唇 寒(しんかん)集41<13/6/6〜9/26>

 

13年9月26日

今はギャラリー・ウーゴス南青山展の真っ最中。27日にはギャラリー・トークがある。そのギャラリー・トークのさわりの部分を掲載しちゃう。

 

裸婦の動きを描きたい。

動きというのは、走っているところとか踊っているところなどもそうなのだけど、それも含めて、私の思う動きというのは、人形ではない生きている人間

という意味だ。血の通っている人間。じっとしていても血が動いている。肺も息をしている。心臓も動いている。頭は何か考えている。そういう生身の人

間だ。それは骨格と筋肉に連動している。そういう人体を描きたい。若い女性に期待する。恋をして子を産む可能性を秘めた肉体だ。人類の存続を願い、

リアルに実行できる可能性に満ちた肢体である。その積極的で現実的な美しさを描きたい。まさにギリシア彫刻である。ギリシア彫刻はそういう意味でも

動きをとらえている。私はギリシア彫刻をそのように理解している。

私は海に行く。バラ園に行く。富士山の麓まで行く。絵を描きに行く。なぜ行くか?

気持ちいいからだ。絵なんてどうでもいい。もちろん絵を描く。3時間も頑張る。

バラ園に3時間もいる人は滅多にいない。いくらバラ好きの人でも3時間はいない。私は行けばいつも3時間ぐらい居座る。だって絵を何枚も描くから知ら

ないうちに時間が経ってしまう。海も富士山もまったく同じこと。3時間もいい空気を吸って、ついでに絵も描くのだ。夏の海だったら泳いじゃう。

で、海は広い、富士山はでかい、バラは限りなく美しい。私の暮らしはとても贅沢なのだ。

 

13年9月19日

絵を買おうとするとき、いい絵ってあるだろうか? 秋の個展が始まるので、つい考えてしまう。

私の絵は短時間で仕上がる。お客様は、そんなものに10万円とか、ときには数10万円もお金を支払ってくださる。

しかし、私の絵は、買ってくださるその一枚にかかる時間は短くても、その一枚が出来るまでに裏で何枚も描いている。イッキ描きとはそういう画法だ。

では、誰か友達に「絵を買いたいんだけど、デパートや画廊で買うのにいい絵があるかなぁ〜?」と訊かれたら、まずほとんどない(画廊などにはあまり

行っていないので断定はできないけどね)。

まったくゴッホの複製画を買った方がいい。どうしても本物が欲しいなら私の絵しかない。

だって意図して作った絵なんて2週間も飾っておけば飽きてしまう。

ま、複製画も、原画とはかけ離れたひどいものが多いから、手の打ちようがない。

私は、自分の家の壁には複製画とかポスターとか、画集から切り取った古典絵画を貼ってある(切り取る場合は保存用の画集をもう一冊買う)。

という事情で、数分で仕上げた私の絵を買っていただいてしまう。申し訳ないとも思うけど、年間600枚の油絵(油絵はすべて現場で実物を見て描いてい

る。写真などは一切使わない)とそのほかの絵を合わせて1000枚ぐらい、何十年も描き続けている人間の手による数分の絵なのだからご勘弁願うしかない。

今でもちゃんと美術館や展覧会には行っている。ちゃんと頑張っている。私みたいな絵描きは滅多にいないと思う。多分、きっと。

 

