唇 寒(しんかん)集43<14/1/2〜3/27>

 

14年3月27日

今日が金井画廊の最終日だ。

ところで、絵を描く理由は全然ない。でも描かない理由は山ほどある。だから絵を描く人はとても少なくなってしまう。

絵は生活必需品ではない。どうでもいいものだ。ヨーロッパやアメリカだと絵は家の壁を飾る必需品だが、窓を大きくとり、窓の景色が絵になる日本では

不用品。花の絵を飾るより、実際の花を飾る。庭に花を植え、窓から見る。絵は要らない。日本では不用品と言える。

描くほうも、絵を描く理由はない。絵なんて原則売れない。画家という職業はほとんど成り立たない。

私だって自分自身よく描いているな、と思う。ま、今の様子だったら、絵を辞めることはないと思うけ。多分死ぬまで絵描きだと思う。こうなるまでが大

変だった。

自分を、絵を描かなければならない状況に追い詰める。これが個展や展覧会だ。今も等迦展に出しているのは100号を描くためである。100号は等身大の裸

婦で、最低これだけは描き続けたい。また、個展を今まで77回もやってきたのも絵を描くため。個展を開く以上でたらめな絵を並べるわけにはいかない。

一生懸命描く。たくさん描いても荒れた絵を出すわけにはいかない。ちゃんと緊張して描いた絵でないと認められない。もちろん買ってもらえない。

私にとっては個展が最大の発表手段だ。個展の小さな絵にエネルギーを注いでいる。100号を描くのも小さな絵に好影響を与えるからだ。でっかい気持ち

で絵が描けるからだ。もともと気が小さい男だから、ビビらないように描くのは一苦労。

姿勢を正して深呼吸して気息をととのえ、一気に描き上げる。

今は絵を描くのが苦痛ではない。とても楽しい。喜びである。まったく、描かせていただいてありがたいと思っている。

 

14年3月20日

今は東京の京橋の金井画廊で個展をやっている真っ最中だ。普段は管理人として犬の糞の始末に悪戦苦闘している。

先週お伝えした南青山のギャラリーウーゴスのトーク「イッキ描きの完成へ」のアップは失敗した。確かめてみたら、その前にアップしてあった「イッキ

描きとは何か?」も見られなくなっていた。これらの回復にも努める予定。しかし、「最近の絵」はアップできた。現在金井画廊に展示中の絵の一部をご

覧いただける。もちろん実物とはだいぶ違うので、ついでがありましたら会場にお立ち寄りください。

で、私は現場で5〜7点ぐらいの絵を一遍に描く。大きい絵から始めて、だんだん小品に移ってゆく。最後は3号、SM、0号となる。3号ぐらいから顎が上

がってくる。フラフラ、ダーダーになる。13ラウンドを過ぎたボクサーみたくなってくる。頭もボケて来る。酒とか薬に染まったミュージシャンみたいな

のかも。昔の画家も酒を飲んで絵を描いたと聞くけど、そういう状態に近いのか。

だけど、大きい絵を通して、風景ならその地勢をしっかりつかんでいるし、静物や野の花でも花の構造などをよく理解している。頭や身体は疲れていても、

パレットも馴染んでいるし、筆も慣れている。腕も手首よく動く。

だから、小品に捨てがたい絵が多くなる。

 

