唇 寒(しんかん)集7

 

02年3月3日

以前ここに記したホックニーの画集はTASCHENではなく、美術出版社のものだっ

た。最近見つけた求龍堂の長谷川利行はちょっといい。値段も3000円と手ごろだ

し、長谷川自身の言葉がたくさんちりばめられていて楽しそうな本。萬鉄五郎の「大

正のアヴァンギャクド」(二玄社、こっちはなかなかない)を探していて見つけた。

しかし、2年前の長谷川利行展のカタログがあるのでとりあえず買うのは我慢した。

図版はほとんど重複している。しかし、求龍堂のはレアウトが面白い。

 

越後の良寛(1758〜1831)は私たちより200年も昔の人だ。この人が凄いのは、

「ひとり仏教」を実践したところ。本当のお釈迦様の言動にならおうとした。本物の

沙門であり仏教徒であり僧侶だ。

たくさんの遺墨が伝わる(絵も少しある)から、時を超えて良寛の造形が感得できる。

誠にありがたいことだ。前にも書いたかも知れないが、私は良寛の般若心経を何度も

臨書した。良寛の字は細くてゆったりとしている。じっくり丁寧な感じ。一字一字の

書体が少しずつ違う。左の払い(「永」八法では掠)は魅力的で、まことに痺れる。

良寛の生き方を学ぶといってもわれわれにはとても無理。今日読んでいたところでは

良寛は村の老人に呼び止められ野山で酒を酌み交わした、とあった。だいたい私は酒

を飲まないから、初めから真似はできないが、老人と酒など酌み交わしたら若い頃か

らの自慢話ばかりで息が詰まるのではないか? 私の数少ない経験だとそんなことを

想像してしまう。ま、おそらく良寛は相手の話などほとんど聴かずにうんうん頷いて

だけいたのだろうと思う。子供と遊んだり、老人の相手をするのは良寛のボランティ

アである。

われわれが良寛を倣うとすれば組織に与せず、できるだけ独りで頑張る、というぐら

いのところか? 

 

道元やら良寛やらの話ばかりしていたのでアクセス数がどんどん落ちてしまった。息

子の大学も駒沢大学になってしまった。困ったものだ。息子は浪人はせず合格した大

学に進むということで、近場の駒沢に決めたが、そこが曹洞宗の大学であることは全

然知らなかったらしい。法学部だが、毎週坐禅をやらされるかもしれない。私はいい

と思っている。道元に興味を持ったら、道元関係の本は山ほどあるからいくらでも読

んで欲しい。宗教の時間なら私が代わりに受講したいぐらいだ。

 

本日の更新は「唇寒」の1月27日以降の分を「唇寒集6」のなかに含めて掲載

しました。

 

2月3日は、けっこう知られていない地球や宇宙のコーナーを発展させた「宇宙の寸

法」の 「広がる宇宙」を更新。小林秀夫の「無常ということ」をカバーしました。

また、「偉大な天文学者たち」を少し書きました。

 

先週のアクセス数は162。200を大きく割り込みました。

2月の月間アクセス数は767。

アスキーの新しいホームページ案内にわがページも小さく紹介されていました。総数

15万件とのこと。

 

02年3月10日

鈴木宗男はとにかくよく働く。私の10倍は動き廻っている。選挙のときの映像など、

お世辞抜きで命懸け。ふか〜く反省しました。

昨年からの田中真紀子がらみのニュースをずっと見てきて、一番腹立たしい奴は福田

官房長官! 悪の枢軸と見た。川口外相は全然ダメ。だって、NGOの大西さんが嘘

を言っているわけないもの。外務省は嘘ばかり。田中真紀子は戦争好きなアメリカと

手を切って独立外交をしようとしたし、外務省に対しても毅然としていた。こうなっ

てみると、田中真紀子の真実がはっきりわかる。鈴木宗男をここまで追い込んだのも

田中真紀子の功績。テレビの解説者たちがどういう奴だったかも概ね掴めた。内閣支

持率の急落を見ると、国民、とりわけご婦人はちゃんとしっかり見抜いている。

それにしても、ごろごろよくテレビを見ていたものだ。これでは絵も描けないし、本

も読めっこない。

しかがって、今だに『ゴッホの証明』を読み終わっていない。それでも半分以上は読

んだ。あれを書いた先生は本格的な美術大学の受験指導講師だと思う。あの本を読ん

でいると石膏デッサンの指導を受けているような感覚になる。画学生には最良の受験

参考書なのかもしれない。しかも、ゴッホの贋作証明だから面白いし、デッサン指導

にはゴッホの絵を使うので、超楽しい。画学生が読み通せば相当の画力アップが期待

できる。私の画力もアップしたかも。

 

クレーの絵の前で谷川俊太郎が自前の詩を朗読している。テレビの『新・日曜美術館』

の終わりのところ(実はここで寝床から出た)。その顔だちとか服装などを見ている

と何となく中野幸次みたいだ。ここのところ、ずっと中野幸次に凝っているから、い

ろいろな本の後ろの写真などでよく見かける。今の日本の知識階級のスタイルか? 

