唇 寒(しんかん)集64<22/6/4〜10/29>

22年10月29日(土)

行動のなかにある

『レンブラントの身震い』(マーカス・デュ・ソートイ/冨永星訳・新潮ク

レストブックス)のp368に著者の主張が全部述べられている。機械(=AI)

には芸術が作れないという結論。それは意識がないからである。また機械に

は死もない。デュ・ソートイは創造とは死に「一杯食わせること」だと言う。

創造者は「俺は死んじゃうけど芸術は死なないもんねぇ〜」とお尻ペンペン

をしながら死に捨て台詞を吐いているのだ、という趣旨。

で、創作者たる人間には意識というものがある。ここで「意識」という大問

題が登場する。意識については脳科学の茂木健一郎がいろいろ述べている。

意識は人間の永遠の謎。明快な解説は出来ないという結論だった。それは主

観と客観の問題でもある。科学の最大の弱点。人は誰でも、ガリレオでも

ニュートンでもアインシュタインでも主観から逃れることはできないからだ。

宇宙観測も原子の中味を見る場合でも、最後は人が見ている。脳のなかも人

が見ている。さらに人と人の、たとえば「痛み」の共有も不可能。どこがど

う痛いのか、彼女の痛みは彼氏にはきっちりと知りえない。嘘泣きかもしれ

ないし大袈裟なだけかもしれない。

わからないのだ。

わからないということを知るべきである。しかし、それは研究を中止したほ

うがいいということではない。

たいせつなのは行動であり、研究も行動に他ならない。

私はそういう解明そのものよりも行動が大切だと考える。行動によって人は

超時空のなかに入って行ける可能性がある。そこには成果とは別な、幸不幸

を超えた摩訶不思議な境地がある。それがお釈迦様の言う涅槃寂静なのだと

思う。

 

その後、テレビの『カズレーザーと学ぶ』(日テレ)でもAIが取り上げられ

ていた。ヤフーニュースでは現代科学の限界論が載っていた。『死は存在し

ない━最先端量子科学が示す新たな仮説』(田坂広志・光文社新書)の紹介

文。「複雑系科学」というらしい。どちらも上記の話題に共通していた。

 

22年10月22日(土)

AIの限界

2か月以上にわたって読み続けた『レンブラントの身震い』(マーカス・デュ・

ソートイ/冨永星訳・新潮クレストブックス)をやっと読み終わった。末尾

の「訳者あとがき」を読むとダイジェスト版として10分程度で読み終わる。

AIの根幹となるアルゴリズムが囲碁のチャンピオンに勝利したことが一つの

ターニングポイントだったかもしれない。このショッキングな「事件」が、

AIが人間を超えてしまう可能性を現実のものとした。実際、チェスから始まっ

て囲碁、将棋とAIが各分野のチャンピオンを負かしたのだ。

では、AIに人間以上の作曲ができるか。絵が描けるか。詩や小説は? と次々

と可能性を問う試みがなされた。これらはそのまま話題性があり金にもなる

から企業が一枚も二枚も噛んでくる。資金の心配はない。思う存分研究がで

きるわけだ。

で、その結果は悲しむべきものだった。とは言っても使い物にならないわけ

ではなく進化は続いている。企業の興味も衰えていない。

先のことはわからない。

でも多分ダメだと思う。デュ・ソートイもそう感じている。この辺のデュ・

ソートイの記述は興味を引く。彼の芸術論が展開しているからだ。そこには

生命(個体維持)に関する思考もある。でもなぜか性愛(種の保存)に関す

る説明はない。ここが不思議。

私の絵画観とも大いに共通する。来週に続く。

 

22年10月15日(土)

天才論

どこまで本気だったかわからないが、私の父は自分を「俺は天才だ」と言っ

ていた。そして「天才の孤独」みたいなポーズも取っていた。実の息子であ

る私は心の奥のほうで哂っていたかもしれない。私の父は尊敬されるよりも

愛される人間だったのかも。ま、そっちのほうがいいか。

ほんとうにごめんなさい。

しかし、美術史をよく調べ、美術史上の巨匠たちの絵画や彫刻作品に触れれ

ば触れるほど、「天才なんていない」という結論になる。

いやいや、「天才が創造したとしか思えない作品」はある。

レンブラント(1606〜1669)の《沐浴する女》(油彩・板 1654年 61×46p

 ロンドン ナショナルギャラリー)はいくら見ても人間が描いたとは思え

ない技が見える。

でもレンブラントは天才かというと、多くの作品を見るかぎり、とても天才

とは言い難い。もたもたしているしグズグズしている。手がグローブみたい

だったりもする。

同時代のフェルメール(1632〜1675)に人気が行ってしまうのも納得。

天才はいないけど天才が描いたとしか思えない絵はある。

わたし自身の絵でも「これ、俺が描いたのか?」と思える絵がときどき出来

てしまう。絵ってそういうものだ。でも描かないと永遠にできない。無数に

描かないと出来ない。

世間一般では、練習や稽古をしなくても素晴らしい作品を生み出すのが天才

だと思われている。

グループのなかである程度認められているアマチュアの方が「普段、絵なん

て描きませんよ」と言っていた。自分の絵を素晴らしいと信じ切っている。

私は「この人は裸の王様だ」と思った。

こういう人はムチャクチャ多い。

ちなみに、私の父もたくさん描かないと話にならないということは十分承知

していたと思う。

何度も言うけど、出来た作品なんてどうでもいいのだ。描くという行為がもっ

とも大切なのである。

天才? クソだ。

 