14年3月13日

今日は去年南青山のギャラリーウーゴスで行ったトークの原稿をそのままアップする。また、近日中に新しい絵を16枚アップする予定。新しいと言っても、

このホームページのヘッドページでご紹介した絵がほとんどだ。多分今度の金井画廊の個展で展示してもらえると思う。

ピカソの晩年の絵が見たくなってきた。箱根の彫刻の森美術館に行けばいいのだ。そのなかにピカソ館がある。金井展で絵が売れたら行くかも。車で行っ

ても問題ないけど、小田急のロマンスカーで行きたいなぁ〜〜。贅沢かな。前売りの安い周遊コースがあるかもしれない。おっと、「安い」とか言うとこ

ろが貧乏くさい。みみっちい。情けない。

「絵が売れたら」とか貧しいことは言わないで、とにかく行くか。

しかし、箱根まで行くなら絵も描きたい。そうなると車か。嫌だね。

ああ、小田急ロマンスカーに乗りてぇ〜〜〜。

京都から奈良に行く近鉄特急も気分がいい。3年前に乗った。

ロマンスカー彫刻の森美術館クーポンだと一人6320円らしい。二人でいろいろ含めて15000円か。消費税が上がっているから16000円かも。都内の美術館に

行っても二人で10000円ぐらいすっとぶ。致し方ないか。ま、食いものは持参コーヒーと家の近所のパン屋のサンドウィッチなどが定番だから、そんなに

金はかからない。観光地のレストランは最悪だからね。そういうところでは絶対に食べない。美術館の庭のベンチでピクニックしたほうが100倍楽しい。

とにかく高級レストランでも伊勢海老がロブスター(=ザリガニ)なんだから驚くよ。弁当は自前が一番。

本日、去年秋に南青山のギャラリーウーゴスでやったトークの原稿『イッキ描きの完成へ』をアップした。

 

14年3月6日

ご多分にもれず、わが家も浅田真央フィーバーが続いている。娘は高価な本も買ってきた。テレビの特番は録画して何度も見ている。私も見てしまう。そ

れにしても、浅田真央に振付をしている踊りの先生(外国人女性)の仕草は素晴らしい。浅田真央はとても堅い。先生は年配なのに滑らかでしなやかだ。

ああいう踊りの動作は絵の線描にも似ているかも。

線描は才能ではなく修練だと思う。色彩は感覚ではなく理論だと思う。

とにかく一生懸命描かないと上達しない。よく描いてよく見る。見る、というのは自然(=絵の対象)を見ることと古典美術を見ることの二つだ。古典は

模写することもとても有効だと思う。画学生の石膏デッサンは立体を見ることと古典を学ぶことの二つをいっぺんに修得できる合理的な修業だ。

で、色彩は後回しでいいのだけれど、あまりないがしろにすると、色を使いきれなくなってしまう。ルドンは60歳ごろから色彩絵画に豹変する。60歳から

でいいか、と思っていたら、もう私は63歳半ばを過ぎている。

もっとも私の場合は、意に反して色彩画家とも言われるから、結果オーライかもしれない。

アマチュアの絵画展に行くとでたらめな色彩絵画と色彩を一切拒絶したような絵画がある。ああいうのを見ると、やっぱり色彩感覚ってあるのかとも思う。

やっぱり色も意識して使って行かないと使えなくなってしまうかもしれない。

きっと源氏物語絵巻などの現物を美術館で見ていないのだと思う。ヨーロッパのプッサンやルドンやゴッホやボナールも十分研究していないのだろう。

絵は描かないと始まらないけど、やたら滅多らに描けばいいというものではない。ちゃんと美術館や美術展に行って古典絵画を吸収しないと進歩しないと

思う。

それにしても色彩って赤だなぁ〜〜。

 

14年2月27日

北欧の真冬の森、深い大きな森で迷子になってしまい、何時間も彷徨い、空腹と寒さで「俺もうダメだ」と諦めかけたとき、遠くに微かな明かりが見える。

引きつけられるように近づいて行くと、そこは小さな湖だった。一面が凍っている。その氷の上を一点すぅーっと動くものがある。よく見ると妖精が舞っ

ているのだ。わが目を疑う光景だ。

寒さも疲れも空腹も忘れて見入ってしまった。

というようなイメージ。それが女子フィギアスケートだと思う。

だから、選手は15〜18歳ぐらいの妖精のような美少女がいい。

23歳では大人すぎる。

だけど、大人の演技も悪くない。成熟したしっかり落ち着いた堂々とした舞も見応えがある。

浅田真央のソチオリンピックのフリーの演技は誰がどう見ても金メダルだ。キムヨナもとてもよかったし、実際に金メダルを獲ったロシアの17歳も悪くは

なかった。だけど、浅田真央が一番だった。金メダルを超えたダイヤモンドメダルだった。

ショートで失敗してよかったかもしれない。世界中が史上最高の妖精の舞を固唾をのんで見守った。素晴らしかった。よいものを見せていただいた。

もうなんの悔いもありません。

 

14年2月20日

年間600枚油絵を描く、と言ってもF0(18.0×14.0p)もあればF100(162.1×130.3cm)もある。その差はあるのだろうか?

