唇 寒(しんかん)集34
<10年6月5日〜10月30日>
10年10月30日
なモデルが来るのか分からない。ま、誰でも同じ。少なくとも私よりもずっとお若い女性だ。
まったく美しい。息を呑む。人間の、女性の裸というのはこれほど綺麗なものか、と感服する。
近くで見ると、モデルの呼吸まで感じられる。生きている女体の鼓動が分かる。それは素晴らしいものだ。もちろんモデル本人も知らない
だろう。モデルの彼氏も知らないと思う。夏の日には肌のラインに沿って汗が流れることもある。これも凄い。その汗が光る。まさに生体
のダイヤモンドだ。身体の中に血液が流れていることもはっきり感じられる。
古代ギリシアの彫刻家たちは、もちろんこの美しさを知っていた。現生人類の美だ。ロダンもドガもよ〜く分かっていた。萩原碌山も知っ
ていた(と思う)。
私は裸婦を何十年も描いてきた。若いころから裸婦の素晴らしさは知っていたけど、最近さらに「綺麗なもんだな」と感嘆することが多い。
こうやって思い出すと、絵描きで、裸婦の真髄に迫ったのは誰だろう?
ティツィアーノ、ルーベンス、クールベ。ルノワールも入るだろう。フラゴナールも裸婦をよく見ている。日本では小出楢重(1887〜1931)
か? けっこう思い当たらない。小出は裸婦の太もももよく描けている。
この歳になってやっと裸婦の魅力がわかってきたのかも。
エクスタシーに浸った女性美を追求したのはピカソだけど、これがギリシア彫刻にもある。何が最高の女性美かは誰でも知っているらしい。
職業モデルでさえ、最初のポーズは固いけど、時間が経つにつれて、自由な肢体を見せてくれる。最高の美ではないけど、多少開放された
感じにはなる。
10年10月15日
個展会場で絵を見て、いいと感じ、欲しいと思ったら是非買っていただきたい。金はなんとかなる。
買っていただかないと絵画文化が終わってしまう。
豊橋展でも初めて見えた方で、買いそうになった方が買わずに帰ってしまった。安いものではないから簡単には買えない。だから、致し方ない。それ
は嘘偽りない本心。だけど、きっとその方は買いたくなるような絵には今後滅多に出会わないだろう。おそらくずっと出会わないと思う。それほど、買
いたくなる絵は世に少ない。
また、豊橋では一度買うと、もう二度と個展においでにならない方が多い。不都合が重なっているだけかもしれないが、もしかしたら、一度買った方が
個展会場に行く以上は毎回買わないといけないとお思いなのかもしれない。
そんな法則はない。
絵画の個展は絵を見ていただく場所。買っていただければ嬉しいけど、まず見ていただかないことには話しにならない。
だいたい絵なんて、そんなに売れるものではない。
個展会場では絵を買わない方のほうがずっと多い。買わないのが普通だ。個展は絵を見てもらう場所。一度買った方には新作を是非見ていただき
たい。そういう方が来られないのは物凄く残念だ。だって、私の絵を買っていただいた方は「今年はどんな絵を描いたのだろう」と見たくなると思う。
今後ともご高覧、よろしくお願い申し上げます。
10年10月2日
個展が間近に迫っているのにホームページの画像が上手くアップできない。
それにしても、ホームページは凄いメディアだ。最新作が次々にアップできる。ブログはさらに新鮮。私のようなイッキ描きでも絵が間に合わないほど
だ。父の時代とはまるでちがう。個展のDM でも、父の時代は片面フルカラーだと数百枚で10万円ぐらい掛かったはずだ。作る前はえらい騒ぎだっ
た。私は自分でパソコンで版下を作るのだが、それだと5500円で1千枚。別にパンフレットがA4両面フルカラー1千枚で6500円(すべて込み)。安
いね。これだけ自分の絵を発表できるのになかなか認められない。もちろん、ある程度は認めていただいている。これもパソコンのおかげかも。早め
にパソコンを覚えてよかった。ま、故障すると、ガタガタだけどね。
でも、奈良に行って本物の仏像に直面するとパソコンの情報は情けない。本物は凄い。ドーンとしていて、バーンと迫ってくる。いつ見ても東大寺戒壇
院の四天王は怖いよ。オヤジみたいに睨んでいる。あれが1300年もむかしの造形なんだから、こと美術に関しては人類は進歩していない。われわ
れとは気合が違う。ああ、もっと頑張らなきゃって思うけど、いくら頑張ったってあの顔は創造できない。まったく素晴らしい!