22年10月8日(土)

二つの波動

先週の『唇寒』《行為がすべて》を読むと結論が出てしまったような感じ。

もう言いたいことはない。

『レンブラントの身震い』(マーカス・デュ・ソートイ/冨永星訳・新潮ク

レストブックス)も結論が見えてきた。まだ60ページぐらいあるけど、この

著者・数学者のソートイはAIに興味があり、かなりの理解を示しつつも、AI

のことを「ブリキの箱」とか「現代版のデジタルなうなり版(木片に紐が付

いていて振り回すと音の出る楽器)」などと手厳しい。所詮機械には限界が

あるという結論なのかもしれない。

私に言わせれば、人の振る舞いは個体維持と種の維持だけによっている、は

ず。つまり命長らえたくて異性にもてたいわけだ。これ以外にはない。で、

お釈迦様はこの二つを禁止した。禁止するとAIになっちゃうのか? ふつう

に考えれば人類は滅亡してしまう。それじゃあ、元も子もない。私の考えで

は禁止してもどうせ守りっこないから、ちょうどよい抑制となると思ったの

ではないか。

会話だって同性ならマウントの取り合い、異性なら恋の駆け引き。AIにそん

な野心はない。人間との自然な会話なんてできるわけがない。永久に不可能。

命と恋、この二つの波動のなかで、人は悩み、そこから芸術も生まれる。命

も永遠で恋の悩みもないAIに芸術が創造できるわけがない。愛という概念も

わからないだろう。

とにかく『レンブラントの身震い』は最後まで読む。

 

22年10月1日(土)

行為がすべて

才能とか、創作か写生かとか、そういう問題は気にしてもいいし、気にしな

くてもいい。本質的なことではない。どうでもいい。過去の偉大な画家にも

いろいろな人がいるんだから、そんなことに悩んだり劣等感を持つこともな

い。自信たっぷりというのもいただけないけどね。

どこの国でいつ誰が描いたって、そんなことは全然問題じゃない。何をどん

なふうに描いてもいい。

ものすごく大切なのは現在の行為である。たった今の行為、それだけだ。

それはコップに水を汲む、みたいな普通の誰でもやる行為のこと。ほんとコッ

プを割らないようにじゅうぶん気をつけてやらないといけない。ボーっとし

ているとあちこち間違いだらけ。特に年寄りは危険だ。ま、でも間違いはあ

るよね。それも致し方ない。

で、AIが将棋に勝ったり、レンブラントを描いちゃったり、バッハを作曲し

ちゃったりすることも驚くことでもない。写真と同じだよね。写真を見なが

ら絵を描いている人もいる、というかそういう人はムチャクチャ多い。何か

バカバカしい。

行為が大切であり、私だったら絵を描くことがもっとも大切なのだ。そのこ

とを知っているだけでもかなり偉大かも。それを知るのに何十年もかかった

けどね。でも今は知っている。知っているけど実行しなければ意味はない。

だから描かなきゃダメ。

AIとか才能とか創作とか、そういうの一切関係ない。

ヤクルトの村上だってここのところ三振ばかりだけど、バットを振らなけれ

ば始まらないものね。偉いよ。

 

22年9月24日(土)

創作か写生か

古い自分の絵を見返している。

写生ばかりだ。ほとんど全部実物を見て描いている。これって本物の絵描き

なのだろうか?

尾形光琳(1658〜1716)、葛飾北斎(1760〜1849)、ドガ(1834〜1917)、

クリムト(1862〜1918)など多くの画家は創作をしている。私の父も創作が

当然のように言っていた。

古典の巨匠たちもみんな創作の人。レオナルド(1452〜1519)もミケランジェ

ロ(1475〜1564)もティツィアーノ(1488/90〜1576)もルーベンス(1577〜

1640)もみんな創作を第一に置いていた。

巨匠はもちろん、写生もたくさんやっている。下絵としてたくさん描いてい

る。しかし、それはあくまでもエスキース。本画タブローではない。ま、本

画は弟子がけっこう描いているからエスキースこそ巨匠の真筆なんだけどね。

絵って創作のほうが本筋なんだろうか?

なんか劣等感を感じちゃうんだよね。

でも、写生ばかりの代表選手もいる。モネ(1840〜1926)だ。おそらくセザ

ンヌ(1839〜1906)も。ゴッホ(1853〜1890)だって写生の画家。

私みたくたくさんの油絵裸婦を実際のモデルで描いた画家はいないと思う。

父・菊地辰幸(1922〜1996)とかその油彩の師・原精一(1906〜1986)より

も圧倒的に多いだろう。きっと。ムチャクチャな絵かもしれないけど、とに

かくたくさん描いた。今は自分の昔の絵をひっくり返して(=調べ直して)

いるから過去形だけど、私としてはこれからもどんどん描くつもり。今はコ

ロナで休憩中だけど、必ず復活する。気持ちはガンガン。現在進行形だ。

で、創作と写生の話。どうなんだろうねぇ〜。わがイッキ描きの根本思想か

ら言えば写生だよね。そして、絵が創作であろうと写生であろうとそんなの

ほとんど関係ない。描くことが最大重要であり、描きたいように描けばいい

のだ。

描いていることがすべて。そして、そのときの自己存在は口では説明できな

い。絵そのものが説明であるべきだ。そういう絵こそが絵だと思う。

 

22年9月17日(土)

