唇 寒(しんかん)集45<14/7/5〜>

 

14年10月25日

私が同意できる美術史の限界はピカソまで。デ・クーニング(今ブリヂストン美術館で展覧会中。来年1月12日まで)も十分うなずけるけどね。ホックニー

なんかもいいね。

ま、そういう人たちはとにかく筆で描いている。筆の人だ。

で、いま新しがっているコンテンポラリーだかコンセプチャルだか知らないけど、意味不明ないろいろな表現? けっこう昔からあったような気もする。

でも、ギリシア彫刻からピカソまでの2500年にわたる美術史とここ数十年の大躍進?

人間てそんなに進歩するだろうか?

飯食ってトイレ行って風呂入って寝ているだけだ。五万年前から変わらない。ま、風呂はなかったかもしれないけど水浴びはしていいたと思う。臭くてや

りきれないもの。

現代を高く評価し過ぎじゃないのか?

生物はそんなにいっぺんに進化しねぇべ。

しっかり物を見て描く修業をするべきだ。デ・クーニングやホックニーはちゃんとデッサン修業をしていると思う。もちろんピカソも。デッサンやってな

きゃ絵じゃないだろ。

つまり、空間を平面に変換する能力のことだ。そこに線があって調子があって構図がある。何十年にも及ぶ線の修練があって、その積みかさねた技に共感

するのだと思う。そこが絵画の最低ラインだろう。

音楽ではピアノもギターも最低の技術が必要である。アートだけがでたらめになりかかっている。頭を冷やしたほうがいい。美術大学はただひたすらのデッ

サン修業の場でいいと思う。

派手なインチキ芸術家の養成所ではないはずだ。

9月20日に、豊橋展に出品予定のうち16点を選んでアップしました。この上の『2014年度豊橋ギャラリー公園通り出展作品集』をご高覧下さい。

 

14年10月18日

それにしても、現代アートの動向は凄まじい。ウィキペディアで「西洋美術史」と打ってみると、20世紀以降は訳がわからなくなる。ほとんどがカタカナ。

とてもついて行けない。ついて行く必要もない、と考えている。だって、実際の作品を見てもわからないもの。つまらない。全然興味がない。別分野だと

思う。

こういう最近のアートの傾向とギリシア彫刻が同じ西洋美術の範疇にはいるのだろうか?

制作者は同じ意識なのだろうか?

その前に、ギリシアの彫刻家の意識が解明されているのだろうか?(=解明されているわけもないけどね)

だから、それは解釈である。推理である。個人個人のわかり方になってしまう。それでいいのだ。これまた当り前のこと。

現代アートとか言って、めんどくさい屁理屈を並べて、意味不明の造形を見せられても何にも感じない。うざい。

屁理屈ならイッキ描きも負けてはいない。この夏には『哲学入門』(戸田山和久・ちくま新書)を精読したばかりだし、もっと意味不明な道元の『正法眼

蔵』は枕元に積んである(ほとんどツンドク。ゴメン)。脳科学の本もしょっちゅう読んでいる。ついこの前も『脳には妙なクセがある』(池谷裕二・扶

桑社新書)を読んだばかり。

で、結論だけど、人はやりたいことをやればいいのだ。もちろん犯罪や弱い者イジメは論外。厳禁。

で、さらに世間をよく見渡せば、人はけっこうやりたいことをやっている。お勤めの会社員の人も、いい服着てガラス張りのビル街で大活躍している。あ

れはあれで、けっこうやりたいことなのではないか。やりたくなければ辞めている、と思う。

私は絵具だらけのボロ服ばかり着ている。気にしていない。洗濯がしてあればどんな服でもいい。履物も理想は素足にビーチサンダルだ(さすがに真冬は

無理)。

私はいくら現代アートが新しいことをやっても筆で絵を描く喜びを否定できないと思う。ホモサピエンスは筆で絵を描くことが好きである。歌ったり踊っ

たりするのと一緒だ。ま、鑿で石や木を削るのも同一だと思う。どんなに現代アートが主張しても人が絵を描く行為を撲滅することは出来ない。そして、

若い人がデッサン修業をすることは絶対に必要である。ピアニストがバイエルを学ぶのと同じ。美術大学などがその修業を否定するのなら、学長をトンカ

チでぶったたくしかない(=実際にやってはダメ! ピコピコハンマーならOKかも)。

 

14年10月11日

豊橋展のためお休み。

 