現在の日本の美術界は情けないもの。文化勲章を頂点にどうでもいい公募展が腐るほどある。日展だってチョーつまらない。ああいうのに必死で通っ
て、公募展を支えている奥さんたちもたくさんいる。奈良の戒壇院へ行っていただきたい。すべてすっ飛ぶ。
まったく造形をどう考えているんだろう?
ま、現代の美術界と本物の美術は別物。気にしないことだ。私みたくアルバイトをしながら絵を描いた田中一村は上野の美術展(きっと日展)で頭が
いっぱいだったらしい。そこがおかしい。本当の古典美術を見ていないのだろうか? 奈良へ行ったら背筋が伸びる。そして高速道路の本線のように
美術の本線が何だかよく分かる。
さらに、水墨画にしても奈良の仏像にしても、仏教に深い関係がある。私の路線はつくづく正しいなぁ・・・
10年9月27日
本来なら、11日の更新だが、パソコンが壊れたため延びてしまった。
前回の豊橋の法事の話はブログに書いた。私はおばあさんの見張り役になったので正座もお経もパス。たいへん助かった。お経の後にお墓に行っ
たが、お墓でもおばあさんは車から降りたがらない。私はお墓での供養もしなかった。罰が当たるかも。
で、原始仏教だが、原始仏教は2500年も前の仏教だ。お釈迦様がまだ生きていたころの話。2500年も昔の人だから幼稚なんだろうと思ってしまう
フシもある。ところが、まったく幼稚ではない。現代の哲学の問題はすべて出尽くしていたといってもいいほど、らしい。現象学とか、言語論とか、心理
学とか、なんでもあったみたいだ。インドは、そういう考える人たちを厚遇する風習があったらしい。
いっぽう、バラモン教が幅を利かせ、頑強な差別制度カーストがはびこっていた。また輪廻などの妖しげな信仰も深かった。
お釈迦様は、差別社会を壊そうとした。絶対平等を説いた。なんてったって、動植物まで平等なんだから、西洋の平等思想とは桁がちがう。動物愛
語団体も脱帽かも。また、悟りを開けは輪廻から脱することができるという。これはどういう意味だろう。ここのところの解釈で仏教は全然ちがう色合
いになる。杓子定規に考えれば、奈良仏教みたく、生死を何度も繰り返し、修行を積みに積んで、何十万年、何億年ののちに悟りを開くと考えてしま
う。ジャータカ物語はそういうお話だ。前にも書いたかもしれないが、岩波の子供向けの本に『ジャータカ物語』があり、確かピンクの本だったと思う。
これを私の子供たちが小学生低学年のころに読んであげたら大好評だった。
だけど、お釈迦様の本心はそっちじゃないように思う。悟りがそんなに遠いんじゃあ、誰も修行をしなくなるもの。まず第一に重要なのは修行をするこ
と。ここがお釈迦様が一番言いたかったことだと思う。
中沢新一と河合隼雄の『仏教が好き!』は上記のようなことが興味深く書いてある、と思う。
10年9月4日
『原始仏教』(中村元・NHK出版)はまだ読み終わっていないけど、今のところ、とてもいい本である。中村元には、お釈迦様の直の言動を
探る著作が多い。法句経などから抜粋してズラズラお経が並んでいる。こういう本は頭から読むのは至難の業だ。私みたいな遅読の活字ア
レルギー男にはとても無理。その点『原始仏教』は中村の筋が一本通っているから読みやすい。読みやすいけど、中村色が出すぎる場合も
ある。いくら客観的な学者先生でも自分の色は持っているだろう。渡辺照宏など、家が真言宗なので天台宗を信用していない。中国の智
(ちぎ)は天台宗の高祖だが、ボロクソに言っている。その系統の法華宗にも冷淡だ。「その系統」と書いたが、日本の鎌倉仏教は全部天台
宗から出ている。もちろん禅宗も。私には恨みもつらみもない。むしろ感情が出ていたほうが読みやすい。私に必要なのは渡辺の無限とも
思える学識だ。
『原始仏教』を読むと、お釈迦様は凄いところまでわかっていた(と言うか、解脱したんだからすべてわかっていたのだけども)ことが知
られる。で、鎌倉仏教も相当釈尊に肉薄していることがわかる。親鸞や道元ではまったく別物のように思えるけど、そんなに遠くはない。
わかりにくいと言われる道元だけど、私には一番明解だ。
で、悟るというのはそんなに物凄いことでもないかもしれない。悟りを高いところに追いやったのは、釈尊以降の仏教徒たちなのかもしれ
ない。ま、権威付けも必要だし。
ああ、今日は家内の実家の法事だ。自分の家の法事は妹にまかせっきりなのに、家内のほうには出席する。豊橋に行く。道元禅師の曹洞宗
の法事。これがずっと正座なんだな。今から脚の痺れが怖い。ダメだ、こりゃ。悟りは遠い。
10年8月30日
一般の方に美術をお伝えするとはどういうことだろう?
