えるためにはポピュ
ラリティーがないといけない。通俗的でも何でもいいと思っている。
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19年3月30日
何度も言うように「そこに何が描いてあるか」などということは問題ではないのである。何だっていいのだ。
問題は「描いた人間がどう思い、どう描いたか」なのだ。
いやいや、それさえも問題ではないかも。出来上がった絵がどんなかだけが大問題だ。
世に凡百とある絵画解説の99.99%は何が描いてあり、それがどうしたとか、こうしたとかの話。ま、それも悪くはない。あってもいい。しかし、そればかりではあまりにも寂しい。悲し
い。本質的じゃない。
では「出来上がった絵がどんなか?」って何だ。
それは「ずっと見ていたい、何度も見たい」ような美術品のことだ。汲めども尽きせぬ魅力がある、みたいな。
さらに具体的には「強烈だけどうるさくない」とか「密度があって、透明感にあふれ、筆の踏み込みが気持ちよく、喜びに満ちている」ような絵や彫刻。
「そういう魂があった」ということなんだよね。
魂(たましい)というのは意欲とか情熱を源泉とした一つの大きな塊(かたまり)のこと。存在とか作業そのもの? 歴史上にポツン、ポツンと輝く人の業の痕跡かな。
今のまたはこれからのわれわれはそういう人の痕を追って作業をするべきだと思う。
「人」いうのはミケランジェロみたいな人を想定して語っているわけだ。
よく「富貴名声を追うな」と耳にするけれど、「じゃあ、何を目標に頑張るんだ?」と訊きたくなる。
その答えが上記「魂の痕跡」である。
で、結果として名声を得た先人の作業をわれわれは学び鑑賞することができる。それは有難いことだ。しかし、歴史に埋もれた魂も多かったにちがいない。それらは見られない。致し方
ない。しかし、重大なのは「そこにそういう魂があった」ということなのだ。
セザンヌ、シスレー、ゴッホなどは、自分たちがこれほど世に知れわたっているということを知らない。知らないまま死んだ。いっぽう、ボッティチェリ(1444頃〜1510)など400年ぐら
い埋もれていた。フェルメール(1632〜1675)も300年近く埋もれていた。
でも、とにかく見られる古典、学ぶべきクラシックはじゅうぶんにたくさんある。
われわれは迷うことなくまっすぐにその痕跡に向かって作業するべきだと思う。
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19年3月23日
昨夜、Eテレ『超AI入門 老いる』を見た。養老孟司は81歳なのに本当に頭がいい。私なんかが聴いてもさっぱりわからない人口頭脳の説明をいっぺんで理解している様子。それとも私の
高校時代みたく利口そうな振りをしているだけなのだろうか?
具体的な説明はチンプンカンプンだけど、全体的に言いたいことはわからないでもない。
人間が動物の一部だという話はメチャクチャ理解できる。人間の脳もAIの一部だという話は納得できない。私の脳なんて、官能小説を読んでいるせいもあるけどエロいことでいっぱいだ。
まさかAIがエロいなんて考えられない。人の脳とAIはベツモノでしょ。
いくらサザンオールスターの曲をAIにインプットしても、AIはサザンの新曲を作れないと思う。だってサザンの歌はエロさの塊だもんね。AIは甘く切なく頑張れないと思う。
AIが囲碁や将棋で人間に勝つからって、人の脳がAIのなかに含まれてしまうとはとても思えない。
人は性欲と食欲でできているんじゃないの?
もちろん、ロボットが介護を手助けするのはとても合理的。人の入れない危険な場所で作業してもらうのもいい。自動運転も。しょせん道具だもんね。
人間はたいへんだよ。欲望のコントロールだけがすべてだと思う。で、宗教が出来て、そういうなかから絵や音楽や文学が生まれたんじゃないのだろうか。
私は金がないから偉そうなことは言えないが、金がある人だってけっこうつまらないことに使っている。たとえば振り込め詐欺でもわが家には金がないから振り込めない。あるから振り
込んじゃうんだよね。金って、基本的に使いたいもんね。あるとついくだらないものを買っちゃう。金がなきゃギャンブルも出来ない。
人はバランスコントロールがたいへんだという話。もちろん金は必要だけど、そのほかのコントロールもハンパない大作業だ。AIにはそれはない。バカだもん。AIはバカなのだ。
この歳になってわかるけど、幸福な人って滅多にいない。太宰治が『斜陽』で書いているような幸福だけのご婦人もいるにはいるのかもしれない。世間は広いもんね。でも、それはごく
特殊な例外だ。ほとんどの人はみんないろいろ大変なのである。AIにそんなこと理解できるわけがない。
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19年3月16日
3月14日から千代田線・二重橋前の三菱1号館で始まっている『ラファエル前派の軌跡展』にも出展が期待されるイギリスのジョン・エヴァレット・ミレイ(1829〜1896)。これは時代も
とても近いし名前もそっくりでちょっとややこしいフランスのジャン・フランソワ・ミレー(1814〜1875)とはまるでベツモノ。このことはつい最近『誰も知らない「名画の見方」』(高
階秀爾・小学館101ビジュアル新書p134)で知った。