13年9月12日

宮崎駿の場合はしがらみが多すぎる。アニメ映画を作れば必ずヒットしてしまう。ある程度の観客動員数は見込める。そうなると、宮崎アニメで生計を立

てている人がたくさんいることになる。引退宣言でもしないと自由になれない。初めから自由自在な私なんかとは根本的に違う。致し方ないのだ。

考えてみれば、私は本当に自由だ。絵の値段もまだ十分安い。これから高くなるかどうかはわからない。ふつう、画家が死ぬとほとんど安くなる。私は

300歳まで生きるから安くはならない。きっと高くもならないと思う。映画『スターウォーズ』のヨーダは確か800歳とか900歳だった。負けた。

白日会の伊藤清永は自分の絵が高くなりすぎて、売りづらくなって怒っていた。絵の値段は上限号5万円だと思う。今の私の価格は号3万円だ。それでも、

10号だと30万円。私自身から考えれば、びっくりするほど高価だ。とても買えない。

有名になっていろいろなしがらみが増えるのも困りものなのだ。無名の私はとても幸福かも知れない。

だけど、早くネットのキャンバス価格を訂正して、キャンバス屋としてもう少し収入を増やしたい。

そうしたら、孫のオモチャも100円均一モノではなくなるか。オモチャなんて、すぐ飽きるから100円で十分なんだけど、気に入ったオモチャが簡単に壊れ

てしまうのも、やっぱり困るなぁ〜。

 

13年9月5日

テレビのアフラックのコマーシャルに出てくる黒い白鳥はまさに私自身だ。実にノーテンキ。お気楽。行きあたりばったり。先のことなど小指の先ほども考

えていない。

もう63歳だから、あまり先がない。平均寿命でも15年ちょっと。わが両親は確か73歳で死んでいる。そうするとあと10年だ。健康でいられる年月はもっと短

いはず。病気になる。頭がぼける、など心配したら切りがない。

たった今は元気で絵も描けるし、水泳も出来る。マンションの巡回も楽ではないけどそんなに大変じゃない。ちょうどいい歩行運動だ。

でも、私と同年代の、特に男性は、そろそろ気が弱くなってきている。老人性鬱か? 「あと20年弱だな」などと口走る。さらに5年ぐらい経つと言わなくな

る。無口になる。かなりヤバい。

私の方針は、面倒だから300歳まで生きる、と宣言している。隠居はない。バカだけど、自分がバカであることは子供のころから知っている。バカだから生き

ている限り絵を描き泳ぎ歩くのだ。

宮崎駿みたく引退したりしない。90分の映画が作れなかったら、30分でも10分でもいいから短編を作る。空を飛んでいる場面だけでも作る。パラパラ漫画でも

いいから作る。

絵だったら、鉛筆でもクレヨンでもいいから描く。身体が動かなかったら座って描く。寝たきりなら寝て描く。実際にそうなったらできないかもしれないけど、

とにかくそういう方針だ。でも、こういう方針て、当たり前かもしれない。引退制度なんておかしい。命を懸けるとは生涯を懸けるということだと思う。それ

は死ぬまでやり続けるということではないのか。

 

13年8月29日

グループ展でも公募展でも多くの人が集まって展覧会をやるということは、一大事業だ。

いろいろな意見があり、みなそれぞれが一家言を持っている。主張がある。自分の絵を悪いとは思っていない。

だいたい展覧会は金にならない。お金を使うだけ。それが宣伝費になれば納得もできるが、そう簡単には「宣伝」にはなってくれない。期待しない方がいい。

しかし、大切なことは、みんなが集まって展覧会をやる以上、譲歩しなければならない。和を壊してはいけない。穴をあけてはいけない。それが出来ないの

なら参加しないことだ。

六本木の国立新でやる等迦会でも儲けている人は一人もいない。みんな忙しいなか、頑張ってやっている。出品する人はお客様ではない。当り前のことなのに、

私だって、最近やっとわかってきた。もちろん、私の場合、和を乱すような言動はしていない、と思う。だけど、お気楽なお客さまだったことは認めざるをえ

ない。

まことに申し訳ありませんでした。

それでも10年以上飾り付けの協力だけはしてきた。ブログにも書いたように力仕事は嫌いじゃない。

公募展などはお金も出して労力も出すのだ。それが美術団体だ。

わかっていない人がたくさんいる。誰も儲けていない。くれぐれもご理解いただきたい。

プロとアマは違うというけど、私だってなけなしの金を50万円出して銀座で個展を始めたのだ。それは投資かもしれない。自分自身に投資した。言ってみれば

勝負をしたのだ。命がけの勝負だった。命を掛けるから絵だってよくなる、と思っている。安全地帯にいて絵だけ上手だから、グループで持ち上げられるのは

当然とお考えなら、それは本当のいい絵ではない。上手なだけの絵だ。賞をもらったら100倍働かないとダメ。

わが等迦会でも新人賞(初出品最高賞)をもらった人で残っているのは私ぐらいかもしれない。みんな止めてしまった。まったく義理も人情もない。

 