はっきり言って差はない。1枚は1枚だ。

裸婦のクロッキーは23ポーズあるから、油絵なら13枚描いちゃう。10枚は墨絵だ。風景の場合も立て続けに5〜6枚油絵を描く。いつも大きい絵から描い

て行く。20号とか15号。小さくても10号から始める。そして、8号、6号、4号、3号と描いて行く。これでもう6枚だ。10号2枚描くこともあれば、8号は描

かない場合もある。そのときどきだ。とにかく、5〜6枚は描く。

しかし、描く以上は20号だろうが0号だろうが気持ちは同じだ。

相撲で言えば、どれも1番の取り組みだ。相手が横綱でも素人の子供でもやる以上は1回の取り組み。気を抜くと負ける。1番は1番。

将棋だって、弱い相手でも強豪相手でも気は抜けない。

絵の場合は、F0とかSMは上手く描ける確率が高い。最後に描くから疲れているけど、筆に慣れているし、その日のパレットの状態も熟知してしまう。風景

なら、大きい絵で地勢を掴んでいる。花でも枝のメカニズムとかを筆が理解している。だから、F0やSMは成功率が高いのだ。私の家の中はF0とSMの絵がご

ろごろ転がっている。物凄い分量だ。

月間50枚、年間600枚となれば、自動的に絵だらけになる。地塗り済みのキャンバスも用意してあるから、さらに凄い量だ。

だけど、捨てがたい絵が多い。致し方ない。

私は小さい絵だからと言って気を抜くことはない。

 

14年2月13日

リンゼイ・ボン(29歳)は凄い。アメリカのスキーの大回転の女子選手だ。とても美人。全裸写真もあるらしい。結婚している(離婚したのかな?)。そ

れなのに恋人がタイガー・ウッズという。訳が分からない。そういう色恋沙汰はともかく、リンゼイ・ボンは侍である。軍人である。闘う人だ。

スーパー大回転は時速100kmを超すスピードで争われるスキー滑降の競技だ。瞬時に大けがをしてしまう。リンゼイも何度も怪我をしている。今も療養中

なのでソチ五輪に出られない。2010年のバンクーバー冬季五輪では滑降で金メダルに輝いた。その滑る姿はむちゃくちゃカッコいい。惚れるよ。

全裸写真は知らないけど、水着姿の腹筋もハンパない。

また、イタリアの女子水泳選手フェデリカ・ペレグリニ(25歳)も素晴らしい。身長が178cmで体重が65kgしかない。水着姿を見ると、鎧を着ているよう

な筋肉の持ち主だ。体脂肪ゼロか!? 凄い美人との噂。写真を見ると映画「ホームアローン」の主人公の坊や(マコーリー・カルキン)に似ている。美

人か?

なかなか泳ぐ姿は見られないけど、これまた抜群にカッコいい。

63歳の金なし禿げジジイには無縁の美女。もちろん、色恋の野心はない。スキー姿や水泳姿をテレビで見られれば大満足。彼女たちの最高の姿でしょ。

このソチ五輪でもリンゼイの艶姿を見たかったけど、とても残念である。

嘘とお世辞の世の中だけど、ああいうアスリートの戦う姿に虚飾はないと思う。抜群の身体能力はもちろんだけど、踏み込む度胸があり、不断の努力があ

る。まったく惚れ惚れする。才能が滑ったとか天才が転んだなんて御託を並べている暇はない。素晴らしい人間の一つの究極の姿だ。ま、われわれとは違

う新種の人類かも。超人類か?

