唇 寒(しんかん)集67<23/9/2〜>

23年9月23日(土)

果てなき思慕

究極の美術の目的は新しい表現ではない。

いくら新しがっても人の暮らしはそれほど変わるものではない。人

は、というか有性生殖の哺乳類は食って寝て排便して恋をして子孫

を残して死んでゆく。これが一般的。常道。それ以上でも以下でも

ない。いくら新しがっても知れている。

究極の美術の目的は、新しさではなくむしろ古い表現の同時代的再

生だと思う。わかりやすく言えば古典解釈だ。

たとえばルネサンスは古代ギリシアの15世紀的解釈だと言える。

中国明末清初の徐渭(1521〜1593)や八大山人(1626〜1705以降)

は牧谿(1280頃活躍)の一解釈と言えると思う。

ルーベンス(1577〜1640)はティツィアーノ(1488/90〜1576)へ

の思慕、ロココはルーベンスへの憧れ。

クールベ(1819〜1877)はレンブラント(1606〜1669)を追ったと

も言えるし、印象派も自然主義への回帰を謳った。

印象派のもっとも大きな主張は喜びの筆致だと思う。それは筆への

粘りでもある。そういう筆の跡はモランディ(1890〜1964)にも見

える。あの感じ。ああいう粘り強い喜びが欲しい。レンブラント

(1606〜1669)が強く主張し、シャルダン(1699〜1779)の静物画

にも感じられる。

もちろん東洋の絵にも共通する筆の執念だ。東洋の場合は書にも執

念が見える。粘着、想い、喜びなんだよね。

絵は説明ではない。巧さの競争ではない。絵画への果てなき思慕な

のだ。憧憬なのだ。

それが洋の東西を問わず全ホモサピエンスが希求する造形の根幹だ。

なんかいいこと言っちゃた、かな?

話がそれた感もある。いつもだけどね。

 

23年9月16日(土)

ボナールの画法

ボナールは記憶で描き、アトリエで何度も筆を加える。わがイッキ

描きとは真逆の画法だ。しかし、私はボナールを肯定している。

大切なのは画法ではないからだ。

筆への喜びが一番肝心だと思う。それは筆への執着でもある。筆の

粘りが見えないとダメ。

陸上競技だって100m走もあればマラソンもある。水泳も最近は50m

だけで速さを競っている。いっぽう1500m自由形も健在。

絵だっていろいろな描き方があっていい。

肝心なのは筆への喜びの感謝なのである。

筆はそっくりに描くための道具ではない。そっちが目的になっちゃ

うと終わりだ。さらに腐った賞とか悪趣味のエロ絵画に嵌ったら完

全敗北。ま、いいけどね。世の中いろいろある。絵を生きるための

道具にしている。それはそれでいい。犯罪じゃない。

われわれは絵のために生きているようなものだ。話が逆さま。

でも、これが一番肝心なのじゃないの? どうせ死ぬまでしか生き

ないんだから。

少なくとも東西の真なる画人は絵のために生きていた。それがクラ

シック絵画だ。

ま、私は生身の人間だからどう転ぶかわからないけどね。今のとこ

ろ上手くやっている。

画法なんてどうでもいい、のだ。

西洋のティツィアーノ(1488/90〜1576)でもレンブラント(1606〜

1669)でも、よく見ていただきたい。東洋の牧谿(1280頃活躍)、

雪舟等楊(1420〜1506)なども同様。本物の絵描きの作品を頭を冷

やして見たほうがいい。

まったく絵って便利なメディア。見られるんだから凄い。

一度しかない自分の人生を本当に愛した人の筆の跡だ。資産や名声

ではないんだよね。

 

23年9月9日(土)

スーパーメディア

昔の画家の絵を見られるというのは凄いことだ。

たとえばお釈迦様の説法を聴くことは絶対に出来ない。それは道元

禅師の説法だって無理。良寛さまの法話も聴けない。

そりゃティツィアーノの絵画論だって聴けないけど、ティツィアー

ノの絵を見ることはできる。私はこれが凄いと言いたい。誰だって

ティツィアーノの絵画論を聴くより絵を見たほうがいいに決まって

いる。ティツィアーノは絵画論者じゃない。絵描きなのだ。

9月6日のブログにアップしたベラスケス(1599〜1660)の《織女た

ち》の右部分図も素晴らしい。私は右端の女の子の横顔にべた惚れ

なんだけど、この絵の中心はその左側にいる若い女性だ。機織りの

名手。素早い手並みで作業に集中している。それを手伝っているの

が右の女の子。二人の息はピッタリ合っている感じ。

女性の量感、動き、すべてが画家の筆でイッキに表現されている。

画家の筆も織女の手並みのように素早い。まったく三者一体だ。

一般の方はまずはそのリアリズムに驚嘆なさると思う。私だって驚

嘆しちゃうけどね。日本で言えば江戸時代の初期。もちろん写真な

んてない。あったって初期の写真機ではこんな一瞬の動きをキャッ

チできるわけがない。

それも等身大で描かれている。凄い迫力だ。見れば見るほど惚れ惚

れする。この絵の前に立ったらわれを忘れてしまう。

クロッキーを繰り返し、デッサンを何百枚何千枚と重ねた修練の賜

物だと思う。そりゃ才能だって凄いけど、才能だけで描けるような

絵ではない。ベラスケスはスペインの宮廷画家だったから画家とし

てとても恵まれていた。新しい挑戦なんかしなくても普通に描いて

いれば飯は食えたのだ。しかし、ベラスケスは絵画の本質を窮める

べくあらゆる画題に取り組んだ。そして、《織女たち》に達し、美

術史に残る数少ない真なる絵描きとなった。

一発の筆で女性の肌を捉える神業を残した。われわれはそれを直に

見ることができる。本当に絵ってありえないようなメディアだ。感

謝しかない。

画像はブログでご覧ください。

 

23年9月2日(土)

描きっぱなし

わが『唇寒』は5か月ごとにまとめている。6か月なら切りがいいの

だが、なぜか5か月。

で、5か月間の『唇寒』をまとめ読みして、3つの題名にまとめる。

その節目が今日だ。だからさっきから4月から8月までの『唇寒』を

読み通している。かなりめんどくさい。自分の文章だからとても意

見は合うけどね。

自分の絵は「描きっぱなし」という話もとても同意できる。たくさ

ん描いてましなものを選ぶという方法。一つの絵を何度も推敲する

ことはない。実は私は文章はけっこう推敲している、のだ。絵でも

明らかな描き間違いは直すけどね。

本当は、「描きっぱなし」画法はとても大切な絵画の真髄にかかわ

ることだと思う。それは私のような写生絵画には特に大切だ。

私の父の絵は厳密な写生絵画ではなかった。いつも「想像で描く」

と言っていた。「記憶で描く」というのとも少し違う。でも、後で

修正することもなかったように思う。

ボナール(1867〜1947)は修正を繰り返したと聞く。記憶で描いて

修正した。だから、私とは対極の画法だ。でも、私はボナールをい

いと思っている。そこのところの話になるとまた長くなるから今は

しない。

一般的には絵を修正すると、モチーフを見た感動がどんどん薄れ、

自分の(乏しい)頭脳のなかの世界の絵になってしまう。私はモチー

フへの感動が一番だと思っている。絵は二の次だ。二の次だけど絵

には絵の魅力が偶然みたく生まれることもある。それは焼き物にも

似た作者が意図できない奇蹟の重なりだ。だからいい絵は高額なの

だ、と思う。

 

 

 

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