唇 寒(しんかん)集29<08/6/7〜08/10/25>

 

08年6月7日

6月を迎えられたことは奇蹟に近い。私が、というよりわれわれ夫婦が、毎月を乗り越えて今

を生きているというのはまったく奇蹟である。本当に不思議だ。そこで、とにかく、パートで

働くことにした。しかし、その収入では毎月を乗り越えられない。しかも、その前に、この6

月が越せない。6月にはまだ給料が発生しないからだ。

今日はクロッキー会があって、凄く疲れてしまい、キャンバスも残り少なくなり、精神的ダメ

ージが大きい。私でもメゲることもあるらしい。

もっとも、昨日もプールで1500m(週2回にしたので100m増やした)泳いだし、最近は腹筋や

腕立て伏せも始めた(ほんの10〜20回)。簡単にはくたばらない気概はある。

なに、絵なんてキャンバスがなくなったら紙に描けばいいのだ。どうということはない。紙も

いままで使っているのは高価なものだが、若いころに買い溜めたわら半紙ならまだまだうんざ

りするほどある。あれに描いた絵をお売りするのはちょっと気が引ける。だって、いい紙やキ

ャンバスや絵具を使っても、ちっとも売れないんだもん。まったく、一目見りゃ分かるべ。私

は驚くべき最高級の画材を使っているのだ。これが分かんないんだよな。泣きたいよ。

ハイ、本日泣きが入りました。

 

08年6月14日

若いころは、有名になって、当然の結果として金持ちになって、偉くなるだろうと、漠然とだ

が、考えていたと思う。それが野心というものなのかもしれない。父親もある程度名も出て絵

も売れていたから、当然私もそうなるものと思い込んでいた。

(これは今でも固く信じているが、)私の絵画への情熱は最上級でしかも純粋で高レベルなもの

である。私の絵画論はギリシア彫刻やルネサンス美術、中国の宋元画などを含めた人類の最高

傑作を踏まえている。その延長上にあると信じ込んでいる。宗教や思想や哲学の知見も一応ひ

ととおりは心得ているつもりだ。少なくとも、一般の画家のなかではましなほうだと思う。

で、最近だが、どうも有名になったり金持ちになったりすることはありえないかも、と思い始

めている。私としては、少しでもましな絵を描くことが人生の目的だから、富貴名声は要らな

い。もし、絵に付随することでオマケがあるなら悟りを開きたいが、これもまず無理そう。一

般論として、人は悟りを開くことがあり、頑張れば可能だという思想(平安仏教以降の仏教)は

正しいと思っている。ただ、私には出来そうもない。それも見えてきた。

絵も、少しでもましな絵を描く、という程度の希望に変わってきた。歳をとると、意欲がなく

なる。しかし、その、なくなってきた意欲は世俗的な意欲で、初めから持っている純粋な意欲

はまったく変わらない。だって、何度見てもギリシア彫刻は素晴らしいし、牧谿やティツアー

ノにはしびれるもの。

 

08年6月21日

弱肉強食とか適者生存などと言う。ダーウィンの進化論だ。これに対して住み分けを提唱した

のが京都大学の今西錦司。美術史の世界にも適者生存とか住み分けはあると思う。滅びてしま

う絵画もあるし、生き残っている絵画もある。また、時代が経つにつれて絵画は多様化してゆ

く。これもエントロピーの増大かもしれない。一筋のタバコの煙が天井に近づくにつれて、複

雑な広がりを見せる。放っておくと部屋がどんどん散らかってゆく。そういうのがエントロピー

の増大だとどこかの本に書いてあった。実は熱エネルギーがどうのこうの、だっけ?

では、絵画の王道とは何だろう?

その真の正体はわからない。われわれは、多分こうじゃないか、という推論の元に絵を描いて

ゆく。考えていて腕を使って描かないでいると、腕が鈍ってしまう。とにかく、描かなければ

始まらない。

で、私の推論(これは信仰とも言い換えられるが)は、きっとおそらく絵はまず写生だろうと

考えている。つまり、自然から学ぶと言うこと。これは絶対だ。だけど、すべてではない。尾

形光琳ももちろん自然を物凄く観察しているが、絵は作っている。絵画の構成では俵屋宗達に

倣っている。この辺の兼ね合いは難しい。

私は、あと少しで60歳になるが、いまだに写生がほとんどだ。きっと当分写生のまま行くと思

う。

ところが、現実の絵の世界は抽象やコラージュや非具象など、物凄く多様化して、何が何だか

さっぱりわからない。私は実際の花や裸婦を見ながらいまだに写生をしている。新しさという

点では100年以上前のやり方だ。しかし、私に言わせれば、長い美術史(ラスコーの壁画から3

万年)から考えれば100年なんてゴミみたいな長さだ。そんなに急に変われるものだろうか?

