唇 寒(しんかん)集54<18/2/3〜>

18年6月30日

ウィキペディで「百田尚樹」と検索すると、とんでもない右翼オヤジ。しかし、小説は無関係。私は右翼思想の『大放言』(新潮新書)も図書館で借りて読んだけどね。洗脳されなかっ

た。小説『永遠の0』(講談社文庫)などは誰がどう見ても反戦小説。何も知らずに読んだら左翼作家の絶叫とも思えてしまう。

で、今は『幻庵(げんなん)』(文芸春秋)を読み始めた。江戸時代の碁の名人の話。上下巻の長編小説だ。

この小説は2016年に出ているから将棋の藤井聡太七段がマスコミに登場する前だ。最初のp22に藤井七段が子供のころ負けたときの映像とそっくりの描写があった。百田は藤井七段のあの

姿を見ていないはずなのに、まるでドキュメンタリーみたく上手に描写している。書店で立ち読みしてみてください。出来れば買ってください。申し訳ないが、私は図書館。

さらにp27には絵画道にも通じる碁論が語られている。もっとも、この手の小説や漫画はすべて才能主義。生まれ持っての才能が評価される。私はあくまでも絵は枚数。「1万枚描いてか

らなんか言え」という立場。ここのところが根本的にちがう。自分に才能がない言い訳かも知れないけど、それでも誰にでも可能性はあるというスタンス。私は学習塾を23年間やった。

その根本理念も非才能主義だ。やってみなければわからないべ、という立場。ま、役にも立たない絵を1万枚も描くバカは滅多にいないけどね。

 

で、『幻庵』はかなりきつい。すぐ眠くなる。私は将棋はけっこう強いけど囲碁はルールを知っている程度。登場人物も多く誰が誰だか訳がわからない。わかりやすい文章の百田でも苦

戦している感じ。読むほうも苦戦する。ま、読んでいて眠くなったら寝ればいい。「オット寝ちまった」と目を覚ましまた読む。これが至福のときなんだよね。

 

18年6月23日

先週「来週のこの『唇寒』に答えが出る。お楽しみに」と書いたが、個展の総合結果はまだ出ない。このホームページは6月23日付だが、現在は22日の朝。まだ丸2日間ある。

個展の経済的成果という点では答えは出ないが、厳選した20年間の絵を並べ毎日見ている。だから、自分の絵がどうなのか、ある程度の結論は見える。

ま、驚異的な大画家ではないけど、妥当なんじゃないの? 過去の偉大な画家と比べればゴミだけど、現代の第一線の画家、美術雑誌などに載っている一級と言われている画家の絵より

はいいと思う。少なくとも私はイカレテないもの。古典を尊敬している。そこが多くの画家と根本的に違う。「現代」に迷ってもいない。ダイジョブ、ダイジョブ。

かなり楽しい展示だと思う。自分の絵なんだから楽しいに決まっている。

中尾氏が選んでくれたこの会場、ギャルリー成瀬17はたっぷり広くゆっくり鑑賞できる好空間。いい会場だ。もちろんロケーションがイマイチなのは致し方ない。シャッターの多いビル

の2階というのも淋しい。淋しいけど、同時に落ち着いて見られるという長所もある。

 

今は夕方。今日もたくさん褒めていただいた。褒めていただくと嬉しい。ご自身も絵を描いていらっしゃる画廊のオーナーからも高評価を頂いた。私の方向は大きく間違ってはいない模

様。たくさん描く、というのは正解かもしれない。私は絵描きの最低条件だと思っている。

ああ、7月の絵画制作の準備を始めなくてはならない。考えるまでもなく、私は絵描きだったのだ。6月はお葬式や個展がありじゅうぶん描けなかった。7月にリベンジ! そろそろ100号

も描かなければならない。例年だと100号制作は真冬だが今年は真夏だ。外で描くから雨の心配もある。真冬は寒いけど雨も降らない。夏は突然の雨も少なくない。心配は尽きないけど、

とにかくやるっきゃない。

 

18年6月16日

明日から個展が始まるから自己宣伝をしなければならない。

自分のことってだいたいが2割増しだ。ま、そうじゃなきゃ生きていられない。

だけど落ち込むこともある。5割減みたいに自己嫌悪におちいる。

そういう波があって、結局自分のことはわからない。

私はやりたいことをやってきた。他の人には迷惑をかけないようにしてきたつもりだけど、知らぬ間に迷惑をかけていることはいっぱいだと思う。そう言えば25mプールでも文句を言われ

た。

恋愛沙汰は嫌だね。こればかりは一人で解決できない。ま、今は67歳だから大丈夫。いやいや、女の人を見て「綺麗だなぁ〜」と思うことはある。だけど、そこで完結。バラを見るよう

なものだ。バラはいいね。見放題だもの。現実の女性を口を開けてずっと見続けたら……恐ろしい。

おっと、自己宣伝だった。

今回の個展は新作展ではない。ここ数年の自選展。古い絵は20年ぐらい前の絵。20年来の傑作選だ。これらを並べて「この程度かよ」と思ったら、自分の人生全否定……そういうことに

もなりかねない。

怖いねぇ〜〜。

その飾りつけが本日終わる。どういう結果が待ち受けているか。

来週のこの『唇寒』に答えが出る。お楽しみに。

 

18年6月9日

私の絵を描く分量は多いけど、絵を描いている時間数はそれほど多くない。1点数分で仕上げる場合もあるのだから1か月の合計時間は24時間にも満たないのでは。お相撲さんが本場所で

相撲を取る時間だって、年間合計で1時間にも満たない。マンション勤務は時給で働いているけど、絵はすべて効率歩合制。

以前、古い友人に「お前の絵って自給いくらだ?」と訊かれたことがある。

5分で仕上げた絵が10万円なら、時給120万円になってしまう。アホらしい。

 