原画の秘密

『西洋美術館 名画の見かた』(渡辺晋輔/陣岡めぐみ・集英社)の終わり

のところに絵のコピーについての記述があった。ヨーロッパの美術館を巡っ

ていると本当によく同じ絵に出会う。ティツィアーノ(1488/90〜1576)の

《荊冠》は、初めミュンヘンのアルテピナコテークで見て、その後ルーブル

美術館でも見た。そっくりだけど印象が全然違う。ルーブルで「あれ、この

絵前に見たな?」と思い。「こんな絵だっけ?」と疑った。ミュンヘンのほ

うがはるかに素晴らしい。ルーブルの絵は月並み? みたいな? ま、ティ

ツィアーノだから悪いはずもないけどね。いやいや今でもミュンヘンの《荊

冠》はティツィアーノ最高傑作の一つだと思っている。

同じ絵で思い出すのはダヴィッド(1748〜1825)《ナポレオンの戴冠式》。

ドでかい絵だ。確かルーブルで見てヴェルサイユ宮殿でも見たような記憶が

ある。ヴェルサイユ宮殿の絵はなんかボケていた。

私も若いころにはルーベンス(1577〜1640)とかレンブラント(1606〜1669)

などの模写をしたけど「模写は第2の鑑賞」と言える。見ているのとは全然違

う大巨匠との対話ができる。直に教えを受ける感じ。そのことを『西洋美術

館 名画の見かた』では「たんなる観想的検討では十分に解き明かしえない

ような秘密をあらわにしてくれる」(p235)と表現してあった。

また、この章では、依頼されて弟子などが巨匠のコピーを描く話もあった。

しかし、「コピーの価値は相対的に下落する」(p232)とあり「一般に、原

画のすぐれた部分は『コピー』においては失われる」(p232)ともあった。

自分の絵をコピーする場合のことも述べてあり、自分の絵のコピーだから2度

目の制作となり、以前よりよくなるに決まっていると思われがちだが「そうな

ることはごくまれである」とあり「そこにはもはや霊感はなく、天才の1回限

りの時間が過ぎ去ってしまったからだ」(p233)とあった。これこそ、わが

イッキ描きの主張。イッキであり現場であり、「状況の絵画」でもあるわけだ。

ま、もちろん「天才の1回限りの……」というクダリ。天才じゃなくてもいい

と思うけどね。誰だって描きたいと思って描くその瞬間はその画家のものだろ

う。天才である必要もない。

しかし、上記ティツィアーノ《荊冠》については50歳代のルーブルより80歳代

のミュンヘンのほうがはるかに素晴らしい。これだから絵画の魅力は果てしな

い。人間力か? 人は限りなく成長するのだろうか? 老化の逆? 仙人にな

れるのか?

 

22年9月10日(土)

悟りについて2

悟り談義を続ける。

宇宙に出ると悟れるという話も聞いた。宇宙飛行士はみんな悟ったのだろう

か? この前も野口聡一さんがテレビに出ていたけど、ホント落ち着いてい

て悟っているように見える。一番聞きたいのが前澤友作さんの話。あの人っ

てまさに世俗の人だよね。ああいう人が宇宙から地球を見ると大変身できる

のだろうか? とても興味深い。

さらに、私は何年も前に脳科学に嵌った。養老孟司から始まって茂木健一郎

もたくさん読んだ。慶応大学の前野隆司教授の本も凄く興味深かった。前野

教授はロボット工学の専門家だ。理系の先生は悟りなどと言わないけど、ど

うも悟りみたいなことを信じている感じがする。人間の脳を解明することで

全世界の人がいっぺんに悟りを開いてしまう方法を模索しているような気配

もあった。全世界の人が悟りを開けば戦争などもなくなるだろう。それこそ、

ノーベル医学賞と平和賞をいっぺんにもらえる快挙だ。

そう言えば、自分が悟りを開くと他の人も全員悟りが開けてしまうというト

ンチンカンナ話も聞いた。わかるようなわからないような説。

ここで悟りと絵画、特に中国宋元や室町の水墨画の話をしたい。

たとえば、牧谿の《煙寺晩鐘》。どうしてあんなにも魅力的なんだろう。戦

国大名たちがこぞってわがものとしたがった。牧谿の絵に限らない。禅僧の

描く水墨画はどれも魅力いっぱいだ。因陀羅(元代末)の禅機図など、わけ

がわからない魅力に惹きつけられる。描いている画人が悟っているからだと

推測するとなぜか納得できてしまう。悟ればいいのか。それは無理。しかし、

方向としてはとても正しいような気がする。

ヨーロッパ絵画とは根本的にちがう何か不思議な魅力がある。いや、ヨーロッ

パ絵画も19世紀ごろからそういう方向に大きく舵を切ったようにも見える。

なぜか最近はトンチンカンナ方向に行ってしまっている気がする。

いっぽう、アメリカやヨーロッパでは禅への興味が大いに高まっている。アー

トと結びついてくれれば、私の絵だって可能性がないわけじゃない。もちろ

ん私の絵の場合は方向性が同じだけでまったく未熟だけどね。ゴメン。

 

22年9月3日(土)

