唇 寒(しんかん)集39<12/8/2〜12/27>

 

12年12月27日

クロッキー会で絵を描いているとき、いろいろなことを考える。

昨日は、諺の「女は女に生まれる、男は男になる」というのが思い浮かんだ。

たとえば20歳の男女がいると、20歳の女性は立派な女である。しかし、20歳の男は独立した男である可能性は薄い。少なくとも私が20歳の

ときなど、まったく話にならないガキだった。それでも、私は18歳で高校を卒業してすぐに新宿の新聞配達店に入ったから、たった半年の

経験だったけど、他の18歳より相当凄まじい思いをした。ヤクザとオカマの間で超過酷な労働を食らった。性的経験をしたわけではない。

ただ、そういう人たちに囲まれて暮らしただけだ。まったく世間には凄い世界がある。

20歳の男でも性的欲求は普通にある。女性に近づきたいといつも思っている。だけど、当然だけど、男は妊娠しない。妊娠するのは女性で

ある。ここに、男女の大きな違いがある。

クロッキー会で裸婦を描いていると、不思議に気になる。女性の身体は男にとってとても魅力的だ。そのうえ、母親になる機能に満ちてい

る。こんな当たり前のことを考えると、女性ははじめから責任ある性を持っているのだと思う。男はだんだん成長して、頭で考えて責任あ

る生き物になってゆくのだ。「40歳からの自分の顔に責任を持て」などという諺もあった。

それにしても、クロッキー会で必死で絵を描いている最中に面白いことを考えているものだ。手や身体はとても忙しく絵具を出したり、画

溶液を継ぎ足したり、2分ポーズでは墨も磨らなければならない。とても忙しい。そのうえ、アトリエの予約をする日もある。クロッキー会

の3時間は目くるめく3時間なのだ。それなのに、男と女の生まれについて思ったりしている。おかしい。

 

12年12月20日

しかし、絵の出来が面白くなければ、やっぱり続かない。会心の作は年に1度か2度だ。1度か2度だって30年も描いていれば、50〜60枚ぐら

いにはなってしまう。立派な画集が出来ちゃう。

それでも、私は出来よりも描く行為が優先すると思う。いくら絵の出来が継続の秘訣とは言っても、行為が重大だと思い込んでいなければ、

嫌になってしまう。年に1度か2度ではあまりにも淋しい。少ない。私は600枚の油絵を描くのだ。600枚のうち2枚では情けない。

会心作とまでは行かなくても合格作ならもっと多い。自分は並だと思っても、他の方が評価してくださる場合も多い。自分ではわからない

のだ。

私が絵を描く方法や気持ちは、音楽のJポップのシンガーソングライターに近いかもしれない。だけど、絵は一枚一枚描くのだから、複製

コピーが無限に出来る音楽とは根本的にちがう。しかし、それは利益とか収入の問題で、創作の方法やキッカケはそれほど変わらない、と

思う。

絵はとても金にならない創作活動だ。だけど、絵が描きたい、筆を使いたい、絵具を塗りたいなどと願う以上、そういう行為を欲求する以

上、もう止めるわけにはいかない。致し方ない。もちろん、私がJポップを作ったからって売れる保障はない。多分絶対売れないと思う。

絵のほうが競争相手が少なくていいかもしれない。まったく、絵を売っている画家で、Jポップみたいな感じで絵を描いている画家はほと

んどいない。本当に私ぐらいかもしれない。

 

