唇 寒(しんかん)集68<24/2/3〜>

24年3月2日(土)

埋没できる時空

2月26日に茅ヶ崎の海で絵を描いた。キャンバスが不足気味なの

で油絵はF8とSMとF0の3枚だけ。あとはA3の水彩紙に鉛筆で4枚

描いた。

絵って自分だけの世界だと思う。そういう意味では絶対的な自

分の時間が過ごせる。唯一無二の時間を経験できることは幸福

なことだ。

 

私が父に「絵描きになりたい」と言ったとき、父は「歳をとっ

てやることがなくて困るから絵でも描いておけ」と答えた。巧

い回答だ。父は相当の境地にいたのかもしれない。

少なくとも父も絵の世界に埋没する楽しみを知っていたにちが

いない。ま、父の絵は最晩年(とは言っても今の私の歳)まで

売れていたから、けっこう娑婆っ気があったかも。ウーバー配

達の合間に絵を描いている今の私のほうが自由で気楽か。

 

本当に絵は苦しくて楽しい。

(思うように)描けないんだよねぇ〜。

それがまた至福のとき。そのパラドックスは本人しかわからない。

出来上がった絵がいいのかつまらないのか、そういうのは二義的

な問題。描いている最中はどうでもいい。

たとえば、茅ヶ崎海岸だったら、太古からの雄大な風景のなかに

いる。海上に大島が浮かびその右手から伊豆半島が続く。複雑な

山容の箱根があって富士がドンと構えている。上空には雲が好き

勝手に暴れる。ものすごく広い大舞台での大舞踏会だ。海も波が

うねっている。広大な世界のなかで「描けねぇ〜」と奮闘するハ

ゲ爺がいる。楽しいねぇ。

これがブグロー(1825〜1905)だったらスイスイ描けてしまって、

その絵もどんどん売れちまう。きっと面白くもない作業なんじゃ

ないか。

下手っぴぃは下手っぴぃの格闘があり苦闘があり歓喜がある。い

い絵が完成する歓喜ではない。そっちは偶然。クジみたいなもの。

絵を描くこと自体に歓喜があるのだ。苦闘との交錯のなかに喜び

が忍び込んでいる。

こういうのは水泳でも自転車こぎでも同じ。苦しみながら喜んじゃ

うんだよね。しかし、絵を描くときの苦楽はまったく格別で、不

思議な時空のなかに入れる、のだ。

手を動かすから確かに身体的だけど、水泳なんかよりずっとメン

タル面が強い。当たり前か。瞑想世界と気取るつもりはないけど

ね。現実は絵具まみれでムチャクチャだ。

 

24年2月24日(土)

ヴォラールのルノワール

ここのところブログにアップしているルノワール(1841〜1919)

の絵はヴォラール・コレクションだ。ヴォラール(1866〜1939)

はルノワールと同時代のパリの有名な画商。

一見贋作かと疑りたくなるあやしげなルノワールだけど、ヴォラー

ル・コレクションなんだから贋作のはずはない。そう思って見る

せいか、なんか味わい深いような気もする。「あやしげ」と言っ

たのはあまりにも下手だからだ。いやいやヘタと言ってもモネ(18

40〜1926)やドガ(1834〜1917)などに比べての話。

ヤケクソで描いている。ルノワールの晩年は中風のせいで筆も持

てなかったという。そういう感じもする。でも描くんだ、自分は

絵描きなんだ、という信念のもとに筆を持ち続けた。そういう迫

力がガンガン伝わってくる。

私も若いころはルノワールをイマイチ認めていなかったが、この

ごろは立派な画家だったと思うようになった。

ヴォラール・コレクションのルノワールを見ていると、表現主義

的な筆の勢いを感じる。形や空間よりも筆の躍動、みたいな?

それは中国の書にも通じる造形的魅力だ。

中村彝(1887〜1924)や梅原龍三郎(1888〜1986)をはじめ、ル

ノワールに影響を受けた日本人洋画家は多い。なかには、首をか

しげざるを得ない絵も少なくない。日本人画家のルノワール風絵

画に比べると本物のルノワールがいかにたくさんの絵を描いたか、

筆のこなれが一目でわかる。それは筆の乱れとはちがう。一筆一

筆に喜びが溢れている。

われわれはつい巧い絵に目を奪われてしまう。しかし、巧さは絵

画の本質ではない。

 

24年2月17日(土)

天風会館に行く

14日にやっと『運命を拓く 天風瞑想録』(中村天風・講談社)

を読み終った。私の学生時代の国語読解力は抜群だったのだけれ

ど、あんまりよくわからなかった。

宇宙霊というのがあって人間にはそれを受け入れる能力がある。

受け入れさえすれば何も怖くない。という理論、らしい。

でもそのためには宇宙霊自体を信じなければならない。これがと

ても困難。

さらに、人間だけが全生物の霊長であり、宇宙霊を受容できると

いう説も簡単には頷けない。

たとえば、森の古木など人間なんか問題にならないほど荘厳だ。

山もまた毅然と存在している。ま、富士山なんかは特別だよね。

海もまた素晴らしい。いくら見ていても飽きない。

いろいろな野生動物もそれぞれに悠然としていて、堂々たるもの

だ。

人間はけっこうセコイ。威張りンぼでアホ。

私にはなかなか納得できないところもある。大谷翔平みたく素直

じゃないもんね。

 

