唇 寒(しんかん)集55<18/7/7〜11/24>

18年11月24日

絶滅しそうな哀れな日本画壇に追い打ちをかけるようではあるが、日本画壇の犯してきた罪は小さくない。

上村松園(1875〜1949)はまだ十代のころに、28歳年上の鈴木松年(1848〜1918)のお妾さんになった、と『序の舞』に書いてあった。これって犯罪でしょ。

長谷川利行(1891〜1940)はいろいろな美術団体から拒まれた。拒んだどんな日本画壇にも長谷川以上の画家を見たことがない。

藤田嗣治(1886〜1968)は戦争画を描いた。日本の戦争画家の全責任を一人で負うように画壇から頼まれた。アメリカの占領軍は藤田を著名な画家として厚遇したけどね。

上記三つだけでも日本画壇が壊滅するのは当然だと思う。絵の実力度外視のド馬鹿集団なのだ。潰れて当然。この21世紀まで生き長らえたのが不思議なぐらいだ。一日も早く絶滅して欲

しい。

日本画壇が絶滅しても人が絵を描く行為が消え去ることはないだろう。絵は楽しいもの。

私のなかでは日本画壇なんてどうでもいい。無視。だから、私のなかでは日本画壇はもうすでに絶滅している。

それよりも、数日前からブログに書いているフェルメール(1632〜1675)の《牛乳を注ぐ女》の右腕の下の空間処理が気になって仕方ない。あれは面白い。左手の親指の付け根と壺とス

カートのところに小さな三角形が見える。あれは何だ?

フェルメールってシャルダン(1699〜1779)よりもシャルダンなんだよね。画題はそっくりなのにフェルメールは明快だよね。赤、青、黄色だもんね。こんなに三原色でいいのか、って

思っちゃう。きっといいのだと思う。

画面右側、女性の輪郭線は物凄く厳しい。これっきゃないっていう線描だよね。フェルメールが「かかってこいや!」と言っているみたいだ。ブログではスカートのところを述べたけど、

頭から肩、腕とどの輪郭にも隙がない。胸がすくね。気持ちいいよ。

 

18年11月17日

どうせ滅びてしまうわれわれだろうけど、とにかく今は生きているのだから、みんなで仲良く元気に暮らそうというのが一番まともな願いだと思う。たった1行の儚い願いだ。

古今東西の哲学や宗教もほとんどみんなそこのところに向いていると思う。

歳をとってくると、誰もみんな苦しいとわかる。家庭の事情もそれぞれ複雑。「金持ちはいいなぁ〜」とか「社長はいいなぁ〜」などという羨望も消える。みんな大変だと知る。生きて

いること自体すでに修行である。これはかなり妥当な思考。まぁ、私みたく超ハッピーなバカもいるかもしれないが、それはごく稀。実際、本音を申せば私だってヒーヒー言っている。

病気とか事故で自分が死んじゃうのは、とりあえずイヤだけど、若いころのようにイヤではない。家族からも必要とされていない。死んじゃったらチンチロリンカックン、なのだ。

で、絵だけど、絵を描いて褒めてもらうとか買ってもらうとか賞を貰うとか、そういう気持ちはいけないんだよね。そういう貧しくてさもしい根性の絵は世に五万とあり、全部「要らね

ぇ〜」のだ。

「修行」という言葉も使われ過ぎでダサいけど、とりあえずは修行として描くしかないと思う。鼓動とか呼吸に近い感じ。もうちょっと強い意識で言えばウォーキングとか丹田呼吸の延

長上にある、みたいな。絵はかなり強く「描こう!」と思わないと描かないけど、バラが咲いたり紅葉が綺麗になれば、頑張って出かけて描く。

ブログではフェルメール(1632〜1675)の絵に否定的なことを述べたけど、フェルメールの絵ってまさに日常なのかも。強い野心がないのかも。モデルもほとんど娘さんか奥さんなので

はないかと思われる。厭らしいところが全然ないものね。色気もない。でも淡々としていて、なんか好感が持てる。いやいや、私はとても尊敬している。日常だから大きな絵に描くこと

もない。劇的な場面である必要もない。日々の呼吸、みたいな?

 

18年11月10日

今日は重要なことをまとめておく。日常の忙しさでいつも忘れてしまう。

まず、人は滅ぶということだ。「生あるものは死す、形あるものは壊れる」のだ。

この悲観的な大前提は不動である。ここから始まる。

で、これはどうなんだ? これは摂理である。どうもこうもない。感触としては厭な感じ。でもどうしようもない。

では、どうするか? 「自棄のヤンパチ日焼けのなすび」どうせ死ぬならムチャクチャするか。

うーん、でも当分は生きるんだよね。この「当分」が問題。当分どう生きるか、だ。

私が言うのも憚られるが、平和に仲良くやりたい。

男女の仲だって、やっぱり恋をしたよ。男女混合の妄想のまっただ中にあっても、やっぱり恋優先だろ。恋自体は妄想、勘違いかもしれないけど、それでもまずは恋をしたい。それがま

ともな道だ、と思う。苦しいけどね。私の孫にも恋をしてもらいたい。苦しいけど頑張ってもらいたい。

絵ってそういうことなんだよ。夏目漱石の『草枕』を待つまでもなく、「詩が生まれて、画(え)が出来る」のだ。

で、優れた芸術は自然の摂理に反する生命讃歌となる。われわれヘボな絵描きもそれを目指す。目指しながらあの世に逝く。方向性の問題だ。だから、生命を描くのだ。ここを忘れては

いけない。この点でギリシア彫刻は完璧である。牧谿の野菜の絵もすごく納得できる。奈良の仏像も素晴らしい。

筆や鑿を道具にしてもいいのだ。

しかし、方法として、筆を持つ最初の心得として、筆を道具として「巧く描いてやろう」はいただけない。最悪。邪剣(邪筆だけどね)。

バラ園に行ったら、このバラを上手に描いて褒めてもらおうなんて考えてはいけない。まず、バラだらけの広い原っぱに来たことを感謝すべきだ。そこにいる幸せを味わうべきだ。筆や