ここ100年の美術史はどうも信用ならない。

 

08年6月28日

アボリジニのおばあさんウングワレーの絵はピカソにも共通する線の魅力がある。いっぽう、

40歳代後半から50歳代前半のセザンヌの絵にも何とも言い難い魅力がある。

それは現代絵画や抽象絵画にも共通するように見える。本当だろうか?

確かに、抽象絵画にも魅力的な絵はあるが、私は「抽象」というのもおかしいと思う。セザン

ヌは何度も繰り返し「自然から学べ」と言っている。ウングワレーも風景を描いているという。

ウングワレーの絵は自然から学んでいるのだ。自然を描いているのだ。

裸婦を描く。何で若いモデルばかり描くのか。それは、若い女性には妊娠能力があり、子供を

育ててゆく「ちから」を宿しているからだ。それが逞しいのだ。美しいのだ。私だってジジイ

だが、ひとりの男として嫌らしい気持ちもある。だけど、そういう気持ちも絵に昇華しなけれ

ばいけないのだ。それが絵描きというものだと思う。そういう気持ちも絵へのエネルギーに変

換しなければならない。そうしないととんでもなく気持ちの悪い絵になってしまう。

絵はあくまでも結果である。結果として美しいのだ。

はじめから美しさを狙うのは傲慢だし、貧しい。出来はしない。

以前にも書いたが、果汁100%絞りたてのストレートジュースが一番うまい。天然の味を化

学的に合成した無果汁の甘味料は味も落ちるし、飲み続ければ飽きてくる。後味も悪い。ウン

グワレーやピカソやセザンヌは天然100%のストレートジュース、その効果だけ狙った現代

の抽象絵画は無果汁の合成甘味料に過ぎない。

考えてみれば、写生絵画はものすごく贅沢である。その場に絵を描きに行くだけでもすでに相

当の労力を使うのだから。私の絵は桁外れに安い。

そこの違いがわかんないんだな、世の中のほとんどは。第一、その前にみんな絵なんて見ない

けどね。

 

08年7月5日

日本画家・田中一村の人気は絶大である。一年の半分を肉体労働、あとの半分で絵を描くと聞

いた。今度、私はマンションの管理人の仕事を貰った。一ヶ月の約半分が出勤日だ。ま、一般

のサラリーマンも週休2日制だと一ヶ月20日ほどにしかならない。私の仕事は残業もないし、

業績を上げる責任もない。ブログにも書いたが、要するに留守番オヤジである。残業と業績責

任でがんじがらめの一般サラリーマンとは比べものにならない。疲れ方もちがう。十分絵も描

ける(と思う)。もちろん昇給もボーナスもないから、この点でも一般のサラリーマンとはち

がう。コンビニの高校生並みの時給だ。それは致し方ない。

で、私も現代の田中一村を気取って、半分絵を描き、半分管理人になろうと心に決めた。だけ

ど、管理人の給料ではこの家の家賃にも達しない。ここが渡世人の辛いところで、簡単には屈

託が消えない。やっぱり、気を入れて絵を描かないといけないし、なかなか明るい明日は見え

てこない。だからって、何もしないでブラブラしているよりは100倍ましだと思う。拘束時

間が多くなれば、絵を描く自由時間を慈しむ。

少なくとも、生活が変われば絵も変わる。これが重大である。絵なんて、頭で考えて変えよう

としても変わるもんじゃない。碌なことはない。左脳で考えたチャチな変化は要らないのだ。

もちろん、必ずよく変わるとは限らない。悪くなるかもしれない。そういうリスクはいつもあ

る。当たり前である。

ただ、私は絵とはそういうものだということを知っている。私の絵は必ず変わる。これをいい

ほうに変えるのが腕の見せ所なのだ。やっぱり、人生は面白い。

 