もし私が美術館の主席学芸員だとか、もっと偉い館長さんだったら、どうするだろう?
やっぱり旧家の蔵を見て回るかな?
「いいもの」を発掘して展示したい。真贋鑑定なんてつまらない。「いいもの」なら誰が描いたって彫ったって焼いたっていいのだ。人間
なんて関係ない。とりあえず、まずは作品である。だけど、美術館に悪意のある贋作を並べることは出来ないから、ある程度の鑑定は必要
だろう。陶器なんて私にはさっぱりわからない。
だいたい贋作に騙される人は欲があるから引っかかる。私なんて初めから金がないから、美術館へ行っても骨董点に行っても「へぇ〜、凄
いもんだね」とか言って終わりだ。これがコレクションをするとなると、個人の財産を使うにしても、美術館の予算を使うにしても欲が出
てしまう。欲が出ると危ない。
「いいもの」を見る目。目利きなどとも言うが、ああいうのは、よほどの名人でも欲が絡むと目が眩むらしい。確固とした鑑定基準なんて
ないのだ。もちろん絵具の時代とか質など、最低限の知識は必要だ。だけど、それはあくまでも補足だ。まずは「いい!」と判断する目が
大切だ。そうじゃなければ面白くない。
話がまったくそれてしまった。
ちゃんと美術の魅力を広めるのは至難の業かも。
最近の日本美術史の若い学者さんたちはけっこう頑張っている感じがあるけど、私から見るとちょっとトンチンカンなのでは、と思うこと
も多い。
10年8月21日
絵はデッサンであり、枚数である。そして、古典絵画に対する姿勢でもある。古典絵画(もちろん彫刻も)をどれほど慕っているか、見て
いるか、敬慕しているか、このことも絵に表れる。ほとんどの偉大な絵描きは古典絵画へのオマージュだった。これは音楽だともっと明ら
か。音楽史は尊敬と恭順の歴史でさえある。絵画も純真な歴史は崇拝と敬慕の連続だ。どの時代のどんな絵描きだって、まともな絵描きは
全員文芸復興に挑んでいる。全員がルネサンスの旗手だ。
古典を見ないで、時代性とか個性とか言っているヤツは本物ではない。本当の絵画の喜びを知らないのだ。絵画の喜びとは筆の喜びなのだ。
われわれは古典絵画にこの喜びを見ている。絵を描くことは喜びである。人と生れた最高の幸福である。至福である。ティツアーノに、ルー
ベンスに、コローに、ターナーに、ドガにわれわれは筆の喜びを見つける。筆触の歓喜に共鳴する。感動する。牧谿に、可翁に、雪舟に、
雪村に、光琳に、浦上玉堂に、鉄斎に筆の歓喜を見る。その流れるような筆の跡、朴訥な墨の滴り、呻吟する薄墨の苦悩、そういうなかの、
そういうものを全部含んだ筆の喜びが伝わってくる。何百年もの時代を隔てて、何千キロの道のりを隔てて、人の筆の喜びは同じだ。
私はこの前60歳になった。油絵を始めて40数年になる。どれだけ筆を走らせてきたことか。この私の筆の苦難や歓喜は誰にもわからない。
同じように筆を揮った人間にしかわからないだろう。だけど、筆を使えば当然作品となって絵は残る。絵は作家の筆の喜びとは全然別のモ
ノとして他の人に伝わるのかもしれない。正確に伝わっているのかもしれない。それは私にはわからない。
出来た絵なんてどうでもいいのだ。大切なのは筆の喜びである。そこに絵画の涅槃寂静がある。
「新・宇宙の寸法」をおすすめします!