12年12月13日

この前のクロッキー会のとき、不思議な幸福感に満たされた。むろん、絵の出来が特に素晴らしかったわけではない。絵を描いている自分

がとても幸せだったのだ。

裸婦を描くのは特上の喜びなのだ。きっと私の全生活はこのクロッキー会のためにある、と思った。マンションで管理人をやるのも、朝水

をかぶるのも、苦しいほど泳ぐのも、その他、いろいろと健康を維持するために頑張るのもすべてはこのクロッキー会のためにある。

で、それなら、毎日クロッキー会をやりたいとか、この楽しいひと時が永遠に続けばいいなどとは思わない。

クロッキー会はとても疲れる。月2回で十分。月2回だからこそ集中できる。

美術研究所にいた頃は毎日描いていた。あれはトレーニングなのだ。クロッキー会は試合だ。本場所だ。これはそう何度も出来ない。月2回

だから燃焼できる。燃え尽きるほど熱中できる。

ちょうどいいローテーションなのだ。

まったくクロッキー会の3時間は不思議な3時間だ。生死を越えているし、善悪も超えている。暮らしもないし、愛憎も消える。ただただ絵

具にまみれ、筆を揮う3時間だ。確かに楽しいのだけれど、喜怒哀楽さえも超えている。クロッキー会の私こそが本当の自分の姿かもしれな

い。そんなこともどうでもいい。

格闘の中にいるけど、充実と至福に満たされている。まさに永遠のなかにいるのだと思う。

 

12年12月6日

具象を描く絵描きは、画題表現に悩む。悩みがあるということは、モチーフがあるということだ。これは、きっといろいろな商品の営業販

売戦略より面白いかもしれない。

われわれは、ピカソもマチスもミロもカンディンスキーも経験してきた。そういう20世紀の非具象をたくさん見てきた。結論において、

すべての絵画は抽象である、と知る。それを知ったうえで裸婦を描いたり風景を描いたりしている。裸婦や風景や花は、絵を描くためのキ

ッカケに過ぎないのだ。キッカケとは、すなわちモチーフである。

モチーフとはモチベーションでもあるわけだ。

等迦会に出したり、個展を繰り返しやるのはモチベーションの維持に繋がっている。絵を描くことが目的である。特に若いころに高いモチ

ベーションを維持するのは難しい。

若いころのほうが難しいというのが、面白い。私ぐらいの歳になると、絵を止める可能性はほとんどゼロだ。私には絵しかないもの。むし

ろ、「絵がある」ってことは特上の幸せかもしれない。

この6月には、新しいモチーフを求めて南フランスに行った。ちょっとした冒険だった。大量の画材を送り込んで、作画三昧の1ヶ月を過

ごした。実に面白い。病膏肓に入ってきた、かも。

 

12年11月29日

28日のクロッキー会のモデルはよかった。次回もお願いした。

裸婦を描いているときが、一番幸せだと思う。いつも父親に「やーい、羨ましいだろ、死んじゃったら描けないもんね」と心の中で言って

いる。同じように、ドガにもロダンにも古代ギリシアのフィーディアスにも悪態をつく。みんな死んじまっている。死んだら絵は描けない。

生きているから描けるのだ。この喜びは果てしない。

しかも、大好きな裸婦が描ける。先週の続きじゃないけど、私は正直裸婦が好きである。世の中の男のほとんどは裸婦が好きだと思う。だ

けど、一般には、不特定多数の女性の裸は見られない。犯罪になる。

私が子供のころには風呂屋に三助というのがいて、男湯も女湯も自由に歩き回っていた。番台からも女湯は見られる。そこで「湯屋番」と

いう落語がある。番台に上る妄想から、その仕事をゲットし、挙句に番台から落ちてしまう。

男はみんなそれぐらい女性の裸に憧れる。

私はそれを自由に見られ、しかも油絵に描けるのだ。出来た絵をたまに買ってもらえる。私はなんという幸せな人間なんだろう。これ以上

の幸福はない。

借家に住んで、最低価格のバナナを食って(昨日の100円バナナは旨かった)、みかんも一番安いヤツ。でも、絵が描ける。ありがたい。

父親が言っていた。「絵描きになんてなったって碌なことない。だけど、歳をとったとき、やることがなくて困る、ということがないから、

ま、描いておけ」

若い頃は何言ってんだかさっぱりわからなかった。最近やっとわかってきた。

 