そう言えば、テレビドラマのスーパードクターの手術時間もとても短い。早さが勝負。

あれはとてもカッコいい。わがイッキ描きもああ行きたいけど、あんなにカッコよくない。もっと泥沼。失敗ばかり。ま、失敗しても誰も死なないけどね。

テレビドラマの手術や相撲や野球、サッカーなどのスポーツは、そのタイミングで最高のプレーをしなければならない。これがたいへんだ。

絵はいっぱい描いておいて、あとからじっくり選べばいい。その選ぶ時間も含めると、作画スピードもガクンと落ちる。

また、ボナールみたく同じ絵に繰り返し筆を入れる画法もある。あれは無限に時間がかかる。終わらないもんね。

ボナールに比べればイッキ描きはムチャクチャ速い。原則加筆もない。

「この絵はどうかな?」と迷うような絵は容赦なく潰す。どんどん潰す。最近はキャンバスも買えないから、潰し基準はとても厳しい。油絵は潰すのが常識。ピカソ(1881〜1973)の絵

の下に3枚とか4枚の絵があったとニュースになっていた。バカバカしい。そんなのアッタリマエである。

 

18年6月2日

長谷川を超えるとか超えないとか、こういうのってまったくナンセンスだ。

そういうことじゃないんだよね。

同じ方向を向いているかどうかということ。現実の世の中には迷いや誘惑も多いからトンチンカンなことになっちゃう。まっすぐ絵画の真髄に向かって精進を続けていればいいのだ。そ

の精進の分量も速度もさまざまだろうけど、それは大問題ではない。

一般的に、アカデミズムと在野というと、専門家とアマチュアみたいな分類と思われている。もちろん大間違いではない。

アカデミズムとか専門家の作品は皇居などに入る立派なもの。文化勲章クラス。でも、それって所詮「神品」クラスなんだよね。いやいや神品でも素晴らしい。若いころから桁外れの修

業を積んだ名人が丹精込めても出来るか出来ないか。誰が見たって息を飲む。

古い中国のランクでは、「神品」の下が「妙品」その下が「能品」だけど、「能品」に入れるだけでも免許皆伝だ。

われわれの狙いは「逸品」だから。こうなると、どうやって描いていいのかわからない。

要するにブグロー(1825〜1905)なら神品だ。ゴッホ(1853〜1890)だったら逸品ということ。狩野派の傑作でも神品。浦上玉堂(1745〜1820)なら逸品なのだ。市場価格も桁外れに違

う。

われわれはダメ元で逸品狙い。狙うのは勝手だからね。でも、アカデミズムクラスの修業量では達成できない。いろいろな屁理屈も必要、だと思う。それは知っている。わかちゃいるけ

ど、なかなか大変なんだよね。無理かも。ま、作品の出来なんて知ったこっちゃない、のだ。

5月30日に30年来の自分の絵を見渡した。汗びっしょりかいて1日中絵をひっくり返していた。そうすると、見られる絵もけっこうある。まだ2〜3冊作品集が作れるかも。買ってもらった

絵を含めればさらに2〜3冊出来るのでは。わかりきったことだけど、物凄い分量の絵があった。びっくりした。

 

18年5月26日

25日の午後、府中市美術館でやっている長谷川利行(1891〜1940)の回顧展に行った。

その感想はブログのほうで述べた。また、長谷川利行については、この下の「絵の話」のなかの『日本のもっとも偉大な油絵描き━長谷川利行の絵━』に詳しく述べてある。

で、ブログで利行は立派で、ヨーロッパの一流絵画も素晴らしいと述べ、それじゃあ、中国南宋の水墨画は? と話が進んだ。

どれもこれも素晴らしい。

仏教とキリスト教とどっちが凄いんだ? という話になってくる。

パンとご飯はどっち?

人の行動で素晴らしいのは、何が正しいかを見極めることだ。

橋を造ったり、トンネルを掘ることに文句を言う人はいない。でも、足腰を鍛えるには遠回りだよね。また、やたらめったらトンネルを掘っても自然破壊になる。下手に道路も造れない。

意見は様々。

仏教を狂信してキリスト教を嫌う人でもイエスの行動や聖フランチェスコを否定することはできまい。仏教のなかだって宗派の争いはある。所帯がでかくなるとロクでもないことになる

のだ。

まっすぐ前を向いて、はるか遠くを敬って筆を執ればいい、と思う。

現実の娑婆のイザコザも無視するわけにもいかないけど、あまりかかわらないほうが賢明。ま、この娑婆で飯を食っているわけだから、超然とし続けるわけにもいかない。

北辰一刀流で言えば、刃筋が立っていなければいけないということだ。刀も鋸もまっすぐに使わなければ切れない。

ま、絵描きなら、いい絵(本当のクラシック)をたくさん見て、集中していっぱい絵を描くこと。これだけだと思う。その集中の細かい方法が厄介だけど、それは結局自分で考え選ぶし

かない。

 

18年5月19日

15日(火)の『なんでも鑑定団』に山口長男(1902〜1883)の3号ほどの油彩画が出た。本物との鑑定。800万円。私もすぐ本物と思い500万円は下らないだろうと値踏みした。3号で800万

円かぁ〜〜。最晩年80歳のころの絵。図柄は意味不明。車輪だか蓮根だか? そういう輪っかみたいなものが描いてあった。でもいいんだよねぇ〜。欲しくなるもの。いい絵だよ。

黒ずんだ赤いバックに黄色いで輪っかみたいなものが描いてある。なんかボナール(1867〜1947)の若いころの油彩画『乗合馬車』(59×41p)にも似ている。山口の絵はボナールより

シンプル。

その前に日展系の画家の6号ぐらいの風景画が出たがこっちも本物。120万円。私は全然いいと思わなかった。なんの魅力もない。芸大、日展閥一門の絵だ。師は藤島武二と紹介されてい

たが、別な資料では小絲源太郎となっていた。小絲の風景画は悪くない。その小絲の絵からいいところを抜き去ったような画面。あれが120万円か?