悟りについて1

「色っぽいということはいいことなんねん」と歌ったのは吉田拓郎だったと

思う。

AIには色っぽさの欠片もない。あるわけがない。AIには種の維持への希求が

ないんだから性欲もなく、当然色っぽいわけがない。

世故さと色気で魅力を醸し出す人間模様をAIが再現できるわけがない。

いやいや世故さを推奨しているわけではない。いい暮らしがしたいから世故

くなる。ある程度理解できる。お釈迦様はいけないと言っているけど、それ

は人間の本性を抑えろという教えなんだろう。みんなが本性むき出しで生き

ていたら世の中争いだらけになる。

ほとんどの人は我慢して頑張っている。

私はお釈迦様の教えはとても正しいと思っている。別に守っていはいないけ

ど、出来れば守りたい。

で、お釈迦様の悟りなんだけど、これが大問題なのだ。

悟りってあるのだろうか? お釈迦様は悟ったのだろうか? 阿耨多羅三藐

三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい=無上正等覚)、52段階ある悟り

の最高の悟りだ。

悟った人は自分が悟ったと公言してはいけないのだから、そこらに悟った人

が歩いているのかもしれない。

自分で悟ったという人はいっぱいいる。ほとんどがインチキ。金儲け。

韓国の素空慈(ソコンジャ)という人は悟ったと言っている。大して金儲け

もしていない様子。疑似宗教は立ちあげていないと思う。何十年も前に2冊ぐ

らい素空慈の本を読んだ。けっこう面白かった。リアルな感じ。でも、悟っ

た人が自分から悟ったというはずがないんだよね。

バグワン・シュリ・ラジニーシはもっとあやしい。かなりインチキ臭い。本

はけっこう面白いけどね。

禅宗では昔から悟りは普通。ここがよくわからない。印可証って何? なん

か本当臭いんだよね。

本心、私はお釈迦様が悟ったと信じている。そういう意味では私は仏教徒な

のかもしれない。信者なのか?

で、道元禅師(1200〜1253)はどうなの? と問われると、限りなく悟った

人にちがいないと思っている。そして道元禅師の教えはとてもまともだとも

思う。悟りに近づこうと頑張っていればそれはもう悟りだ、という教え。

大学合格のために受験勉強を真剣にやっていればもうそれは合格だ、という

こと?

金メダルを目指しているアスリートはみんなメダリストなのか?

私はこういう教えをとても素晴らしいと思っている。来週に続く。

 

22年8月27日(土)

アートの最先端2

はからずも先週の続きになってしまった。

いま読んでいる『レンブラントの身震い』(マーカス・デュ・ソートイ/冨

永星訳・新潮クレストブックス)に最先端芸術論が述べてあった。最先端と

は言ってもデュシャン(1887〜1968)だからけっこう古い。同じ本には人類

は50万年前(今のホモ・サピエンスの2代前)から絵を描いていたとあったか

ら、デュシャンはじゅうぶん新しいとも言える。

『レンブラントの身震い』の記述で最初にショックを受けたのは「現代美術

は、そのほとんどが、レンブラントやレオナルド・ダ・ヴィンチのような人々

の美学や技術を鑑賞するためのものではなく……」(p132)というところ。

「えっ、えっ、えっ? 現代美術はクラシックとは無縁なの? ああ、そう

言えば無縁かも」と納得してしまう。「じゃあ、現代美術なんて要らねぇじゃ

ん」というか「俺とも無縁だわなぁ」となってしまう。だって私の人生は「レ

ンブラントやレオナルド・ダ・ヴィンチのような人々の美学や技術を鑑賞す

るため」に捧げられてきたし、それはとても満足で、自分の絵なんてどうで

もいいという気持ちだからだ。レンブラントやレオナルド・ダ・ヴィンチの

ような人々のなかにはギリシア彫刻や奈良の仏像、中国の牧谿(1280頃活躍)

や日本の雪舟等楊(1420〜1506)なんかも含まれるけどね。

で、ソートイの言う最先端芸術論だけど、それは8月25日付けブログでもちょっ

と述べたが、「政治的な問いかけ」なのだそうだ。これまた私とは無縁。「世

界とわたしたちとの関係を巡って作者が明らかにした興味深いメッセージや視

点を味わうためのものなのだ」とのこと。そこでデュシャンの男性便器が理解

できる。「(男性便器が)展覧会という場に置かれたがために、本来機能的な

品物である便器が『芸術とは何か』という問いについての言明になった」と書

いてある。

 

22年8月20日(土)

アートの最先端

今の世界的最先端アートってどういうのなのだろう?

モネの睡蓮の絵に粗大ゴミを浮かべた絵か? いろいろな公共施設などの壁

に勝手に絵を描くバンクシーか? 凱旋門を布でくるむアートもあった。あ

あいうの?

