唇 寒(しんかん)集65<22/11/5〜23/3/24>

23年3月25日(土)

年齢無制限

3月22日の絵画教室は外で桜を描いた。私は主宰者兼講師、運転手も兼

ねている。自分自身もいっぱい描く。生徒の皆さんが1枚仕上げる間に

5〜6枚描いてしまう。

桜の下にいても、バラ園にいても、海にいても、私はそこにいるだけで

幸せになる。絵なんてどうでもいい。

でも、絵を描くのもムチャクチャ楽しい。たぶん大谷が野球をやってい

るときの気分と同類だと思う。絵には年齢制限がない。プロ野球は40歳

ぐらいが引退の時期、相撲だともう少し早い。将棋でも60歳ぐらいが限

界だろう。

絵は無制限。絵画史を見ると80歳を超えてますますよくなっている画人

が実在した。絵の場合は作品が残っているから、本人がそこにいるみた

いに衝撃を受ける。500年前の人の絵から直接教えを乞うことができる。

そして、われわれ自身もがんばることが可能だ。水浴をし、筋トレをし、

欠かさず描き続ける。これってド素晴らしい暮らしなんじゃないだろう

か? 世間の評価なんかどうでもいいのだ。やれるだけやる。なんてた

のしい人生なんだろう。

でも金がなさすぎるけどね。自分の子供や孫に真似をしろとはとても言

えない。

 

23年3月18日(土)

作画動機について

3月14日付のブログは作画動機について述べた。

You Tube『美術の沼びと』では佐伯祐三展(東京駅ステーションギャラ

リー・4月2日まで)がテーマだった。そこでも佐伯祐三(1898〜1928)

がパリを愛した話をした。佐伯の絵の作画動機はまさにパリだ。パリが

あの絵を描かせた。

作画動機はモチーフ(フランス語)の日本語訳。作画動機というと重い

感じになる。モチーフと言えば一般的には静物画のリンゴや花のこと。

でももともとは作画動機という意味だから風景でも裸婦でもいいはずだ。

抽象画にだって作画動機はある。思想や哲学が作画動機になる場合もあ

る。

政治思想的な絵もある。

私は何度も言うように具象の絵描きだから、モチーフは具体的。目で見

て「綺麗だなぁ〜」と思うものが絵を描かせるキッカケ(=作画動機)

になる。なにも自分の思うように描けなくたっていいのだ。筆を動かす

ことに意味がある。絵の出来なんて二の次。どうでもいい。「描きたい

ぃ〜〜」と思い、実際に筆を執ることがもっとも重要なのだ。

だから動機もどうでもいい。描いちゃえばこっちの勝ち。

ま、絵は視覚芸術と言われる。目で見たものが作画動機になるのが自然

なんじゃないだろうか? 頭で考えたシチめんどくさいことを造形にす

るなんて無理な話。少なくともわれわれノータリンの肉体労働者には理

解不能だ。

私は肉体は頭よりずっとお利口だと思っているけどね。頭はバカだ。楽しよ

うとしている。それは不健康の元なのだ。

 

23年3月11日(土)

母の亡霊と言い合う

この季節にピッタリな絵というと中国北宋時代の郭煕(1023頃〜1085頃)

《早春図》か。私が若いころ初めてこの絵の図版を見たときには腰が抜け

るほど感嘆した。父が買った『宋画精華』(学研)にフルカラーで大きく

掲載されていた。原画は台湾の故宮博物院が所蔵している。私はこの図版

をゲットすべく学研本社を訪ねたりもした。その後『文人画粋篇』(中央

公論社)に掲載された。私は当時1万円以上の大枚をはたいてすぐに購入し

た。今ではネットですみずみまで見ることができる。拡大図版もある。ヘ

タすると台湾に行くよりいいかも。いやいや本物のオーラはない、か。

二玄社が売り出した原寸大の掛け軸にも入っていたと思う。私が6万5千円

で買ったのは巨然(10世紀ごろ)の《層厳叢樹図》である。范寛(10世紀

後半〜11世紀前半)の《谿山行旅図》もあった。でも原寸大。一般家庭に

は掛ける場所もないんだよね。

ああ、早春の絵の話だった。

いろいろ考えるとどうしても浦上玉堂(1745〜1820)の絵に行ってしまう。

そこで3月9日付のブログでは《雲与霞乎図(煙霞帖第一図)》になってし

まった。この絵が早春の絵かどうかどこにも書いてなかったけど、私が勝

手にそう決めた。

気楽な絵だよね。楽しんでいる。笑っている。線が踊っている。惚れ惚れ

する。この絵が重要文化財になっていることは日本の誇りだよ。誰が重要

文化財などを選ぶのか知らないけどちゃんと目のある人がいる。

 

この前、ウーバーイーツの配達でマンションのエレベーターのボタンを押

そうとしたら、母の亡霊が現れ「お前大学まで出て何やってんだよ」と言っ

た。「うっせぇ〜」と私は言い返した。「汚職はやってねぇよ」と言って

やった。

大学出のクソインチキ野郎は山といる。私の暮らしも威張れたものではな

いが、不正はない、はず。

 

23年3月4日(土)