どうもあんまり憧れられない。もちろん私が今からどうじたばたしても知識階級には

絶対なれないから憧れても始まらない。私の好きな服装は絵の具だらけのズボンとよ

れよれのシャツ。髭を剃るのも、頭を刈るのも大嫌いだ。できれば鼻毛も抜きたくな

い(風邪をひきやすくなる)。やっぱりだーだー人生である。

それでも一応死にたくはない。前にも書いたが、映画『タイタニック』のラストシー

ンを見たときには思わず心のなかで「死にたくねー」と叫んでしまった。

道元は生から死へ移るのではないと言う。生は生、死は死。別の「くらい」だと説く。

だいたい私は生と死を比べること自体前からずっとヘンだと思っていた。だって生は

何十年も続き、死は一瞬である。こんなもの比べられるだろうか? 

だから、生と死を比べる人は、生は何十年も続くのではなく、この一瞬であるという

認識に基づくいているにちがいない。生も一瞬、死も一瞬。一瞬どうしの比較なのだ。

生が一瞬であるという認識は相当の思索レベルに達していなければならない。これが

究極の悟りなのかもしれない。

 

ところで、やっぱり坐禅と絵を描くことは全然違う。私は2月17日の「唇寒」で、

われわれは坐禅ができない代わりに絵を描き、クラシック作家たちと一体化するなど

といきまいた。しかし、実際にそういう姿勢で絵を描いてみると、とてもできやしな

い。坐禅はただ座っているだけだから実にシンプル。絵を描く活動は複雑すぎる。さ

らに絵はあとに残る。これがまたいいことのようでもあるが、けっこう邪念も産む。

しかし、多くの禅坊主が書を残し、絵を描いてきた。白隠は修行の邪魔として永く書

画をやらなかったが、60歳を過ぎる頃から並外れたエネルギーを費やする。ま、人

生やりたいことをやらなければ嘘だろう。線が引きたい、絵が描きたいとなれば、そ

うするしかない。これが初めで全てである。だから、私の絵は商品ではない。絵を見

る人のことなんてまるで考えていない。「癒し」も蜂の頭もない。それで嫌なら勝手

にしろということだ。

ある画商が私の絵を「あんなものは描きかけだ」と評したが、まことにその通り。世

間一般の絵を見ていると私の絵は絵ではない。しかし私はそういう魔境にはまり込ん

でしまった。

ただ、よくよく見ればクラシック絵画でも奇麗に仕上がったタブローはほとんど弟子

の手によっている。工房の主は最初の下絵のデッサンと最後に少し手を加えるだけ。

重大なのは描きかけのような小品と線描が折り重なった小さなデッサンである。われ

われには工房もないかわりに、立派なタブローもない。もともとそんなものは不要な

のだ。生粋のレンブラントは数秒で描き上げたクロッキーのなかだけにある。それこ

そが珠玉の息づかい。そこのところがわが魔境なのである。東洋の古い水墨画はすべ

てこの生粋の極上のところだけを残している。まことに吸い込まれるような美の極致。

本日の更新は「唇寒」のみ。真鶴港で日向ぼっこをしてました。

 

先週のアクセス数は185。

 

次のなるびクロッキー会は3月23日(土)、4月13日(土)、4月27日(土)

5月3日(金・祝日)、5月25日(土)

時間は午前10時から午後1時まで。場所は町田市立国際版画美術館アトリエ。

  なお、来年3月18日〜23日の国際版画美術館市民展示室作品発表会の作品を募集

中です。

わが学習塾のページもご覧ください。2月11日に更新。

とうよう塾ホームページ「かがやく子どもたち」です。

 

