唇 寒(しんかん)集48<15/9/5〜16/1/30>

 

16年1月30日

金井画廊の金井さんが「絵画は色彩ですよね」と言う。色のない水墨画を人類史上最高の絵画と思っている私は返答に窮する。山本リンダ状態。困ちゃう

の、だ。

でも、金井さんの言っている意味はよく分かる。

絵って色彩だもの、というか絵具なのである。物質としての絵具の輝きなのだ。それをメチエとかマチエールという。

ゴッホはそのこともよく心得ていた。

じゃあ、どうしてラファエロの『アテネの学堂』はローマの彩色された本画よりミラノのカルトン(鉛筆デッサンみたいな下絵)のほうがいいのか。この

ことはYou Tubeで述べた(アップ中)。

金井さんと私の食い違いは見る側と描く側の、絵の見方の相違だと思う。

見る人は結果オーライなのだ。しかし、そういう画面に到達する方法となると、絵具を塗ったくれば済むわけではない。

でもたまに塗ったくった絵がよかったりすることもある。すごく下手くそな肖像画が強く印象に残っていたりしてしまう。そういうことがあるから絵は困

る。やっぱ山本リンダか。

メチャクソ表現主義だったりして……。

絵は、強く印象に残り、毎日見ていても飽きず、しばらく見ないと無性に見たくなるような絵がいいと思う。そういう絵の、絵具や色彩が輝いている場合

も多い。まったく、牧谿の『遠寺晩鐘』は墨が輝いている。透き通って見える。

で、描く側だけど、描く側は筆を練らねばならない。塗ったくって偶然うまくゆくのでは絵描きとは言えない。ま、私の場合、十分塗ったくっているけど

ね。塗ったくっていても、ラファエロのカルトンや牧谿の水墨表現に憧れている。そこが渡世人の辛いところだ。

 

16年1月23日

私の若いころの画壇美術は、国画の梅原(龍三郎)、独立の林(武)、春陽の中川(一政)、新制作の小磯(良平)、二科には東郷青児が健在。主体の森(芳

雄)など新興勢力も盛ん、日展系にもすごいのがゴロゴロいた。

それが今や、とても情けない状態に落ち込んでいる。

画壇美術だけではなく、美術界全体が長い冬の時代に入ったまま。これは世界規模での低調ぶり。美術界はまさに氷河時代に入っている。この氷河期はも

う何十年も続いている。

私自身、炭焼き小屋の爺と自認している。この状況では致し方ない。自分の信じる道を細々と歩み続けるしかない。寂しく描き続けるしかない。

では、音楽界はどうか?

音楽界はバラ色である。まさに美術界と反比例の状況。特にここ数十年日本の音楽業界は革命的な進化を遂げている。

私など、車に乗ればサザンオールスターズだ。愛車マーチはサザンの1998年のアルバム「海のYeah!!」が鳴りっぱなし。私の絵がどんどん売れたら、私は

アマゾンでサザンの「すいか」を真っ先に買う予定だ。ま、その前に、夏珪の複製画が先かな? いやいやギリシア(=パルテノン神殿ほか)にも行きた

いし、ナポリ(=シヌエッサのアフロディテ)にも行きたい。そうなってくると、夏珪の本物を見にまずは台北に行くか。

話を戻すと、音楽界の新時代は加山雄三が40年ぐらい前に作詞作曲歌唱までしたのに始まった。つまりシンガーソングライターの登場だ。加山雄三以降、

一気に自由で独創的な音楽革命が巻き起こった。もちろんビートルズなど海外からの影響も大きい。凄いことになった。音楽は、出版界と同じコピー文化

だから、大衆からの支持で莫大な財産も生む。一枚モノの絵画とは根本的に違ってくる。ミュージシャン・ドリームは誰にでもチャンスがあった。今でも

もちろん旋風は続いている。

絵画を手に入れるとなると、私みたいなペーペーの絵描きの絵でも1枚最低10万円の出費を覚悟しなければならない。ところが、音楽のCDなら数千円、小

説なら2000円以内でわがものにできる。ここが大きな違いだ。厭になるね。

でも、美術不調現象はそういう販売システムの問題だけではないと思う。根本的な何かが欠けているのだ。そして組織が腐っている。腐りきっている。こっ

ちはもっと厭になる。

無視、無視。

炭焼き小屋の爺になって頑固に黙々と描き続けるしかない。

私なんかの絵を買ってくださる方もいるのだ。涙が出るほどありがたい。

 

16年1月16日

彫刻家・木内克は在野精神を貫いた。日展からの誘いも断っている。私はそういうお誘いなんてまるで来ないから、「在野精神を貫く」必要もなく自動的

に在野だ。なんか寂しいけど、気楽でいい。無名は自由なのだ。

今の画壇を概観して、上手に説明することはできない。

今の画壇て、どうなのだろうか?