キャンバスがある。これって至福だろが!「ありがたいぃ〜〜」という思いのたけを筆に込める。絵の出来なんてどうだっていいではないか。バラが咲いている。奇麗だ。いい匂いだ。

そのうえ絵も描ける。そこに3時間も4時間もいられる。ここにすべてがある。

バラこそ生命だよね。だからそれを褒める。まさに生命讃歌だ。

バラは散るしいつかは枯れる。でもたった今は見事に咲いている。

 

18年11月3日

絵筆を道具にしているという意味では現代アートもほとんどすべて全滅。たまにいいものもあるが、NHKなどが取り上げる現代画家はまったくわかっていない。アカデミズムの筆を道具に

するという間違いを繰り返している。そんなこと言ったら熊谷守一(1880〜1977)の晩年だってかなりトンチンカン。ま、もともと芸大出なんだからアカデミズムに決まっている。《陽

の死んだ日》は素晴らしい筆の叫びだ。

では、私が肯定するギリシア彫刻や奈良の仏像、南宋の水墨画などはどうなんだろう?

たとえば、ギリシア彫刻は神殿を飾る彫像だ。彫刻だから筆じゃなくて鑿だけど、ギリシア彫刻には鑿の喜びはないのだろうか? 不思議だよね。生命の歓喜に満ち満ちている。私がい

ま想っているギリシア彫刻は大英博物館のパルテノン神殿破風彫刻。特に《イリス》かなぁ。あれってどういう気持ちで彫ってんだろうか? 神に捧げる彫像? 純粋な宗教心? わか

らない。ルーブル美術館の《サモトラケのニケ》も信じがたい造形力だよね。あの大きさで寸分狂わない人体表現。肢体が有機的に繋がっているもの。あんな羽の生えた巨大な像なのに

何の違和感もない。身体の曲がり具合や前に出した脚などのバランスが絶妙。それが生命感みなぎっている。鑿のビビりは一切ない。ガンガン彫っている感じがする。不思議だ。

南宋の水墨画は禅の境地? これも意味不明だよね。

いやいや、私も50年近く禅の本を読み続けている。悟りのことを知りたいと願ってきた。目の当たりに牧谿の、たとえば大根と葉っぱの絵(実際には蕪だっけ?)を見ると「ああ、これ

が悟りの境地かぁ〜。こういう気持ちか。実在するんだぁ〜」と見入ってしまう。悟りってあるのだろうか? 私の本心を言うとあると思う。でも、私自身が悟ることはありえない。悟っ

た人になることは不可能。しかし、一時的に悟っているような状況に入ることはありうるのかもしれない。自分でも気づかずにそういう境地に入っている場合があるのか。自分の絵でも、

信じがたいような絵が生まれることもある。毎年何百枚も描いていれば、そういう奇蹟もあるか? あって欲しいね。いい加減、描く絵描く絵が絶品、神品、逸品となって欲しいよ。おっ

と、それが筆を道具にする邪悪な迷いだった、のだ。むじゅかちぃ。

 

18年10月30日

豊橋展があったため、変則の更新となる。10月27日(土)付けの分。

豊橋展の個展会場は豊橋市美術博物館のすぐ前。個展会場の留守番に家内が来てくれれば美術博物館に行ける。今回も何度も行った。私は2015年の夏にこの美術博物館で個展をやり、100

号4枚を含む大き目の絵を並べた。

美術博物館のロビーには画集や美術展カタログがいっぱい揃っている。身体が沈みそうなソファが並んでいて、ほとんど誰もいない。私はそこでカタログ漁り。ヴュィヤールの未知の絵

を探す。今回も数点見つけた。ああいうのをカラーコピーして自分だけのヴュィヤール画集を作りたい。もちろん無理。「ヴュィヤールはいいなぁ〜。本物が見たいなぁ〜」と羨ましが

るだけ。

美術博物館の奥の部屋で『郷土の美術〜日本画の5人』展をやっていた。大作もズラズラ並んでいる。『なんでも鑑定団』に出したら数百万円は下らない値が付く名のある画家たちだ。具

体的な画家名は豊橋市美術博物館のホームページでご覧ください。

その奥まった展示室に私は一人だけ。戦後の混乱期に絵筆を握り続けた立派な画家たちの力作が並ぶ。でも私には同意できない。息が詰まる。絵筆を道具にしているからだ。むろん絵筆

は絵を描く道具。道具にして悪いわけがない。しかし、わがイッキ描きでは絵筆は道具ではなく目的なのだ。絵を描くというのは「仕事」ではない。たしかに「作業」ではあるけど「仕

事」ではないと思う。

戦後美術に限らず、多くの画家は絵を「仕事」にしている。ヴュィヤールも晩年は絵が「仕事」になってしまった感じ。「仕事」になっちゃあお仕舞なんだよね。19世紀フランスアカデ

ミズムの絵も全部「仕事」。つまらない。

仕事じゃなく遊び心が欲しい、ということもあるけど、そういう話でもない。

絵筆は、言ってみれば吐息でしょ。鼓動と言ってもいい。モーツァルトの、あの感じ。絵も音楽も、そうなって来ると共通だ。それが芸術なんじゃないの。

もちろん、私自身の絵を芸術とは言わないけどね。方向性の問題なんだよね。

 

18年10月20日

豊橋個展を前に、すごく単純な私の絵画理念を述べておく。

現代アートについて。このことも何度も言っているが、現代アートという絵画ジャンルはない。そんな分類はナンセンスである。現代人が創り出すアートはすべて現代アートに決まって

いるではないか。でも、この言葉に迷う画家や美術愛好家は驚くほど多い。

当然、私のダサい絵も現代アートである。笑っちゃうね。

でも、はっきり申し上げて、現代人を振りかざしてアホみたくトンチンカンなアートをやっている人たちってイモだと思う。そういうのって大昔からある。ぜんぜん新しくない。

また、明治期の画家たちが真剣に追い求めた「東洋画と西洋画の融合」。これもバカバカしい。われわれ東洋人がどうシャッチョコ立ちしたって西洋人にはなれない。いやいや、西洋画

