唇 寒(しんかん)集11

 

02年10月6日

帯状疱疹はほぼ完治。昨日からまた泳ぎ始めた。

7月ごろ、10月以降は生きてゆけそうもないと書いたが、その通りになった。やっぱり現実は凄まじ

い。「炊くほどに 風が持ち来る 落ち葉かな」という有名な歌があるが、この歌はちゃんと「炊いて

いる」という前提付きでの話。私としても一応いろいろがんばったり考えたりしているのだが、この程

度では世の中「炊いている」とは認めてくれないらしい。

しかし、それでも救いの手はあるもので、おそらくきっと間違えなく来年の春までは生きられる。この

間に2重3重に手を打つ。

と、飯のおかずにも事欠く今日この頃だが、例によってのヤケクソで、茅ヶ崎に行った。海を見たいこ

とと茅ヶ崎市美術館で「川上涼花という画家がいた」展(10月27日まで)をやっていること。

私には茅ヶ崎に遠い親戚がいて、これが経理事務所の経営者で大金持ち。子供のころ泊めてもらっては

茅ヶ崎の海岸で泳いだ覚えがある。もしかすると加山雄三と一緒に泳いでいたのかもしれない。桑田圭

祐はまだ生まれてないか、赤ちゃんで海で泳ぐのは無理。だから、今日は本当に懐かしかった。その遠

い親戚の家も確認した。しかし、海はイマイチ。上潮だったためか、砂浜が狭くてがっかりした。それ

でも烏帽子岩はちゃんとあった。

「川上涼花……」展はなかなかよかった。中村彝や萬鉄五郎、岸田劉生などの代表作がたくさん見られた。

涼花よりも友人の絵に惹かれて申し訳ないが、上の3人はやっぱりよかった。少し前、1910年頃の

日本の洋画界(ヨーロッパ美術への憧憬2(わが先輩たちへの賛歌))を調べたので、特に楽しかった。

さらに帰りに隣の市立図書館に寄ったら古い画集がいっぱいあって、探していたファブリのレンブラン

トが置いてあった。レンブラントの絵を「この絵は炎のような手によって描かれた」とゴッホが言った

ことを確認した。

 

立花隆の『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』を再度読み直

しているが、立花隆はどう少なく見積もっても私の10倍以上の本を読んでいる。しかも相当難しい本

ばかり。やっぱり学者はあれぐらいでないとダメか? ま、初めから競争する気はない。

われわれにとって、ああいう人は本の紹介者としては最高。

紹介されていた本のなかで一番興味をそそられたのは、『長江文明の発見』(角川選書 1800円)。

徐朝龍という長江(=揚子江)文明発掘の中心的人物の著作。「こんな大河に文明がないわけがない」

とは私が高校時代から抱いていた疑問だが、この著者も同じ原点から出発している。ただ、私のは「興

味」程度。あっちは生涯をかけた「情熱」。しかも、見事に開花結実した。

中国の四川省出身。四川省と言えば「四川味噌味、中国四千年の歴史」とすぐ思い浮かぶ。インスタン

トラーメンの中華三昧の、あの四川省である。次は吉川英治の『三国志』。四川省とは三国志の蜀の国。

ユートピアみたいな、神秘の国・理想の国と書いてあった。隠れた偉人がいっぱいいて、みんないい人

ばかり。平和で豊かな文化を持った地域ということになっている。諸葛孔明も蜀の出身。

さらに、私にとって蜀と言えば南宋絵画の牧谿の出身地。どうも、中国の絵は揚子江周辺にいいものが

多い。

最近ちゃんと読んだ本は、また中野幸次。『自分を生かす”気”の思想━幸田露伴「努力論」に学ぶ』 。

書店で見かけた。「”気”の思想」と題され、(「天才論」じゃなく)「努力論」と書かれたら手に取

らないわけにはいかない。そのうえ、中野先生の著作となれば、どうしてもちょっと読み始める。集英

社新書だから単行本の半額以下。夏は少し金があるのでつい買ってしまった。この辺の事情は立花隆と

全然違う。私は超庶民である(自分ではこの身分をけっこう気に入っている=本なんてたくさん買って

も邪魔だし、第一読みゃあしない)。

原本の幸田露伴の『努力論』も岩波文庫だから買えない本ではないが、この辺の書店には全然ない。中

野先生の話によると難しくてとても読めない、とある。それでも一度は原本を見てみたい。難しい難し

いと言われる「正法眼蔵」だって読んでみるとけっこう行けるのだ。

ま、この「気」については近いうちにさらに詳述する。

本日の更新は「唇寒集10」。先週までの「唇寒」を収録した。

また、とうよう塾のホームページも更新しました。

 

