唇 寒(しんかん)集59<20/3/7〜>

20年7月25日

とうとうバラ色の60歳代が終わってしまった。

私は何十年も絵画教室をやっていて、生徒さんはだいたいみなさん私より年上。人生の先輩ばかりだ。絵をお教えしているけど、暮らしや人生について教えてもらうことのほうが多い。

「先生、60歳代が一番いいよ」とおっしゃる方が数人おられる。主にご婦人。健康だし、元気だし、子育ても終わっている。暮らしの心配も小さい、とのこと。ま、リタイヤしていると

いうことだ。私の60歳代は心配ばかりだったけど、フランスに1か月滞在したり、カナダに1週間行ったり、金もないのにムチャクチャした(だいたいは長女からの援助)。マンション管

理人をずっとやっていたのでウォーキングばかりの60歳代になってしまった。それは心身ともにとてもよかった。管理人はまだ少し続く、予定(72歳定年)。

私の両親は74歳で死んでいるので、私の命もとりあえずは残り4年。でも、私は両親よりずっと品行方正なので74歳ということはないと思う。子供のころに嫌というほどタバコの副流煙を

浴びているから安心はできない。私の尊敬する画家はみんな85歳から輝く。葛飾北斎(1760〜1849)の波《神奈川沖浪裏》も満72歳のときの絵。北斎は絵より85歳から江戸〜小布施4往復

が素晴らしい。そのほか、富岡鉄斎(1837〜1924)、モネ(1840〜1926)、ティツィアーノ(1488/90〜1576)、ミケランジェロ(1475〜1564)、雪舟等楊(1420〜1506)などなど、素晴

らしいのは80歳を過ぎてからの作品だ。ピカソ(1881〜1973)もいた。70歳なんてまるで徒弟、新人、ルーキー、新米、ハンパもん、なのだ。ま、年齢なんて単なる数字だ、と誰か言っ

ていた。肝心なのは情熱? 魂? みたいな?

 

20年7月18日

涼しい日が続くので、とても楽だ。

コロナ禍で世間は尋常ではない。クロッキー会も絵画教室も当分開催は不可能。3か月に一度の中学同窓会は2年先まで無理だと思っている。カラオケは特にダメだ。しかし、水泳などは

まったく安全だと思う。外プールが開催されない理由がわからない。ま、毎年客は私一人だから開けというほうが無理。寒い雨の中で泳ぐバカ爺のために開催するわけがない。

コロナ感染のダメとOKの区別がムチャクチャなような気もする。潮干狩りや海水浴っていけないの? 密室がダメなんじゃないのか? 風雨の夜の道なんて人がポツンポツンと歩いてい

るだけなのに、みなさんマスクをしている。これも不思議。車に一人で乗っている人もマスクをしている。ま、車は密室だけど、一人運転でなぜマスクをするんだろう? 第一マスクは

しゃべる場合に役立つだけだ。唾が危険。コロナ菌はマスクなんて楽々通過する。そこのところの意味が分かっているのだろうか? 不思議だ。

世の中の人と私の意見はまったく合わない。マスク状況を見ていると私の絵が世間の人に理解されるわけがない、とつくづく思い至る。

管理会社では、管理人が老人ばかりなので、コロナより熱中症を心配している。巡回中のマスクは原則しなくてよい、手に持って歩け、との指示。言われる前から私はそうやっていた。

巡回中にはほとんど居住者と会わない。会ってもあいさつ程度。しゃべる場合はマスクをする。巡回中に居住者と会わないのも不思議だ。230所帯のマンションなのに、きっとみんな部屋

のなかにいるのだ。真冬なんてまったく会わない。雨の日も会わない。開放廊下は密じゃない。

 

20年7月11日

街から八朔が消えて2か月以上になる。そのかわりパイナップルが安い。この前は2000円のスイカが半額セールだったので即買った。やっぱり夏になると果物は豊富だ。梅ジュースも残り

少ないが、まだ少しある。とても幸福である。

キャンバスも買ってある。裁断して、木枠に張って、地塗りをしておけば鬼に金棒なのだ。50枚ぐらい準備しておきたい。現在の地塗り済みキャンバスは4枚ほど。しかし、晴天は当分望

めそうもない。キャンバス張りはだいぶ先になりそうだ。裁断キャンバスと木枠をしっかり用意しておく予定。

小説は少しお休みになる気配。7月末の超短編と8月末の短編は書くと思う。9月末にはでっかい公募がある。原稿用紙100枚程度の純文学系だ。純文学なんだよねぇ〜。なんか意欲湧く。

どうしてだろう? 私には純文学なって縁もゆかりもないのに、なぜか好き勝手に書ける気がしてしまう。真髄のそのまた奥をガンガン言いたい放題で書き捲っていいのか? 想いの丈

を文字にぶちまけて、公募に出してみる。かなり楽しいような気がする。考えみると公募って素晴らしいシステムだ。倍率2000とか、考えられないような難関なんだけど、とにかくチャ