12年11月22日

21日からマチス会展があり、26日からラジオの放送が始まる。私は28日のクロッキー会で頭がいっぱいだけどね。地塗りした13枚のキャン

バスを毎回用意するのはハンパない負担なのだ。

ご存知のように、私は裸婦をいっぱい描いている。クロッキー会で何十年もモデルさんをお願いしてきた。何枚描いたかわからないし、何

人のモデルを見たか見当も付かない。

裸婦のモデルは当然女性である。だいたい若い人が多い。つまり若い女性の裸を描いてきたわけだ。

だから、私はエロ爺と思われても致し方ない。実際は品行方正だ(と思う)けど、多くの人が疑っている。疑うほうが当然だ。

しかし、私は、実際の裸婦を見ている関係もあり、エロ雑誌とかはほとんど見ない。まったく興味がないわけではないけれど、わざわざ見

ることはない。買うことは絶対にない。

だけど、もともと裸婦はエロい王様や貴族の要望で描かれた。禄でもない動機が根底にある。しかし、画家はどうかというと、裸婦を描け

る喜びで筆を揮っている。もちろん、絵のパトロンがエロ爺で画家だけが純粋だと言っているわけではない。

画家だって十分エロい。でも、人体創作の喜びは人類共通の欲望である。これは性的欲望との共通部分がないとは言わないが、性的欲望を

乗り越えないと制作できない。ここのところをご理解いただきたい。若い女が目の前で、裸で寝そべっていたら、だいたいの男は絵なんて

描いていないだろう。そんなバカバカしい作業はしない。別の行動に走る。それが理の当然だ。だから、そういう意味でも人体作家は偉大

なのかも。

 

12年11月15日

ブーダンはモネの先生だ。ブーダンの小品『トルーヴィルの浜にて、嵐の効果』は傑作である。私の20歳代の前半に中央公論から出た「世

界の名画」の廉価版を買って見た。本物は見ていない。ワシントンにある(らしい)。

ああいう絵は滅多にできない。狙っても出来ない。画家の暮らしと心情と体調などが最高潮に達して、そのとき筆を持ってキャンバスの前

にいなければならない。このタイミングはあまりにも難しい。

イッキ描きは、そういうチャンスをいつも狙っている。狙っているけど、狙い通りには行かない。

だから、ヴュイヤールみたいな穏やかな筆致を心がける。

でも、「わっ、綺麗だなぁ〜」と思った瞬間に筆を持っていたら、可能性はある。やっぱり対象に、心底感動することが傑作のヒントだと

思う。ブーダンも、ある浜で見た嵐に感動している。

以前からの自説だが、今の東京の風光はとても綺麗だ。空気が乾燥していて、透き通っている。この前も、夕方、紅葉した樹と柿の実と夕

陽が重なり合って、素晴らしい光の合唱を見た。そのときは用事で描けなかった。まったく、源氏物語絵巻みたいな色合いである。現実の

風景は空気の層などもあり、もちろん三次元空間だから、途轍もなく美しい。この世のものとも思えない。

だけど、柿の実は落ちてしまうし、光の状態も変わる。私の精神状態も変化する。なかなか時間的なチャンスもない。実に難しい。しかし

数年の余裕を持って、あの光景を絵にしようという下心はある。ま、絵なんてどうでもいい。あの景色の前に筆を持って立ってやる、これ

が私の野望である。つましい野望だなぁ〜。

 

12年11月8日

ブログでも何度も述べているが、まったくヴュイヤールの筆致は魅力に富む。

大学のときパスカルのゼミで講義してくれた先生は安井源治という。この先生は講義中にタバコを吸う。現在では考えられない行為だ。そ

のタバコの吸い方がとても魅力的。

タバコを口の真ん中にくわえる。映画監督の市川昆みたいだけど、あんなにせかせかしていない。悠然としている。当時としても古臭いけ

どマッチを擦る。なぜかマッチの根元を持ってゆっくり擦る。火傷しないかと心配になるぐらい根元だ。そして、旨そうに一服する。

ああいう所作はどうしても真似ができない。私は市川昆の数倍せかせかしている。もちろん、私はタバコを吸わないけど、いろいろな動作

が貧乏臭い。子供のころからずっと貧乏なのだから貧乏臭いのは致し方ない。ただ、絵の画面に貧乏臭さは困る。多分、高級な画材を使っ

ているからそんなに貧乏臭くはないと思う。まったく、家内が怒るけど、絵に関しては湯水のように金を使う。本当に申し訳ない。

 

12年11月1日

クロッキー会のときに考えた。絵って思うように描けないものだ。

基本的に絵は描けない。まずこのことをよくよく肝に銘じるべきだ。絵は描けないと知って、さらに描く。ここが苦しみでもあり、楽しさ

でもある。もしかすると偉大さ?