100年後の評価を知りたくなる。

だけど世の中の人はアカデミズムが大好きだから、変化ないかも。

19世紀フランスアカデミズムも日本の江戸期の狩野派もしぶといもんね。ま、印象派や浦上玉堂などの評価と比べれば問題にならないぐらい低い。上記山口長男と日展系画家との差額も

埋まらないと思う。

もっとも山口も東美(=芸大)卒で長く武蔵野美術大学の教授をやった人だからアカデミズムと言えなくもない。私のチョー在野暮らしと比べれば、完全アカデミズムだ。でも、時代が

違う。私はとても恵まれた時代に生きているからあまり威張れない。

 

18年5月12日

もう10年以上前だと思う。岐阜県中津川市にあった熊谷守一(1880〜1977)記念館みたいなところを訪ねた。丸い展示室の中央より少し左側に「いい絵」があった。「あれ? 熊谷って、

こんなに描けるのか」と感嘆した。近づいてよく見ると、その絵は長谷川利行(1891〜1940)が描いた絵(熊谷の肖像)だった。

これとよく似た話が今年の4月号の『美術の窓』のp44に載っていた。世田谷美術館長の酒井忠康氏の談話だ。

「つい先日、東京国立博物館の『熊谷守一展』で利行が描いた守一の肖像画を見たのですが、これが実にいい絵で衝撃を受けました」

きっと他の熊谷守一の絵を圧倒していたのだと思う。上記の守一記念館みたいなところには奥さんの談話もあり、正直に「(守一は)絵なんて描きゃしないのよ」と掲載されていた。奥

さんの言葉は手厳しい。他にもどこかで同じような奥さんの談話を聞いたことがある。ふつう絵なんてなかなか描かない。

で、上記世田谷館長談話だけど、それは周りの守一作品を圧倒していた、という意味でもあると思う。私の中津川体験もまた「圧倒」だった。

描いている枚数がちがう、という感じ。まさに密度、輝き(=透明性)、踏み込み、筆の愛着度で、まわりにある守一作品が吹き飛んでいた。

その中津川で、私はわが枚数信仰をますます強くした。

絵描きって、若いころから本当に巧い人がいる。そういう人が絵描きになるのは実に理に適っている。思いつくところでは、小磯良平(1903〜1988)、モネ(1840〜1926)、クリムト

(1862〜1918)、デ・クーニング(1904〜1997)、上村松園(1875〜1949)、ロートレック(1864〜1901)、ルオー(1871〜1958)などか。レオナルド(1452〜1519)やミケランジェロ

(1475〜1564)なんかも十代から目を見張る描写力だった。

これに対して、下手の横好きタイプ。これがけっこう多いから嬉しくなる。

長谷川利行(1891〜1940)、富岡鉄斎(1837〜1924)、ゴッホ(1853〜1890)、セザンヌ(1839〜1906)、ルノワール(1841〜1919)などいっぱいいる。若いころの巧い下手は絵に関し

てはあまり関係ない、みたいだ。結局は執着度か?

私は真剣に描いた分量だと確信している。

 

18年5月5日

この前からこのホームページやブログで述べているわがイッキ描き「絵画鑑賞の4ポイント」はけっこう素晴らしいものかもしれない。

私自身は印象派などの普通の絵画を見る基準として述べているのだが、よく考えてみると、わがイッキ描き「絵画鑑賞のポイント」は抽象絵画や色のない水墨画やデッサンにも適用でき

るし、彫刻でもOKかも。全美術に適用可能かもしれない。

四つのポイントは「密度、透明度、踏み込み、筆の喜び」。

密度は厚みとお考えいただいていいと思う。つまり、風呂屋の看板みたいな絵は密度がないわけだ。でも、大津絵などが高く評価されることもあり、実際に大津絵に重厚な絵もある。簡

単には評価を下せない。風呂屋の看板だっていい絵のがあるかもしれない。

ま、一目軽い絵、薄い絵ではダメということか。

透明度は、その前に発色の問題がある。重厚な感じがあってもあまりにもボヤッとしていては頂けない。ハッとする色彩の輝きが欲しい。それはモノクロ画面でも同様。木炭デッサンに

も水墨画にもしっとり黒い発色が活きている場合がある。透明感はさらに難しい。もともと油彩画は透明感が命。パサパサでは困る。現実の画溶液は油絵具の質にもかかわる。安物では

透明感は期待できない。さらに油絵の場合は地塗りの質も深くかかわる。

踏み込みは、画家の度胸。戦国時代の一流の絵師たちは金の屏風に絵を描いた。凄い度胸だ。何度でも消せる油絵の線描にビビりが見えるようでは話にならない。

筆の喜びが一番簡単で一番難しい。

ここが絵画のボーダーラインだ。

簡単と言えば簡単。描きたくて描けばいいだけのことだ。

描きたくなくて描いた絵はダメなのである。それはわかっている。わかちゃいるけど、これがなかなか描けないんだよね。下心で胸が張りそうだもの。スケベ根性がすぐ出ちゃう。意欲

を溜めこんでおいて一気に爆発させる。溜めこみ過ぎてしぼんでしまうこともある。下手するとそのまま描かなくなっちゃったりして。ま、今はその心配はない。

おっと鑑賞ポイントだった。描きたくて描いた絵は筆に喜びがある。これはいい絵画の必要にして十分な条件だ。売り絵では話にならないし、受賞や名声に目がくらんだ絵も低レベル。

いい絵は画家が喜びに満ち満ちて筆を揮っている。

 

18年4月28日

絵を買うとき何を基準にするのだろうか?

