唇 寒(しんかん)集67<23/9/2〜>
23年12月9日(土)
ゴッホの絵
新宿のSOMPO美術館でやっている『ゴッホと静物画 伝統から革新
へ』展(1月21日まで)にそってYou Tube《美術の沼びと》の収録
をした。
ゴッホの絵ってどうして魅力的なんだろう?
まったく写実的じゃない。細密描写からは遠い。しかし、まちが
いなく具象画だ。何が描いてあるかはっきりわかるし、空間や肉
づけも意識している。目指している。
その目指す姿勢が好ましいのだろうか。目指しているけどなかな
か思うように描けない葛藤が魅力的なのだろうか?
わがイッキ描きの絵画理論では「筆の喜び」説。「描きたいぃ〜〜〜」
というホモサピエンスが太古の時代から持っている筆への希求が
あるからではないだろうか。
絵具を塗る、細く線を引く、太い筆でベタベタやる。曲線を楽し
む。色で遊ぶ。そういう根本的な描画への欲求がはっきり見える。
藤井聡太が将棋を考えふけっている様子。大谷翔平が二塁を蹴っ
て三塁へ走る軽快な足取り。ああいうのにも共通する人間活動の
原点? 喜び?
そういうのが感じられるからなのだろうか?
いくら巧くても受賞などに汲々として描いた絵は魅力ない。目的
がちがうところに行っている。
7日のヤフーニュースに「大谷翔平はなぜ『圧倒的に成功』できた
のか?常に自分を奮い立たせる『モチベーション』の秘密」とい
う記事があった。絵で言うと売りたくて描いた絵と描きたくて描
いた絵はちがうということ。私が繰り返す絵を道具にしたらオワ
(終わり)、という意味。
ま、ゴッホは絵を売りたい気持ちを繰り返しテオへの手紙に書い
ているけど、実際に描き始めると作画への喜びに埋没してしまう
ようだ。とにかく絵を描くことがムチャクチャ楽しいヘンなヤツ
だ。
23年12月2日(土)
筆の日々
11月14日に泳いでから28日まで泳げなかった。プールのメンテナ
ンス休業があったり都心の美術展に行ったりしたためだ。
で、28日に泳いでみるとまったく身体が動かない。いやいや溺れ
るわけではない。You Tubeなどで泳法の動画も見て研究もしてい
る。頭では分かっている。しかし身体は上手く反応してくれない。
ハタで見る分には大した変りはないかもしれない。しかし、本人
には凄くよくわかる。ホント身体が動かない感じ。ま、寝違いの
痛みも残っているんだけどね。
こういう身体的な細かい低下は絵でも同じ。絵も描いていないと
すぐダメになる。絵って頭で描くものじゃない。腕で描くものだ
と思う。大きな絵は足腰も大切。
絵はホント身体的な活動なんだよね。大袈裟な美術論より日々筆
を使うことが大事。いくら絵画論が立派でも、絵描きは筆が動か
なければ話にならない。
150年前の印象派の画家たちもとにかく筆を使うことを重要視した。
ゴッホもたったの10年間だったけど描きに描いた。筆の日々だっ
た。当たり前だ。それが絵描きだ。
フォーヴの画家もナビ派の画家もとにかくたくさん描いた。キュー
ビズムぐらいからあやしくなったがピカソ(1881〜1973)自身は
山ほど描いた。
私も出来るだけ描くようにしている。「描く」と言っても、鉛筆
と油絵では全然ちがうし、100号などを描いているときは小さい絵
も変わってくる。だいたい好影響。もちろん、鉛筆、水墨、水彩、
なんでも描いていないより100倍いい。描いていないとダメ。
同時に眼も鍛えておかないと危うい。美術展に行って本物のクラ
シックを見ていないとおかしくなる。クラシックを見られること
は幸福なことだ。この前行った『北宋精華』展なんて、あんな絵、
昔なら一般庶民は生涯お目に掛かれない。庶民には「世の中には
凄い絵があるらしい」というような伝説話レベルのお宝だ。
なんにしても、絵はスポーツと同質。描き続け見続けていないと
ダメ。贅沢だねぇ〜。
23年11月25日(土)
裸婦について
11月12日付けのブログの『今日の絵』のコメントで「女性の裸は
尊いものだ、と思う」と述べた。まったく尊くて眩しくて神々し
いとさえ言える。女性の裸は美しい。古代ギリシアの彫刻家に言
わせたら「女性」なのではなく「人間」の裸体が美しいのだ、と
言われてしまうかもしれない。裸体と言ってもそれは鍛えが入っ
ている肉体だ。
裸婦のモデルもダンサーなどが多い。だからネットや雑誌で裸体
を晒している方々とはかなり違う。ああいう裸はのっぺりしてい
てフニャフニャ。若くても魅力半減。
真面目なモデルは3時間のポーズ中もいろいろ見せて頑張ってくれ
る。こちらも必死で描く。それがシンクロしたとき信じられない
ような絵ができることもある。ま、滅多にないけどね。
ロダン(1840〜1917)の彫刻を見ていてもロダンが目の前のモデル
を「綺麗だなぁ〜〜」と思って造形していることがわかる。われわ
れはそのロダンの「綺麗だなぁ〜〜」と思っている心に同意するの
だ。同じことは古代ギリシア彫刻にも言える。
つい現代の絵や彫刻の悪口になってしまうが、新しさを求めるあま
りクラシックへの敬慕が感じられない作品が多い。クラシックがな
い芸術などあり得ないではないか!
