唇 寒(しんかん)集36<11/4/2〜8/27>

 

11年8月27日

株分けしてもらった芙蓉はまだ枯れていない。一応、若葉が枝の間から出てきている。

写真を見て細密画を描く大巨匠がテレビに映っていたけど、あれってどういうつもりなんだろう? 裸婦も写真を見て描いているのだろう

か? よくわからない。

私は、写真は写真で作品だと思う。国画会には写真部門もあって、その部屋を見るのも楽しかった。

レオナルドもフェルメールももちろん写真を見ていない。印象派の宿敵だったフランスアカデミズムの巨匠ブグローも見ていないはず。一

時期、フェルメールは写真を使っていたと噂が立ったが、不便な針穴式の写真を見ながらあんなリアルな絵が描けるだろうか? フェルメー

ルは17世紀前半(江戸時代初期)の人だ。針穴式の写真機があって、それを覗いたかもしれないけど、その穴を見ながらあの絵は出来な

いと思う。そんなせこい絵ではない。伸び伸びと筆を使っているではないか。一目見れば分かる。

バロック絵画の技法は油彩画史上最高潮に達した。ルーベンスを頂点に、ベラスケス、レンブラント、フェルメール、ヴァンダイクなど筆

と絵具を自由自在に駆使しつくした。素晴らしい技だ。絵画として、その絵が油彩画史上最高かどうかは別問題。はっきり言ってルネサン

スのほうがいいと思う。だけど、ありとあらゆるものを油彩画で、まさに写真のように表現する技術は並外れて素晴らしい。それが何百年

も長持ちする堅牢なマチエールも持っている。接着の科学者としても超一流なのだ。まったくヨーロッパの美術館でああいう絵をズラズラ

見せられると、絵を描くのが嫌になる。自分の技の拙劣さに嫌気が差す。

ほんと、イッキ描きで行くしかないっしょ。

 

11年8月20日

私は写真を見て絵を描くことはない。だけど、絵画教室の人が自分の描いている静物や風景を写真にとって、あとで修正するのに使ったり

することに文句はない。だいたい、絵は自分の好きなように描けばいいのだ。写真を見て描きたければ、写真を見たっていいに決まってい

る。

何度も言っているが、ドガもピカソも写真を使っている。

私は写真は一切使わない。デジカメは自分の絵をパソコンに入れるときに使うぐらい。だからよくデジカメを使う。

私の場合は、絵とはそのときの自分の気持ちをキャンバスにぶつけたものなのだ。無論説明ではない。

芙蓉が咲けば「ああ、芙蓉が咲いた!」という気持ちをキャンバスに焼き付けている。具象絵画だから、構図なども考えているけど、ま、

ほとんど、真ん中に花を描くだけだ。ナンも考えていない。

花の真ん中にある黄色い雄蕊みたいなのを描き忘れることも多い。でも、あれは描いておくべきだ。とても綺麗だ。白い酔芙蓉によく合う。

ま、そういう風に具体的な説明も描いてはいる。だけど、その説明も含めて、この2011年に咲いた芙蓉を描いているだけだ。むろん、

自分の意思で描いている。描こうと思って、朝起きて道具をそろえて描きに行く。

あの芙蓉を写真に撮ったことはない。そんなこと考えも付かない。あれだけ綺麗なんだから写真に撮りたいよ。でも、あの淡くて儚い感じ、

朝の風が来ると優しく薄い花びらが揺れるあの感じは絵じゃないと表現できないかも。そのくせ、けっこう逞しい。冬になると幹しかなく

なる。初夏にいっぱい葉っぱを付ける。他人の家の芙蓉だけど、まったく楽しみだ。

今日の午後、その家から分けてもらった株から新芽が出ていた。小さな新しい葉っぱも一つ付いていた。

もしかすると根付くかもしれない。

 

11年8月13日

ジャンジャン描くといっても、デタラメに描くわけでもない。いや、デタラメでは続かないと思う。描いていても、つまらなくなる。人体

なら腰がしっかり描けていないといけない、というかそういうことを述べていたら日が暮れちゃう。風景なら水平線とか地平線。静物なら、

もののっている台。これぐらいなら、日は暮れない。

そのほかもろもろの思惑があって筆を進める。だけど、なかなか思惑どおりには行かない。また思惑とはちがう効果が現れることもあるに

はある。思いも寄らない線や色を得られることもたまにはある。しかし、これは極たまにだ。そのうえ、絵が出来上がった(と判断された)

