唇 寒(しんかん)集69<24/7/5〜>
24年11月30日(土)
新仏教解釈
私は悟りを開いたわけじゃないけど、自分なりに三法印(諸
行無常、諸法無我、涅槃寂静)を解釈できたと思っている。
ま、一応。でもそれを他の人に押し付ける予定はない。無論
教祖になる気もない。ウーバー配達より教祖のほうが儲かり
そうだが、それは三法印(=仏の教え)とは真逆。ほとんど
の教祖はだいたいインチキだ。ま、私の場合は支持者もいな
いしね。
この貧しいHPに自分の理解を書き残してはおくぐらい。
だいたい、私は自分の意向を他の人にすすめない。自分の子
供にもまったく押し付けいた記憶がない。
肉を食べないとか朝の水浴とかすすめた覚えがない。
第一そういうのって身体にいいのかどうかもわからない。
このHPやブログだって自分で勝手に書いているだけ。
私は26歳ごろからけっこう本気で悟ろうとした。昔の修行僧
のように朝飯と昼飯しか食べなかった。激やせした。危険を
感じてやめた。でも、そのときの朝飯の旨さは生涯忘れない。
ほんとに朝の5時ごろ目が覚めてしまう。
ま、そんな経験もしたし、曹洞宗のお寺で日曜座禅会にも通っ
た。
仏教の入門書は100冊以上読んだと思う。
そういうふうにいろいろやったけど、結論は「悟れない!」
だった。
江戸時代の禅僧・桃水は乞食の群れに紛れて腐った飯なども
食べて修行を積んだとも聞く。そういうレベルからはほど遠
い。
しかし、上にも書いたように三法印(諸行無常、諸法無我、
涅槃寂静)だけは解釈できたと思っている。勝手な思い込み
かもしれない。もちろん悟ったわけじゃない。
諸行無常は歳をとるととてもよくわかる。世の中はどんどん
変化する。
諸法無我はムチャクチャ難しい。若いころはさっぱりわから
なかった。いろいろな説明を読んでも理解不能だった。
涅槃寂静は、意味は分かるけど、だからなんだつーの、って
感じ、だった。三法印の一つに数える価値もないだろう、と
不思議に思った。
で、いまは涅槃寂静こそ一番大切だと思っている。これはきっ
と寝食を忘れる集中のときを言っているのだと思う。時空が
すっ飛ぶ幸福感だ。
最難関の諸法無我はみんな同じという思想。平等と言ってし
まえばそれまでだ。そういう社会的な思想でもない。いやい
やそういう意味も含んでいる。競争はバカバカしいという思
想だ。差別は最低。アホだ。でも差別している人も一緒なん
だよね。グチャグチャ。インディヴィジュアルの否定だ。西
洋思想の真逆。個性の拒絶。わかるかなぁ〜。わかんないと
思う。でも、仏教入門書に書いてあるゴチャゴチャした説明
よりわかるのでは? 仏教入門書などの解釈は、私は本当に
はわかっていないようにも感じる。
人の能力の優劣なんてナンセンス、と言っているのだと思う。
比べること自体無意味。だって諸法無我なんだもん。
お釈迦様はカースト制度を撤廃したかった。その思いから出
た志向だろう。きっとそんなに難しいことじゃない。
で、どうするのか?
それはまた来週。
24年11月23日(土)
低レベルでもいい
100号を諦めたわけではない。
19日に100号の下準備として以前描いたクロッキーをもとに6
号ぐらいの油絵裸婦を描こうと思って準備していたが、どう
しても面白くない。もしかすると秋バラが咲いているかもし
れないと思い、野津田公園のバラ広場に向かった。車で30〜
40分かかる。
予想どおり秋バラがまだ咲いていた。10月末に行ったときは、
ほとんど咲いていなかったのだ。
で、実際に秋バラを描き始めてみると、現実の風景は想像以
上の素晴らしさ。午後の広大な自然公園も美しい。
「ああ、俺って(クロッキーをもとに絵を創って描くタイプ
ではなく)本物を見て写生で描くタイプなんだ」と思い知っ
た。絵描きの父親は「実物の写生をしているようじゃあ、レ
ベルは知れている」みたいなことを言っていた。画家として
低レベルということだ。
でも、私は低レベルでも、バラ園に行きたい。実際のバラの
花の前で、陽光のなかで、バラの香に包まれながら描きたい。
その幸福感は口ではとても言えない。
それはもちろん裸婦のクロッキーも同じ。それは20日に体験
した。
絵を描くのは当たり前だけど、裸婦とか風景とか静物とか花
などの自然を見るのも描くことと同じくらい幸福感に包まれ
る。極楽だ。風景には風もあるし陽射しもある。花には香り
がある。海には潮風がある。別にアウトドアと気取るつもり
はないけどね。
ま、100号も描くけど、そんなにムキになることもないと思っ
てしまった。
いいの、いいの。
浦上玉堂(1745〜1820)も現実の風景のなかで描いたと思う。
絵が臨場感に溢れている。長谷川利行(1891〜1940)もほと
んど写生。モネ(1840〜1926)もむろん写生の人だ。レベル
が低いとも思えない。
ま、諸法無我なんだから好き勝手にやればいいんだよね。諸
法無我って多分そういう意味だと思う。もちろん私の勝手な
解釈だから当てにならない。ゴメン。
24年11月16日(土)
公募展て何なんだろう?
You Tubeで日展を見た後、創元会や独立美術協会展、二紀展
などを見た。ハマ展も見た。寝っころがって最新の公募展が
見られるのはありがたい、のか? 春にもいっぱい公募展が
るので、おそらく全部は見きれない。若いころは実際に上野
に行って見ていたのだから元気だったなぁ〜。
で、公募展の絵ってでかい。そういうでかい絵がズラズラ並
んでいる。凄い。甚大なエネルギーを感じる。
公募展に絵を出す費用はどれぐらいなんだろう? 東京在住
なら10万円ぐらいだろうか? 地方だと20〜30万円はかかる。
輸送費も交通費も莫大だろう。出展者の何パーセントがプロ
の画家なのだろう? 1%もいないのでは。どうやって暮らし
ているのか? 出品費用はどうやって捻出しているのだろう
か? まさかウーバーイーツの配達じゃないと思う。
おそらく中学高校の美術の先生が6〜7割を占めていると推察
できる。会の重鎮などは美術大学の教授かもしれない。
主婦なら連れ合いの稼ぎで絵に集中できる、のか? わから
ない。
それにしてもものすごい量のキャンバスが消費されている。私
もキャンバス小売業者だが、私のところにはさっぱり注文が来
ない。クレサンキャンバスならおそらく最安値で売っているの
にねぇ〜。不思議だ。
それはともかく、これほどの公募展が毎年開催できるのは、日
本が平和で下降気味ながらも経済が安定している証拠なのか。
まったく甚大なエネルギーだ。
で、その作品の中身だけど、現物を見たわけじゃないから何と
も言えないが、とにかく巧いよね。同じような絵も多い。
ああいうのが現代絵画なの?
