唇 寒(しんかん)集69<24/7/5〜>
24年9月14日(土)
不安を煽っちゃオシマイ
水泳でもとにかく「泳いだもんの勝ち」という気持ちでプール
つい先ごろも大きな地震があった。
まったく地震て怖いよね。予知できない。天気予報だって(私
の感じでは)ほとんど当たらない。
現代科学とか最先端技術などと言っても、人の予知能力なんて
知れている。
ヒトがアフリカから旅を始めたころのは、6万年前(2000年が30
回)とも言われる太古の昔。人々はどういう心持で過ごしてい
たのだろうか? 明日の天気どころか1時間先の天候もわからな
い。天気どころか、衣食住の安全な確保もままならない。野獣
に襲われる可能性も低くない。野獣よりも怖いのは他の人かも
しれない。犯罪や殺人や戦争。
病気のこともまったく不明。人の寿命も20年ぐらいだったと聞
く。
不安と心配で平静ではいられなかったのではないか?
そういう暮らしのなかにも喜びはあったと思う。笑うこともあっ
たに違いない。夕焼けは見惚れてしまうほど美しかったはず。
夜空の星も桁外れの美しさ?
いっぽう現代は人の寿命が80年を越して90年に迫っている。普
通に暮らしていれば衣食住の心配はない。詳細な天気予報を5分
刻みで知ることもできる。最近は住宅街にもクマが出没してい
るが、大多数の都市にクマはいない。
医療も発達、衛生管理も整っている。
しかし、本当に不安はないか? 平静でいられるだろうか?
地震の予知も隕石の落下などもまだ未開発だし、落雷さえも防
げない。
戦争は絶えないし、犯罪も多様化凶悪化している。
現代でも悲しみしかない人は多いし、笑わない人もいっぱいい
る。
そういうときに、宗教の価値は計り知れない。NHK大河『光る君
へ』を見ていても陰陽師(おんみょうじ)を全面的に信じてい
る。平安時代どころか何万年前の大昔から宗教は人も心を支え
てきたに違いない。
まったく人は弱い。
本心、私はバカバカしいと思っている。しかし、人類の生き続
ける確かな方法はないのが現実。神にすがるしかない。神にす
がる姿勢はバカバカしくても納得できる。
そういう人間の悲惨な状況を上手に綴ったのがフランスのパス
カル(1623〜1662)だ。
その後のニーチェ(1844〜1900)なども人類の絶望を語った。
それはお釈迦様も最初に述べている。四苦八苦の教えがそれ。
で、「ではどうするか? どう生きるか?」という次の段階に
なると西洋哲学はとても弱い。仏教はその第二段階を最重要視
する。
宗教にもいろいろあるが、人の不安を煽って、この教団に入信
すれば救われる、みたいな宗教はインチキだと思う。
お釈迦様はそういうインチキ教から人々を目覚めさせようとし
たのだと思う。
この話を続けたらキリがない。
24年9月7日(土)
勝利者なのか?
「描いたもんの勝ち」という信念で生きてきた。
水泳でもとにかく「泳いだもんの勝ち」という気持ちでプール
に向かう。
実際にはメチャクチャめんどくさい。行きたくない。家でダラ
ダラしていたい。金にもならない。
脳は物凄く嫌がっている。
でも、9月2日に行った外プールは前日の雨で水も綺麗だったし
温くもない。心地よい冷たさ。入水前に身体に水をバシャバシャ
かけている時点で無限の幸福感に浸ってしまった。やっぱ家の
グータラより100倍いい。
面倒だと思いながらプールに行く。ジジイだから準備体操も大
変。それでも考えずにドンドンやる。
行くと言ったら行くのだ!