自画自賛じゃない

パスカル(1623〜1662)の『パンセ』(ラフュマ40)に「原物には誰も感心

しないのに、絵になると、事物の相似によって人を感心させる。絵というも

のは何とむなしいものであろう!」がある。これに対してドガ(1834〜1917)

が「このむなしさそのものが芸術の偉大さなのだ」と言った。

ドガの言葉はさておき、私の絵画論(というかセザンヌ(1839〜1906)あた

りだけどね)では原物に感心したから描くのである。

以降は私の説:出来た絵なんてどうでもいいのだ。原物(風景とか花とか裸

婦)に感嘆し、「ああ、綺麗だなぁ〜」と思いながら筆を執る、その行為そ

のものに意味がある。どんな絵が出来たかというのは二の次の話。描くとい

う行為が重要なのだ。

これは道元の只管打坐の思想を作画行為に当てはめて言っただけだけどね。

西洋に学び東洋の思想を実践するわがイッキ描きこそ最高じゃねぇのか?

そしていつも実践こそに意味があるという主張。とてもいい。自画自賛じゃ

なく自説自賛、といか自行自賛(自分の行為を自分で褒める)?

最終的お手本は東洋の絵。『源氏物語絵巻』であり牧谿(1280頃活躍)であ

る。はたまた浦上玉堂(1745〜1820)であり長谷川利行(1891〜1940)であ

る。いやいや西洋絵画にも大いに学んでいる。倣っている。頭が上がらない。

だから何歳になってもペイペイだ。こういう絵画人生ってなんかとても素敵

だ。

 

23年2月25日(土)

恒久具象論

私は具象絵画を描き続けている。ま、私の個展会場で「抽象はわからない」

とおっしゃったご婦人もいたけどね。私自身は完全具象絵画だと思っている。

最新の美術史で言えば具象絵画は過去の画法だと言われるかも知れない。し

かし、私は具象は永遠だと確信している。

絵画とは視覚芸術なのだ。目で見る分野。

われわれがいかにものを見ているか。これは計り知れない。ほとんどの方は

無意識に見ていると思うけど、私なんかは「絵にならないか」といつも探し

ながら見ている。絵目(えめ)で見ている。絵画視線、みたいな? 

一般の方にはそういうことはないのかもしれない。

しかし、本心実際の風景とそれを描いた絵はちがう。下手だからかもしれな

いけど、見えたとおりには描けない。花だって人物だって同じ。実際に「綺

麗だなぁ〜」と思う、そこのところをそのまま絵にはできない。絵はベツモ

ノだ。だから具象もクソもない、のだ。金井画廊の金井さんがおっしゃる通

り「絵なんて全部抽象」なのである。

現実の風景や花や裸婦はキッカケに過ぎない。

筆を執りたくなる動機だ。だから作画対象をモチーフという。作画動機と訳

される。

しかし、動機すなわちキッカケはとても大事。恋だって何だってすべてはキッ

カケから始まる。

風景を見て「でかいなぁ〜」と思ったり、花を見て「綺麗だなぁ〜」と感じ

たり、裸婦を見て「美しいなぁ〜」と感嘆することが第一歩だと思う。視覚

なのだ。孫を見て「かわいいなぁ〜」と思うのも同類。

造形だからいろいろな試みは出来る。色の組み合わせも無限にある。線だっ

て太かったり細かったり、まっすぐだったり曲がりくねっていたり。無制限

だ。でも頭で考えた意匠なんてすぐ尽きるんだよね。突き当たる。行き詰ま

る。長くて数年。短ければ数週間で終わる。

でも、大自然は恒久なんですよ。

われわれのDNAは億年単位の大昔から海原やうねる大地に感動してきたんだ

よね。その根本は不変なんだと思う。本当のアートは思いつきやチャチな才

能で出来るもんじゃない。

根本はものを見ること、そして感じ入ることではないか。

もちろん、絵の描き方に「これ!」というのはない。描きたいように描けば

いいんだけどね。

 

23年2月18日(土)

どうでもいい

「どげんかせんといかん」と言ったのは東国原さんだっけ? 実際の宮崎県

民はそんな言い方はしないとも聞く。

私もこの前まで、日本の美術界や世界の美術界をなんとかしなければいけな

いとマジで思っていた。本当に絵を描きたい人材を育て、豊かな美術世界を

構築するべきだと考えていた。でも、「豊かな美術世界」って何だろう? 

美術を支えている人々の覚醒?

覚醒って何だ?

最近はそういうこともどうでもいいように思えてきた。なるようにしかなら

ない。

本心、いま大いに支持されている現代アートが数百年後にも同様の評価をさ

れているとはとうてい思えない。でもそれは私の過ちかもしれない。どうで

もいい。

よくわからない。

たとえば、学校の授業。素晴らしいのだろうか? 私も中高時代に情熱ある

先生方に大変お世話になった。しかし、授業の内容はどうだっただろうか?

私自身、中学生の塾を長くやったが、その効果はどうだったのだろうか?