ま、ピカソ(1881〜1973)の晩年の自画像などの描き方とはまっ
たく違う。とても丁寧だ。
ああいう絵のなかで画技を競って、それはそれで安心なのだろ
うか? 楽しいのだろうか?
私の父も長く国画会にいて、会期中は毎日のように飲んで帰っ
て来ていたような記憶。酔っ払っては、鳥海さんとしゃべった
とか、佐野繁次郎に会ったなどと言っていた。
今から60年以上昔の話。あのころには戦後美術の夢があったの
かもしれない。今の公募展はどうなんだろう?
本心よくわからない。
時代を写す鏡みたいな? そういう切実なアートを感じない。
なんか違うような気がする。時代のアートはコミックとかアニ
メとか商業アートが背負っているのだろうか?
私にはまったくどうでもいいことだけどね。
いやいや、私からキャンバスを買ってもらいたい。ベルギーの
クレサンキャンバスを買ってくださいぃ〜〜〜〜。
24年11月9日(土)
巧いよねぇ〜〜
ブログにも少し書いたがYou Tubeで今年の日展の会場風景を
見た。展示作品もある程度見られた。洋画部だけでいいかと
も思ったが、日本画部も見た。総合的には日本画部のほうが
いいように感じた。
日展は明治期の文展から続く日本最大の公募展だ(と思う)。
文展、帝展、日展と変わった。審査についての黒歴史も少な
くない。最近のことは知らないが、入選や受賞の裏取り引き
は皆無になったのだろうか? どうでもいいけどね。
絵画表現の巧みさ、絵具や筆の微妙な使い方など、実に見事
としか言いようがない。そういう技を競い合う場なのかもし
れない。
しかし、私の思う絵画の本質とは違うように思う。
絵は、まず「どれほど描きたいか」という一点にかかってい
る。そういう意味で長谷川利行(1891〜1940)はずば抜けて
いると思う(=とても敵いません)。
また、裸婦や風景を「綺麗だなぁ〜」と思う心。それはモネ
(1840〜1926)も言っている「自然を愛する気持ち」ってこ
とだ。
「綺麗だなぁ〜」と感じ、「描きたいぃ〜〜」と熱望し、そ
して実際に描く。この「実際に描く」というのがけっこう至
難の業。
この私の絵画観は日展をはじめとする公募展の思想とは根本
的に異なる。
だから私の絵画概念には「絵画の上達」という項目はない。
絵なんて巧くならなくたっていい、のだ。綺麗だなと思い描
きたいと切望し実際に描く、これだけのことだ。
絵の世界は競争社会じゃない。勝手に描けばそれで終わり。
これこそがヨーロッパや中国、日本の真なる絵画史から学ん
だ真実だ。
モネの《睡蓮》を日展などに出品してもきっと入選しないだ
ろう。ゴッホの人物ならもっと無理。それなのに、あれだけ
のトンチンカンなエネルギーが上野や六本木の公募展会場に
渦巻いている。間違いだらけの巨大な大群が何十年にもわた
り爆走し続けている。まったく恐ろしい現象だ。
そのおかげで、画材店が存続し、私もヨーロッパの画材がゲッ
トできる。ありがたい話かもしれない。
ま、モネ展やゴッホ展も大盛況。世の中捨てたものでもない。
富岡鉄斎(1837〜1924)が言った。
「こんな絵は時間をかければ誰でも描ける」
そういう絵がほとんどだ。ま、実際には誰でも描けるってわ
けじゃないだろう。巧いもん。達者です。要らねぇけどね。
24年11月2日(土)
綺麗だなぁ〜
10月30日のクロッキー会の前の日にYou Tubeの動画を見た。
外国人の画家さんが素早い筆捌きで女性像を描いていた。ム
チャクチャ巧い。
自分の未熟さを思い知った。
こんなに描いていても上には上があるものだなぁ〜〜。これ
がプロかぁ〜〜〜。
ま、絵そのものの魅力はほとんどなかったけどね。負け惜し
みは言いたくない。
絵の下手な奴に限って芸術とか美学などと言い出す。それは
情けない。
で、実際のクロッキー会では、最初の一枚目から自身の未熟
さをイヤと言うほど思い知らされた。筆が動かない。描けね
ぇ〜〜〜。
しかし、モデルさんは美しい。「ああ、綺麗なもんだなぁ〜」
と感嘆する。
ジジイだけど女性美はわかるんだよね。男のモデルだったら
綺麗だとは思わないだろう。
相変わらず私の場所からは背中が多いけど、現実の裸の女性
は無限に魅力的。のめり込むね。そのうち絵の巧拙なんて忘
れてしまう。絵なんてどうでもよくなってくる。とは言いな
がら絵を描いているんだけどね。ここが不思議。
絵よりもまずは綺麗だと思う気持ちだ。で、絵描きだから絵
に描きたいと思う。画材があれば実際に描く(に決まってい
る)。描かないバカはいない。
そういう世界。それだけのこと。
その作業を味わうためにメシ食って風呂入って歯磨いて、ま、
いろいろやって生きているだけだ。
出来た絵なんてどうだっていい。綺麗だなと思って描く、そ
れがすべて。
裸婦に限らない。風景だって花だって同じ原理だ。
You Tubeの巧い絵に魅力がないのは描き方で描いているから
だと思う。出来上がった絵が目的なのだ。こっちは描くこと
そのことが目的なんだから話が合うわけがない。
24年10月26日(土)
チリのなかの恒久
新しさとか個性がアートの最重要事項になっている。人真似は
ダメ、というのが芸術家の黄金律だ。
というわけでもないだろうが、美術に携わる人は普通の服装で
はいけない。芸術家っぽい恰好をしていたほうがいい。ま、東
山魁夷(1908〜1999)などはいつも背広にネクタイだったけど
ね。
私自身はそこらにあるものを着るだけ。何も考えていない。寒
ければ重ねるし暑ければ脱ぐ。ほとんどの人が同じなのではな
いか。
ま、服装はどうでもいいと思う。
問題は個性だ。
しかし、仏教でいう「諸法無我」は個性なんて関係ないという
意味かもしれない。みんな同じという思想なのでは?