上記『ラファエル前派の軌跡展』の副題に「ラスキン生誕200年記念」とある。ラスキン(1819〜1900)は美術評論家でイギリスのロイヤルアカデミーに反旗を示したラファエロ前派を支
援した。ミレイ(Millais)とラスキン夫妻が旅をして以降、ミレイとラスキンの奥さんエフィーが恋仲になってしまい、ミレイはエフィーと結婚して8人の子供に恵まれる。ミレイのラ
ファエロ前派としての活動は5年ぐらい。エフィーとの結婚以降はロイヤルアカデミーで活躍し、なんとアカデミー会長にまで上り詰めるのだ。唖然だね。
フランスのミレー(Millet)はアカデミズムとは最後まで一線を画した。農民画家として生涯を全うしている。この話も『誰も知らない「名画の見方」』のp40以降に書いてある。つまり
《晩鐘》や《落ち穂拾い》で知られるフランスのミレーは、われわれのイメージどおりの立派な画家だったわけだ。いやいやイギリスのミレイだって画家としては生涯を全うしたわけだ
から文句はないけど月並みだよね。保身の人? 子供が8人もいれば当然か? わかんねぇ〜〜〜。
ゴッホが尊敬したフランスのミレーは真なる宗教画家だったわけで、その作画姿勢もあまりにも立派。
私もイギリスのミレイの《オフェーリア》(ロンドン テートギャラリー)はロンドンで見ている。その後日本にも来た。だけど見に行かなかったもんね。イマイチ同意できなかったの
かも。結果論だけどね。上のような経緯は知らない。とは言うけど、男女の仲は複雑怪奇。本当の事情はご本に訊かなければわからない。訊いてもわからない。
とにかくフランスのミレーは素晴らしい、のだ。
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19年3月9日
「人間は深淵にかけわたされた一条の綱である。/渡るも危険、途上にあるも危険、うしろを顧るも危険、身ぶるいして立ちどまるのも危険/人間において偉大な点は、それが橋であっ
て目的でないことだ。人間において愛されうる点はそれが過渡であり没落であることだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語った」より)
「われわれは渺々たる中間の波まにただよい、つねに定めなく浮動しつつ、一方の端から他方の端へ押し流されている。(中略)われわれは固い地盤と、究極の揺るぎなき根柢を得て、
そのうえに無限に高くそびえたつ一つの塔をきずきたいと熱望している。だが、われわれのすべての基礎はひびわれ、大地は裂けて深淵となる」(パスカル「パンセ」より)
「苦しみつつなお働け。安住を求めるな。この世は巡礼である。」(ストリンドベリイ「青巻」:山本周五郎『青べか物語』p256より)
お釈迦様は四苦八苦と人間の苦しみを語った。
では、このどうにもならない人間の状況に救いはないのか? どうすればいいのか?
ゆっくり呼吸して(=丹田呼吸)よく歩けはいいのだ。それだけである。
でも、人生は長い。一日も長い。丹田呼吸とウォーキングだけでは終わらない。つまらない。だから、私は絵を描いたりプールに行ったりする。テレビもよく見るし、本も読む。美術館
に古い絵を見にも行く。
私の場合、絵だけは何十年もの間、物凄い分量を描いてきた。滅多にいない人になってしまっているかも。これも偶然の結果だけどね。
「前頭連合野を中心とせず、全身的な負のフィードバック系、すなわちホメオタシスを保つこと」(大木幸介『脳内麻薬と心の健康』講談社ブルーバックスp127)が心身ともに健康を維
持する秘訣だと思う。つまり、なけなしの頭脳で考えずに、どんどん行動するということ。それは呼吸と歩行なのだ。絵や水泳もとてもいいように思う。きっとピアノを弾いたりするの
も悪くない。多分カラオケも○。
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19年3月2日
偏差値とかIQとか、そういうのって確かに人を測る一つの基準ではあるけど、「一つの基準」でしかない。身長や体重と同じだ。ま、基準は大事だけどね。
基準は他にもいくらでもある。健康診断に行くとわけのわからない数値をいっぱいもらう。
私は長く塾をやっていたから多少はわかるが、人の価値を数値で表すのは無理。成績イマイチの子も魅力いっぱいだったりする。その魅力は本人にもわからず意味不明な劣等感で悩んだ
りしている。アホらしい。悩んだ挙句に死んじゃう人もいる。アホの極致だ。
人の価値基準の最大は資産かもしれない。もちろん私は最下級。イヤだね。
IQと資産はけっこう比例する、と思う。
私のなかの基準値は歳をとってからの業績。特に85歳以上。ま、ここまで生きるのも至難。生きて何かやり残すとなると奇跡に近い。そういう爺さんが美術史上に数人はいる。私は最高
の爺さんと称賛している。
葛飾北斎(1760〜1849)は83〜86歳のころ4回江戸と小布施を往復している。これは大記録だと思っていたら、木喰上人(1718〜1810)は93歳まで旅を続け、旅の途中で亡くなった。凄い
ね。最高のレベル。
家内は老人性鬱の話をよくするけど、それは確かに病気だ。人はいつ死ぬかわからないのだ。青木繁(1882〜1911)は29歳で死んじゃったし、中村彝(1887〜1924)だって37歳で死んじゃっ
た。死ぬことなんて考えていたら何もできない。出来るときはやるのが道ってもんじゃないか?