昔は日展特選と言えば新聞の一面を飾ったものだ、と父が言っていた。そう言えば、数十年前は相撲の優勝力士も新聞の第一面にでっかく載っていた。

最近は一面でも物凄く小さな写真だけ。でも、相撲人気は復活の兆しがある。

画壇なんかマスコミからはほとんど無視されっぱなしだ。

デパート売り絵という分野もいまだにちゃんとある。大部分が上野から六本木に移った公募美術団体も、六本木でそれなりに存続している。いっぽう、コ

ンテスト形式の絵画賞も、安井賞などなくなってしまったが、いろいろまだ続いている。

芸大を頂点とする美大の隆盛は衰えない。美大出は放送出版界に活躍の場がある。一般企業でも宣伝企画に必要不可欠。商業美術っていうんだっけ?

サブカルチャーは世界規模で広がっている。

情けないのは私がやっている油絵の世界ぐらいか。便宜上「純絵画」と呼んでいるけど、純文学とはなんかちがう。

でも、戦後画壇美術というのは確かにあった。油絵に夢があった。多くの絵描きが確かに夢を掴んでもいた。

戦後美術の画家はフランス語も流暢。本当のインテリだった。私も、タバコをふかし、ジョニ黒のストレートをちびちびやる粋でダンディな絵描きをちゃ

んとこの目で見ている。今なら副総理の麻生さんスタイル?

いったい、真なる芸術家はどこに行ってしまったんだろうか?

みんな私の幻想なのか? ああ、昔はよかったねぇ〜。これを言っちゃ、おいしめぇか、な?

 

16年1月9日

『勘の研究』(黒田亮・講談社学術文庫)なんて読みにくい本をなんで読むのか。

昔の素晴らし絵画は勘が冴えわたっているからだ。白隠の水墨画も墨が美しい。

モネの『印象・日の出』も勘が素晴らしい。

そういう勘は剣術の技と同質なのだろうか? 昔の剣術はとにかく命にかかわる。失敗すると死ぬ。特別な技だ。

スポーツ競技のほうがわかりやすい感じもある。スポーツでも体操やフィギアスケートなどはさらに近い。

最近よく言われる『キレキレの踊り』という、EXILEやAKBなどのダンスも勘のいい悪いが問題なのではないか。

相撲も死なないけど剣術に近い。ボクシングなどの格闘技は勘の冴えが勝負を決める。

能や歌舞伎、演劇などの芸道にも勘は必要。ヴァイオリンやピアノなども同様。

こういう『勘』というものを否定する人はいないだろう。

この『勘』について心理学という伝統的な学問からアプローチしたのが黒田亮である。勘を学問的に究明するより、勘の冴えた技を見せるほうが楽しいだ

ろう、とは思うけどね。ま、そのためには生涯を捧げなければならない。とにかく、学問的に究明したくなる気持ちもわからないでもない。

まず勘を働かせるための前提だけど、基本的な筋肉の鍛錬、手腕の習熟など、若いころというか、ほとんど子供のころから始めなければ間に合わない、と

いう人も多い。

しかし、私は年齢に関係ないという説。私自身は父親が油絵描きで子供のころから絵に漬かっていたという幸せ者だけど、イッキ描きでは『描いていると

きが一番』という理念だから、描き始める年齢なんて関係ない。

基礎鍛錬も、基本的には無関係。あったほうがより楽しいかも。より長く深く楽しめるという利点はある。絵以外でも同じだろうが、とにかく広大かつ深

遠なる技と精神の世界。

でも、どんな熟達者だって、最初は初心者だったのだ。誰でもみんな『生まれて初めて』筆を持ち、ギターを持ち、竹刀を持ち、スケート靴をはいたのだ。

それが何歳かなんて関係ない。問題はしつこく食い下がること。何かに喰らいついたスッポンのように頑張り続けること。止めないこと。これが問題だ。

 

16年1月1日

あけましておめでとうございます。

いつも、つたないページを読んでいただき、まことにありがとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

本日は更新日ではないけど、元旦なので更新する。次の更新日は平常通り1月9日(土)。変則更新と言っても1日早いだけだ。

自分の暮らしが正しいかどうか、正しいわけがない。破綻しているのだからダメだ。これが小説なんかだったら起死回生、一発逆転なんてこともあるのだ

ろうが、現実は厳しい。

能の世阿弥も男時女時(おどきめどき)と言って、いい時も悪い時もあると諭しているけど、悪い時はこのままずっと悪いような気分になる。良寛様は「

災難にあったときは災難にあったように、死ぬときは死ぬように」と教えているが、実際の当事者になると、そう悟りすましてもいられない。

いやいや、海底の岩礁にならなければいけない。海上で波がどう荒れくれようとも、頑として動かない不動の精神が必要である。もっとも、私の場合、こ

の路線で行くしかないけどね。いろいろな本を読むのも自己正当化しているだけ。

それにしても反対意見てあるよね。

ネットで映画『そして父になる』の批評を読んだときにはびっくりした。映画自体の評価は高かったけど、父親像や私立受験に対する考え方など、私とは

まったく正反対。ま、そういう人がいなければ私立学校は成立しないから致し方ない。私みたいな超庶民派、公立大絶賛だけではやってゆけないかも。

反対意見はあって当然。それが健全な社会だ。

ちなみに、私がいたころの早稲田大学は公立出身者が高等学院などから来た生え抜きの早稲田マンを圧倒していた。問題にしていなかった、というか眼中

になかった。早稲田は在野精神の大学だからね。申し訳なかったかも。40年以上昔の話だけどね。

 