ンスをくれているわけだからありがたくいただく。ああ、もっと早く頑張っていればよかった。ちょうど45歳のときに銀座のド真ん中で50万円かけて個展をやっちまったんだよね。あれ

で絵画路線を突っ走った。いやいや絵画路線は私の第一希望だ。だけど、王様は囲っておかないとまずいんだよ。絵画路線を自由に進めるためにもベースキャンプはしっかり確保してお

かなければならない。バカだった。いやいや70歳でも遅くはない。まだ書けるし描ける。いまのところギリギリ健康。葛飾北斎(1760〜1849)の富嶽三十六景は72歳の作なのだ。富岡鉄

斎(1837〜1924)の70歳の絵なんてまったく普通。ま、鉄斎の場合はその後の大躍進を孕んでいるけどね。85歳を過ぎてからはまさに神業だった。

 

20年7月4日

なにしろ小説を書くのが忙しくてテレビも見られない。録画がどんどん溜まって残り4%になってしまった。そのうち見ようと取ってある『網走番外地』は消すか。むかし一度見た映画だ。

ああいうの、なんか面白いんだよね。『万引き家族』もとってある。多分見ない。劇場で見た。安藤サクラのヌードは見事だったけどね。あのシーンだけ見るのも邪道か。

ここには書かないけど将棋の藤井聡太の対局棋譜もすべて見ている。名人戦なども見たいが有料なのだ。棋譜を見る、と言っても棋譜を読んでいるわけではない。ネットやスマホの画像

になっているのを見るだけだ。でも、私ぐらいの棋力でもかなり楽しい。むかしは専門誌の『将棋世界』を毎月読んでいたのだ。そのころはちゃんと棋譜を紙で読んでいた。あれは物凄

く眠くなる。抜群の睡眠導入効果だ。いやNHKのテレビ将棋を見ているときもいつのまにか寝ている。今のわが家のテレビは前にテーブルがあるから寝ながら見られない。だから寝ないで

腰掛けて見ている。そのNHKテレビ将棋もたっぷり溜まっている。コロナで中断していたのに、それでも溜まっている。日曜美術館も溜まっている。ああ、どんどん見て消さなければ……

ネットでHな映画を見ることもできる。『失楽園』を見始めて初めの10分でそのまま。『鍵』(池田敏春監督・川島なお美主演)も途中で止めている。忙しいんだよね。

 

20年6月27日

『1Q84』(村上春樹・新潮社)を読み終わってしまった。長い小説だった。半分は居眠りしながらの睡眠読書なので同じところを何回も読んでしまう。だからなおさら先に進まない。さ

すがの最後の70ページはイッキに読んだ。

自分の小説を書く際にどれだけ役立ったかわからない。「ああ、こうやって書くのか」と何度も参考にした。細かいことだが、会話文と地の文の使い分けなども凄く参考になる。また、

拳銃の説明の部分など、こんなに長く説明してもいいのかと思った。原稿稼ぎか? 私も画材の専門的なことを書いていいものかどうか、迷ったりするが、書いていいのだと教えてくれ

る。『文章教室』を読むよりずっと役に立つかも。凄く実践的だ。

また、真保裕一の小説にも偽札造りの工程が細かく書いてある。読みながら思わず「偽札作る気ねぇから」と言いたくなるほど。世間には『偽札の造り方』という本は絶対にない。犯罪

だからあるわけがない。しかし、真保裕一の小説がまさにそういうハウツー本になっている。ま、ミツマタを植えて育てるところから始まるチョー面倒な作業。誰もやる気を起こさない

と思う。なんという小説か忘れてしまった。『奪取』か『連鎖』か、とにかくとても有名な小説だった。

やっとテレビドラマ『半沢直樹』が始まるらしい。原作のほうは読んでしまった。でも忘れているから大丈夫。テレビ版が始まるのは嬉しい。またテレビドラマ『俺の話は長い』の続編

も是非作って欲しい。お願いします。

 

20年6月20日

どんな分野にも程度問題がある。たとえば私の筋トレは腕立て伏せ(平面ではない楽な方法)で50回だ。これでもうんざりするほど大変だ。『1Q84』の女主人公の青豆(あおまめ)はジ

ムのインストラクターでもあるわけだけど、自分を苛めるように筋トレをするとある。身体中のあらゆる筋肉を酷使する。まるでそれが喜びみたく書いてある。私にはそんな気持ちはま

ったくない。出来れば筋トレなんてやりたくないけど、やらないといろいろ不都合があるからやっている。不都合のほうが苦しいから頑張る。たとえば、プールで泳いでいるとき足の筋

肉が攣れたりするのは普段のストレッチが足りないからだ。だってじゅうぶんストレッチをしていれば攣れない、のだ。身をもって知っている、というわけ。

で、程度問題だけど、たとえば作家の椎名誠は私より5歳ぐらい年上だけど平面の腕立て伏せを200回とか300回やっているらしい。私の腹筋は25回だが、こっちも椎名誠は200回レベルで

やっていると聞いた。そういうことを言ったら、テレ朝の気象予報士の人は腹筋だか腕立て伏せだかどっちか忘れたけど、1000回やるとのこと(確か腹筋だったような気がする。両方か