13年8月22日

ブログ(8月16日)に「若いころはドガやモネになる気でいた。本気だった」と書いた。そして2〜3行後に

「われわれはドガにもモネにもなれない」とも書いてある。

しかし、絵を描くことはできる。目があって、手がある。キャンバスがあって絵具があり筆がある。すぐ描ける。

いくらでも描ける。ドガやモネにはなれないけど、ドガやモネのように絵を描くことはできる。その出来た絵が

どうか、という話は二の次のことだ。

わが絵画教室のキャッチコピーは「描いているときは、みなゴッホ」だけど、ゴッホはドガでもありモネでもあ

るのだ。牧谿でもあり雪舟でもあり鉄斎でもある。描いているときは同じだ。われわれは現生人類だ。生物学的

にはほぼ同じなのだ。

絵を描くとき、先人を慕うのはとても効率がいい。幼子が親を慕うように慕えばいい。ただただ後を追えばいい。

そうすれば、絵の世界の面倒なしがらみがすべて忘れられる。つまり、絵が売れるとか、名前が出るとか、入選

とか、受賞とか、画壇のなかのステイタスなどなどだ。全部下界の世迷言である。

ああ、この秋も先人の展覧会が続く。ミケランジェロ、ターナー、上海博物館━中国絵画の至宝など。ミケラン

ジェロはまさか数メートルの大彫刻が来るとは思えないけど、この前のラファエロもよかったからけっこう期待

できるかも。

どんどん見に行って、心から敬慕しましょう! そして生粋のクラシックからどんどん学びとろう、盗みとろう。

直接教えを受けよう。絵はそれが出来る分野なのだ。とにかく、少なくとも、先人たちに負けないぐらい絵を描

くこと、たくさん描くこと。よく見ること。これだけは誰でも出来る。

 

13年8月15日

いよいよ秋の展覧会が始まる。最初は悠遊展(8月下旬)。

絵画教室の作品発表だけど、出品者の多くの人が等迦展にも出すので「等迦会東京多摩支部展」も兼ねている。

悠遊展に出したから等迦会に必ず出品しなければならないわけでは、もちろん、ない。

次に南青山のギャラリー・ウーゴスで昨年に続いて第2回個展(9月下旬)をやる。

さらに愛知県の豊橋展(10月上旬)と続く。

で、今年のテーマだけど、そろそろイッキ描きのコンセプトをまとめる時期かもしれない、と思っている。

イッキ描きは、ドーミエ、ロートレックなどの油絵クロッキーに倣っている。それはモネの「印象・日の出」などとも共通だし、

ゴッホの諸作品も同じ姿勢で描かれていると思う。下描きをイッキにタブロー(本画)にまで高めてしまう、約100年前のヨーロッ

パに生まれた画法だ。対象を見た直の感動をキャンバスにぶつける。

仮にこの画法をイッキ理論(1)ということにしておく。中国南宋の水墨画も同じ姿勢で描かれたと思う。ただしこっちは約1000

年前。一桁時代が違う。

美術を独立した分野と認めない考え。これは萬鉄五郎と同意見だった。だから萬理論(2)と呼ぶ。

さらに、絵は誰かのためとか何かのために描くものではない。これをドガ原理(3)と呼ぶ。ドガの「絵画とは、生命をその特殊

性において要約することだ」という主張をドガ理論(4)とする。

これに関連して「生きることには意義がない」というニヒリズムの主張にも関連がある(5)。

また、道元の「修行をすること自体が悟りである」(修証一如)という教えを道元理論(6)と呼ぶことにする。

以上6つの理論や原理を土台として、死ぬまで描きまくる。これがイッキ描きの言い訳である。最後が言い訳でゴメン。

 