10年8月14日
「新・宇宙の寸法」をほとんどアップした。最後の章「光速あれこれ」だけ残してしまった。これはけっこう長い章だ。短くまとめる予定。
だけど、「新・宇宙の寸法」はかなりおすすめの読み物。自分で書いて言うのもなんだけど、強く推薦します!
で、クリエーターの話。はっきり言ってクリエーターなんてどうでもいい。絵は描きたいように描くだけ。でも、私の絵は写実ではないら
しい。本人は写実だと思って描いているが、見る側では、そうは思ってくれていないようだ。ま、それもどうでもいい。もちろん私自身、
精密描写だとか細密描写だとは思っていない。
最近、美術史家など、自分は直接絵を描かないが、絵に大変詳しい人たちの文章を読んでいる。そういう絵の「専門家」はみんな計算され
つくした、綿密な絵画が好きだ。イッキ描きなんて大嫌い。行き当たりばったりは古典絵画ではありえないこと、あってはならないこと。
雪舟の破墨山水でさえ綿密に計算された構成なのだ!
もちろん、そういう画人こそクリエーターである。特にNHKはそういう作られた絵画が大好き。もう尾形光琳(1658〜1716)なんて震えが来
るほど好きなのだ。絵画の表面的な構成はもちろん、画材料もしっかりと調べ上げ、重ね塗りの順序まで明らかに解剖しようという魂胆。
けっこうである。大いにやってもらいたい。暇つぶしには最高。
だけど、牧谿も雪舟も、もちろん光琳も、みんなしっかり写生をしていると思う。うんざりするほど外で写生をしている。頭で考えてあん
な広大な風景が描けるわけないもの。だって、上記三画人の風景には風がある。突然のアクシデントがある。アクシデントが起きそうな気
配がある。あんなの絶対に家の中で描いた絵ではない。
また、理屈を超えた修練がある。筆の一刷けがそのまま風に揺れる樹木になる。こんな奇蹟は誰にも起こせない。いつもこの科白になって
しまって申し訳ないけど、「じゃあ、あんた描いてみなよ」と、やっぱり言いたくなっちゃう。
10年8月7日
印象派の代表はドガ(1834〜1916)だと思う。厳密な印象主義、印象主義の技法の代表ならモネ(1840〜1926)だ。ドガとモネは印象派を
代表する両巨頭だ。ドガは技法的には印象主義の色彩分割には大した興味を示していない。ただ、ル・サロンに反旗を翻し、新しい絵画勢力
を打ちたてようとしたところが、大きく評価できる。もちろん絵の実力も抜群に素晴らしい。
で、ここでは絵の話なのだが、ドガは当時やっと発明された写真に興味を示し、自分の絵に取り入れてもいる。また、構成を物凄く重要視
し、絵を切ったり継ぎ足したり、いろいろ研究している。アトリエでの仕事を大切に考えた。
モネは野外にイーゼルを立てて描く写生派だ。あくまでも見たものを描き写す。より自然主義と言える。
このまえNHKで尾形光琳(1658〜1716)をやっていたが、光琳は完全なドガ派。これに対して、たとえば、浦上玉堂(1745〜1820)などはモ
ネ派ということになるのか?
では、私はどうか? 私は心情的にはドガ派だが、実際誰が見てもモネ派である。第一、私にはアトリエがないに等しい。裸婦は町田市立
国際版画美術館で描くし、風景や花はすべて外。花瓶の花も望月邸(=サロン・ド・ヴェール)のアトリエで描いている。アトリエらしき
ところは庭だ。地塗りは庭でやる。年に一度等迦会の100号も当然庭で描く。寒いんだな、これが。
ここで、大きな疑問が湧く。モネ派って本当にクリエーターか? ただ描き写しているだけだべ。つまり私のことだ。
長くなったので、結論だけ言うけど、絶対にクリエーターである!