も)。どういう筋肉と精神力を持っているのだろう。

そうやって程度問題を考えて行くと絵の話とか小説の話に行き着く。ま、人間には1日24時間しか与えられていないから、どんなに絵や小説で頑張ろうとしても1日10時間ぐらいが限界だ

と思う。そうやって頑張っている人もいるのだろうか? きっといると思う。世界は広いからきっといる。

でも、やっぱマイペースを知ることはとても有効だと思う。長く続ける、何十年も続けるとなると、そういう尺度で考えるとなると、寝不足は健康にもよくない。身体を壊したら元も子

もない。また、絵は冴えとかキレ味なども求められる。寝不足ではロクな絵が描けないと思う。

 

20年6月13日

道元理論をつい忘れてしまう。道元理論とは仏道修行は悟りを開くことを目的に頑張るわけじゃない。修行することそのことがもうすでに悟りなんだという、私にとっては究極の生きる

智慧。これを当てはめるといろいろな問題が解決してしまう。受験勉強は合格が目的ではない勉強そのものに価値がある。ちゃんと勉強したならそれはすでに合格だ。絵はいい絵を描く

ために描くわけじゃない。入選とか受賞とか買ってもらうなどの目的でもない。絵は描いているそのことに意味がある。わかり易く言えば「描いているときはみなゴッホ」なのだ。

ということは、小説も公募を通過するために書いているわけではない。小説を書くことそのことに意味がある。こんなようなことは瀬戸内寂聴も言っていたような気がする。若い人にや

たら「小説を書きなさい」と推奨していた。もっとも私は瀬戸内寂聴の小説を1つも読んでいない。ゴメン。

歩くのも健康のためじゃない。歩くことそのことに意味がある。

この道元(1200〜1253)の教えは共産主義も資本主義も乗り越えている。凄い教えだ。もちろん自然破壊や開発をし続けないと人類は滅亡するみたいな狂気の思想(=この思想を確信し

ている頭脳明晰な指導者は少なくない)なんてすっ飛ぶ。だって、自然のなかでゆっくり呼吸をし歩き回れという教えなんだから、自然破壊がいいわけがない。でも、山のなかの道路と

かが新しくなっていると車で走りやすくてとっても快適だよね。ああ、なんという矛盾。

ま、政治的なむずかしいことは考えないで、小説を書くために小説を書こう!

ちなみに道元理論を「修証一如」という。いい言葉だねぇ〜〜。アインシュタインの相対性理論ぐらいに素晴らしいと思うんだけどなぁ〜〜。少なくとも若い受験生は焦らず勉強できる

と思う。もちろん、むかし塾でも力説していた。

 

20年6月6日

子供のころのことをすっかり忘れている人は案外多い、らしい。私はけっこうよく覚えているほうだ、と勝手に思い込んでいる。中学生相手の塾をやっているときも私は自分が中学生だっ

た頃のことをよく覚えているからとても有利な職業だと自負していた。とは言っても、ほとんど一人仕事。家内にも英語の授業をやってもらったし、別な奥さん(この方はいま大学の講

師?)に国語を見てもらったりしていた。慶応や早稲田の大学生(慶応生はいま弁護士)にも講師をお願いした。が、基本一人だった。

で、私は小学生のころ、自分がオシャベリでひょうきんなことがとても嫌で、夏休みの終わりごろには二学期からは無口になろう、などと決心したりしていた。もちろん3日も持たない。

いまでもオシャベリでひょうきんで、歳をとったから気短にもなっている。危険だ。中学生のころは落語家を目指していたが、まさに頑固な年寄りの落語家みたくなっているかも。もち

ろん落語はできないけどね。年寄りの落語家は高座に上がると笑ったりもするが、噺が終わると別人のように無愛想になる。舞台の上でも座布団から立ち上がったとたんに頑固ジジイの

様相。舞台の袖に隠れる前に顔を客席に向けてニッと笑った落語家もいたなぁ〜。柳家金五郎だっけ? 黙って座っていれば大会社の重役の面持ちだったよね。それが破顔一笑。面白い

顔になる。幼い子供が見たら怖がるか? やっぱりゲラゲラ笑うだろう。

世の中にはイヤな奴も多いけど、魅力的な人もけっこういる。

 

20年5月30日

NHKの日曜美術館などを見ていても「要らねぇ〜〜」と思う画家がいっぱい出てくる。偉そうに威張っている田舎の画商も知っている。「絵がわかってます」って顔をして私に説教する画

商もいた。いま思い出しても頭に来る。こっちは20歳代から描きに描いているんだ。クラシック絵画への造詣だってハンパない。そう言えば、京都にもムカつく。京都って威張っている

んだよね。街全体が威張っている。受け入れてくれないもんね。いやいや、京都は魅力いっぱいである。それもよく知ったうえでなんかムカつく。ま、こっちから願い下げ。京都なら奈