13年8月8日

8月6日(火)の『なんでも鑑定団』に金属の工芸品「煙草箱」が出た。3百50万円との評価。海野勝a作とのこと。

海野は工芸を芸術まで高めた人。紙に筆で絵を描くなんて「仕事じゃない」と言って、宴会に絵描きと同席するのも嫌ったという。

私に言わせれば、紙に墨だろうと、キャンバスに油絵だろうと、出来るだけ描きやすい道具を使いたい。いくら描きやすくしたって、絵は

難しい。出来ない。銅板に鉄筆なんて、話にならないけど、中学生のころエッチングを習った。けっこうおもしろかった。

ま、「材料がどうの、画材がこうの」と言っているようではレベルが低い。絵の本当がわかっていない。もちろんわかっていても全然描け

ないけどね。で、わかっていないから描けないかというとそうでもない。

でも、わかった方が楽しい、と思う。絵の世界は無限の喜びを与えてくれる。どうせ暇で長い人生なんだから、先人の苦闘と歓喜の世界を

味わうのは、趣味としては悪くない。自分の気に入っている絵の値段がいくらなのか、血眼になって調べたってつまらない。よ〜く頭を冷

やした方がいい。気に入った絵を毎日眺めて暮らす。これが大名暮らしだ。ロイヤルライフだ。

その絵が本物かどうか、値段がいくらか、なんて二の次のことだ。鑑定団に出てくる人のほとんどは美術のことなんてまったく知らない。

無理だよ。何も知らないで何百万円も出しちゃうんだから。気がしれないね。

 

13年8月1日

7月30日(火)に桜木町の横浜美術館に行った。プーシキン美術館展を見た。

プーシキン美術館展は、今までも何度かあり、都美術館でもやった、と思う。何年前だったのだろう? マチスとピカソの大画面が並び、

壮観だった。まったくマチスやピカソの脳みそのなかを見せられる感じだった。2005年の展覧会ではない。もっと昔の展示だったと思う。

今回、私が見たかった絵はプッサンの『アモリびとを打ち破るヨシュア』。男性像ばかりだけど、やっぱりプッサンはよかった。なんか画

面が赤っぽい。父が押していたヴーエという画家の絵も来ていた。バロックのフランス人画家だ。これもいい。『恋人たち』。抱擁する直

前の二人を描いている。抱擁は構図がむずかしく、だいたい男が邪魔になる。クリムトやムンクやピカソが苦労している。ロダンなんか、

女同士の抱擁を描いている。女同士なら男は邪魔にならない。ヴーエの絵は抱擁ではなく、その直前のポーズ。これも上手い構図かも。

そこからロココの絵がずらずら並ぶ。職業画家の月並みな絵だ。退屈。アングル、ドラクロワぐらいからまたよくなる。

コローの『突風』は父が画集で発見して絶賛していた。その実物をじっくり見た。

印象派はとてもいい。モネもあった。ドガもあった。ロートレックもあった。

ゴッホの絵は愛すべきもの。

ヴュイヤールは30歳ぐらいのときの庭の絵だったが、色の使い方をよく心得ている。コバルトブルーが効いていた。隅々までよ〜く見てき

た。

今回もマチス、ピカソがあり、以前のような大画面ではなかったけど、傑作。プーシキンはマチス、ピカソの宝庫かも。

そのあと、前から行きたかった原鉄道模型博物館に行った。楽しかったけど、もう行かない、と思う。埼玉県の大宮の鉄道博物館もまだ行っ

ていない。そのうち行きたい。

 