08年7月12日

10日の木曜日に『翼の王国』の取材で和歌山県立近代美術館へ行った。取材目的の絵は今の

ところ内緒だ。もちろん、その絵はゆっくり見せてもらった。そして、常設展示や企画展示も

見せていただいた。

和歌山県立近代美術館は近代の日本の洋画や日本画の収蔵が中心だ。しかし、ヨーロッパ絵画

もあるし、版画の収蔵は町田の国際版画美術館にも劣らないと聞いた。

で、日本の近代洋画や版画や日本画を見てから、次の部屋に入った。

ジョアン・ミロの部屋だった。日本人の絵とは全然ちがう。どこがどうちがうのか説明できな

いが、とにかく絵がでかい。絵描きのスケールがちがうのだ。どうしても日本人の絵はコセコ

セしている。小さい。狭い。頭を使いすぎているのか。なんか、頭で描いているみたいだ。

次にサルバドール・ダリの版画が並んでいた。

そこで、わかった。

ダリの絵の中の線を見て気がついた。

絵を描いている分量がちがうのだ。ダリは物凄くたくさんの線を引いている。私だって、たく

さん絵を描いているし、線も引いているつもりだが、全然問題にならない。ダメだ。今のよう

な調子ではダメだ。もっともっと描かなければ! 今の数倍、数十倍。

才能とか天分などという人は多い。しかし、その前に、ダリと同じだけ線を引いていただきた

い。それでダメなら、天才でも才能でも天分でも何でも好きなことを言う資格が出来る。やり

もしないで、素晴らしい画家たちを「天才」と片付けるのはたやすい。

そうか! もっともっと描くことなのだ。もちろん、私の場合、油絵は限界に来ている。油絵

では間に合わない。写生も無理。限界だ。そうなると、鉛筆とか水彩を使って紙に描くしかな

い。想像でどんどん描くしかない。それで昔の偉い多くの画家たちは想像で絵を描いたのだ。

やっとわかった。

それにしても、本当に分かるのが遅い。

私は美術館の会場で小さく呟いてしまった。

「57歳。ああ、まだ間に合うかなぁ?」

間に合わなくてもやるっきゃない。

 

08年7月19日

ダリショックから1週間経つが、別に大きな変化もない。鉛筆デッサンをやるようにはなった

けど、まだまだかな?

この前のNHK「新日曜美術館」はコローだった。私も『翼の王国』でコローを取り上げ、島

根県立美術館に行った。晩年のコローの独特な風景画は「銀灰色」と言われる。これを私は「ぎ

んはいしょく」と読んでいたら、NHKのナレーションは「ぎんかいしょく」と発音していた。

「へー、『ぎんかいしょく』って読むのか。でもそんなの関係ねぇ」と思った。だって、『翼の

王国』に読み仮名は振っていないもの。セーフだ。客死は「きゃくし」じゃない。「かくし」で

ある。これも同じ「新日曜美術館」で知った。だってこんな言葉、ふつう使わないもの。

 

梅田望夫の『ウェブ進化論』をとうとう読み終わってしまった。読み終わるまでに、このホー

ムページを大改革しようと企んでいたのに、いかに遅読の私でもそろそろ読了する。ああ、ま

たホームページの改革はなしか。ま、一応グーグルアドセンスはつけた。これもなかなか付か

なかった。グーグル検索も付けたいけどもう気力がない。

管理人は真面目にやっている。多分、絵にもそれほど支障はないと思う。勤務時間は1ヶ月100

時間にならないし、通勤時間は往復15分ぐらいだから問題ない。

 

08年7月26日

なぜか(というか私がドジなだけだが)、更新日がグチャグチャになっている。「唇寒集」のとき

は修正します。

ところで、毎日物凄い暑さが続いている。毎日毎日どんどん暑くなってゆく。8月に入るころ

には40度を超すかも。ああ、まったく8分間の通勤も歩きたくない。わが(私が管理員をやっ

ている)マンションでは、連日工事をやっているが、工事現場は暑さと粉塵で物凄いことになっ

ている。私は一度チラッと見ただけだが、毎日頑張っている現場の職人はたいへんだと思う。

まったくよく生きてるよ。朝は早いけど、10時、お昼、3時、と休みがあり、夕方の4時30

分か5時にはみんな上がる。連日残業のサラリーマンには羨ましいような労働時間だが、あの

作業は10分もやったら気が変になる。暑さ、粉塵、臭い、騒音。まったく地獄だ。

このごろは工事現場に女性も見かける。若い女性もいる。そういう人と仕事のちょっとした打

ち合わせで会話するだけでも、若い職人は楽しそうだ。それぐらいの喜びがなくてはやってら

れない。ロマンスの一つも生まれろや!