良だよ。京都は素通り。奈良へ真一直線に向かう。親父が言っていた。「京都は女と行くところ。奈良はひとりで行くところ」だって。女性に持てる人は言うことがちがうね。

とにかく世の中面白くないことが多すぎる。

でもね、そういう「要らねぇ〜」って思うものすべてが必要なんだよね。もう物故の画家だけど、あの気持ち悪い裸婦。ちゃんと受け入れられている。美術年鑑の物故作家に名前が出て

いる。私の父親の裸婦のほうが百倍いいと思うけどわが父は物故作家に入っていない。今の太陽系は混沌たる宇宙から整備されているらしいけど、日本の美術界は混沌の真っ最中だ。

私が少しでも正常に整備するべく頑張る、予定。とは言っても、もう古希だからな。私が頑張るのはやっぱりただひたすら描くことなのかもしれない。

ムチャクチャな美術界とは言っても《煙寺晩鐘》は国宝なんだからまともっちゃあまともなんだよね。そういうことを考えるとホッとする。ティツィアーノも偉大なルネサンス画家とし

て盤石の評価を受けている。ダイジョブ、ダイジョブ。

 

20年5月23日

こういうコロナ禍みたいなことになると一番先に被害が来るのは絵画業界だ。もともと売れてないけど、私の絵なんて見向きもされなくなる。キャンバスもまったく売れない。で、小説

に挑むことになっている、のか? 絵画教室がなくて困るけど、クロッキー会はほぼ赤字だからやらないほうがいい。絵画教室とクロッキー会でトントンか。でも絵の腕は下がるいっぽ

う。5万枚描いても、描き続けていないと腕は下がる。とてもヤバい。せっかく長年かけて培ってきたのにコロナごときに負けてたまるかという気になる。私の5万枚は嘘偽りではなく、

自称人間国宝なのだ。これを萎えさせるのはあまりにもったいない。いやいや大丈夫。最低限のレベルで維持している、つもり。でも裸婦クロッキーが描きたいよね。あれって贅沢な時

間だよね。いくら考えてもあんな素晴らしい3時間はないよ。いやもちろん苦しみもあるし、終わるとふらふらだけど、やっぱ描きたい。水泳だって泳ぎ終るとふらふらだけど泳ぎたいも

の。

ま、世の中には言いたいことが山ほどある。評論家や美術史家にはもちろん、絵画業界や画壇にも文句がいっぱい。そういうのを巧い具合に小説仕立てにして書く、のだ。文句があるか

らエネルギーも湧く。でも、誰々が悪い、というわけでもないんだよね。みんなギリギリ精一杯生きている。頑張っている。ちょっと調子に乗っている人もいるけど人殺しや泥棒に比べ

るならまったく罪がない。

そう言えば、理想の美術界というのも面白いかも。SF仕立てで未来の夢のように理想的な美術業界を小説に書くのも悪くない。『朝起きると、そういう別世界になっていた』か。一本書

けるか。どっちみち、ここ1〜2年間は小説を書き捲って応募しまくるんだからどんな小説でも思いついたらガンガン書く、のだ。

 

20年5月16日

私には主張がある。言いたいことがある。だから小説を書く意欲がある。もうすでに膨大な分量の発言をホームページやブログでやってきた。2年以上『翼の王国』でも発言させてもらっ

た。言いたいことはいつも同じだ。いま書いている小説は今までの主張を小説仕立てにしただけ。少しでも多くの人に知ってもらいたいからやっている。とは言っても知ってもらわなく

ても大したことはない。私は絵さえ描いていればいい。私の表現行為の最高最大の場はキャンバスだ。でも、もうちょっと知ってもらわないと金が続かない。とてもヤバい。それで小説

に挑戦している。

ま、だいたい私は小説を読まなかった。いやいや若いころにはたくさん読んだ。でも、一時期は本気で悟りを開こうと企んでいたから仏教や哲学や心理学や脳科学の本ばかり読んでいた。

ま、美術関係の本はコンスタントに読んでいたかも。興味あるもんね。で、ここ数年、また小説を読み始めた。友人に奥田英二を紹介されたのがキッカケかもしれない。奥田英二はほぼ

全部読んだ。百田直樹もほぼ全部。佐伯泰英の『居眠り磐音』51巻も1年かけて読み終わった。その間、娘の部屋にあった『大地』や『赤毛のアン』なども読んだ。でも、家内のように芥

川賞とか直木賞、本屋大賞などはあまり読まない。でも、そこらに文芸春秋が転がっていればやっぱり読むなぁ〜。家内の読書や映画はなんか高尚かも。私のはデタラメ。そう言えばわ

が読書歴に輝くのは村山由佳だ。物凄いベッドシーンだった。この歳で『アダルト・エデュケーション』を受講しても……。この歳だからよかったのかもしれないけどね。いま読んでい

る『1Q84』(村上春樹)にも濡れ場らしきものはあるけど村山先生に比べたら問題にならない。

というわけで、今は小説に嵌っている。とてもいい暮らしだと思う。もちろん経済的には大いに問題がある。これは昔からずっとだけどね。

 