100%自分の目であるべきだ。自分がいいと思う絵を買っていただきたい。いいと思い、買いたいと思っており、金もあるのに買わないのは絵画業界に対する犯罪的行為だ。特にそういう

お金で名のあるつまらない絵を買うのは最悪。絵画業界などという狭いことではなく、絵画界全体への反逆である。

絵は、心底いいと思うものを買わなければダメだ。

見栄でわけのわからない抽象を買ったり、美術評論家の言動に動かされたりするのは絵画界をダメにする。というか、今もかなりそうなっている。

自分の目で見て、自分が欲しいと思うものを買うべきである。

密度と透明性。私の絵画選びの最低基準だ。いろいろな画家の細密画を密度と透明性で比べてみたい。ま、だいたいいつの世にも細密画はあり、その時代時代で人気を博してきた。だけ

どけっこう消えてしまった絵は多い。つまらない絵、気持ち悪い絵は消える。密度と透明性があれば残るような気もする。ルソー(1844〜1910)の絵などかなりイカレテいるけど密度と

透明性はある、ように思う。いかがだろうか?

さらに大胆な踏み込みとか、筆と絵具への愛着みたいな造形性が欲しい。感覚ではない。まして感性などでは決してない。造形性としての踏み込み、愛着だ。

密度、透明性、踏み込み、愛着。

富岡鉄斎(1837〜1924)、長谷川利行(1891〜1940)はなかなかいない。

そういう絵は百年千年レベルで残ると思う。

もちろん私だってそういう絵が描きたいけど、描きたくて描けるものではない。狙ってはいけない。描くこと自体に意味があるのだ。修証一如。作品は結果に過ぎない。

26日(水)に上野や六本木で美術展めぐりをしたけど、いい絵は本当にいい。美術展めぐりは実に楽しい。

 

18年4月21日

名画はなぜ心を打つか?

それは筆のタッチに描く喜びがあるからだ。

これが私の主張であり、このことを古典絵画を鑑賞し楽しみながら検証しようというのが『西洋絵画鑑賞ガイド』だった。

しかし、「筆の喜び」以外にも名画が心を打つ何かがあるのかもしれない。

たとえば、画家の意欲とか情熱だ。ま、「筆の喜び」も意欲には違いないけど、そんな呑気な話ではなく、もっと真剣な切実な何かが名画にはあり、それが見る者の心を打つのかもしれ

ない。

対象をそっくりそのまんま描きたいと思う意欲は鑑賞者にも伝わる。そこに心を打たれる可能性もある。そうすると細密描写が評価されるのはとてもうなずける。でも、細密描写も慣れ

てくると、ここは描く、ここは手を抜くみたいなチャチいテクニックもあり、細密描写にも手慣れた絵もある。よく見ないと誤魔化される。

私がヴュイヤール(1868〜1940)に惹かれるのはどうしてだろうか?

やっぱり筆が活きているからか? じっくり描いてあるのだけれど、怠慢や冗長は一切ない。一筆一筆が歓喜に満ちている、感じ。もちろんヴュイヤールの絵は細密じゃない。でも心が

こもっている。長谷川利行(1891〜1940)の絵にも同様の筆の跡が見える。喜んでいるんだよね。

じゃあ、モナリザは? 喜んでいるかどうかはわからないけど活きてはいる。名画の筆はすべて活きている。ものすごく同意できる。この前見たルドン(1840〜1916)もよかった。

私の絵画観てレベル低いかも。でも、いいの、いいの。単純にいっぱい描く。これに限るよ。とにかく描かなきゃ始まらない。

 

18年4月14日

数日前に図書館で今月号の『芸術新潮』を見た。今月号のテーマは「ヌード」。

いま横浜美術館では『ヌードNUDE』展をやっている最中だ(6月24日まで)。行きたいけど無理かも。

芸新(=芸術新潮、以下同じ)の取り上げ方はかなりエロい感じ。芸新にはたまにこういう企画がある。私はそういうバックナンバーをけっこう持っている。ゴメン。

とりあえず裸はエロいかもしれない。

でも、裸は人間本来の姿だし、テレビに映る奥地の原住民の裸なんてエロいより健康美みたいな感じも受ける。というか裸は美しいよね。

健康には性的部分も含まれている。その性的部分ばかり強調して、異常な一面さえむき出しにするのはいかがなものか。そうしないとガツンと来ないのか?

異常は、はっきり言って気持ち悪い。

例によってクールベ(1819〜1877)の描いた女性器《世界のはじまり》も掲載されていた。私は5年前オルセー美術館で本物も見た。けっこう健康的な感じを受けたけどね。どうなんだろう?

イッキ描きは「描きたいものを描く」だから、描きたかったらなんでも描けばいいのだ。犯罪にならないならOKだと思う。

 

で、また長谷川利行(1891〜1940)だけど、利行の絵って写生なんだよね。私の父はそこが不満だったのかも。私は67歳で、そろそろ先が見えているけど、いまだに写生ばかり。その点

では父の画法とまったくちがう。でも、いけないことはないと思う。

いけないのは、方法で描くことだ。スタイルは最悪。

絵は、その場の感動と体力で描くものだ。粘り強さと頑張りでやっつけるものだ。画法はあくまでも手段に過ぎない。その場その場で毎回違う頑張りで描く。これが絵画の醍醐味だ。そ

して、それが一番楽しい。生きているって感じだ。それこそ本物の絵描きだ。

もちろん、それは必ずしも写生である必要はない。

 

以前表参道で企画展をやってくれた中尾氏にネット上の常設個展「菊地理イッキ描きギャラリー」を開設していただいた。額装された作品が綺麗に並んでいる。

今まで描きためた絵のなかから厳選していただいた。日々アップされる作品が増えている。今後は描き立ての超新作もアップしていただく。こちらもぜひご高覧ください。

 

