唇 寒(しんかん)集65<22/11/5〜>

23年2月4日(土)

楽しくていい

大乗の教えではないらしいが、仏の教えに三法印というのがある。部派仏教

では仏教の要諦である。

つまり「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」だ。四法印といって三法印に

「一切皆苦」を加えることもある。三法印にしても四法印にしても「『涅槃

寂静』って何だ?」とずっと思っていた。「悟りの境地は静かである」とい

うような意味だと思う。「こちとら、悟りから遥か彼方にいるんだから、そ

んなの知るかよ」と思っていた。お釈迦様に言わせれば「悟りって静かでい

いよ」と教えているのだ。

「諸行無常」はだいたいわかる。いろいろなものは移り変わる、移ろいやす

い、みたいな。長く生きていればなおさらわかる。

「諸法無我」はさっぱりわからない。これは「色即是空、空即是色」とかと

同類。チンプンカンプンだ。いろいろな本を読んでもわからない。いまだに

わからない。「われ思うゆえにわれあり」ならよくわかるけど、自分はない。

相対的なものだというような意味らしいけど、ここにいるもんね。これこそ

仏教の永遠の神秘。

私の推測では黙って行動せよ、というような意味だと受け取っている。行動

というのはとりあえずは丹田呼吸と歩行。

その結果として「涅槃寂静」が来る。

「一切皆苦」はいわば状況説明だ。人間の状況、状態を一言で言っているの

だと思う。

で、「涅槃寂静」だけど、これはハッピーとは何かを語っている。幸福論で

もある。仏教が究極の幸福追求の教えだと知る。なんかそんなような新興宗

教があったけど、そっちとは無関係。

だから先週の「(楽しければいいって)お釈迦様の教えにそっているのだろ

うか?」という疑問の答えは「ドンピシャリそっている!」である。楽しく

ていいのだ。というより、楽しくなきゃダメ、なのだ。

お断りするまでもなく、上記見解はまったく個人的なもの。なんのご利益(り

やく)もないし、いっさいの功徳もない。ゴメン。

 

23年1月28日(土)

楽しさこそが

昨年末に「来年初めの一大テーマ━本当の絵画とは何か?」とミエを切った

が、終わったんだっけ? 自分でもよくわからない。何を言おうとしたのか

も忘れてしまった。メモも取っていない。アホだ。

1月24日付のブログに「私がやりたいことのなかでは絵が一番かも」と書い

た。人は一番やりたいことをたくさんやるべきだと思う。自分が一体何をや

りたいのか、それもわからない場合も少なくない。まさか人殺しをやりたい

という人はいないと思うが、そういうのはダメ。自己完結していないと他の

人に迷惑だ。恋愛も性愛も自己完結していないから、そういうのも「やりた

いこと」には入らない。

落語なんかも、ほんとうに落語がやりたくてやっている落語家の芸は聴きご

たえがある。聴いていても楽しい。

この「やりたいこと」の最大抵抗勢力は「金儲け」だと思う。金儲けはとて

も魅力的な作業だ。金さえあれば何でもできると思っちゃう。特に若いころ

は金がすべてと思い込む。しかし、人は死ぬまでしか生きない。みんな死ん

じゃう。いくら金を持っていても死んじゃったらオワ(=終わり)だ。

限られた人生、やりたいことをやったほうが勝ちなのではないだろうか?

ま、大谷翔平みたくやりたいこととお金が直結していれば一番ハッピーだけ

どね。

大谷とは桁違いだけど、藤井聡太ぐらいの収入でも十分だろう。いやいや死

ぬまでに10億円溜めるとなると将棋棋士では難しいかも。大谷なんか国家予

算規模の収入になりそう。

でも、お金よりやりたいことをやっている幸福感こそが最高だと思う。大谷

も実に楽しそうに野球をやっている。この前も今度十両に昇進する落合が

「大相撲の世界は楽しいっす」と言ったときそういうことは言ってはまずい

のか、という顔を一瞬した。私は全然まずくないと思った。「楽しさこそが

一番!」と思った。

人は本当に楽しいと思うことをするべきである。

でも、それってお釈迦様の教えにそっているのだろうか?