ときには、効果がなくなっている場合も多い。

思惑というか、一つの意志を持って描き進めることは確かだ。だけど、ほとんどうまくゆかない。

原則として絵は上手く描けないものだ。これが大前提である。

私みたく、古典絵画を、画集などでもしょっちゅう見ていて、博物館や美術館にもよく行く絵描きだと、どうしても見るほうのレベルが上

がってしまうから、自分の絵にも当然厳しくなる(それでも自分の絵にはムチャクチャ甘い)。

そうするとますます完成する確率は下がる。

何度も何度も言っているが、絵は出来上がった作品ではなく、描くことそのことに意義があるのだ。3万枚も描けば、10枚ぐらいはましなも

のが出来るかもしれない。だけど、もし、生涯に10枚ましな絵が出来るなら、絵描きとして、大成功と言えるのではないか。

 

11年8月6日

繰り返し述べるが、色彩で大切なのは地なのだ。バックだ。色だらけの画面では色は引き立たない。ドガも言っている。「いいかね。完全

にモノクロームの平面に塗り上げるんだよ。一様なあるものをね。そしてそのうえにほんのちょっとばかり色をおくんだ。ここに一筆、そ

こに一筆とね。ほんの些細なものと君には見えても、それでも人には生気が感じられるんだ」(集英社『ドガ』「ドガが語る」大島清次訳

p108左段)

だからドガはデッサンがすべてだと主張するのだ。水墨画でも鶴の頭とかに、ちょっとだけ紅が差してある。そこが本当に美しい。まった

く気品に富み、見るものをハッとさせる。

くれぐれも言うが、『源氏物語絵巻』は積年の傷みで色が剥げてしまった。だから美しいわけではない。それでも美しいのだ。このような

話はルノワールも言っている。昔の絵は古色を帯びているから美しいと思っている人がいるけど、下手な絵が古色を帯びたらガラクタにな

るだけだ。

だから『源氏物語絵巻』の完全版を復元しようという試みは悪くはない。元はもっと綺麗だったという思想だからだ。それはまともな考え

だ。でも復元は無理。絶対に出来ない。よくNHKがやっている。パルテノン神殿の復元とか奈良の仏像や寺院を元に色彩に戻してみる、など

だ。こういうのも全部不可能。昔の人の色彩感覚を舐めてはいけない。出来るわけがない。

自由自在に現代の描法でジャンジャン描いたほうが、可能性が高い。もちろん、クラシックを心の底から慕い、大自然の美しさに十分感動

して筆を持たなければならない。すなわち、わがイッキ描きである。これしかないっしょ!

 

11年7月30日

色彩は理論だと思う。大雑把に言えば理論だ。まず、ここのところをよくよく知っておくべきである。だけど、難しい理論じゃない。中学

生程度の知識で十分だ。そういう知識を持って、たくさんのいい絵を見ること、自分もやってみること、自然界の色彩をよく見ることだと

思う。

では、中学生程度の知識とは? これもなかなかバカにできない。

まず、補色の関係を理解する。そのためには12色相の丸い表を覚える。赤、橙、黄橙、黄、黄緑、緑、青緑、緑青、青、青紫、紫、赤紫。

ああ、覚えていた。間違っていたらゴメン。これらの色を時計の12の文字盤の上に置いて、お互いが向き合った色が補色だ。赤だったら

青緑かな? 補色は混ぜると灰色になる。赤をじっと見て目をそらすと青緑が浮かぶ。ゴッホもよく研究していた。

次に、彩度を知っておくと便利かも。彩度が一番強いのは赤だ。父は「色ってのは赤のことだよ」と言っていた。こういう短い台詞を理解

するのに何年もかかる。いろいろな名画を見たり、自分で描いたりしないと分からない。禅の公案みたいだ。

キャンバスの上で理解しないと、何にもならない。頭で分かっても絵描きは役に立たない。当たり前である。

スポーツ理論に精通しても身体を鍛えないことには始まらない。相撲だって、八百長とか何とか言うけど、あれだけの身体を作るのは並大

抵の努力ではないだろう。力士を大量に解雇したけど、実にもったいない話だ。モンゴルの白馬なんて、いい力士だったけどなぁ。

ま、だから、色彩は理論だけど、使いこなせなければ何にもならないということだ。でも最低の知識もなく絵具を塗ったくっていても、

目の覚めるとうな画面は生まれない。

もちろん、一番重大なのは生命力であって、絵描きは自然物に感動しなければならない、というのは基本中の基本である。あんまり色に目

が眩むと碌なことにならない。人生と同じかも。

 