私だってそれぐらいは知っている。

自分自身の絵はどういう絵なのか。古臭い具象絵画だと思われているだろう。

でも、どう思われたってどうでもいい。勝手に思ってください、って感じ。

私は新しさなんてクソだと思っている。大切なのは共通点なのだ。何万年の

昔に描かれた洞窟壁画から古代エジプトやギリシアやローマの彫刻や壁画、

中国宋元の水墨画、ヨーロッパのルネサンス絵画。そういう大昔から繋がる

一筋の流れみたいな、自民党じゃないけど本流? その流れのなかで描いて

行きたい。今の絵が現代絵画というなら現代絵画に決まっている。バカバカ

しい。日本絵画というなら、それも日本絵画に決まっている。そういう時空

の問題は絵画の本質じゃない。

この現代に日本人が描いた絵はすべて現代日本絵画だろう。それが絵の良し

悪しに関係あるのだろうか? そんな分類は頭の悪いヤツがやっているだけ

だ。

あえて、今のわれわれの絵を評価するなら、われわれはほとんどすべての世

界中の美術を見ているということ。自分でも信じられないことだが、私はフ

ランスの洞窟に入って何万年前の洞窟絵画も見たのだ。カラー図版でなら、

いつでも何でも見られる。インドの古代彫刻だってアンコールワットの遺跡

だってイランのイスラム模様だって中南米の古代文化だって、なんだって見

ている。

そういう総合のなかで絵を描いている。まさにグローバル。

一世代前の父の時代には牧谿もロクに知らなかった。父が不勉強だっただけ

かもしれないけど、父の若いころは「マチピカブラ」ばかりと言っていた。

マチス、ピカソ、ブラマンクで頭がいっぱいだったという話。そんななかで、

父はルオーに注目していた。

私たちは戦後の平和のなかで、あらゆる画集、美術展に恵まれ、海外留学も

珍しくない時代を生きた。絵画環境は一世代前とはまったくベツモノと言え

る。

私は油絵で風景を描くけど「牧谿みたく描きたい」と思っている。そんな洋

画家はとても少ないと思う。もちろん、西洋と東洋の絵画の融合、なんてダ

サいことは思ってもいない。描きたいように描いているだけだ。

最先端なんてクソである。今ここに生きて絵を描いているんだから最先端に

決まっているではないか!

 

22年8月13日(土)

ミレニアムアート2

1000年単位の未来。今の人類の文明がすべて消え去った後に発掘される美術

品。果たしてその運命は?

ピカソ(1881〜1973)の晩年の絵を美術品として大切に扱ってくれるだろう

か?

アンディ・ウォーホルは? バンクシーは? そのほか多くの抽象表現はど

うなるのだろうか?

私の予想ではとても厳しいことになるような予感。この世のなかでは億単位

の価値で扱われているけど、見向きもされないのでは? 現美術界は頭がイ

カレテイルと思う。もちろん、私の勘違いかもしれない。

よくわからない。

私は最近マティス(1869〜1954)の《コリウール》が凄くいいように思って

いる。私の父はマティスを認めていなかった。私自身もずっと冷たい感じが

して、イマイチだと思っていた。しかし、最近《コリウール》(1905年 油

彩 カルトン(厚紙) 24.5×32.5p 東京 アーティゾン美術館)がムチャ

クチャいいように思うようになった。マティスが36歳のころの小さな絵。こ

の絵は数万年後の未来人は評価してくれるのだろうか?

私も自分の絵が未来人に捨てられないように頑張りたい。遠い将来の未来人

に情実は利かない。

《コリウール》の図版は2022年8月12日付けブログにアップしておく。

『絵の話』「マティスからの警告」もご参照ください。

 

22年8月5日(土)

ミレニアムアート

核戦争や地殻変動、火山の大爆発、巨大隕石の衝突などがあり、現在の人類

が滅びて1000年とか3000年、いやいや1万年ぐらい経ったあとで、映画『猿の

惑星』じゃないけど、今の文明がすべて地の底に埋もれ、ほんの少し残った

人類が何万年も後に、まったく別な文明を築いたとして、その新人類が発掘

調査をしたとき、地中から出てきた絵や彫刻を見たとしたら、新人類はどの

ような扱いをするのだろうか?

たとえば、《サモトラケのニケ》だったら大きさと言いリアリズムと言い誰

からも文句が出ないだろう。間違いなく新人類の美術館に収蔵されるにちが

いない。この前ブログで取り上げた《阿修羅》も多分大丈夫。どんな人類だっ

てあれを見れば美術館収蔵を納得できる。

ま、《サモトラケのニケ》とか《阿修羅》あたりは誰がどう見たって美術館

行きだ。故宮博物館にある水墨画も万人の認める美術品になるだろう。ルネ

サンスの絵や彫刻も大丈夫。地中のなかからボッティチェリ(1445〜1510)

の《ヴィーナスの誕生》が出てきたらほとんどの人は驚嘆するにちがいない。

ま、ルーベンス(1577〜1640)でもレンブラント(1606〜1669)でも何の文

句もなく美術館収蔵になると思う。

ヴァルールがちがうんだよね。一目見てどっしり分厚い感じ。ボッシュでも

ブリューゲル(1525/30〜1569)でもそこら辺は同様。

『猿の惑星』みたく自由の女神だったらどうだろう? 印象派以降の絵画だっ

たら? ここら辺りになってくると確証がなくなる。私個人の見解ではまず

は大丈夫だと思うけど、反対意見の人がちらほら出てきても不思議はない。

じゃあ、もっと時代が下るピカソ(1881〜1973)とかは? それ以降はどう

だろう?

私としてはここら辺からの話をしたかったが、前置きが長すぎたので、続き

は次回に回す。

 

22年7月30日(土)

悲願てわけじゃない

私の絵を買ってくれる人でも長谷川利行(1891〜1940)は理解できないとい

う人がいる。

絵画の理解って本当に人さまざまだ。

向う(=買う人)に合わせていては自分の絵がガタガタになってしまう。

私も利行のように描きたいとは思わない。無理だし。私はあんなに飲んだく

れでムチャクチャではない。私は酒を飲まないんだから根本的にちがうかも。

でも、利行の絵は綺麗だと思う。油絵の一つの極致に達している。絵具の使

い方のお手本だ。まったく濁っていないもんね。まさしく輝いている。

いやいや水彩画だって立派。絵のこと、絵具のことを本当によく知っている。

喜びを持って描いている。絵を描くことが楽しくて仕方ないんだ。本当にあ

あいう人には敵わない。ま、ああいう人って滅多にいないけどね。まったく

いないかも。

将棋で言えば藤井聡太五冠だよね。勝ち負けより将棋の手を考えることが楽

しいんだからやってられない。タイトルとかが目的ではない。

師匠筋は「東海にタイトルを」が悲願だった。それをあっさりクリアした。

6年間で5冠9期のタイトルを東海にもたらした。ま、東京や大阪からぶんどっ

たってこと。藤井さんは奪るとか考えていない。将棋の盤面にのめり込んで

いただけ。それで自動的にタイトルだらけになった。ああいう人は滅多にい

ない。タイトルが目的じゃないんだから手の打ちようがない。

いつも言うけど、ぜひ見習いたい。

ま、ガツガツせずにまずは楽しむ気持ちを持つことだと思う。

 