私が驚いたのは2浪のときの予備校の先生たちだった。70歳とか80歳の高齢爺

さんばかり。そのわかりやすさは抜群。知識量はハンパない。何でも知って

いるという感じ。英語など例文の数が桁外れ。いろいろな場合を教えてくれ

る。まったくインチキじゃない。真の実力者。アメリカ人に英語を教えるレ

ベル。すごかったぁ〜。

自動車修理工の爺さんとか自転車屋さんとか、お医者さんなどでも、本当に

素晴らしい人っているよね。

絵の場合はなんの役にも立たないけど、真の実力者になりたい。意味ないか。

将棋なんかなら、勝敗の結果があるからはっきり見える。それでも運もある。

スポーツなども怪我などもあり不運の選手の話も聞く。

今この歳になって絵を描いていると運とか不運なんてどうでもいい。昔の同

意できる画家の絵を見て自分も描くだけのことだ。意味なんてどうでもいい。

描ける、見て歩ける、そういう健康が続くことを祈るだけだ。

 

23年2月11日(土)

世の中甘くない

世間の風に吹かれてみると、世の中は甘くないとわかる。みんなギリギリで

生きている。才能に恵まれた将棋の藤井聡太五冠なんか人生の初めから尊敬

の的。ギリギリはないだろうと思ってしまうが、棋譜を見ると一番ギリギリ

で戦っている。超ギリギリ人間かもしれない。

ウーバーイーツの配達をしていると、いろいろなレストランに行くけど、本

当にみなさんよく働いている。まさにギリギリで頑張っている。人間関係も

単純じゃないと思う。料理人の世界には厳しい上下関係がある。私の母は焼

き鳥屋をやっていたので、私も飲食関係のことを少しは知っている。

ウーバーは基本個人事業だ。疲れたら休んでもいいし、嫌ならいつ辞めても

かまわない。また復帰することもできる。誰からも文句が来ない。一つ一つ

の注文でも遠いところは受注を拒否できる。ラーメンなどの汁ものを拒否す

ることもできる。ま、あんまりわがままを言っていると仕事が来ないけどね。

チョーきつい配達もあれば、楽な配達もある。とにかくウーバーには人間関

係も上下関係もない。

世間には無意味な威張りや不必要な卑下がある。実力とは無関係な伝統主義

もしっかりはびこっている。下積み時代はみんな大変である。人間関係で壊

れてしまう人も少なくないと思う。まったくバカバカしい。

絵の世界も同じ。

でも絵は基本勝手に描いていればいいのだ。セザンヌ(1839〜1906)みたく

田舎に籠って描いていればいい。コンテストなんかに出して世間と関わるか

ら嫌な思いもする。アルバイトをして好きなように描いて暮らせばいいと思

う。そういうのが本当の絵だと思う。

 

23年2月4日(土)

楽しくていい

大乗の教えではないらしいが、仏の教えに三法印というのがある。部派仏教

では仏教の要諦である。

つまり「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」だ。四法印といって三法印に

「一切皆苦」を加えることもある。三法印にしても四法印にしても「『涅槃

寂静』って何だ?」とずっと思っていた。「悟りの境地は静かである」とい

うような意味だと思う。「こちとら、悟りから遥か彼方にいるんだから、そ

んなの知るかよ」と思っていた。お釈迦様に言わせれば「悟りって静かでい

いよ」と教えているのだ。

「諸行無常」はだいたいわかる。いろいろなものは移り変わる、移ろいやす

い、みたいな。長く生きていればなおさらわかる。

「諸法無我」はさっぱりわからない。これは「色即是空、空即是色」とかと

同類。チンプンカンプンだ。いろいろな本を読んでもわからない。いまだに

わからない。「われ思うゆえにわれあり」ならよくわかるけど、自分はない。

相対的なものだというような意味らしいけど、ここにいるもんね。これこそ

仏教の永遠の神秘。

私の推測では黙って行動せよ、というような意味だと受け取っている。行動

というのはとりあえずは丹田呼吸と歩行。

その結果として「涅槃寂静」が来る。

「一切皆苦」はいわば状況説明だ。人間の状況、状態を一言で言っているの

だと思う。

で、「涅槃寂静」だけど、これはハッピーとは何かを語っている。幸福論で

もある。仏教が究極の幸福追求の教えだと知る。なんかそんなような新興宗

教があったけど、そっちとは無関係。

だから先週の「(楽しければいいって)お釈迦様の教えにそっているのだろ

うか?」という疑問の答えは「ドンピシャリそっている!」である。楽しく

ていいのだ。というより、楽しくなきゃダメ、なのだ。

お断りするまでもなく、上記見解はまったく個人的なもの。なんのご利益(り

やく)もないし、いっさいの功徳もない。ゴメン。

 

23年1月28日(土)

楽しさこそが

昨年末に「来年初めの一大テーマ━本当の絵画とは何か?」とミエを切った

が、終わったんだっけ? 自分でもよくわからない。何を言おうとしたのか

も忘れてしまった。メモも取っていない。アホだ。

1月24日付のブログに「私がやりたいことのなかでは絵が一番かも」と書い

た。人は一番やりたいことをたくさんやるべきだと思う。自分が一体何をや

りたいのか、それもわからない場合も少なくない。まさか人殺しをやりたい

という人はいないと思うが、そういうのはダメ。自己完結していないと他の

人に迷惑だ。恋愛も性愛も自己完結していないから、そういうのも「やりた

いこと」には入らない。

落語なんかも、ほんとうに落語がやりたくてやっている落語家の芸は聴きご

たえがある。聴いていても楽しい。

この「やりたいこと」の最大抵抗勢力は「金儲け」だと思う。金儲けはとて

も魅力的な作業だ。金さえあれば何でもできると思っちゃう。特に若いころ

は金がすべてと思い込む。しかし、人は死ぬまでしか生きない。みんな死ん

じゃう。いくら金を持っていても死んじゃったらオワ(=終わり)だ。

限られた人生、やりたいことをやったほうが勝ちなのではないだろうか?