02年10月13日

「家庭画報」という雑誌に石原慎太郎と瀬戸内寂聴の交換日記ではなく往復エッセイなるものが掲載さ

れていた。全部は読んでないが、慎太郎は政治家だし理屈っぽい。第一男だから男性的な硬い文章にな

る。寂聴は物凄くこなれた柔らかな書き出しで読むものを引き込む。ま、私は簡単には洗脳されないか

ら最後まで読んでない(=よほど文字が嫌い)。世の中まことに恐ろしい。こうやって並べられたので

はやりきれない。寂聴は実によく文章を書いている。そろそろ80歳だと思う。あそこまで生きるだけ

でも立派なのに、さらに文章を書き綴り続けている。ここが凄い。あんな人は滅多にいない。やっぱ、

一種の人間国宝だと思う。

絵でも文章でも量をこなさなくては始まらない。特に絵は一目見て線描の鍛錬がわかる。「描いて

るぅ」って感じが爆発してなくてはダメだ。ヨーロッパの巨匠の絵は、ピカソでもデ=クーニングでも

描きに描いているという感じが画面から溢れている。まず最低ああじゃなきゃ話にならない。「描く」

という行為は才能も頭脳も要らない。どんどんやればいい。誰でもできる。まずこれが土台。当たり前

である。

ところで、「50歳まで生きれば、もうそれだけですでに悪党だ」というようなことを親父が言ってい

た。50歳ではなく40歳だったかもしれない。きっとどっかの諺集にでも載っていたのだろう。親父

は諺集みないなのを繰り返しよく読んでいた。だから今52歳の私も当然悪党だ。

先週茅ヶ崎市美術館で川上涼花の展覧会を見た。涼花は34歳で死んでいる。中村彝や岸田劉生の絵も

あったが、彼らはそれぞれ37歳、38歳。文学のほうでも正岡子規(36)、樋口一葉(24)、石

川啄木(27)、国木田独歩(37)、宮沢賢治(37)、芥川龍之介(36)、若山牧水(43)、

太宰治(40)と数えれば切りがない。あの夏目漱石だって50歳でなくなっているのだ。

自殺だったり、結核だったりそれぞれ死因は違うが、気持ちはそんなに変わらないと思う。つまり「ば

かばかしくて、やってらんねぇ」ってこと。

こういう美術史や文学史に名を連ねている人たちはほとんどが親の資産で生活し、資産を使い切ったか

ら死んでしまった、というパターンである。すなわち全然売れなかったのだ。

先日、近所の家から庭になった葡萄をいただいた。甘みはほとんどないが、深みのある懐かしい味わい。

しかし、あれじゃあ八百屋では売れない。八百屋の葡萄はもっとずっと甘い。絵や詩や小説も同じよう

なものだ。本当にいい本物は売れないのだ。

美術史家や文学史家が悪いのかと言えば、そうとばかりも言えない。とにかく、美術史では死んでから

30年経たない画家は一切扱わない、ということになっているらしい。ま、これは確かにそうあるべき

だなとも思う。

しかし、これじゃあ、ちゃんとした画道とか文学の道を志す人間は死ねというようなものだ。熊谷守一

も言っていたが、絵描きは他の仕事をしてはいけないという変な風潮がある。絵ばかり描いていなけれ

ばいけない。こんな風にパソコンで遊んでいてもいけない。私のパソコンごっこを嫌うコレクターもい

る。ま、これは豊かな心の洗濯だから勘弁してもらう。早い話が欲求不満の捌け口。スンマセン。

と、ここから本音を言わせてもらう。たわごとだから聞き流して頂きたい。

やっぱり、われわれは死んではいけないのだ。生き抜く。悪党でも何でもいい、とにかく生きて生きて

生き抜くのだ。死んだら負けである。善人の仕事で終わるから。本当のいい絵には「悪」が入っている

ものだ。それが人間の残す轍だ。一人前の人間のやったことということだ。もちろん「悪」はいけない。

ゴメンナサイである。だから、いい絵には「ゴメンナサイ」も入っている。そういうことも全部含めて

の絵なのである。

われわれは絵が描きたいのだ。キャンバスに絵の具を塗ったくりたいのだ。筆を縦横に走らせたいのだ。

それは生きていなければできない。生きているからできる。

長谷川利行が「生きることは絵を描くことに値するか」と言った。答えは簡単。「値しない」。しかし、

生きていなければ絵は描けない。われわれは大宇宙よりも立派な大きな精神を持つことができる。しか

し、ちっぽけな生体であることも事実。食わなければ死ぬ。死ねば絵は描けない。当たり前である。

 