14年10月4日

今は個展寸前だ。この時期に絵を描くと上手くゆく確率がアップする。そこで、今週は20枚の油絵を描く予定。すでに絵画教室で6枚描いた。金曜日の朝

は芙蓉を1枚描き、クロッキー会の裸婦13枚で20枚の予定だったが、モデルが遅刻したためクロッキーは12枚となった。だから、合計19枚。土曜日のマン

ション勤務は遅番なので午前中にまた芙蓉が描ける。地塗り済みキャンバスもまだ数枚ある。

形をちゃんと捉えて、形に惑わされず、色を使いこなして、色に迷わず、背筋を伸ばして、息を吸い込んで、イッキに描く。最近やっとここまでわかった。

わかったけど、それが実行できるかどうかは別問題。今朝の芙蓉もクロッキー会もそうやって描いてみた、というか、今までもそうやって描いていたけど、

割り切ってはいなかったかも。

特に裸婦には迷う。塊があり、筋肉が波打ち、骨格が躍動する。バストやお尻も付いている。迷わないほうがおかしい。クロッキー会には、元気いっぱい

万全の体調で臨んでいるのだ。迷って普通。正常ということだ。その迷いのエネルギーを造形に差し向けなければならない。

ルオーの30歳代の裸婦の水彩画のように。ロートレックの巨大な油彩画のように。ゴッホの30号の風景画のように。

ま、そういうヨーロッパ人はみんな30歳代。私は64歳だから父親に当たるような年齢だ。歳は関係ない。意欲がある限り描くのだ。当り前か。

上記3人の画家には全面的に同意できる。それは、東洋の画人の心意気にも通じる。雪舟の破墨山水にも通じる。ルオーが、梁楷の撥墨仙人図を見たら腰

を抜かしたかもしれない。撥墨仙人図は700〜800年も前の中国人の水墨画なのだ。一発で人体の量感を捉えている。

梁楷の撥墨仙人図は台北故宮博物院のホームページですみずみまで見られる。

9月20日に、豊橋展に出品予定のうち16点を選んでアップしました。この上の『2014年度豊橋ギャラリー公園通り出展作品集』をご高覧下さい。

 

14年9月27日

絵は理屈どおりに行かない。ふつうは、とにかく見たままを描く。見えたとおり描く。自然は美しい。そのとおり描けばいいのだ。

しかし、実際には描けない。絵の具は実際の自然物の色とはちがう。当り前である。当り前だけど、われわれはそう思っていない。絵を描くとなればなお

さら、描けると思って紙やキャンバスに向かう。それも当然のこと。

幼い子供は自分のクレパスの色数が足りないと嘆く。金持ちの子は36色セットを持っているけど、俺は18色しかないから描けないと思ってしまう。そう言

えば、私のレンブラントパステルセットもどっか行っちゃった。あれは72色はあったと思う。何でも描けるはず。

しかし、実際の花でも風景でも描けるものではない。裸婦は女性の肌を再現するのは無理である。絵の具やパステルの色数ではない。

世間には精密描写があるではないか!

とおっしゃるが、精密描写の絵をよく見ていただきたい。長い時間じっくりご覧いただきたい。精密描写でなくてもミケランジェロでもいい。ルーベンス

でもいい。レンブラントでもフェルメールでも、とにかく穴のあくほど見ていただきたい。

すべて作ってあるのだ。画面上の造り事である。

当り前だけど、われわれはコローの夕景を見ているのであって、実際のフランスの田舎の夕方のなかにいるわけではない。この21世紀にもフランスの田舎

に行けばコローと同じ景色がある。凄いね。ヨーロッパ人は自分の「ふるさと」を死守している。

われわれがフランスの田舎に行くのとコローの絵を見るのは全然別の行動だ。

もとより両方とも悪くはない。是非味わいたい。でも、脳が感受する場所はまったく別の場所だと思う。

で、描くときの心得だけど、花に惑わされてはいけない。感じたままを好き勝手に描けばいいのだ。

というのは、ここ数日、わが家の酔芙蓉に惑わされっぱなしだから。だって好きなだけ自由に描けるのだ。庭にイゼールを置きっぱなしにして、描きたい

ときに描いていいのだ。こんな絵画環境は初めてだ。あちこちの現場で描いている借り物絵描きにとっては夢のような状況なのだ。

酔芙蓉は限りなく美しい。蚊の攻撃も凄まじい。

先週、豊橋展に出品予定のうち16点を選んでアップしました。この上の『2014年度豊橋ギャラリー公園通り出展作品集』からお入りのうえ、ご高覧下さい。

 