 

23年1月21日(土)

受賞???

テレビの相撲は初日から優勝候補の話。誰が三役とか大関昇進とか、アナウ

ンサーの話はそんなのばかり。自分自身がテレビ局内の出世争いで頭がいっ

ぱいだからだと思う。それより、たっぷり稽古を積んだ力士が力の限りぶつ

かり合うその瞬間が楽しいんだよね。技の掛け合い、土俵際の粘りや逆転。

そういうのが見たい。その瞬間の奇蹟みたいな力士の頑張りが嬉しい。

番付とか優勝予想なんてクソだよ。でも、2〜3時間の長い放送。話す話題も

尽きる。初日からの優勝予想も致し方ないのかも。

テレビを見ていても、ドラマに登場する絵は酷い。この前の『相棒』の絵も

イマイチ。大豪邸に掛かる歴代当主の肖像画など惨憺たるものだ。もう少し

何とかならないものかと思うけど、あれだってたぶん描きおろしの生油絵な

んだろう。レンブラントの複製画を使ってCG加工したほうが100倍ましだ。

ああいう油絵を描く「専門家」もいるんだろうか。あるいはどっかの美大生

に安価で描かせているのかも。

そういうときの画家選びの基準はとりあえずは「美大生」ということになる。

一般に絵の素人であるスタッフが突然どっかから絵描きを探して来いと言わ

れれば、美大生とか日展受賞者リストを繰るしかない。それでアカデミズム

は生きながらえる。

セザンヌ(1839〜1906)もゴッホ(1853〜1890)も美大卒でもないしまった

く受賞もしていないんだけどね。長谷川利行(1891〜1940)は二科展で樗牛

賞をもらっている。だけど、小説家の芥川賞みたいド凄い賞ではない、と思

う。

でも、パッと見てセザンヌ、ゴッホ、利行を理解できる一般人がいるだろう

か? 写真のように時間をかけて描いた絵が素晴らしいと今でもヤフーニュー

スを賑わわせている世の中だ。

「いい絵」なんて追及しても金にならない。なんにもならない。功徳もご利

益(りやく)もない。「バカじゃできない利口はやらぬ」。それが渡世人の

辛いところだ。

 

23年1月14日(土)

不変のもの

新しい、新しいというが、人のやっていることは大昔から大して変わらない。

禅の教えだと思うが「起きて半畳、寝て一畳。天下取っても二合半」という

のもある。

東からお日さまが昇り西に沈む。宇宙とか銀河とかややこしいことを考えた

ら切りがないけど、とりあえずはお日さまは毎日昇る。冬は寒くて夏は暑い。

朝起きてトイレ行ってメシ食って大欠伸。だいたい昔から変わらない。縄文

時代だってもっと古い3万年前の旧石器時代だって同じだと思う。

面白いときは笑って悲しいときは泣くんだよね。

そうは言っても、新しい発見は素晴らしい。平均寿命もぐんぐん延びている。

ジェット機が空を飛び新幹線は信じがたいスピードで走り去る。歩くより自

転車のほうが速いし、車はもっと速い。いろいろ便利。

でも、絵とかって、そういう便利さ以前の何か根本的な不変のもの、心の琴

線に触れる、みたいな? そういうところが狙いなんじゃないか。

富士山を見て驚かない人は少ないと思う。ド凄いものがドンとあるねぇ〜、

と見るたびに感嘆する。まわりの山は真っ黒なのに富士山だけが真っ白。で

かい。

あれを見たら太古の昔の恐竜だって感嘆したんじゃないだろうか?