ま、大谷翔平みたくやりたいこととお金が直結していれば一番ハッピーだけ

どね。

大谷とは桁違いだけど、藤井聡太ぐらいの収入でも十分だろう。いやいや死

ぬまでに10億円溜めるとなると将棋棋士では難しいかも。大谷なんか国家予

算規模の収入になりそう。

でも、お金よりやりたいことをやっている幸福感こそが最高だと思う。大谷

も実に楽しそうに野球をやっている。この前も今度十両に昇進する落合が

「大相撲の世界は楽しいっす」と言ったときそういうことは言ってはまずい

のか、という顔を一瞬した。私は全然まずくないと思った。「楽しさこそが

一番!」と思った。

人は本当に楽しいと思うことをするべきである。

でも、それってお釈迦様の教えにそっているのだろうか?

 

23年1月21日(土)

受賞???

テレビの相撲は初日から優勝候補の話。誰が三役とか大関昇進とか、アナウ

ンサーの話はそんなのばかり。自分自身がテレビ局内の出世争いで頭がいっ

ぱいだからだと思う。それより、たっぷり稽古を積んだ力士が力の限りぶつ

かり合うその瞬間が楽しいんだよね。技の掛け合い、土俵際の粘りや逆転。

そういうのが見たい。その瞬間の奇蹟みたいな力士の頑張りが嬉しい。

番付とか優勝予想なんてクソだよ。でも、2〜3時間の長い放送。話す話題も

尽きる。初日からの優勝予想も致し方ないのかも。

テレビを見ていても、ドラマに登場する絵は酷い。この前の『相棒』の絵も

イマイチ。大豪邸に掛かる歴代当主の肖像画など惨憺たるものだ。もう少し

何とかならないものかと思うけど、あれだってたぶん描きおろしの生油絵な

んだろう。レンブラントの複製画を使ってCG加工したほうが100倍ましだ。

ああいう油絵を描く「専門家」もいるんだろうか。あるいはどっかの美大生

に安価で描かせているのかも。

そういうときの画家選びの基準はとりあえずは「美大生」ということになる。

一般に絵の素人であるスタッフが突然どっかから絵描きを探して来いと言わ

れれば、美大生とか日展受賞者リストを繰るしかない。それでアカデミズム

は生きながらえる。

セザンヌ(1839〜1906)もゴッホ(1853〜1890)も美大卒でもないしまった

く受賞もしていないんだけどね。長谷川利行(1891〜1940)は二科展で樗牛

賞をもらっている。だけど、小説家の芥川賞みたいド凄い賞ではない、と思

う。

でも、パッと見てセザンヌ、ゴッホ、利行を理解できる一般人がいるだろう

か? 写真のように時間をかけて描いた絵が素晴らしいと今でもヤフーニュー

スを賑わわせている世の中だ。

「いい絵」なんて追及しても金にならない。なんにもならない。功徳もご利

益(りやく)もない。「バカじゃできない利口はやらぬ」。それが渡世人の

辛いところだ。

 

23年1月14日(土)

不変のもの

新しい、新しいというが、人のやっていることは大昔から大して変わらない。

禅の教えだと思うが「起きて半畳、寝て一畳。天下取っても二合半」という

のもある。

東からお日さまが昇り西に沈む。宇宙とか銀河とかややこしいことを考えた

ら切りがないけど、とりあえずはお日さまは毎日昇る。冬は寒くて夏は暑い。

朝起きてトイレ行ってメシ食って大欠伸。だいたい昔から変わらない。縄文

時代だってもっと古い3万年前の旧石器時代だって同じだと思う。

面白いときは笑って悲しいときは泣くんだよね。

そうは言っても、新しい発見は素晴らしい。平均寿命もぐんぐん延びている。

ジェット機が空を飛び新幹線は信じがたいスピードで走り去る。歩くより自

転車のほうが速いし、車はもっと速い。いろいろ便利。

でも、絵とかって、そういう便利さ以前の何か根本的な不変のもの、心の琴

線に触れる、みたいな? そういうところが狙いなんじゃないか。

富士山を見て驚かない人は少ないと思う。ド凄いものがドンとあるねぇ〜、

と見るたびに感嘆する。まわりの山は真っ黒なのに富士山だけが真っ白。で

かい。

あれを見たら太古の昔の恐竜だって感嘆したんじゃないだろうか?