来週は8月14日(土)朝の更新ではなく、8月15日(日)朝になると思います。
また、「宇宙の寸法」は放置したまま10年が経過してしまったので「新・宇宙の寸法」として、8月中にはアップします。
10年7月31日
サザンの桑田が食道がんだと言っている。そういえばわれわれは癌年齢なのだ。よく50台を無事に過ごせたなぁ〜。桑田は私より5歳は若い。
10年前までヘビースモーカーだったらしいから、そこが私とはだいぶちがう。
桑田の無事全快を祈って、昨日もいっぱいサザンを聴いた。桑田の曲も最近パッとしなかった。ここで死病と闘って勝利をもぎ取れば、ま
た一皮剥けた新曲が生れるかもしれない。それが楽しみだ。俳優の渡辺謙も白血病の前と後では別人のように演技がよくなった。
私も死病と闘わないと、いい絵が出来ないのだろうか? 死病にはなりたくない。金欠病は死病に匹敵するぐらい迫力あるから、大丈夫だ
とは思う。今年の春のバラはけっこうよかった。来年はバラを拝めないかもしれないと思って描いたからかも。バラの頃はまだまだ苦しかっ
た。今は私としては豊かだけど、借金もあるし、もちろん油断はできない。恐怖の冬も近づいている。アメリカの景気も10月ごろにドンと
下がる予想があるらしい。
こういうことを勘案すると、私は死病にならなくてもいい絵が出来ることになる。それでも描けないとなると、全然別のところに原因があ
るわけだ。
鉄斎を想えばまだまだ60歳じゃあ若すぎるけど、ドガやレンブラントやベラスケスは60歳でも十分傑作を残している。ドガ(1834〜1916)
は82歳まで長生きしたが、50歳ぐらいから目が見えなくなるので、60歳の頃は素晴らしいパステル画の裸婦を描いていた。木炭デッサンに
も目を見張る。私は今のところ目も見えるので、ああいうわけにも行かない。こう考えると、幸福は不幸なのかもしれないけど、不幸は絶
対に嫌だ。ま、嫌だから不幸なのだ。禅問答みたくなって来た。
10年7月24日
休みのときは、だいたいスパイダーソリティアをしている。レンタルショップから借りてパソコンに取り込んであるサザンをかけている。
サザンの次にドリカムの「LOVE LOVE LOVE」が1曲入っていて次にクラシック3曲(確かシューマンとメンデルスゾーンとブラームスだと
思う)。そしてまたサザンに戻る。ソリティアはいくらやっても飽きない。でも、すぐ眠くなる。そういう時は寝る(当たり前)。
以上が私の休日である。頭の中は妄想でいっぱい。だけど、現実がどんなものか、この歳になるとだいたいわかる。
で、合間に仏教の本を読む。後はできるだけプールに行く。でも真夏は泳ぐ場所がない。これから1ヶ月は泳げないかも。もちろん、絵も
描く。当然キャンバス張りや地塗りは日常のことだ。禅僧の作務ほどカッコよくない。このホームページやブログを書くのはけっこう大変
で、いつも考えている。
以上が私に実体である。
だからほとんど金がかからない。酒もタバコもやらない。繁華街にも行かない。きっと年収200万円もあれば十分生きてゆける。
食事は、朝はパン、昼は麺類、夜はご飯。マンションの勤務時間が不定なので、食事時間がずれる。これがちょっと困るが、適当にやって
いる。マンションがないと歩かないので、膝、首、腰などの調子が悪くなる。できるだけ歩くようにするが、仕事と自主トレではやっぱり
分量が違う。マンションの巡回はいい。
凄くつまらない毎日だ。
だけど、昨日はベラスケスに嵌って古い画集を散策した。東西の美術史の中を泳ぎまわるのはとても楽しい。
還暦記念に近況を勝手に述べた。申し訳ない。ゴメン。
10年7月17日
90歳まで生きて鉄斎やティツアーノみたいな絵を描く。これが私の希望だ。大それた野望といえば言える。だけど、ああいう絵が描きた
いなぁ〜、とつくづく思う。人と生れて絵筆を執った以上最高のものを目指すのは当然である。第一誰の迷惑にもならない。私の野望はまっ
たく個人的な願望に過ぎない。誰かを蹴落とすということがない。もし百人の絵描きが「俺たちも鉄斎を目指す」言ったら、「頑張ろう」
と言うしかない。百人が千人になっても、私の野望にはまったく影響がない。総理大臣の椅子とか五輪の金メダルみたく一つしかないわけ
じゃないのだから、喧嘩にならない。絵描きがみんな鉄斎になったら、これほどめでたいことはない。けっこう毛だらけ猫灰だらけ(この
あとは汚いから書かない)、なのである。
私の希望は馬鹿げている。だいたい90歳まで生きるのはとても困難だ。私の両親とも74歳で死んでいるし、私の家系は癌体質だから、
私もきっと癌になる。そうすると、鉄斎みたいな90歳の健康的な絵は描けない。死ぬ寸前まで健康的な(鉄斎が本当に健康だったかどう
かは知らない)絵を描き続けるのは至難の業だ。だけど、頑張ることはできる。癌とかはなっちゃったらどうにもならない。お手上げであ
る。そんなの交通事故だって、火災事故だって同じこと。そんな災難を願っている奴はいない。起きないように気をつけるだけだ。心配し