13年7月25日

なんとか新しいパソコンも操作できるようになったけど、まだ文字化けなどがある。申し訳ない。難しいね。

私は絵だけで生活しているわけではない。マンションの管理人もやっているし、小さな絵画教室の講師もやらせてもらっている。キャンバ

スも売っている。少し前は雑誌に美術記事も書いていた。だけど、絵を買ってもらわなければ暮らしてゆけない。画料はわが家の貴重な収

入源だ。まったく見知らぬ人に買ってもらうのだから、超マイナーだけど「プロの画家」と言えなくもない。

しかし、私の考え方は一般の画家とは全然ちがう。それは、絵の図柄が具象とか抽象とか、作品全体がコンテンポラリーとか立体とか、そ

ういう問題ではない。

もともと私は美術という分野を否定しているのだから、芸術大学の偉い先生と同じなわけがない。当然、私は自分を芸術家などとは思って

もいない。

私は一人のクソジジイだ。ただの貧乏人だ。請求書や集金人におびえるビビリ野郎だ。

また、仏教の入門書をいっぱい読み、今は『正法眼蔵』を持ち歩いているけど、仏教徒ではない。はっきり言って無信仰だ。多くの日本人

と同じ。しかし、自慢ではない。信仰を持てないことはむしろ劣等感に思っている。

絵を描くことは生きる術である。水泳やウォーキングや体操も、すべて生きている方法であり、現実であり、苦しみであり喜びなのだ。

萬鉄五郎の言うように、一筆一筆の間に練っているだけだ。

信仰はないけど、絵画教はあるかも。絵画教は仏教もキリスト教も入っている。古代ギリシアの宗教も混ざっている。絵や彫刻による信仰

だ。そういうものならある。美術の美は信じている。幻想でも錯覚でもいい。修練と信仰によって生まれた人の業だ。

絵は描くことそのことに意義があり、作品はおまけだ。天の恵みだ。それを買ってもらうのは、さらに続けて絵を描いて暮してもいいとい

う思し召しだと思っている。まこと、お布施、惜福、お情けである。

 

13年7月18日

新しいパソコンになったため、うまく操作できず、更新が1週(7月11日の分)お休みとなってしまった。

昨日12年前の自分のホームページの文章を読んでいたら

「私は油絵でクロッキーをしています。裸婦も風景も動物も花もすべてクロッキーモードで筆を取ります。クロッキーとは言っても私のク

ロッキーは練習ではありません。制作です。だから勝手に『スーパークロッキー』と名付けました。心意気はクロッキーですが、一番勝負

という気持ちです」という文章に出会った。

いっぽう、最近友人に出したメールでは

「大っぴらには言えませんが、私は裸婦を制作として描いていません。内緒ですが、私は練習だと思っています。」

と書いている。

大っぴらには言えず、さらに内緒なのだからここで告白してはまずいのかもしれない。

ま、しかし、どっちが本心なのか自分自身でもわからない。

制作(作品として描いた絵)と習作(練習で描いた絵)との違いはどこだろうか? ある意味、私はすべての絵を制作として描いている。そ

れが証拠には安物の画材は使わない。どこで「いい絵」が出来るかわからないからだ。

そういう意味では、演劇やスポーツとちがって、絵は有利だ。上手く行った瞬間を本番とすればいいのだから楽だ。浅田真央が聞いたら「そ

んなのズルい」と言うかもしれない。引退した魁皇だって稽古場では無敵だったと聞く。本場所に弱いのだ。

絵の場合、無意識で描いていた絵が突然作品として独立したモノになることがある。それは描き手の預かり知らぬこと。私はそういう絵が「い

い絵」だと思っている。私のやり方は陶器などの焼き物に近いかもしれない。もちろん、作り手は必要だ。とても大事だ。だけど、作り手の

気持ちなんか超えてしまうところに絵画の価値があると思う。

 

13年7月11日

<新しいパソコンになったため、うまく操作できず、お休みでした>

 