パスカルの『パンセ』に絵画についての考察がある。

「原物には誰も感心しないのに、絵になると、事物の相似によって人を感心させる。絵というものは何とむなしいものだろう!」(L40)

これにドガがコメントしている。

「このむなしさそのものが芸術の偉大さなのだ」

当たり前だけど、まったくドガは絵画のことをよくわかっている。本当に全面的に同意できる。

絵を描くのは、当然ながら作業である。作業である点が救いだ。そこがいい。何度も言うが、作業が重大なのだ。作業の結果(=作品)は

二次的なものだ。絵は作ろうとしても出来ない。作ろうとして出来る絵、画家が思いのままに仕上げられる絵なんてレベルが低い。画家の

絵画に対する意識が低い証拠だ。

われわれの作画作業は偉大な先人たちへのオマージュだ。思うように描けるはずがない。そこが物凄く魅力的なのだ。楽しいのだ。まった

く、男子一生の仕事だよ。

 

12年10月27日

本当は木曜日の朝に更新しなければならないのに、土曜日の朝になってしまった。来週はちゃんと木曜日の朝に更新する予定。

絵を買っていただく方の趣向と描く側の気持ちが一致しない話や、描くときに色彩よりも形を追っている話は、このホームページでも何度

も繰り返しているが、ラジオ収録のなかでも、この話題になった。

ラジオの話はラジオでお聞きいただきたい。ここでは別なアプローチをする。

ボナールは「色彩は理論である」と言った(らしい)。昔のボナール展のカタログの「ボナールの言葉」に書いてあった。もちろん、私は

ボナールの言葉を信じてきた。自分勝手な解釈かもしれないけど、色彩は左脳の問題と言っているのだと思う。ゴッホが毛糸で色彩研究を

した話も有名だ。色彩は研究するものだ。

しかし、デッサン(=形)は、線の鍛錬だと思う。形を追うことが結果として線の鍛錬になる。絵は、形の取れ具合ではない。結局は抽象

的な線描の魅力が大切だ。しかし、それは形を追っての結果であるべきだ。

形を追って魅力ある線描に達するのは容易ではない。何十年の歳月がいる。直感的に、エゴンシーレなどは、若くしてそのことを知ってい

た。シーレの線描は形の向こう側に向かっている。到達していたかどうかはわからない。だけど、グングン向こう側を目指していた。その

気迫が素晴らしい。

ところで、今回のキムタクの月9(月曜9時のドラマ)は面白そうな感じ。超久しぶりに面白い月9になりそうな気配。フジテレビさん、お

めでとうございます。

 

12年10月18日

先週は豊橋展のためこの更新を一回お休みしてしまった。一応ブログではお断りしたが、このページでは無断欠勤になった。申し訳ござい

ません。

前回はまだ南青山で個展をやっていた。今は豊橋展も終わって、溜まっているマンションの仕事を消化している。まったく休みがない。プー

ルも行けない。だけど、四六時中仕事に追われているわけではない。マンションの管理人も、言ってみれば留守番ジジイだ。激務ではない。

でも、ここのところけっこう忙しい、かな?

豊橋では予想以上に大きな絵を買っていただき、当分家賃の心配がなくなった。等迦会の会費も払える。ロールキャンバスも買える。

ウーゴス展から半月個展に追われていたけど、終わってみると、自分がいいと思っていた絵はほとんど売れなかった。自分の好みとお客さ

んの趣向はちがうものだ。びっくりした。やっぱりフランスで買ったキャンバスだと発色が悪いのだろうか? 油絵では発色がとても大切

らしい。本心、私にはよくわからない。描いているときは、ほとんど形を追っている。バランスばかり考えている。最近色彩をお褒め頂く

ことが多くなったが、色のことなど仕上げのときにちょっと気を配るぐらいだ。色調は、ほとんどパレットの偶然で決まる。

私の思っている色彩の最高は『源氏物語絵巻』。現在私が実践している理想は『伴大納言絵詞』だ。豊橋展で最後に買っていただいたP8は

『源氏物語絵巻』に肉薄したと自分で勝手に思い込んでいる。きっと私の思い込みだと思う。

 