で、15日に天風会館を訪ね天風の実際の墨跡を鑑賞してきた。東

京都文京区の護国寺の境内にある。入館料は無料。

天風の書画や彫刻などは画像で見るのとは全然ちがった。もちろ

ん専門家の筆跡とは言い難いが、すべて立派な造形だった。専門

家(=プロ)の墨跡よりずっといい。

よかった。

悪性の結核を乗り越えた。そこに嘘はないと思う。それはふつう

考えられない奇蹟だ。そう言えば、私の父も胸骨カリエスという

死病を患っていた。何度も入院し、15回胸を開いたと言っていた。

胸には大きな傷があった。私は子供のことから見ていたのでキモ

いとも思わなかった。私の子供のころの父は病弱だったが、途中

からムチャクチャ元気になった。完治したのかもしれない。不思

議だ。

そういうことってあるんだね。

天風会館のギャラリーには達磨の絵がなかったのが心残り。

 

24年2月10日(土)

ゴッホの伝道

『運命を拓く 天風瞑想録』(中村天風・講談社)で、天風師は

世のため人のために働かなければならないと言っている。私なん

か「自分が楽しければいい」レベル。世のためを思いやれる余裕

なんてない。

ゴッホ(1853〜1890)もとても余裕のある心情とも思えない。画

商だった弟テオの手紙には苦しい暮らしぶりをアピールしている。

しかし、結果としてゴッホの絵は世界中の多くの人々を魅了し続

けている。私もしっかり魅了されてしまっている。ゴッホの絵っ

てまさに宗教絵画、キリスト教絵画とも言えるのではないか?

ゴッホは牧師を目指していたが、ゴッホは自分の絵で何十人分の

牧師の仕事をやってのけた。死んでなお現在も伝道し続けている。

おそらく今後もずっとゴッホ絵画による伝道活動は続くだろう。

絵画のちからを思い知る。

もちろん、私の絵はそんな大それたもんじゃない。当たり前。そ

んな野望はない。だけど、絵にそういうちからがあることを私は

知ってはいる。美術って偉大なのだ。

私自身がそういう偉大な美術に携わっているのだ、と主張するつ

もりは毛頭ない(丸坊主のシャレではない)。

しかし、美術(アートと言ってもいい)は永遠である。アートは

ムチャクチャ楽しいもの。真なるアートはギスギスしていない。

競争じゃない。(美大)合格とか入選とか受賞とか完売とか、そ

ういうのは真なるアートとは無縁。関係ない。絵は描きたいから

描くものであり、描いているときはまったくひとりの世界であり、

中村天風流に言うならまさに宇宙霊と一体化している、のだ。そ

の瞬間は永遠であり広大無辺だ。

それは誰もが経験していること。子供のころの遊びは宇宙霊と溶

け合っている。

もちろんそれは大人になっても味わえる。

世のため人のためになっているかどうかは知らない。

 

24年2月3日(土)

絵画の真実

『運命を拓く 天風瞑想録』(中村天風・講談社)は講演を書籍

化してある。通読しなくても章ごとに独立している。

読み進めると、わがイッキ描きを支援してくれている感じ。小気

味いい。

第5章『大いなる悟り』では物事を積極的に考えるよう主張してい

る。私にはぴったりの論述。ま、私の場合はノーテンキなだけだ

けどね。

この本にはヒトの悪口も容赦なく書いてある。第6章『人生と運命』

では占い、干支、八卦などをボロクソに貶している。天風は完全

なる無神論者だ。神や仏とよく言うけど、祈りなどをまったく信

じていない。酷いね。祈りは静かで深い呼吸になるからいいよう

にも思う。私自身、黙祷を8月に3回やるだけで普段祈ったりはし

ないけどね。丹田呼吸はしょっちゅうやっている。

第7章『人間の生命の本来の面目』では、な、なんと“創造の生活”

こそが本来の面目と来た(p183)。「えっ?えっ?えっ? それっ

て絵を描くとか?」と喜んだけど、ちょっと違うみたいだ。もう

1回よく読んでみる。

で、今日トイレでとても大事なことに気が付いた。それも天風師

のおかげかも。それは、ここでも何度も言っていることだけど、

「絵っていうのは描きたいものを描きたいように描けばいい」の

だ。イッキ描きでは当たり前過ぎるこの「描きたい」セオリーが

徹底的に正しいと腹の底から自覚した。悟りみたいな感じかも。

わかりやすく言えば、人気とか世間の評価なんて関係ないのだ。

これもここでは何度も言っている。

言っていたけど、大悟徹底していなかったかも。

本当に世間なんて関係ない。描きたいものを描きたいように描け

ばいい、それがイッキ描きの真諦であり、絵画の真実である!

 

 

 

最初のページ           「唇寒集」目次