何度も言っているが、人間とか言っても所詮は有性生殖の哺乳
類に過ぎない。メシ食って寝て排便をして、あとはエロばかり。
だいたいみんな同じだと思う。
私は絵では個性より共通性が大事だと考えている。若いころか
らずっと同じ考え。美術史では時代時代の違いを調べる。しか
し、絵描きはすべての時代に共通する絵画の本質を掴むべきな
のだ。美術史とは真逆だ。
だから真似でいい。
だいたい独創的な絵を描いて美術史に名を残すって何だ? そ
んなことにエネルギーを注いでいたら本当に描きたい絵が描け
ないではないか。
美術史なんて言ってもせいぜい2000年。古代ギリシアから数え
ても2500年に過ぎない。宇宙カレンダーで考えれば瞬間的な時
間だ。また広大な宇宙から見ればゴミとかチリみたいなちっぽ
けな地球上でアクセクしても知れている。歴史に名を残す、な
どバカバカしいクソみたいな野心。捨てほうがいい。
それより本当に自分が描きたい絵を描きたいように描いたほう
がいいに決まっている。やりたいようにやればいいのだ。宇宙
の時空スケールで思えば、どうせゴミとかチリのなかの瞬間的
な出来事に過ぎない。
しかし、そのゴミやチリのなかの瞬間であっても恒久の時空を
味わうことができる。それが「すべてを忘れてモノに集中する
こと」。私だったら絵を描くことだ。まさに涅槃寂静の世界。
これが一番大事なんだよね。
人は集中する喜びを会得すべきである。
もしそれを「一時(いっとき)の快」だと言われても、だ。
もっとも、幼児(おさなご)はみんな集中の喜びを知っている。
大人になるにつれて忘れているに過ぎない。嬰児や幼児はハイ
ハイや発声や人とのコミュニケーションの訓練に全精神を集中
している。それは誠に愛おしい。
そこに学びもある。育児を他人に任せるのは本当にもったいな
いと思う。嬰児こそ信じがたいほど偉大なクソバカ大人たちの
師なのである。
24年10月19日(土)
モネ 睡蓮のとき
上野の西洋美術館で『モネ 睡蓮のとき』展をやっている(20
25年2月11日まで)。
16日の夕方に見に行った。閉館45分前。モネ(1840〜1926)を
独占できる時間帯だ。
17日付けブログで「描きかけみたいな乱暴な絵」と評したが、
まったくあのモネが描いたから大切にされている。名もない爺
さんが描き殴った絵だったらとうの昔に廃棄処分を喰らってい
るだろう。
こういう絵をどこかの公募展に出品しても入選しないだろうし、
コンテスト形式の公募でもきっと落選。
会場で文字を読むことはほとんどないが、最後のところに書い
てあったパネルが目に入った。全文暗記していないが、「私の
絵は新しい絵画ってわけじゃない。ただただ自然に従っている
だけだ」というようなことが書いてあったと思う。
モネは本当に目の前の実際の水の風景に感動して筆を揮っただ
けだと思う。以前私は中国の明末清初に活躍した八大山人(16
26〜1705以降)の《木蓮》の絵について、八大山人は木蓮を描
いているのではなく木蓮になってしまっている、と述べた。描
いている本人と描く対象が一体化している。
モネもまさにモネが自分の池になり庭になり睡蓮になりバラに
なってしまっている感じ。融け込んでいる。モネは庭の一部だ。
その絵を見ているわれわれも庭のなかに融けてしまう。これも
諸法無我なのだろうか?
しかもモネの絵は2m四方の大画面ばかり。圧倒される迫力だ。
モネ展では閉館間際なのに西洋美術館の前庭に長蛇の列ができ
ている。「えっ? この時間で入場できないの?」と一瞬入場
を諦めかけたが、その列はアートショップの列だった。凄いね。
入場料が2300円で、カタログは3200円。みんな金あるなぁ〜。
私はカタログはとりあえず見合わせた。私は列にも並ばずに簡
単に入場することができた。
来年の2月までやっているから、また必ず行く。カタログはその
ときに買いたい。ムチャクチャなモネの絵は魅力いっぱいだ。
60歳から86歳までの最晩年最高のモネが詰まっている。まったく
スゲェ爺さんがいたもんだ。
で、モネは大画面に描いたけど、私にはあんなにでかいキャンバ
スに描く資金も場所もない。でも、利行だって小さな紙にしか描
けなかった。仕方ないんだよね。自分の描ける範囲で精一杯描け
ばいいの。それが個性なのかも。
今の私には地塗り済みの20号以下のキャンバスがまだたっぷりあ
る。裸婦の油絵クロッキーもできるし秋バラも描ける。100号のキャ
ンバスも5枚ぐらいは地塗り済み。どんどん描かないと事故や病気
が襲ってくる。爺には先がない、のだ。そこがまたいいのかもしれ
ない。ケチケチしていられない。
若いころ寄席で「歳は取ったが浮気は止まず/止まぬはずだよ/先
がない」という小唄を聴いたが、まさにそういう状況になってきて
いる。
24年10月12日(土)
利行の不思議
JR横浜線・橋本駅から徒歩6分のフクヤマ画廊でやっている『長
谷川利行展』は14日までだ。
長谷川利行(1891〜1940)の教養は計り知れないところがある
けど、仏教に詳しい感じはない。その辺のところは不明。ヨー
ロッパ絵画でもルネサンスを知っていたとは思えない。マティ
ス(1869〜1954)の本物を見ていた可能性は低くないだろう。
どういう絵画修業をしたのか、若いころのことは不明な点が多
い。詩もよく書くらしいが、私はほとんど読んでいない。
ギリシア彫刻は知っていたのだろうか?
利行から1世代下の私の父(1922〜1996?)でさえ若いころは
「マチ、ピカ、ブラ」と言っていた。つまりマティス(1869〜
1954)、ピカソ(1881〜1973)、ブラマンク(1876〜1958)が
大流行で、そういう印象派以降のフランス美術を追っていたと
いう話。
私たちは美術全集や展覧会の時代に生きた。欧州旅行も珍しく
ない。私自身、家じゅう画集だらけだし、ヨーロッパの美術館
めぐりもした。もちろんルネサンス、バロック美術の本物を存
分に見てきた。ギリシアには行っていないが、ロンドンでギリ
シア彫刻の最高傑作(大英博物館エルギンマーブル)に浸った。
また、東洋の絵画や彫刻もたっぷり見てきた。それは仏教にも
深くかかわっていて、幸いにも私は大学で仏教を学んだ。
だから、私の知識は膨大なのかもしれない。しかし、それが教
養となっているのかと言われると、まったく自信がない。
ま、絵描きだったらムチャクチャたくさん描かなければならな
いとは心得ているが、造形としてモノになっているのかどうか?
で、利行だけど、素晴らしい筆の跡だよね。粘着質というの?