ていたら何も出来ない。
心配するより絵を描くことだ。そういえば、私の塾の受験寸前講習の決まり文句は「心配するより勉強する」だったにゃぁ〜(また猫言葉
になってしまった)。
先のことより、今を頑張るしかないよ。中村彝なんて37歳で死んじゃったけど、何度見てもいい絵だもん。死だけはどうにもならない。そ
のときそのとき精一杯描くだけ。
10年7月10日
毎週水曜日にNHK教育で『あなたもアーティスト 誰でも描ける風景スケッチ 9つのコツ』をやっている。講師は増山修という若い人。スタ
ジオジブリで背景画を描いているらしい。生徒はモト冬樹と中島史恵。この前は山と湖の風景だった。先生の描き方が私とそっくりなので
びっくりした。ま、空気遠近法など中学でも習う簡単な理論を実際に筆と紙で実現するだけのことだ。
空気遠近法は遠くのものはコントラストを弱くして近くのものは強くする、というだけのこと。
しかし、これを自由自在に自分の絵に活かすとなると、やっぱりうんと描くしかないかも。そういう理論を知ってさらにうんと描かねばな
らない。
基本的な画法が同じであるのは当然といえば当然。
テレビの先生の絵は、それはよく描けている。上手である。筆もとても慣れている。
しかし、絵画作品としてはとてもつまらない。魅力ゼロに近い。むしろヘタな生徒の絵のほうが魅力的。
アニメの絵は説明である。いっぽうわれわれの絵は風景を見た感動を描いている。描きたくて描いている。増田先生は仕事として描いてい
る。それが冷静でもあり、聡明でもある。手際もよい。この感動と冷静のターニングポイントが難しいのだ。そこがまた面白い。
心底描きたいと思うものを描きたいように描く、これこそが絵画作品の真諦だと思う。
数日前に、このホームページの私の絵のコーナーを整備した。最新のヘッドページを集めたページとここ1〜2年の絵を集めたページ。さ
らに数年前まで遡って代表作を集めたページとした。
このすぐ下の「作品集」などから入れます。
10年7月3日
オルセー美術館展2010「ポスト印象派」に行った。六本木の国立新美術館で8月16日まで(火曜日休館)。入館料大人1500円。
ポストといっても郵便受けではない。「次期社長ポスト」などと言うときのポストだ(と思う)。後期印象派のこと。早い話がセザンヌ
(1839〜1906)、ゴーギャン(1848〜1903)、ゴッホ(1854〜90)だ。そのあとのボナール(1867〜1947)、ヴュイヤール(1868〜1940)
などのナビ派の絵も大量に展示されていた。また、ドガ(1834〜1916)、モネ(1840〜1926)などの生粋の印象派も少し来ていた。フラン
スのパリのオルセーだから、印象派の最高傑作が並んでいると考えていい。ロートレック(1864〜1901)が印象派かポスト印象か、どっち
か知らないけど、これまた傑作が3点。目も眩むばかりのヨーロッパの一つの頂点が今六本木に殺到している(パンフレットのコピーではな
い。私の書き下ろしだ)。
まったく、この時代のヨーロッパがやったこと、人類史上最大の犯罪。いわゆる歴史家が「帝国主義」の一言で片付けてしまう、あのおぞ
ましい侵略と搾取と殺戮。なにが「アフリカ分割」だ。ふざけるな! 人殺し!!と叫びたい。このいっぽうで、ヨーロッパがかつて達し得な
かった最高の芸術が花開いていた。まったく人間の仕業というものはわけがわからない。
印象派の絵画はフランスアカデミズムの牙城を突き崩した。しかし、一般の方々はフランスアカデミズムがどれほど凄いか、よくご存じな
いと思う。それは私のこのホームページの「絵の話」で画像つきで説明してあるが、横5mもあるような巨大な精密絵画がズラズラ並ぶのが
最盛期のル・サロンの会場なのだ。想像を絶する。現代のわれわれの感覚で例えると、『スターウォーズ』と『ターミネーター』と『ダイ
ハード』と『アバター』がいっぺんに公開されたようなもの? 筆一本でフレンチドリームを掴むことだってできたわけだ。もちろんパリ
市民は隔年開催のル・サロンを待ち焦がれていた。
それをぶち壊した。もちろん、ル・サロンの画家たちに引けをとらない修業を積んだ画力を引っさげてぶち当たった。これが凄い。現代には
こんな絵描きは一人もいない。ちゃんと絵画の基礎を叩き込んでいる絵描きなんていないのだ。そういう絵画修業があるということを知っ
ている奴さえ見当たらない。
印象派やポスト印象派の画家たちの多くは新興プチブルの子弟。お金持ちのお坊ちゃんなのだ。それが金と時間に飽かして好きなだけ絵画
修業を積んだ。そして、頂点を掴んだ。油彩画技法の最高峰(実はバロック油彩絵画も凄いけどね)。しかも、不思議なほど純粋な精神を
持っている。筆が歓喜に満ち満ちているのだ。
あの会場に数時間浸っていると「もう自分の絵なんかどうでもいい。見ているだけで楽しい。もうそれだけで十分満足」そういう気分になっ
てしまう。
まったく、ホント人類は素晴らしい!