02年3月17日

今朝は雪舟だったからちゃんと『新・日曜美術館』を見た。

テレビを見た後、集英社の日本美術絵画全集で復習もした。

感想。

雪舟は絵が下手である。

また、美術家の森村さんはかわいそう。せっかく絵を描いたのに仕上がった絵を画面

に映されなかった。描いているところは映っていたので、だいたいわかる。全然線が

引けていない。墨を使ったことがあるのだろうか? それより、普段絵を描いている

のか? たいへん疑問。なんか、筆をぐにゃぐにゃ這わせたり、筆の先を指ではじい

たり、洒落たことをやっていた。森村さんは5、6分は描いていた様に思う。雪舟の

あの絵は1、2分で仕上がっている。雪舟の破墨山水を真似ようなどと、土台無理。

雪舟は下手だが、それは岳翁とか玉澗に比べてのこと。

さらに、『新・日曜美術館』の終わりのところで、道元が開いた永平寺の襖絵を公開

した。古いものではない。現代の二人の画家が描いた。感想。

雪舟は絵が下手だが、この二人の絵は絵ではない。中国人の女流画家の道元像は少女

漫画より酷い。

とにかく、このホームページでは悪口は言わないようにしている。でも、やっぱり言

わなければならないことは言っておいたほうがいい。テレビで公開した以上宣伝にも

なるのだから、多少反対意見を言われることは覚悟の上だろう。所詮絵の話。すべて

主観に過ぎないのだから、気にすることはない。あんな絵描きがはびこっていたので

はわれわれの絵は売れない。売れないことを喜んだほうがいい。あんなものと一緒に

されたのではやりきれない。

「絵描きのみなさん、もっと墨のお勉強をしましょう! 墨が画面に全然付いていま

せん」

 

本日の更新は「唇寒」だけ。また海へ行ってしまいました。昨日は大磯(ここは穴場

です。特に電車で行くと抜群)。今日は稲村が崎(しかし鎌倉のクレーまでは行きま

せんでした)申し訳ありません。

 

先週のアクセス数は174。

 

02年3月24日

3月21日(木)、体調を崩していたので何もできないからちょうどよかった。朝か

らずっとテレビ。『イタリア・夢の美術館』である。「作品番号◯◯」という言葉が

今だに耳から離れない。とにかく朝の8時30分から夕方まで5時間半。せっかくの

祭日を無にした悔しさをお察しいただきたい。ま、体調を崩していたんだから仕方な

い。

古代ローマから現代までずーっと見せられると、やっぱりレオナルド、ミケランジェ

ロ、ラファエロはずばぬけて素晴しい。特にラファエロは人気がある。レオナルドや

ミケランジェロのいかめしく男性的な様式をそっとオブラードで包んで優しく大衆化

したのがラファエロか? 浮世絵風景画の北斎と広重の関係も似ている。北斎は男性的

で広重は女性的だ。ま、雪舟と等伯についても同じようなことが言えなくもない。

ラファエロの後はやっぱりつまらない。それだけ見ていると「凄い」と思うが、比べ

ると、三大巨匠はぬきんでている(もちろんティツィアーノは別格)。

それにしても西洋の絵は血生臭さい。この前のスピルバーグの映画『プライベート・

ライアン』でも初めのノルマンディー上陸の場面だけ見てもう止めた。テレビ放映だ

からどうということはない。子供の頃に見た『史上最大の作戦』とは大違い。凄まじ

いリアリズムである。あそこまでやらないと戦争の恐ろしさがわからないだろうか?

この問題はたいへん厄介である。たとえば、中学生の修学旅行で広島の原爆ドームを

訪ね、原爆の恐ろしさを教える。やっぱり知らないとまずいか?

人間の戦いの歴史はまことに凄惨。ヨーロッパでも中国でも大陸の侵略と掠奪の歴史

は言語を絶する。ヨーロッパ人はこれらを記録し後世に残そうとしてきた。だから絵

画もどうしても血生臭さくなる。

宗教画でもキリスト教の絵は磔の場面などが多い。仏教絵画では覚えがない。どうも

東洋の絵は山水や花鳥風月、人物でも偉い人の像などばかりが思い浮かぶ。東洋の絵

で残酷なのは絵巻物に少しと円山応挙にちょっと、明治期の月岡芳年ぐらいか。まだ

あるのだろうが、どうも受容されない。

ギリシアにも戦争の彫刻がいっぱいある。もちろんギリシア美術に文句はないが、ど

うしても気になるところが2つだけある。一つは奴隷がいたこと。もう一つは、パル

テノンを造ったときそれまでの彫刻をすべて捨ててしまったという話。確かにパルテ

ノンはずば抜けて素晴しいが、さらに古い時代の彫刻も悪くはない。なにも捨てるこ

とはない。そういうところがどうも引っかかる。

考えてみると、東洋はなかなかいい。宗教でもお釈迦様には奥さんも子供もいる。寿

命も80歳と天寿を全うしている。どこか、安心できる。イエス・キリストも魅力的

な人だが、お釈迦様に比べると若くして死んでしまったし、もちろん結婚もしていな

い。子供もいない。ま、何かをやり遂げようというなら家族は大きな負担だが、誰も

彼もが独身を通したら人類は滅亡してしまう。

 

本日の更新は『今月の絵』。今週は「絵の話」の新作をと意気込んでいたが、またも

挫折。おそらく来週も難しそう。

 

先週のアクセス数は164。

 

わが学習塾のページもご覧ください。3月11日に更新。

とうよう塾ホームページ「かがやく子どもたち」です。

 