18年4月7日

金井画廊2人展、ご高覧いただき誠にありがとうございました。

今年はステンドグラス作家とのコラボだった。ステンドグラスの加藤正己氏は幼いころ60年来の友人だ。まったく日本は平和な国である。こんな旧友とずっと交流できること自体奇蹟の

ようだ。

以前、加藤氏のステンドグラス個展を見て、上の壁が空いているから「もったいない」と思い、私が発案したコラボ展だった。違和感がないというご意見もあり、また、暗いほうが見や

すいステンドグラスとより明るく見たい絵画とでは無理があるとのお叱りもあった。確かに加藤氏の個展の照明は落としてあったと記憶する。

もちろん金井さんの企画。その踏込のよさにもびっくりする。ま、いろいろやってみないと学べない。

 

絵って本当にいろいろある。もちろんいろいろあっていいと思う。イッキ描きの基本は「描きたいものを描きたいように描く」である。

絵画の判定基準もいろいろある。

まずは画家の真剣作画枚数。大量生産絵画はダメ(一時期の絵画ブームのときにはそういう絵が実際にあった)。真剣作画枚数なら数値基準だからかなり客観的だ。私はいつも最低一万

枚(デッサン習作なども含む)と言っている。私自身は少なく数えて3万。きっと4万枚は固い。5万枚描いているかもしれない、と言うところ。

パッと見た画面勝負で言うなら透明性だろうか?

描いた人の名前で判断するのは最悪。有名病だ。

ヨーロッパでは、画面に驚かされることが多い。

フランスの小さな町の公立図書館の階段の上にセザンヌの水彩画が掛かっていた。本当にびっくりした。たぶん本物だと思う。印刷物とは思えなかった。

イギリスのヴィクトリア アンド アルバート美術館の観客が私一人だけの埃っぽい一室の上の方に掛けてあったテンペラ画《奇跡の漁》はラファエロそっくり。あとで調べたら本物の

ラファエロ(1483〜1520)だった。

ミレー(1814〜1875)の《落穂拾い》の透明性にも驚かされた。

 

以前表参道で企画展をやってくれた中尾氏(こちらも50年来の友人)にネット上の常設個展「菊地理イッキ描きギャラリー」を開設していただいた。額装された作品が綺麗に並んでいる。

今まで描きためた絵のなかから厳選していただいた。今後は描き立ての超新作もアップしていただく。こちらもぜひご高覧ください。

 

18年3月31日

『揚子江』(陳舜臣/増井経夫・中公新書)を読んでいるが、話がどうしても政治や経済にゆく。政治や経済は人の暮らしに密接に係わっているから、致し方ないのだけれど、政治や経

済ってパンパターンだよね。なかなか世の中はよくならない。そのうち権力に酔ってしまい、悪政に走る。

でも、橋やトンネルはもちろん、運河を作ったり、川の治水をしたり、権力者の事業はとても大切だ。鉄道、学校、病院などとも深くかかわる。上下水道の工事やメンテも大変。ま、今

の日本は学校新設問題で国会が大揉めだけどね。銃規制問題じゃないだけましかも。日本は平和だねぇ〜。

中国も、大昔から権力闘争が絶えない。話はどうしてもそっちに行く。

権力闘争はサル山でもやっている。

これに対して、哲学や宗教は人間だけの所産だ。芸術も人間の活動。

ま、そういうことに興味があり、自分が多少かかわっているからと言って威張るわけじゃない。上記、道路、橋、トンネル、病院などなどは人の暮らしに欠くことができない。個人レベ

ルでも、炊事洗濯、ゴミ、買い物、汚物処理など大変。こういうことはマンション管理人はよく知っている、のだ。こういうことを普通にやるだけでも、それはもう立派。その次に哲学

や芸術が来る。

この意味でも『正法眼蔵』の教えは納得できる。臨済禅でも「日々平安」は最重要事項。

しかし、政治とか経済とか炊事とか洗濯とか汚物処理の下にどんと大きな真実がある。プラトンの言うプリンシパルとはちょっと違う。

芸術は熟達の上にある。

そういう熟達という意味でも美術アカデミズムを侮ってはいけない。

美術アカデミズムをブッ飛ばすぐらいさらに熟達しなければならない。クソアカデミズムとは比較にならないチョーハイレベルな修業をしなければならない。厳しいよぉ〜〜〜。

絵では、それが作品として残る。見てわかってくれる人はとても少ない。

でも、それはいたしかたない。厳しい修業とは言ってもこっちは涅槃寂静に遊んでいるだけだし。

 

18年3月24日

3月19日(月)のブログの末尾に「秘密は一筆一筆に込める思いにあると思う。一球入魂みたいなスポーツ根性のような鬼の形相ではない。もっと穏やかで嬉しくて楽しいのだ。描きたいの

だ。倒す相手もいない。ハイ、平和です」と書いた。

それはこの「唇寒」やブログで何度も繰り返し述べている人の動作への思いだ。絵を描く筆に限ったことではない。

大学のとき安井源治教授(1914〜1998)のパスカルのゼミを受講した。ゼミだから学生は20人ぐらい。和気あいあいとしている。現在では考えられないことだが、この先生は講義中に煙

草を吸っていた。煙草を口の真ん中にくわえ、マッチの軸の根元のほうを持つ。火傷しそうなほど根本。そしてゆっくりマッチを擦って、煙草に火をつける。その動作の一つ一つに思い

がこもっているというか、なんか印象深い。ゼミの内容も貴重だったが、その動作が実に興味深かった。「ゆっくり丁寧」なのだ。ちなみに「ゆっくり丁寧」はわが学習塾時代のチラシ

のキャッチフレーズだった。

で、思いのこもる動作と言えばプロの将棋棋士の一手一手だ。テレビ将棋で見られる。こんなにものんびりと駒を持つものか、と驚嘆した。また、対局終了後の感想戦のときの駒の動き