絵も同じなんだよねぇ〜。
油彩画の場合は地塗り段階からめんどくさい。絵具も筆も揃え
ておかなければならないし、画溶液も調合しておかなければな
らない。当たり前。
いくら描いても納得いく傑作はほとんど生まれない。買っても
らうことはほぼゼロ。
それでも描き始めるとすべてを忘れて絵画境に入れる。その幸
福感は「幸せだなぁ〜」とも思っていない。わけわかんない状
況。そういう状況に入れること自体幸福だ。
涅槃寂静かなんか知らないけど、無我みたいな境地に入れる術
を知っているのは有難いことだ。水泳も自転車こぎも同類かも。
水泳とかでもけっこう苦しいんだけどね。その苦しみのなかに
やめられない魅力がある。でもだんだん遠のくのかも。そのう
ち「めんどくせぇ〜」が優ってやめてしまい、あの世に逝くの
かもしれない。
外プールは朝10時から。飲まず食わずで泳ぐ。泳いだあとのブ
ランチはたとえようもなく旨い。それも水泳の魅力だ。泳ぐ前
の食事我慢もハンパないけどね。つらいよぉ〜〜。
辛さとめんどくささの向こうに無限の幸福がある。
それはまったく金にならない。金に関係ない。
いやいや自転車こぎはウーバー配達だから金に関係あるなぁ〜。
絵だって極たまに買ってもらえる。
いろいろ考えたって始まらない。
「描いたもんの勝ち」「泳いだもんの勝ち」
この思想がすべてである。
人生の敗北者でも輝く幸福の瞬間を知っている。
これって本当に敗北者なんだろうか?
もしかすると、ムチャクチャ勝利者なじゃねぇかぁ〜?
24年8月31日(土)
続・人生80歳から
ミケランジェロ(1475〜1564)の彫刻は「ミラノにある《ロン
ダニーニのピエタ》が最高だと思う」と先週述べた。
《ロンダニーニのピエタ》はミケランジェロが88歳のときに彫っ
た。死の3日前まで鑿を入れていたと伝わる。つまりミケラン
ジェロの絶筆(絶鑿?)とも言える。
でも、その作品が最高傑作というのは、本当だろうか?
私の偏見ではないか?
モネのフジやバラにしても、本当に若いころの《印象・日の出》
とか《旗で飾られたモントルグイユの街》などよりいいのだろ
うか?
ま、富岡鉄斎(1837〜1924)の《瀛洲僊境図(えいしゅうせん
きょうず)》(8月30日ブログに図版アップ)なら誰が見ても確
かにいいと言うだろう。画面が透き通っている。絵具がピッタ
リくっ付いている。本当に美しいもんね。
私は何度も言うように20歳代の前半から85歳過ぎの老芸術家の
作品が光り輝いていることを知っていた。
25歳のときにヨーロッパへ行ったときに見たティツィアーノ
(1488/90〜1576)の《荊冠》などにもはっきり老境の画力を
見た。ティツィアーノには二つの《荊冠》がある。ミュンヘン
の80歳ころの《荊冠》とパリのルーブルにある52〜55歳の《荊
冠》だ。2作を比べると俄然ミュンヘンのほうがいい。一目瞭
然だ。
でも、そういう画家はほんの一部。だいたいの画家は衰える。
私自身、80歳を過ぎてますます絵がよくなる自信はない。
鉄斎なんか、74歳のころの絵も悪くはないけど、85歳過ぎの絵
と比べると色がないもんね。画面の厚みも劣る。
やっぱり、私の見立ては正しいのかなぁ〜?
死ぬ寸前の爺さんがド素晴らしい。
そう言えば、禅宗には「遺偈の書」っていうのもある。禅僧が
死ぬ間際に書く偈のことだ。いくつかは国宝になっている。
絵とか彫刻って、85歳が55歳に勝ってしまう世界なんだよね。
一般的にはありえない。
人間だけが持つ不思議な能力なのだろうか? 理屈はわからな
いけど、現実に作品が残っているのだから文句の言いようもない。
私は全面的に信じている。
24年8月24日(土)
人生80歳から
絵が巧い人って本当にいるよね。
昨日もNHKの日曜美術館のアートシーンを見ていたら、素晴ら
しい日本画が映った。録画してあった2〜3週間前の映像(多分
7月28日。録画を消してしまった)。確か竹内栖鳳(1864〜1942)
の弟子と言っていたような気がする。インド旅行に半年以上
も行って風景などを描いた。大胆な構図に驚く。黒っぽい色
を一切使わないで大画面に熱帯植物が描いてあった。並はず
れた才能を感じた。センス抜群。頭脳明晰。
その前に見たのは富岡鉄斎(1837〜1924)展の紹介。没後100
年展。東京ではやらないらしい。京都と愛知県。愛知県に見
に行くか。
鉄斎の絵は上記インド帰りの日本画家とは全然ちがう絵だ。
センスも頭のよさも感じられない。大きな富士山の絵では、
山すその樹海表現など青い絵具を塗ったくってある感じ。私
の絵に似ている。と言うか私が真似しているだけか? 私自
身の意識では真似と言う気もない。ああなっちゃうよね。
長谷川利行(1891〜1940)も似ている。ムチャクチャだ。
ムチャクチャは気持ちいい。
人には最盛期というものがある。旬(しゅん)?