私の住む町田市の成瀬は子供が多いと思う。大変目に付く。外を歩いていると脇を自転車ですり抜けた

り、通りのこっちと向こうで大声で怒鳴ったり笑いあったりしている。傍若無人、天下泰平である。子

供天国だ。ま、これはいいことだと思う。世の中は子供のためにあるのだ。子供が主人公なのである。

子供を主人公にしておけば、まず間違えない。世界のニュースを見ると、子供が本物の機関銃を持って

血だらけになって戦っているような光景もあるし、まだ小学校に入る前の子供が汗をびっしょりかいて

炎天下で働いている映像もある。ああいう国は不幸である。平和で豊かな国なら子供が幸福だ。

 

今度ノーベル賞を貰った小柴昌俊さんの本を私は10年も前から持っている。講談社のブルーバックス

という科学専門の新書だ。その「はしがき」に「この本は私の最初で最後の本となる」とある。だから、

私は凄い本を持っているのである。小柴さんは小児麻痺で手が不自由だから本がすらすらと書けないら

しい。ま、しかし、今度ノーベル賞をとったのだから、新しい本の注文が殺到するだろう。

私みたいな門外漢がどうして小柴さんの本を買った(安い本だが)かというと、このホームページでも

アップしている「宇宙の大きさ」について調べていたからなのだ。私はビッグバン否定派なので、小柴

さんの本も半分しか読んでいない。がしかし、どうも世間の趨勢は「ビッグバンは当然のこと」となっ

てしまっている。このこともあまり気にすることでもない。つい500年前までは、地球が宇宙の中心

だった。誰も疑わなかった。さらに、世間の邪馬台国論争はどうも大和説に有利に傾いてきた。最近の

発掘結果が九州説に不利なのだ。私は高校時代から九州説。もちろん、ただの好き嫌いでそう思っただ

け。深い研究などまったくしていないし、実地に何かを調べたわけでもない。考古学の一般向けの入門

書をちょっと読んだだけだ。数年前に安本美典という人の本を最後にほとんど足を洗っている。この前、

インターネットの検索で「安本美典」と引いたら、まだしっかり九州(甘木)説でがんばっておられた。

話を宇宙に戻すと、先週も書いた立花隆の「ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そして大量読書術・驚

異の速読術」に野心的宇宙論として『宇宙進化論』(麗澤大学出版会 3600円)が紹介されていた。

今われわれが見ている半径160億光年の宇宙はたくさんある宇宙の一つに過ぎないという壮大なス ケー

ルの宇宙論。こういうスーパー宇宙論では、スペースシャトルの飛ぶ宇宙は海に例えれば、子供の海水

浴みたいなもの。浜辺でぴちゃぴちゃやっている程度。小柴さんの実験も沖合漁業程度の規模か? ビッ

グバンは否定してないが、あちこちの宇宙でビッグバンが何度も繰り返されているというのが凄い。

 