絵描きだったら、絵画に巡り会えた幸運を喜び、作品の出来にビビらない度胸を持って、後は誰でもやれば出来る不断の努力に邁進するということになる。

これはなかなか出来ないよ。特に絵なんてほとんどの人が振り向いてもくれないもの。そのマイナーなところがまたいいけどね。

 

14年2月6日

世の中にはいろいろな人がいる。名を得ることがすべてだと思っている人もいるし、見栄だけで生きている人もいる。禅では『名利を避ける』とか『富貴

栄達を望まない』などと言われ、忌み嫌われるところだ。道元が最も嫌ったこと。もちろん私もそのとおりだと思っている。では、名と見栄(=金)以外

の生きがいとは何なのか? 真理とか愛か? なんか嘘くさいような気もする。負け惜しみみたいな、負け犬の遠吠えみたいな感じがしないでもない。

私の場合はもう完全に負けているから、私がアンチ名利(みょうり=文字化け)を語っても説得力がない。

前野隆司はいろいろなことすべてが錯覚だという。長谷川利行の絵がいいと思うのも錯覚なのか? 長谷川に限らず、牧谿や徐渭やレンブラントの絵をい

いと思うのも錯覚なのだろうか?

実は「雪舟と狩野正信」と検索したら「雪舟の欺瞞」というページが表記されたので、読んでみたら、けっこう興味深かった。私とは根本的に価値観がち

がう人のブログだ。絵に関心がある点が共通か? 雪舟もピカソも認めていないみたいだ。素晴らしい賞をいっぱい取っておられる。私だって等迦会では

受賞しているけど、そういう小さな会のなかの受賞ではない。比較にならない国際的な賞(?)だ。本もたくさん出版している。有名人みたいだ。

室町時代は五人に一人が娼婦だったと書いてある。ロマンがねぇ〜〜。室町時代には『伊豆の踊子』のような淡い恋はなかったのだろうか? そういうの

は現生人類五万年の歴史にずっとあったと思うけどなぁ〜。ま、伊豆の踊子も成長すれば娼婦のような立場になっちゃっうような予感はあるけどね。

いやいやそんなに娼婦になるわけがない。考えられない。無理だ。女性には子育てという終生の義務があり、そこにはもちろん教育も含まれている。言っ

てみれば、生まれ持っての教育者なのだ。そういう人の20%が娼婦だなんて、あまりにもトンチンカンだ。人間はけっこうちゃんとしていると思う。昔か

ら肉体労働やいろいろな才覚で頑張る女性もいっぱいいたと思う。

で、私の価値観では、絵については描くことそのことに価値がある。その行動に価値がある。雪舟もピカソも同じような気持ちで筆を持っていたと思う。

水泳やウォーキングも行動そのものに価値がある。名やお金は必要だけど、特にお金は欲しいけど、そのために行動を犠牲にするのは順番がちがうように

も思う。いや私の順番(=優先順位)がちがっている可能性はとても高い。

でも、行動のなかには確かな幸福がある。ま、恋愛も行動だけど、異性関係は、若いうちは、子孫の繁栄も必要だし、ある程度致し方ないけど、傷つけあ

うので、『淡い恋』で止めておくのも悪くない、と思う。行動は自己完結できる行動が望ましい(=絵、水泳、歩行など)。性欲も絡む恋愛だって、娼婦

がいなくても、男性は自己完結できるはず。そういう意味でも明恵上人の『夢の記』は素晴らしい。性欲処理は僧侶には大問題なのだ。

 