11年7月23日

このごろ、色に狂ってきた。スケベジジイという意味ではない。ま、狂ってもいない。ちょっと考えているだけか。色というのは、もちろ

ん絵具の色だ。

色感のない絵って、凄く多いような気がしてきたからだ。現代の日本画の大巨匠の絵とか。大巨匠はみんなH先生なのでイニシャルでは判

定できないけど、唐招提寺にでっかい壁画を描いた先生なんて、まったく色を感じない。色は有機的に響きあわなければならない。同じトー

ンの色なんてモノクロと変わらない。ああいう先生は色弱かもしれない。

逆に色をとても感じる絵は『伴大納言絵巻』だ。『源氏物語絵巻』も美しい。ここら辺の話は、この下から「絵の話」に入って「色彩のち

から━ニッポンの風光」をご覧いただければ、画像付で述べてある。

で、『伴大納言絵巻』の重大な点はバックなのだ。われわれで言えば地塗り部分。あれが美しいのだ。バックは淡いクリーム色だ。バック

とは言っても、絵に占める面積はとても大きい。そういう淡いモノトーンのなかに赤や青が入るから鮮烈なのだ。だいたい自然もそうなっ

ている。モノトーンのなかに真っ赤な花が咲いているから驚嘆するのだ。

逆効果を狙ったのがサイケだけど、あれは頭痛を催す。

古典絵画を思い出していただきたい。ほとんどモノトーンなのだ。そのなかのどこに赤を置くかで絵の生死が決まる。

不思議なことに、乞食絵描きの分際で長谷川利行はそこのところをしっかりわきまえていた。絵で残した。

 

11年7月16日

中学生のころ、剣道をやっていた。学校の部活ではなく、市の体育館で教えてもらった。一応足の皮が剥けるまでは素振りもした。私はと

ても弱い。運動神経があまりよくない。最近は身体能力って言うのか? 瞬発力がないのだ。多分テニスなんて全然ダメだと思う(やった

ことない)。水泳などの有酸素運動には強いかも。若いころは長距離走や自転車旅行をよくやった。

だけど、絵は瞬発力的な面が、けっこうある。

剣道でも、どう見ても強そうな相手に間違って一本入ってしまうこともある。野球のバッティングでも、まちがってヒットになる場合があ

る。釣りもでっかいのが釣れちゃうことがある。

絵にはそういうところがある。間違って描けちゃった、みたいな。実は私のイッキ描きはそればかり。だからたくさん描くのだ。

しかし、世間一般では、まさか絵がスポーツのように出来るとは考えていない。一枚の絵をじっくり仕上げると思い込んでいる。そういう

絵もあるのかもしれない。でも、私の知る限り、ありとあらゆるクラシック絵画の傑作は、瞬間的に出来ている。レオナルドからレンブラ

ントまで、コローからピカソまで。どんな絵も瞬間的に仕上がっている。中国や日本の水墨画はますます瞬間的だ。秒殺だ。ゴキジェット

みたいだ。

いい絵というのは、うんざりするほどの筆の修練から偶然のように生まれるものだ。何だってそうでしょう。それこそが本物だと思う。

 

11年7月9日

中国の書と言えば、王羲之(おうぎし・東晋)が思い浮かぶ。その次は顔真卿(がんしんけい・唐)とくる。顔真卿の祭姪文稿(さいてつぶん

こう)は歴代の皇帝が所蔵してきた。今は台北の故宮博物院にある。ネットで画像も見られる。

祭姪文稿は、顔真卿の一族が戦争で死んでしまったことを嘆いて書いた原稿である。間違いだらけで激情が書面を走っている。素晴らしい

人間の叫びだ。顔真卿の悲しみが聞こえてくるような名筆である。

西洋にはなかなかこういうお宝はない。祭姪文稿のような一見乱暴とも見える墨蹟を国の宝として大切にするところが中国人の素晴らしさ

だ。日本人はそれに輪を掛けていたから、日本には今でもいっぱいお宝がある。

顔真卿ののちの墨蹟は禅僧の残したものが多い。私も上野の博物館や展覧会でたくさん見てきた。日本の禅僧も名筆をいっぱい残している。

そう言えば、良寛様も曹洞宗の禅僧だった。

書の伝統は、もちろん現在まで続いている。

何度も言うように、水墨画は書の筆法と絡まって発達した。それも禅林で主に描かれた。書の精神が水墨画にも息づいていた。その精神を、

日本の御用絵師たちが堕落させたことは明らか。見方によっては確かに美しいけど、禅僧の生命力からは程遠い。全然ベツモノになってい

る。

しかし、在野で真なる水墨画が残ってきたことも確かだ。禅僧の白隠や仙高ヘ古来の中国の書画の心をしっかり表現した。

 