死にビビっていては何もできなくなる。人は(きっと)必ず死ぬ。だけど死ぬまでは生きている、のだ。生きていればいろいろできる。絵だったら描けるときに描いておく。そうに決まっ
ている。私は若いころからずっとこの方向だった。おかげで資産ゼロ。
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19年2月23日
人気がイマイチのNHK大河『いだてん』も1910年ごろの話。大正デモクラシーなのだ。何度も何度も言うけど、1910年ごろから1923年(=関東大震災)までの10年余りが近代日本の文化史
上一つの大きな山だった。
富岡鉄斎(1837〜1924)の晩年も重なっている。中村彝(1887〜1924)も重なっている。夏目漱石(1867〜1916)の晩年も重なっている。漱石ということは芥川龍之介(1892〜1927)も
重なるということだ。
19日(火)の『なんでも鑑定団』に出てきた村上華岳(1888〜1939)も重なる。長谷川利行(1891〜1940)は青春時代が重なる。
美術や文学だけでなく『いだてん』のようにスポーツも盛んになってきていたし、科学も素晴らしい進歩を遂げた(これは立花隆『文明の逆説』で読んだような?)。
美術と文学に関しては雑誌『白樺』(1910〜1923)はぴったり一致。
ま、雑誌『白樺』には全面的に頷けないところもあるが、近代ヨーロッパ美術の紹介の功績はあまりにも立派なのでは?
竹橋の近代美術館の「村上華岳展」は私が34歳前の春に開かれた。大回顧展。代表作はほとんど見られた。私は興奮して会場を何度も巡り歩いたことを思い出す。華岳に共感できたのは
華岳が中国の宋元画を知っていて大いに影響を受けているのがわかったからだ。大雑把に言えば、近代日本画で同意できる画人は三人しかいない。富岡鉄斎(1837〜1924)と上村松園
(1875〜1949)と華岳だけだ。
で、19日(火)の『なんでも鑑定団』の村上華岳の紹介のなかで「私が仏像を描いているのはそこに到達する修業にすぎません」と語っていた。やっぱりね。これは私が同日のブログで
述べたことと同じ。ちなみに、私がブログを書いたのは『なんでも鑑定団』を見る前である。
「修業」という文字がちがうけどね。仏道修行などは「修行」、大工の修業などは「修業」である。
ところで、これも以前に述べたが、1910〜1923年は政治的には日本では大正デモクラシーだけど、第一次世界大戦もあったし、日本の社会も米騒動などがあり、楽しく気楽な平和の時代
ではない。ま、そんな楽しく気楽な時代なんてどこにもないけどね。
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19年2月16日
例年なら真冬に100号と格闘している。等迦展に絵を出し始めて23年頑張った。その前には11年間町田の版画美術館で「如魯の会」に出していた。80号や100号をいっぱい描いた。一応去
年も町田市の市美展に1点出したから描くことは描いた。その市美展も辞めてしまったので今年は100号の予定がない。
版画美術館の市民展示室で100号展をやりたいが、もちろん資金がない。
市民展示室で100号展をやるとなると新作を最低でも4枚は出したい。4枚出すためには20枚ぐらい描く覚悟が要る。絵具だらけ、油まみれになって描かなければならない。100号20枚はハ
ンパない。
ま、ミケランジェロ(1475〜1564)、ティツィアーノ(1488/90〜1576)、ルーベンス(1577〜1640)などを想えば、100号20枚なんて当たり前。ミケランジェロやティツィアーノなどは
85歳を過ぎても超大作に挑んでいた。68歳なんて若描きなのだ。日本の富岡鉄斎(1837〜1924)も85歳以降に100号レベルの山水画を山のように残している。
本心、絵具や油に汚れるのは嬉しくないけど描きたい気もある。大作を描けば小品もよくなるのだ。今のところ健康上の問題はまったくない。ギリギリだけど描く場所もある。キャンバ
スと絵具が不足気味だけど、なんとか出来ないこともない。頑張って少し金儲けをすればよいのだ。もうちょっと頑張れば版画美術館も借りられる。
旧作と合わせて10枚ぐらい100号を並べたい。
まずは竹内謙礼の『売り上げがドカンとあがる……』などを読み込んで金儲けに走ろう!