いやいやバラの花も綺麗だよねぇ〜〜。驚嘆するよ。見れば見るほど不思議

だ。しかも香りもいい。魅力いっぱい。葉っぱも艶やかで元気いっぱい。見

とれるね。枝もスルスルと伸びている。気持ちいい。

それだけのことだ。

でもそこのところが肝心なような気がする。

 

23年1月7日(土)

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

 

先週12月31日付の『唇寒』で「本当の絵画とは何か?/この話は来年初めの

一大テーマとしたい」と書いた。だからその話。

私は「絵画」というんだから一応平べったい、ま、額縁に入るものを想定し

たい。立体や映像などのことはわからない。

で、言いたいことは松尾芭蕉(1644〜1694)の「不易流行」なんだけど、芭

蕉も、漢詩や日本の昔の歌人、偉人の言をしっかりふまえて「不易流行」に

到っている。

私に言わせれば「つまんないもの」はつまらないのだ。

私の母は自慢できるような賢母ではないけど、いつも酔っ払っていて男好きで、

医師に停められても隠れてタバコを吸うような不良ババア。美人かなんか知ら

ないが、化粧ばかりしていた。子供としては最悪、思い出したくもない。ま、

私もじゅうぶん愛されたと思うけどね。その母親が知ったような顔で「つまら

ん!」と口にする絵はつまらないのだ。

ドラマだって小説だってつまらなければ話にならない。見向きもしない。

そう言えば、昨日もYou Tubeで『椿三十郎』のラストシーンを見た。よく作っ

てあるねぇ〜。面白い。そしたら続いていろいろなチャンバラ映画のクライマッ

クスが始まる。『座頭市』のクライマックスを数本見た。勝新太郎。いいねぇ〜。

面白いよ。なんでビートたけしは『座頭市』なんかやったんだろう? 要ら

ねぇ〜、と思った。勝新で十分。ド面白い。ま、『眠狂四郎』も市川雷蔵だけ

でいい。なんか大映びいきだ。『銭形平次』も長谷川一夫だよねぇ〜。

話が飛ぶねぇ。

お喋りクソ爺だぁ〜。すみません。今日はここらで止めておく。

でも、もうこれだけでじゅうぶん、みたいな?

 

22年12月31日(土)

ゆらぐ絶対真理

先週「絶対に海を描きに行く、のだ」と書いたが、三浦海岸の三戸ではなく

茅ヶ崎に行ってしまった。今日のヘッドページの絵。そのときの心境は12月

28日付のブログで述べた。年が明けたら三戸にも行きたい。

長年生きているといろいろな絶対がいい加減だと知る。この前まで革新系だっ

た議員が保守になっていたり、総理大臣候補が新党を立ち上げて大失敗したり。

政治の世界だけではない。

天動説はアリストテレスの完璧に近い宇宙論で1500年以上も絶対真理だった。

惑星の動きだけが謎だった。惑星は惑わす星で片づけられていた。ユークリッ

ド幾何学もニュートンまでは完璧。そのニュートン物理学もアインシュタイン

の相対性原理に塗り替えられた。今や量子力学がアインシュタインを超えてい

る、らしい。

医学の世界でも次々に新しい医療が見つかっている。癌は治る病気になってい

る。

絵の世界はどうか?

何度も述べているように、絵画は音楽みたくドレミファがない。ヴィジュアル

なら何でもOK。となれば、絵画は平面を飛び出し、昨今では映像と結びついて

動き出している。

私みたく牧谿とかティツィアーノなどと古臭いことを言っている絵描きはほと

んどいなくなってしまった。油絵具はアマチュアの趣味だけになってしまった

のだろうか?

本当の絵画とは何か?

この話は来年初めの一大テーマとしたい。ま、同じ話の繰り返しだと思うけど

ね。

よいお年をお迎えください。

 

22年12月24日(土)

暮らしが変われば

メリー・クリスマス!

私はキリスト教徒じゃないけどイエス・キリストを尊敬している。あの人(?)

を尊敬しない人はまずいないだろう。西洋絵画を見れば尊敬はますます高ま

る。遠藤周作(1923〜1997)の小説も少しは読んだ。

遠藤はキリスト教徒というよりイエス教徒。イエスをムチャクチャ敬愛して

いる。

私はウーバーのクリスマス景気に期待しているだけの爺さんだけどね。ゴメ

ン。

でもやっぱりメリー・クリスマスだよ。昼の長さもこれからどんどん長くな

る。めでたい。恋人同士には夕闇が早く来るほうが好都合なのか? ジジイ

には関係ない。明るいほうがいい。

ウーバーの初心者だから以前のようには油絵が描けないけど、もう少し慣れ

てくれば絵ももっと描けると思う。とりあえずは鉛筆でもなんでもいい。目

と手が鈍らなければいいわけだ。そういえば、このごろ水彩も描かなくなっ

た。

ま、もう少し自転車配達業に慣れてくれば描けるようになると思う。

筋肉は裏切らない、のだ。筋肉は年齢に関係なく鍛えられるらしい。実際、

私自身まだ約2か月のウーバーだけど、坂道もどんどん登れるようになってい

る。わがママチャリは電動アシストなしの自転車だけど、自分の脚の筋肉に

アシストが付いて来ている。この方が便利。自家製筋肉アシストだ。

ウーバーに欲をかかずに、適当なところで絵を描くようにする予定。ま、週

休2日制を守れば絵も水泳も可能だと思う。

暮らしが変われば絵も変わる。これからどんな絵になっていくのか自分でも

楽しみだ。

とりあえず近日中に海を描きに行く。冬の海は空気が澄んでいて見通しがい

い。色も綺麗。いつも行く同じ三浦海岸の三戸。私の海は三戸ばかり。富士

山も見える。

クリスマスと年末年始でウーバー稼働してから行くつもり。稼いでホクホク

で行くか、期待はずれの稼ぎでガックリ気分で行くか。どっちにしてもとに

かく絶対に海を描きに行く、のだ。

 