NHK朝ドラ『ブギウギ』でも、主人公が「先輩ダンサーが目標です」
と言うと、「あなたは自分の個性で勝負しなさい」みたいなことを
言われる。
自分の個性! クソだ。
われわれは何千年前から造形の連鎖で繋がっている。それは造形の
真髄の連鎖でもある。クラシックの感じられない現代アートなどす
べて消えてなくなる。火を見るより明らかだ。
23年11月18日(土)
紙と墨
『禅仏教の哲学に向けて』(井筒俊彦・ぷねうま舎)の「Z 東
アジアの芸術と哲学における色彩の排除」はわがイッキ描き理論
とムチャクチャ共鳴したが、いろいろ不満が残る。
たとえば「色彩を層として積み重ねられる西洋の油絵と異なり」
(p293)とある。西洋の油絵だって本当の名作は一気呵成に仕上
がっている、のだ。ルネサンスやバロックの画家がどれほどの筆
の使い手か、多分井筒も知ってはいるのだろう。ここは文脈上や
やこしくなるので、上記のように述べたのだと思いたい。
そういうところなど細かく不満はあるが、大雑把にとても同意で
きる。
ただ、井筒はきっと筆の人ではない。われわれから言わせれば「寝
言」となってしまう。
でも、以下の文章などとてもありがたかった。
「本質的に精神的な芸術として、この種の絵画が心の最大限の集
中を要求されることは容易に認められるだろう。心の集中は何よ
りもまず、この芸術のために用いられる東洋の紙の独特な性質に
よって要求される。東洋の紙は、水と墨を容易に素早く吸収する
という意味で、東洋の筆に劣らず敏感である。墨は言うまでもな
く、ほんのわずかな水滴でさえ、紙に瞬時に浸透し、紙の表面に
消せない跡を残す。厳密に述べるなら、『塗ること』はここでは
不可能である。色彩を層にして積み重ねられる西洋の油絵と異な
り、墨絵は一気呵成に仕上げられねばならない」(p292〜293)
この文章はわが水墨裸婦を全面的に良心的に解説してくれている。
ま、山のような失敗作を見せたらさらに納得してくれるかも。
1割にも満たない「見られる絵」のほうだけをお見せしたら「お前
は天才か」と驚嘆してもらえるかも。墨の染みがお尻になり、墨
のかすれが背中になっている。描いた本人が一番びっくりしてい
る。
23年11月11日(土)
共鳴したぁ〜〜
『禅仏教の哲学に向けて』(井筒俊彦・ぷねうま舎)の「Z 東
アジアの芸術と哲学における色彩の排除」はわがイッキ描き理論
とムチャクチャ共鳴した。
ただし、私はヨーロッパ絵画にも井筒の言う東洋の要素は十分あ
ると感じている。だって真理は一つだし、「いい絵」の根本が変
化するわけがない。ヨーロッパにだってイッキ描きのお手本は腐
るほどある。
もちろん現代アートじゃない。古典絵画や彫刻においてだ。
現代のものはほとんどが腐っている。ほぼ全滅。現代アートがい
いはずがない。現代や最先端を崇拝する傾向は衰えないが、地球
の現状を見れば現代がどれほどバカか一目瞭然ではないか!