11年7月2日

ブログで、西洋美術が写実を追い、フランスアカデミズムのブーグローは一つの到達点を見せた、みたいなことを書いた。19世紀に写真

が発明されたこともあり、写実への方向性は大きく転換された。絵画がアートになった。そうなってみても、レオナルド、ラファエロ、テ

ィツィアーノの偉大さは不変だった。むしろ、偉大さはさらに再認識できた。ルーベンス、ベラスケス、レンブラントの素晴らしい筆捌き

や偉大な絵画への認識も確認できた。

東洋の書や水墨画はさらにすばらしい、と私は主張してきた。初めから写実を捨てているから圧倒的な優位にいる。書の筆触を大切にする

教えは、西洋では19世紀以降の考えだ。もちろん直感としてルーベンスなどはよく心得ているけど、それは写実のうえに発色を狙う実験

だった(大成功している)。東洋の美術の狙いは発色ではない。発色は結果に過ぎない。墨の発色なんておかしいかもしれないが、墨にも

発色もあれば色価もある。

同じ思想で水墨画が始まった。

古い中国の書や水墨画の墨が濁っていないのは、作家が一気に踏み込んで筆を揮うからだ。偶然かもしれないが、これは油彩画でも同じこ

となのだ。一気にグンと引いた線は濁らない。

その踏み込みを評価したい。将棋でも剣道でも踏み込まなければ勝てない。昔の真剣勝負なら、踏み込まなければ斬られて死んでしまう。

 

11年6月25日

『近代絵画の見方』(シュミット・現代教養文庫)を読んでいると、何はともあれ、とてもよく納得できる。しかし、絵を言葉で説明すると、

どうしても絵画の表現が狭くなる。シュミットは偉い先生かもしれないけど、どんなに偉くても一個人の特定の見解を述べているに過ぎな

い。

たとえば、キュービズムは四角や三角や丸や直線、曲線を組み合わせて絵が出来ている、と書いてある。まさにそのとおり。とてもよく首

肯できる。「納得できるなら、お前も描いてみろ」と言われると、とても描けやしない。ピカソやブラックのようにも描けないし、クレー

のようにも行かない。日本の公募展には、ピカソもどきやクレーもどきの絵があることはある。それらの絵だってけっこうよく描けている。

でも本物と比べると弱いしチャッちい。なんだか情けない。亜流、みたいな。他に、ルオーもどきとかパスキンもどきなんかもある。「も

どき」は「がんもどき」だけにしていただきたい。仮面ライダーには人間もどきなんてのもいたなぁ。

一つの絵画解釈を、そのとおりに絵にすることはできる。もどき絵画を描くことはできる。しかし、それらの絵は弱くて薄っぺらい。

ピカソやブラックが初めにキュービズムの絵を描いた迫力、気力、情熱、意欲が大切だからだと思う。絵は理屈ではない。行動である。気

迫が強靭な厚みのあるマチエールをつくるのだ。

その根本のところを知らねばならない。それは美術史ではわからないかも。魅力ある全世界の美術に共通するエネルギーだからだ。すなわ

ち初心の清新なる生命力である。

 

11年6月18日

絵画の絶対的優位は、絵画が行為であるという点だ。行為は行動であり、修行でもある。それは思弁ではないという意味で言っている。私

が若い頃から仏教に憧れるのも、仏教がいつも行動(=修行)を重要視する点にある。行動や暮らしに密接している。絡まっている。ここ

に絶大なる信用がある。残念ながら信仰にまでは行っていない。

また、絵画の最大の欠陥は、作品が残るという点である。文化遺産の落書きではないが、自分の痕跡を残すなどという欲望は一切要らない

のだ。無用である。ダメ。絵画の欠陥ではなく、現生人類の欠陥かもしれない。万国博覧会はドーンとやってさっと片付けるところに価値

がある。エキスポランドなどを残してはいけない。サーカス小屋みたく跡形もなく去ってゆくところが素晴らしい。この本来の万国博覧会

の方法、サーカス小屋の方法をよくよく見習わなければならない。イスラム教は今でも偶像禁止。仏教も初めは偶像禁止だった。この思想

は美術にとってはもっとも恐るべき強敵である。

そういう意味でも、描く行為そのものを最重要だと主張するイッキ描きは健全である。

いっぽう、昨日から思っていることは、絵描きは絵だな、という当たり前の現実だ。ブログの主張と頭で考えていることが根本的にちがう!