14年9月20日

私の父も私みたくいっぺんに数枚の絵を描いていただろうか? 私の描き方は独特なのか。いっぺんに6〜7枚も描く人はいないかもしれない。少なくと

も、美術大学では教えない描法だ。

父は2〜3枚は描いていたようにも思う。はっきり覚えていない。

一般的には1枚の油絵を1回3時間ぐらいで描くだけでも速描きの部類に入る。私だって若い頃は1枚の裸婦(F60ぐらい)に2週間かけていた。2週

間とは言っても月曜日から金曜日までだから10日間だ。おそらく1日5ポーズだったと思う。全部で20分ポーズ50回をやったわけだ。合計16時間余り。

ま、それは若い頃で、30歳ぐらいからは既にイッキ描きで描いていた。

私の独創というけど、でかい絵から描け、という教えは父から聞いたようにも思う。

長谷川利行もいっぺんに何枚か描いたと思われる。同じような絵がけっこうある。

現在実践している私としてはこの描法はとても妥当だと思う。だって描きたいもの。何枚も描きたい。でも体力が続かない。体力の限界が7枚ぐらいか。

裸婦のクロッキー会では13枚描くけど、それは裸の女性がポーズをしているという「あり得ない」状況だからだ。そんなあり得ない有難い環境だったら2

倍パワーで頑張っちゃう、だろう。

おかしいよ。若い女性が裸だなんて、ヘンだもん。描くでしょ。いくら描いてもいいんだから。

風景や静物は7枚が上限かも。それも最近顎が上がってきた。いやいや、まだいける感じもある。

本日、豊橋展に出品予定のうち16点を選んでアップしました。この上の『2014年度豊橋ギャラリー公園通り出展作品集』からお入りのうえ、ご高覧下さい。

 

14年9月13日

「絵を描く目的はいい作品を生むためではない。描く行為そのことに価値がある」という主張はあまりにも一般的ではない。ご理解いただくのは不可能に

近い。

しかし、いい作品とは何だろう? 一生懸命に描いてある絵だろうか? 「一生懸命」はけっこう頂けない、うざい。

「いい絵」というのはある。間違いない。それを目標にわれわれも描く。そう考えるのが普通だ。そういう手順を踏むのが作業というものだ。

しかし、絵を描くって作業だろうか? う〜ん、絶対に作業だよなぁ〜。

でも上手くいかない。思うように出来ない。自分ではいいと思ってもダメな場合も多い。

とにかくたくさん描かないとましなものは出来ないけど、それは確率かもしれない。

家や道路を造るようには行かない。そんなに計画的なものじゃない。

平幕力士が横綱を倒したり、ピッチャーがホームランを打ったりするような、よい偶然が重ならないと出来ない。

もちろん、日頃の精進とか、画材とか、体調とか、いろいろな、自分で調整できることはやっておく。すべて調えて現場に行ったら大雨、なんてこともあ

る。

美術館に行って、古典絵画をたくさん見て、ついでに焼きものなんかも見て目を肥やす。そういうことも自分で調整できる。ま、好きなことやっているだ

けだけどね。

そうやって出来ることはやっておいて、出来るだけたくさん描く。これがましな絵を生む秘訣だと思うけど、成功率1割以下の絵描きが偉そうに言っても、

誰も納得してくれないだろう。でも、年間500枚描けば、成功率1割でも50枚はましな絵が出来るのだ!

そうなってくると、いい絵に期待するのはバカバカしくなる。とにかく描かないと始まらないのだ。じゃんじゃん描く。仕上がり結果なんか気にしていら

れない。自分で調整できることは出来るだけ頑張って最高の画材と最良の体調で臨む。

だから、描くこと自体に価値がある、という結論に達する。そう思ってないとやってられないもの。

狙っていい絵が出来れば、そんな楽なことはない。世の中そんなに甘くない。

 