22年12月17日(土)

絵画の本道

絵って売れない。いい絵を描いても売れない。売れるということと少しでもま

しな絵を描くということは全然別問題だ。

売れようが売れまいが、われわれはまともな絵を描き続けなければならない。

当たり前過ぎることだけどね。

「われわれ」というのは本物の絵描きを目指す人間ということ。

牧谿を慕い、ティツィアーノを敬い、長谷川利行(1891〜1940)に感嘆する

「われわれ」だ。

50年前に絵画ブームがあり、30年前にはバブル景気で絵が売れまくった。私

が銀座で初めて個展をしたのはバブル崩壊の直前だった。27年前。ほぼ終わっ

ていたころだ。

世間の人は絵なんて買わない。一生に1点買えばじゅうぶん。多くても3〜4点

だ。

病院やマンションにある絵はアマチュアの方の絵が多い。ああいうのは買った

絵ではない。貰った絵、またはご自分で描いた絵だと思う。

絵では喰えない。生計が立たない。無理。

絵画ブームが来てくれれば、私の絵なんて売れまくると思うけど、そんなもの

待っていられない。人は毎日を生きなければならない。

私の父は絵画ブームもバブルも味わった。絵が売れまくった。それでも、絵は

一点一点売れるだけだから商売としては大したことはない。とは言っても一般

のサラリーマンの方より高収入になっていたと思う。

でも父は太平洋戦争を喰らった。1940年のとき18歳。地獄だ。絵画ブームやバ

ブルは神様がくださったご褒美だと思う。

バブル崩壊から30年近くたっている。絵画業界に幸福は来ない。そんなものを

持っているより、今の状況で少しでもましな絵を描く算段をしたほうがいい。

牧谿、ティツィアーノ、利行と続く絵画の本道を、石にかじりついても守らな

ければならない。

この年末に絵を買ってもらった。とても嬉しい。

 

22年12月10日(土)

続・言いたいこと

1997年1月号の『芸術新潮』は「特集 牧谿をお見せしよう 水墨画のフェル

メール」だった。もちろん私はこの号を持っている。東洋美術史の山下裕二が

中心となって執筆している。その趣旨は疑問だらけ? 「この先生、いったい

何が言いたいの?」と声が出てしまう。

いやいや、私も山下先生には大いにお世話になっている。『雪舟はどう語られ

てきたか?』(平凡社ライブラリー)は今でも繰り返し読む。私だけでなく娘

は明治学院大学だったから講義を受けたかもしれない(未確認)。

先週の続きになってしまうが、私がおかしいと思うのは上記『芸術新潮』のな

かの山下の主張。

絵のリアリズムをどう解釈しているのだろうか? 牧谿の絵はリアリズムであ

るという。これはめんどくさい問題なので、またあとで。

その前に「水墨画のフェルメール」という副題にも一言言いたいけど、これも

やめておく。

その『芸術新潮』の29ページに「《観音猿鶴図》などは礼拝用としてかしこまっ

た表現がなされており、宗教性や哲学性が強まってはいます」と言った以下の

セリフが意味不明。

「けれども、あくまでも絵は絵なんですから、素直に見ていいんです。牧谿に

限らず、『単なる写実を超えた』というような言い方もよくされますが、『単

なる写実』とはいったい何なのか。『写実』をその画家なりにつきつめている

からこそ、すごいのではないでしょうか。牧谿の絵は、余分な哲学や精神性な

どくっつける必要のない、きわめて高いクオリティを持ったものです」

こうやって書き写してみると、私の読解が未熟だったような気もしてくる。で

も、「『写実』をその画家なりにつきつめている」ってどういう意味だろう?

ここが肝心なような気がする。ここが山下絵画論の中核らしい。「その画家な

りに」とは? 「その画家」って何だ? 

ここでは具体的には牧谿のことにちがいない。では「牧谿なりに『写実』をつ

きつめた」ということだろう。私としてはその「牧谿なり」を知りたい。そこ

には牧谿個人の思想や哲学や宗教があるのではないのか? 私は「思想や哲学

や宗教」というより「牧谿の修行」と言いたい。それは「絵の修業」も含めた

修行である。そういうことを切り離して牧谿の絵だけを見ろというのは無理だ。

山下自身「その画家なりに」と言っているではないか。

牧谿のヴァルールをどうやって獲得できるのだろうか?