ああ、キャンバス張らなくては!!

 

08年8月2日

夏は、夏休みがあるから、みんな夏が好きになる。大人になると暑さに参る。だけど、電気代

も安くなる(私はエアコンを滅多につけない)し、洗濯物もよく乾くし、陽も長い。お若い恋

人同士には陽が長いのはシャクの種だが、一般に陽が長いのは嬉しいことだ。朝、水をかぶる

のも苦痛ではなく快適になる。

だけど、テレビをつけると、戦争モノが気を重くする。原爆投下とか敗戦などはすべて8月だ。

水曜日の夜中にNHKの「証言記録兵士たちの戦争」を見てしまった。いまNHKのホームペー

ジで確かめるとガダルカナル島の話だったらしい。二千数百名の日本兵が投入され、8割以上

の兵士が亡くなったとある。だいぶ前に見た、やっぱりNHKの戦争記録映像では、そういう

ムチャクチャな作戦を立てた人間が戦後も国会議員などになっているという話だった。今回は

そういう話はない。しかし、作戦とは言えないような無謀な、兵士の命をどのように考えてい

たのか、まったく理解不能な命令である。

もちろん、戦争自体が理解不能だけど、竹島の映像などを見ていると、「あんな無人島が何だよ」

と思ってしまう。あんなにムキになって、一番いけないのは戦争だろが。あの無人島を巡って

何万人も死ぬのか!? 

元兵士のお爺さんたちは口が重い。生き残ったことへの罪悪感がある。20代の若者、今テレビ

で歌を歌って踊っているような若者が、数字として扱われ、「何千人投入」などと一把一括り

で殺されてゆく。相手の兵士も殺さなければならない。

戦争はダメだ。何が何でも戦争はダメだ。

 

08年8月16日

更新をすっかり忘れていて、2日遅れになってしまった。まことに申し訳ありません。

ブログは1週間休むし、ホームページは2日も遅れてしまった。やっぱり管理人の仕事のせいか

もしれない。

私が通うマンションは5つの棟からなる。230世帯が住む、まぁ、大きいほうのマンションだ。

管理人の仕事はほとんど一人の世界なのだ。入社試験のときも、試験かアンケートかに「長く

一人でいられますか?」という項目があった。管理人と言っても、私の仕事は窓口業務が多い。

言ってみれば、店番みたいなものだ。ジジイの店番である。だから一人が多いし、空白時間も

ある。

やってみると、私は一人が嫌いじゃない。けっこう楽しく過ごしている。家にいるときより充

実している。

マンションの中を巡回する。これはけっこうきつい。1時間ほど歩く。私はこれを体育の時間

と呼んでいる。事務の仕事も思ったよりは多いが、国語の時間や美術の時間も取れる。

非番の日にはプールへ行く。そうすると、相当の運動量になる。健康的だが、けっこう食べて

しまうので、案外痩せない。あと2キロ痩せてもいい(現在69キロ)と思っている。

ところで、今は北京オリンピックの真っ最中。一番注目していた競泳競技は終わった。オリン

ピックは20代の人々が中心だ。ほんとうに若い人の世界だな、と思う。もちろん魅力に富んで

いる。だけど、もっとも魅力的な世界もある。美の世界だ。これにはジジイが一枚噛んでいる。

だから、なかなか面白い。まったく人間て奴は計り知れない。

 