筆が描く喜びに満ちあふれている。それはティツィアーノ(1488
/90〜1576)から伝わるヨーロッパ絵画の本流にも合致している
ように思う。油絵具の特質を知り尽くしている。不思議だ。
私は利行展を2回見せていただいた。14日までやっているけども
う行けそうもない。
24年10月5日(土)
高潔なる野望
『変身』(東野圭吾・講談社文庫)の主人公・成瀬純一は平凡
な青年。その他大勢であることを望んでいた。お断りしておく
と、以下の文には肝心なネタバレはないからご安心を。
平凡であり平和であり従順なだけが取り柄の純一の趣味は絵を
描くこと。画材ショップに通い、その女性店員・葉村恵と恋に
落ちる。恵も自分が平均点以下で目立たない取り柄のない女だ
と思っている。
小説の話はここまで。だからネタバレはない。
で、ここまでの登場人物、ま、ヒーローとヒロインなんだけど、
まったくの無欲。先週述べた名利(みょうり)にも富貴栄達に
も無関心。小さな幸せを夢みる小市民。仏教的には理想的な人
生姿勢なのかもしれない。
昨今の高校生なんかも大きな野望はなく公務員などへの志望が
多いらしい。
仏教的にはいい傾向なんだろうか?
それって人間的魅力はどうなんだろう?
映画『男はつらいよ』の寅さんが言う「お前は面白くもなんと
もない人間だね」って部類か?
色気がないというかつまらないというか覇気がないというか。
いてもいなくてもいい人間? 人畜無害。私も父親によく言わ
れた。
「お前はナフタリンみたいなヤツだな」
実際の中身はエロくて野望に満ちていたのにねぇ〜。父親には
衛生的に見えたのか。おかしい。
で、仏教だけど、仏教は人畜無害やナフタリン人間を推奨して
いない。
大疑団を抱き、果敢に命を懸けて人生の謎、宇宙の構造の謎に
挑む精悍な修行僧を求める。そして悟りへのあくなき希求。そ
れは野望とも言えるかもしれない。高潔なる野望?
私に言わせれば「悟りを開こうなんて図々しいんだよ!」って
なっちゃう。
でも、悟りを開こうとすることは悪いことじゃない。ここで何
度も言っているけど、悟りに人員枠があるわけじゃない。競争
じゃない。1億人が悟りを開いてもかまわないのだ。
やっぱり修行僧は色っぽいかも。人間的魅力にあふれている。
寅さんの言うつまらない野郎ではない。
24年9月28日(土)
仏教の核心!
絵を描いていると、いつも父親が「お前はバカだなぁ〜」とさ
さやく。私のなかでは父は死んでいない。絵を描くと登場する。
別にお化けじゃない。幽霊でもない。実体はない。
絵を描いているといろいろ迷うこともある。巧くいかないと焦
ることもある。クロッキー会はポーズ時間が決まっているから、
いつも時間に追われている。形が取れないと焦ることも多い。
そうすると父が出てきて「お前はバカだなぁ〜」と言う。「絵
の出来なんてどうでもいいんだよ」と続ける。筆を持って描く
この瞬間にすべてが詰まっている。時間も空間も人生も家族も
世界も宇宙も、すべてが詰まっている。それは言ってみれば「不
生不滅、不垢不浄、不増不減、」ということかもしれない。
そこで、先週の続きになる。
お釈迦様は人と生れたからには四苦八苦に悩むと説いた。で、
苦しみからの脱却を示した。それは旅と呼吸だ。歩行と深呼吸
と言い換えてもいい。で、涅槃寂静の世界に入れると教えた。
以上で終わりだ。
不安を煽るような教えはない。ハルマゲドンも末世思想も嘘だ。
5億年後に地球環境が変わり生物が住めなくなるらしいけど、そ
んな先のこと知るか!
ただ諸行無常とおっしゃった。また諸法無我とも。ここがやや
こしい。
弟子が訊きたがるから仕方なく「うるせぇなぁ〜。諸行無常に
決まってんだろが!」と言った。そんな乱暴な言葉遣いじゃな
いね。お釈迦様は王族だもんね。
また、「俺が、俺が」とギャアギャアうるさい。合格とか優勝
とか金メダルとか言って競争したがるから「諸法無我」と教え
た。
そういうのを説明するために唯識(ゆいしき)とか中観(ちゅ
うがん)とか密教とかわけのわからないことになり、膨大な経
典に膨らんだ。
どうすりゃいいんだ。
だ、か、らぁ〜〜。歩行と深呼吸だけなの!
金じゃないし、名声でもないの。そういうのが迷いなの。イン
チキ宗教もすべてダメ。
牧谿(1280頃活躍)や雪舟等楊(1420〜1506)はお釈迦様の教
えを図解してくれた。それが水墨画だ。一目でわかる。惚れ惚
れする。涅槃寂静の展開図なんだよね。
及ばないけど、歩行と呼吸の合間に絵筆に埋没するのも悪くな
い。
バカでもいい。じっと続けることが大切。
24年9月21日(土)
離れられない
衣食住の不安を解消するにはとりあえず金持ちになることだ。
人生の最大の目的が金儲け、という人は多い。また、野球選手
やアイドルみたく有名人になることを人生の目的だという人も
いる。若いときは特に金や名声に迷う。私自身、それは当然と
思っていた。
しかし、実際に生きてみると金は手に入らないし、有名になる
競争率はムチャクチャきびしい。まず無理。やめておいたほう
がいい。ほとんどの人が大人になる過程で金や名声のレースか
ら外れる。それはとても賢明。
ま、そんなに大金持ちにならなくても衣食住はなんとかなる。
金持ちといっても上を見たらキリがないしね。ほどほどでいい。
お釈迦様が教える「四苦八苦」の「四苦」は「生老病死」。金
持ちでも有名人でも避けられない人間の宿命だ。ちなみに「八
苦」はプラス四つの苦しみで「会いたい人と別れる苦しみ」「イ
ヤな奴に会う苦しみ」「欲しいものが手に入らない苦しみ」「自
分の精神や体調がコントロールできない苦しみ」。これらも金
や名声では解決できない。くわしくはネットで調べてください。
金持ちになれば欲しいものが手に入るだろう、と考えたくなる
けど、人間の欲望はキリがないから、やっぱりもっと欲しくな
る。
で、お釈迦様はそういう苦しみから脱する方法を教えた。
お釈迦様の教え。それは仏教なんだけど、とんでもないことに
なったよね。
大寺院の伽藍はド素晴らしい。広くて綺麗で荘厳。奈良や京都
はもちろん、日本中にある。私の母の実家は山梨県の塩山の向
嶽寺の隣。私は向嶽寺の鬱蒼とした杉の並木(すぎでぃもん)
の下でさんざん遊んでもらった。
この仏教の大繁栄には、お釈迦様自身もびっくりしているので
は。
でも、お釈迦様の教えの根幹はとてもシンプル。旅と呼吸だけ
だったと思う。金もかからないし、広い場所も不要。お釈迦様
の願いはカースト制(身分制度)の全廃。完全平等だったと推
察できる。それなのにお寺のなかにも身分制度ができちゃった。
ま、道元(1200〜1253)は『典座教訓』で寺の身分制度を全面
否定したけどね。わかっていない。
で、仏教では「名利(みょうり)を離れろ」「道は富貴栄達じゃ
ない」と教える。つまり金と有名病から離れて本来の道を進め
と言う。そこに涅槃寂静がある(らしい)。
24年9月14日(土)
不安を煽っちゃオシマイ
つい先ごろも大きな地震があった。
まったく地震て怖いよね。予知できない。天気予報だって(私
の感じでは)ほとんど当たらない。
現代科学とか最先端技術などと言っても、人の予知能力なんて
知れている。
ヒトがアフリカから旅を始めたころのは、6万年前(2000年が30
回)とも言われる太古の昔。人々はどういう心持で過ごしてい
たのだろうか? 明日の天気どころか1時間先の天候もわからな
い。天気どころか、衣食住の安全な確保もままならない。野獣
に襲われる可能性も低くない。野獣よりも怖いのは他の人かも
しれない。犯罪や殺人や戦争。
病気のこともまったく不明。人の寿命も20年ぐらいだったと聞
く。
不安と心配で平静ではいられなかったのではないか?