02年3月31日

相変わらず仏教に凝っていて、中野孝次の本を読み続けている。読むのが遅いからな

かなか進まない。『風の良寛』は読み終わった。中野の良寛はこれが2冊目で、前に

『良寛の呼ぶ聲』があると書いてあったので、そちらも入手(といっても図書館)。

『風の良寛』では、良寛が出雲崎に来る前に諸国を行脚しているときの描写がある。

ここは圧巻。また、最晩年の貞心尼との交流も凄い。貞心尼は良寛の下の世話までし

て、最期を見取った。昔の尼さんは今の看護婦さんに近い仕事もしただろうから、わ

れわれが考えるより一般的なことなのかもしれない。その辺のところはもう少し調べ

てみないとわからない。とにかく驚いた。

いっぽう、立松和平の『ぼくの仏教入門』も読んでいる。冒頭、立松は妊娠している

奥さんを日本に置いてインドへ旅立つ。ぐんぐん引き込ませる。さすがは小説家だ。

しかし、どうも途中からつまらなくなる。つい中野の方を読んでしまう。立松は多く

の人と交わって何かをしようとする。やはり、若い頃の学生運動の名残というか、そ

れがまだ続いているのだろうか? どうも理解できない。われわれは絵を描く。絵は

まったくひとりの世界だ。だから、人と絵の話をするのも煩わしい。小説家は取材も

必要だろうから、いろいろな人と接しなければならないのかもしれない。根本的に異

質な感じを受ける。妊娠している奥さんを日本に置いてインドに行くというのも、ど

うも符に落ちない。インドとかブッダとかいう人間が赤ん坊を作るだろうか? その

辺の事情も不明。連れ合いが妊娠したら普通いろいろな計画は諦めそうなものだ。一

般的には堅気の仕事に就く。

 

ところで、400ページの『ゴッホの証明』もやっと読み終わった。ゴッホのある自

画像が偽物だという話。ま、こういう読み物がないとゴッホの手紙など読み直さない

から、やっぱり楽しい。それは良寛も道元も同様。そういう手引き書みたいなものが

あるとまた原書に当たりたくなる。『ゴッホの証明』に出てくる自画像にはあまり興

味がない。われわれはいい絵を見るのであって、興味がなければゴッホだろうがドガ

だろうが、ろくに目もくれない。ゴッホの『左利き』という自画像など全然知らなかっ

た。いいと思ったこともない。だからどうでもいい。もともとゴッホだって誰だって

失敗はあるし、駄作もあるだろう。偽物が紛れ込む隙はいくらでもある。小林英雄の

指摘は概ね納得できる。テオ(ゴッホの弟)の連れ合いヨーがいろいろな悪だくみを

したという話もありうること。しかし、私にはどうでもいい話なのだ。私はゴッホの

『アーモンドの花』や『オーヴェールの雨』がちゃんと保存されていればいい。あれ

が偽物だというなら、その偽物作家を尊敬する。別にゴッホに義理はない。われわれ

が真っ先に見るのは作品であり、作品がすべてなのである。これは映画を見るときも

同じ。まずいい映画があって、監督は誰だとか原作は誰だなどと調べる。同じ監督で

もつまらない映画はいっぱいある。いい監督を辿ればいい映画に出会う確率が高いだ

けだ。ま、しかし、最後はやっぱり人間なのだが。

 

本日の更新は予告通り、『唇寒』だけでした。

 

先週のアクセス数は179。

 

02年4月7日

4月に入って1週間が経ってしまった。展覧会の季節が始まる。

妻の両親が介護認定になり、豊橋から帰れなくなった。それでも明日から仕事だから

ぎりぎりさっき帰ってきた。介護といっても私は大したことはしない。車の運転ぐら

い。嵐山光三郎や舛添要一のように自慢できる介護ではない。しかし、とにかく妻の

両親は二人暮しだから、これから大変である。私の意見は元どおり直って貰う、これ

に限ると考えている。しかし、これはとてつもなく難しい。難しいが不可能ではない

ようにも思える。ロクな働きもないのに一人前の意見を言うのもはばかられるので、

公にはできない。ま、とにかく豊橋は遠い。

今回は豊橋展の絵も運んできた。

介護の合間(とは言っても必要なのは私より車)に写生に行ったが全滅だった。

実は3月の末ごろは描く絵描く絵がうまくいって「ついに名人の域に達したか」とそ

ら恐ろしいような気分だった。ここらはまことに不思議である。それが今度は全然描

けない。絵の具が付かない。まるでダメ。やっぱり絵を描くのはハンパではない。思

うようにはいかない。

というわけで、本日はこれまで。

東名は順調だったのにどっかのトンチキが事故を起こして到着寸前で大渋滞。ふらふ

らです。

 

先週のアクセス数は不明。3月の月間アクセス数は779。

 

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