ではないか!!

だって、今の私の暮らしはジリ貧だもの。十分にキャンバスも買えない(もっとも私のキャンバスは超高価だけどね)。もう少し絵が売れ

ないかと願ったって罰は当たらないだろう。仏教だってお布施をもらう。

で、「絵描きは絵」というのは、絵がすべてだということだ。ゴッホはとにかく絵がいい。ゴッホの手紙などもある。フォーヴの祖などと

も言われる。しかし、そんな美術史上の位置づけとか、ゴッホの文章なんて関係ない。ゴッホは絵がいい。絵がすべてだ。われわれも絵が

よければいいのだ。いい絵を描けばいいのだ。いい絵を描くためには、「いい絵」のことを忘れて、考えないで、ただ一心に描き続けるこ

とだ。描くという行為に専心することだ。矛盾しているようだけど、これが本当だと思う。それがイッキ描きの真諦だ。

 

11年6月11日

このページの下でもご紹介している知人のブログ「森への想い」(6月8日付け)にロートレックの絵がズラリと並んでいる。ああやってロー

トレックの人体画が並ぶと、「やっぱり人体は楽しいな」と改めて思い直す。逆に言うと、ある画家に人体がないのはあまりに寂しい。モ

ネやシスレー、マルケなど、私も尊敬しているけど、人体が少ないのがちょっと不満か? ま、私が人体が好きなだけかもしれない。

それにしても、ロートレックは37歳で死んでしまった。ゴッホも37歳。私の半分しか絵を描いていない。だって、15歳から絵を始めたと計

算すれば、37歳だと22年間、60歳だと45年間だからだ。半分しか描いていないのに、本当に素晴らしい。馬齢を重ねるというけど、私は本

当に無駄に歳をとって、無駄に絵具とキャンバスを消費してきたものだ。

自分が絵を続けていることもあり、私は才能とか天才などという言葉を信じていない。自分が天才でないことは知っている。それでも絵を

続けているのは、絵は才能で描くものではないと思い込んでいるからだ。でも、ロートレックの絵をああやってずらずら見ると、まったく

天才としか言いようがない。37歳の若さで、どうしてこんなに絵のことを知っているのだろうか? と不思議でならない。頭で知らなくて

も腕が知っている。絵画の造形と、しなやかな身体の動きが織り成す複雑な線描の魅力をロートレックは余すところなく紙やキャンバスの

上に描き出す。むろん色彩も豊だ。

禅の悟りも、年齢や知識とは無関係に訪れると聞く。絵画の魅力を掴み取る瞬間も歳や知識とは関係ないのか。だけど、ゴッホもロートレッ

クも、十分なクラシック絵画の素養があり、腕の訓練は短期間に信じがたいスピードと濃密さで達成されている。

あれだけ自由に開放されており、しかも古典絵画をきっちり踏まえた魅力あふれる絵は少ない。あんなのないよ。唸るしかない。

11年6月4日

6月2日付のブログで「まったく絵は面白い。すべてを忘れて集中できる。もうこれだけで完結している。描く行為がすべてである」と述べ

た。

本当の本当に楽しいことは「完結」しているべきだと思う。

将来子どもに面倒を見てもらう計算で子育てしている親は少ないと思う(私の場合は図らずもちょっとお世話になっているかな?)。目の

前にいる子供がかわいいから面倒を見るのだ。育てるのだ。当たり前である。

絵だって、買ってもらおうとか、大巨匠になろうなどと思って描いている絵描きは少ないと思う。絵で金儲けは絶対に無理。私の大目標は

年収1千万円だ(=絶対不可能)。

絵は、描く行為そのものが楽しい。それ以上でも以下でもない。美術論や技法論や作家論は、別にあってもいいけど、描いているときには

関係ない。私とバラとの関係だけ。

そうすると、お釈迦様の言う縁起説に反するではないか、と反論が出そうだが、もちろん、私は縁起説を否定するつもりはない。縁起はし

っかりとある。絵だって上手くゆけば売れるのだ。縁起説は厳然と存する。日は昇り、月は満ち欠け、四季はめぐる。そういうように縁起

はある。私は死に、人類もいつかは滅びる。太陽だって燃え尽きる。

絵を描いている瞬間はそういうことを忘れて絵に集中できる。泳いでいるときもほとんど泳ぎに専心している。それが楽しい。ここが重大

である。集中とか専心はまさに一瞬が永遠なのだ。水泳のフォームとか絵の巧拙など問題ではない。

もっとも、真にすべてを忘れて一筆に没頭するなら、魅力ある一線が表出する可能性が絶大であることも確か。もっとも、それを期待する

と碌なことにならないけどね。

 