15年12月26日

前回の唇感を読むと、わがイッキ描きの方向性はとても正しい、ような気がする。ま、正しくなくても正しくてもこのまま行くしかないけどね。ほかの方

に迷惑だけはかけたくないが、家内にはとてもご迷惑。実に申し訳ない。

それにしても、道元なんかはとても厳しく仏道が唯一の道だと強調する。他の教えをすべて外道として排斥する。ま、しかし、道元は他の教えに従ってい

る人を殺そうというわけじゃない。それは当たり前だ。転向して仏道に従うことを大いに喜ぶ。両手を広げて門戸を開放している。

とはいっても道元の教えも釈尊の教えそのままではない、らしい。この前読んだ『仏教、本当の教え』(植木雅俊・中公新書)に書いてあった。道元も日

蓮も釈尊の教えを曲げているけど、その曲げ方は悪くはない、みたいな言い方だった。あそこのところをもう一度読み直さないといけないが、もう図書館

に返却してしまった。

とにかく、私は仏教徒ではない。道元のように他の教えをすべて排斥できるほど立派ではない。もともと無理だ。やっぱり私は絵画教である。だって、仏

教なんてまったく知らない、というかお釈迦さまと同年代の古代ギリシアのフィーディアスの彫刻を外道だと言って排斥できないもの。排斥どころか、む

ちゃくちゃ尊敬している。そういう論法でいったら、ミケランジェロとかレンブラントなんて完全なキリスト教だ。ああいう現実をどうやって説明する

だろう。現実というのは素晴らしい作品という意味だ。美術においては、作家は死んでしまっても作品が現実として目の前にあるのだ。

まったくルーブル美術館のサモトラケのニケなんて、ギリシアが目の前にある。

本心、私は儒教も老荘思想も排斥できない。そんなに偉くない。というか単なるクソ絵描きだ。立派な沙門(=仏教徒)ではない。

 

15年12月19日

「絵の出来に拘ってはいけない。描くこと自体に価値がある」というわが絵画理論は、絵が下手なヤツの言い訳みたくも取れそうだが、これは道元の教え

にもある。悟りとは悟ろうと修行するそのときにすでに成就されているという教えだ。

これは『勘の研究』(黒田亮・講談社学術文庫)にも述べてある。113ページ。「第八章動作および意志過程における勘」の最終部分だ。

「かく最後の目標たるものにのみ執着を持つことなく、それにいたるまでの途中の一歩一歩が仕事全体に対して有する重要な意味は、勘心理学の立場から

は理論的に肯定されるばかりではなく、実践的にとくに力説せらるべきものである。(中略)結果や結論を追うに急にして、それに達する経路を顧みない

のは、いまだその道に理解あるものということはできない」と主張している。

その前段では、

「動作を営みつつあるときに感ずるおもしろみにおいてもまた同様である。一つの有意的動作がなされつつある途中に、絶えずわれわれは動作の目的を意

識しているものでもなければ、また動作の結果から生ずる快感によって動作が左右されているものでもない」

こう断じてから、『勘の研究』は「第九章 剣法の極意」(読了済み)「第十章 役者論語に現れたる覚」「第十一章 世阿弥の芸術」と続いてゆく。興

味津々。さらに「第十一章 荘子の解釈」と来て「第十二章 禅の見方」と続く。これは読みたくなるでしょ。この後も短い章が続いて第十八章で終わる。

長谷川利行の絵などを見ていると、色の配置などに素晴らしい勘の冴えを感じる。酒を飲みながら描いていたから冴えるのだ、という人もいるけど、私は

現場で見た感動をイッキにキャンバスにぶつけているからああいう絵ができるのだと思う。おそらく後で手直しはしていないだろう。手直しのできる絵で

はない。

この前上野で見たモネの『印象・日の出』も一気呵成に描き上げている。勘が冴えわたった傑作だ。牧谿の水墨画もすべて同じ理論。雪舟の『破墨山水』

も同様。宮本武蔵の『枯木鳴鵙図』もこれまた同様であることは誰が見たって一目瞭然。

すべて勘のなせる業。

したがって、われわれの絵も、描くときにどうやって勘が冴えた状態に自分を持って行っているか、にかかっている。そのために展覧会なども利用する。

それはある程度の緊張を生む。また、普段の運動や体操などの体調管理も重大になってくる。

ま、偉そうなことを言っても、描いている最中が無性に楽しいだけのことだけどね。それが女性の裸となれば、レンブラントでも羨ましがらせる絵画生活

でしょ。

ここまでわかっていて、なかなか描けない。本当にゴメン。

 