リアリズムではない。ヴァルールだ。絵の厚みと深さ。写実はそのための一つ

の方法に過ぎない。

 

22年12月3日(土)

言いたいこと

12月1日のブログで『いろいろ面倒』と書いてしまったが、この『唇寒』で

面倒でも頑張って言いたいことを言う。

11月30日のブログでは「江戸狩野アカデミズムには身体的実践がない」と

いうようなことを書いたが、絵を描く修業自体身体的実践ではないかという

ご批判もあるだろう。私が言う「身体的実践」とは歩くことだ。もっと言え

ば旅だ。絵なんてどうでもいい。さらに言えば仏道修行なのである。仏道修

行というと抹香臭くなって、今度は仏教アカデミズムが威張り出すからイヤ

だ。

だからお釈迦様の教えのエッセンスだけを真似ればいいのだ。それが旅だ。

もちろん私自身旅は苦手。家の周りをウロウロしている派だ。風呂もベッド

も自分の家のが一番。ボロベッドだけど我がねぐらが最高。

そういう不便も含めて旅は並はずれた修行なのだろう。

だからとりあえず歩くことでご勘弁いただく。最近の私はウォーキングより

サイクリングだけどね。

私も若いころサイクリングの大旅行を4回ほどやっている。1日の最長走行距

離は198キロ。150キロは常識だった。それが毎日続く。私は旅館に泊まった

ので、新幹線旅行より金がかかる。今のウーバーの40キロぐらいなんでもな

い。50年も前の話だけど、経験しているので強い。行っても行っても道。走っ

ても走っても目的地に着かない。日本は広いよぉ〜〜。長野に行ったときは

頑張っても頑張っても上り坂だった。そういうのって大きな経験なんだよね。

ありがたい。

松尾芭蕉(1644〜1694)も旅を最重要視していた。もしかすると旅をやり過

ぎて50歳で死んでしまったのかも。

旅こそが「身体的実践」。妥協してウォーキングもギリOKか?

大事なのは問題意識なのだ。俳句とか絵なんてどうでもいい。作品は表層部

分。氷山の一角だ。海の中にはでっかい氷の塊がある。そっちが大事。

それは最近AIが作ったクラシック音楽やレンブラント作品もどきの腑抜け具

合でも証明されたはず。「純粋に作品そのものを味わう」という思考、つま

り「作品そのもの」なんていう思考は妄想なのである。それをAIが証明して

くれた。

「古人も多く旅に死せるあり」

芭蕉の言葉はジーンと来る。これが大事。作品なんてクソだ。

 

22年11月26日(土)

集団てどうなの?

高校生の吹奏楽部のコンテストを密着取材したテレビ番組を見た。長い番組。

『笑ってこらえて』(日テレ)の特番だ。

吹奏楽はチームワークが大切。野球とかサッカーと似ている。相撲や水泳、

陸上などの個人競技とはちがう。絵もまったくの個人の作業かも。

で、吹奏楽部の団体でのポジションの取り合いとか、統一性、先生の指導方

法などを見ているといろいろなことを考えてしまう。私にはとても不向き。

無理。

さらに、コンテストで金賞とか全国大会進出など競争も激しい。

ハンドボールで高校インターハイ寸前まで頑張った家内は興味深く見ていた。

懐かしがっていた。長く控え選手だった経験もあり、いろいろな人の気持ち

がわかるらしい。

ま、私なんてほぼ一生控え選手だけどね。

しかし、ああいう競争ってどうなんだろう? 教育上いいことなのか?

何度も述べているように仏教の悟りは合格枠なし。それでも、六祖慧能は悟

りの競争に勝つんだよね。その辺の事情が分からない。競争相手は神秀。確

かこの人も高僧になるはず。でも、悟りに人数制限はないと思う。禅宗の歴

史上では無数の雲水が悟りを開いている。

いいか悪いかわからないけど、多くの人が集まって集団陶酔みたくなるのは

私には無理。気持ち悪い。サザンのコンサートでさえ行きたくない。いやい

やサザンのコンサートなら行ってもいいか。それが政治的なものならなおイ

ヤだ。宗教もちょっとイヤ。

とにかく、絵はいい。一人の世界。私にはぴったりだ。そう言えば、ウー

バー・イーツも一人仕事だからとても向いている。もう少し収入が上がれば

100歳まで続けたい。

サルも、チンパンジーやゴリラみたく集団で行動する種類は多いが、オラン

ウータンみたく一人行動もいる。私は完全にオランウータンタイプだ。

 

22年11月19日(土)

筋肉も財産?