13年7月7日

テレビでデッサンコンテストみたいなのをやっていた。お笑いのレーザーラモンHGが優勝した。漫画家の江川達也と争っていた。

月曜日にはNHKで城戸真亜子が中尾ミエ、内藤大助(元ボクシング世界チャンピン)を生徒にしてアジサイの絵画教室をやっていた。番組

で自分の絵も紹介していた。羨ましい。

さらに同じ日、別の番組で、北朝鮮の画家が紹介されていた。

ああいうのを見ると、絵って本当によくわからない。

絵は上手さではない、とも言われるけど、負け惜しみのような気もする。

「上手い」と言うと私がいつも思い浮かぶのは洋画の小磯良平と日本画の川合玉堂だ。川合玉堂はついこの前もNHKの日曜美術館でやって

いた、と思う(新聞の番組表で見ただけ)。

それにしても、北朝鮮の大画家の絵はいただけない。私が慕うフランスのヴュイヤールの絵などとはえらい違いだ。

今も川合玉堂を検索していたら玉堂の絵に混ざって仙高フ蛙の絵があったけど、私には仙高フほうが俄然いい。チラッと見ただけなのに、な

んだか故郷に帰ったような、うれしい気持ちになった。

でも、城戸真亜子のアジサイは上手いとは思えなかった。いいとも思えない。全然魅力がない。

最初に書いたレーザーラモンHGのデッサン番組は「中居正広のミになる図書館」。以前にも見た。今回レーザーラモンHGは調子のテクニッ

クを身に付け、見違えるように上手くなった。画家を目指す画学生なら高校生ぐらいのときに修得する技法だ。

「芸者する身と油絵描きは色と調子で苦労する」と唄われる。

私は、調子を知ったら、その調子をどうやって壊すか、が肝心だと思う。その破壊が絵画のポイントになり、魅力になる。そこに絵描きの意

地がある。

わかるかなぁ〜。たぶんわからないと思う。

ま、そういうゴチャゴチャした問題ではなく、結果としては、いかに真剣に集中してたくさん描くか。いかに多くの名画を見て歩くか、だけ

どね。

そうやって生きてゆけばいいのだ。いやでもそのうち死ぬ。

入選も受賞も、売れるかどうかも、文化勲章も、そういうのは全く関係ない。邪魔だ。うざい。

でも、テレビでデッサンや絵の教室みたいな番組をやってくれるのはとても嬉しい。面白い。

 

13年6月27日

もう6月の末だ。去年の南フランスは充実していたなぁ〜。何も考えずに絵ばかり描いていた。よかったかもしれない。でも裸婦は描けなかっ

た。絵も人体がないと寂しい。どうしてだろう?

私は父に「お前に裸婦なんて描けるわけない」と言われ、しばらく人体を描かなかった。致し方ないから動物ばかり描いていた。ちょっと

した動物画家だった。

家内が近所でクロッキー会があると聞いてきたので、行ってみた。そのころもまだ父親は生きていたけど、遠くに住んでいるので関係ない。

その後、町田市立国際版画美術館のアトリエが借りられると知り、モデル協会に裸婦を依頼するようになった。しばらく大きな紙に鉛筆で

描いていたが、その後油絵も使えるとわかり、裸婦の油絵クロッキーを始めた。もう20年以上やっているはずだ。

裸婦は面白いけど、ほとんどまったくうまくゆかない。納得する絵ができない。

絵の出来よりも描く行為そのものに価値があると言っているけど、大量の地塗り済みキャンバスを用意して、体調も整えて、全身全霊でヒ

ーヒー言って、描き上げた絵が全滅、なんてこともある。泣くしかない。自分の非力にうんざりする。

ま、しかし、いっぽうこんなにやりがいのある行為もない。風車にぶつかってゆくドンキホーテか。

もちろん、極たまに、会心の作も生まれる。勘違いかもしれないけどね。

 

13年6月20日

ユーチューブの「絵を比べてみる」シリーズが頓挫したままだ。

「モネとルノワール」以降全然進んでいない。家内に印象派路線で行けと言われ、何か嫌気がさしてしまった。62歳で反抗期か?