11年5月28日

昨日のブログ(5月27日付)はイッキ描きの真諦に迫っているけど、まだまだ中心をがっちりとは語っていない。で、今ここで、その中心の

ところを語りつくしたいとは思うけど、言葉では難しいかも。

で、その前の日28日付のブログを読み返すと、ギリシア彫刻、中国や日本の仏教彫刻、宋元の水墨画、ルネサンス美術などと書いてある。

これらの美術の共通項はすぐわかる。宗教である。

パルテノン神殿のギリシア彫刻も大英博物館で見ると、像の背中までしっかり彫ってある。あれは屋根の破風という三角のところに置く象

だから、神殿を訪れる人々からは背中はまず見られることはない。破風ははるか上方にあるのだ。それなのに、完全に背中まで出来上がっ

ている。私は、あれらの彫刻は神様に見せるために作ったのではないかと考えている。話は飛ぶけど、ナスカの地上絵も天の神々に向かっ

て描いたのだと、私は推測している。

古代ギリシアのゼウスなどが登場する宗教でも、仏教でも、キリスト教でも、宗教が美術を生み出した。これを否定する人はいないと思う。

美術が宗教の宣伝機関だった時代は、美術も素晴らしい。美術が独立してエバり出してからおかしくなった。私は以前には、世の中に美

術なんて分野はない、とまで豪語していた。今も本心は変わっていない。

 

11年5月21日

サザンなら『渚のシンドバッド』と『いとしのエリー』は全然別なテンポだ。『渚のシンドバッド』はアップテンポ。『いとしのエリー』

はバラードっていうのかな? よく知らない。最近は激しい調子の『パシフィックホテル』を聴いて、その直後にゆっくりな『TUNAMI』

を聴いている。最強の取り合わせだと私自身は思っている。南佳孝ならゆっくりなのは『二人のスローダンス』、最高にノリノリなのが

『モンロー・ウォーク』かも。

絵でも、激しい絵と穏やかな絵がある。北斎は激しいけど広重は静かだ。ターナーの風景には激しい絵が多いけど、穏やかな絵もある。どっ

ちかというと激しい絵描きかも。マルケ、ヴュイヤール、モランディなどはみんな穏やかな絵ばかりが思い浮かぶ。佐伯祐三は激しい。そ

の先生のブラマンクも激しい。

そうやって考えてゆくと、私の父は激しい絵を描く印象が強い。

で、私はどうかと言うと、けっこう穏やかかもしれない。若いころから喧嘩ばかりして、碌なヤツじゃないけど、殴りあったわけじゃない。

最近は喧嘩もしないし、穏やかな爺さんだと思われているかもしれない。もちろん絵はイッキ描きだから激しいわけだけど、穏やかに仕上

がることも多い。先週トップページにアップしたF0の『由比ガ浜』も穏やかな絵だ。

もしかすると、私の絵はバラード系なのかも知れない。

 

11年5月14日

やっぱり、絵や彫刻を見ていいと思うものを信用するしかない。しかし、「いい」というのは何が根拠なのかもよくわからない。先週の続

きで言えば、奈良の仏像彫刻は「いい」。どこがどういいのか? 作られた当初の金ぴか仏像もいいのか? 今の傷んだ状態だからいいの

か? 私は今でもときどき迷うけど、ルノアールの説を信じたい。私の父も言っていたけどね。

「出来立てはもっと素晴らしい!」「風雪に耐えて美しいのはもともと素晴らしいからである」

パルテノン神殿でも、NHKが古代ギリシア当時を再現している。コンピュータグラフィックってヤツ? 見るとがっかりする。

去年金井画廊に見えた、その方面の専門家の方が「あんなの全部現代作家の空想ですよ。あんなわけないじゃないですか」と言ってくれた。

源氏物語絵巻も再現された絵巻は酷い。1ミリも魅力がない。見たくない。

パルテノン神殿は、中尾是正の『パルテノン』(グラフ社)に少し再現画像がある(p89大英博物館の再現)。それはちょっと美しい。色

も少し抑えたり、渋くすると俄然美しくなる。深みを帯びる。子供の絵本じゃないんだから、原色そのままはありえヘンやろが。

絶対的な造形美はある、と思う! あるに決まっている!!