02年10月20日

10月18日(金)の朝日新聞の『折々のうた』は、幕末の歌人・大隈言道(おおくまことみち)。

「なみのうえにみをなぐばかりうち入れてやがて静かにうく鴎(かもめ)哉」

大岡信の解説のおしまいのところに、「水鳥の一連の動作の描写は実に鋭敏な観察力で、

現代歌人と何ら遜色がない」とある。「現代歌人と何ら遜色がない」? まことに「?」。

これはどういう意味だろう? だって、幕末期の和歌が現代和歌より劣っているはずは絶

対にない。科学は進歩しているらしいが、絵や詩や音楽が進歩しているなどと聞いたこと

もない。私の知る限り、和歌の最高は万葉集。これに優るものはない。西行や芭蕉や良寛

などを除けば、和歌とか俳句はだんだんつまらなくなって、近代短歌、現代短歌と凋落す

るばかり。美術史とまったく同じ。幕末期の歌人が現代歌人と遜色がないのは当然過ぎる

ほど当然。

「折々のうた」と言えば、毎朝、朝日新聞の第一面に連載されている時代をリードする詩

歌の評論。しっかりしてもらいたい。寝言を言って貰っては困る。大岡信ほどの人が本気

で言っているとも思えない。見識を疑ってしまう。

だいたい、絵とか歌とか音楽などの芸術は動乱期に素晴らしいものが生まれる。それは、

動乱期には素晴らしい人間が輩出するからだ。素晴らしい人間が素晴らしい芸術を作る。

当たり前である。ま、もっとも、もともとは誰もみんな素晴らしい人間なのだろうが、平

和は才気を眠らせる。

いつも命に係わるような状況の中にいると人の勘も鋭くなり、気も冴える。松尾芭蕉は常に

身を旅に置き、苦痛や不安の中で気を磨いた。

現代歌人? 笑わせてはいけない。こんなぐーたらでデタラメな現代に幕末期を上回る歌

人がいるわけがない。役人は嘘ばかりついて、大企業はインチキ商品にデタラメなレッテ

ルを貼っては詐欺まがいの商法。はっきり言って日本はもうおしまいである。

ところで、大隈言道は、はじめ、無名多作の地方歌人と見られていたが、明治になって佐々木

信綱が称揚してから、同時期の橘曙覧(たちばなあけみ)と共に、幕末期最高の歌人と認め

られるようになった、とある。橘は別な本(中野孝次の「清貧の思想」文春文庫p112)

にも登場していたので知っていた。

橘曙覧の和歌でちょっといいと思ったのは

「歌よみて遊ぶ外なし吾はただ天にありとも地(つち)にありとも」

 

と、話のつじつまは合わないが、今、北朝鮮から帰国している曽我ひとみさんの生まれ故

郷での挨拶は、まさに現代望郷詩の最高傑作。

ご存知の方がほとんどだと思うが、再録する。

   私は夢を見ているようです。人々の心、山、川、谷、みな温かく美しく見えます。

   空も、土地も、木も私にささやく。「おかえりなさい」。

   町がたくさん変わってびっくりしました。

   だけど、町の人たちの心は24年前と変わっていません。

曽我さんは高校時代から詩心があったという。高校時代の詩も見たが、こちらは全く月並み。

それに対して、上の挨拶文はどうか。まさに杜甫をも凌ぐ驚くべき望郷詩! 24年の歳

月が現代詩の最高傑作を生んだのだ。

今朝もテレビの「新・日曜美術館」でピカソをやっていたが、ピカソは誰がどう見ても絵

画の天才である。14歳であれだけの絵を描いたのだから「天才」と呼ぶしかない。佐々

木豊が語る「天才」はとっても怪しいが、ピカソの天才は否定できない。モーツァルトな

ども同様。最近の詩で言えば、井上陽水には物凄い才能を感じる。詩にも絵にも「才能」

というものは確かにあると思う。

しかし、それにもかかわらず、私は芸術の本質は全然別のところにあると断言したい。

上の曽我さんの詩を見ればよくわかる。この詩(=挨拶)には特別な才も感じられないし、

何の技巧もない。しかし一言隻句に切々たる思いが滲んでいるではないか。曽我さんが「山」

と言うとき、これは物凄く具体的な「山」である。24年の思いの丈がこもった「山」で

なのだ。この曽我さんの「山」はこの世のどこにもない曽我さんだけの「山」である。詩

とか絵などというものはこういうものだと思う。これがすべてだと思う。才能や技巧など、

世迷言に過ぎない。

今回の5人の帰朝者の思いは誰もそれほど変わるものではないだろう。しかし、短い文の

中にぎっしり思いを詰め込んでどーんとこちらにぶつけて来たのは曽我さんだった。これ

を感動というのだ。そして、感動がなければ、才も技も蜂の頭もない。

 

ここで、また立花隆の「ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚

異の速読術」(文芸春秋)から。アインシュタインの言葉(p267)。

「名声を得るにつれて、ますます愚かになりました。まあ、ごくありふれた現象ですが」

「安楽と幸せそのものを目的と見なしたことは一度もない。そのような倫理上の原則を私

は豚小屋の理想と呼ぶ」

「おもに個人的な願望の実現に向けられた人生は、つねに遅かれ早かれにがにがしい失望

に終わります」

「科学全体は練り上げられた思考にほかならない」

「世界の永遠の神秘は、その理解可能性である。……世界が理解可能だという事実は、ひ

とつの奇跡だ」

『アインシュタインは語る』(大月書店 1900円)。私はまだ読んでない。

 