をめざし、キリスト教の洗礼まで受けた中村彝(1887〜1924)や岸田劉生(1891〜1929)、藤田嗣治(1886〜1968)を批判しているわけではない。むしろ尊敬している。

ただ、東洋画とか西洋画などといくら分類してもむなしいと思う。われわれは現代アートしか創れないし、また東洋画しか描けない。日本人が描く絵はすべて日本画だと思う。画材料の

問題ではない。

ま、これだけ「日本画」という概念が定着している美術界に文句を言うつもりもないけど、これから絵を描こうとするお若い方々にはそんな枠にとらわれずに自由に描いてもらいたいと

願うだけ。

もっと根本的で大きな意識をもって画架に向かうべきだと思う。

つまり、線描の妙みたいな? これは一朝一夕ではモノにならない。ながぁ〜い下積みが必要。私なんかいまだに下積み。

いっぽう別の項でも述べたが色彩は理論、とは言ってもこっちをモノにするのも簡単じゃない。理屈と実践はベツモノだ。理屈どおりになってくれないのが画面と画肌の厄介なところ。

私はこっちも下積みだ。

時代(現代アート)や場所(西洋画)に惑わされてはいけない。重大なのは線描と画肌なのだ。どっしり重厚な画肌に抜き手も見せぬ一閃の線描を走らせたい。そういう画面に古典も現

代もない、西洋も東洋もない、のである。

 

18年10月13日

絵を数多く描くこと、とりあえず1万枚は最低条件と言ってきたけど、多ければいいのだろうか? ここ数日、これを疑問に思い始めている。いやいや、たくさん描くことを否定している

わけではない。描かなければ始まらない。

下手な鉄砲も数撃ちゃあ当たる方式では、一生当たらない場合もある。絵の場合、下手な鉄砲方式だと100万枚ぐらい描かないと無理なのでは。

その前に、「いい絵」ってどういう絵なんだろう?

もうわけがわからなくなってくる。

6月の成瀬の個展では「いい絵」の条件として、密度、輝き(=透明性)、踏み込み、筆の愛着度と言ったけど、そういうのって狙って得られるものなのか? 狙わなければ永遠に得られ

ない。一般に言われる綺麗さとはちがう、感じがする。長谷川利行(1891〜1940)の絵を見て綺麗だと感じる人は少ないだろう。いやいや私は心底綺麗だと思うけどね。

私は10年前からマンション勤務を始め、備忘録などでとてもよく文字を書くようになった。勤務以前とは大違い。かなりの分量だ。だけど文字が上達した感じはまったくない。40歳代の

ころ良寛の般若心経を墨で毎日臨書したこともある。その成果も不確か。くずし字などの知識はゼロに近い。いい歳して情けない。

ま、ただ描いて(書いて)いればいいというものではないかもしれない。

だけど、描き続けることが大切。何度も言うけど、作品の出来は二の次のことなのだ。描くこと自体に意味がある。でも、あまりにもこの道元理論に寄りかかって向上心が薄れてはいけ

ないような気もする。

いやいや、上達したいと思う気持ちはあまりにも大きい。大きすぎでロクなことにならない。こっちにブレーキをかけなければならないのだ。そのためには道元理論は最高の抑制となる。

で、いっぱい描いた人間だけが到達できる筆の喜びの境地。少なくとも描く喜びに満ち満ちた絵画に踏み込んだ絵描きの筆触。そういう画面こそが愛おしい。

われわれは美術館でそういう画面に出会うことが出来る。幸福だ。数日前に行ったボナール展。ボナールも確かに筆の喜びのなかで描き捲っていた。

私はそれこそが絵画の根本だと思っている。コンテンポラリーもハチの頭もない。太古の洞窟壁画からピカソ(1881〜1973)まで、牧谿(1280頃活躍)から長谷川利行(1891〜1940)ま

で、目に沁みる絵画は筆の喜びに満ちあふれている、のだ。

 

18年10月6日

ここのところ暇。豊橋展のDM 出しなどの用事があるけど、他の人の作品集作りの注文も来ないし、市美協も無罪放免(少し残務あり)。やることがない。楽しい。嬉しい。もともと子供

のころから怠け者だ。もちろん、豊橋展の準備や次々回のクロッキー会のキャンバス張りや地塗りもある。暇だから海にでも絵を描きに行きたい。そういうのはあることはある。でも全

体的に追い掛け回されないのは最高。

いよいよ、自分の作品集の営業に入らなければならないかも。全国の画廊で作品集を売ってもらう作戦だ。営業は断られるとみじめな気持ちになるから、とても厭だけど、これを始めな

いと次世代の絵画の道は拓けない。若い人が絵画に振り向かない。大袈裟なようだが、絵画も音楽(CD)や小説、漫画、映画みたいなコピー文化にしてゆかないと将来はないと思う。絵

だけが原作主義。すなわちオリジナルを一枚ずつ売っている。こんなやり方では先が見えている。将来はない。カラー印刷技術が圧倒的に進歩した現在、ここで新しい絵画コピー文化の

道を切り拓かないと本当に純絵画は絶滅する(いや実際には絶滅しっこない。絵を描くのはメッチャ楽しいもの)。

公募展やコンテスト形式の大作主義。または街の画廊で一点ずつ売ってゆく方法。これは150年前に印象派が考えだし、大成功を収めた絵画販売システムだった。しかし、そのずっと前、

ルーベンスの時代から絵画のコピー化は版画によって画策されていた。実際に今も400年前の原作は消えても版画によってその図柄を偲ぶことが出来る。大昔から画家たちはなんとかしよ

うとしてきたのだ。

68歳の爺絵描きが恥も外聞もなく営業活動を始める。みじめは致し方ない。頑張る。まさに最後の頑張りかも。ちょっと下品だけど、イタチの最後っ屁みたいなもんだ。印象派につぐ新

しい絵画革命を目指すのだ!