10年6月26日
家内が友だちとブリヂストン美術館に行った。そこで私に質問してきた「印象派の画家たちは絵画革命をやったけど、今の画家はやらないの
か?」とのこと。「今の画家」というのは私のことだと思う。
フランス革命だってルイ王朝があったから、命懸けの暴挙に出た。肝心のルイ王朝がないのに革命はやらないべ、ふつう。
いろいろなものをルイ王朝に仕立てて、革命家を目指している人もいるけど、かなり無理がある。
印象派の絵画革命もルサロンを頂点とするフランスアカデミズムがあったからこそ頑張れたのだ。現代ではその宿敵たるフランスアカデミ
ズムが壊れているのに、絵画革命はないだろう。不要だ。日展アカデミズムをフランスアカデミズムに仕立てるか。日展では相手にもなら
ない。第一、日展は日本画壇に君臨していないし、実力も19世紀のフランスアカデミズムに比べれば問題にならない。この日本では私の絵
だって少しは売れるのだ。まだまだ隙間があるってこと。19世紀のフランス画壇はサロンでなければ一切通用しないほどガンジガラメだっ
た。
印象派の快挙のおかげで、われわれは自由自在に絵が描ける。だから好き勝手に描けばいいのだ。それを、印象派のように絵画革命をしで
かそうと、奇想天外なアートを創出しようとするから、トンチンカンなことになる。頭を冷やしたほうがいい。
われわれはもう解放されているのだ。
音楽だったら、ジャズやロックでいいわけだ。絵だってああいうふうに自由にやればいいのだ。でも、最低の基本はある。音楽家はデタラ
メではギターも弾けない。きっちり譜面がある。美術は、特に絵はそこんところの境目がだらしがない。ホント絵は金ンなんないからね。
致し方ないかも。絵は一枚ずつ売るんだから無理だよ。人材もいない。
10年6月19日
絵を勢いよく描くことは誰でもできる。世に激しい筆のタッチで描かれた絵は多い。もちろん私の絵もそういう部類だろう。激しいタッチ
の絵でも絵が薄っぺらいのはいけない。また、絵具がキャンバスにしっかりくっ付いていないダメだ。こういう判断は長年絵を見比べてい
ないと、難しいかも。目利きでないと出来ないかも。
私は自分が描くときは、静物でも風景でも絵の下のほうに、静物ならしっかりした土台、風景ならガッチリ広大な大地が広がっていなけれ
ばならないと思っている。マルケの風景にはすべて広大な大地がある。海の絵でも同じ。広々とした海原がある。ルドンの花の絵も花にば
かり目が行くが、下の花瓶やその下の土台が感じられる。宙ぶらりんな花は一つもない(あったら贋作)。裸婦はまず骨格だ。納得のゆく
身体の関係性が欲しい。モデルが普通にポーズを取れば、だいたい人体の美しいバランスになる。それを絵にするのはこっちの腕の問題。
曽我蕭白は大変人気のある江戸時代の日本人画家だが、私は人体表現にあやしいものを感じる。骨格がしっかりつかめていないように思う。
だけど、あれだけ墨が付いていれば文句はない。たくさん描いている感じはある。
自分の絵はわからない。夢中で描いている。だけど、絵の厚みとか人体の骨格や筋肉の動きや、静物や風景の下のほうにはいつも気をつけ
ている。それが画面に反映されているかどうかはわからない。数日後に見て合否が決まる。
相撲と同じだ。普段の稽古がちゃんと出来ていれば自然に身体が動くという。絵もふだんからちゃんとたくさん描いていれば、自然に筆が
動くはずだ。
10年6月10日