08年8月23日

キャンバスをまったく張っていない。すごくヤバい。もう限界が近い。だけど、張ろうとする

と曇っていたり雨が降ったりで、けっこうチャンスはない。ベルギー製のクレサンキャンバス

だから、扱いが面倒だ。

ま、管理人の仕事をしているから、自由時間も減ってしまった。そのために張れないこともあ

るが、管理人の仕事は月の半分なんだから調整できないわけはない。この前も1週間豊橋で泳

ぎ捲くっていた。もちろん絵も描いていない。夏は泳ぐに限る。アクセクしたって碌な絵はで

きない。

画家を目指すお若い方は毎日描き続けてください。1日描かないと3日下手になります。

ブログのほうでは、男女のことを書いているが、なんせ経験が少ないから大したことは書けな

い。だけど、切ない思いや惨めな思いはやって言うほど経験している。けっこう役に立つかも。

無差別殺人者のブレーキになれば、幸いである。

 

08年8月30日

やっとキャンバスを張って地塗りをした。9月からはまたたくさん絵を描くつもりだ。目当て

の芙蓉も咲き始めた。ここのところの雨で、今年は開花が遅い。去年までの絵の制作年を見た

ら8月31日のもあるし、10月1日もあった。ま、つまり9月の花ということか。それにし

ても、私がここ数年描いている芙蓉は立派な花だ。普通のピンクの芙蓉もきれいだけど、私が

描かせてもらっている芙蓉は白で幾分大きく花の芯がちょっと赤い。閉じるとピンクになる。

酔芙蓉というらしい。あれは凄い。もうすぐ咲く。

これからも、どんどんキャンバスを張る。手が痛いが、年内の分を全部張っちゃいたい。出来

れば、来年の等迦会の100号も張っておきたいなぁ。その前に会費を算段しなければ・・・

今日もキャンバスの裁断だけはする予定。裁断がけっこう面倒なのだ。場所もとるし、間違え

るとエラいことになる。私はケチだからギリギリで裁断してしまう。そうすると、張るのがま

た大変なのだ。

ブログは「アカデミズムの研究」シリーズ。もちろん反アカデミズムについて述べたい。

 

08年9月6日

和歌浦付近で描いたのは7月上旬だったが、汗びっしょりになった。この水曜日には三浦半島

の長者ヶ崎で海浜を描いた。このときも汗びっしょり。まこと真夏の写生は辛い。しかし、何

度も言うように、写生とアトリエ画では根本的にちがう。太陽と風と巨大な空間のなかで実際

の風光に浸りながら筆を使わなければ風景とは言えない(と思う)。体力が続く限り現場主義

で行きたい。

花も香りに包まれながら描かないと、香り立つような絵にはならない。

まして、写真を見て描くのは、何が描きたいのかさっぱりわからない。上手いと言われたいと

か、正確に写したいのか? だけど、写真を見て描いた絵は一目でわかる。孫の笑っている顔

など、明らかな絵も多い。

写真は、元の写真を見ていたほうが楽しいと思う。絵に直しながら可愛い孫を思い出している

のかも。それなら、展覧会に発表する必要はないのでは。会場に本物の孫でも連れてきたほう

がよっぽっど賑やかでいい。

そう言えば、わがマンション(住んでいるところではなく管理人をしているところ)は、赤ちゃ

んや幼児が凄くいっぱいいる。私は別に子供好きではないが、太宰(治)のように「嫌い」と

公言するほど嫌いではない。子供は面白いなと思う。少なくとも、大きくなろうとして必死で

はある。懸命だ。

ブログのほうは、まだ反アカデミズムが続いている。

 

08年9月13日

われわれは絵が好きなんだと思う。絵を描くのが好きなのである。で、花も好きだ。今は酔芙

蓉が見事に咲いている。素晴らしい。だけど、その花の家のご主人(奥さんだけど)は、酔芙

蓉を愛している。私は所詮余所者だ。バラでも、家庭のバラは育てている奥さんが本当に小ま

めに面倒を見ている。われわれは春と秋に絵を描くだけだ。もちろん描くときは「ああ、奇麗

だな」と思いながら描く。だけど、その花に対する愛着は育てている人の比ではない。風景で

も、たとえば海の景色なんかでも、地元の漁師は、その景色がどれほど素晴らしいか、よく知っ

ている。われわれが物知り顔に景色を愛でても、そんなのは上辺だけのことだ。だけど、絵に

する気力はある。絵を描きたいのだ。申し訳ないが、花や風景はキッカケに過ぎない。

裸婦も、確かに私は女性の裸が大好きだけど、絵を描くのはさらに好きだ(本当かな?)。私の

ことはさておき、女性のあらゆる肢体を描いたロダンやピカソは絵が好きだったんだと思う。

女性以上に絵が好きだったんだ。女性も十分好きなのだろうが、さらに絵が好きだった。

キャンバスに、たっぷり絵具を含んだ太い筆でバンと背中の線を描く。なんという幸福感だろ

う。私はあの瞬間が大好きだ。プールで思い切りターンして、北島康介みたいに身体をまっす

ぐに水中を突き進むより楽しい(あのターンの瞬間も楽しいけどね)。

ブログのアカデミズムの話はまだ続いている。

 