はムチャクチャ速い。乱暴には見えない。

茶道の極意も同じなのでは、と感じている。お茶は家内がやっているけど、私はまったく門外漢。聴くところによると、高校生ぐらいの女の子に何センチ何ミリのレベルで所作を教える

らしい。機械的に教える。だけど極意は上記述べた「ゆっくり丁寧」動作のマスターなのだと思う。

風呂に入るときの脱衣や歯を磨くときなども丁寧にゆっくりやるべきなのだ。なんか『正法眼蔵』みたくなってきた。もちろん私はどんどんやる、さっさとやる、ぐずぐずしないと親に

急き立てられたクチだから、67歳の今でもあわただしく貧乏くさい。もともと下町のクソガキなんだから太宰治の『斜陽』みたいな所作は無理。

このパソコンのキーボードをたたく感じも専門家のたたきは速いけど思いがこもっている。キーボードを慈しんでいる。

美術展で筆の跡をじっくり鑑賞していただきたい。筆がお上手に描くための道具になっていない。その一筆が目的であり、完結なのだ。思いを籠めた一筆になっていなければならない。

私もここまでは悟っている。あとは自分の絵でどこまで実践できているかだ。出来ないんだな、これが。筆を持つとたいていのことは忘れちゃう。

 

18年3月17日

『日曜美術館』の『アートシーン』に「東京⇔沖縄 池袋 モンパルナスとニシムイ美術村」展の紹介があった。板橋区立美術館で4月15日(日)まで。その画面に「あっ、長谷川の絵具の

付け方だっ」と思った瞬間、カメラが引いて長谷川利行(1891〜1940)の『新宿風景』が映し出された。空の一部がちょっと映っただけで、長谷川とわかる。

筆触に愛情があるからだ。一筆で完結している。その一筆が何かを描くための道具になっていないのだ。その一筆、一筆が喜びなのだ。目的なのだ。描きたくてうずうずしている。それ

はヴュイヤール(1868〜1940)の筆致にも見られる。

私はブログで「われわれの絵は結局『発色』止まりなんだよね」と語り「『発色』でいいじゃん」と言った。いったい発色以上の絵画の魅力って何だったんだろうと思い、ずっと課題に

なっていた。やっと思い出した。それは「画面の透明性」だ。

かなり前に東京の美術展でミレー(1814〜1875)の『落穂拾い』を見た。この絵は、私が25歳のときにルーブルに行ったとき展示されていなかった(外国の展示会に出張中)。それ以来

ずっと本物が見たいと思っていた。で、やっと本物に出会えたとき「ああ、透明だなぁ〜」と思ったのだ。油絵具って透明なのだ。それをきっちり使い切れば絵も透明になる、はず。

ティツィアーノ(1488/90〜1576)の油彩も透明だものね。

じゃあ、長谷川利行(1891〜1940)は?

これが不思議に透明なんだよね。あの人、どうしてそんなこと知っていたんだろう?

どう見ても、私は長谷川より絵画環境が恵まれている。カラー図版は見たい放題。25歳のときにはヨーロッパの美術館を巡り、62歳のときにもパリのルーブルとオルセーに行き、普段も

東西の名画を見狂っている。絵もいっぱい描いている。それなのに50歳前に死んでしまった飲んだくれのホームレス絵描きに敵わない。絵の具への慈しみがちがうんだよね。まったく渇

筆っていうけど、絵具を惜しむように使っている。惜しむというのはケチケチと言うことではない。いとおしむということだ。しかし、ときには大胆だったりする。絶妙なんだよね。

絵描きの私の父は「長谷川じゃ、まだまだだ」と言っていた。この意味が67歳になってもわからない。いろいろな意味が想定できる。たとえば、長谷川は写生の域を脱していない。でも

それって絵画の本質だろうか? 写生で描くとか記憶とか想像で描くとか、そういう問題だろうか? 絵は画面勝負だと思う。その画面が、その筆致がどうかと言うことだ、ろう。

ハイ、未熟です。

 

18年3月10日

絵は音楽のように練習が要らない。ミュージシャンは見かけはヤンキーでパンクでも、ちゃんとギターが弾ける。絵の場合、画家と称する人よりマンガ家のほうがきっちり修業していた

りする。

もちろん、絵は自由だ。何をどのように描こうが勝手だ。どんなに酷い絵でも犯罪じゃない。音楽みたくうるさくないから、厭なら目を閉じればいい。見なければいいのだ。

フランスにもアマチュアの画家はいた。自分勝手に描いていた。

アンリ・ルソーってアマチュアか? なんか酷い絵だけど、絵の厚みはある。大きな絵をいっぱい残している。画面のヴァルールを知っている、ような気がする。

描くけど、古典絵画は見ない人っていっぱいいる。いっぽう描かないのに古典絵画の展覧会には行く人もいる。見る人と描く人が分離している。両刀使い(ってこの場合の適語かどうか?)

はほとんどいないのかも。そうすると、私には希少価値があるのだろうか?