これから豊橋に行くので12日の分として本日更新する。
『駅馬車』に続いて『アパッチ砦』を見た。『駅馬車』から10年ぐらいは経っているかも。
だけど、ジョン・ウェインはまだまだ若い。『スター・ウォーズ』(前期)のソロ船長を好演したハリソン・フォードを想わせる。ジョン・フォー
ド監督はやっぱり見せるねぇ。見応え十分。頑固な中佐役のヘンリー・フォンダもいい。レンタル料金100円だもの、気楽に見られるよ。まっ
たくいい世の中だ。新聞を読むと政治も経済も最悪の世の中だけど、スシローといい、レンタルDVDといい、ユーチューブといい、「あたしゃ、
幸せだよ」。朝のフランスパンは焼き立て。一緒に飲むコーヒーも入れ立て連続4杯。パンに挟むジャムはフランス製のワイルドブルーベ
リー(けっこう高価=贅沢かも)。これが美味いんだな。目にもいいらしい(どうでもいい、美味いから)。デザートもスーパーカップ(四
分の一だけ食べる)がある。今はハッサクがないからカリフォルニア・オレンジで我慢する。OPP(遺伝子に悪影響がある防腐剤)を気にす
る歳でもない。
ジョン・ウェインとジョン・フォードコンビの映画はまだまだたくさんある。これから当分楽しめる。さらに、新聞の週間テレビ番組表を見
たらジュリアーノ・ジェンマのマカロニ・ウェスタンシリーズを連日放映している。BSだから私の家では見られない。だけど題名を見ただ
けで画面が浮かんでくる。懐かしいねぇ〜。とは言っても、私は、かなり昔のテレビの放映で見ただけ。映画館で見たわけじゃない。だけ
ど、こういうマカロニ・ウェスタンもレンタルDVDで見直すかも。『怒りの荒野』、『荒野の1ドル銀貨』、『南から来た用心棒』。いいよねぇ〜。
本当にこの世は「苦」か?
映画の話ばかりで恐縮です。絵の話は「イッキ描きブログ」でどうぞ。
10年6月5日
先週借りた映画『駅馬車』はやっぱり面白かった。恥ずかしながら私は今まで『駅馬車』を見ていなかったのだ。ジョン・フォード監督とジョ
ン・ウェインの原点かも。家内はジョン・ウェインがあまりにも精悍なのでぶったまげていた。晩年の威張った保守オヤジのイメージしかな
いと、びっくりする。黒澤明と三船敏郎の関係にも似ている。まったく『駅馬車』を見ると、黒澤がどれぐらいジョーンフォードに憧れた
か、まさに一目瞭然だ。
また、ジョン・フォード監督もヨーロッパの古典絵画をよく研究している。特にバロック絵画からの影響は大きい。映画の画面からレンブラ
ントやルーベンスが浮かび上がってくる。また、イギリスのコンスタブルの馬車の絵も思い出す。きっとジョン・フォード監督もコンスタブ
ルを見ていたと思う。
インディアンの襲撃を受ける場面は大迫力だ。今から70年前の映画。よくぞあそこまで撮影したと感嘆する。あの情熱に驚嘆する。馬や俳
優も命懸けだ。熱演である。すぐ黒澤明の『七人の侍』の決闘場面や『隠し砦の三悪人』の三船の乗馬場面を思い出した。三船も両手の手
綱を放して刀を構えていたが、『駅馬車』のインディアンも両手放しで弓を放っていた。ついこの前のリメイク版『隠し砦の三悪人』でも、
阿部寛は両手放しをやったかもしれない。
あの映画もけっこう面白かった。最近の一連の黒澤のリメイク版の中では最高傑作かも。松本潤と長澤まさみが主人公だ。けっこう楽しい。
絵でも映画でも、やっぱり情熱だね。「いい物を作ろう!」という意欲だと思う。
もっとも、ほとんどが空回り。ちゃんとしたものはなかなか生れない。