本日の更新も「唇寒」のみ。正直言って、最近パソコンに飽きてます。

 

アクセスカウンターについて一言。ごらんのようにアクセスカウンターをつけたが、以前

のように毎週アクセス数を数えるのはやめた。というのは、このカウンターはページから

戻る度にカウントしてしまう。どんどんアクセス数が増える。これでは正確なカウントは

できない。また更新するときも、昔は1〜2ぐらいのカウントだったが、今のは10以上

もカウントしてしまう。ま、1ヶ月に1000を超せば上々と思っている。40000か

ら始めたのは、以前の空白部分や今回の空白部分を総合してこんなものだろうと予想した。

どのみち大雑把な数字である。

 

02年10月27日

久しぶりにラジオをつけたら、山下達郎がしゃべっていた。「君はきっと来ない。一人き

りのクリスマスイヴ」というあの歌の作者だ。竹内まりあが奥さんだったか? その話の

中で、ミュージシャンになって一番嫌だったことは、他の人のコンサートに行けなくなっ

たことと言っていた。やっぱり音楽家は音楽が好きなのだ。ここが絵描きとは違う。

 

よくインタビューなどで「優先順位」というのを尋ねている。自分の中で何が一番大切か?

という質問。家族とか仕事とか妻などと答える。将棋の羽生さんは当然「将棋」と答える

だろうと思ったら、特に将棋にはこだわっていないとの答。ま、だいたい質問自体程度が

低い。暮らしの中に「優先順位」なんてないはず。家族を含めいろいろな人や負担や楽し

みが絡み合って生きているのだ。そのときそのときで優先順位は変わる。羽生さんが将棋

の対局をしているときは将棋が一番だろう。家族といれば、家族が一番。当然である。

 

今週の『折々のうた』は26日(土)のがよかった。

最近の人の俳句かなと少し期待したが、やっぱり幕末の女性俳人だった。

寝ざめ寝ざめ果は寝過す夜長かな

田上菊舎(1826年、74歳で逝去)という人の句。

 

本日は、リンク特集と行く。仮リンクということで、とりあえずここにご紹介する。あと

で、「おすすめホームページ」のほうに移動する。

「KOIKOIホームページ」はわが学習塾の麒麟児だったK君のお父さんのページ。現

役の都立高校の先生。先生の子が来ているなんて、当塾はよい塾なのである!

「ちょっとだけ? 病気の話」はなんとあの「北の国から」の北海道は富良野市の内科ク

リニックの先生のページ。写楽に興味がおありでリンクしてくださった。

「若林裕助のホームページ」はよくわからないが、どうも宇宙物理学がご専門の様子。そ

のうちノーベル賞を貰うかもしれない人のページ。

「シルクロードクラブ」は去年の夏、わがクロッキー会のグループ展をやってくれた竹口

氏のページ。中の「井出万里子」のページは私のリンクのページより作品が多く、内容も

豊か。

「空色空間」はバイクで世界を旅する人のページ。羨ましいような自由人。

 