 

18年9月29日

録画してあったNHKの『日曜美術館・微笑む仏〜柳宗悦が見いだした木喰仏〜』を見た。木喰上人(1718〜1810)は92歳まで生きた。で、最後の最後90歳過ぎまで行脚の旅をしていた。北

海道から鹿児島まで物凄い行程だ。83歳から4度江戸と小布施を往復した葛飾北斎(1760〜1849)も真っ青。

木喰は国家から文化勲章みたいなものを貰って褒められたなんてことはない。ただひたすら仏を彫った。誰かと徒党を組むこともない。ずっと一人。草の根、民活(?)、第三セクター

(?)、大多数の小さな支持によって支えられていた。まさに理想の人物。

作品も歳とともによくなっている。私はこういう芸術家ばかり取り上げているけど、実際にはとても少ない。滅多にいない。全世界の美術史上でも10人ぐらい?

僧侶だけれど何宗かも不明。

そういう派閥みたいなものに属していない。

旅ばかりしている。本物のオランウータンタイプ。

木喰を見ていると、人って一人でいいように思う。特に美術に関する限り「みんな仲良く」っていうのは無理がある。

一人はとても寂しくていろいろ心配だけどね。で、現実には私も一人暮らしではない。良寛や木喰のようにはいかない。きっと雪村周継(1504〜1585/1492〜1573)も一人だったと思う。

本当に立派な人が過去の時代にいた。そういう人の書や彫刻や絵が見られる。印刷物ならいつでも見られる。ほんとうに有難い世の中だ。

文句を言わずに私も頑張ろうと思ってしまう。自分自身のレベルの低さを痛感するばかりの日々だけどね。方向性だけでも保ち続けたい。

 

18年9月22日

明治期の男性はとても威張っていた。だいたい戦争があると男は威張る。戦争に行って死ぬのは男だから女性は頭が上がらない。

でも、人間、威張ったらおしまいだよね。自分を最低のレベルだと思っていないといけない。それは禅の教えでもある。マンション勤務ではウンコの始末が最悪。動物の死骸を片付ける

のもキモい。でもそれが出来ないと管理人は無理。自分も排便をしいつかは死ぬんだから、そういう始末が出来なければ一人前ではない。

上村松園(1875〜1949)の師は鈴木松年(1848〜1918)。小説や映画で見ると物凄い威張り方だ。威張りレベル最高。17歳の松園(女性)は当然のように松年(50歳)のお妾さんみたい

な存在になる。

で、松年の絵を見てみる(=ネットで見られる)。驚くべき巧さ。これなら威張るわな。ツルツルした気持ち悪い絵だけどね。山水画だったけど、よくもまあ、あれだけ気持ち悪く描け

るね。馬遠(南宋画院)や夏珪(南宋画院)、その前に范寛(10世紀後半〜11世紀前半)なども見知って描いている感じ。ああいう中国絵画をあんな風に解釈するわけか。中国の水墨画

は禅の教えに向かって行くのだけれど、松年の絵は正反対に向かい、それなりの成功を収めている。まったく絵って恐ろしいよね。同時代の富岡鉄斎(1837〜1924)とも交友があったら

しい。もちろん、鉄斎にはまったく威張った感じはない。

そりゃ、若い女性は魅力的。私だって仲良く出来るなら拒まないけど、その女性の将来を想えば、無視するのが道。当たり前だ。その前に鉄斎みたくありたいものね。一度の人生、最高

の人格を目指すでしょう。もちろんなかなかそうもいかない。エロ週刊誌とか熟視しちゃう。

でも、糞、死骸の始末はもちろん、炊事、洗濯、買い物などが普通に出来ないと禅の教えからは遠のく。どうも「悟り」はこの辺りにありそうだ。

一度の人生、誰々とハグしたかった、と悔やむより、牧谿(1280頃活躍)のような画境を得たいと願うべきだろう。私の場合、たくさん間違えもしてきたけど、今のところ、まだ可能性

がないでもない、感じ。けっこう地味な人生だった、と思う。ダイジョブ、ダイジョブ。

ま、今までがダメでもこれから牧谿路線をめざせばいいのだ、方向性の問題だ。

 

18年9月15日

日本の画壇の低調ぶりは絵を見れば明らか。たとえば歌の世界と比べてもその努力の度合いは比較にならないのでは。絵を描いたって飯が食えないから若い人が寄りつかない。いくら頑

張ったって飯が食えないのでは話にならない。若い人が集まるわけがない。若い人は恋をして子供を産み、育てなければならない。金がかかるのだ。

歌手なら飯が食える。少なくとも一か八かやってみようという若者が集まる。いや、実際問題としてはメッチャ難関だけどね。

45年前には絵画ブームがあり、その後バブルもあった。そういう時代に売れた絵描きやその味を知っている美術関係者はいまだに夢を見ている。私はあんなことはもうありえないと考え

るべきだと思う。狂っていた。おかしかった。絵画以外の分野については知らないけど、絵では、酷い駄作が売れまくっていた。あんな業界は「ほんとう」じゃない。

歌もお笑いもダンサーも芝居もスポーツもたっぷりと修業を積んでいる。絵だけがインチキ。修練のない才能だけで傑作が生まれるわけがないのだ。はっきり言って私は才能なんてクソ

だと思っている。修業や修練だけがすべてである。

絵にはスポーツやゲームのような客観的な評価がない。すべて主観だ。作品を前にすればどうとでも言える。さっきも高名な美術史家が若い女流画家を褒めていたけど、私にはその絵の

よさがさっぱりわからなかった。文章を先に読んで、あとで図版を見た。もう一度文章を読み直すと、このオッサン、本当にこの絵がいいと思ったのか? と疑問もわく。アートの世界

はカッコいい。夢だよね。しかし実際には泥沼だ。

 

18年9月8日

線描の芸術は線そのものに魅力がある。何の線か、その線が植物の蔓かとか人体の背中なのかなど、そういう疑問は二の次のことだ。だからって抽象画を支持しているわけではない。

やっぱり絵はモノの形を追っていてほしい。形に迷ってはいけないけどね。

素晴らしい線描は書道でも見られる。しかも書には当然意味がある。有名なのは顔真卿(がんしんけい・中国人709〜785)の《祭姪文稿・さいてつぶんこう》。線描が悲しみのなかで踊っ

ている。ウキペディなどで拡大してご覧いただける。

絵でも書でも線描は造形の命。彫刻でも同じだと思う。

それは形を追うことから始まる、かもしれない。でも、形は二義的なもの。線描そのものに魅力がある。命がある。そうでなければつまらない。「線描命」だからこそ生涯をかけて追い

求める価値もある。しかも年齢無制限で成長できる。こんな分野は造形しかないのだ、と思う。ま、それでもほとんどの人はダメになる。地位や名声、富を得るとだいたいおしまい。チ

ンチロリンのカックンだ。幸運にも私は地位も名声も富もないからずっと追い求めて楽しませていただいている。

これが幸運か?