20年5月9日

NHK朝の連ドラ『エール』では、音楽の道に生きることがいかに難しいかをたびたび語る。この物語は古関裕司の話なので、古関が音楽界での成功者と知っている視聴者には歯がゆいばか

りだが、家族たちが音楽の道の厳しさを語る気持ちは痛いほどわかる。

人生には想定すべきレールがある。それにはまずは安定した収入が望ましい。「安定した収入」というのは空恐ろしいほど高額だ。それが継続的に続かねばならない。たとえば年収600万

円となると毎月50万円の収入ということになる。毎月50万円! なんという無体な希望! しかし、現実社会で年収600万円の所帯は少なくない。子供を育てるとなればそれでも少ないぐ

らいだ。一般的に子供を育てるのは普通のことだ。多くの人がやっている。私も一応やった。

音楽で生きるのは至難の業だ。映画『蜂蜜と遠来』(原作:奥田陸、監督:、主演:松岡茉優)もそういうテーマが流れていた。映画『羊と鋼の森』(原作:宮下奈都、監督:橋本光二

郎、主演:山ア健人)にも同じテーマが横たわっている。

音楽で生きるとは絵で生きるも同じ。小説も同じか?

で、私自身は今現在なんのステータスもないけどとにかく絵を描き続けた。69歳で何の身分も実績もないのは人生の敗残者だけど、私は5万枚以上の絵を描いてきた。その継続が今はとて

も危ういが、たぶん大丈夫。今までもずっと危うときはあったが世間を誤魔化して描いてきた。私にとっての財産は5万枚描いたという事実だけ。今現在も10万枚に向かって進んでいる。

で、その絵の評価だけど、それは私の知ったこっちゃない。今までも基本的にはそういうスタンスだった。今も同じ。しかしもちろん評価は下る。それは致し方のないこと。絵画の愛好

をファッションとしているような人々もいるわけで、そういう方々に受け入れられるようには描いていない。私は一切媚びない。その点妥協なしだ。描きたいものを描きたいように描く。

このスタンスには大変申し訳ないという後ろめたさがある。われわれは社会的な動物だから世の中に迎合しなくてはいけないかもしれない。ま、しかし、私はでっかい全世界の美術史と

いう枠のなかから見れば、そっちにはとてもよく迎合している、つもりだ。現代社会とは相いれない面が多い。申し訳ないかも。

で、初めの話題に戻ると、絵や音楽で生きていくのは難しい。でも結果的に生きてしまった私から言えば、ま、何の権威もない私の意見では参考にならないが、私の意見は「描いたもの

の勝ち」ということ。これはずっと若いころからの主張だ。ムチャクチャだ。

 

20年5月2日

レンタルビデオで『勝手にふるえてろ』(原作:綿谷りさ、監督:大九<おおく>昭子、主演:松岡茉優)を借りて見た。私はこの原作を読んでいない。でも映画で見ただけで原作者の

才能がわかる。イヤだね。「才能」という言葉。わが一貫した人生論に才能なんて関係ないのだ。才能云々を言い出したら何もできなくなる。私の場合、とっくの昔に絵を辞めている。

絵の場合、才能っていうんだったらまず1万枚描いてから言え、が持論だった。

でも、ここのところ公募小説に挑戦していて毎日うんうん苦しんでいて、題名さえも出てこない。ま、一応原稿用紙100枚程度のものが仕上がって発送できたんだけど、綿谷りさみたいな

若い人が応募してたら私の小説なんてリンチロリンのカックンだ。どうか、

今回の競合相手が無才能バカ爺どもが暇に任せて書いた小説、ネット上の最悪自慢話みたいなのにばかりでありますように。

でも、私は競争とか才能などを否定している。この度応募した小説のテーマもそれなんだ。で、もちろん文化勲章はくれるならもらうけどどうでもいい。で、今度の小説のなかにもちょっ

と文化勲章を書いたら、家内から「あんた本当に文化勲章が好きだね。本当に欲しいんでしょ」と言われた。私は文化勲章のオマケの年間300万円だっけ? それは欲しい。でも文化勲章

自体はどうでもいい。だっていつも言うようにドガやモネが審査しているわけではないんだから。ま、原則要らない。

「綿谷りさ様、あなたは才能もあり、昨夜見た映画は溌剌としておりました。とても敵いません。負けました」

でも、勝ち負けじゃないもんね。絵だって小説だってかいたもんの勝ち。才能なんて関係ない。うんうん苦しんで創作しているそのときが至福なんだよね。最悪クソ爺のヘボ小説を読ま

される審査員の方々(前段階では編集者の方々)に申し訳ないと思っています。本当にゴメン。

 

20年4月25日

桜は散り際が素晴らしいとよく言われる。桜って散っても寂しくないんだよね。すぐ後にいろいろな花がドッと咲く。それで桜の散り際にも未練が残らない、のだと思う。今はまさに百

花繚乱。これが当分続く。ハナミズキ、牡丹、芍薬、あやめ、藤と来て5月末にはバラが咲く。町田のバラ広場の先には50m室内プールがある。朝一でバラを描いてそのままプールになだ