15年12月12日

12月の上旬まで絵を描きまくっていたけど、ここのところ、ほとんど描いていない。豊橋でぶらぶらしていた。007の新作映画を見る予定だったけど、金

がなくなって見られなかった。なにも劇場こだわることもない。来年、DVDで見てもいい。数年後にテレビの地上波初登場で見てもいい。

でも『スターウォーズ』は絶対に劇場で見る、と家内が言い張っているから、私も付き合う予定。男女が仲のいいことを付き合っているというけど、あれ

もヘンな言い方だ。私も家内に付き合う。65歳と64歳だけど、付き合っているから付き合う。

でも、長い映画を劇場で見るのはオシッコを我慢しなければならないから過酷だ。数年前の『スターウォーズ』では映画の途中でトイレに行ってしまった。

無理だよ。3時間も我慢できるわけがない。バカバカしい。行くに決まっている。漏らしたら大惨事だ。共和国も帝国もないべ。

これから12月の絵画後半戦が始まる。

クロッキー会が2回あり、100号があり、年賀状150枚以上が待っている。年賀状もバカにならない。墨を磨って150枚描くのはハンパない絵画ショーだ。猿

かぁ〜。牧谿だよね。最近は宛名も手書きで書いているから、ますます大仕事だ。100号や年賀状の合間にもう一度海にも絵を描きに行きたい。行けるだ

ろうか?

とにかく豊橋に行く前に地塗りをしておいたキャンバスは100号2枚を含めて40枚以上ある。年内にこれに描き尽くす所存。出来るだろうか?

じゃんじゃん描くよぉ〜〜〜。

 

15年12月5日

ブログにコメントをしてくれた若い人が実にお上手にわがイッキ描きを評してくださった。イッキ描きがギリシア彫刻とか禅僧の墨跡に通じているような

お話だったけど、いやいや、まったく通じたいところだけど、なかなかそれは難しい。むずかしすぎる。はるかに遠い永遠のテーマなのかもしれない。

だけど、古代ギリシアのフィーディアスにしても、南宋の牧谿にしても、私自身にしても、まちがいなくホモサピエンスであり、一度の人生を生きている。

ま、フィーディアスや牧谿に出会えただけでもありがたい。でも、自分でも描くなぁ〜、やっぱり。通じていなくても描くなぁ〜。描きたいものね。描く

よ。

本心、理屈で結びつけたいとも思うけど、それは無理というもの。

古代ギリシアは奇蹟の時代。アテネなんていう狭い場所によくあれだけ集まったよ。コアな時代は100年ぐらい。このなかに彫刻、哲学、天文学、演劇な

どが圧縮していた。凄いね。絵画も素晴らしかったという噂。音楽も相当のものだったらしい。

また、中国の南宋時代。まったく「南宋時代」という四文字を見るだけでワクワクする。水墨画はもちろん、陶磁器も凄い。仏教も凄い。儒教も凄い。あ

の儒教の朱子学は南宋時代に出来あがったのだ。日本の江戸時代を思想的に完全支配した。

私は全面的に古代ギリシアと中国南宋時代を支持している(朱子学はよく知らない)。惚れ込んでいる。そういう人間である私が現代に生き、絵を描いて

いる。それは確かだ。

また、美術史を見渡せば、私と同意見の人はいっぱいいる。ルーベンスもプッサンも古代ギリシアに惚れ込んでいた。

ついこの前、テレビで見た北斎の肉筆画には確かに牧谿の『遠寺晩鐘』があった。夏珪もうかがえた。北斎も南宋を見ていたんだなぁ〜、と嬉しくなった。

惚れて、自分も描く。これだけのことだ。

 

15年11月28日

100号なんか描いたってどうにもなりはしない。等迦会もマイナーな団体でほとんどの人は知らない。以前はけっこう発展的な時期もあったが、最近はど

うもイマイチ、か? 私も20年以上出展しているけど、会の中身はよく知らない。昔のほうが実力主義だったような感じもする。会を運営する都合もいろ

いろあって、ほとんど門外漢の私には何か言う立場ではない。だって、みなさん、会のためによく働いているもの。びっくりする。あれってお金もらって

ないのだろうか? 無理だよ。出来ないよ。出展させてもらうだけでもありがたい。それは年間6万円の会費はあまりにも巨大だけど、家内も致し方ない

と言うし、とりあえず来年も出す。というか、これから100号をガンガン描く。

100号は縦162.1p。だいたい裸婦の等身大だ。私はなんの策もなくただギリギリいっぱいに二人の立ちポーズを描くだけ。ま、毎年4人の裸婦を出し続け

ている計算だ。ただ、4人出すには最低でも12人ぐらい描く。目標は20人。100号10枚だ。それだけ描いて2枚(=4人)だけ出展する。それがイッキ描き

100号画法だ。

で、描く場所は外。狭い庭を行ったり来たり。でかいキャンバスをあっちに運び、こっちに運ぶ。真冬の外は寒いけど、雨も少ないし、十分描ける。全然

問題ない。

外だから近所の人にも見られてしまうけど、きっと「あっ、また始まった」とお思いのことだろう。大きな音はしない。だけど多少画用液や絵具の匂いが

漂うかも。実に申し訳ない。

 