私は確かに金がない。車を保持しているから車検などに金がかかる。この前

はタイヤ交換もした。それは借金になっている。かなりヤバい。

しかし、今のところ健康。なんとかなるような気もする。

若いころからバカだった。絵はちゃんと頑張っていれば売れるものと思って

いた。絵ってめったに売れないんだよね。だけど若いころは「年金なんか要

らない。貯金は(絵の)腕にする」と豪語していた。本当にバカだった。

確かに絵はたくさんある。買ってもらえるレベルだと思う。商品価値ありと

信じている。でもそれは遠い将来。100年後とか200年後かもしれない。

しかし、私は有難いことに今のところ健康だ。おかげで今も肉体労働ができ

る。

私は58歳のときにマンション管理人を始めて、自分の脚力の衰えに驚いた。

65歳の先輩管理人の見回りについて行けなかった。「この爺さんバケモノか」

と驚嘆した。しかし、その後、見回りのスピードはぐんぐん上がり、膝の不

調もすっかり治ってしまった。

さらに、今またウーバー・イーツを始めて、自分の筋肉の衰えを嘆いている。

でも、これも克服できる感じ。若いころに自転車ばかり乗っていた。自転車

大旅行を何度もしたし、都内の移動(40キロぐらい)はほとんど自転車だった。

キャンバス会社の通勤も美術研究所へ行くときも自転車だった。

その筋肉が思い出している。元に戻ろうとしている。

まったく金はないけど、筋肉も財産だと知る。多分絵の腕も維持しているはず。

私は確かに高齢だけど、私が尊敬する美術史上の画家たちには80歳90歳で巨

大画面に挑戦し、東洋の画家や僧侶も旅の人だった。私なんてまだ若手なの

だ。

一般的には私の状況は最悪だけど、精神状態や健康状態は優良。もしかする

と億単位の金持ちに勝っているのかもしれない。

 

22年11月12日(土)

100倍ハッピー

油絵を使ってキャンバスに描くという絵画方法はかなり古臭い。絵の世界は

音楽などに比べると本当に自由で、目で見る芸術というように分野を広げれ

ばありとあらゆることが可能になってしまう。

音楽はムチャクチャなことになってもドレミファは守られる。楽器も限定さ

れている。デタラメな音楽というのはない。いやいやデタラメなアートもな

いのかもしれない。

テレビなどのメディアでは目新しい造形は注目を集めるから、多く取り上げ

られる。一時的な場合が多い。

私なんか油彩画の祖みたいなティツィアーノ(1488/90〜1576)こそ最高の油

彩画家として尊敬している。古くて長い絵画道を信じて古臭い画法を守って

いる。守らないと油絵は剥がれてしまう。絵画史全体を想えば、もっと古い中

国の多くの画家も尊敬している。もしかすると音楽家以上に古式を守っている

かも。

とは言っても、いわゆるアカデミズムとはちがう。ある意味デタラメだ。私か

ら言わせれば今のアカデミズムこそデタラメだと思うけどね。

たとえば、ピアノやヴァイオリンやギターのような熟練した技法はアートにも

あると思う。ドガ(1834〜1917)がアングル(1780〜1867)から学んだ「たく

さんの線を引きなさい」という教えがそれ。私は物凄く同意している。線を引

かなければ話にならない、と思っている。それは中国や日本の古い絵(東洋の

場合は書もだけど)にも共通する当然の修業だ。

そういうのを守っていたら、新しい造形なんかやっている暇はない。私は50年

以上守り続けている。多分人間国宝だろうと自分で勝手に思っている。それな

のに「今年も文化勲章の話が来なかった」と友人に言ったら「こいつ、なに言っ

てんだ」とトンチンカンな顔をされた。

まったく世に受け入れられていない。

でも、それってとても気分がいい。不思議だけど気楽で楽しい。クソみたいな

世間に受け入れられても嬉しくもない。ウーバー・イーツで働きながら絵を描

くほうが100倍ハッピーだ。軌道に乗ってちゃんと家賃が払えて飯が食えればな

おハッピー。

 

22年11月5日(土)

将棋AI

AIの話は前回で終わりにする予定だったが、最後に将棋の話をしたい。

チェス、囲碁に続き、将棋のチャンピオンもAIに負けてしまった。『レンブ

ラントの身震い』(マーカス・デュ・ソートイ/冨永星訳・新潮クレストブッ

クス)でも、その話がキッカケになっている。『レンブラントの身震い』で

は囲碁の話が主だけどね。

私は囲碁には詳しくない。トッププロの将棋は今でもよく見ている。You Tube

のダイジェスト版ばかり。しかも見始めると寝てしまう。だから、よくわか

らないまま。でも、アメバの実況中継も見るので、だいたいのところはわか

る。

3日には負けてしまったが藤井聡太五冠だけは図抜けている。最近出てきた勝

率8割超えの若手もいるけど、その人たちの将棋は見ていない。藤井レベルな

のか?

とにかく藤井五冠は最終盤間違えない。羽生善治も含めたほとんどの棋士が

終盤間違える。最終盤のAI判定は意味がない。99%の詰み筋ありの判定でも

逆転してしまう。AIの詰み筋は細い一本道で奇手、妙手も多い。人間では気

が付かないような手筋。ふつう無理。

攻めているときに自陣を守る手がベストだったりする。そんな手、人間に指

せっこない。

つまらないんだよね。

将棋の二日制の七番勝負など、昔の初日は雑談だらけ。一日制の予選だって

午前中は冗談ばかり言い合っていたという。それが今や初めから真剣勝負。

息継ぐ暇もない。将棋界も変わった。正解がある指し手を棋士は模索する。

われわれアマチュアから見るとそれは昔も同じ。プロ棋士の指導は正解だっ

た。現代はAIという神が降臨してしまったわけだ。

それでも、棋士同士の人間模様がおもしろいから将棋界が消えてなくなるこ

とはないだろう。それどころかAI超えの絶妙手を指す藤井五冠が光り輝いて

いるから、人気はますます上昇。プロの将棋は楽しい。

ちなみに藤井五冠は何百万円もするコンピュータで研究を続けているという

話。コンピュータの知識もプロレベルとのこと。

 

 

 

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