水墨画というのは書店に積んである『水墨画の描き方』的な教本
ではない。あんなのは最低。「竹の描き方」なんて項目もある。
ふざけるなよ! 墨が真っ黒で全然紙に密着していない。あれは
墨も磨っていない。安物の墨汁で描いている。話にならない。
同じことは現代水墨画の美術団体にも言える。書道でさえも墨を
器械で磨っている。子供のころに「書は墨をする時から始まって
いる」と習った。とても正しいと思う。もちろん水墨画も同じ。
『禅仏教の哲学に向けて』では現代美術の悪口はいっさい述べら
れていない。私のようなレベルの低い人間しか批判や非難をしな
いからだ。しかし、比べれば一目瞭然。本当によくわかる。一目
でわかる。
今の絵描きで『禅仏教の哲学に向けて』なんて本を読むような人
間はいない。ムードばかり。酒を飲むことで頭はいっぱいだ。つ
まりバカばかり。絵は才能で描けると思い込んでいる。
本論に入る前に品のないところをお見せしてしまった。まことに
申し訳ありません。
次回からしっかり本論を語る、予定。
23年11月4日(土)
私も健闘中
『禅仏教の哲学に向けて』(井筒俊彦・ぶねうま舎)の内容を解
説するのはかなり困難。直接読んでいただくのが一番手っ取り早
い。禅の悟りというものが何なのか文章から多少は理解できるか
もしれない。
さらに、私が繰り返し言っている悟りの絵画、すなわち牧谿(1280
頃活躍)や因陀羅(元代末)などの宋元禅林の水墨画についても
おそらく同意見だ。まさに見る悟りなのだ。
悟りが見られる、という奇蹟。
で、自分自身だが、私も悟りを開くべく健闘した。だって、いい
絵を描くには悟りを開くのが一番手っ取り早いと思ったからだ。
しかし、悟りからはとても遠く、そろそろ嫌気がさしてきた。め
んどくせぇ〜〜〜、って気分。かと言って死ぬ度胸はない。生き
たい以上、ダメ元で続けるきゃない。そういう人生。
インチキ野郎がのさばっているのが腹立つけど、腹を立てるのも
バカバカしいような低レベルの人間だ。そういう人間を立派だと
奉る善男善女にもうんざり。致し方ない。関係ない。直接危害を
加えられているわけではない。好き嫌いは本人の自由だ。
ま、『禅仏教の哲学に向けて』によれば、無我夢中で集中するこ
とは悟りへの第一歩だとある。少なくともヘボな絵を描いている
瞬間には集中していると思う。そこに期待しよう。
73歳でまだ期待かよ!
死ぬまでやるしかない。
これが悟りならいいんだけどねぇ〜〜。
23年10月28日(土)
父の教え
当たり前かもしれないが私は父から絵についてたくさん教えを受
けている。
裸婦のことなど事細かに言われた。
たとえば「ヘソはでかく描け」など。「ヘソは身体の真ん中だか
ら最重要」とのこと。
レンブラントの裸婦を見ても確かにヘソがでかい。
「身体の硬いところをしっかり描け」とも。背骨、腰骨、肩、肘、
膝などだ。「オッパイなんてさっとでいい(乳首は描かない)。
股間には骨があるからしっかり描け」との教え。
そして、こういう教えは「内緒にしておけよ」とも言われた。バ
カ息子の私はネットで公開してしまっている。
でも、一番の教えは「うんと描け」という教え。「描いて描いて
描きまくれ」と言われた。この教えはなかなか実行不可能。誰も
絵なんてそんなに描かないもん。
「油絵はでっかい油壺から出したみたいな、油が滴っているよう
な絵を描け」とも。
意味不明だよね。こういう禅問答みたいな教えも多い。たくさん
描くとわかってくる。
多分今回のヘッドページの絵《オレンジ色のバラ》なら合格なの
ではないか?