14年9月5日

『フェルメールの仮面』(小林英樹・角川書店)はもうじき終わりそう。主人公の模写の師シャセリオはとんでもないモンスターだった。『フェルメール

の仮面』によればルーブルは模写だらけ。『モナ・リザ』も真筆は地下の収蔵庫の奥深く眠っているらしい。

「人類の宝を、現在の人間に公開して寿命を縮めさせることは出来ない」「人類の偉業をこの奇跡の惑星に残さなければならない」だって。

『モナ・リザ』を見て、その真価を理解できるかどうかわからない遠い未来の人間や異星人に見せるより、旅客機の狭いシートで何十時間も我慢してルー

ブルに見に来る「現在の人間」に真筆を見せるほうがよっぽどまともな考えだと思うけどね。そのなかには若い画学生もいるわけだし、レオナルドの息吹

を目の当たりにしてもらいたい。

そう言えば、この前の台北・故宮博物院でも巨然の真筆を見た。もちろん『フェルメールの仮面』の話が本当なら、あの巨然も怪しいけど、「んなわけね

ぇべ」という常識で、私には初めての巨然だったわけだ。だから何度も戻って見た。巨然と言えば、牧谿の源流だ。中国江南絵画の祖だ。だから、そう思

って心をこめて拝観した。でも、さっぱりわからなかった。私がむかし6万5千円で買った二玄社の複製画『層厳叢樹図』とはちがう絵なので、見る意欲が

足りなかったかも。

全然感動出来なかった。まさか複製画を持って来たわけではないと思う。

いやいや複製画とか模写という説にはどうしても納得できない。『フェルメールの仮面』ではローマ時代のギリシア彫刻の模刻の話もよく出て来る。ロー

マンコピーとギリシアオリジナルを同列に語っている。「そりゃないよ」というのが私の見解。大英博物館でギリシアオリジナルを見たけど、素晴らしい

生命観と躍動感に満ち溢れていた。どうも『フェルメールの仮面』の尺度はトンチンカンだ。

ま、とにかく最後まで読んでみる。

 

14年8月30日

『フェルメールの仮面』(小林英樹・角川書店)は小説仕立てになっている。

最初のところに、パリで模写を専門に教えるアカデミックな私塾が登場する。その主宰者はシャセリオという画家。毎年5人ぐらいしか塾生を取らない。

シャセリオ先生の教えはイッキ描きを大いに支持していた。

入塾1年目には、人物クロッキー、人物と石膏のデッサン、細密画の課題。2年目はさらに人物画。「この世界では人物が描けなければ通用しない」だって。

よく聴く話だけど、こうやって断定されるととても嬉しい。

また、「人間の精神、内面を描き出す手段は、顔、とくに目に象徴される表情、それに手である」「手を見れば画家の力量は即座にわかる」と来た。

奇しくも、わが絵画教室でも最初に顔と手の模写をお勧めした。誰にも理解されなかったけどね。悲しいよ。シャセリオ教室とちがうところは、こっちは

仏像の顔や手からも学ぼうとした点だ。顔や手は東洋美術でも最重要視されている。

また、画材の選定、画用液の効果。逆にこうしてはダメという教えなどもわがイッキ描きと符合する。もっともわがイッキ描きは『油彩画の技術』(グザ

ヴィエ・ド・ラングレ・美術出版社)に基づいているのだから、堅牢性や発色などまず文句はないはずなのだ。

やっぱり美術の本は楽しいね。私は小林英樹はほとんど読んでいると思う。小林は私より三つ年長。東京芸大油絵科卒で愛知県立芸術大学の教授である。

偉いのだ。

私の場合は、裸婦を描きたくて描いているだけだから偉そうなことは言えない。でも、風景や植物もとても描きたくなる。それは牧谿や徐渭の影響だと思

う。モネの晩年の花の絵からの影響も大きい。

イッキ描きは一見まったくいい加減だけど、ちゃんとした哲学や絵画技法に則っているんだから凄いよ。ダイジョブ、ダイジョブ。

 

14年8月23日

『「自分」の壁』(養老孟司・新潮新書)の21ページ以降には「口の中にあるツバは汚くないのに、どうして外に出すと汚いの?」という子供の疑問につ

いて書いてある。それが大便や小便の話になり生首の話になる。切り落とされた手首でも同じ。死体も同様だと思うけどね。外に出ると汚く忌み嫌われる。

首や手も普通に生きている人にくっついていれば、まったく気にならない。当り前である。

で、25ページに「本や論文についても、同じような感覚があります」とくる。そして「自分の書いた論文のことを『排泄物』と表現する人がいます」と言

って、最後に「私も自分の書いた本を読み返したいとはあまり思いません」と書いてある。

じゃあ、絵はどうなるのだろう? 当然見たくないものになるはずだ。

その前に、私は、むかし書いた自分のブログなどを読み返すけど、「うんうん、同じ意見だぁ〜」と同意してしまう。本人が書いているのだから同意して

当り前だ。そんなに厭ではない。絵も、グループ展の会場などで、自分の絵を見るのは厭だ。自分の絵を見ている自分を見られたくない気持ちはある。個

展会場なら自分の絵ばかりだからどうしようもない。お手上げだ。

そんなに厭かなぁ〜〜?