うん、チョー幸運だよね。

で、思い至るのが因陀羅(元代末)の禅機図。伝説の高僧を描いているのだけど、線描がすべて活きている。まったく説明になっていない。線描が目的なのだ、というか、筆を執る喜び

が目的か?

ヨーロッパの印象派以降の絵にも共通の魅力がある。晩年のモネ(1840〜1926)は完全にそういう「筆喜び」画境に達していると思う。不思議なことに若きヴュイヤール(1868〜1940)

の絵にもそういう狙いが見える。ここが不思議。もっともヴュイヤールの晩年はいただけない。

で、最近のアートでそこに気が付いている作品はなかなかない。だいたいがチャチな意匠に迷っている。もちろん努力も見えるし、いろいろ考えているらしいけどね。そういう世界はそ

ういう世界でいいのではないか、と思う。

だけど、太古の洞窟壁画からギリシア彫刻、古代インド彫刻、仏教芸術、禅の水墨画。さらにルネサンスから印象派を通過しピカソまでのヨーロッパ美術。そういう巨大な人類の美術の

痕跡に直接つながるのは私の考えであり、私のやっていること、追っていることだと思う。現代アートはとってもトンチンカンだ。

ま、人それぞれ言い分があり、みんな自分が正しいと思っている。それはそれでとても健全だ。

 

18年9月1日

8月31日のブログでいいことを書いてしまったから、この『唇寒』が困る。

ブログに書いたのはジャンルを超えた絵描きの心意気、「美術」で繋がる絵を描き捲る人間たちの希求。そういうものかな?

夏珪(南宋画院)の《渓山清遠図》はとても綺麗だけど、なんか牧谿(1280頃活躍)の《遠浦帰帆図》に惹かれるんだよね。

で、実際に私自身が風景を描くとき《渓山清遠図》や《遠浦帰帆図》を想っているかというと、まったく忘れている。目の前の風景を描いている。でもそれは表面上の意識であり、私の

頭の中から《渓山清遠図》や《遠浦帰帆図》が消え去っているとも思えない。深層心理などと難しいことを言う気はないけどね。

私の父なんか、そういう昔の傑作に出会うと真似をしようとするから図々しい。北斎にもそういうところが見える。面白い爺さんたちだ。楽しいよ。

100号の等身大となると、無性にギリシア彫刻が見たくなる。いま町田市展に展示してある絵はギリシア彫刻を見ていない。ちょっと見たくなったけどね。見なかった。

ブールデル(1861〜1929)の《ペネロープ》なんかを見ると、「ああ、ギリシアを慕っているんだな」と思ってしまう。あの太腿と衣文だ。まったくたまらないよね。

超クラシックのギリシアや南宋絵画を見るのは至高の楽しみ。絵を描くのはさらに楽しい。ほんと鉄道模型よりも楽しい。後ろにギリシア哲学や仏教の禅の教えがあると思うとさらに嬉

しくなる。それが造形として残っているんだから凄いことだよ。桁外れに聡明な人たちが寄ってたかって創り上げてきた宗教、哲学から派生して、これまた聡明にしてチョー巧みな絵描

きや彫刻家たちが残してきた造形。素晴らしいものが見られる。よく残してくれたよ。

でも、まあ、こういう話って図版なしでは始まらない。価値半減。こんなビジュアル時代なのにおかしいよ。ついこの前読んだ小説『北斎まんだら』(梶よう子・講談社)も同じ。著作

権問題なんかないんだから江戸の浮世絵をフルカラーでじゃんじゃん出せばいいと思う。

 

18年8月25日

やっぱり絵って腕の運動なのかも。目ではないように思う。目で見て綺麗だなと思い、キャンバスに描く。見えたものを再現したいわけじゃない。描きたいだけだ。描くのは腕だ。藤田

嗣治(1886〜1968)に『ブラ一本』という著作があるけど(読んでない)、ブラとは腕のことだ。

いっぽう人は見えたものを細密に再現したがる。これはある意味、根本だと思う。とりあえず再現したいよね。

でも富岡鉄斎(1837〜1924)が狩野芳崖の絵を見たとき「こんなものは時間をかければ誰でも描ける」と言ったそうだ。「いやいや時間をかけても描けねぇだろ」とは思うけど、鉄斎の

言葉にうなずける面もないことはない。

そうなって来ると、絵の方向性が全然ちがっちゃうんだよね。

腕の欲求なんだよね。藤田の絵を描いているときの映像を見ると細部を描くときも藤田の手や腕が喜んでいるのが伝わってくる。それはもちろん仕上がった絵を見てもわかる。描きたく

て描いている。あれは仕事じゃない。喜びの作業だ。

筆でキャンバスに色を置くとき、写生が目的になっていない。置くという行為そのものが目的であり、そこで完結される。何かを描くために筆を使うわけじゃない。モチーフはキッカケ

に過ぎない。キッカケはかなり重要だけどね。

裸婦だって所詮は再現できないでしょ。無理だもん。骨や筋肉の関係も完璧には納得できないし、それらが有機的に連動しているメカニズムを絵に出来るだろうか? さらに、血が通い、

リンパ液が働き、呼吸による空気が取り入れられる。脳があり、理想を持ち、欲望もある。そういう人体を正確に描ききれるだろうか? 