いつまで経っても自転車操業人生である。
19年2月9日
先週も述べたミケランジェロ(1475〜1564)が55歳のときに描いたメディチ家礼拝堂の地下の壁画(画像は私のブログの1月28日にアップ。そのほかネット上でも見られる)。いまもまだ
忘れられない。あの素晴らしさを何度も語りたい。
で、われわれ絵描きがやりたいこともああいう作業なのだ。ま、しかし、それは無理。時代と状況。そこにあの超人(=ミケランジェロ)が現れたという奇蹟が生み出した人類の至宝だ。
よく残っていたね。ほんと嬉しいです。写真やネット上で見ただけだけど、わたくし、見ることが出来て幸福でした。
養老孟司先生も言っていたけど、われわれホモサピエンスは5万年前から変わらないのだ。タイムマシンで5万年前の6歳児を連れてきて小学校に入学させたら、現代の他の子たちと一緒に
普通に学習できると言う。誰が見たって見分けがつかないらしい。
いくら新しがったってメシ食って排便して寝て起きて死んでゆくだけだ。それがわれわれ人類である。
私は新しがってつまらないことに時間を費やしているお若い画家志望の方々に言いたい。『週末はギャラリーめぐり』(山本冬彦・ちくま新書)にも話題があった。アート症候群に陥っ
ている。アートという幻想に迷っている。目を覚ましていただきたい。ただひたすらのデッサンなのだ。なに芸術家ぶってるの。カッコつけてる場合じゃないだろ。
私は、ミケランジェロの30歳代のシステナ礼拝堂天井画よりも60歳代の同壁画よりも55歳のメディチ家礼拝堂の地下の壁画を讃えたい。天井画はメディチ家礼拝堂の地下の壁画への準備。
システナ壁画はメディチ家礼拝堂の地下の壁画の延長に過ぎない。一番すごいのはメディチ家礼拝堂の地下の壁画だ。少なくともミケランジェロ絵画のエッセンスが脈打っている。
何がやりたいのか、何をしているのか。一生は一度しかない。
線描である。
幸運にも私はいままでいっぱい絵を描いてきた。ムチャクチャな絵だけど、とにかくクラシックを真似て、実物の人体を見て、いっぱい描いてきた。私の右腕は線描の貯蓄が詰まってい
る。これも幸運かもしれない。メディチ家礼拝堂の地下の壁画を見ると、このムチャクチャ路線でこれからも描き捲れと言われているみたいな気がする。目の前に裸のモデルがいる状況
が実現されるのだ。描かないわけがない。ムチャクチャになっちゃうけど、それでも線が引ける喜びはあまりにも大きい。
なんで写真なんか見ながらなぞっているのだろうか? 線描の喜びを味わわないのだろうか? 線描の喜びは、もちろん東洋の古典にもあふれている。いま東京国立博物館でやっている
『顔真卿展』にも、こっちは書だけど、やっぱり同じ喜びがある。ホモサピエンスの共通の歓喜だ。
画壇とか受賞とか名声とか売れるとか、そういうの全部くだらねぇ〜〜〜。
でもお金は欲しいです。
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19年2月2日
1月28日のブログで述べた『神のごときミケランジェロ』(池上英洋・新潮社とんぼの本)に掲載されていたメディチ家礼拝堂の地下の壁画を見ると、線描への渇望が感じられる。絵が描
きたい、線が引きたい、人体に沿って形を取りたい、そういう已むに已まれぬ筆への希求が見える。
これこそ絵画の原点なのではないか?
私の父は絵画こそ最高と言っていた。絵画と彫刻などを比較する比較美学みたいな?
私が大学で習った説を父に話した。最高が建築でその空間を埋める彫刻が第2、壁を飾る絵画が第3という説。
「バカ野郎、建築家だって彫刻家だって最初の原案は紙に描くんだよ。それは絵だろ。絵が最初なの」
という主張。
今の68歳の私にとってはどの芸術が最初でもいい。
ミケランジェロ(1475〜1564)はけっこうムキになって彫刻第一主義を言い張ったみたいだけど、ミケランジェロの絵画はあまりにも偉大だ。
彫刻家の木内克(1892〜1977)も、デッサン第一みたいなことを語っていた。以前はこのホームページに全文掲載していたが、どこかに消えてしまった。彫刻や絵画タブローはいろいろ
な制約があって作家の原初の創作欲求を邪魔してしまう。デッサンやクロッキーこそ創作の真の喜びを直截に表現している、みたいな話だった。そういう意味でも中国の宋元の水墨画は
的を射ている。
さっき見たちょっと前の『NHK日曜美術館』の録画「熱烈!傑作ダンギマティス」のなかでマティス(1869〜1954)自身も同じようなことを語っていた。
いや、まったくミケランジェロのメディチ家礼拝堂の地下壁画の線描は素晴らしい。ブログのほうで何度も語っているフェルメール(1632〜1675)の小さなタブローなんて、ミケランジェ
ロに比べたらゴミみたいなもんか。いやいやそんな喧嘩を売るみたいなことは申しません。言っちゃたか、な?