私の場合は、描いた直後の自分の絵は見ない。乾いていないから出せないという事情もある。臭いしべとべとだ。でも、他の多くの人は自分の絵を嫌って

いるようには見えない。むしろ愛している感じがする。ニーチェも人が本当に愛せるのは自分の子供と作品だけであると語っていた。

正直、私は自分の絵をそれほど嫌っていないと思う。でも愛しているとも言えない。むしろ長谷川利行の絵のほうを愛しているかも。長谷川に限らず古典

絵画はどれも見ていたい。深く敬愛している。

ツバと作品はちょっと違うような気もする。

自分の作品を排泄物と言ったのはピカソだっけ? 以前そのことを調べようとして、いろいろなピカソの文献を調べてみたけど見つからなかった。ネット

でも調べたけどダメだった。

 

14年8月16日

『哲学入門』(戸田山和久・ちくま新書)をとても頑張って読んでみて、わがイッキ描きはけっこう最先端の哲学にそっていると分かった。自信を持って

いい。今も『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』(前野隆司・技術評論社)を図書館で借りて読んでいるが、これも最先端の哲学や心理学が紹介

されている。そして、この本もイッキ描きの方向性がまともであることを裏付けてくれた。

で、わがイッキ描きの成果は現代の他の人の絵と比べてどうなのか?

ま、つまり自分の絵がどうか、私自身どう思っているのか。

ということだけど、はっきり言って、どうでもいい。今から絵を辞めるわけにもいかない。腕や手首が辞めさせてくれない。どうせ辞めないんだからいい

というしかない。

しかし、まぁ、自分自身世間を見まわしても滅多にない絵だとは思っている。特に会心の作はけっこう価値があるとの自負もある。数分、数十分で描いた

絵が十万円もするとお怒りの方もいるだろうが、描けるものではない。数百万円と言われると、「そ、そんなに頂いたら罰が当たる」とたじろぐが、数十

万円なら十分妥当だと思う。それぐらいの努力はしている。

本心、今に生きる他の人の絵はどうでもいい。

私が驚嘆してきた牧谿の『遠寺晩鐘』とかラファエロの『アテネの学堂のカルトン』とかティツィアーノの『ニンフと牧童』とか徐渭(人殺しなので最近

はちょっと引いているけど)の『牡丹図』とか鉄斎の『梅華書屋図』など古典絵画はとても大切である。ないと困る。

しかし、同時代のほとんどの絵はどうでもいい。もちろん、なかにはいい絵もあると思う。しかし、それはわからない。そんなの探していたら人生終わっ

ちゃう。美術史家とか美術愛好家、画商などに任せるしかない。デパートや街の画廊にもあるかもしれない。私の絵だって街の画廊にあるわけだし。

やっぱりイッキ描きは最先端を行っていたのだ。でも、実際はお釈迦さまと道元に倣っているだけだけどね。こっちは絵という行為付きだから哲学者より

ましかもしれない。でも、その絵が足枷になることもあるから用心しないと奈落に落ちる。

 