そういう暮らしのなかにも喜びはあったと思う。笑うこともあっ
たに違いない。夕焼けは見惚れてしまうほど美しかったはず。
夜空の星も桁外れの美しさ?
いっぽう現代は人の寿命が80年を越して90年に迫っている。普
通に暮らしていれば衣食住の心配はない。詳細な天気予報を5分
刻みで知ることもできる。最近は住宅街にもクマが出没してい
るが、大多数の都市にクマはいない。
医療も発達、衛生管理も整っている。
しかし、本当に不安はないか? 平静でいられるだろうか?
地震の予知も隕石の落下などもまだ未開発だし、落雷さえも防
げない。
戦争は絶えないし、犯罪も多様化凶悪化している。
現代でも悲しみしかない人は多いし、笑わない人もいっぱいい
る。
そういうときに、宗教の価値は計り知れない。NHK大河『光る君
へ』を見ていても陰陽師(おんみょうじ)を全面的に信じてい
る。平安時代どころか何万年前の大昔から宗教は人の心を支え
てきたに違いない。
まったく人は弱い。
本心、私はバカバカしいと思っている。しかし、人類の生き続
ける確かな方法はないのが現実。神にすがるしかない。神にす
がる姿勢はバカバカしくても納得できる。
そういう人間の悲惨な状況を上手に綴ったのがフランスのパス
カル(1623〜1662)だ。
その後のニーチェ(1844〜1900)なども人類の絶望を語った。
それはお釈迦様も最初に述べている。四苦八苦の教えがそれ。
で、「ではどうするか? どう生きるか?」という次の段階に
なると西洋哲学はとても弱い。仏教はその第二段階を最重要視
する。
宗教にもいろいろあるが、人の不安を煽って、この教団に入信
すれば救われる、みたいな宗教はインチキだと思う。
お釈迦様はそういうインチキ教から人々を目覚めさせようとし
たのだと思う。
この話を続けたらキリがない。
24年9月7日(土)
勝利者なのか?
「描いたもんの勝ち」という信念で生きてきた。
水泳でもとにかく「泳いだもんの勝ち」という気持ちでプール
に向かう。
実際にはメチャクチャめんどくさい。行きたくない。家でダラ
ダラしていたい。金にもならない。
脳は物凄く嫌がっている。
でも、9月2日に行った外プールは前日の雨で水も綺麗だったし
温くもない。心地よい冷たさ。入水前に身体に水をバシャバシャ
かけている時点で無限の幸福感に浸ってしまった。やっぱ家の
グータラより100倍いい。
面倒だと思いながらプールに行く。ジジイだから準備体操も大
変。それでも考えずにドンドンやる。
行くと言ったら行くのだ!
絵も同じなんだよねぇ〜。
油彩画の場合は地塗り段階からめんどくさい。絵具も筆も揃え
ておかなければならないし、画溶液も調合しておかなければな
らない。当たり前。
いくら描いても納得いく傑作はほとんど生まれない。買っても
らうことはほぼゼロ。
それでも描き始めるとすべてを忘れて絵画境に入れる。その幸
福感は「幸せだなぁ〜」とも思っていない。わけわかんない状
況。そういう状況に入れること自体幸福だ。
涅槃寂静かなんか知らないけど、無我みたいな境地に入れる術
を知っているのは有難いことだ。水泳も自転車こぎも同類かも。
水泳とかでもけっこう苦しいんだけどね。その苦しみのなかに
やめられない魅力がある。でもだんだん遠のくのかも。そのう
ち「めんどくせぇ〜」が優ってやめてしまい、あの世に逝くの
かもしれない。
外プールは朝10時から。飲まず食わずで泳ぐ。泳いだあとのブ
ランチはたとえようもなく旨い。それも水泳の魅力だ。泳ぐ前
の食事我慢もハンパないけどね。つらいよぉ〜〜。
辛さとめんどくささの向こうに無限の幸福がある。
それはまったく金にならない。金に関係ない。
いやいや自転車こぎはウーバー配達だから金に関係あるなぁ〜。
絵だって極たまに買ってもらえる。
いろいろ考えたって始まらない。
「描いたもんの勝ち」「泳いだもんの勝ち」
この思想がすべてである。
人生の敗北者でも輝く幸福の瞬間を知っている。
これって本当に敗北者なんだろうか?
もしかすると、ムチャクチャ勝利者なじゃねぇかぁ〜?
24年8月31日(土)
続・人生80歳から
ミケランジェロ(1475〜1564)の彫刻は「ミラノにある《ロン
ダニーニのピエタ》が最高だと思う」と先週述べた。
《ロンダニーニのピエタ》はミケランジェロが88歳のときに彫っ
た。死の3日前まで鑿を入れていたと伝わる。つまりミケラン
ジェロの絶筆(絶鑿?)とも言える。
でも、その作品が最高傑作というのは、本当だろうか?
私の偏見ではないか?
モネのフジやバラにしても、本当に若いころの《印象・日の出》
とか《旗で飾られたモントルグイユの街》などよりいいのだろ
うか?