02年11月3日

昨日(11月2日)の「折々のうた」はやけに色っぽかった。

  抱かれれば女と生まれしこと憎む 日々重ねきて別れを決めぬ

道浦母都子(みちうらもとこ)という女性の和歌。『無援の予情』(昭和55年)所収。

思想の上で食い違いのある恋人と結婚。とある。結婚生活は3年間続いた。セックスは大

脳でやるものらしいから、やっぱり相当色っぽい。私はこの女性歌人の容貌を知らないの

で、想像豊かになってしまい、いい歳をして思わずぞくっとしてしまった。思想よりあっ

ちだろと劣情を抑えられぬまま、何も別れることはないのにと呟いた。

色っぽいと言えば、この前の休みに公園を散歩していたら、5人家族が遊具で遊んでいた。

上の4歳ぐらい子はお父さんと、下の2歳ぐらいの子はおそらく休日に遊びに来たおばあ

ちゃん(父方)と、少し離れてお母さんが手持ち無沙汰にたたずんでいた。このお母さん

がやけに色っぽい。どんな顔形かは忘れた。夫と夫の母に子供を取られて、解放された気

分と寂しい気持ちが入り交ざり、どこか孤独でなぜかぞくっときてしまった。ま、一瞬の

光景だからどうということはない。私も犯罪者にはならないだろう。

と、何か毎週俳句や和歌の話ばかりになってしまい、絵の話からどんどん遠のく。もちろ

ん絵は描いているからご心配なく。お前も俳句や和歌も作るのか? と問われると、全然

創れないから、ご安心を。絵だって自分は描かないのに評論したりコレクションしたりする

人がいるのだから、俳句や和歌にそういう人間がいたっていいようにも思う。美意識とい

うものがあるなら、私は俳句や和歌への美意識のほうが絵の美意識より高いのかもしれな

い。美意識が高すぎて創れないのではないか。絵のほうは怖いもの知らずでじゃんじゃん

描くのかもしれない。第一、絵は筆を振るう運動でもある。運動はやっぱり癖になるもの

だ。だって、描きたくなるもの。もしかすると俳句に比べると相当原始的な作業なのでは?

ところで、「大岡信」(「折々のうた」の作者)とパソコンで検索したら、いっぱい出て

きて、中に絵の評論があったジョセフ・ラヴという年配の画家。写真家でもあり、美術評

論も書く。この人のページがあるからご覧ください。ホームページで見る限り悪くないと

思った。ジョセフ・ラヴ アートギャラリー

 

本日は、体調不良のため、ここまで。先週ここにリンクした方々はリンク集「おす

すめホームページ」へ移動しました。

 