14年8月9日

岩波書店のPR誌「図書」の7月号を家内がゲットしてきた(新潮の「波」も)。

なかに<対談>「芸術と科学の向かう先」という記事があった。対談者は横尾忠則と櫻井芳雄。横尾忠則はイラストレーターから画家に転身した有名人。

櫻井芳雄は脳神経科学の専門家。私は1冊も読んでいない。この対談は横尾の『絵画の向こう側・ぼくの内側━未来への旅』と櫻井の『脳と機械をつない

でみたら━BMIから見えてきた』という本のPRだと思う。私は両方とも読んでいないし、読む予定もない。

私は横尾忠則の絵を高く評価していない。ゴメン。でもダメだとも思っていない。

対談の中で「カルティエ財団現代美術館の依頼で世界で活躍する100人の肖像を描いている」という話。とっても羨ましい。羨ましいけど、気の毒な感じ

もする。描きたくもない絵に大量の時間を奪われるからだ。それも修行だけどね。私だって頼まれれば何でも描きますよ。

ま、短い対談なのでよく分からないけど、横尾と私の考えはあまり合わない。向こうは紫綬褒章やら旭日小綬章をもらうほどの偉人なんだから、私みたい

なスカが論評できる相手でもない。しかし、貰うからには貰おうという意思が必要だと思う。多少はそういう働きかけもあったのだろう。それは絵描きに

は無駄なエネルギーである。絵の向上には妨げになるだけ。

自然から描く話とか、未完の課題など絵画の永遠のテーマも語られていた。しかし、横尾は根本的には二元論者みたい。霊魂などを堅く信じている気配が

ある。もちろん私にはどうでもいいことだけど、冷静に天文学者の宇宙の本などを読む限り、お化けは無理だと思う。さすがに櫻井はいろいろなものを科

学の目で捕らえようとしている、感じがした。

詳しく述べるなら、イッキ描きは自然から描いているけど、自然はキッカケに過ぎない。また、描いた絵にはほとんど手を入れない。未完という意識はな

い。完成という意識もとても乏しい。

横尾に同意できるところは、「今の最先端の美術に興味を持っていないんですよ。興味はむしろ、古典絵画の方へ向っているかも知れません」というとこ

ろぐらいか? でもすぐその後の件はもう全然同意できないけどね。「霊性」とか言っているし。

ま、無料で小一時間楽しませていただいた。PR誌はいいね。

 

14年8月2日

東京日比谷の出光美術館でやっている鉄斎展は8月3日の明日まで。まだギリギリ間に合う。入館料1000円。

鉄斎の絵は80歳から俄然よくなる。で、85歳からさらによくなって、88歳の絵は世界の最高峰に届いている。現代の満年齢なら88歳で亡くなったが、明治

期の数え年なら90歳寸前だった。90歳になる直前の絵が一番いい。こんな画家は奇蹟に等しい。

その85歳ぐらいから88歳までの100号ほどの絵が10点ぐらいずらりと並んでいた。出口付近の壁だ。壮観である。立ちつくす。他の絵を見に会場を回って

もそこに戻ってしまう。

85歳からが本当の鉄斎かも? 

鉄斎に倣おうとしてもわれわれにはどうしようもない。まずとりあえず90歳まで生きなければ鉄斎の境地には届かないからだ。90歳でもボンクラでは困る

けどね。

研ぎ澄まされた画力と豪胆な筆遣いがなければ鉄斎にはなれない。ま、なれっこない。90歳まで生きるだけでも大変。で、元気ででかい絵が描ける。無理

だよ。100号だもの。それがごろごろある。100号レベルの大作を何枚も描いているのだ。鉄斎は小柄な老人である。耳も遠い、というかほとんど聞こえな

かったらしい。不便な暮らしだ。それで、100号をじゃんじゃん描いている。

ま、とにかく64歳なんて話にならない。ガキだ。よほどの覚悟で精進しなければならない。もちろん鉄斎に達しなくたっていい。同じホモサピエンスに鉄

斎がいたのだから、それを目指すのは当然である。ここまで描いてきたのだから目指さない手はない。

もちろん、目指すと言っても進学校の受験みたくヒステリックなものではない。気楽なものだ。届きゃしない。ただ絵描きのお手本として敬愛し続けるだ

けのこと。

まったく、近い時代の日本に鉄斎を得ているとは、われわれは幸福である。

と、美術館の休憩室に行ったら、皇居が一望できる。素晴らしい景色。鉄斎の絵も忘れるほど。実景は凄いね。まだ表現の伸び代があるかも。

と、今度はミュージアムショップに入ったら、雪舟の複製画が飾ってある。これがまた素晴らしい。鉄斎と比べて何の遜色もない。雪舟も凄いね。室町時

代に万巻の書を読み、千里の道を旅した巨大な画人だ。

雪舟が禅僧というよりも専門の画家だったというような説。バカバカしい。画家なんていう狭いところにいた人間があれだけの線を引けるわけがない。鉄

斎も神官であり学者だったのだ。美術史家の先生はよく頭を冷やしてたくさんのいい「絵」を見たほうがいい。枠やラベルに惑わされてはいけない。

この文章は下の「唇寒集」に収録しました。きっとヘッドページのような文字化けもないと思います。今回から以前のスタイルに修正したということです。

この前やっと直しました。

 