 

11年5月7日

道元の禅はとても厳しい。寒い山に篭って死ぬまで坐禅だけをする。味も素っ気もない。

いっぽう、一休の禅は女性との交わりもある。書画をはじめ、いろいろな文化に手を出す。なんだか豊かで楽しい。

道元は曹洞宗、一休は臨済宗だ。だけど、臨済宗にも厳しい禅僧はいたし、曹洞宗にも文化に精通した禅僧がいた。書画では江戸初期の風

外とか江戸後期の良寛が思い浮かぶ。臨済宗の禅画僧はいっぱいいてとてもにぎやかだ。中国の牧谿、因陀羅をはじめ、日本の雪舟や啓書

記などなど。そう言えば、雪村は曹洞宗の禅画僧だ。

仏教の立場なら、道元はわかりやすい。お釈迦様にも忠実である。不思議なことに、お釈迦様の原始仏教をよく実践している。中村元など

が深く研究したお釈迦様の原始仏教に対して、昔の僧侶も大きな憧れを持っていた。そして、実際いろいろな方法で研究した。インドの仏

教を中国に伝えた玄奘三蔵(=三蔵法師=西遊記に出てくる孫悟空の師匠)は考えられないほど大量の仏典を持ち帰り翻訳した。しかも、

正確である。桁外れの大偉人。やっぱり三蔵法師は凄い。この人のおかげで日本に仏教が正確に伝わった。日本の僧侶でも、高山寺の明恵

上人(鎌倉時代・華厳宗)とか慈雲尊者(江戸時代・真言宗)などもインドに強い憧れを持ち、インド旅行を計画したり、サンスクリット

語を研究したりした。

一休さんは有名だし、たしかに素晴らしい禅僧だけど、臨済禅で一番最初に頭に浮かび、「ああ、臨済宗だな」と感じるのは大燈国師・宗

峰妙超(だいとうこくし・しゅうほうみょうちょう1282〜1337)だと思う。寺を捨てて乞食の群れに入ったり、道元禅とちがって、一般の

庶民の中に生きて禅を貫き通そうとした。人と交わるのが臨済宗のいいところだ。円爾(えんに1202〜1280)も、栄西などが有名で名が隠

れてしまうけど、宋に6年滞在し、臨済宗を学び伝えた偉大な禅僧だと思う。死の直前に書いた遺偈の書はド迫力! 線描造形の極致である。

私は曹洞宗の道元ビイキだけど、臨済宗の芸術がなければ、こんなに仏教に惹かれなかった。ま、もっと昔の奈良の仏像も素晴らしいから、

やっぱり仏教には惹かれるかなぁ〜。

 

11年4月30日

それにしても、町田市の中学の開放プールが再開されない。節電とのことらしい。節電とか節約はとても大切で、経済の基本だけど、ある

程度の活性化も必要だと思う。ま、夜開放しても数人しか客が来ないのでは致し方ない。50m室内プールはあまりにも遠い。交通の便も悪い。

週一がやっとだ。

私は油絵の個展は70回近くやっているけど、水泳大会に出たことはない。小学4年生のとき学校の水泳大会で25m泳ぎ切れずにプールの真ん

中に立ってしまったことがあった。それ以来水泳大会はトラウマかも。好きな女の子、かわいい女の子、仲良しの女の子が見ているなか、

プールの真ん中で立ってしまうのはあまりにも恥ずかしい。悲しい。

だけど、泳ぐのは大好きだ。泳がずにはいられない。

絵を、私の水泳のように、ほとんど発表せずにコツコツと描き続けている人もいる。ドガも後半生はほとんど発表していない。ここでドガ

を出すのはトンチンカンかもしれない。絵は実に難しい。山に篭って坐禅をするのとはちがうと思う。同じことかなぁ? わからない。絵

を生涯の修行、一生一画学生としてがんばっている人もいるけど、もっと別な魅力や面白さがあるようにも思う。

ホームページの整備は一応終わっている。

 

11年4月23日

ホームページの整備をしないまま1週間が過ぎた。早いね。

東日本大震災の被害状況がだんだん見えてきた。各個人の痛ましい被害と産業にもたらす甚大な被害が徐々に明らかになる。福島第一原発

の実体も見えてきた。

もちろん、私なんかにはどうにもならない。祈って見守るだけだ。これから凄まじい不景気が来る。きっと3年ぐらいは続く。これを克服で

きれば、そして原発事故も収束すれば輝かしい未来がある。3年間私自身が生きられるかどうかは難しい。年齢的には大丈夫な計算だが、経

済的には困難。妻に見放される可能性が高い。もちろん何とかがんばる予定だが、キャンバスなんてまったく売れないのでは。絵を描いて

いる気分ではないと思う。

ブログに「私の絵に対する態度が試されている」などと書いたが、試されるも何も、私は絵を描くしか能がない。少しでもましな絵を描く

しかない。まさか、津波に怒る仏様の絵を描いたって救われない。そんな絵は要らないと思う。バカバカしい。泥にまみれた思い出の写真

を一枚ずつ洗っているボランティアがテレビに映っていたが、へな猪口な絵を描くよりそっちのほうが百倍素晴らしい。ま、私は今までど

おり花と風景と裸婦を描くしかない。

 