昨日も、本日のライブ対談用に、中国や西洋の絵画をいっぱい画像処理していたけど、昔のいい絵って本当にいいね。いい絵は目が安らぐ。

昔のいい絵を見ると自分も描きたくなる。それで描いているが、昔のいい絵描きは物凄い分量の絵を描いている。私もかなりの分量を描いているが、いつも「これではまだ足りない」と

思っている。大きな絵ももっと描かなければ、と考えている。昔のちゃんとした人の絵を見ると、この絵画への思いを伝える人間でありたいと思う。そのためにはあまりにも未熟だ。で

も、私は現在生きていて筆を執って描ける。それは絶対的な優位だ。レンブラントは死んじゃった。でもあの世で笑っている。「俺が死んだ時より歳とったくせに全然描けないね。筆が

動いてないよぉ〜〜〜」

いやいや、焦ってもしようがない。大丈夫。絵は描くこと自体に意味があるのだ。

レンブラントみたく描けるわけないじゃん。マルケやモランディの境地にも達していない。でもそんなの関係ない、のだ。

必死で描いていれば、昔の画人と同類でいられるような喜びがある。

 

18年3月3日

作品集が完成した。ご希望の方はメールください。消費税や送料など全部含めて1000円です。

また、ライブ美術講座《〜これまで誰も教えてくれなかった〜『絵画鑑賞講座』》の特別イベントにゲストで呼んでいただきました。イッキ描きをご披露いたします。上記You Tubeの『イッ

キ描き実演』をご参照ください。あんな風な感じです。参加費2000円です。ご希望の方にイッキ描き作品集差し上げます。

スシローに行くとだいたい1000円で腹いっぱいになる。とっても満足。それが1000円の価値だと肝に銘じ、1000円、2000円に恥じないご満足を頂けよう頑張る所存です。

 

絵ってけっこう単純かもしれない。まずは昔のいい絵を見る。出来れば模写をする。たくさん描く。うんざりするほどたくさん描く。ただそれだけのことだ。ややこしい美術論は不要。

現代美術に迷う必要もない。若いときはつい迷うけどね。「見て描く」だけのチョー単純な所業だ。

これは『親鸞』(五木寛之・講談社文庫)の影響かもしれない。今は下巻の三分の一弱のあたりだけど法然がいっぱい出てくる。法然の教えのオンパレード。これは法然を読みなおさな

くてはいけないか、と思ってしまった。読み直すというより今までほとんど読んでない。

私だったら、道元は今枝愛心(NHKブックス)と誰にでも一言でおすすめできる。そういう「ザ・法然」てないかな。おすすめ法然の決定版だ。とりあえず図書館で探してみる。

とにかく法然は「南無阿弥陀仏」と唱えればどんな悪人でも救われるという説。ま、悪人の定義が難しいけどね。ほとんどの人が悪人らしい。やりたい放題悪事を重ねて、ハイ「南無阿

弥陀仏」。これでご破算。極楽逝きが約束される。それはいいけどその前に刑務所行きじゃあ話にならない。

絵はいくらぐちゃぐちゃに描いても刑務所に行くことはない。描くだけ描けばいいのだ。展覧会で本物を見るとなるとお金がかかるけど、ある程度は致し方ない。だいたいは図書館で間

に合う。私の家には図書館並みの画集があるけどね。50年(=半世紀)にわたって集めたのだから当たり前だ。自慢? 薄汚くて埃だらけでボロボロ。入手したときからほとんどが古本

だった。かさばるばかりで本当に困る。

 

18年2月24日

3月10日が迫ってきている。自分の作品集は印刷屋さんに出した。今月中には完成する、はず。

私は今年の初めに「暖かくなるころには金持ちになる」と豪語したが、かなり難しい、かも。資金がないから致し方ない。今はどん底だ。2月の家賃が払えたのが奇蹟。とは言っても、オ

リンピックを見てハラハラしているし、亡くなった大杉漣の『バイブレーヤーズ』を見て大笑いしている。

で、3月10日のライブの原稿に向かっている。今のところ中国の水墨画の話をする予定。まったく中国の水墨画と一口に言ってもとても厄介。私にとっては牧谿(1280頃活躍)が中心だが、

その前にも後にもどっさりすごいのがいる。この話を五木寛之の『はじめての親鸞』ばりに面白おかしく語るのは至難。

それを自分が描いている油彩画に結び付けるのはさらに難しい。一般の方にご理解いただけるだろうか? 根本的には東洋も西洋もないし、油彩も水墨もない。いい絵とつまらない絵が

あるだけだ、というのが私の主張。私の絵は油彩画だけど東洋画だと思っている。当たり前だ。シャッチョコ立ちしたって私は西洋人じゃない。生粋の東洋人だ。東洋人が描けば東洋画

だろう。西洋と東洋の融合なんてクソバカ思想だと思っている。どうだっていい。問題じゃない。

というか、絵はどういう絵かなんて問題じゃないのだ。描くことに意味がある。「真剣に描く」という行為が大切なのだ。そこに涅槃寂静がある。

プロの将棋だって真剣に考えている姿が見たいのだ。AIなんて問題じゃない。

 

18年2月17日

音楽の三要素はメロディ、ハーモニー、リズムと習った。実に理にかなった分析だ。これを絵画に当てはめて絵画の三要素をデッサン、色彩、構図と言う。私はデッサンだけでも絵画は

成立していると考えてきた。若いころから絵画の三要素は線、調子、白と黒のポントと主張している。反論も多い。たとえば、線は調子の一部だとか、白と黒のポイントって明暗のこと?

みたいに厳密な質問を喰らう。

しかし、水墨画を独立した絵画と考えれば、色彩を絵画の三要素に入れるとこは出来ないではないか。また、私の説だと抽象画も擁護できる。別に抽象画を擁護したいわけじゃないけど

ね。

考えると、線が調子の一部だという主張は納得できなくもない。でも、描く立場で言えば、線描は特別の訓練が必要。私は全面的に同意できないけど、マチスの裸婦クロッキーの線はど

う考えても単なる線だと思う。喜多川歌麿(1753〜1806)の大首絵のぽっぺは線描だけで若い女性の複雑なふくらみを表現している。論理的に線が調子の一部だと言われると「そのとお

りかぁ〜」と思っちゃうが、実際の絵を見ると線描は別の生き物のように絵画を支配する。

どう考えても調子とはちがう。

調子はボヤッとした感じだ。「バックに調子をつける」とか「全体的に調子をととのえる」みたいに使う。その効果や方法もはっきりわかる。調子は音楽のハーモニーぐらい大切だ。ター