14年7月26日

デュフィ展で思ったことは、とにかくたくさん描いているというところ。物凄い分量の絵を描いている。よくわかかる。いいも悪いもない。とにかく描い

てから選ぶ、みたいな? まさにイッキ描き画法だ。評価はどうでもいい。とにかくじゃんじゃん描く、ということ。それは油絵で描くんだからデタラメ

に描くわけでもない絵具代だってバカにならない。エネルギーも使う。描くときには体調も整える。キャンバス張りや地塗りの準備もある。デタラメに描

くわけがない。ちゃんと描こうとしている。ちゃんと描いてじゃんじゃん描くのだ。描きまくらなければ絵描きとは言えない、と私は思っている。固く信

じている。

デュフィは75歳で死んじゃったけど、90歳100歳まで生きていたらどんな絵になったか、とても興味深い。でもこればかりはどうしようもない。お手上げ

だ。自分自身でもそれは同じ。ま、私は一応300歳を目指して頑張る予定だけどね。

また、デュフィの若い頃の絵もいい。それはマルケでもマチスでもいいけどね。なんか黒っぽい絵だけど、輝く色彩の予感がある。とても魅力的だ。今の

若い人の絵でああいうのは滅多に見ない。娑婆っ気ばかりで、芸術だかアートだか知らないけど、自分に特別な才能があるとでも思っているのだろうか?

いやいや絶対にそう持っている。気持ちが悪い。もっと対象(=自然)をよく見て、若いエネルギーでじっくり写生をしろや。腰を据えて絵画修業に取り

組めぇ〜〜〜。64歳だから言わせていただいた。ゴメン。

 

14年7月19日

『絵具が染みなっている』という言葉は25歳のころフランスにいた日本人画家に訊いた。彼も同じぐらいの歳だった。芸大の油絵科出で、けっこういろい

ろなことを教えてくれた。狭い場所(ボルドーの片隅)に住んでいて、しょっちゅう会っていたからかもしれない。彼はフランス語もよく出来た。ボルドー

に住んでいたフランスの女の子が彼を大好きで、でも実際にはあまり会えない。彼女は私とのほうがよく会っていたかも。彼女からいっぱいフランス語を

習った。

絵具が染みになっているとは、絵具がキャンバスによく付いているということだ。この言葉はあちこちで聞く。鳥海青児が言っていた(私は直接訊いてい

ない。父からのまた聞きだ)。これは絵具でなくても木炭でも墨でも同じ。画材がキャンバスに馴染むというか、密着するというか、自然に美しい調和が

出来ていることだ。

ここではあまり言いたくないけど、絵具が付いていない絵というと、アマチュアの絵である。水墨画と自称している方々の現代の墨絵もほとんど墨が馴染

んでいない。そのうえ真っ黒な墨汁を使うからますます酷いことになる。墨を磨るのが面倒なら絵なんて描かなければいいのだ。牧谿でさえも当然墨を磨っ

ている。おそらく自分で磨っていると思う。あんなずば抜けた達人でも自分で磨っているのだから、ヘナチョコ画家が自分で磨るのは大前提である。礼儀

だろう。古典を敬慕するというのはそういう実践も含めてのことであるべきだ。

ま、私も既成のチューブ絵具を使ってティツィアーノやルーベンスを讃えているけどね。昔の画人は、絵具も自分で作っていた。絵に気合が入るはずだよ。

で、絵具の付きだけど、これは相対的なもので、無限の可能性がある。たとえば、牧谿の『遠寺晩鐘』など、父が初めて見たとき『なんかボヤっとした絵』

と語っていた。ところが、『遠寺晩鐘』の下のガラスケースに入っていた光悦と宗達の合作がオモチャのように見える。チャッチィのだ。光悦と宗達の合

作だよ。鹿の絵だっけ? 国宝級の傑作だ。その墨が浮いてしまう。『遠寺晩鐘』がいかに凄いか、その墨がいかに画面に密着しているか、レベルの高さ

を痛感する。『遠寺晩鐘』はターナーをぶっ飛ばした絵なのだ。あの空間、光。まさに暮れようとするマジックアワーを、まるで鳥の目のような視点で描

き切っている。厳しい絵画意識がなければあの絵は生まれていない。牧谿はホント凄いよ。墨だけであそこまで表現できるのだ。材料は関係ない。画家の

意識の問題だと思う。

 