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19年1月26日
23日(水)の絵画教室では鉢植えの蘭を描いた。私は相変わらず室内画。大きく室内を描いて蘭は下のほう三分の一ぐらい。5枚描いたが、ほとんど抽象画のようになってしまった。歳を
とると抽象化するんだっけ? アホらしい。
三菱1号館の『フィリップス・コレクション展』で見たヴュイヤール(1868〜1940)の小品みたく穏やかに描こうと思ったんだけど、ついつい激しくなってしまう。
私は洋画材料を使い油彩画を描いている。一般の区分は洋画である。私自身、今もミケランジェロの本を読んでいるし、この前はゴッホ、その前はルネサンス、その前は印象派とヨーロッ
パ美術からの教えは物凄く大きい。23日(水)もヴュイヤールみたく描こうと思ったのだ。
でも、私は日本人であり、昔の中国の絵をとてもよく見る。ついこの前も東京国立博物館でたっぷり見てきた。
自分の絵を見直すと、東洋からの影響があまりにも大きいことに気が付く。バラや茄子の絵なんてほとんど花鳥図みたい。いやいやモネ(1840〜1926)の最晩年のバラは中国の花鳥図に
近いかもしれない。
あんまり意識していない。とにかく「描きたいものを描きたいように描く」のがイッキ描きだ。
で、ミケランジェロ(1475〜1564)も牧谿(1280頃活躍)もとにかく筆が速い。驚くべき速さ。そして的確なのだ。それはティツィアーノ(1488/90〜1576)だってモネだって速い。私
がいちいちイッキ描きなどという必要もない。浦上玉堂(1745〜1820)も富岡鉄斎(1837〜1924)もとても速い。
何度も言うけど美術館で本物をご覧いただきたい。どんな絵だって傑作はほとんどすべてイッキ描きなのだ。そう言えばこの前2度目を見たルーベンス(1577〜1640)も素晴らしいスピー
ドだった、のだ。
いま東京国立博物館に来ている顔真卿の《祭姪文稿》。私はバカだから一瞬しか見られなかったが、あれは絵じゃなく書だけど、ムチャクチャなスピードで書いてある感じがした。
中尾さんの新しく私の絵のページ「菊地理作品専用サイト」を作ってくれたので、リンクを張った。ご一見ください。
19年1月19日
『芸術新潮』2010年10月号「ゴッホの手紙特集」の第252信(テオ宛)に輪郭とか色彩とか水彩画の話をしていて、そのなかで「その基礎は素描だ」と言い切っている。28歳ごろの手紙。
少しあとには「自然に即して忠実かつ精力的に制作すること」とある。いま私は68歳だ。この手紙を書いたゴッホ(1853〜1890)年齢から40年続けたことになる。「やってるよぉ〜〜」
と返信したい。
上記手紙の1年後(第400信テオ宛)には、「『お前は画家じゃない』と言おうとするなら、そのときこそ描くのだよ、ねぇきみ。そうすれば、そんな声も静まってしまう。だが、それは
描くからこその話」とある。こっちには「描いてるよぉ〜〜〜」と返信したい。
さらに同じ手紙の先には「“天賦の才”の議論などぼくにはギャーギャーいうカラスの鳴き声みたいで背筋が寒くなる。“わしには忍耐強さがある”━━この言葉はなんと静かで、なん
と威厳のあることか」
ゴッホがカラスと言うとあの最期の絵を思い出す。ゴッホのカラスは意味深長。
「天賦の才があるとかないとか言うのが愚の骨頂だ」
とも書いている。そんなこと言ってる暇があったらどんどん描けと言っているのだと思う。絵描きは描かなければ始まらない。描いたもんの勝ち、なのだ。
私とまったく同意見。というか、私がゴッホに学んだだけのことだ。確認していないけど岩波文庫の『ゴッホの手紙』にも同じことが書いてあったに違いない。私は20歳代の前半に読ん
でいる。そのころは手紙を書いたゴッホよりずっと若く、まさにゴッホは私の先生だったわけだ。
あれから50年近く経つけど先生はずっと先生だよね。
ま、私もじゅうぶんグータラで「忍耐強さ」などと言われると、かなり後ろめたい感じもあるけど、おおむねゴッホ方向でやっているように思う。
19年1月12日
三浦半島の三崎口駅から近い三戸の丘の上に立つと洋上の大島から伊豆半島、富士山、ぐるっと三浦半島西岸が見渡せる。目の前には相模湾が横たわる。180度あまりの壮大なパノラマだ。