いやいやバラの花も綺麗だよねぇ〜〜。驚嘆するよ。見れば見るほど不思議

だ。しかも香りもいい。魅力いっぱい。葉っぱも艶やかで元気いっぱい。見

とれるね。枝もスルスルと伸びている。気持ちいい。

それだけのことだ。

でもそこのところが肝心なような気がする。

 

23年1月7日(土)

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

 

先週12月31日付の『唇寒』で「本当の絵画とは何か?/この話は来年初めの

一大テーマとしたい」と書いた。だからその話。

私は「絵画」というんだから一応平べったい、ま、額縁に入るものを想定し

たい。立体や映像などのことはわからない。

で、言いたいことは松尾芭蕉(1644〜1694)の「不易流行」なんだけど、芭

蕉も、漢詩や日本の昔の歌人、偉人の言をしっかりふまえて「不易流行」に

到っている。

私に言わせれば「つまんないもの」はつまらないのだ。

私の母は自慢できるような賢母ではないけど、いつも酔っ払っていて男好きで、

医師に停められても隠れてタバコを吸うような不良ババア。美人かなんか知ら

ないが、化粧ばかりしていた。子供としては最悪、思い出したくもない。ま、

私もじゅうぶん愛されたと思うけどね。その母親が知ったような顔で「つまら

ん!」と口にする絵はつまらないのだ。

ドラマだって小説だってつまらなければ話にならない。見向きもしない。

そう言えば、昨日もYou Tubeで『椿三十郎』のラストシーンを見た。よく作っ

てあるねぇ〜。面白い。そしたら続いていろいろなチャンバラ映画のクライマッ

クスが始まる。『座頭市』のクライマックスを数本見た。勝新太郎。いいねぇ〜。

面白いよ。なんでビートたけしは『座頭市』なんかやったんだろう? 要ら

ねぇ〜、と思った。勝新で十分。ド面白い。ま、『眠狂四郎』も市川雷蔵だけ

でいい。なんか大映びいきだ。『銭形平次』も長谷川一夫だよねぇ〜。

話が飛ぶねぇ。

お喋りクソ爺だぁ〜。すみません。今日はここらで止めておく。

でも、もうこれだけでじゅうぶん、みたいな?

 

22年12月31日(土)

ゆらぐ絶対真理

先週「絶対に海を描きに行く、のだ」と書いたが、三浦海岸の三戸ではなく

茅ヶ崎に行ってしまった。今日のヘッドページの絵。そのときの心境は12月

28日付のブログで述べた。年が明けたら三戸にも行きたい。

長年生きているといろいろな絶対がいい加減だと知る。この前まで革新系だっ

た議員が保守になっていたり、総理大臣候補が新党を立ち上げて大失敗したり。

政治の世界だけではない。

天動説はアリストテレスの完璧に近い宇宙論で1500年以上も絶対真理だった。

惑星の動きだけが謎だった。惑星は惑わす星で片づけられていた。ユークリッ

ド幾何学もニュートンまでは完璧。そのニュートン物理学もアインシュタイン

の相対性原理に塗り替えられた。今や量子力学がアインシュタインを超えてい

る、らしい。

医学の世界でも次々に新しい医療が見つかっている。癌は治る病気になってい

る。

絵の世界はどうか?

何度も述べているように、絵画は音楽みたくドレミファがない。ヴィジュアル

なら何でもOK。となれば、絵画は平面を飛び出し、昨今では映像と結びついて

動き出している。

私みたく牧谿とかティツィアーノなどと古臭いことを言っている絵描きはほと

んどいなくなってしまった。油絵具はアマチュアの趣味だけになってしまった

のだろうか?

本当の絵画とは何か?

この話は来年初めの一大テーマとしたい。ま、同じ話の繰り返しだと思うけど

ね。

よいお年をお迎えください。

 

22年12月24日(土)

暮らしが変われば

メリー・クリスマス!

私はキリスト教徒じゃないけどイエス・キリストを尊敬している。あの人(?)