ま、富岡鉄斎(1837〜1924)の《瀛洲僊境図(えいしゅうせん
きょうず)》(8月30日ブログに図版アップ)なら誰が見ても確
かにいいと言うだろう。画面が透き通っている。絵具がピッタ
リくっ付いている。本当に美しいもんね。
私は何度も言うように20歳代の前半から85歳過ぎの老芸術家の
作品が光り輝いていることを知っていた。
25歳のときにヨーロッパへ行ったときに見たティツィアーノ
(1488/90〜1576)の《荊冠》などにもはっきり老境の画力を
見た。ティツィアーノには二つの《荊冠》がある。ミュンヘン
の80歳ころの《荊冠》とパリのルーブルにある52〜55歳の《荊
冠》だ。2作を比べると俄然ミュンヘンのほうがいい。一目瞭
然だ。
でも、そういう画家はほんの一部。だいたいの画家は衰える。
私自身、80歳を過ぎてますます絵がよくなる自信はない。
鉄斎なんか、74歳のころの絵も悪くはないけど、85歳過ぎの絵
と比べると色がないもんね。画面の厚みも劣る。
やっぱり、私の見立ては正しいのかなぁ〜?
死ぬ寸前の爺さんがド素晴らしい。
そう言えば、禅宗には「遺偈の書」っていうのもある。禅僧が
死ぬ間際に書く偈のことだ。いくつかは国宝になっている。
絵とか彫刻って、85歳が55歳に勝ってしまう世界なんだよね。
一般的にはありえない。
人間だけが持つ不思議な能力なのだろうか? 理屈はわからな
いけど、現実に作品が残っているのだから文句の言いようもない。
私は全面的に信じている。
24年8月24日(土)
人生80歳から
絵が巧い人って本当にいるよね。
昨日もNHKの日曜美術館のアートシーンを見ていたら、素晴ら
しい日本画が映った。録画してあった2〜3週間前の映像(多分
7月28日。録画を消してしまった)。確か竹内栖鳳(1864〜1942)
の弟子と言っていたような気がする。インド旅行に半年以上
も行って風景などを描いた。大胆な構図に驚く。黒っぽい色
を一切使わないで大画面に熱帯植物が描いてあった。並はず
れた才能を感じた。センス抜群。頭脳明晰。
その前に見たのは富岡鉄斎(1837〜1924)展の紹介。没後100
年展。東京ではやらないらしい。京都と愛知県。愛知県に見
に行くか。
鉄斎の絵は上記インド帰りの日本画家とは全然ちがう絵だ。
センスも頭のよさも感じられない。大きな富士山の絵では、
山すその樹海表現など青い絵具を塗ったくってある感じ。私
の絵に似ている。と言うか私が真似しているだけか? 私自
身の意識では真似と言う気もない。ああなっちゃうよね。
長谷川利行(1891〜1940)も似ている。ムチャクチャだ。
ムチャクチャは気持ちいい。
人には最盛期というものがある。旬(しゅん)?
女性は「娘十八番茶も出花」などいうから、18歳なの?
高3とかか。確かに美しいかも。大学に入ったときに出会っ
た女性たちも18歳ころ。みんな美しかった。
丹波哲郎は死ぬと、あの世では自分の最高の年齢に戻ると
言っていた。20歳とか25歳と言っていたように記憶する。
丹波哲郎の若いころもカッコよかった。私の記憶ではテレ
ビの『丹下左膳』が最高だった。ほとんどの方は知らない
と思う。
で、いつもの同じ話だが、鉄斎の最高に素晴らしい年齢は
88歳なんだよね。死ぬ3日前の絵が一番いい。私の意見では
モネ(1840〜1926)の最高傑作も80歳以降のバラやフジの
絵。ミケランジェロ(1475〜1564)も死ぬ直前(89歳?)
まで鑿を入れていたミラノにある《ロンダニーニのピエタ》
が最高だと思う。
絵描きの旬は死ぬ直前なの? そこに向かって驀進する。
死への恐怖はない。驀進があるだけ。
24年8月17日(土)
ウーバー配達を総括する
ウーバー配達を始めて1年と9か月を過ぎた。家にあったママチャ
リで始めたが、いまやタイヤやギヤやチェーンも交換し、安物
の新車より優れた自転車になっている。もちろん手入れも十分
やっている。
しかし、24インチのママチャリはかなりきつい。最低でも26イ
ンチに乗りたい。電動アシストだったらもっと楽かも。本格的
にバイクに乗り換えてもいいか?
今までの総収入を考えると、26インチぐらいの安物でないママ
チャリに乗り換えてもいいようにも思う。電動アシストとかバ
イクを買っても採算が取れるかもしれない。
しかし、いろいろ考えるけど、バイクなどは交通規制が多い。
川沿いの歩行者&自転車道路は走れない。一方通行も多い(自
転車は逆走OK)。ガソリン代もバカにならない。その前にバイ
クの運転技術に自信がない。若くないから機転が利かない。か
なりの練習が必要。で、道路ではいつ命を落とすかわからない。
戦場だ。「間違えた!」と思った瞬間に死んでいる。
怖いよねぇ〜〜。
実は50年前にフランスでバイクに乗っていて転んで10m以上道路
をすべった。左脚を傷め全治1か月ぐらいかかった。
電動アシスト自転車もバイクほどではないにせよ安全ではない。
確かに収入は増えるかもしれないけど命あっての物種。私の自転
車は基本かなりゆっくり安全運転だ。それでもお客様満足度は94
%をもらっている。
とその前に、私は絵描きなのだ。ウーバー配達はアルバイト。プ
ロの配送業者ではない。雇う側のウーバーも本気を期待していな
い。あくまでもバイトであって欲しい、みたい。
学習塾をやっていたときも、一時期大盛況になった。本気で教室
を拡大して塾経営に専念することもできた。しかし、そのときも
絵を捨てる気にはならなかった。微塵も考えなかったかも。塾も
所詮は副業。自分は絵描きだと思っていた。
さらに自転車こぎは苛酷だが身体にはとてもいい、みたい。今の
状態を続けるのが無難。
今のタイヤがすり減ったら新車に替えるかもしれない。今年の冬
前までは持つと思う。新車(中古の可能性大)も普通のママチャ
リの予定。が、最新式の電動アシスト自転車は魅力いっぱい。迷
う。買っても罰は当たらないと思う。
24年8月10日(土)
美術なんてない2
『ギリシアの美術』(澤柳大五郎・岩波新書)は不朽の名著
である。
『仏教』(渡辺照宏・岩波新書)もムチャクチャ名著。
両書とも、ちょっと生意気な高校生あたりを対象にして書いて
ある。わかりやすく説明しようとして懸命である。
『ギリシアの美術』には「まだギリシアの真作に接して居ない
読者をギリシアの古典美にいざない得るかどうか、わたくしは
自らの筆の及ばないのを恐れる」(p30)というクダリがあり、
その謙虚さに脱帽。大先生なのに全然威張っていない。
今回私が一番訴えたい箇所は「ギリシアの遺品がその純粋な美
しさ、藝術的というよりほかに呼びようのない感動でわれわれ
の心を把えるという事実の前には、今日いう意味での『美』も
『藝術』も『藝術家』も古代には無かった(後略)」(p50〜51)
というところ。
では、古代の彫刻家はどういう動機で神像を彫ったのか?