女性は「娘十八番茶も出花」などいうから、18歳なの?
高3とかか。確かに美しいかも。大学に入ったときに出会っ
た女性たちも18歳ころ。みんな美しかった。
丹波哲郎は死ぬと、あの世では自分の最高の年齢に戻ると
言っていた。20歳とか25歳と言っていたように記憶する。
丹波哲郎の若いころもカッコよかった。私の記憶ではテレ
ビの『丹下左膳』が最高だった。ほとんどの方は知らない
と思う。
で、いつもの同じ話だが、鉄斎の最高に素晴らしい年齢は
88歳なんだよね。死ぬ3日前の絵が一番いい。私の意見では
モネ(1840〜1926)の最高傑作も80歳以降のバラやフジの
絵。ミケランジェロ(1475〜1564)も死ぬ直前(89歳?)
まで鑿を入れていたミラノにある《ロンダニーニのピエタ》
が最高だと思う。
絵描きの旬は死ぬ直前なの? そこに向かって驀進する。
死への恐怖はない。驀進があるだけ。
24年8月17日(土)
ウーバー配達を総括する
ウーバー配達を始めて1年と9か月を過ぎた。家にあったママチャ
リで始めたが、いまやタイヤやギヤやチェーンも交換し、安物
の新車より優れた自転車になっている。もちろん手入れも十分
やっている。
しかし、24インチのママチャリはかなりきつい。最低でも26イ
ンチに乗りたい。電動アシストだったらもっと楽かも。本格的
にバイクに乗り換えてもいいか?
今までの総収入を考えると、26インチぐらいの安物でないママ
チャリに乗り換えてもいいようにも思う。電動アシストとかバ
イクを買っても採算が取れるかもしれない。
しかし、いろいろ考えるけど、バイクなどは交通規制が多い。
川沿いの歩行者&自転車道路は走れない。一方通行も多い(自
転車は逆走OK)。ガソリン代もバカにならない。その前にバイ
クの運転技術に自信がない。若くないから機転が利かない。か
なりの練習が必要。で、道路ではいつ命を落とすかわからない。
戦場だ。「間違えた!」と思った瞬間に死んでいる。
怖いよねぇ〜〜。
実は50年前にフランスでバイクに乗っていて転んで10m以上道路
をすべった。左脚を傷め全治1か月ぐらいかかった。
電動アシスト自転車もバイクほどではないにせよ安全ではない。
確かに収入は増えるかもしれないけど命あっての物種。私の自転
車は基本かなりゆっくり安全運転だ。それでもお客様満足度は94
%をもらっている。
とその前に、私は絵描きなのだ。ウーバー配達はアルバイト。プ
ロの配送業者ではない。雇う側のウーバーも本気を期待していな
い。あくまでもバイトであって欲しい、みたい。
学習塾をやっていたときも、一時期大盛況になった。本気で教室
を拡大して塾経営に専念することもできた。しかし、そのときも
絵を捨てる気にはならなかった。微塵も考えなかったかも。塾も
所詮は副業。自分は絵描きだと思っていた。
さらに自転車こぎは苛酷だが身体にはとてもいい、みたい。今の
状態を続けるのが無難。
今のタイヤがすり減ったら新車に替えるかもしれない。今年の冬
前までは持つと思う。新車(中古の可能性大)も普通のママチャ
リの予定。が、最新式の電動アシスト自転車は魅力いっぱい。迷
う。買っても罰は当たらないと思う。
24年8月10日(土)
美術なんてない2
『ギリシアの美術』(澤柳大五郎・岩波新書)は不朽の名著
である。
『仏教』(渡辺照宏・岩波新書)もムチャクチャ名著。
両書とも、ちょっと生意気な高校生あたりを対象にして書いて
ある。わかりやすく説明しようとして懸命である。
『ギリシアの美術』には「まだギリシアの真作に接して居ない
読者をギリシアの古典美にいざない得るかどうか、わたくしは
自らの筆の及ばないのを恐れる」(p30)というクダリがあり、
その謙虚さに脱帽。大先生なのに全然威張っていない。
今回私が一番訴えたい箇所は「ギリシアの遺品がその純粋な美
しさ、藝術的というよりほかに呼びようのない感動でわれわれ
の心を把えるという事実の前には、今日いう意味での『美』も
『藝術』も『藝術家』も古代には無かった(後略)」(p50〜51)
というところ。
では、古代の彫刻家はどういう動機で神像を彫ったのか?