を尊敬しない人はまずいないだろう。西洋絵画を見れば尊敬はますます高ま

る。遠藤周作(1923〜1997)の小説も少しは読んだ。

遠藤はキリスト教徒というよりイエス教徒。イエスをムチャクチャ敬愛して

いる。

私はウーバーのクリスマス景気に期待しているだけの爺さんだけどね。ゴメ

ン。

でもやっぱりメリー・クリスマスだよ。昼の長さもこれからどんどん長くな

る。めでたい。恋人同士には夕闇が早く来るほうが好都合なのか? ジジイ

には関係ない。明るいほうがいい。

ウーバーの初心者だから以前のようには油絵が描けないけど、もう少し慣れ

てくれば絵ももっと描けると思う。とりあえずは鉛筆でもなんでもいい。目

と手が鈍らなければいいわけだ。そういえば、このごろ水彩も描かなくなっ

た。

ま、もう少し自転車配達業に慣れてくれば描けるようになると思う。

筋肉は裏切らない、のだ。筋肉は年齢に関係なく鍛えられるらしい。実際、

私自身まだ約2か月のウーバーだけど、坂道もどんどん登れるようになってい

る。わがママチャリは電動アシストなしの自転車だけど、自分の脚の筋肉に

アシストが付いて来ている。この方が便利。自家製筋肉アシストだ。

ウーバーに欲をかかずに、適当なところで絵を描くようにする予定。ま、週

休2日制を守れば絵も水泳も可能だと思う。

暮らしが変われば絵も変わる。これからどんな絵になっていくのか自分でも

楽しみだ。

とりあえず近日中に海を描きに行く。冬の海は空気が澄んでいて見通しがい

い。色も綺麗。いつも行く同じ三浦海岸の三戸。私の海は三戸ばかり。富士

山も見える。

クリスマスと年末年始でウーバー稼働してから行くつもり。稼いでホクホク

で行くか、期待はずれの稼ぎでガックリ気分で行くか。どっちにしてもとに

かく絶対に海を描きに行く、のだ。

 

22年12月17日(土)

絵画の本道

絵って売れない。いい絵を描いても売れない。売れるということと少しでもま

しな絵を描くということは全然別問題だ。

売れようが売れまいが、われわれはまともな絵を描き続けなければならない。

当たり前過ぎることだけどね。

「われわれ」というのは本物の絵描きを目指す人間ということ。

牧谿を慕い、ティツィアーノを敬い、長谷川利行(1891〜1940)に感嘆する

「われわれ」だ。

50年前に絵画ブームがあり、30年前にはバブル景気で絵が売れまくった。私

が銀座で初めて個展をしたのはバブル崩壊の直前だった。27年前。ほぼ終わっ

ていたころだ。

世間の人は絵なんて買わない。一生に1点買えばじゅうぶん。多くても3〜4点

だ。

病院やマンションにある絵はアマチュアの方の絵が多い。ああいうのは買った

絵ではない。貰った絵、またはご自分で描いた絵だと思う。

絵では喰えない。生計が立たない。無理。

絵画ブームが来てくれれば、私の絵なんて売れまくると思うけど、そんなもの

待っていられない。人は毎日を生きなければならない。

私の父は絵画ブームもバブルも味わった。絵が売れまくった。それでも、絵は

一点一点売れるだけだから商売としては大したことはない。とは言っても一般

のサラリーマンの方より高収入になっていたと思う。

でも父は太平洋戦争を喰らった。1940年のとき18歳。地獄だ。絵画ブームやバ

ブルは神様がくださったご褒美だと思う。

バブル崩壊から30年近くたっている。絵画業界に幸福は来ない。そんなものを

持っているより、今の状況で少しでもましな絵を描く算段をしたほうがいい。

牧谿、ティツィアーノ、利行と続く絵画の本道を、石にかじりついても守らな

ければならない。

この年末に絵を買ってもらった。とても嬉しい。

 

22年12月10日(土)