絵とはそういうものじゃない。

描きたいのだ。筆を動かしたいのだ。それが最初にある。意匠やアイデアも二次的なものだ。モネ(1840〜1926)は大聖堂や積わらなどで光の経過を探求した。しかし、白内障を病んだ

あと、モネが到達した絵画世界は筆の世界だった。モネの筆は大画面に躍動した。腕の問題なのだ。

私は、モネは80歳近くまで再現の絵画を追求していたと思っている。つまり睡蓮の連作だ。しかし、睡蓮の後に筆触の絵画が花開く。最晩年のバラや藤ではもう光の研究はしていない。

躍動の筆触となっている。踊っている、歌っている。白内障が治った喜びだろうか? まさに生の絵画だ。

これは富岡鉄斎(1837〜1924)の絵でも同じ。白隠(1686〜1769)や仙香i1750〜1837)の禅画も同じだと思う。生命の絵画なのだ。

私は20歳代からそのことを知っていた。それから約50年。その思いの検証と自身の絵画体験で過ごしてきた。できればモネや鉄斎の年齢まで生きて同じ思いを味わいたい。しかし、それ

ばかりは天の思し召し。どうにもならない。やれることだけやるしかない。何度も言うけど根本的にはグータラである。

 

18年8月19日

昨年の真冬に「暖かくなるころに金に困らなくなる」と予言したが、暖かくなっても暑くなっても困り切っていた。それで、そろそろ涼しくなるころだが、どうやら追い掛け回されるこ

とはなくなるかもしれない。もちろん、エリート官僚じゃないんだから、絶対安全な状態は来ない。すべて自己責任で生き抜く。ま、エリート官僚もいろいろ大変なんだろう。大変じゃ

なきゃ、こんなに汚職事件は起こらない。汚職とは? エリートなのにアホなのか? 不思議だ。

 

「5万枚描いた」というけど、これって私自身が思っているより、凄いことかもしれない。「5万て、それどういう絵なんだ?」とお訊きになりたくなるだろう。それは、一枚一枚うまく

行ったら額装したいと思っている絵だ。そういう図々しい考えで描いた絵だ。おざなりな絵は一枚もない。ま、5万には習作も入れている。若いころは墨のクロッキーだけで1万枚描いた。

また、たとえば100号を描くときの下絵のデッサンも一枚だ。

それでもなかなか意欲を持った5万枚は描けない。

意欲を持ち続けることが難しい。モチベーションの維持?

だから私は個展を90回もやっている。

個展をやる以上、人様に来ていただくわけだからいい加減な絵を並べておくわけにはいかない。下手でもその数か月一生懸命描いた絵でなければならない。当たり前だ。ま、結果はアウ

トでも、最低でも必死こいて描かなければ見ていただく方々に失礼である。

それで、50点の絵を展示するためには500点は描く。これで90×500だ。4万5千点という計算。そのほかデッサンや年賀状などを入れれば軽く5万点を越える。年賀状だけでも5千枚は描い

てきた、はず。

以上が5万点の内訳だ。モチベーション維持システムである。

この冬に等迦会を辞めてしまい、100号を描かなくなちゃう、と心配したけど、いま現在町田の市美展に出す100号に追われている。古い絵は出さない。絵を描くために出展するんだから

新作を描くに決まっている。そう言えば、100号だけでも150枚ぐらいは描いてきたはず。それにしちゃあ、下手だね。センスも画才もない。ただしぶといだけだ。それで十分、だと思う。

私みたいな絵描きはほとんどいないのではないか。

 

18年8月11日

現代美術が何か考える場合、現代音楽と比べたらどうだろう?

現代音楽って何だ? かなり古いけどビートルズは現代音楽だと思う。私でも『イエスタディ』はよく聴く。You Tubeだけど何回も聴く。でも、いっぽうでクラシック音楽の延長と主張

する不協和音のヘンな音楽もある。オーケストラで演奏している。最近もあるのだろうか? まったくわけがわからない。もちろん聴きたくもない。ああいうのってモーツァルトの延長

なのだろうか? わが愛車マーチの音楽はバッハの『ブランデンブルク協奏曲』ばかり。最近すごく音が悪い。

サザンオールスターズの曲だって『HOTEL PACIFIC』なら聴きたいけど新曲はあまりいただけない。新曲が必ず魅力的なわけがない。

私は何度も言っているけど、現代とか東洋とか時代や場所を画家が意識するのはおかしいと思う。美術史家が便宜上分けただけだ。「現代美術」なんていう分類はない、のだ。現代の絵

描きが描けば何だって現代美術に決まっているではないか。東洋人が描けば、画材が油彩であろうと墨であろうと東洋画である。当たり前すぎて主張するのもバカバカしい。

で、「東洋と西洋の融合」にはほんとうんざり。融合もハチの頭もない。世の中にはいい絵とつまらない絵があるだけである。で、いい絵を描きたかったら、とりあえず、何も言わずに

1万枚描いてみろ、と言いたい。それだけのことだ。ま、自分が心底尊敬する絵を何度も見返し、出来れば模写をすることが望ましいけどね。その模写も1万枚のなかに入れていいと思う。

さらに、写真を見て描く方に申しあげたい。

何が描きたいの?

孫の写真を見て描く。いいけどね。でも実際の孫をよく見て欲しい。写真じゃなく現実の孫だ。へらず口をたたき、暴れまわる実際の孫。幼児ならウンコやオシッコも容赦なくしてしま

う。いやいや理想を描くのも悪くはない。だけど、人の頭に浮かぶ理想なんてほんとチッポケだよね。現実の静物、桃やオレンジをじっと見ていると、ま、とにかく美味そうなんだけど、

桃と桃の間の空気、空間。見れば見るほど奇麗だ。動物は目を持っており、人類は奇麗だと思う心を持っている。空間の妙がわかる。それって奇蹟みたいに素晴らしいことじゃないだろ

うか?