そのキーワードは「アガルマ」。澤柳が「近代語には訳し得な
いギリシア語」というその「アガルマ」とは、競って神に捧げ
る美しいもの喜ばしいもの(神々しく、高貴で、立派で、完全
な、有用な等々)のこと。
神に捧げるんだよね。鑑賞目的ではない。
ここでまた『【特集】牧谿をお見せしよう』(芸術新潮1997年
1月号)を思い出してしまう。p28〜32に述べられている「職業
画家の優位性や宗教や哲学や禅など関係なく牧谿の絵を造形と
して楽しむ」みたい主張はとてもトンチンカンだと理解できる。
職業画家のどこがいいのかさっぱりわからない。なに言ってん
の? って感じ。
牧谿を本職の画家に貶(おとし)める必要があるのだろうか?
まったく牧谿がわかっていない、というか、この美術史家は少
しでも禅とか仏教を学んだのだろうか?
職業画家なんかより禅僧のほうが100倍立派ではないか!
美や美術は妄想である。そういうことを目的に絵を描いても先
は知れている。
そのことを萬鉄五郎(1885〜1927)は『鉄人アヴァンギャルド』
(萬鉄五郎・二玄社)で「美、美術などという言葉はあまい気
がして好かない。(中略)人間が美を作る考えで出発するなら、
つまりそれはセンチメンタルな遊戯だ」(p20)と断じる。
では、どういう姿勢で絵を描くのか?
内に向かって描くのだと言う。
「内面的にならなくてはなりませんから、(中略)まず第一に
人間を作ることが大切と考えます。画家が人間を作るにはどう
したらよいか、それはどうしても一筆一筆の間に練るほかにな
いでしょう」(p30)と言う。
ここで描くことに回帰する。
出来た絵でではなく描くこと自体に意味があるというイッキ描
き理論にたどり着く。
そう言えば、長谷川利行(1891〜1940)も物凄いことを言って
いた。
「絵を描くことは、生きることに値するという人は多いが、生
きることは絵を描くことに価するか」
何回も読み直さないと意味不明だ。出来上がった作品ではなく
絵を描くこと自体にこれほど価値を置く言葉はないかもしれな
い。
24年8月3日(土)
美術なんてない
柚月裕子の小説もイマイチつまらないので、またスマホばか
り見ている。
でも、柚月の小説は法律の話が多く、NHK朝の連ドラ『虎に
翼』と重なる部分も多い。
本心、私は法律とか社会問題に強い興味がない。スマホ記事
でも宇宙とか宗教とか哲学などを見てしまう。最近は豆知識
(雑学)動画ばかり見ている。私は「金がない」をのぞけば
理想的な老後生活を送っているみたいだ。自分自身「老後」
という意識はまったくないけどね。
自分の昔の『唇寒』もよく読む。
この前は「美術はない」という主張を読んだ。自分が書いた
ことだから覚えている。これは萬鉄五郎(1885〜1927)の「美
がない」ともリンクしているが、萬の「美がない」を知った
のは私の「美術はない」の後だったような気がする。どっち
にしてもほぼ同じ意見だった。
2013年4月3日と4日のわがブログは「美術はない」を語ってい
た。
やっぱり萬の意見とは少しちがう。
私の「美術はない」はけっこう美術史からの知識によっている。
つまりギリシア彫刻を彫った彫刻家にはアートなんて意識は
なかった。「女神をこの世に再現する」その一心だ。
奈良の仏像も仏師は身を清めて作ったと聞く。
中国宋元の水墨画も禅修行の一環として描かれた。
ルネサンス美術もキリスト教への真摯な信仰があったのだと
思う。
ま、作家自身、心のなかでは創作を楽しんだ部分もあるだろ
う。いやいやムチャクチャ楽しんでいたかもしれない。そこ
に罪の意識はないだろう。寝食を忘れるほどの集中があった
のだと思う。私はそれこそが涅槃寂静なのではないかと期待
している。
結果としてアートがあった。そのアート的な部分を大きくク
ローズアップしたのが近現代だ。それがいいことだったかど
うか? 少なくとも一歩離れて考え直してみるべきだとは思
う。
富岡鉄斎(1837〜1924)などはそこのところをちゃんと心得
ていたように思う。
24年7月27日(土)
世間基準は無視
一昨年までは週3回以上のペースで外プールに行ったのだが、
去年からウーバー配達もあるので週2回に減ったが、けっこう
泳いだ。おかげで泳力も少しだけアップした。だからと言って
マスターズに出る予定などはまったくない。私は泳ぎたいから
泳いでいるだけ。45分ほど1600mぐらい泳ぐ。けっこう激しい
運動量かもしれない。ムチャクチャ疲れる。朝飯抜きで泳ぐ。