れ込む、みたいな。家に帰ってバタンキュー。最高に気持ちいいよね。去年まではそういう贅沢をやっていた。泳いだ後はバタンキューの前にスシローだったりして。もう気持ちよすぎ

て死ぬね。最高の充実? 身も心も満たされちゃう。今年それができるかどうか? 見込みは小さい。

ま、バラ園は開くと思う(牡丹園は開いていない=塀の隙間から見た)。だから、バラ園スシローコースだけはOKだろう。プールは無理そう。

キャンバスが少ないけど、なんとかなるでしょう。やっぱバラは描かないと……。なんか今年は桜を描きすぎたかもしれない。絵画教室と裸婦のクロッキー会がないから、自分で桜を描

きに行くのは必然だったか。

ま、今は公募小説に専念している。今月いっぱいが締切。果たして間に合うだろうか。

今週は小説を書いている関係で文字が食傷気味。短めですがご容赦ください。

 

20年4月18日

高校のころ数学はまわりがうるさくても集中出来たが英語はまったくダメ。ちょっとでもうるさいと訳語などが出てこない。どうも文系脳は静寂でないと無理みたいだ。

だから小説は一人静かな環境でないと書けない。

絵はどうか?

絵はどっちかというと理系かもしれない。私はバラ園などの現場で描いているのだから、来園者に話しかけられて不平を言う筋合いじゃない。もちろん話しかけるなオーラを出している

けど無頓着な人はいる。また、絵画教室では生徒さんに呼ばれたら自分の絵は即刻中断だ。当たり前。講師が生徒さんと一緒に絵を描く教室は滅多にない。せっかく目の前にモチーフが

あるのに描かないのももったいないので、いつも講師である私も描いちゃう。描かせていただいていると思っている。申し訳なく思っています。

裸婦のクロッキー会はとても静かだが、静物や風景は現場だからいろいろな障害がある。でも気にならない。裸婦だって少しうるさくても多分大丈夫。絵は数学脳なのかもしれない。

私の場合、100号の裸婦は庭で描く。庭と言っても借家なのでとてもオープン。近所の方から見られることもある。裸婦だから多少イヤだけど、近所の方も慣れているかも。

ま、小説に限らず、こういう文章も一人静かに書く。絵だって集中しているが、なぜかまわりの雑音が気にならない。どういうメカニズムになっているのだろうか?

どうでもいいけど「一人静か」は贅沢。絵や数学は環境に強い。もしかすると絵や数学のほうがそのものに集中しているのかもしれない。集中のレベルが高度なのかもしれない。ちがう

ような気もする。

英語の訳や小説は言葉選びなんだよね。脳が選んでいるときは雑音は無理なだ、きっと。

 

20年4月11日

どんな作品にもいい悪いはある。

映画『男はつらいよ』シリーズ(山田洋次監督、渥美清主演)だって、『柴又慕情』(マドンナ吉永小百合)や『寅次郎忘れな草』(マドンナ浅丘ルリ子)は抜群に素晴らしい。私は日

本画家、洋画家、陶芸家が登場する、それぞれ『寅次郎夕焼け小焼け』(太地喜和子、宇野重吉)、『私の寅さん』(岸惠子)、『寅次郎あじさいの歌』(いしだあゆみ、片岡仁左衛門)

もイチオシだけどね。長渕剛が洋画家の卵を演じる『寅次郎幸福の青い鳥』(志穂美悦子)を見たときも山田洋次は絵のことをどうしてこんなによく知っているんだろう? と不思議に

思った。もちろんこの映画も楽しい(長渕と志穂美はのちに結婚)。

映画『007』シリーズをテレ東の『お昼のロードショー』でやっているのでずっと見ている、見狂っているが、『007』でもいい悪いがある。『ロシアより愛をこめて』とか『美しき獲物

たち』などは忘れられない名作。

どんな作品群にもいい悪いがある。どんなに優秀な人を集めてもそのなかに順位ができる、のと同じ原理。

もちろん絵だって同じ。ゴッホの絵なんてどれも素晴らしいけど、《花咲くアーモンド》や《雨のオーヴェール》(ウェールズ美術館蔵)は傑作中の傑作だ。私は贅沢にも画集での予習

なしに原作に出会った。「ああ、いい絵だなぁ〜〜」と作品の前に釘付けになった。

だから、絵描きはたくさんの絵を描かなければならない。いくらたくさん描いても次々に優劣が出来てしまうのだ。こればかりは致し方ない。

ま、描くほうとしては優劣もハチの頭もないけどね。描きたいものを描きたいように描くだけだ。絵の出来不出来は二義的なこと。描いているときが至福のときなのである。

 

20年4月4日

「こういうふうに生まれてきちゃった」と孫(小3男児)が言った。どこかで聞いたセリフだと思ったらわが父親がよく言っていた。隔々世遺伝か? 

自分が人並み以上に優れているという意味が含まれている。

自分が人以上に凄いと自覚している、のか? 