続・言いたいこと

1997年1月号の『芸術新潮』は「特集 牧谿をお見せしよう 水墨画のフェル

メール」だった。もちろん私はこの号を持っている。東洋美術史の山下裕二が

中心となって執筆している。その趣旨は疑問だらけ? 「この先生、いったい

何が言いたいの?」と声が出てしまう。

いやいや、私も山下先生には大いにお世話になっている。『雪舟はどう語られ

てきたか?』(平凡社ライブラリー)は今でも繰り返し読む。私だけでなく娘

は明治学院大学だったから講義を受けたかもしれない(未確認)。

先週の続きになってしまうが、私がおかしいと思うのは上記『芸術新潮』のな

かの山下の主張。

絵のリアリズムをどう解釈しているのだろうか? 牧谿の絵はリアリズムであ

るという。これはめんどくさい問題なので、またあとで。

その前に「水墨画のフェルメール」という副題にも一言言いたいけど、これも

やめておく。

その『芸術新潮』の29ページに「《観音猿鶴図》などは礼拝用としてかしこまっ

た表現がなされており、宗教性や哲学性が強まってはいます」と言った以下の

セリフが意味不明。

「けれども、あくまでも絵は絵なんですから、素直に見ていいんです。牧谿に

限らず、『単なる写実を超えた』というような言い方もよくされますが、『単

なる写実』とはいったい何なのか。『写実』をその画家なりにつきつめている

からこそ、すごいのではないでしょうか。牧谿の絵は、余分な哲学や精神性な

どくっつける必要のない、きわめて高いクオリティを持ったものです」

こうやって書き写してみると、私の読解が未熟だったような気もしてくる。で

も、「『写実』をその画家なりにつきつめている」ってどういう意味だろう?

ここが肝心なような気がする。ここが山下絵画論の中核らしい。「その画家な

りに」とは? 「その画家」って何だ? 

ここでは具体的には牧谿のことにちがいない。では「牧谿なりに『写実』をつ

きつめた」ということだろう。私としてはその「牧谿なり」を知りたい。そこ

には牧谿個人の思想や哲学や宗教があるのではないのか? 私は「思想や哲学

や宗教」というより「牧谿の修行」と言いたい。それは「絵の修業」も含めた

修行である。そういうことを切り離して牧谿の絵だけを見ろというのは無理だ。

山下自身「その画家なりに」と言っているではないか。

牧谿のヴァルールをどうやって獲得できるのだろうか?

リアリズムではない。ヴァルールだ。絵の厚みと深さ。写実はそのための一つ

の方法に過ぎない。

 

22年12月3日(土)

言いたいこと

12月1日のブログで『いろいろ面倒』と書いてしまったが、この『唇寒』で

面倒でも頑張って言いたいことを言う。

11月30日のブログでは「江戸狩野アカデミズムには身体的実践がない」と

いうようなことを書いたが、絵を描く修業自体身体的実践ではないかという

ご批判もあるだろう。私が言う「身体的実践」とは歩くことだ。もっと言え

ば旅だ。絵なんてどうでもいい。さらに言えば仏道修行なのである。仏道修

行というと抹香臭くなって、今度は仏教アカデミズムが威張り出すからイヤ

だ。

だからお釈迦様の教えのエッセンスだけを真似ればいいのだ。それが旅だ。

もちろん私自身旅は苦手。家の周りをウロウロしている派だ。風呂もベッド

も自分の家のが一番。ボロベッドだけど我がねぐらが最高。

そういう不便も含めて旅は並はずれた修行なのだろう。

だからとりあえず歩くことでご勘弁いただく。最近の私はウォーキングより

サイクリングだけどね。

私も若いころサイクリングの大旅行を4回ほどやっている。1日の最長走行距

離は198キロ。150キロは常識だった。それが毎日続く。私は旅館に泊まった

ので、新幹線旅行より金がかかる。今のウーバーの40キロぐらいなんでもな

い。50年も前の話だけど、経験しているので強い。行っても行っても道。走っ

ても走っても目的地に着かない。日本は広いよぉ〜〜。長野に行ったときは

頑張っても頑張っても上り坂だった。そういうのって大きな経験なんだよね。

ありがたい。

松尾芭蕉(1644〜1694)も旅を最重要視していた。もしかすると旅をやり過

ぎて50歳で死んでしまったのかも。

旅こそが「身体的実践」。妥協してウォーキングもギリOKか?

大事なのは問題意識なのだ。俳句とか絵なんてどうでもいい。作品は表層部

分。氷山の一角だ。海の中にはでっかい氷の塊がある。そっちが大事。

それは最近AIが作ったクラシック音楽やレンブラント作品もどきの腑抜け具

合でも証明されたはず。「純粋に作品そのものを味わう」という思考、つま

り「作品そのもの」なんていう思考は妄想なのである。それをAIが証明して

くれた。

「古人も多く旅に死せるあり」

芭蕉の言葉はジーンと来る。これが大事。作品なんてクソだ。

 

22年11月26日(土)

集団てどうなの?