そのキーワードは「アガルマ」。澤柳が「近代語には訳し得な
いギリシア語」というその「アガルマ」とは、競って神に捧げ
る美しいもの喜ばしいもの(神々しく、高貴で、立派で、完全
な、有用な等々)のこと。
神に捧げるんだよね。鑑賞目的ではない。
ここでまた『【特集】牧谿をお見せしよう』(芸術新潮1997年
1月号)を思い出してしまう。p28〜32に述べられている「職業
画家の優位性や宗教や哲学や禅など関係なく牧谿の絵を造形と
して楽しむ」みたい主張はとてもトンチンカンだと理解できる。
職業画家のどこがいいのかさっぱりわからない。なに言ってん
の? って感じ。
牧谿を本職の画家に貶(おとし)める必要があるのだろうか?
まったく牧谿がわかっていない、というか、この美術史家は少
しでも禅とか仏教を学んだのだろうか?
職業画家なんかより禅僧のほうが100倍立派ではないか!
美や美術は妄想である。そういうことを目的に絵を描いても先
は知れている。
そのことを萬鉄五郎(1885〜1927)は『鉄人アヴァンギャルド』
(萬鉄五郎・二玄社)で「美、美術などという言葉はあまい気
がして好かない。(中略)人間が美を作る考えで出発するなら、
つまりそれはセンチメンタルな遊戯だ」(p20)と断じる。
では、どういう姿勢で絵を描くのか?
内に向かって描くのだと言う。
「内面的にならなくてはなりませんから、(中略)まず第一に
人間を作ることが大切と考えます。画家が人間を作るにはどう
したらよいか、それはどうしても一筆一筆の間に練るほかにな
いでしょう」(p30)と言う。
ここで描くことに回帰する。
出来た絵でではなく描くこと自体に意味があるというイッキ描
き理論にたどり着く。
そう言えば、長谷川利行(1891〜1940)も物凄いことを言って
いた。
「絵を描くことは、生きることに値するという人は多いが、生
きることは絵を描くことに価するか」
何回も読み直さないと意味不明だ。出来上がった作品ではなく
絵を描くこと自体にこれほど価値を置く言葉はないかもしれな
い。
24年8月3日(土)
美術なんてない
柚月裕子の小説もイマイチつまらないので、またスマホばか
り見ている。
でも、柚月の小説は法律の話が多く、NHK朝の連ドラ『虎に
翼』と重なる部分も多い。
本心、私は法律とか社会問題に強い興味がない。スマホ記事
でも宇宙とか宗教とか哲学などを見てしまう。最近は豆知識
(雑学)動画ばかり見ている。私は「金がない」をのぞけば
理想的な老後生活を送っているみたいだ。自分自身「老後」
という意識はまったくないけどね。
自分の昔の『唇寒』もよく読む。
この前は「美術はない」という主張を読んだ。自分が書いた
ことだから覚えている。これは萬鉄五郎(1885〜1927)の「美
がない」ともリンクしているが、萬の「美がない」を知った
のは私の「美術はない」の後だったような気がする。どっち
にしてもほぼ同じ意見だった。
2013年4月3日と4日のわがブログは「美術はない」を語ってい
た。
やっぱり萬の意見とは少しちがう。
私の「美術はない」はけっこう美術史からの知識によっている。
つまりギリシア彫刻を彫った彫刻家にはアートなんて意識は
なかった。「女神をこの世に再現する」その一心だ。
奈良の仏像も仏師は身を清めて作ったと聞く。
中国宋元の水墨画も禅修行の一環として描かれた。
ルネサンス美術もキリスト教への真摯な信仰があったのだと
思う。
ま、作家自身、心のなかでは創作を楽しんだ部分もあるだろ
う。いやいやムチャクチャ楽しんでいたかもしれない。そこ
に罪の意識はないだろう。寝食を忘れるほどの集中があった
のだと思う。私はそれこそが涅槃寂静なのではないかと期待
している。
結果としてアートがあった。そのアート的な部分を大きくク
ローズアップしたのが近現代だ。それがいいことだったかど
うか? 少なくとも一歩離れて考え直してみるべきだとは思
う。
富岡鉄斎(1837〜1924)などはそこのところをちゃんと心得
ていたように思う。
24年7月27日(土)
世間基準は無視
一昨年までは週3回以上のペースで外プールに行ったのだが、
去年からウーバー配達もあるので週2回に減ったが、けっこう
泳いだ。おかげで泳力も少しだけアップした。だからと言って
マスターズに出る予定などはまったくない。私は泳ぎたいから
泳いでいるだけ。45分ほど1600mぐらい泳ぐ。けっこう激しい
運動量かもしれない。ムチャクチャ疲れる。朝飯抜きで泳ぐ。
11時半ぐらいに食べる。
この水泳がどの程度のものなのかまったくわからない。
30年ぐらい前にスイミングスクールにも通っていたから、その
経験で考えると1.5倍ぐらい泳いでいる感じ。年齢は倍ぐらい
になっているから、歳の割には多いかもしれない。
絵についても自分の絵のレベルはさっぱりわからない。
今となってはどうでもいい。最近は絵を買ってもらうこともな
いからますます自由になっている。
私が尊敬する浦上玉堂(1745〜1820)なども世間から離れてい
たからマイペースで描いていたと思う。
良寛(1758〜1831)は詩や和歌や書が中心で絵はほとんどない
けど、やっぱり世間とは隔絶して、自由に創作していた。
われわれはもともと社会的動物だから、世間基準というのが多
少気にも掛かるけど、基本どうでもいい。
気持ちいいから今の暮らしでいい。
ウーバー配達は交通事故が怖いけど、そこらを普通に歩いても
危険はいっぱいだ。ウーバーの場合、事故遭遇確率は格段と高
い。しかし、気を付ける意識もプロレベル。自動車が多い道路
は避ける。
ウーバー配達には休業届も要らないし、遅刻や早退も自由だ。
私にはとてもいい仕事。自転車こぎは水泳並に楽しい。私は中
高と落語クラブ(文科系?)だったが、遅咲きの体育会系なの
かも。仕事だから遠いところは避ける。そういう配達先の選択
も出来る。
家内はかなりイヤがっているが、74歳で肉体労働はみっともな
いという思考もある。私はほぼ気にしない。ゴチャゴチャ言う
ムキには「うっせい」って感じ。遠くに住む子供たちには好評
(というか、どうでもいい=理想の親かも)。
24年7月20日(土)
成果や評価はどうでもいい
10年以上前のこの『唇寒』を読み返すと、だいたい同じような
ことが述べてある。同一人の記述だから当たり前。おおむね賛
同できる。
今はブログで11年前に行った南仏の思い出を綴っている。
10年前から進歩していない。
ブレないと言えも言える、のか?