 

11年4月16日

ブログの金井画廊の自分の個展の写真を見て、もしかしたらいい個展かも、と思ってしまった。なかなかないと思うけどな。

私は自分の父親の生き方には疑問を持っているけど、絵はいいと思う。個展も素晴らしかった。前にも書いたかもしれないが、錦糸町のは

ずれの画材屋の2階でやった個展は忘れられない。会場には誰もいなかった。私ひとり。階下は画材店なので騒々しいけど、2回の個展会

場はガラスの扉を閉めると、とても静かで、一人でじっくり絵に囲まれていた。

私の個展もけっこういいと思った。だけど、毎日通ったのに、そういう印象がない。ブログの写真を見直して、案外いいかもと思ってしま っ

たのだ。きっと思い過ごしだと思う。

ああ、ホームページの整備をしていない。「最近の絵」も「唇寒集」も直してない。来週中には整備したい。

 

 

11年4月8日

今日から豊橋に行くので、少し早い更新となる。

ルオーは「芸術とは熱烈なる告白である」と語った。それを父に伝えると、父は「芸術とは苦闘の果ての開花である」と言い、少し間を置

いて「芸術とは苦闘の果ての苦闘である」といい直した。というような話は別のところにも書いたような気がする。

いま60歳になって、私が「芸術とは?」と問われたら、「そんなの関係ねぇ」。それが私の答えだ。

「芸術とは『そんなの関係ねぇ』」

あまりにもかっこ悪い。

ルオーも父も「芸術」を「絵を描くこと」として下の句を考えている。私は「芸術」を「芸術作品」と考えて答えた。私のほうが基本的な

国語力が足りない。しかし、表現として「芸術とは」と言われれば、自分の絵ではなく、ギリシア彫刻やルネサンス絵画を思い出す。もし

そうなら、「芸術とは生きる喜びである」「人類の誇りである」「芸術を堪能できること、穴の開くほど見たくなること、そういうこと全

部がありがたい喜びである」

じゃあ、「芸術」が「自分の絵」だったら、やっぱり「そんなの関係ねぇ」だ。私はクラシックを見る喜びと、自分でも描いてみる、自分

も描く、そういう喜び。それだけが楽しい。私には告白も苦闘もない。喜びだけだ。馬鹿かもしれない。大バカである。

「芸術とは限りない喜びである」

 

 

11年4月2日

木曜日で金井画廊の個展は終わった。大震災のあとなのに、けっこうたくさんの方においでいただいた。絵も買っていただいた。もちろん

例年のようなわけにはいかないけど、ゼロでなかっただけでも驚きである。まったくありがたい話だ。有名歌手やスポーツマンのように寄

付はできないが、金井画廊でもほんの少し寄付をする。私としては過去最高の義援金になる。たしか新潟地震(阪神大震災だっけ?)のとき

1万円寄付したのが最高だったと思う。

私の個展は震災後11日目に始まった。今日で20日目ぐらいになる。被災地まで道路も通じるようになった。いろいろな被害の状況が見えて

きた。原発も大問題になっている。

これからがいよいよ大変だ。私の個展はむしろ、まだよくわからない間にやってしまったからよかったのかもしれない。これから本当の忍

耐と我慢の時代が来る。日本が壊滅するという予想もあるが、そういう予想もあながち馬鹿にできない。数字的にだけ見れば、壊滅もあり

うる。だけど、日本人はとても強い。奇蹟のように強靭である。おそらく復活する。間違いない。

私も、しぶとく絵を描く予定だし、個展やグループ展も計画している。水泳も、プールが再開されたらすぐに行くつもりだ。まだまだ負け

ましぇ〜ん。

でも、先週、平身低頭ペコペコ頭を下げる人生と書いたせいか、なぜかサザンの『C調言葉にご用心』を聞きたい今日この頃である。「い

つも、いつもあんたに迷惑かける俺が馬鹿です・・・」

 

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