15年11月21日

ブログではアルベール・マルケ(1875〜1947)の話題。

マルケはフランスのボルドー出身。私が40年前に1年間留学した都市だ。留学の理由に、ルドンとマルケの故郷、というのもあった。実際、ボルドー美術

館(毎週水曜日が無料だったので、ほぼ毎週通った=徒歩5分のところに下宿していた)にはマルケの絵がいっぱいある。展示されているわけではないけ

ど、墨で描いたみたいなクロッキーは山ほど所蔵している。

マルケにはフリーハンドの魅力みたいな、なんとも朴訥な、身近な、やさしさがある。「どうだ、巧いだろ」というような感じがない。しかし、実際には

途轍もなく巧い。ヨットの帆から透かして見える風景などをさりげなく描いている。原画をよく見ても、ただ油絵具でそのまま描いてあるだけだ。遠く離

れて見ると、帆に透けて向こうの風景がある。素晴らしいね。びっくりする。「ああ、ただ描けばいいのか」と納得するけど、実際にやってみると出来は

しない。描けないよぉ〜。

だから、大変な技巧派なのに、つんと澄ましたエリート臭が少しもない。優しいおじさんだ。いやいや、実際には会ったこともないけど、そういう感じが

する。

でも、人体は下手。マルケ展に行くと風景ばかりで、本心つまらない。ゴメン。本音です。

やっぱどうしてもヴュイヤール(1868〜1940・フランス)のほうがいいかな。う〜ん、モランディ(1890〜1964・イタリア)もいいね。この三人は近代ヨ

ーロッパ絵画の小さな宝石だね。尊敬というより、敬愛しちゃう。いつもいつも見てしまう。いくら見ても飽きない。

この三人の『絵の話』でも作るか。きっとやらないと思う。その前に、モランディの画像は著作権があって自由に使えないかも。

 

15年11月14日

道元の『正法眼蔵』みたいな絵画論ははじめから無理だ、と思う。いったい道元はどういう気持ちで『正法眼蔵』を書いたのか? 若き道元が書いた『普

勧坐禅儀』の墨跡が残っているけど、その襟の正しさは素晴らしいものだ。思わず背筋が伸びる。ちゃんとしている。きっちりしている。厳しさに満ち溢

れている。微塵の妥協もない。

凄いね。あの意欲、情熱。

われわれがじたばたしても足元にも及ばない。

じゃあ、私の絵画論は何で書くのだろう。一般の人に絵というものを理解して欲しいからか。自分の絵を弁護する方便なのではないか?

道元は仏法で一般大衆を目覚めさせ、苦しみから救ってあげようとしている。仏法にはそれができる力があると信じ込んでいる。道元にとって仏の教えが

正しいのは大前提だ。

私のは、自分の画法が絶対正しいとは思いこんでいない。ライフルで絵具を打って作品を作る人を見ると「あれでいいのか?」と迷ってしまう。いやいや

実際には「ふざけるな!」と思っているけどね。だけど、ちょっとは考えちゃう。なんてったって、天下のNHKのEテレが日曜日のゴールデンタイムに2回

も放送するのだ。まずは自分の信念を疑うのがフツウ。

嫌になるよ。

ま、NHKがクソバカなんだけどね。放送局だってネタがなくなるもん。ライフルで絵具の固まりを打って絵を作るなんて、映像としては最高に受けるでし

ょ。でも、NHKが受け狙いとは?

国立新美術館でその女流画家の展覧会もやっているらしい。国家とNHKか。謝るしかないよ。

ま、そういうふうに迷っているうちは自分の絵画論なんて書けないわけ。道元は20歳代から迷いがないんだから。『普勧坐禅儀』は27歳ごろの著作だと思

う。

あたしゃ65歳だよ。それでこんなに迷っているんじゃ、話にならないよ。いや、実際の絵は迷ってない。というか、もうこの歳じゃ迷えない。でも、絵で

衆生済度ができるなんて確信できないでしょ。言い張れるか? 一般的には無理がある。

根本的な衆生済度ではなく、一服の清涼剤? それも疑問。描いている爺がむさ過ぎる。清涼剤から一番遠いところにいるもんね。情けないよ。

はい、でも書きますよ、一応、死ぬ前に。もっとも、このホームページやブログで言いたいことは言いつくしている感じもある。

 