父ははっきり「俺は天才だ」と言っていたようにも記憶する。

で、私自身だけど、私は、もちろん自分が人並み以上に優れていると思ったことはない。子供のころから普通だった。何度も言うが図工や美術の評価はいつも平均点。体育も人並み。大

学受験は2度失敗した(=2浪)。別に医学部を目指していたわけではないのに2浪だ。でも早稲田大学の第二文学部から第一文学部へ転部したときは成績一番だった。よく勉強したもんね。

そのころはすでに22歳。普通の人より2年遅れている。そのころは勉強に対してまったく圧迫感はなかった。すごく気楽に単語を暗記して英文を訳していた。なんでもなかった。でも天才

じゃない。勉強したから成績が上がっただけ。普通だ。

絵だって私は物凄い分量を描いている。また、古典絵画を驚くほど見ている。だから、私の絵を安く買っていただく気はない。売れなくても高額。おそらく私の作画分量は世界的に見て

も引けを取らないし、ヨーロッパはもちろん、中国、日本の古典絵画を見ている分量も並じゃない。宋元の水墨画については仏教の知識が必要だと思うが、そっちもそこらの美術史家に

は負けない自信がある。でも、そういうのって勝手にやってきたことで天才でも何でもない。

おそらく滅多にいない人材だと思うけど、才能だとは思えない。あえて言うなら偶然だ。全然金はないけどとても恵まれた人生だった。そう言えば満員電車にもほとんど乗っていない。

ほんとうにゴメンナサイ。

 

20年3月28日

27日(木)に茨城の大甕(おおみか)に一泊旅行をした。27日に旅館に着いてから夕方の海と桜を6枚描いた。描いているとき、風景画って鉄道模型のジオラマに似てなくもないと思っ

てしまった。無論ジオラマを作るとなるとハンパない労力が要る。凝ったジオラマなら数か月とか数年かかることもある。それに対してわがイッキ描き風景画は長くても数十分、ほとん

ど数分で仕上がってしまう。数分ジオラマだ。そこがムチャクチャ楽しい。油絵って本当に面白いなぁ〜、と感じた。

また、私の作画時間てとても短い。これを労働時間とするなら、最長でも1か月18時間ぐらいだ。今月なんて絵画教室もクロッキー会もなかったから5時間ぐらいしか描いていない。短く

ても濃いのか? そこら辺は当てにならない。

帰りに水戸の茨城県立美術館に行った。中村彝(1887~1924)が目的だったが、八王子の富士美術館展をやっていてヨーロッパ絵画がたくさん見られた。中村彝も5点ほどあった。この前

は目白駅から歩いて落合のアトリエを訪ねたが、本物の油絵はなかった。やっぱり本物はいいね。

とても遠かったけど袋田の滝も見た。旅館の部屋はいい場所で、28日の朝は早起きして太陽が地平線から上ってくるところをじっくり堪能した。夜中には星空も楽しんだ。

寝不足だったから帰りの高速運転が心配だったが、サービスエリアでしっかり仮眠を取った。一泊二日の小旅行だったが、なんかとても長く感じた。

ちなみに、茨城県の新型コロナウィスルの感染者数は1人だったはず(27日現在)。

 

20年3月21日

自作小説『アルジャントゥイユの夜明け』を世に出したくて、「出版社に持ち込み」というサイトを調べてみた。そうすると、原則持込みは無理とわかる。どうするか? 公募懸賞小説

に応募するのが一番。お金がある人は自費出版社に持ち込み相談する。道はほぼこれしかない。

出版社というのはプロの集団であり、誰かが何かを世に問いたい表現したいという欲求の窓口ではない。ちゃんとお金が入るようになっているシステムである。たくさんの社員が飯を食っ

てゆくための企業なのだ。私の絵画的主張なんてどうでもいい。関係ない。だから、私みたいなカラー図版がいっぱいの新型小説なんて危険な商品を扱うわけがないのだ。「なんでそん

なもの?」ということになる。

では、われわれはどうするか?

書きたいものを書き、描きたいものを描く。そういう人生を続けるしかない。書くべきものを書いておくのだ。描くべき絵も描く。それだけのことだ。

小説だって絵だって世に五万とあるもの、そのほとんどはくだらない。つまらない。それらは商業ベースにちゃんと乗っているもののこと(=プロの作品)。商業ベースに乗っていいて

もいいものはほとんどない。映画だって本当にいい映画って何本あるだろう? あんなにお金をかけて作っているのにほとんどが素通りだ。テレビドラマだってハンパない費用のかけ方。

でも、ほとんどつまらないものね。つまらないけど多くの人が見るから商売になるんだよね。そういう世界が私の勝手な主張を広めてくれるわけもないし、私に対してそんな義理は一切

ない。

ま、やりたければコツコツお金を貯めて自費出版するしかない。とりあえず宝くじかな。本気で宝くじを買ってみるか。ビギナーズラックもある。お年玉付き年賀状でも100枚単位でもらっ