14年1月30日

長谷川利行の絵にデッサンがないという人もいる。そんなことはもちろんない。デッサンに満ち満ちている。ドガはデッサンとはものの見方だと言った。

ちょっと訳が分からない。私はデッサンとは形への希求だと思う。形への渇望なのだ。形を追う姿勢。形を求める筆の動きのことだ。それがデッサンだ。

よく正確なデッサン、という。しかし、これは妄言である。正確なデッサンなんてこの世に存在しない。ありえない。平らな面に立体を表すのは所詮無理

なのだ。

だけど、より正確に描きたいと思うのは勝手だ。形を追い求めることは出来る。形を慕い、形に拘り、形に肉薄することは出来る。その直向きな筆の跡こ

そ好ましいのだ。そこに長谷川利行の絵の魅力がある。また、長谷川の絵でなくとも一般にいい絵画と言われる絵画の不思議な吸引力がある。

絵画とは自然物の忠実な再現ではなく、より正確に表現したいという絵描きの心意気なのだ。その意欲、勢い、情熱のことなのだ。だから、ゴッホの絵だっ

て正確なデッサンとは感じられないけど、底知れぬ魅惑がある。限りなく惹かれる。

おそらくドガの『デッサンとはものの見方』という言葉も同じような意味だと思う。

いつも求める、果てしなく求める。そこに絵画の魅力がある。それは終わりなき探究だ。本当の絵描きの道に完成はない。死ぬまで下積みである。威張り

たいなら他の仕事をやるべきだ。

逆に言うと威張っている絵描きは全員インチキ。

ま、だけど、本心、ときどき世間の奴らとは口も利きたくなくなることもある。あまりにも孤独な気持ちになることも少なくない。それは威張っているよ

うに見えるかも。私の場合は悲しんでいるだけだ。

 

14年1月23日

ま、私はだいたいロクでもないジジイだ。スパイダーソリティアばかりやっている。携帯電話のゲームもいつもON状態。ゲーム爺だ。

だけど、この真冬の毎朝の水浴だけは凄いと思う。偉いと思う。よくやるよ。親父は水浴の後、何枚もデッサンをしていたけど、私なんてブログを書くの

がせいぜいだ。そこも情けない。だけど、朝の冷水は厳しい。私は偉い。止めると午前中かったるいから、もう止めることも出来ない。44年間やっている。

水泳も1回1550m(週2回)泳ぐ。これもこの歳で大丈夫か、と心配になるが、90歳を超えた女性が週3回1500m泳いでいるというから、大丈夫だと思う。で

も、私はけっこう速くガンガン泳ぐ。市民プールでは、私の歳でこんなに泳いでいる人はほとんどいない。ちょっと心配になる。テレビのいろいろな健康

番組ではどのチャンネルでも「スポーツはとても身体にいい」と言うから、多分大丈夫だと思う。私より年長で毎日10kmぐらい走っている人はとても多い。

全然大丈夫だろう。私の運動量は少ないぐらいかも。

現場(=外)で絵を描くのもけっこう厳しい。1回に5〜8枚描く。大きいのから描き始めて最後にSMや0号を描く。最後の小品のときは、自分でも偉いと

思う。よく描くよ、と感服する。いつも、かなり頑張る感じで描いている。

実は、長谷川利行も同じ現場の絵を何枚も描いている。もしかすると、私と同じやり方かも知れない、というか、どっかで読んで私が真似ているのかもし

れない。凄く可能性が高い。もう一度、長谷川の本を読み直してみる価値がある。おそらく矢野文雄の本に書いてあったのだと思う。とりあえずの第一候

補だ。

 

14年1月16日

14日に海に絵を描きに行った。関東平野の南部では真冬でも外で絵が描ける。私は毎年真冬に100号を外で描いている。陽射しがあり風がなければ、普通

のジャンパーで汗ばむほどだ。

画材をキャリアに積んで歩いていると、年配のご夫婦がいて、男性がニコニコ笑いながら話しかけてきた。

「私も少し描くんですよ」と言って持っているカメラを示した。

「これで撮って家で描きます」とおっしゃる。

私は何も言わずに頷いた。

「いやいや、写真とは言っても自分で撮るから、実際に風景を見ていますから」と言う。

もちろん、私は写真を見て風景を描くことを非難しない。私自身はやらないけど、絵は自由なのだ。どうやって描いたって誰の迷惑にもならない。その男

性は、自分で撮った写真を使うのだから、ユトリロのパリ風景みたく絵ハガキを見て描くのではないと言いたかったのかもしれない。もちろん私にはどう

でもいい。

私は、絵を描きながら、2〜3時間やさしい海風に吹かれて過ごすのが楽しいのだ。気持ちいいのだ。ふつう2〜3時間も真冬の海辺にいることはない。絵を

描くからいられるのだ。バラ園でも、富士山の麓でも同じこと。

 