15年11月7日

人は切羽詰まると驚くほどの力を発揮することがある、と思う。一般には信じられないようなパワーが出る、のでは。私は才能主義ではないけど、そうい

うパワーはちょっと信じている。

私は子供のころからの鼻詰まりで鼻だれだった。今でも風邪をひくとすぐ鼻にくる。しかし、風呂で丹田呼吸をしていると、鼻がすーっと通ってくる。息

がゆっくりになり、呼吸困難みたくなる。丹田呼吸では口を開けない。呼吸の窓口は鼻しかない。そうなると、自動的に鼻が通るのだ。不思議だけど、切

羽詰まると鼻詰まりも治ってしまう。

絵でも、現場に行って、なかなか描き始めない。最後に時間がなくなって、無我夢中で描いたSMなどに自分でもびっくりする造形の妙が得られたりする。

『勘の研究』(黒田亮・講談社学術文庫)にはそういうことが書いてある、らしい。まだ読んでいない。臨済宗の悟りについての言及もある。昔の剣術に

ついても書いてある。だいたい、黒田亮(1890〜1947)という人は昔の心理学者だ。この65歳の私から見ても、祖父に当たるぐらいの人だ。でも、私が以

前から買っている日本の古き良き時代1910年代に東京帝国大学で学んでいる。

江戸時代以前の剣術は生死にかかわる。私が習った剣道とはちがう。剣道でも「相打ちを狙え」と言われた。剣道は相打ちになっても死ぬことはない。一

瞬遅ければ試合に負けるだけだ。当り前だけど、真剣だと死んでしまう。そうなってくると、素晴らしく勘が働くのか? でも、相手も生死を懸けている。

で、勝ったほうが正しいのだろうか? 勝負の世界では勝った者が正しい・・・だろうか? 相撲などを見ていると「相撲に勝って勝負に負けた」などと

いうこともある。

絵の場合も、あまり作品の出来に拘ると貧しいことになる。さもしい画面になる。いつも堂々としていたい。ま、イッキ描きの場合、堂々としていること

に関しては心配ない。ただ、この画法が正しいのかどうか、それはわからない。

ところで、ここ数日はまっているピサロはイッキ描きではない、と思う。モネは間違いなくイッキ描きだけどね。

で、『勘の研究』はイッキ描きの表向きの理論武装に役立つ感じがある。しかし、根本のところは大きく食い違うだろう。だって黒田は道元がわかってい

ないみたいだからだ。

イッキ描きはレベルが高いのだ。きっと。それにしてもおじいちゃん世代の文章は読みにくい。ほとんど古典だよ。

 

15年10月31日

先週の続き、死病の人は余命3年と言われると「家族との生活や仕事をやり遂げたい」と答える。そして「人生は日1日をどう過ごすかである」との結論。

それで、私自身のことを考えると、「仕事をやり遂げる」と言われると、それは絵だろうか? 絵はどんどん描いている。ローテーションを守ってしっか

りやっている。キャンバス張りなどにいつも追われ、最近絵を買ってもらうことが少ないから画材もギリギリだけど、なんとかやっている。ペースは落ち

ていない。ウォーキングも水泳もペースを守っている。日1日をしっかり過ごしていると言えないこともない。けっこう優等生だったりして。

しかし、『正法眼蔵』とは行かないまでも、わが絵画論を書いておきたい。その時間もあるし、発表しようと思えばネット上でいくらでも発表できる。膨

大な絵画論でも可能だ。画像をいくら付けたって文句は来ない。特に古い画像は著作権にも引っかからない、らしい。ま、ネットでの発表の心配より、そ

の前に原稿だ。

で、その原稿を書きまくることにした。どうせスパイダーソリティアをやっているのなら、原稿を書いたほうがいい。新聞だって読む必要はない。携帯ゲー

ムも封印。と思ったけど、そうもいかない。そんなに泉のように絵画論は出てこない。う〜ん、何かで堰が切れれば、激流のように出てくる感じもするけ

どね。もともと画論はあるんだから。でも、書かなければあるとは言えないよね。そこが言語の大きな壁なんだな、これが。

でもインチキな絵描きじゃないところを見せてから死にたいよ。それは絵で見せなきゃね。それは無理、と言えばもう無理。もう間に合わない。今の画法

を変更できないもの。世間の評価なんて知ったこっちゃないのだ。ゴメン。

少なくとも、対象(裸婦とかバラとか海など)と私とキャンバスの間には誰も入れない。私自身入っている自覚はない。グチャグチャだ。そこにだけ時間

があるんだから、余人の知るところではない。

たとえば、モネとゴッホの絵を比べたとき、私にはゴッホがより魅力的だけど、モネがいなくては困る。モネの晩年のバラや藤はあまりにも素晴らしい。

あれはゴッホにもない。37歳で死んじゃったんだから84歳の練達の筆の跡は残せるはずもない。

でも、やっぱり画論は欲しいね。読みやすくて面白いヤツ、書けねぇかなぁ〜〜。なんとかしたいよ。

 

15年10月24日

もし200~300万円転がり込んできたら、やっぱり銀座の文芸春秋画廊を借り切った個展をやりたい。父はあそこで何回か個展をやったはず。1回だけだった

か? 

20年ぐらい前にあのビルに訊きに行ったことがある。会場費だけで1か月70万円。無理だったので、近所のギャラリー和知で妥協した。こっちも1週間42万

円だったけどね。それも十分命がけだった。

文春画廊でやるんだったら、1階にでっかい絵を並べて2階は小品。そのとき、画集も作りたい。で、200〜300万円要る。生活費以外にそんな金が入るは

ずもないけどね。

で、週刊文春じゃなくて週刊新潮の記事(15.10.22号)に『「ドクター南雲」3つの忠告』というのがあって、その終わりのあたりに「何のために長生き

するのか」という小題の記事があった。この項目の前半は老齢の性欲について書いてあり、いや、私も90歳近いティツィアーノの裸婦の絵などを見ると、

この爺さん、絶対におかしい? と思っていたのだが、別におかしくもないらしい。

後半はドクター南雲が仕事柄、多くのがん患者と接し、たとえば「あと3年の命」と言われると「家族との生活や仕事をやり遂げたい」と答える、という。

で、大事なことは「人生は日1日をどう過ごすか」であると結論付けている。まったく私も同意見である。

 