私が何度も足を運ぶ絶景ポイント。空気も最高。深呼吸をしながら風光を楽しむ。
ここに来るといつも牧谿の《遠浦帰帆図》を思い出す。で、牧谿(1280頃活躍)を想いながら自分でも描く。描き始めるとすぐ牧谿を忘れてしまう。自分の絵にのめり込む。
家に帰り数日してから、牧谿を再確認すると、自分の絵の未熟さを思い知る。牧谿の筆のスピードはオリンピック級だ。素晴らしい。しかも的確。細かいところまでしっかり描いてある。
そりゃ国の重要文化財なんだから敵うわけがない。いったい牧谿は何歳であの絵を描いたんだろうか? 思い切りのよさは常人のあずかり知らぬところだ。どういう画境なのか。どんな
心持ちで筆を取ったのか。長い巻物に描いてあったのだ。1回筆を置いたらやり直しは利かない。油絵みた失敗したらボロ布で拭き取る、というわけにはいかないのだ。まったく不思議だ。
私から言わせると手品みたい。
この前『人は死なない、ではどうする?』(矢作直樹×中 健次郎・マキノ出版)を読んだが、後半は気功術やら仙人やらの荒唐無稽とも思える話。ありえないだろと思ってしまう。それ
を東京大学医学部教授の矢作先生が頷いて聴いている。本当なのかも。前半も現代医療や社会のあり方を批判しているけど、現代社会は環境もよくなっているし寿命もどんどん延びてい
る。中先生が素晴らしいという江戸時代とは雲泥の差だ。こういう現実を想うと説得力ないんだよね。私の小学生の頃には安保反対の大合唱。反対派は安保が成立すると明日にでも戦争
が起きるというような主張だった。わが家も無論反対派だったけどね。でも、あれからほぼ60年間、ずっと日本は平和だ。世界規模で見ると紛争は絶えないけど、戦災の被害者数は世界
大戦の比じゃない。当事者になれば数なんて関係ないけど、世界大戦は絶対ダメだろう。
とにかく、昔の名画は手品のように素晴らしい。ああいう牧谿みたいなのを見ると、気功の仙人もいるのかもしれないと思ってしまう。いやいやドガ(1834〜1917)もデュフィ(1877〜
1953)も素晴らしい。
さっき家内が「自分が絵が巧いと思っているでしょ」と追及してきたが、とんでもないですぅ〜〜〜。
19年1月5日
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。
絵画の目的って何だろう?
絵画の目的は写真の発明前と後で大きく変わった。特に西洋絵画は激変した。
富岡鉄斎(1837〜1924)の花と鳥の絵《水郷清趣図》を見て思うところがあった。この絵は昨夜のブログにアップした。
以前にも言ったと思うが、私は細密絵画を悪くないと思っている。そういうのは工芸でも同じ。作り手の意気込みが感じられる。それは物作りの原点だ。「よーし、描くぞぉ〜〜」とい
う意欲がある。時間をかけてそっくりに描くというのは一つの道だ。悪いわけがない。
《水郷清趣図》というのはそういう種類の絵じゃない。鉄斎が数え年88歳のときの絵。満86歳ごろだ。1923年。縦130.7p横31pの細長い掛け軸用の絵。小さい絵ではない。洋画ならM60
号ぐらいある。
鉄斎が亡くなる1年前の絵だ。同時期のもっと大きな絵もいっぱいある。100号レベルをバンバン描いている。で、そのなかでも目を見張る傑作。これって人類の至宝でしょ。生物学的に
もあり得ない達成度。ヒトみたいな生物はないと思う。神様の傑作?
明治大正期の86歳といったらよぼよぼのボケ爺さんだよ。ボケるどころか、この冴えはどうだ! 何度も言うけど、私は20歳代のころからこの人類の奇蹟を知っていた。父親に教えても
らっていたとも言えるが、父自身は鉄斎の弟子ではなかった。煙草を辞めなかったもの。甘いんだよね。
私はいまも厳しく頑張っている。人体実験で続けている。
絵って壮大な人生の写しでしょ。少なくとも鉄斎を見る限り、あまりにも見事な大成功だ。こういう人が稀にいる。
《水郷清趣図》の茎の方向、下の大きな葉っぱ、花の向き、鳥の飛んで行く向き、すべてが胸のすく出来だ。蓮の花が巧いね。あの感じ。見事に描き上げている。下のほうの点々。きっ
と水面を描いたんだと思う。鳥はカワセミかなぁ。大きさもぴったり。余白も絶妙。花の下の葉っぱのオレンジ色。奇麗だねぇ〜。