でもこの絵はSM(22.7×15.8p)と小さい。このしっとりした漆
絵(蒔絵)のような油絵を100号で描けたら父も納得するだろう。
こういう絵は連続して描いていないと出来ない。身体が油絵モー
ドに嵌ってしまって、まさに血液が画溶液みたくなっちゃう。手
先が筆になっちゃったみたいな感じ。
私も長い絵描き人生で何回かしか味わっていない。ま、クロッキー
のときなどはかなりそういう状態になる。等迦展の100号制作とク
ロッキー会が重なると、なんか筆が自由になった感じを体得でき
たこともあった。
ある程度描けば誰だって筆と一体化できる。その「ある程度」は相
当量だけど、でも誰だってそういう画境に入れるはず。万人平等だ。
そういうのは才能とかとはまったく関係ない。画境に入ることが重
大なのであり、作品の出来は二の次なのだ。
世間はここのところを勘違いしている。
世間には絵などは才能というバカバカしい妄想がある。まずは描き
に描いてから言っていただきたい。
23年10月21日(土)
一人もいい
テレビをつけると観光地に人がいっぱい。車の渋滞もハンパない。
サザンオールスターズのコンサートも凄い人だ。いやいや私もサザ
ンのコンサートなら行きたい、か? スマホのサザンでいいように
も思う。ポケットから流れる『いとしのエリー』でじゅうぶん満足。
藤井聡太八冠の追っかけマダムたちも凄いね。将棋も知らないで大
盤解説会場は満パン、藤井グッズを買いあさっている。藤井さんの
魅力は棋譜のなかにこそあると思うけどね。
テレビのニュースの人の波はどこも凄まじい。
私もウーバー配達では現実の町田の人波の真っ只中にいる。本当に
たいへん。
みんな、人混みが好きだなぁ〜。
本心私は一人がいい。一人で寝っころがっているのが一番。
自転車こいでフラフラになってから寝っころがるのは最高。水泳の
後も極楽。
こんなグータラ孤独ジジイの絵が多くの大衆に受け入れられるはず
もない。
それはそれで清々しい。気持ちいい。
マス、メジャーはクソだ。
ちなみに、私は一人暮らしではない。家内と二人。たまに子や孫にも会う。
23年10月14日(土)
古典の証明
8日付けブログで悟りを開くことが人生の目標ならこんなに合理的な
ことはないと述べた。
「悟りを開く」ももちろん悪くないんだけど、私の場合は「少しで
もましな絵を描く」というのが人生の目標になってしまった。絵を
売りたいとかでかい賞をもらいたいとか果ては文化勲章、などとい
う大それた、というかバカバカしい目標ではない。「少しでもまし
な絵」というのはけっこう好感度が高い目標なんじゃないだろうか。
「悟りを開く」にも近いかも。
私の場合は若いころ絵と仏教が同時進行してしまい、牧谿がそれを
証明するみたいな形で眼前に現れた。証明は古代ギリシア彫刻やル
ネサンスや印象派などでもどんどん出てくる。人類は素晴らしい、
のだ!
お手本は山とある。2500年前の彫刻が現実に見られる、のだ。これ
はあり得ないようなお手本。それをコピーしたのが石膏像だ。学校
にはもちろん、町中にあふれている。私の家にも2体ある。カラー印
刷のクラシック絵画もあちこちで見られる。画集もあるし、美術館
に行けば本物にも出会える。ありがたい。
で、絵を描くというのはとても積極的な集中のときを過ごすことだ。
素晴らしい充実の時間を獲得できる。それこそが涅槃寂静なんじゃな
いか?
出来た絵がどうかなんて問題じゃないと思う。
クラシック美術に比べれば赤子の落書きだよ。
それでも世に腐るほどある野心に満ちた大芸術より1000倍ましだ、と
思う。
23年10月7日(土)
至福の30分間
4日の絵画教室ではわが家の酔芙蓉を切って行って描いた。S氏の奥
さんに生けていただいた。その方は生け花の師範。今までの私の花
瓶の花もほとんどその方が生けた花だ。私の花瓶の花の絵はかなり
贅沢なのだ。
やっぱり絵はいい。
描き始めて30分ぐらいはとても静か。黙々と制作する。この時間は
至福のときだ。生徒さんの絵もこの時間に一番よくなる。それは自
分の絵を見ている時間より花を見ている時間のほうが長いからだ。
絵を作ろうとすると絵はどんどん破壊される。花に見入っていると
きこそが絵の時間なのだ。だから私の画法はイッキ描きなんだけど
ね。その最初の30分だけを摘み取った絵がイッキ描きだ。
絵って描けないんだよね。私の知る限り、絵が描けた人はブグロー
と小磯良平の二人ぐらい。ふつう描けない。描けないからいいのだ。
その葛藤が絵の魅力だとも言える。
で、静寂の30分だけど、この時間って茶道の時間にも似ているかも。
もっとも私は茶道なんてやったことない。家内は師範だけど資格だ
け。実際には教えていない。でも話を聞くと静かでいい時間だとの
こと。坐禅はもっと高級なのかもしれないが、同質の時間なのかも。
私は日曜座禅会にはけっこう通った。
また同じ結論になっちゃうけど、絵なんてどうだっていいんだよね。
至福のときこそが大切。人生ってそういう幸福をどれだけ味わうか、
なんじゃないだろうか?