ナーの絵なんて調子だけでできている、感じ。牧谿の『煙寺晩鐘』も完璧な調子の世界。ああいうのを見ていると、絵の調子って無限の可能性があると感じてしまう。

それでは、白と黒のポントは明暗ではないのか。明暗は白と黒のポイントを決めるための言い訳にはなる。実際の対象(風景や静物や人物)に黒いところがなくても、絵画の造形上、必

要とあれば黒くしちゃう。それは絵画のリズムだ。それを構図と言うのは苦しい。構図は描く前に決める。私の言う「白と黒のポイント」は描いている最中にどんどん変化するし、必要

とあればべったり黒くしちゃうことだってある。そう言えば、ドガの踊り子の絵には右側が真っ黒、っていう絵もあった。

だから、私の絵画観は『プレバト』の水彩画の先生の判定「切り取り方」「正しい描写」「明暗」とも別分野のようにちがう。

絵は自然を写しとることではない。自然はキッカケに過ぎない。古典絵画は特に画家の人生とかいろいろと複雑だけど、私のイッキ描きは……。いやいや私の人生だって十分苦しく複雑

だけど、そういうのはとりあえず関係ない。わがイッキ描きは裸婦や大自然を相手にして描きたいように描いているだけだ。筆を動かしたいだけだ。

絵画についてのいろいろな屁理屈は後付けなんじゃないの?

その後付け自体が素晴らしい文学芸術になっている、とおっしゃるなら、それも否定しないけどね。

 

18年2月10日

造形なんだよね。色と形の組み合わせってことだ。また線描はとても重要。この造形の妙は計算ずくでは表現できないだろう。画家の人生や家族関係や暮らし振りなどとも密接に係わる。

いつも例に出すけどレンブラント(1606〜1669)の20歳代からの華やかなデビューとその後の社会的な没落。次々に家族に先立たれる人生。それでも描き続けた絵。それをAIで再現しよ

うとしても不可能だと思う。バカバカしい。私たちはレンブラントの何に感動しているのだろうか?

レンブラント絵画の技巧的な優位は誰が見たって一目でわかる。技巧を盗み取ることは可能だ。だけど悲しみや嘆きは真似が出来ない。そういうものが絵を描かせるという思想にも同意

できないけど、具体的に歴史上にいたレンブラントが尊敬に値することは確かだ。私が尊敬することは勝手だ。苦境や悲しみを味わっていない老人はいないと思う。ただレンブラントは

描き続けたという点で圧倒的に尊敬に値する。

そしてレンブラントの絵はレンブラントの造形なのだ。イエスが描いてあるとかギリシア神話の一場面だ、などという絵柄の話は、ま、それはそれで訊きたいところでもあるけど、絵の

一番肝心な話ではない、と思う。

で、こういう話になると、真贋問題が訊きたくなる。「それじゃあ、あんた、レンブラントの真筆を一発で見抜けるのか?」って話になる。ま、仏教でいうところの神通力(=超能力)

みたいな話。

それには答えてはいけない。神通力は見せてはいけない。とお釈迦様はお教えになった。

だけど、ないものね。神通力なんて初めからない。『なんでも鑑定団』ではいつもはずしている。私は感動した絵について言っているのだ。レンブラントならロンドンのナショナルギャ

ラリーにある『沐浴する女』だ。あれがレンブラントの真作でなくても、もうどうでもいい。あの絵がいいのだ。

いや、実際われわれの神通力と言えば自分の絵なんだよね。人に見せるどころか、お売りしているもんね。仏罰が当たるよ。ムチャクチャな話。

 

18年2月3日

1月31日(水)に三浦半島の三崎口付近の三戸に行って絵を描いた。20号から始めてサムホールまで5枚描いた。

快晴ではなかったが、富士山が見えた。午後になってどんどんぼやけてくる。だけど頑張って相模湾ウィズ富士を描き続けた。

パレット上に作った色がキャンバスに乗ったとき、どんな効果を表わすのか、100%予測することはできない。想像とはまったくちがう色や効果(画用液と絵具のバランスが生み出すトロッ

とした感じやシャバシャバな感じ、またはドロッとした感じなど)が出る場合は少なくない。描き手の期待もある程度は実現できるが、そう易々と思うツボにはまってはくれない。

そこがまた面白いのだ。

で、画面右上をもっと柔らかくボヤッとしたいと、白を混ぜても、白が強すぎたり弱すぎたりなかなか思うようにはいかない。逆に思いもよらない画肌が得られることもある。

さらに「ここにこの色」などという判断は、私の場合、その現場で、風景ならば、その大気のなかで半ば朦朧とした意識の集中のなかで行われる。だから後で描き直すというのはほとん

ど不可能。風景の中に溶け込んで描いている。描いているときの自分と家に帰ってから数日後に絵を見直している自分は全然ちがう人なのだ(31日に描いた風景もまだ見ていない)。

裸婦の場合はポーズが次々と変わるからもっと忙しく、もっとわけがわからない。ムチャクチャな状況。もちろんそれでも少しでもコントロール可能なように下準備はしてあり、作画作

業がスムーズに進むように筆や絵具も並べてある。それでもダメはダメ。ムチャクチャな状態に陥るのはわかりきっている。山登りでも準備万端整えても一歩山に入れば何が起こるかわ

からない。サバイバルは、最後は生命力と気力の勝負。そういうのに似ている。

予想が裏切られ、前後不覚寸前まで追い詰められた状態こそが三昧境なのかもしれない。その苦しみは味わい深い苦しみなのだ、ろう。そこには日常とはちがう狂気の世界が展開する。

嫌だけどまたその世界に入り込みたくなってしまう。それこそが涅槃寂静なのだろうか?

 

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