でも、この絵は画家が方向とか大きさとか色など、考えに考え抜いて描いた絵じゃない。きっと筆を手に息をつめて目を閉じ、紙の前でじっと調息してから一気呵成に仕上げたのだと思
う。
こういう絵が描きたいね。
鉄斎には奥さんもいるし子供も孫もいる。特別貧乏でもない。神官であり、江戸末期には勤皇の志士だったから明治期にはお上から優遇されたかもしれない。京都の人。つまり、普通の
ちょっと豊かな爺さんだ。しかし、その学識はハンパない。東洋一辺倒だけど、東洋の素晴らしさを知り尽くしていたのかも。仏教にもムチャクチャ詳しい。
鉄斎が数えで83歳のときに信頼していた息子の謙蔵が数えの51歳で亡くなってしまう。考えたくもないけど、冷静に判断すれば、謙蔵を失ってからの鉄斎こそが素晴らしいのだ。こんな
不幸がなければあの透明な画面は獲得できないのだろうか? それは厳しすぎる。
『富岡鉄斎』(小高根太郎・吉川弘文館)のp205に「万巻の書を読み、万里の道を行けば、自分の絵の道が開ける」という意味のことが書いてある。
ああ、恐ろしや。68歳は途轍もなくペーペーなのだ。先はあまりにも長くとっても厳しい。
18年12月28日
3.11の東日本大震災のとき、アイドルタレントが東北を慰問した。これはとてもいい企画。被災地の若い人がキャーキャー喜んだ。きっと年配の方も喜んだと思う。
いっぽう、自分が描いた絵を送った有名人(タレント画家)もいた。そのとき、「絵って要るか?」と思ってしまった。
絵は壁に飾るものだ。普通ずっと飾ってある。あまりにも強い絵は五月蠅いような気もする。巧すぎる絵も要らない。気持ち悪い。いい絵でもイヤな奴の絵は飾りたくないと思う。そう
すると「いい人いい絵論」(12月2日付ブログ)はかなり正しいことになる。
東洋の書画の思想は「いい人いい書画」は大前提だ。当たり前すぎて誰も言わない。
まったく、壁に飾るとなればムンクの絵も相応しくない。画題が暗すぎるもん。
モネやルノワールならぴったりだけどゴッホとなると考えちゃう。
私の場合は絶望前提で描いている。逆にそこに救いがある。多少とも買っていただくことがあるのは、絶望前提だけど向上志向だけはあるところも。その方向性と量産が首の皮一枚残し
て、極たまにましな絵を生む、のか? ま、100枚描けば1枚ぐらい見られる絵もできるというものだ。
そのうえ、絶望の上塗りをするように昔の大画家や仏像などの展覧会を見に行く。鑑賞して自分の絵を比べれば、ますます絶望は増大する。ま、こういう鑑賞は見たいから行っているだ
けだけどね。自分の絵とは関係ないと思っている。関係ないわけないんだが、意識としては無関係。あっちはあまりにも偉大だもの。
18年12月21日
私はいま68歳。後2年で70歳だ。本格的な爺さんである。もう先も少ない。わが両親は74歳で死んじゃった。遺伝どおりなら私の寿命も後6年。ま、私の両親は煙草を吸っていたから二人
とも肺癌だった。私も子供のころから副流煙でやられていて、いつも肺に陰があり、喘息の危険もある。だけど、煙草は大嫌い。全然吸わない。若い頃、カッコつけて数か月吹かしたぐ
らい。
で、68歳というと、かなりの爺さんだ。一般的には驚くべき年齢。江戸時代ならあと2年で古希。「古来より稀」なんだよね。
でもわが尊敬する富岡鉄斎(1837〜1924)、ティツィアーノ(1488/90〜1576)、ミケランジェロ(1475〜1564)、モネ(1840〜1926)などを想うと、68歳なんててんでペーペー。鉄斎の
68歳の絵なんて見たくもない。鉄斎は85歳以降だものね。絵が透き通っている。もちろん、ティツィアーノ、ミケランジェロ、モネも最晩年の作品が素晴らしい。ただ歳をとっただけじゃ
ない。ドガ(1834〜1917)は目が悪くなったから、私の知る限り72歳ごろが絵の最後かも。もちろん、ドガも52歳以降の裸婦がいい。
というわけで、68歳じゃ老人面出来ない。一見どう見ても爺だし、膝とか腰とか踵とかいろいろ痛いけど、無視して歩いている。普通に歩けるから痛さもそのうち忘れる。痛さの場所も
変わる。この身体も68年使っている。痛いのは当たり前。確か高校生の頃もあちこち痛かったような気もする。痛さの種類が違うのか?