講師が「できた絵なんてどうだっていい」という考えじゃあ、わが
絵画教室は繁栄しない。目的ばかりに汲々とする人生も空しいと思
うけどね。
23年9月30日(土)
大雑把
私はギリシア彫刻とかティツィアーノなどばかり見ている。東洋美
術も牧谿や奈良の仏像彫刻などばかり。
現代の美術動向をほとんど気にしていない。どうでもいいと思って
いる。
でも、俳句のテレビ番組『プレバト』などを見ていると細かい知識
がいっぱい必要だと知る。ああいうのって写真芸術などでも大変な
レベル分けがあるらしい。私は少し雑誌に関わったことがあるので
プロの写真家を間近に見たこともあるけど、かなり大変そう。そりゃ、
映像技術だってハッタリではない真の細かいテクニックがあるのだ
と思う。
絵画芸術も同様なのだろうか? きっと同様なんだろう。
古典を見て感動して、自分は花や風景などの自然(ま、人体も自然
の一種かも)を見ながら勝手に描く。私のはただそれだけ。とても
単純。権威も細かいテクも関係ない。大雑把。ムチャクチャ。
ま、美術雑誌などを見るかぎり、ギリシアレベルの美術に出会った
ことはない。
「この絵が大賞なのかぁ〜〜!」と驚くことはある。確かに時間を
掛けて丁寧に描いてある感じ。だけどなんか本質からは遠いんだよ
ね。違うだろと思ってしまう。
23年9月23日(土)
果てなき思慕
究極の美術の目的は新しい表現ではない。
いくら新しがっても人の暮らしはそれほど変わるものではない。人
は、というか有性生殖の哺乳類は食って寝て排便して恋をして子孫
を残して死んでゆく。これが一般的。常道。それ以上でも以下でも
ない。いくら新しがっても知れている。
究極の美術の目的は、新しさではなくむしろ古い表現の同時代的再
生だと思う。わかりやすく言えば古典解釈だ。
たとえばルネサンスは古代ギリシアの15世紀的解釈だと言える。
中国明末清初の徐渭(1521〜1593)や八大山人(1626〜1705以降)
は牧谿(1280頃活躍)の一解釈と言えると思う。
ルーベンス(1577〜1640)はティツィアーノ(1488/90〜1576)へ
の思慕、ロココはルーベンスへの憧れ。
クールベ(1819〜1877)はレンブラント(1606〜1669)を追ったと
も言えるし、印象派も自然主義への回帰を謳った。
印象派のもっとも大きな主張は喜びの筆致だと思う。それは筆への
粘りでもある。そういう筆の跡はモランディ(1890〜1964)にも見
える。あの感じ。ああいう粘り強い喜びが欲しい。レンブラント
(1606〜1669)が強く主張し、シャルダン(1699〜1779)の静物画
にも感じられる。
もちろん東洋の絵にも共通する筆の執念だ。東洋の場合は書にも執
念が見える。粘着、想い、喜びなんだよね。
絵は説明ではない。巧さの競争ではない。絵画への果てなき思慕な
のだ。憧憬なのだ。
それが洋の東西を問わず全ホモサピエンスが希求する造形の根幹だ。
なんかいいこと言っちゃた、かな?