12年10月4日

いま南青山のギャラリー・ウーゴスで南フランスの絵の個展をやっている真っ最中だ。

思えば、よく帰って来れたものだ。とにかく、私がいま自分の家にいるのは、南フランス在住のオランダ人のおかげ。いい加減な私をちゃ

んと帰してくれた。絵も日本に送ってくれた。

まったく、自分の家の近所を歩いていても、「本当に、よくここを歩いているなぁ」と感嘆してしまう。ついこの前は地球の裏側にいたの

だ。とんでもない山の中だ。もちろん山の中と言っても山岳地帯ではない。自動車が走れる道路があり、街もある。だけど、遠かったぁ〜。

やることがないから絵ばかり描いていた。不安で怖かったけど絵を描くしかなかったのだ。

素晴らしい修行をさせていただきました。

もし、絵が経験だとしたら、ウーゴスに飾ってある私の絵は南フランスの不安と恐怖、いっぽうまた夢のようなパラダイス経験の凝縮だ。

もちろん、もう二度と描けない。

 

12年9月27日

9月22日(土)に『キングオブコント2012』を見た。ムチャクチャ面白い。笑いすぎて涙が出てくる。座っていられないほど可笑しい。抱腹

絶倒というけど、本当に倒れてしまう。

みんなとてもよく稽古をしてある。早口でいろいろな台詞をまくし立てる。ちょっとでもとちると、コント全体が壊れてしまう。生の舞台

だからやり直しは効かない。

コントの台本も自分たちで考える。私を抱腹絶倒させたグループは優勝しなかった。ただ面白いだけでもいけないらしい。社会性とか芸術

性が必要なのかも。あまりにも下品なネタでは通用しない。でも、私が見た8組は約3000組のなかから選ばれているのだから、物凄い倍率を

勝ち抜いたことになる。どの組が優勝してもおかしくないほどの実力を持っている。

台本も創案し、十分練習する。まさにプレイヤーコントライターみたいな(シンガーソングライターに沿って命名した場合)。まったく立

派である。目的が笑いだから、すべてが許せる。とても健全だ。もちろん、下ネタやあまりにも政治色の強いネタは嫌われる。

見ていると、とても楽しいし、3000組のなかから選ばれるのだから、とても立派だけど、どうしても粗い。まだ洗練されていない。伝統が

ないからかな? 歌舞伎でも路上で踊っていた阿国歌舞伎から出発したのだから、こういう新しいエンターテイメントを否定するつもりも

ない。むしろ大好きだ。ネタを十分練って、うんざりするほど練習しているのがわかる。それも危うい。裏の練習が見えるようではまだ不

十分。ま、文句を言ったら切りがない。こういうお笑いの人はみんなまだまだ若い。若いエネルギーに満ちている。そこもいい。

絵の話とまったく関係ないか。絵もいろいろ考えて、十分練習して、60歳、70歳を過ぎてからまともなものが描けるようになって、それで

も世に出ないで死んでゆく。北斎なんて、世に出た(どころか「世界の北斎」だ)けど、ずっと貧乏のまま。

ま、道元の言うように、活動そのものに意味があると思うしかない。孔子は世に出ないからと言って恨んではいけない。恨まない人こそが

君子なのだといっている。悟りを開くのも難しいし、君子になるのも不可能である。

 