15年10月17日

今は言ってみればオフだ。豊橋展が終わったばかりで、ホッとしている、はず。でも、次のキャンバスやテレピンも買えない。まだ少しある。最近絵を買っ

てもらうことが少ないので画材が買い足せなくなってきている。ま、それでもまだ大丈夫。とは言っても、次の等迦展の100号が苦しい。5枚は描きたいも

のね。出展するのは2枚だけだけど、最低でも5枚は描きたい。等迦展なんて、会費が年間6万円で、5枚100号を描くとなれば、これまた数万円かかる。無

駄なような気もするけど、等迦展がなければ、チョー怠け者人間の私が100号に本気で取り組むこともない、だろう。100号なんて描くわけがない。100号

は等身大の裸婦なのだ。これを描かずして人物画家と言えるか、言えない、と自分で勝手に決めている。さらに、等身大も描くから小品もよくなる。実際

のモデルを見て描く小品も冴える、とこれまた勝手に思い込んでいる。

私みたいにけっこうちゃんと頑張っている絵描きは滅多にいないはずなのに、描いた絵が売れないのは不思議だ。おかしい?

私は、日本は世界一の国だと思っている。世界最高の国だ。平和で豊かで、ノーベル賞もいっぱいもらえる。こういうところで本当の文化が生まれるのだ。

凄い絵画が誕生する可能性も高い。

もちろん、私自身がその凄い絵を描く張本人とは言わない。

だけど、下準備の土壌を作る役ぐらいにはなりたい。自分の芽は出なくても、耕すぐらいのことはやっておきたい。やっていると思うけど、なかなか成果

は上がらない。成果が上がる前に顎が上がる。

16日の金曜日に、モネ展とプラド美術館展に行った。東京国立博物館の常設や根津美術館にも行きたかったが、無理だった。若いころのようには回れない。

18日の金曜日に行けたら行く予定。クラシック絵画をよく見て、自分もガンガン描く。これしかない。

 

15年10月3日

目の前に素っ裸の若い女性がいる。これってどういう設定なのだろうか?

いやいや難しい話ではない。ただのクロッキー会だ。日本中、いや世界中どこでもやっている。

素っ裸の女性がポーズを取り、数分間じっとして動かない。まわりの人がそれを描く。それだけのこと。

しかし、私にとってこの状況は信じがたい夢のような現実なのだ。

いやいや何十年も経験してきた状況だ。よ〜く馴染んでいる。どうということはない。それなのに、ときどき、とても不思議な気がしてくる。

何だ、これ?

と、たまに覚醒する。おかしくないか?

で、申し訳ないけど、とてもハッピーな気分になる。

だって、一番描きたいものが目の前にあって動かない。地塗り済みのキャンバスも筆も絵具も揃っている。自分が準備した道具だ。もちろん自由に使える。

使いたい放題。

これって、夢みたいな状況だ。

私は何よりもこの喜びを筆に託している、と思う。嬉しくてしようがないのだ。ここに私の生がある。最高の「とき」がある。その真っ只中にいる。

 

15年9月25日

風景を描くというのは、風景のなかに立つ、ということなのだ。その景色のなかにいるのだ。溶け込んでいる。海なら、まわり中が海の匂いなのだ。海の

日差しなのだ。波の音だらけなのだ。そこで絵筆を持つ自分自身も点景人物である。

これがわがイッキ描きが風景を描く状況だ。

バラ園では、バラの香りに包まれている。見ているバラと見られているバラが一体となり、バラの状況が出来あがっている。そのなかで描く。描かれてい

るバラと描いている人がバラ園を形成している。バラ園の宇宙がある。

静物も人物も同じようなものだ(人物については何度も述べているけど、また書く予定)。

そこに価値がある。

そういう状況のなかでの筆とキャンバスと絵具の格闘。これが面白いのだ。これが生きているということなのだ。

それ以上でも以下でもない。その状況で完結している。

普段の暮らしも、その状況への準備みたいなもの。本場所に備えるお相撲さんと変わらない。

だから、絵筆の向こうに美なんてない。理想の絵画もない。イッキ描きは絵を作っているのではない。ただひたすら描く、描く状況に浸る、一体化する、

のだ。

この絵画姿勢は、きっと仏の教えに物凄く従っている。同時に現代の最先端哲学者にも納得してもらえる。

『「正法眼蔵」を読む』(南直哉・講談社選書メチエ)を読んでますますそう思った(この時点でもまだ読み終わっていない=残り40ページぐらい。25日

の夜に読み終わった)。

 