人生は生きたいように生き、絵も描きたいように描く。それだ
けのことだ。
他の人のことはどうでもいいし、世間の評価も関係ない。
プールも苦しいけど、やめる予定はない。筋トレなどはもっと
苦しい。世間の爺さんたちはみんなやっているのだろうか?
やらないと腰や膝が痛くなるからきっとやっているのだと思う。
痛くないと忘れてしまう。
「なんで腹筋なんかやるんだっけ?」と自問する。腰痛予防だっ
た。それも確証があるわけじゃない。多分予防になっている、
きっと。
自転車をこいでいるから脚の筋力はアップしているはず。
ふくらはぎを鍛えると夜中のトイレはゼロになると聞くが、夜
中のトイレはしっかり健在。
太腿を鍛えれば頭脳明晰になるとも言われるが、頭がよくなっ
ている自覚もない。
不思議だ。
まだ鍛えが足りないのだろうか?
泳力も衰えるいっぽうだ。
画力はどうなんだろう?
どうでもいいけどね。
苦しくてめんどくさくて厄介だけど、絵を描いたり自転車をこい
だり泳いだりするとムチャクチャ楽しいから出来る限り続ける。
当たり前。
24年7月13日(土)
「描く」とは何か?
絵を描くってどういうことだろう?
クラシック絵画を見ていると、「描く」より「仕上げる」とか
「塗る」という部分が多いようにも思う。
『イッキ描きとは何か?』でも述べたように、レオナルド(1452
〜1519)にしてもハガキ程度の紙片にインクで走り描いたデッ
サンこそまさにレオナルドの描いた絵だと思う。あれこそ絵だ。
《モナリザ》や《聖母子像》は細密に仕上げてあるが、「描いた」
感はデッサンに比べればだいぶ減少している。
本当に油彩画で「描いた!」と感じられる絵はティツィアーノ
(1488/90〜1576)の晩年の油彩画だ。本当に油絵で描いてある、
感じ。筆を楽しんでいる。絵具を喜んでいる。(7月12日付けブ
ログに参考図版アップ)
その行為は人類だけが知っている恒久の喜びだ。時代に関係ない。
それこそ数万年前の洞窟壁画から連なる「描く喜び」の連鎖だ。
現代も近代も中世もハチの頭もない。
人間はメシ食って寝て排便して、あとはエロいだけ。それだけの
ことだ。太古の昔から変わっていない。
私は新規さや奇抜さばかり追う、いわゆる現代アートをまったく
認めない。新しがりノイローゼだと思っている。それに金を掛け
現代美術館を造ったり、テレビで紹介したりする方々の気がしれ
ない。本当にわかっているのだろうか?
いつも述べているが現代○○という言い方もおかしい。国語力ゼ
ロ。
現代の絵はすべて現代アートであり現代美術に決まっているでは
ないか!
コンテンポラリーアート(同時代美術?)もモダンアートなどと
いう区分ももちろん同様に誤っている。
美術史ノイローゼなんだと思う。古代美術とか中世美術、近代美
術という言い方は正しい。でも現代美術なんて分野はないと思う。
古代美術だって、その時代には現代美術だったんだよね。
「現代」は特別だと思う。
ま、どうでもいいけどね。
絵は描きたいように描けばいい、のだ。
描きたい、線が引きたい、点々を置きたい。丸く腕をまわしたい。
グンと太い線を引きたい。細い線でひっかきたい。
そういう筆の喜びがなければ話にならない、だろが!
でも、いわゆる現代アートも含めて、何をやっても自由だ。好き
勝手にやればいい。他所の国の街を爆撃しているわけではない。
24年7月5日(土)
Trio展に想う
「Trio展」(国立近代美術館・8月25日まで)に行った。
入り口の絵はマルケ(1875〜1947)《雪のノートルダム大聖堂、
パリ》という絵(7月7日付け『イッキ描きブログ』にアップ予定)。
61×81pの大きさ。日本寸法に換算するとP25号ほどの画面だ。
もちろん大作ではないが小品とも言えない。たっぷり大きい。
なんという筆捌きだろう!
1912年頃の作品とある。マルケが37歳のころか。手慣れた筆の跡
は決して粗雑ではない。速いが丁寧だ。筆を楽しんでいる感じが
伝わる。描く喜びにあふれている。
もうこの絵1点が見られただけで2200円の入場料は安と思ってしま
う。この絵はパリの市立近代美術館からやって来たのだ。
TrioというのはTokyoとParisとOsakaの文字を組み合わせてトリオ
に引っ掛けたシャレらしい。ウィットのつもりか。
インテリのダジャレは頂けない。笑いは己を捨てた命懸けの芸人
のなかから生まれる。一段高い安全地帯からシャレられてもシラ
ケるだけだ。まったくわかっていない。NHKの男性アナウンサーの
ダジャレレベル。殺意が湧く。ま、殺さなくてもテレビは消すか
チャンネルを変えれば済むけどね。
竹橋の近美はマルケを見せてくれたから下手なダジャレも赦しちゃ
う。
期待していたデュフィ(1877〜1953)もたくさん来ていた。特に
《家と庭》は圧巻(7月5日付け『イッキ描きブログ』にアップ)。
パリ市立近代美術館は素晴らしいデュフィをいっぱい持っている。
《家と庭》は私の記憶になかった。初めて見たと思う。
しかし、世界の美術もデュフィぐらいで終わりかも。ま、ピカソ
(1881〜1973)までかな?
その後はロクなものはない。
頭脳ばかりが先行して筆がおろそかなんだよね。描かなきゃ絵描
きじゃねぇベェ。
「拙速に過ぎる?」ってか。もともと「拙速」は褒め言葉らしい。
「巧緻より拙速」って使うらしい。まさにミケランジェロ(1475〜
1564)の天井画や壁画には驚くべきスピード感がある。
だけど世界美術の方向は急ぎ過ぎ。美術界はまさに暗黒時代に入っ
ている。世界の近現代美術館は、その暗黒時代を強情に推し進め
ている。
ま、いいけどね。
映像芸術なんかも展示してあったけど(鑑賞のあと孫と遊ぶ予定
だったのでよく見ていない=ゴメン)、ああいうのって映画文化
でいいように思う。クラシック音楽も映画音楽に引き継がれてい
るんじゃないだろうか? よくわからない。
ただ、油彩画の筆の魅力はイラストやコミックでは表現できない
んだよね。