12年9月20日

絵は描けば描くほど上手くなる。これは大前提だ。この前提が否定されるととても困るし、悲しい。いっぱいいっぱい描いてどれほどか、

という話だ。

たとえば、私は今まで何枚の絵を描いただろう? とにかく、若いころからたくさん描き続けてきた。だから、油絵具に慣れているし、筆

にも親しんでいる。それでも思うようには描けない。絵の具や筆に習熟しても、それは大前提だ。絵筆を使えるハードウエアがあっても、

それでいい作品が必ず生まれるわけではない。

ハードウエアのほかに、いろいろなクラシック作品を見てきた目もあるし、入門書ばかりだけど仏教や哲学も一応読んでいる。丹田呼吸も

しているし、自分なりに体調維持も心がけている。そういう全体的な絵を描くシステム、ハードウエアも含めた絵を描くシステムを持って

いると思う。

それでもまともな絵はなかなか出来ない。

出来ないけど、システムを維持して、スキルを高め続けなければ「絵」は生まれない。致し方ない。それが私の暮らしだ。こういう暮らし

に行き着いたことはハッピーかもしれない。ま、精神衛生上はとても安定している。作品制作上はいつも不安定だけど、こういう暮らしの

まま、これからも生きて、そのうち死んでゆくというプランは見える。このプランはそんなに悪くない。

 

12年9月13日

チェンジのオバマ大統領の苦戦が伝えられている。チェンジは簡単じゃない。絵描きのチェンジも楽じゃない。私はまったく考えていない。

私が裸婦を描くとき考えているのは身体のバランスと肉付けだけだ。もちろんそれだけでは絵は出来ない。あとはすべて偶然だ。だからた

くさん描く。「下手の鉄砲も数打ちゃ当たる」理論だ。もっと数学的に言えば確率の問題だ。

身体のバランスと肉付けだって上手く描けない。そのうえ、絵が厚く見え、透き通っていて、絵画としての存在感がある、となるともうお

手上げである。

絵の厚さや透明感、存在感などは具象絵画である必要もない。しかし、それは意図して出来るようなシロモノでないことは、もう十分知っ

ている。具体的なバランスや空間や量感を追っていて自然に生まれる厚み、透明性、存在感でなければ本物とは言えない、ような気がする。

私は11日に芙蓉を6枚描いて、12日に裸婦のクロッキー会で25ポーズ描いた。2日間で31枚も描いてしまうのだ。油絵は19枚だけだ。狙いは

厚み、透明性にある。だけど、本物の芙蓉や裸婦を見なければ、とてもあれだけの意欲は湧かない。

芙蓉は途轍もなく美しい。また裸婦も素晴らしい。まずそっちが先だ。それがイッキ描きであり、これをチェンジする予定は毛頭ない。少

なくとも当分ない。申し訳ないけど、私は歴史に残る画家になるために絵を描いているわけじゃない。描きたいものを描きたいように描い

ている。とても我が儘です。

ま、南仏の旅は確かに新しいチャレンジだった。しかし、チェンジではない。結果としてチェンジになったかもしれないけど、それは、私

の知らぬこと。

 

12年9月6日

ブログが絵の話になってホームページが仏教の話になってしまっている。私の構想とは真逆だ。

仏教の悟りは人であれば誰でも可能。絶対平等の立場である。身分はもちろん、年齢、国籍、性別など一切関係ない。誰でも仏道修行によっ

て最高の悟りを獲得することが可能だ。最高の悟りは国王や皇帝や大統領よりもハッピー。無上正等覚という。道元によれば、仏教に発心

しようとする瞬間が最高の悟りらしい。もちろん、その後の坐禅の最中はすべて無上正等覚の境地らしい。

絵と比較するのも申し訳ないけど、朝、芙蓉を描きに行こうと出かける瞬間が最高の境地なのかも。確かに、これはけっこう上等な心境だ。

何度も書くが、絵を描くのは面倒なのだ。用意してあるキャンバスも減ってしまうし、準備して出かけるまでに15分ぐらいかかる。絵具だ

らけの汚い服(洗濯はしてある)を着て、蚊と格闘しながら油と絵具にまみれる。マイナス面を上げれば切りがない。外で描くのはお肌の

健康にもとても悪い。南フランスでは毎日のように太陽に晒されていたので、私の腕は80歳のおじいさんのように干からびてしまった。さ

すがの私も「あれま」と思ったけど、61歳ならこんなものか、とすぐ諦めた。今は元に戻っている。

絵画教室の生徒さんも自分ではなかなか描かないという。自分ひとりで描くかどうかがプロとの境界かも。ま、売れなければプロではない

けど、ゴッホは生前全然売れてないから大丈夫。「プロ」と言わずに「本物」と言うほうがいい。もちろん、絵画教室でも描いている瞬間

はみんな「本物」だ。「描いているときは、みなゴッホ」なのだ。これも道元からのパクリだ。

人には四苦八苦(生、老、病、死=四苦、愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること、怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎ん

でいる者に会うこと、求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと、五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が

思うがままにならないこと=八苦)がある。

特に歳を重ねると死への恐怖が増大する。年寄りが不機嫌なのはきっとそのせいだ。だけど何かに熱中していれば四苦八苦から解放される。

熱中の瞬間は幼児でも老人でも変わらないと思う。

それにしても、幼児を見ていると、とてもよくモノに熱中しているなぁ〜。蟻とか月とか葉っぱとか石ころとか電車などにのめりこんでい

る。無上正等覚なのかなぁ〜?

 

12年8月30日

われわれは何になりたいか?

国王、皇帝、天皇、大統領、総理大臣、社長・・・

英国王には絶対になれない。日本人だし。

日本人というなら、天皇陛下のほうが可能性はある。だけど、やっぱり無限に不可能。

可能性としては一番が会社の社長かな。奇跡的に総理大臣とか、国籍を取ってアメリカ大統領とか、そういうのも絶対に不可能とは言い切

れない。

画家だったら、日展の一番偉い人。文化勲章授章。フランスに渡ってレジオンドヌール勲章みたいな。

などなど小学生とか中学生が理想とする一番はいっぱいある。

しかし、大人だと、諦めもあり、勲章貰った人の作品などを思い出すこともあり、もらっていない人の立派な作品もいっぱい頭に浮かび、

要らないかもと思ってしまう人も少なくない。

ま、絵描きの生涯の目標は「いい絵を描くこと」。この一点に向かうべきかもしれない。

しかし、「いい絵を描く」というのも、あまりにも漠然としているし、人生の目標としては嘘くさい感じもある。

第一、万人の目標ではない。絵描きに限られてしまうところが弱い。

お釈迦様の説はとても納得できる。つまり、人生の目標が悟りを開くこと、という説だ。これは万人共通で、いつから始めても問題ない。

そのうえ、道元禅師みたく坐禅をしていれば誰でも仏である。坐禅をしている瞬間は悟りの瞬間である、と言われてしまうと、もうグウの

音も出ない。負けだ。

老若男女、誰でも得られる最高の境地。英国王や天皇陛下やアメリカ大統領や総理大臣や日展の偉い人みたいに人数制限、国籍制限、血筋

制限がない。しかも、そういうヒジョーに疲れる名誉や地位でもない。

仏教はとてもいいかも。

 

12年8月23日

このホームページは木曜日の朝アップすることになっている。今日はすっかり忘れていた。今日の夜、表参道のウーゴスで個展の打ち合わ

せをやっているときに突然気がついた。

で、東京国立博物館のことを考えると、けっこう頑張っていると思う。ルーブルやスペイン・マドリードのプラドやロンドンのナショナル

ギャラリーに比べてもそんなに遜色はない。

だけど、台湾の故宮博物院なんかは桁外れに凄い。私は行ったことがない。だけど、いろいろな資料で故宮の凄さは窺える。死ぬまでに一

度は行きたいけど、無理かもしれない。その前に、行ってもお目当ての作品が見られるかどうかわからない。私は当然宋元の水墨画が見た

いけど、なかなか出していないらしい。水墨画は油絵みたく頑丈じゃないから致し方ない。何が展示してあるのかよくした調べをしてから

行かないと無駄足になる。噂では11月ごろに北宋の水墨画のいいのが出るらしい。明末の徐渭も見たい。

ああ、やっぱり、東洋の絵はいいね。

西洋の古典絵画と比べても、私には、まったく見劣りがしない。

西洋の古典絵画を否定する気はないけど、私は西洋かぶれではない。

 