15年9月19日

ブログでも何回も取り上げている『かくかくしかじか』(東村アキコ・集英社)では、純絵画(便宜上マンガやイラストと区別してこう呼ぶ。ファインアー

トだと長いし)のいろいろな問題点が浮き彫りになっている。

大問題は純絵画の目的だ。社会的な地位も危うい。美術大学の存在意義も問われる。

ついこの前も「国公立大学から文系を追い出せ」みたいな話があった。

美術に限らず、哲学や宗教もあやしい。

なぜか音楽は許せるね。不思議だけど、音楽はいいよ。現代音楽は願い下げだけど、モーツァルトを見事に再現してくれるテクニックは欠かせない。ま、

実際、美術も印象派以前なら何度見ても飽きない。私なんか、自分が読んでいる本の栞も自分の個展のDMよりモネの割引券のほうがいいもの。モネはい

いよ。まったく。困るね。

もちろん、世間の理系ビイキもバカだ。養老先生も言っている。今は科学教の時代。科学が宗教にとって代わって、万能になっている。

根本的で、致命的な問題は客観がないってことだ。客観がないから科学はないのだ。

そんなこと言ったって、衛星は飛んでいるし、新幹線は走っている。昔の死病も治る。完全に科学は勝利している。いっぽう、原子爆弾が誕生し、原発事

故も少なくない。

科学は大きな間違いでも最先端ならOKなのだ。昔は地球の周りをすべての星が回っていた。地殻プレートは「そういう説もあった」という扱いだった。私

が高校生のときには10年以内に石油が枯渇すると叫ばれていた。というより、それより前に、人類は核戦争で絶滅すると心配された。いやいや今もその心

配はつづいている。現代こそ平安時代なんてレベルではない末法の世だ。やっぱ『方丈記』(←鎌倉時代です)か。

文系をないがしろにしてはいけないよ。

なにをするか?

やりたいことをやる。もちろん他の人に迷惑をかけてはいけない。人殺しをやりたいヤツはまず自分を殺せ。泥棒も困る。諸悪幕作なのだ。

絵描きなら、描きたいものを描きたいように描けばいいのだ。それが本当だ。それが純絵画だ。美術史を気にしてはいけない。「新しい表現」はクソ。無

視。要らない。

古典絵画の共通点を探るのだ。フィーディアスと牧谿の共通点だ。ティツィアーノと雪舟の共通点だ。ゴッホと鉄斎の共通点だ。それは線のよろこび(喜・

悦・歓・慶)なのだ。その線の境地に達するための練習はハンパない。いやいや練習なんて思ったら息が切れちゃう。呼吸になりたいね。さらに鼓動にな

りたい。

 

15年9月12日

3年前に南仏に絵を描きに行ったとき、南仏在住のオランダ人画家に「黒っぽい色を使うな」と言われた。これは日本でもそういうことを言う人は多い。

もともと私は黒を使わない。こげ茶(バーントアンバー)や藍色(プルシャンブルー)をよく使うから、黒と変わらないけどね。

で、ムチャクチャ画法で描きたいように描いている。他の人に言われるとちょっと気にするけど、すぐ忘れちゃう。

「描きてぇ〜〜〜」って気持ちを醸造して、イッキにキャンバスにぶっつける。だいたい気持ちが強すぎて絵が壊れちゃう。もともと絵を作ろうとしてい

ないからなおさら仕上がらない。

いいの、いいの。10枚描いて1枚残れば十分。私の画法はほとんどスポーツだ。絵具と画用液代が大変だけどね。致し方ない。

ガンガン描かなければ始まらない。

グチャグチャ言ってる暇に描いたほうがいいのだ。描いて描いて描きまくる。描きながら死ぬ。それが理想である。そんなに描いてないけどね。キャンバ

ス張るのも楽じゃないもの。現実はとても厳しい。それでも描くのじゃあああ〜〜〜。

絵だけは頭が良くたって描けやしない。そりゃ、頭も悪いよりいいほうがいいだろうけど、頭なんて関係ない。描かなければ、むかしの偉い画家の線描は

得られないのだ。これは絶対だ。

 

15年9月5日

7月末から8月初めにかけてロシアでやった世界水泳の競泳をテレビで見た。その後、8月の高校総体の競泳も見た。見比べると、世界水泳は流麗に泳い

でいる。一見ゆったり泳いでいるように見える。実際には物凄く速い。

高校生の泳ぎは力任せだ。思い切り泳いでいるけど、あくせくしていて、ほんと非合理的。無駄な力が入っている。もちろん、力が入りっぱなしでは筋肉

が痙攣してしまう。だから、高校生も、十分のびのびと泳いでいるはず。それなのに、なんか未熟なのだ。もちろん、私なんかよりはるかに速い。のろの

ろ爺に言われたくないかもしれない。ゴメン。それにしても世界レベルの泳ぎは実に見事。日本人が3つも金メダルをとった。萩野公介抜きで3つ。凄い。

幕下相撲も同じ。幕の内の相撲とは、ほんとレベルがちがう。

幕内に入ってからも、一皮むける力士がたまにいる。「化ける」って言うんだっけ? 千代の富士なんて本当にガクンと強くなった感じがあった。

やっぱり人間は上達するのだろうか?

絵も上達するのだろうか? 富岡鉄斎とかモネとかミケランジェロは明らかに上達している。80歳を超えてさらに上達している。計り知れない。

だけどほとんどの画家は晩年衰える。ヴュイヤールもゴテゴテになってしまう。なんか一番いいところが抜け落ちている。あの床をハイハイする赤ちゃん

の絵みたいな新鮮な感動がなくなってしまう。プッサンも最晩年の絵は黒っぽくてわけがわからない。

日本の大巨匠はほとんど尻つぼみ。情けない。

ま、私は異分野だと思っている。別世界の人たち。私自身がどうなるかはわからない。今でも私の昔の絵のほうがいいという人もいる。でも、私の絵は日

本画壇には無関係。勝手にやってくれよ、って感じ。

 

 

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