11時半ぐらいに食べる。
この水泳がどの程度のものなのかまったくわからない。
30年ぐらい前にスイミングスクールにも通っていたから、その
経験で考えると1.5倍ぐらい泳いでいる感じ。年齢は倍ぐらい
になっているから、歳の割には多いかもしれない。
絵についても自分の絵のレベルはさっぱりわからない。
今となってはどうでもいい。最近は絵を買ってもらうこともな
いからますます自由になっている。
私が尊敬する浦上玉堂(1745〜1820)なども世間から離れてい
たからマイペースで描いていたと思う。
良寛(1758〜1831)は詩や和歌や書が中心で絵はほとんどない
けど、やっぱり世間とは隔絶して、自由に創作していた。
われわれはもともと社会的動物だから、世間基準というのが多
少気にも掛かるけど、基本どうでもいい。
気持ちいいから今の暮らしでいい。
ウーバー配達は交通事故が怖いけど、そこらを普通に歩いても
危険はいっぱいだ。ウーバーの場合、事故遭遇確率は格段と高
い。しかし、気を付ける意識もプロレベル。自動車が多い道路
は避ける。
ウーバー配達には休業届も要らないし、遅刻や早退も自由だ。
私にはとてもいい仕事。自転車こぎは水泳並に楽しい。私は中
高と落語クラブ(文科系?)だったが、遅咲きの体育会系なの
かも。仕事だから遠いところは避ける。そういう配達先の選択
も出来る。
家内はかなりイヤがっているが、74歳で肉体労働はみっともな
いという思考もある。私はほぼ気にしない。ゴチャゴチャ言う
ムキには「うっせい」って感じ。遠くに住む子供たちには好評
(というか、どうでもいい=理想の親かも)。
24年7月20日(土)
成果や評価はどうでもいい
10年以上前のこの『唇寒』を読み返すと、だいたい同じような
ことが述べてある。同一人の記述だから当たり前。おおむね賛
同できる。
今はブログで11年前に行った南仏の思い出を綴っている。
10年前から進歩していない。
ブレないと言えも言える、のか?
人生は生きたいように生き、絵も描きたいように描く。それだ
けのことだ。
他の人のことはどうでもいいし、世間の評価も関係ない。
プールも苦しいけど、やめる予定はない。筋トレなどはもっと
苦しい。世間の爺さんたちはみんなやっているのだろうか?
やらないと腰や膝が痛くなるからきっとやっているのだと思う。
痛くないと忘れてしまう。
「なんで腹筋なんかやるんだっけ?」と自問する。腰痛予防だっ
た。それも確証があるわけじゃない。多分予防になっている、
きっと。
自転車をこいでいるから脚の筋力はアップしているはず。
ふくらはぎを鍛えると夜中のトイレはゼロになると聞くが、夜
中のトイレはしっかり健在。
太腿を鍛えれば頭脳明晰になるとも言われるが、頭がよくなっ
ている自覚もない。
不思議だ。
まだ鍛えが足りないのだろうか?
泳力も衰えるいっぽうだ。
画力はどうなんだろう?
どうでもいいけどね。
苦しくてめんどくさくて厄介だけど、絵を描いたり自転車をこい
だり泳いだりするとムチャクチャ楽しいから出来る限り続ける。
当たり前。
24年7月13日(土)
「描く」とは何か?
絵を描くってどういうことだろう?
クラシック絵画を見ていると、「描く」より「仕上げる」とか
「塗る」という部分が多いようにも思う。
『イッキ描きとは何か?』でも述べたように、レオナルド(1452
〜1519)にしてもハガキ程度の紙片にインクで走り描いたデッ
サンこそまさにレオナルドの描いた絵だと思う。あれこそ絵だ。
《モナリザ》や《聖母子像》は細密に仕上げてあるが、「描いた」
感はデッサンに比べればだいぶ減少している。
本当に油彩画で「描いた!」と感じられる絵はティツィアーノ
(1488/90〜1576)の晩年の油彩画だ。本当に油絵で描いてある、
感じ。筆を楽しんでいる。絵具を喜んでいる。(7月12日付けブ
ログに参考図版アップ)
その行為は人類だけが知っている恒久の喜びだ。時代に関係ない。
それこそ数万年前の洞窟壁画から連なる「描く喜び」の連鎖だ。
現代も近代も中世もハチの頭もない。
人間はメシ食って寝て排便して、あとはエロいだけ。それだけの
ことだ。太古の昔から変わっていない。
私は新規さや奇抜さばかり追う、いわゆる現代アートをまったく
認めない。新しがりノイローゼだと思っている。それに金を掛け
現代美術館を造ったり、テレビで紹介したりする方々の気がしれ
ない。本当にわかっているのだろうか?