話がそれた感もある。いつもだけどね。
23年9月16日(土)
ボナールの画法
ボナールは記憶で描き、アトリエで何度も筆を加える。わがイッキ
描きとは真逆の画法だ。しかし、私はボナールを肯定している。
大切なのは画法ではないからだ。
筆への喜びが一番肝心だと思う。それは筆への執着でもある。筆の
粘りが見えないとダメ。
陸上競技だって100m走もあればマラソンもある。水泳も最近は50m
だけで速さを競っている。いっぽう1500m自由形も健在。
絵だっていろいろな描き方があっていい。
肝心なのは筆への喜びの感謝なのである。
筆はそっくりに描くための道具ではない。そっちが目的になっちゃ
うと終わりだ。さらに腐った賞とか悪趣味のエロ絵画に嵌ったら完
全敗北。ま、いいけどね。世の中いろいろある。絵を生きるための
道具にしている。それはそれでいい。犯罪じゃない。
われわれは絵のために生きているようなものだ。話が逆さま。
でも、これが一番肝心なのじゃないの? どうせ死ぬまでしか生き
ないんだから。
少なくとも東西の真なる画人は絵のために生きていた。それがクラ
シック絵画だ。
ま、私は生身の人間だからどう転ぶかわからないけどね。今のとこ
ろ上手くやっている。
画法なんてどうでもいい、のだ。
西洋のティツィアーノ(1488/90〜1576)でもレンブラント(1606〜
1669)でも、よく見ていただきたい。東洋の牧谿(1280頃活躍)、
雪舟等楊(1420〜1506)なども同様。本物の絵描きの作品を頭を冷
やして見たほうがいい。
まったく絵って便利なメディア。見られるんだから凄い。
一度しかない自分の人生を本当に愛した人の筆の跡だ。資産や名声
ではないんだよね。
23年9月9日(土)
スーパーメディア
昔の画家の絵を見られるというのは凄いことだ。
たとえばお釈迦様の説法を聴くことは絶対に出来ない。それは道元
禅師の説法だって無理。良寛さまの法話も聴けない。
そりゃティツィアーノの絵画論だって聴けないけど、ティツィアー
ノの絵を見ることはできる。私はこれが凄いと言いたい。誰だって
ティツィアーノの絵画論を聴くより絵を見たほうがいいに決まって
いる。ティツィアーノは絵画論者じゃない。絵描きなのだ。
9月6日のブログにアップしたベラスケス(1599〜1660)の《織女た
ち》の右部分図も素晴らしい。私は右端の女の子の横顔にべた惚れ
なんだけど、この絵の中心はその左側にいる若い女性だ。機織りの
名手。素早い手並みで作業に集中している。それを手伝っているの
が右の女の子。二人の息はピッタリ合っている感じ。
女性の量感、動き、すべてが画家の筆でイッキに表現されている。
画家の筆も織女の手並みのように素早い。まったく三者一体だ。
一般の方はまずはそのリアリズムに驚嘆なさると思う。私だって驚
嘆しちゃうけどね。日本で言えば江戸時代の初期。もちろん写真な
んてない。あったって初期の写真機ではこんな一瞬の動きをキャッ
チできるわけがない。
それも等身大で描かれている。凄い迫力だ。見れば見るほど惚れ惚
れする。この絵の前に立ったらわれを忘れてしまう。
クロッキーを繰り返し、デッサンを何百枚何千枚と重ねた修練の賜
物だと思う。そりゃ才能だって凄いけど、才能だけで描けるような
絵ではない。ベラスケスはスペインの宮廷画家だったから画家とし
てとても恵まれていた。新しい挑戦なんかしなくても普通に描いて
いれば飯は食えたのだ。しかし、ベラスケスは絵画の本質を窮める
べくあらゆる画題に取り組んだ。そして、《織女たち》に達し、美
術史に残る数少ない真なる絵描きとなった。
一発の筆で女性の肌を捉える神業を残した。われわれはそれを直に
見ることができる。本当に絵ってありえないようなメディアだ。感
謝しかない。
画像はブログでご覧ください。
23年9月2日(土)
描きっぱなし
わが『唇寒』は5か月ごとにまとめている。6か月なら切りがいいの
だが、なぜか5か月。
で、5か月間の『唇寒』をまとめ読みして、3つの題名にまとめる。
その節目が今日だ。だからさっきから4月から8月までの『唇寒』を
読み通している。かなりめんどくさい。自分の文章だからとても意
見は合うけどね。
自分の絵は「描きっぱなし」という話もとても同意できる。たくさ
ん描いてましなものを選ぶという方法。一つの絵を何度も推敲する
ことはない。実は私は文章はけっこう推敲している、のだ。絵でも
明らかな描き間違いは直すけどね。
本当は、「描きっぱなし」画法はとても大切な絵画の真髄にかかわ
ることだと思う。それは私のような写生絵画には特に大切だ。
私の父の絵は厳密な写生絵画ではなかった。いつも「想像で描く」
と言っていた。「記憶で描く」というのとも少し違う。でも、後で
修正することもなかったように思う。
ボナール(1867〜1947)は修正を繰り返したと聞く。記憶で描いて
修正した。だから、私とは対極の画法だ。でも、私はボナールをい
いと思っている。そこのところの話になるとまた長くなるから今は
しない。
一般的には絵を修正すると、モチーフを見た感動がどんどん薄れ、
自分の(乏しい)頭脳のなかの世界の絵になってしまう。私はモチー
フへの感動が一番だと思っている。絵は二の次だ。二の次だけど絵
には絵の魅力が偶然みたく生まれることもある。それは焼き物にも
似た作者が意図できない奇蹟の重なりだ。だからいい絵は高額なの
だ、と思う。