12年8月16日

ヨーロッパの行きたい美術館を列挙して行けば切りがない。

ウィーンの美術史博物館やミュンヘンのアルテ・ピナコテークなども欠かせない。私は36年前に行った。

だけど、私は何度も言うようにギリシアに行っていないし、ベルリンにも行っていない。ベルリンにはベルガモンの浮き彫り彫刻がある。

また、イタリアのナポリにも行っていない。ナポリ美術館にはシヌエッサのアフロディーテがある。

ちなみに、イタリアにはギリシア彫刻の原作がいっぱいある。模作はその何倍もあるけどね。そういえば、ルーブルにも模作が腐るほどあっ

た。もちろん、模作だってギリシアの彫刻家が作ったらしい。2千年も昔の模作なんだから、文句はない。十分素晴らしい。しかし、原作は

さらにド凄い。ここのところを忘れてもらっては困る。

やっぱりギリシア彫刻は原作が見たいよ。

誰がなんと言おうと(誰も何も言っていないけど)、ヨーロッパ美術はギリシア彫刻の影響がでかい。

フランス絵画の祖と言われるプッサンもギリシア彫刻に憧れた。ルーベンスもギリシア彫刻の虜だった。

言うまでもなく、ルネサンスはギリシアへの回帰を目指して精励した天才たちの饗宴だ。

いやいや、誰だって、本物のギリシア彫刻を見たら生涯をかけて追慕したくなる。

一生懸命絵を描いて、たくさん買ってもらって、ギリシアに行くぞ!

 

12年8月9日

ルーブルは写真撮影自由だけどオルセーは写真禁止。うるせい(少し駄洒落ぎみ)。

オルセーも凄い。19世紀フランス美術の絢爛たる開花を思う存分見せ付けてくれる。花が蕾をもって、ゆっくり開花してゆくその過程を、

巨大な実物の絵画を並べて示している。まさにリアルタイムで19世紀に臨場できる。

美術にくわしい人間にはオルセーのコレクション力に打ちのめされる。この陳列は世界のどの個美術館にも真似ができない。まさにフラン

ス。本場の底力を見せている。今回は行けなかったけど、パリにはもう一つでっかい美術館がある。ポンピドー・センターだ。この三つ(

ルーブル・オルセー・ポンピドー)に行けば、古代から20世紀まで、桁違いの収蔵量で美術史のなかを自在に泳ぎ回ることができる。

それでも、たとえばスペインのマドリッドのプラド美術館には是非行きたい。そんなこと言ったら、イギリスのロンドンの美術館も欠かせ

ないし、イタリアのフィレンツェなしにルネサンスを見たとは言えない。切りがない。

とにかく、19世紀のフランスなら、まずはオルセーだ。

そして、19世紀のフランスの美術界はルネサンスに匹敵する絵画大革命が巻き起こった。ルネサンスより遥かに時代が近いから、その現実

感はまさにリアルタイムで実感できる。オルセーにいるとタイムマシンで19世紀フランス美術界に紛れ込んだ感じがある。3時間はあっとい

う間に過ぎ去った。

 

12年8月2日

このホームページでは、ルーブルとオルセーの話をするつもりでいた。実際にやっている。でも、画像がいっぱいあり、ブログにはたくさ

んの画像がアップできるので、これからはブログでパリの2大美術館の話をする予定。本日だけルーブルのプロローグを語る。

ルーブルの目玉作品はモナリザとミロのヴィーナス。美術館側もよく承知していて、「モナリザはこっち」「ミロのヴィーナスはこっち」

と画像付で案内してある。モナリザに行き着けばティツィアーノにも会える。私だってモナリザを見たいけど、あの観光客(ご存知だろう

が「ツーリスト」と言う)を掻き分けてモナリザに対面したいとは思わない。ティツィアーノの前にはほとんど人がいないのだ。考えてみ

ればありがたい話だ。ティツィアーノをじっくり堪能できる。ま、ルーブルにはティツィアーノの最高傑作はない。だけど、壮年のティツィ

アーノの情熱の筆跡がたどれる。特に『埋葬』は素晴らしい。あのだらりと垂れたイエスの左腕。いいね。

ミロのヴィーナスに向かえば、ギリシア彫刻が次々に現れる。真っ先にサモトラケのニケが目に飛び込んでくる。36年ぶりの再会だ。

 

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