22年7月23日(土)

心意気を学ぶ

私の考えだと、絵は描いてさえいればいい。売れなくてもいい。描き続けて

いればいい。ただそれだけ。世間の評価なんてどうでもいい。

でも、売れないと生きていられない。

マンション勤務も定年で終わってしまい、収入の道がない。それなのに今の

私は『暗殺者』(中野孝次・岩波書店)を読み終わった喜びでいっぱい。も

しかすると私はかなり高級な読書人かもしれない。あれを読み切る人は滅多

にいないかも。とは言ってもかなりのバカ。飯が食えないのに読書もハチの

頭もない。

高級読書人なんて単なる自己満足。生きられなければ話にならない。

本物の絵描きも高級な読書人もハチの頭もない。さらに72歳としてはけっこ

うハードな水泳もやっている。もうそのまま溺れちまったほうがいいかも。

クラシック絵画の理解もかなり深いと思う。

滅多にいない実践の文化人? 自分で勝手に思っているだけだけどね。

ま、子育ての期間も終わっている。孫の子守りをやらせていただいているだ

け。いつ死んでも誰も困らない。

それにしても絵っていいよね。勝手に描いていればいいんだから楽だ。楽し

い。

競争も何もない。

そう言えば、将棋の藤井聡太五冠がまた勝ち続けている。4月の年度初めは少

し不調だったが、今は完全復調って感じだ。あの藤井さんも競争をしている

感じはない。勝ち負けより将棋を考えることに集中している。考えることが

楽しいのだと思う。まったくああいう棋士は手に負えない。タイトル目前で

もドキドキしないし、負けそうでもハラハラしない。タイトルなんかに目も

くれない。トップ棋士たちと高度な将棋がさせることに喜びを感じている。

盤上没我? 凄いね。

まわりは19歳最後の対局とか20歳になって初めての対局などと言って騒いで

いるけど、ご本人はまったく気にしていない。目の前の一局にのめり込んで

いる。

もちろんレベルも分野も違うけど、絵を描く人もあああるべきだ。作品の出

来具合より描ける喜びを味わうべきである。

世間の評価という点では藤井五冠を引き合いに出して絵画の心意気を語るの

はトンチンカンだけど、心意気だけでも同じでありたい。学びたい。

 

22年7月16日(土)

最期の数年

世間一般では、絵が巧いことはとても大切だと思っている。巧さがすべて

と考えているかもしれない。

日本画壇で理想の画家生活を送ったのは小磯良平(1903〜1988)ではない

か? 芸大時代に日展特選。画商からも注目のルーキーだった。画家のゴー

ルデンコースを歩んだと言える。晩年も迎賓館の壁画を描いた。しかし、

小磯も途中で戦争があり、従軍画家を強いられたりして苦悩した。

俳優だってイケメンとか美女がまず目に付く。世間の人は顔が第一だと考

えている。いやいや顔とスタイルは私だって虜(とりこ)になる。小雪と

綾瀬はるかだっけ? ドラマにドレスアップして出て来たときは目を奪わ

れたもんね。顔とかスタイルってだいたいが生まれつきの才能。どんな分

野でも生まれつきの才能が大事。これを否定することはできない。

学校の勉強は比較的平等なような気もする。勉強すれば誰でもある程度の

成果がある、と思う。ま、そういう視点からも長く学習塾をやっていたの

かも。

しかし、鉦や太鼓でいろいろな分野に迎え入れられても、しぼんでしまう

人も少なくない。筋金入りの実力を身に付けるのは、やっぱり努力、なの

か?

芸能界だって、見た目はイマイチでも演技力抜群のバイプレイヤーがいな

ければ成り立たないのでは。

絵の場合は? 生まれ持っての才能は初めのスタートダッシュにはとても

有効だと思う。でも、それだけのこと。長い人生で考えれば初めの10年と

か20年なんてどうでもいい。私の知る美術史では、西洋でも東洋でも、絵

や彫刻に関する限り、最期死ぬ間際、どうだったかにかかっている。若い

ころの実績なんてどうだっていい。スタート時点の才能なんてまるで無関

係。

才能というならどれだけ絵が描きたいか、という絵への想いだ。絵の出来

はどうでもいい。

ゴッホ(1853〜1890)は特上の好例。早く死んじゃったのが悔やまれる。

モネの最晩年の睡蓮やバラや藤の花を見ていると、描きたくて描きたくて

うずうずしている。喜んで描いている。筆が躍動している。素晴らしい。

とりあえずは、このホームページの『最高傑作美術館』の「モネ」でお楽

しみください。

 

22年7月9日(土)