自分が人類で目があってものが見える。これだけでも奇蹟。それを絵に描ける。凄いね。私は幸運にも5万枚ぐらい描いてきた。滅多にいない果報者だ。ありがたい、と感謝してさらに描

かねばならない。

まったく、現代美術なんてどうでもいい。やってろや、って感じ。

 

18年8月4日

考えていることは『ビュールレ・コレクション展』で見たセザンヌ(1839〜1906)の《風景》。

あの絵にとても惹かれた。会場では前から離れられなくなり、離れてもまた帰ってきてしまう。閉館間際だったので、いつまでも見続けているわけにもいかない。いやいや《風景》だけ

ではない。他のセザンヌも悪くなかった。

父はセザンヌをあまり認めていなかった。

それはともかく、どうしてビュールレ・コレクション展では《風景》ばかりが気に留まってしまったのだろう? この図版はウィキペデアの「ビュールレ・コレクション」で見ることが

できる。大きさが書いてない。20号ぐらいだった印象。大きな会場だから30号あったかも。でも、パソコン画面と本物は全然ちがう。ちがうけどないよりましかも。

その後、横浜美術館の『ヌード展』なんかも見た。20世紀絵画もたくさんあった。とても気持ち悪い。巧いんだけど見たくない。セザンヌとか長谷川は下手だけど繰り返し見たくなる。

絵は図柄だからいろいろな主張がある。難しい哲学も図柄として描けないこともない。でも、絵ってそういうものじゃないように思う。それは説明だもの。

ほんとうは結論は出ている。「いい絵」はいいからいいんだ。それは20世紀であろうと紀元前であろうと関係ない。西洋とか東洋とかも無関係。

結論は出ているけど、私の結論が正しいという確証は何もない。でも、セザンヌの《風景》をいいと思う。現代アートにああいう脳髄に来る感動はない。頭よくて技巧があってわけがわ

からない。それがいいのだろうか? いいわけない。結論は出ているんだ。

でも、大原美術館なんかにも薄汚い現代アートのオブジェはある。40数年前のパリ近代美術館(今は多分ポンピドーセンター)にも現代アートがあって、けっこう埃をかぶっていた。薄

汚なかった。きっと今もあると思う。例の便器もあったように思う。便器は美術館に行かなくてもあちこちのトイレで見られるけどね。

難しい美学はわからない。美術論も要らない。

でも、そういうのっていつの時代にもあるんだよね。そして結局いいものだけが残る。

セザンヌはパリの第一線から離れて田舎暮らしをしていた。それでも大作《水浴図》をサロン・ドートンヌに送ったりしていた。仙人になりきっていたわけではない。娑婆っ気はあった

のだ。でも、かなり諦めていた、感じ。

美術館も現代アートの企画はまったく人が呼べないという。印象派なら列ができる。誰だって印象派を見たい。絵がいいから見たいのだ。

 

18年7月28日

先週の『唇寒』の、ブグロー(1825〜1905)がルノワール(1841〜1919)の仇敵という捉え方がかなりちがっていることは7月21日のブログ『みんな大変なのかも』で述べた。翌日の『複

雑に絡み合う新旧勢力』でもブグローがバラ色の出世街道を驀進したのではないらしいことを書いた。

また、『ららら科学の子』(矢作俊彦・文春文庫)を読んでいて、小説の構成として二本立てで進めることもあると再認識した。考えてみれば、二本立てや三本立てで進める小説は少な

くない。この先、主人公はどうなるんだろうと思っていると、パッと画面が変わる。別の話題になってしまう。そうやって読者を引っ張る。そして最後に複数の話が収束する。

ルノワールだったら、自分の絵を追究する姿と古典絵画を慕う姿を並列してえがくことができる。モネ(1840〜1926)をナンバー2の主人公にしてこっち方面から印象派の時代を見ること

もできる。短編小説で十分なのだ。ほとんどはクラシック絵画で満たされたカラー図版いっぱいのお話なのだ。そういう短編小説ならいくらでも書けるかもしれない。シスレー(1839〜

1899)を主人公にしたり、ルオー(1871〜1958)を主人公にすることも可能だ。日本や中国の話でも作れる。無限だね。小説だから史実どおりでなくたっていいわけだ。私としては絵画

解釈が主眼だから、面白ければ何でもいい。私自身のクラシック絵画の楽しみを多くの人に知ってもらいたいだけだ。

もちろん何度も言うように、あまりにもデタラメは書けない。許容範囲というものがある。だから、美術史でわかっている部分と謎の部分を知り尽くさなければならない。いやというほ

ど読んできた美術史の本をもう一度読み返すのも楽じゃないけど、書くとなったら、読まないわけにもいかない。この前から書き始めて数行しか進んでいないルノワール主人公の小説で

も、すでに数冊の本を読み返している。数行で数冊だ。いくら短編でも1冊仕上げるとなると数百冊? 考えただけで恐ろしい。

 

18年7月21日

ルノワールを主人公にして小説を書こうと思った。ルノワールの本を読んでいると、やっぱり根本的なことが欠けていると感じる。どんな印象派の本でも欠けている。

それは19世紀フランスアカデミズムのことだ。言ってみればルノワールの仇敵。このフランスアカデミズムが霧の中に霞んでいるからクールベの主張も印象派の絵もよく掴めないのだ。

19世紀フランスアカデミズムとは具体的にはブグロー(1825〜1905)のことだ。ミスター・アカデミズムと言いたいほど。で、もちろんブグローは批判の対象なのだけど、頭から批判す

るのは不当である。

まずはよく絵を見てじゅうぶん理解することが必要不可欠。当たり前だ。私なんかボルドー美術館に約1年間毎週通って隅々までじっくり鑑賞した、のだ。ボルドーに行く前は同じ大きさ

で油彩模写を試みた。ンなもん、出来るもんじゃない。ムチャクチャな行為。ブグローがあの画面に到達するまでどれほどの修業を積んだか、それは想像を絶するデッサン修業を重ねて

いる、のだ。

ゴッホ(1853〜1890)もブグローを賛美している。いやいや、ちょっと絵を描いた人間ならブグローを批判出来るもんじゃない。ほとんどの人のブグロー批判は誰かの受け売り。インチ