高校生の吹奏楽部のコンテストを密着取材したテレビ番組を見た。長い番組。

『笑ってこらえて』(日テレ)の特番だ。

吹奏楽はチームワークが大切。野球とかサッカーと似ている。相撲や水泳、

陸上などの個人競技とはちがう。絵もまったくの個人の作業かも。

で、吹奏楽部の団体でのポジションの取り合いとか、統一性、先生の指導方

法などを見ているといろいろなことを考えてしまう。私にはとても不向き。

無理。

さらに、コンテストで金賞とか全国大会進出など競争も激しい。

ハンドボールで高校インターハイ寸前まで頑張った家内は興味深く見ていた。

懐かしがっていた。長く控え選手だった経験もあり、いろいろな人の気持ち

がわかるらしい。

ま、私なんてほぼ一生控え選手だけどね。

しかし、ああいう競争ってどうなんだろう? 教育上いいことなのか?

何度も述べているように仏教の悟りは合格枠なし。それでも、六祖慧能は悟

りの競争に勝つんだよね。その辺の事情が分からない。競争相手は神秀。確

かこの人も高僧になるはず。でも、悟りに人数制限はないと思う。禅宗の歴

史上では無数の雲水が悟りを開いている。

いいか悪いかわからないけど、多くの人が集まって集団陶酔みたくなるのは

私には無理。気持ち悪い。サザンのコンサートでさえ行きたくない。いやい

やサザンのコンサートなら行ってもいいか。それが政治的なものならなおイ

ヤだ。宗教もちょっとイヤ。

とにかく、絵はいい。一人の世界。私にはぴったりだ。そう言えば、ウー

バー・イーツも一人仕事だからとても向いている。もう少し収入が上がれば

100歳まで続けたい。

サルも、チンパンジーやゴリラみたく集団で行動する種類は多いが、オラン

ウータンみたく一人行動もいる。私は完全にオランウータンタイプだ。

 

22年11月19日(土)

筋肉も財産?

私は確かに金がない。車を保持しているから車検などに金がかかる。この前

はタイヤ交換もした。それは借金になっている。かなりヤバい。

しかし、今のところ健康。なんとかなるような気もする。

若いころからバカだった。絵はちゃんと頑張っていれば売れるものと思って

いた。絵ってめったに売れないんだよね。だけど若いころは「年金なんか要

らない。貯金は(絵の)腕にする」と豪語していた。本当にバカだった。

確かに絵はたくさんある。買ってもらえるレベルだと思う。商品価値ありと

信じている。でもそれは遠い将来。100年後とか200年後かもしれない。

しかし、私は有難いことに今のところ健康だ。おかげで今も肉体労働ができ

る。

私は58歳のときにマンション管理人を始めて、自分の脚力の衰えに驚いた。

65歳の先輩管理人の見回りについて行けなかった。「この爺さんバケモノか」

と驚嘆した。しかし、その後、見回りのスピードはぐんぐん上がり、膝の不

調もすっかり治ってしまった。

さらに、今またウーバー・イーツを始めて、自分の筋肉の衰えを嘆いている。

でも、これも克服できる感じ。若いころに自転車ばかり乗っていた。自転車

大旅行を何度もしたし、都内の移動(40キロぐらい)はほとんど自転車だった。

キャンバス会社の通勤も美術研究所へ行くときも自転車だった。

その筋肉が思い出している。元に戻ろうとしている。

まったく金はないけど、筋肉も財産だと知る。多分絵の腕も維持しているはず。

私は確かに高齢だけど、私が尊敬する美術史上の画家たちには80歳90歳で巨

大画面に挑戦し、東洋の画家や僧侶も旅の人だった。私なんてまだ若手なの

だ。

一般的には私の状況は最悪だけど、精神状態や健康状態は優良。もしかする

と億単位の金持ちに勝っているのかもしれない。

 

22年11月12日(土)