14年1月9日

イッキ描き理論では絵の出来不出来はどうでもいい、問題ではないとする。何が重要か、描いているその行為そのものが重要なのだ。今まで何枚描いたと

か、美大を卒業したとか、どこかの公募展に入選したとか、受賞したとか、そういうことは一切問題ではない。今描いているかどうかだ。

美大や公募展も絵を描くためのカンフル剤にすぎない。高校受験や大学受験だって同じだ。重大なことは中高時代にたくさん勉強したということだ。勉強

自体に価値がある。どこそこ大学に合格したとか卒業したなんてことは関係ないのだ。私がやっていた学習塾もそういう理念だった。

これは道元禅師の教えだ。このことが最も重要で、これ以下でも以上でもない。仏の教えとは、修行をすることなのだ。

これが悟りだと思う。だって、そう考えれば、安心だもの。

悟りを開くと、後光が差して体臭がなくなり空も飛べる、というのはちがう。それは無理。われわれは動物だから体臭口臭は避けられない。風呂に入って

歯を磨き歯間ブラシや糸ようじをちゃんと使って3カ月に一度歯医者さんに行くしかない。迷惑をかけるから他の人にあまり近づかない。後光も差さない。

私は禿げているから頭が光っているぐらい。空は絶対に飛べない。歩けるだけだ。歳を取ると歩くのも難しくなる。歩けるだけでもありがたいのだ。

死ぬのは怖い。しかし、いつかは死ぬ。致し方ない。恐れていては何も出来ない。他人に迷惑をかけないように、やりたいことを精一杯やるだけだ。つま

り、私だったら絵を描くこと。

このような考えだと、向上心がなくなるのではないかとの心配もある。だから古典を見るのだ。昔の人の素晴らしい修行の跡を見るのだ。無限の向上心が

わいてくる。課題は山積している。

この考えは、王様よりも皇帝よりも、アラブの大富豪よりも幸福であると錯覚できる。とても合理的なの考えだ。もちろん錯覚だけどね。錯覚でいいと思

う。

もう一度述べる。描いているその行為そのことに価値がある。

 

14年1月2日

新年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

董其昌(1555〜1636)は文人画理論を打ち立てた画人だ。私にはまったく理解できない人だ。絵もどこがいいのかわからない。だけど、池大雅がベタ褒め

で、富岡鉄斎も尊敬しているから、否定できない。

董其昌は優等生である。科挙にも合格している。私が敬慕する徐渭とはまったく正反対。董其昌は皇帝からも溺愛されたそうだ。

で、文人画理論だけど、これもよく理解できない。「馬遠、夏珪を学ぶべきではない」と言っている。え? 夏珪を無視か? じゃあ、雪舟はどうなるん

だろう?

だいたい、絵を文人画と職業画に分けて、文人画は○、職業画は×という断定が恐ろしい。職業画にもいい絵はいっぱいある。夏珪も職業画家らしいけど、

台湾の故宮博物院の『溪山清遠図』は画集で見る限り、素晴らしい絵だ。董其昌なんか問題にならない。ぶっ飛ぶ。

絵画は、特に墨で描いた山水画などは、気合なのだ。真剣勝負だ。ま、負けても死にはしないけど、そう考えていたのでは一生まともな絵は出来ない。一

期一会、これが最期と思って筆を執らないといつまで経っても「絵」は出来あがらない。油絵だって同じだけどね。『溪山清遠図』は職業画かもしれない

けど、真剣な緊張感が漲っている。職業画でけっこう。私は全面的に支持する。

董其昌みたく、皇帝からも支持され、安定した立場にいて傑作が出来るのだろうか? 頭がいいらしいから万巻の本は読んだかもしれない。しかし、千里

の道を行ったのか、とても怪しい。

今の国際常識では市場経済の競争原理は製品を高めてゆく。社会も豊かになる。これはほぼ実証されている。絵だって競争原理で切磋琢磨したほうがいい

のではないか。

文人なんて乙に気取っているみたいで、私には遠い存在だ。近づきたくもない。

 

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