02年11月10日

やっぱり絵はなかなかうまく行かない。今年は秋のバラが美しいと初めて知って、ずいぶ

ん描いたが、残せるものは数枚にとどまった。情けない。

11月26日は等迦展の搬入。100号を2枚出す予定だが、全然できていない。

この難局をいったいどうやって切り抜けるのだろうか? 暮らしも絵もいつもハラハラド

キドキ。絶対何とかなる、何とかするという根拠のない自信がある。まったく根拠がない

のにどうして平気なんだろう。われながら不思議でならない。

中野孝次の『清貧の思想』がやっと読み終わりそうだ。この本には西行や良寛などの文人

が出てくるが、絵描きでは池大雅が登場する。実は私は池大雅はあまりいいと思っていな

い。少し時代が下る浦上玉堂のほうがずっといいと感じている。どうも中野先生は絵のこ

とはよくご存じないようにも取れる。

世界の名言・名句集という古い本がある。金園社という出版社の、めくっていると喘息が

出そうな物凄く古い本。その「絵画を美しいと思う人々に」という項目に「世界で、絵画

を理解する人間は、二千人以上はいないだろう。そのほかの人間は理解したふりをしてい

るだけでさっぱりわかっていないのだ━不詳」とあった。「不詳」というのは誰が言った

かわからないという意味。

二千人とはやけに少ないが、本当のことかもしれない。

もちろん私自身だってまるっきり分からない。自分の絵はいいと思っているが、本当にい

いのかどうか断言はできない。ま、私は自分だから私の絵に付き合うしかない。どうにも

ならない。不思議なのは、私の絵を買ってくださる方々。年間数十万円しか売れないから

商売にはならないが、私の絵みたいな乱暴な絵によくお金を出してくれるものだと感嘆し

てしまう。

もちろん私はセザンヌの塗り残しも知っているし、ロートレックのクロッキーも実物を何

度も見ている。ルネサンスの巨匠のデッサンの本物も見ている。ロダンのクロッキーも熟

知している。

しかし、一般の方はあんなものを本当にいいと思いはしないだろう。普通セザンヌならち ゃ

んと色が塗ってある絵を評価するし、ロートレックでも絵の具の多い時間の掛かった絵を

高くかう。ルネサンスの巨匠の絵でも大きな壁画とかびっちり絵の具が詰まっているタブ

ローを思い浮かべるだろう。ロダンと言えばほとんどの人が「考える人」の作者だと思う。

当たり前である。数秒で描いたロダンのクロッキーを第一に挙げる人はいない。

しかし、セザンヌの塗り残しの多い風景画は本当に透き通っていて美しいし、ロートレッ

クのクロッキーは描く喜びに躍動している。ルネサンスやバロックの巨匠のはがき大の小

さなデッサンは宇宙のような大きさがある。物凄く美しい線描が交錯している。ロダンの

着彩されたクロッキーには目も眩むダイナミズムがある。ドガが目が見えなくなってから

残したパステル画の美しさはどうだ。

しかも、そういう西洋の傑作は中国や日本の11世紀の禅宗絵画に通じている。東洋の水

墨画はまさに絵画の神髄めがけて一直線に突き進む。人間の描くという行為をギリギリま

で追い詰め、その切羽詰ったところで一気に逆襲している。

ウイリアム=ブグローは西洋の油彩技術の一つの頂点に達した画家だ。写実はもうあれで

十分。あれ以上のものはできない。

私は油絵の具は画材だと割り切っている。耐久性があり、混色も(最低の原則を知ってい

れば)比較的自由。大きい絵も小さい絵も描ける。乱暴に筆を振るっても簡単にはキャン

バスは破れはしない。立って描ける。などなど絵を描く実用面に並外れて優れている。だ

から油絵で何でも描く。クロッキーも油絵でやる。

私はブグローは目指していない。絵画の神髄を求めたい。塗り残したセザンヌの絵や古典

の巨匠のタブローにではなく意欲に溢れる小さなデッサンを慕う。ドガやロートレック、

ロダンなどのクロッキーに限りない憧れを持っている。

しかし、こういう方向が正しいかどうかは分からない。絵画に対するとんでもない冒涜な

のかもしれないし、時代遅れの古臭い懐古趣味なのかもしれない。はっきり言ってそんな

ことはどうでもいい。私は本当に自分がいいと思うもの、感動できるものを繰り返し見、

また、その心意気を真似たいだけだ。もちろん売れなくたって一向に構わない。

でも、おそらく私は正しい。私の絵は買っておいたほうがいいと思います。くれぐれも。

 

本日は、今月の絵を更新しました。

 

02年11月17日

友人にヨーロッパの古典絵画が4500枚入っているCDを貰った。もちろんまだ全部見

ていない。物凄い分量だ。

先週話題にあげたウイリアム=ブグローも20枚ぐらい入っている。ブグローを20枚も

まとめて見るのは初めて。

一般の方はブグローなど知らないかもしれない。1825年生まれのフランスの大巨匠。

印象派の台頭で美術史から消えかかっている。しかし、最近流行のイタリア料理のファミ

リーレストラン「サイゼリア」の天井画に使われている。喫煙席の天使の絵。サイゼリア

にはラファエロもあるからご注意を。淡い色彩の優しい感じの天使がブグローの絵。

今度20枚ほどを連続で見てみると、改めてその画力に感服する。やっぱり完璧である。

あの絵をどうやってけなすのか? ロダンなど(ルノアールも)ボロクソにけなしている

(『ロダンの言葉』岩波文庫。画家を目指すお若い方は必読です)のだが、よくもまあ、

あんなによく描けた絵をけなせるものだと思う。私はブグローの本物を何枚か見ているが、

なおさら驚く。完全絵画と呼びたい。ちなみにゴッホはブグローを褒めている。

このCDでブグローの直後にセザンヌを見たが、その下手さ加減は月とすっぽんだった。

いや、本当にセザンヌは下手! びっくりする。ま、どっちの絵を買うかと言われると、

やっぱりブグローは買わないような気もする。買うとなるとセザンヌかなぁ? もともと

買えるような財力はないからまったく分からないが。

 

ところで、有名画家は羨ましいだろうか? なんだか最近どうも「有名」は最悪なんじゃ

ないかと思い始めた。もちろん金は必要だが、それほどたくさん要らない(しかし、今の

状態では困る。もう少し必要)。エグゼクティブとかエリートとかセレブなどと言われる

ほどには要らない。自由に絵が描ければいい。絵が売れたり褒めてもらうのも嬉しいが、

一番の喜びは描いている最中にある。考えてみればありがたい話だ。この歳で、楽しいこ

とがあるのだからこれほどいいことはない。父親に感謝しなければいけないかも。

 

父と言えば、この前テレビで見た「インディージョーンズ━最後の聖戦」は面白かった。

無論、何度も見ている映画だが、父子のちょっとした科白が父の側から聞けるようになっ

た所がよかった。あれぐらいの映画だと何度見ても面白い。父子が捕まってしまって、も

う死ぬしかないというとき、父親役のショーンコネリーが「とうとう分かり合えなかった

な。もう少しだったのに」というところは、息子を持つ父親の時代や場所を越えた偽らざ

る気持ちだと思う。その点、私の父親は私に対して特別だったかもしれない。ちなみに、

私は自分の息子に対しては、ショーンコネリーと同じ心境である。

 

本日は、風邪のため更新は「唇寒」のみです。申し訳ありません。

 

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