いつも述べているが現代○○という言い方もおかしい。国語力ゼ
ロ。
現代の絵はすべて現代アートであり現代美術に決まっているでは
ないか!
コンテンポラリーアート(同時代美術?)もモダンアートなどと
いう区分ももちろん同様に誤っている。
美術史ノイローゼなんだと思う。古代美術とか中世美術、近代美
術という言い方は正しい。でも現代美術なんて分野はないと思う。
古代美術だって、その時代には現代美術だったんだよね。
「現代」は特別だと思う。
ま、どうでもいいけどね。
絵は描きたいように描けばいい、のだ。
描きたい、線が引きたい、点々を置きたい。丸く腕をまわしたい。
グンと太い線を引きたい。細い線でひっかきたい。
そういう筆の喜びがなければ話にならない、だろが!
でも、いわゆる現代アートも含めて、何をやっても自由だ。好き
勝手にやればいい。他所の国の街を爆撃しているわけではない。
24年7月5日(土)
Trio展に想う
「Trio展」(国立近代美術館・8月25日まで)に行った。
入り口の絵はマルケ(1875〜1947)《雪のノートルダム大聖堂、
パリ》という絵(7月7日付け『イッキ描きブログ』にアップ予定)。
61×81pの大きさ。日本寸法に換算するとP25号ほどの画面だ。
もちろん大作ではないが小品とも言えない。たっぷり大きい。
なんという筆捌きだろう!
1912年頃の作品とある。マルケが37歳のころか。手慣れた筆の跡
は決して粗雑ではない。速いが丁寧だ。筆を楽しんでいる感じが
伝わる。描く喜びにあふれている。
もうこの絵1点が見られただけで2200円の入場料は安と思ってしま
う。この絵はパリの市立近代美術館からやって来たのだ。
TrioというのはTokyoとParisとOsakaの文字を組み合わせてトリオ
に引っ掛けたシャレらしい。ウィットのつもりか。
インテリのダジャレは頂けない。笑いは己を捨てた命懸けの芸人
のなかから生まれる。一段高い安全地帯からシャレられてもシラ
ケるだけだ。まったくわかっていない。NHKの男性アナウンサーの
ダジャレレベル。殺意が湧く。ま、殺さなくてもテレビは消すか
チャンネルを変えれば済むけどね。
竹橋の近美はマルケを見せてくれたから下手なダジャレも赦しちゃ
う。
期待していたデュフィ(1877〜1953)もたくさん来ていた。特に
《家と庭》は圧巻(7月5日付け『イッキ描きブログ』にアップ)。
パリ市立近代美術館は素晴らしいデュフィをいっぱい持っている。
《家と庭》は私の記憶になかった。初めて見たと思う。
しかし、世界の美術もデュフィぐらいで終わりかも。ま、ピカソ
(1881〜1973)までかな?
その後はロクなものはない。
頭脳ばかりが先行して筆がおろそかなんだよね。描かなきゃ絵描
きじゃねぇベェ。
「拙速に過ぎる?」ってか。もともと「拙速」は褒め言葉らしい。
「巧緻より拙速」って使うらしい。まさにミケランジェロ(1475〜
1564)の天井画や壁画には驚くべきスピード感がある。
だけど世界美術の方向は急ぎ過ぎ。美術界はまさに暗黒時代に入っ
ている。世界の近現代美術館は、その暗黒時代を強情に推し進め
ている。
ま、いいけどね。
映像芸術なんかも展示してあったけど(鑑賞のあと孫と遊ぶ予定
だったのでよく見ていない=ゴメン)、ああいうのって映画文化
でいいように思う。クラシック音楽も映画音楽に引き継がれてい
るんじゃないだろうか? よくわからない。
ただ、油彩画の筆の魅力はイラストやコミックでは表現できない
んだよね。