08年9月20日

絵が全然売れない。個展もやってないんだから当たり前かもしれないが、びっくりするぐらい

売れない。だって、去年も一昨年も売り上げで200万円ぐらいはあったのだ。今年は20万円ぐ

らい。もう9月半ば過ぎだもんネ。これじゃあ、生活の糧にはならないよ。もちろん、200万円

でも生きてゆけないけど、第一計算が立たない。ま、自営業者はみんな同じだろうとは思う。

絵なんてなくても暮らしに支障はない。特に他人の絵なんて要らない。

だけど、絵は描き続けていないと腕が落ちちゃう。売れないからと言って不貞寝しているわけ

にもかない。反抗期の中高生じゃないんだから。第一、絵は描きたいもん。描かないわけには

いかないよ。

今は管理員の仕事をしている。これで去年ぐらい絵が売れたら、シューマンのCDも買える。

実は昨日ダイソーで(=105円で)買ったけど、希望の曲はなかった。やっぱ3000円は用意し

ないと無理。

管理員の仕事はけっこう肉体労働だ。とは言っても歩くだけだが、毎日1時間以上歩く。他の

仲間の人が万歩計を付けたら1日1万7000歩だったと言う。凄い! 私の体重も68キロ代後半に

減ってきた。少しずつ減っている。身体が引き締まった感じもする。いくら健康でも生活でき

ないんじゃあ話にならない。

ブログは仏像の話など。

 

08年9月27日

まだ更新には1日半ほど早いが、今日これから豊橋に行くので、更新しておく。

絵とはなんだろう?

むかしの絵は解説だった。現代は写真も映像もある。さらにイラストレーターもいる。後世に

画像を残す方法はいくらでもある。

さっき見ていた画集には、セザンヌはすべての目に見えるものを等価値においたなどと書いて

あった。

ルオーは「芸術とは熱烈なる告白である」と言った。

私が見てきたいろいろな絵画や彫刻のかなで、「ああ、素晴らしい」と思ったのは牧谿の水墨

画だ。牧谿(1280年ごろ活躍)は臨済宗の僧である。お坊さんが本業だ。前にも書いたが、富

岡鉄斎(1836〜1824)は自分は絵描きではなく神官であると言い張った。良寛様は、世の中に

つまらないものが三つあると前置きして、料理人の料理、書家の書、歌詠みの歌と語った。

絵描きの絵もダメなのかもしれない。

絵は造形だと思う。線や色や形が見るものをドキッとさせる。その驚き、喜び、感動が絵の素

晴らしさだと思う。何が描いてあるとか、どうやって描いてあるとか、大きさなどは二の次の

問題だ。

だから、図象学とか「この絵は何かを象徴している」などは絵画の本質からは遠い(好きな人

には面白いらしいけど)と思う。

私の絵に対する考えが世の中に理解されるのは物凄く難しい。気が遠くなるほどたいへんだ。

だけど、ちゃんと描き続けて、ま、言いたいことは言い続けるしかない。ホームページやブロ

グがあるだけでもありがたい。

 