印象派路線より、今後開催される美術展路線のほうがいいと思う。最近ならラファエロ。ラファエロ展はもう終わってしまったから、次の

大きな美術展はプーシキン展か。ロシアのプーシキン美術館のコレクション展だ。今日前売り券を注文した。7月6日から始まる。目玉はル

ノワールの『ジャンヌ・サマリーの肖像』らしいけど、私のお目当てはプッサンとアングル。パンフにはなかったけどドガも来るかもしれ

ない。

とにかく、ユーチューブでは、取りあえずプッサンをやりたい。今月中にできるだろうか? もう本気で始めないと、このままずっとやら

ずに終わってしまう。

ギリシア美術展もある。

なんでもいいから始めないと始まらない。おかしかったら消してやりなおせばいいのだから、くよくよ悩むことはないのだ。完璧主義だと

何にもできない。反完璧主義の代表がイッキ描きなんだから、どんどんアップしてゆくべきなのだ。

 

13年6月13日

どうしても、もう一度、彫刻家・木内克(1892〜1977)の言葉を確認したくなった。

昨日のクロッキー会で考えていた。

この言葉の原典は「彫刻60年・木内克展」のカタログの後半の「作者の言葉」の(1967年)にある。

要旨は彫刻家のデッサンが一番すごいと言っている。彫刻よりもより純粋だと語っている。それをロダンの彫刻とデッサンを比べて、「作

者の精神の深奥に、より近づいている」と書いてある。

その後、現代の日本画壇の線の弱さを嘆いている(この部分はどうでもいい)。

デッサンが凄いという点について、それは絵でも同じことが言える。一番顕著な例がラファエロの『アテナイの学堂』のミラノにあるデッ

サン(カルトン)とバチカンにあるフレスコ画だ。デッサンのほうがはるかに素晴らしい。だって、デッサンがラファエロがその手で描い

ているけど、フレスコ画は弟子も手伝っているからだと推測できる。それに、木内の言うとおり、デッサンは「激しく純粋」だからだ。

私のイッキ描きは、このデッサンの純粋さで油絵(タブロー)をそのまま仕上げてしまおうという魂胆なのだ。

何度も言っているように、わがイッキ描きは私がオリジナルではない。ゴッホだってイッキ描きだし、ロートレックだってイッキ描きだ。

中国の水墨画はほとんど全部イッキ描きだ。

昨日裸婦を描いていて、こんなに面白い描法はないと思っていた。描いているその瞬間に自分の思いがそのままタブローになるのは実に気

持ちがいい。合理的でダイレクトなやり方だ。

まったく絵って楽しい。

 

13年6月6日

去年の今ごろフランスに行ったなぁ・・・

ああ、フランスでお世話になったオランダの人に何もしていない。ご恩返しは無理だぁ〜。情けない。この日本でもいろいろな方にお世話

になりっぱなしだ。もう、こんな身ではどうにもならない。お手上げだ。心の中で謝りながら図々しく生きてゆこう。嫌だね。

絵を描くのは素晴らしいことだ。特に私の描き方は最高かも。

だって、バラ園に3時間もいて、ずっとバラと対峙しているのだ。こんな楽しい時間があるだろうか? 空気もいいし、大きな木々に囲ま

れた素晴らしい場所だ。ただ、上空に高圧線があるのが欠点。臭かった隣の養鶏場はほとんどなくなった。実験のために少しだけ残ってい

る。

海に行ったって、何時間も海風に吹かれている。もちろん空気もいい。マイナスイオンもいっぱいだろう。

絵なんてどうでもいいのだ。そこにいるだけでハッピーではないか。バラ園とか海に何時間もいる観光客は滅多にいない。バラ園の世話係

りさんとか漁師さんには負けるなぁ〜。

裸婦のクロッキーも、考えて見れば長い間女性の裸を見ている。すぐそばで見ている。夫婦でもあんなに相手の裸は見ないと思う。

そのうえ、バラ園でも、海でも、クロッキー会でも、あまりにも当たり前だけど、絵を描いている。最高のキャンバスに最高の絵具で描き

捲くる。ああ、ありがたい暮らしぶりだなぁ〜。まことに申し訳ない。

どうして、こんな暮らしになってしまったんだろうか? こういう羽目になっちゃった。もしかすると、宝くじの最高賞を取ったぐらい幸

運な人生だったかもしれない。まだ過去形に出来ないところがありがたい・・・かな? とにかく、もうしばらく描かせていただく。

 

 

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