ても毎年1枚か2枚切手シートが当たるだけの不運な爺に宝くじが当たるわけもない。最近は年賀状のお年玉当選発表に興味が湧かないものね。ダメだよ。

近々、カラー図版なしで公募小説やキンドルに挑戦してみる予定。

 

20年3月14日

長谷川利行(1891~1940)は「生きることは絵を描くことに価するか?」(『長谷川利行画文集 どんとせえ!』求龍堂p21)と言ったと先週書いたが、三浦海岸の三崎口駅近くの三戸の

丘に行くと「絵を描くことはこの丘に立つことに価するか?」と思ってしまうほど気持ちいい。ああいう気持ちって物欲ではない。ま、絵は描くけどね。絵を描くからあの丘に3時間近く

いるわけだ。帰りがけに菜の花畑に気が付いた。その菜の花畑の向こうに富士山が見えた。老骨にムチ打って絵の道具を運び、《菜の花富士》を描いた。ほんと黄色って絵具はキャンバ

スにくっつかないんだよね。チョーむかつく。まったくゴッホ(1853~1890)の《ひまわり》なんて黄色絵具と格闘した跡そのもの。

スシローに行くことさえ自由ではない経済状態で豪華客船の旅は絶対に死ぬまで体験出来ないと思う。ま、今の時期誰も豪華客船にだけは乗りたくないだろうけどね。そういう欲求って

あるか? 金があって新型コロナウイルスがなくてもめんどくさいから乗らないと思う。豪華列車もあまり乗りたくない。『翼の王国』の取材で大阪から和歌山に列車で行ったことがあっ

た。大阪駅で赤福餅を買ってひとりで一箱全部食べた。楽しかったなぁ〜〜。ああいうひとり列車旅がしたい。豪華列車は上げ膳据え膳だろうけど願い下げ。

昨夜も8時間ぐらい寝たけど、寝るっていうのも贅沢。眠れない人も多いらしい。私はバカで無神経だからか毎晩ぐっすり眠っている。ありがたい話だ。睡眠こそ幸福の極致かも。

ところで、先週述べたようにじっくりとギリシア彫刻を見た。アテネのアクロポリス美術館の《牛をひくニケ》だ。本物は見たことない(死ぬまでにギリシアに見に行きたい=まず無理)。

私が見たのは『パルテノン』(中尾是正・グラフ社)という本。中尾も述べているが、左のニケに痺れるね。少し上がっている左膝の角度、ああ、たまんない! まさに絶妙。どうやっ

たらあの造形を創り出せるんだろうか? いやいや創り出さなくてもいい。あるんだから要らない。でも自分でも描いてみたいよね。

そう言えば、もし今年成瀬で個展をやる場合、100号の新作を出す、予定。会場までどうやって運ぶか悩んでいたけど、歩いて7分ぐらいの所なんだから、普通に担いでてくてく運べばい

いんだよね。100号はでかいけど大して重くはない。ビニールシートで覆えば裸婦だってOK。古代ギリシア彫刻レベルの絵が描けるか? ぜってぇ無理ぃ〜〜〜〜〜〜〜。一応挑戦します。

 

20年3月7日

先週「ブグローは世俗の人だ」と言ったが、世俗の人ではいけないのか? いけないわけがない。世間はほとんどみんな世俗の人。

じゃあ、アングル(1780〜1867)やプッサン(1594〜1665)はどういう人なのか?

絵の人だ。

そりゃあ、ブグロー(1825〜1905)だって物凄くたくさんの絵を描き続けていた。まさに絵に生き絵に死んでいった。それでも「絵の人」じゃなく「世俗の人」なのだ。

長谷川利行(1891〜1940)は絵の人だ。「生きることは絵を描くことに価するか?」(『長谷川利行画文集 どんとせえ!』求龍堂p21)と言った。けっこう真面目に問うている。

で、私の場合はもっと低レベルだが一応いつも自問している。「本当にギリシア彫刻はいいのか?」「本当に絵が描きたいのか?」「いったい牧谿のどこがいいんだ?」

昨日もギリシア彫刻を確認しようと作品集を開こうとしたが、面倒なので止めた。たぶん今日はじっくり見直す、と思う。見直すと、やっぱり無限に魅力的なんだよね。どこがどういい

んだろう?

私も何十年か前に新車を買ったことがある。三菱のシャリオだ。あのとき嬉しかったかなぁ? ああいう喜びと絵を描く喜びとどっちが本物なんだろう? 物欲と言ってさげすむけど、

本当の喜びに生きるべきなんだ。物欲が本当の喜びなら、ものを得る人生を送るべきだ。でも、切りがないけどね。人のものを泥棒してまで身を飾った女性もいた。泥棒はまずいっしょ。

……こうやって物欲とか泥棒とか書いていると、お釈迦様の教えってまともだよね。五欲を断ち五戒を守る。

絵を描くことが修行なら私の暮らしも方向としてはまともかも。

やりたいことをやる。本当にやりたいことをやる。これって欲望の人生か?

食いたいものを食う。銀座の高級料理か? おふくろの味か? 近所のスーパーの納豆か? 納豆は100回とぐべし。

 

 

 

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