物忘れも激しいけど、中高時代も暗記が苦手で苦労した。すぐ忘れた。
そう言えば、階段も1段おきに上がるようにしているけど、あの100歳越えのお医者さんも90歳過ぎまで階段は1段おきと訊く。凄いね。駅の階段を上りきるといつもあの先生の顔を思い出
すが名前が出てこない。「あの先生、何て名前だったっけ?」。日野原先生だ! 日野原重明(1911〜2017)です。
18年12月15日
11日から13日まで宮崎と鹿児島に行った。
10年ほど前のANA『翼の王国』の仕事で鹿児島に行って以来だ。あの鹿児島の長島美術館にもう一度行きたかったが、今回はなし。私は連れて行ってもらっただけ。ただ黙ってついて行く。
それにしても世間には絵が多い。ラーメン屋にもホテルにも蕎麦屋にもたくさんの油絵が飾ってある。ほとんどがマチュア絵画だ。あれはあれで一つの油絵文化だ。
また、六本木や上野でやっている公募展も大作油絵文化。デパートや銀座の画廊の小品油絵もまた文化だ。それに対して私がやっている油絵って全然ちがうような気がしてくる。もちろ
ん、どっちがいいどっちが悪いという問題ではない。別分野なのだ。
だって、上記ほとんどの絵描きさんはムンクとかルーベンスとか見ていない気がする。そういう人でただ描いているアマチュアの人はフランスにもたくさんいる(日本の公募展画家やデ
パート画家はアマチュアとは言えないかも)。
私みたくヨーロッパのクラシックと中国や日本の古い書画にのめり込み、自分の絵の未熟さを知りつくし、それでもしつこく描き続ける。言ってみればドン・キホーテ? でも、こうい
うアホもいてもいいような気もする、というかよかろうが悪かろうが私はこの路線で暮らすしかない。よく見て自分も描く、たくさん描く、みたいな。ドン・キホーテでも一応目指し続
けるのだから描くわな。というか描きたいものね。描くよ。子が親の真似をしたがるようなものだ。
でも、あの鹿児島の山の上の長嶋美術館。行きたかったなぁ〜。懐かしい親のフトコロに入るみたいにドガ(1834〜1917)なんかに囲まれたかった。この気持、マザコンか?
18年12月8日
赤いバラ。とても描きたくなる画題だ。でも、絵に描くとなると真ん中に赤いバラを置いて回りも描く。しっかり艶のある葉っぱ。グングン伸びている枝。それを支える幹。生えている
大地。バックの空などなど、そういう姿全体を見て赤いバラは奇麗だなぁ〜、いいなぁ〜〜と感じる。私はそういう気持ちを描いている。まったくいつまでも見ていたくなる。
赤いバラと白いバラは最高の取り合わせ。上品だねぇ〜〜。一目、赤、白、緑という色合いだ。だけど、これを絵にするとなると、花と葉と枝以外の部分はあまりにも大きい。面積比に
したら、肝腎な部分よりバックのほうがずっと広い。
それではバックは何色なんだろう?
灰色である。ま、灰色と言っても単純に白と黒を混ぜただけの色ではない。他の色が混ざった複雑な色。その濃さも無制限に調整できる。
これは風景でも人物でも同じ理屈だ。
肝腎な部分は多くない。その他大部分のところをどう処理するか? これが大問題なのだ。
やっぱりデッサンを繰り返すしかないか。少なくともモノクロの目で対象を見なければならない、わけか? 古臭い画論だけど、これは捨てられないか?
わかんねぇ〜〜〜。
ああ、グチャグチャな絵が描きたい。デ・クーニング(1904〜1997)か? あれぐらいの大画面にあれぐらい大量の絵具を塗ったくりたい。でも、形や空間を失いたくはない。ずっと見
ていると確かに骨格が見え後ろの空間が見える絵。そういう裸婦が描きたい。ガンガン描きたい。描き捲りたい。実際に始めるとすぐ疲れて挫折するけどね。
等迦会の準備で冬になると100号を描いていた習慣で血が騒ぐのかもしれない。
18年12月1日
私は『ムンク展』(1月20日まで・東京都美術館)についてホームページでもブログでもまったく何も言っていない。ムンク(1863〜1944)は若い頃にノイローゼになって絵を描くことで
病気を克服した。私はノイローゼではなかったけど、若い頃はムンクにとても同意できた。たいていのムンク展を見ている。今回は見る予定にない。見るかもしれない。65歳以上は1000
円だし。
若い頃の恋愛は命がけだ。振られたとき、その女性が他の男と仲良くしていることを想像すると気が狂いそうになる。ムンクはこれを絵にしている。もともとムンクの絵の実力はハンパ
ない。特に少女の裸を描いた《思春期》は傑作。おそらく今回は来ていない。
で、見る予定に変更したのは昨日の朝日新聞の朝刊の粗いカラー図版のせいだ。この前のフェルメール《牛乳を注ぐ女》と言い、新聞の粗い図版はけっこう刺激になっている。
ムンクの自画像が一面にいっぱい載っていた。一目下手くそ。しかし、パッと見たときは「あれ? これ誰の絵だ???」と興味を持った。すぐムンクとわかって、じっくり見ると下手
だけど、ムンクが下手なわけはない。そのうえ描きに描いている絵。物凄い分量の絵を描いているのがよく分かる。
そういう本格的な量産画家ピカソ(1881〜1973)やデ・クーニング(1904〜1997)の先駆かもしれない。私の父も「うんと描かないと話にならない」と言っていた。それで私もいっぱい
描いているけど、ムンクとかは画面が大きい。その点はとても羨ましい。私も等迦会を辞めて町田市美協も辞めてしまったので100号を描く機会が消えた。機会がなきゃ、100号なんて描
かないよね。
いやいや必ず描く。大丈夫。昔の偉大な画家を慕うというのは絵を描くことで慕うのだ。身体全体、暮らし全体で慕うのだ。最低でも等身大の裸婦(=100号)は描き続ける、予定。ダイ
ジョブ、ダイジョブ。