14年7月12日

私たちが絶対現在にいることを知るべきである。『絶対現在』という間抜けな言葉は私が今作った。もしかすると普通に使われているかも知れない。

つまり、このたった今の瞬間は過去一度もなかったし、未来永劫に来ない。また、この場所も、今だけの場所だ。

しかし、われわれは錯覚の中に生きている。場所は特にわかりにくい。同じ家に住み、同じ道を歩き、同じスーパーで買い物をして、同じパソコンの前に

座っている。同じ場所のはず。しかし、地球や太陽や銀河の動きを想えば、瞬間的にとんでもない場所に移動している。あっという間に数十キロメーター、

いや数百キロ以上移動しているはず。移動先はすべて未知の場所だ。初めての空間だ。経験のない処に投げ出されているのだ。

時間については、ゆっくりとではあるが確実に歳をとっているから多少分かるけど、週、季節、年と同じことを繰り返している錯覚はある。しかし、実際

にはいつも経験のない瞬間に投げ出されている。

この時空の真実を『諸行無常』『諸法無我』というのかもしれない。

だから、私たちが筆を持ってバラの前に立つことは一度しかないのだ。去年と同じバラでも、同じであるはずがない。

そういう気持ちで、牧谿の山水は描かれている。徐渭の草花は描かれている。

それがわがイッキ描きの根幹である。

私は自分の身体がよく分かる。食い過ぎ、寝不足、運動不足。多少のずれもすぐ感じられる。最高の体調で筆を持ちたい。それは絞り込んだ緊張した体調

だ。クロッキー会の日に合わせて、出来るだけ体調を整えている。風景や花を描くときも同じだ。それは、アスリートが試合に合わせるのにも似ているし、

囲碁や将棋の棋士が対局に合わせて心身を整えるのにも似ている。

そして、二度とない瞬間に臨むわけだ。

そうやって描いた絵だから、後で描き直すことはほとんどない。悪く言えば描きっ放しだ。イッキ描きは絵を作っているのではない。その瞬間をキャンバ

スに焼きつけているのだ。その絶対現在を、である。

おそらく、牧谿も徐渭も何も見ないで花や果物を描いていると思う。長い画巻に描くのだから、写生はありえない。私はすべて写生。そこのところを思う

と、大きく違うけど、唯一無二の絶対瞬間を焼きつけているという点は同じだ、と思う。私のほうが現実のバラや芙蓉と一体となっている。私のほうが進

歩しているかも。

わがイッキ描きは、一般的な油彩画の概念とは隔絶したもの(一般の考えは絵を作り上げる、イッキ描きは瞬間を焼き付ける)だが、美術館でクラシック

絵画をよく見れば、ほとんどがイッキ描きなのだ。特にモネの晩年(70歳代後半以降)のバラや藤は私とまったく同じように描いていると察せられる。た

だ私はその画法を30歳ぐらいから始めている。少しズルイけど、そこが後輩の得なところだ。で、中国の水墨画や富岡鉄斎が同じ考えであることもよく知

っている。そこもズルイ。ま、モネの『印象━日の出』はどう見ても瞬間を焼き付けている。あれはモネ33歳の絵だけどね。大きさは12〜15号ぐらい。モ

ネもそうとう知っている。ゴッホもちゃんとわかっている。みんなイッキ描きの師だ。

 

14年7月5日

それにしても、最近中国の美術品がよく来る。北京の故宮博物院から『清明上河図』が来て、上海博物館展が来て、今台北の故宮美術館展をやっている(

チケットはゲット済み。後期に『赤壁図』を狙って見に行く)。

わがブログも『中国絵画入門』(宇佐美文理・岩波新書)でもちきり。私は中国の絵ばかり見ている。

でも、徐渭とか、いくら見ても見飽きない。汲めども尽せぬ魅力がある。

とは言っても、ゴッホも素晴らしい。

西も東もないね。現生人類は本当によくやるよ。スポーツも、絵や音楽も、踊りも文学も、学問も、囲碁や将棋も。びっくりするよ。

私も忙しいよ。サッカーを見て、将棋も見て(すぐ眠くなる)、美術館に行って、歩いて、泳いで、もうすぐ相撲が始まって、・・・困るね。忙しすぎる。

自分でも絵を描く。これが大仕事。というか本業か、な? 

映画館のチケットもある。9月までに2本見に行かなければならない。めんどくせぇ〜〜。

テレビでも『HERO』が始まるらしい。少なくとも第1回は見なければ。

これで、数億年後の太陽の終焉や数千年後の巨大隕石の接近や数年後の南海トラフの大地震まで心配するとなると、身が持たない。

自分の老後、家族の将来。忙しすぎるよ。

都議のヤジとか集団的自衛権とか原発問題まで考えたら、気が変になる。

落ち着いて自分のやれる範囲で、少しずつやるしかない。

とりあえずプールに行く。泳げるときにじゃんじゃん泳ぐ。描けるときには描く。見られるチャンスがあったらどんどん見に行く。以上です。

 

7月8日の『なんでも鑑定団』に知り合いの方が平野遼を出品します。なにとぞご覧ください。もちろん私は必ず見ます。

 

 

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