緩慢な堕落

家内の狭心症手術はおおむね成功したが、完全回復には年内いっぱいかか

るらしい。治れば20年は大丈夫とのこと。70歳から20年かぁ〜。

私は独身生活で1キロ痩せた。ま、外プールに行っているので、プール回数

が増えていることも減量の原因。

なんにしても、いろいろなストレスが重なっている。かなり危機的状況。こ

ういうときにこそ絵を描かなければいけない。それが状況の絵画なのに、まっ

たく絵どころではないんだよね。いやいやそれでも描かなきゃダメだ。

この年齢、この季節、この場、この世界情勢、すなわちこの状況。これこそ、

とにかく今の私を取り巻く現状なのだ。そのなかで描く。それが絵描きだと

思う。それこそが本物の絵描きなのだ。

さっき『暗殺者・下』(中野孝次・岩波書店)を読んでいたら、「日常とい

うもの、そして日常を通じての緩慢な堕落、それがもっとも恐ろしいのだ」

という一文に出会った。『暗殺者』のなかでは、不都合な歴史的事実を見て

見ぬ振りする怠慢、または為政者に騙され続ける愚かさなどを語っている。

戦後の反省では済まされない朝鮮人への酷い仕打ちを繰り返し述べている。

だから私のグータラ暮らしを自責する状況に押しつぶされずに状況のなかで

絵を描くという話とはかなりちがう。違うけど、ほんの少し共通項もあるよ

うに思った。

状況はいつもある。どんな人にもそれぞれの状況がある。その状況下で描く

のだから、描けばどんな絵だって「状況の絵画」だ。

私の状況はもうすぐマンション勤務が定年になってしまい、暮らしが成り立

たない。この不安が一番。孫娘が生まれ、嬉しいけど、心臓疾患があり、と

ても心配だった。でも手術がうまく行って術後の回復も順調で嬉しい。安心。

これも私のなかでは大事件。次は家内が狭心症。こっちも大手術をやって現

在まだ入院中。ここで描けるか?

ゴッホ(1853〜1890)もいつも金の心配をしていた。ものすごく不安定な状

況にあった。そういうなかで生まれたのがゴッホの絵だ。

ブグロー(1825〜1905)は人気画家で、とても巧い。絵画への情熱も小さく

ない。その精進努力も立派。だけど絵に魅力はない。フランス画壇に君臨し

た安定の大家の絵じゃつまらない。大して見たくもない。あれば見るけどね。

 

22年7月2日(土)

緊張感

『国立西洋美術館 名画の見かた』(渡辺晋輔/陣岡めぐみ・集英社)のな

かに、ジョルジュ・ブラック(1882〜1963)の《静物》(西洋美術館蔵)を

評して「立体感のほのめかしと平面性という、ふたつの相反する志向の緊張

感がこの絵の魅力になっている」(p151)とあった。6月30日付けブログで

述べたとおり。

ブログは話が曲がってしまったので、こっちでは本筋へ。

つまり、「緊張感」という話。これが絵画の真髄でしょ。いかに緊張した画

面を生み出すか。これは意図してできるもんじゃない。

You Tube《美術の沼びと》でも何度も述べているが、ヨーロッパのマスター

ピースだって、着彩されたタブローより下絵のほうがずっと魅力的。下絵や

デッサンはその巨匠が自らの手で構想を練った「ホンモノ」だからだ。意欲

も緊張感もあり、楽しみもいっぱい詰まっている。

その下絵やデッサンをいっぺんにタブローにしちまえ、というのがわがイッ

キ描きだ。でもそれはドーミエ(1807〜1879)もやっているし、モネ(1840〜

1926)もロートレック(1864〜1901)もやっている。中国宋元の水墨画はど

れもみんな一気に仕上げたタブローだ。

そこにはピンと張りつめた緊張感が漲っている。「張」の字の使い過ぎ?

絵画の魅力はそこにあるよね。何が描いてあるなんてどうでもいい話。誰が

描いたかだってどうでもいい。現代でも近代でも中世でも時代も関係ない。

いい絵であればそれでいい。

私はそれは画家の状況が大きく影響すると考えている。緊張感のなかで描き

たい。短時間に現場で描くというのは切羽詰った状況を創り出してくれると

思っている。

 

22年6月25日(土)

恐ろしい梅雨明け

6月末なのに梅雨明けの気配。まったく夏の辛さは耐えられない。かったる

くてプールにも行きたくない。頑張って行ったけどね。泳ぎ始めれば気持ち

いい。当たり前か。もともと水泳は夏だけの楽しみだった。

絵のほうはさっぱり。制作意欲ゼロ。暑くて息をするのもめんどくさい。む

かし作ってもらったリコーのデジタルアートから選んで作品アップしている。

グータラがますますグータラになって熱気で煮詰まっちゃう。小6の孫がエア

コンをかけているからその部屋の隅でゲームを始めたが、ヒカキン(ユー

チューバ―?)の声がうるさいうえに、なぜかエアコンてイヤだ。水を浴び

て大の字に伸びていたほうが気持ちいい。ときどき風が来ると、遠い昔の、

子供のころの夏の肌の感触がよみがえる。「ああ、生きているなぁ〜」って

感じ。

ま、エアコンを嫌う年寄りが熱中症に罹る話もよく聴く。気を付けなければ

いけない。子供のころの夏の感触のなかであの世に逝くならそれもまた悪く

ないかも。

マンション勤務は梅雨が明ける前に卒業する魂胆だったが、今年の梅雨は早

く開けるらしい。酷暑のマンション見回りがきっとある。ああ、イヤだ。恐

ろしい。ついてない。汗だくクタクタヘロヘロだよ。

先週ぐらいに「下手でも何でも描く」と開眼したのに、描かないんじゃあ話

にならない。キャンバスも裁断してあるけど、木枠に張って地塗りをしなけ

れば意味ない。しかし、今日みたいな暑さではとても無理。グータラでいい

と思う。だいたい、レンブラントもルーベンスもプッサンも私の歳には死ん

でいる。私の今の暮らしなんてオマケみたいなもの。でも、鉄斎とかティツィ

アーノなんかはこれからなんだよね。80歳過ぎからなんだからほんと考えた

だけで息切れする。ド凄い爺さん画家だ。私も出来るだけ頑張ります。

 