100倍ハッピー

油絵を使ってキャンバスに描くという絵画方法はかなり古臭い。絵の世界は

音楽などに比べると本当に自由で、目で見る芸術というように分野を広げれ

ばありとあらゆることが可能になってしまう。

音楽はムチャクチャなことになってもドレミファは守られる。楽器も限定さ

れている。デタラメな音楽というのはない。いやいやデタラメなアートもな

いのかもしれない。

テレビなどのメディアでは目新しい造形は注目を集めるから、多く取り上げ

られる。一時的な場合が多い。

私なんか油彩画の祖みたいなティツィアーノ(1488/90〜1576)こそ最高の油

彩画家として尊敬している。古くて長い絵画道を信じて古臭い画法を守って

いる。守らないと油絵は剥がれてしまう。絵画史全体を想えば、もっと古い中

国の多くの画家も尊敬している。もしかすると音楽家以上に古式を守っている

かも。

とは言っても、いわゆるアカデミズムとはちがう。ある意味デタラメだ。私か

ら言わせれば今のアカデミズムこそデタラメだと思うけどね。

たとえば、ピアノやヴァイオリンやギターのような熟練した技法はアートにも

あると思う。ドガ(1834〜1917)がアングル(1780〜1867)から学んだ「たく

さんの線を引きなさい」という教えがそれ。私は物凄く同意している。線を引

かなければ話にならない、と思っている。それは中国や日本の古い絵(東洋の

場合は書もだけど)にも共通する当然の修業だ。

そういうのを守っていたら、新しい造形なんかやっている暇はない。私は50年

以上守り続けている。多分人間国宝だろうと自分で勝手に思っている。それな

のに「今年も文化勲章の話が来なかった」と友人に言ったら「こいつ、なに言っ

てんだ」とトンチンカンな顔をされた。

まったく世に受け入れられていない。

でも、それってとても気分がいい。不思議だけど気楽で楽しい。クソみたいな

世間に受け入れられても嬉しくもない。ウーバー・イーツで働きながら絵を描

くほうが100倍ハッピーだ。軌道に乗ってちゃんと家賃が払えて飯が食えればな

おハッピー。

 

22年11月5日(土)

将棋AI

AIの話は前回で終わりにする予定だったが、最後に将棋の話をしたい。

チェス、囲碁に続き、将棋のチャンピオンもAIに負けてしまった。『レンブ

ラントの身震い』(マーカス・デュ・ソートイ/冨永星訳・新潮クレストブッ

クス)でも、その話がキッカケになっている。『レンブラントの身震い』で

は囲碁の話が主だけどね。

私は囲碁には詳しくない。トッププロの将棋は今でもよく見ている。You Tube

のダイジェスト版ばかり。しかも見始めると寝てしまう。だから、よくわか

らないまま。でも、アメバの実況中継も見るので、だいたいのところはわか

る。

3日には負けてしまったが藤井聡太五冠だけは図抜けている。最近出てきた勝

率8割超えの若手もいるけど、その人たちの将棋は見ていない。藤井レベルな

のか?

とにかく藤井五冠は最終盤間違えない。羽生善治も含めたほとんどの棋士が

終盤間違える。最終盤のAI判定は意味がない。99%の詰み筋ありの判定でも

逆転してしまう。AIの詰み筋は細い一本道で奇手、妙手も多い。人間では気

が付かないような手筋。ふつう無理。

攻めているときに自陣を守る手がベストだったりする。そんな手、人間に指

せっこない。

つまらないんだよね。

将棋の二日制の七番勝負など、昔の初日は雑談だらけ。一日制の予選だって

午前中は冗談ばかり言い合っていたという。それが今や初めから真剣勝負。

息継ぐ暇もない。将棋界も変わった。正解がある指し手を棋士は模索する。

われわれアマチュアから見るとそれは昔も同じ。プロ棋士の指導は正解だっ

た。現代はAIという神が降臨してしまったわけだ。

それでも、棋士同士の人間模様がおもしろいから将棋界が消えてなくなるこ

とはないだろう。それどころかAI超えの絶妙手を指す藤井五冠が光り輝いて

いるから、人気はますます上昇。プロの将棋は楽しい。

ちなみに藤井五冠は何百万円もするコンピュータで研究を続けているという

話。コンピュータの知識もプロレベルとのこと。

 

 

 

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