キ評論だ。ロクに知りもしないで批判しているのだ。そういうのが偉くなっているから厭なんだよね。ま、関係ないけどね。そういうヤツが幸福なわけないもん。

だから、私はとにかく19世紀フランスアカデミズムをたっぷりと紹介したい。

このホームページの『絵の話』でも図版付きでけっこう語っているけど、まだまだ足りない。もちろん私だって批判的なんだよね。だって、フランスアカデミズムは「仕事」だもん。ビ

ジネスだよ。それは絵じゃないでしょ。絵ってもっと自由で楽しくて鋭くて辛辣で危うくてたくましい。ワイルドで包容力もある。伯父さんさんだよね。寅さんなんだよ。生死にかかわっ

ている。ロートレック(1864〜1901)なんだよ。

わかるかなぁ〜〜〜? わかりっこないよね。

 

18年7月14日

英才教育と言えば、私自身英才教育を受けたのかもしれない。それにしては芽が出なかった。私の父はけっこう教育熱心だった。私の中学生のころには4畳半の自室があり、父は襖に大き

く小林一茶の絵を描いてくれた。一茶が竈に薪をくべながら本を読んでいる姿だったような記憶がある。二宮金次郎みたいだ。私はその父の絵に10円玉を投げていた。銭形平次の真似だ。

最悪な悪ガキだった。中学にもなって銭形平次か。レベル低い。

父はブリューゲル(1525/30〜1569)の《村の婚礼》の絵も貼っておくように指示した。もちろんそういうことは逆らわない。カレンダーかなんかの絵だったと思う。私は手前の子供の

帽子の羽根飾りを床の絨毯の継ぎはぎだとずっと思い込んでいた。自分専用の勉強机もあり、机の上には広重の《東海道五十三次・由比》が飾ってあった。

ま、英才教育と言ってもその程度で、絵の描き方を仕込まれたわけではない。父が家にモデルを雇うと私も一緒に描いていた。あれは小学2年生のころかも。小学2年で裸婦のクロッキー

か。これは英才教育かも知れない。

中学のころ自室を出ると玄関に100号の父の裸婦が飾ってあった。国画会で教育美術賞を貰った絵だった。その絵もあちこちキャンバスから絵具が剥がれていた。私は、な、なんとわざと

絵具を剥がしたこともある。チョー最悪だ。

こういうクソガキに父も呆れ果てていただろう。もっとも、父のほうも、われわれ子供にとって最良の父ではなかったけどね。

私は17歳のとき落語家を目指すのを諦め絵描きになろうと決めた。父が美大に行っても無駄だと言うので普通の大学に進んだ。父のところに若い画学生が来ていて、彼らが石膏デッサン

をやっているのを見ていたから、私も石膏デッサンをしなければ、と思い、中学校の美術の先生に頼んで描かせてもらったり、大学の絵画会で描いたり、理工学部の建築科の石膏室に潜

り込んだりしたけど、一番よく描いたのはフランスのボルドー大学の石膏室だった。とにかくパルテノンの柱状少女が実物大でどんとあるんだから、芸大の石膏室よりもいいかも。ただ

し、芸大の石膏室みたく広くはない。だけど、描いているのは私一人だけ。チョー贅沢な作画環境だった。

結局、26歳で帰国してから目黒の美術研究所に入り、その後の3年半が一番充実していたかも。キャンバスメーカーに勤めながら描いていた。キャンバス会社の社長が凄く協力してくれた

ことはこの歳になるとつくづく思い知る。

というわけで、私には英才教育なんてなかった、と思う。

 

18年7月7日

『幻庵(げんなん)』(百田尚樹・文芸春秋)はやっと上巻を読み終わった。400ページあまり。さすがに1週間付き合うと登場人物も識別できる。でも、いつも最初のページの人物紹介

を見返しては確認してしまう。

英才教育についてp133〜134に百田の持論がある。碁と音楽(ピアノとヴァイオリン)に英才教育は絶対必要と主張。いっぽう、他の学問や芸術分野ではそんなことはないと述べ、「小説

家は英才教育などまったく必要ない」と断言している。

絵はどうなんだろう? 

 

棋士には頭の中に碁盤があるという話も面白い(p191)。プロの棋士はほとんどの過去の碁の名局を暗記しているという。真っ暗闇のなかで十数手ほど棋譜を読み上げるだけで誰と誰の

対局かを言い当てるという。江戸時代の碁譜からでも「文化6年の元丈(げんじょう)と知得(ちとく)のお城碁だ」というふうに答えられるとのこと。

私もテレビのクイズ番組『東大王』で絵の一部分がほんの少し映っただけで「ターナーの〜〜」とか「ミレーの〜〜」とか「ボッティチェリの〜〜」などと瞬殺で答えられるけどね。実

はターナーの《雨、蒸気、スピード》は「蒸気」を「霧」と間違えた。さらに「グレート・ウェスタン鉄道」と付け加えられなかった。東大生はちゃんと答えていた。でも、一部分がちょっ

と映っただけでターナーのあの絵とわかった。それは20歳代の東大生よりはるかに速い。ま、専門なんだから当たり前だけどね。出題される絵も超有名作ばかり。わからないわけがない。

 

昨日読んだp377には「これはあらゆるジャンルの天才に共通することだが、先人が辿ったことのない原野を切り拓く困難さと偉大さ」とある。この論評に多くの絵描きが惑わされるんだ

よね。新しさノイローゼ。7月5日(木)に行った2回目の長谷川利行展の後に寄った府中市美術館の常設展でも感じた。新しさの追求のために一番肝心な何か(筆の喜びか?)を忘れてい

る。作為見え見え。スタンドプレイ。

7月6日に見た『江上茂雄(1912〜2014)展』でさえ、長谷川利行(1891〜1940)のまっすぐに中心めがけた筆の叫びはない。どこかビビっていて作っている。

でも、一番肝心なものは本当に筆の喜びなのだろうか? そこが断言できないところが情けない。未熟だねぇ〜。68歳寸前だけどまだ断言できない。

少なくとも、「天才」でもないヤツがロクな努力もしないで原野を切り拓くのは無理。世の中そんなに甘くない。

とにかく絵には「感動」と「喜び」がなければダメだと思う。話にならない。

 

 

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