22年6月18日(土)

方向は線描

線描は、描きに描き、描き続けていないと出来上がらない。その描き続ける

期間はとても長い。40年、50年というレベル。いやいや60年、70年かも。15

歳から始めて85歳で花開く、みたいな? 花が咲いたと同時にあの世逝き。

竹みたいだ。竹は120年かかるという。花が咲いたら枯れちゃうらしい。人間

の絵描きは竹より短い。半分ぐらいか。竹は凄いね。

昔の中国では、早くから線描の魅力を知っていた。筆墨の文化があったから

だ。それが禅の教えと結びついて人類美術史上最高レベルの水墨芸術を生ん

だ。禅の教えが凄いんだよね。

西洋哲学みたいな思弁じゃない。毎日の何気ない暮らしの行為を最も大事に

考える。地味なんだけど、行動がある。行いがある。行いこそが大切だと説

く。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)だっけ? 茶道じゃないけど、一挙手一

投足に神経を行き渡らせなければいけない。

これって絵を描く姿勢に強く影響すると思う。一筆一筆に心を込める、みた

いな。それは時間をかけるということではない。

今の私のレベルでは、花が咲いた喜び表現程度だけど、それも未熟なりに、

トンチンカンな方向ではないと思っている。とりあえずは喜びでいいように

も思う。

 

22年6月11日(土)

とにかく描く

個展もないし絵画教室もない。クロッキー会もない。ぶらぶら水彩を描き歩

いている。私の水彩はまさに「才能ナシ」絵。情けない。巧く描けないんだ

よね。致し方ない。巧い絵が魅力的だというわけでもない。下手で魅力がな

ければ最悪だけどね。

評価なんて、どうでもいいような気にもなっている。

今さら上達もノビシロもないだろう。こういう絵なんだよね。本当にゴメン。

でも、描かないと私が主張する「描き続ける絵」はできない。せっかくここ

までなんとか描画持続命脈を保ってきたのに、ここで断つわけにもいかない。

水彩でも下手でも何でも描き続けないと、「描き続けてきた絵」は保たれな

い。腕を動かしていないと終わっちゃう。

ものすごく感動しているわけでもないけど、散歩道のタチアオイを描くしか

ないかも。まだこれからどんどん咲きそうな感じ。淡いピンクのつまらない

花だけど、ぐんぐん上に延びている生命力は素晴らしい。初夏の風に揺れる

姿はなんとも風情がある(今日のタイトル画)。

ま、そんな感じで誤魔化しながら描く。きっと近日中に大量の地塗りキャン

バスも用意すると思う。本当にコロナが終わったら何がなんでもクロッキー

会を始めなくてはならない。

政府が給付金をくれれば嬉しいけど、望み薄。不正受給のヘンな犯罪者(=

小細工が効き頭がいいのに大バカ)が出てしまったし、とても無理そう。

絵を買ってもらえる気配もない。とても厳しいけど、ま、今朝も焼き立てフ

ランスパンを食べた。散歩もした。

そう言えば家内の心臓手術や入院もあるのだった。大丈夫かぁ〜???

 

22年6月4日(土)

作画実況

それにしても絵って巧く描けない。情けない。私のブログにアップしている

絵と一日おきにアップしているクラシック絵画(最近はセザンヌの風景が多

い)と比べて、家内が「こんなふうに描けないのかねぇ〜」と批判する。描

けっこねぇだろが。セザンヌに限らず、アップするクラシック絵画は特上の

画家の生涯の傑作ばかり。こっちはペーペーグータラ爺のとにかく描いた絵。

比べるのも無理。

とはいうけど、やっぱり情けない。筆を持って描き始めても思うように描け

ない。まったくブグロー(1825〜1905)は巧いよねぇ〜。わがブログではブ

グローは批判の対象だけど、批判できるような立場じゃないよ。確かに描き

方で描いているからどんどん描ける。こっちはバラ園に行っても、「ああ、

いい空気だ。今年もいっぱい咲いた」などと感慨にふけってから、「どうやっ

て描こうかなぁ〜」と思案する。描き始めても筆が勝手にデタラメに暴れる。

「もう勝手にしやがれ」となる。それでも時折、思わぬ効果が出たりするこ

ともある。「やっぱ絵って、おもしれぇ〜」と独り言を言ったり。ま、かな

り行き当たりばったり。それがわがイッキ描きだもんね。苦しいけど面白く

て楽しい。

筆も間違えるし、絵具も取り違える。弟子がいるわけじゃないから、ぜんぶ

一人作業。全責任は私にある。どうしようもないね。

そう言えば、水彩画では鉛筆下描き禁止という自分縛りをしていたが、セザ

ンヌが自由に鉛筆と水彩を使っていたので、この前から解禁とした。イッキ

描きは描きたいように描けばいい、のだった。

自由は素晴らしい。空を飛ぶ鳥みたい。気分最高、かも。

(今日のタイトル画《バラ広場》は参考図版か?)

 

 

 

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