08年10月4日

9月20日のこの欄で絵の売り上げについて「去年も一昨年も売り上げで200万円ぐらいはあった

のだ。今年は20万円ぐらい」と書いたが、実際には50万円ぐらいはあった。忘れていた。もち

ろんそれでも十分少ない。

世の中はどんどん不景気になり、今年の豊橋展も期待できない。

と思いながら、豊橋展のDMを作った。自己紹介のところに「京橋・金井画廊にて企画個展(

連続9回継続中)。08年等迦会にて大海清三賞受賞。07年から全日空『翼の王国』に「日本の

名画を旅する」連載中。00年より豊橋にて個展(8回目)。等迦会委員」と書いた。

これを読み返してみるとけっこうハッピーじゃん、と思った。

満足していいかも。

もちろん、上を見れば切りがないけど、金井画廊の企画展は絵描きにとってはそうとう魅力的

だ。それが9年連続なんて夢みたいだ。もちろん、ある程度定期的に買ってくださるお客様が

複数いらっしゃる。ありがたい話だ。

また、『翼の王国』の美術記事もまだ続いている。これにも驚く。

私は、他の多くの画家より美術史に詳しいし、昔の偉い画家の絵を見るのが好きかも知れない。

だが、美術記事の書き手は、私以外にもいっぱいいると思う。私が書かせてもらえるのは奇蹟

みたいだ。

うん、私は幸せ者なのだ! 頑張ろう!!

 

08年10月11日

もちろん、今まで株なんて買ったことはない。全然興味はない。だけど、株式ニュースはいつ

も見ている。その日の株がいくらぐらいかだいたいは知っている。で、金曜日の終値は8000円

台の前半。これはえらいことだ。世界同時株安? 世界大恐慌? 兜町はたいへんな騒ぎになっ

ている。

こういうときは概ね絵も売れない。実に困る。

株で儲けようとする輩が多いと、株は乱高下する。儲けるんじゃなくて投資しようとしなくて

はいけない。「株で一儲け」ではなく「投資してその企業を援助する」のだ。これが正しい株

への姿勢だ。

日本の株価が8000円のわけはない。頭を冷やしたほうがいい。

確かに、今の日本の総理大臣とかも含めて、金持ちは鼻持ちならない。旨いもの食って、旨い

酒飲んで、いい服着ている。それはアメリカも同様。恐れを知らずに調子こいている。

人類、というか俺たちは猿だ。猿がそんなに調子のっていいはずがない。なにがセレブだ。寝

ぼけるな!

ま、バカは致し方ない。放っておくしかない。

おそらくきっと長くて6ヶ月、短ければ2週間の間に収まる。収まってくれなければ困る。本当

は6ヶ月は困る。この半年の間に3回ぐらいは個展があるのだ。勘弁してもらいたい。

 

08年10月18日

株の話は全然わからないけど、株価の上がり下がりを1929年の世界大恐慌に比べるのはおかし

いような気もする。同じ大きさの石でも、バケツに落とすのとでかいプールに落とすのでは水

の反応は全然ちがう。つまり、戦前の世界経済の規模と現在の規模はまるで違うのだから、い

くら下がったと言っても世界恐慌みたいにはならない気がする。まさか世界大戦に繋がるわけ

ではないと思う。そうなれば、もちろん人類は終わる。少なくても今の文明は終わる。でも、

こと美術に関するなら、終わってもいいぐらい下らない。というか、初めから終わっている。

ああ、古代ギリシアの彫刻家の鑿の動きが見たいよ。800年前の中国に行って、梁楷や牧谿が

筆を揮う姿を拝みたい。

美術が元気だったころが羨ましい。

戦後の画壇美術もけっこう頑張ったと思う。このごろゆっくり再評価され始めている。金井画

廊などでもたまに扱っている。まだ、都美術館が建て直される以前の、あの長谷川利行(1891〜

1840)も描いているむかしの都美術館のころの画壇だ。私の子供のころ。国画会には梅原龍三郎

がいて、香月泰男も小泉清も里見勝三も曾宮一念もいた。独立美術協会には鳥海青児とか児島

善三郎、春陽会には岡鹿之助と中川一政、新制作協会は小磯良平と脇田和って感じか。1950年

代かな。

「キャンバスに絵具が付いている」ってことが最大の課題だったころだ。

「絵具を付けるのは体力だ」と父もよく言っていた。同じ絵描きでも若いころはよく付いてい

たのに、団体の中堅に落ちついて、少し絵が売れ始めると、絵もペラペラになってしまう。そ

ういう絵描きもいた。おもしろかったなぁ。

もちろん現代だって、絵具を付けるのは至難の業。こんなことを繰り返しやっているのは私ぐ

らいかも。無形文化財だよな、まったく。

豊橋展のため、来週25日の更新はありません。皆様、お元気で。

 

 

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