唇 寒(しんかん)集35<10/11/6〜11/3/26>

 

11年3月26日

今は金井画廊の個展の真っ最中。毎日通勤している。ちょうど学校が春休みだから電車も少し空き気味か。節電運転なので急行がない。急

行に乗り換えなくても済むし、急行の待ち合わせもないから、各駅停車もけっこう速い。そう言えば、昨日もオシャレをした中学生の女の

子たちが車内で大声でしゃべっていた。春休みなんだ。

世間は震災と原発で大騒ぎ。もちろん、混乱というより、もう今は復旧に向けて一直線に頑張っている。日本人の素晴らしい集中力を見せ

ている。節電や停電にもびっくりするぐらい協力的だ。国が一つになって頑張っている。まったく感動するね。

毎日、綺麗に額装された自分の絵を見ていると、私はまったく果報者だ。こうやって並べてもらえるだけで十分幸せである。そのうえ褒め

ていただき、さらに買っていただくこともある。まったくありがたい話である。

絵描きがそんな当たり前のことに感謝していてはいけないかもしれない。もっと威張り腐っていなければ威厳がないかも。でも、それは無

理。好きなことをやって、家族にも世間様にも迷惑かけている。威張る筋合いはない。平身低頭である。ペコペコ頭を下げながら、絵を描

いてプールに逃げる。まことに申し訳ありません。

ああ、ロダンかドガがひょっこり会場に入ってきて、私の裸婦を見てくれないかな。もちろん褒めてもらおうなんて図々しい気持ちはない。

でも、人体の美を追う気持ちはそんなにちがわないと思う。「下手だけど、100年経っても、まだこんな絵を描くヤツがいるのか」と思って

もらうだけでも嬉しい。

ありっこないよね。

 

11年3月19日

毎週土曜日の朝までに更新するこのホームページの「唇寒」は金曜日の朝に書く。だから今も18日の朝飯前だ。つまり、先週のこの欄は地

震発生前に書いている。地震発生前でも「お先真っ暗」だった。今は気力がなくなるほど真っ暗だ。

だけど、テレビのニュースを見れば、私なんて問題にならない不幸が襲っている。食糧はもちろん、暖をとる灯油、毛布なども不足、もち

ろんトイレの水洗は使えない。医療設備もない。その前に家族の安否が1週間経った今もわからない。死亡が確定した方、行方不明の方を合

わせると1万5千人に上るという。家族を探している小学3年生もいる。寒波にも襲われている。

テレビや新聞の話ではない知人からのリアルな情報では、迫り来る津波から逃げるときはまさに九死に一生。自動車道路のなくなるギリギ

リまで車で逃げ、さらに車を捨てて山道をよじ登ったそうだ。車は津波に攫われたという。その車には隣家のお年寄りが乗っていて、「私

はもう逃げられないからこのまま車にいる」と動かなかったそうだ。どうしても言うことを聞いてくれなかったと言う。この知人の心のケ

アはどうすればいいのだろう。

後ろから津波が迫っていて、説得できる時間も十分なかったと思う。歩けないお年寄りを連れていたら自分が逃げ切れるかどうかもわから

ない状況だ。

こんな話を聞かされたら沈黙するしかない。

それでも、とにかく私は個展をやる。京橋に通えるかどうかもあやしいが、やれる以上はやるしかない。でかい余震が東京を襲う可能性だっ

てまだあるけど、地下鉄で行くしかない。放射能汚染の恐怖もあるけど、例年どおり通う。

 

11年3月12日

絵を続けられたということは、ハッピーと考えるべきだろう。こんな幸運は滅多にない。もちろん、私の意志で続けたのだが、意志だけで

は続けられるものではない。バブルのおかげもあったと思う。もちろん、バブルでも経済的に楽だった記憶はないけど、とにかく生きてい

るのだから、結果オーライということだ。子供が二人育ったことは信じがたい。まったく悪運が強い。

もちろん、これからの余生は絵ばかり描いていればいい、という状況ではない。これからもまだまだ大変だ。戦いは続く。家内にはまこと

に申し訳ない。だけど、ここまでやってやめるというわけにもいかない。この路線でこのまま突き進むしかない。

お先真っ暗だけど、とにかく描くしかない。

先週から「絵画の偶然」について考えていたら偶然(けっしてシャレではない)『なんでも鑑定団』で児玉希望(1898〜1971)の紹介があっ

た。この日本画家も絵は偶然にできるのではないと主張。ドガ(1834〜1917)の「偶然に見えてはいけない」とはちょっとニュアンスがち

がう。

児玉は川合玉堂の弟子で、川合もそうだが、物凄く描ける。抜群の描写力だ。上手いということ。洋画の代表なら小磯良平か。とにかく絵

が上手だ。芸術性がどうかは疑問が残る。ま、「芸術性」は言い訳かもしれない。でも「上手い絵は要らない。いい絵が見たい」とか「上

手くてもつまらない絵」などという評価もあり、けっこう納得できる。

私自身は、けっして上手くない。絵ができる瞬間は、漢字試験で確実に覚えていないけど、こんな感じ(けっしてシャレではない)だった

かな? と書いた文字が正解だったりする能力みたいな、理屈では理解不能な力が作用しているような気がする。

 

11年3月5日

ドガは「偶然に見えてはいけない」と言った。私の経験では、私の中でのましな絵は、ほとんど偶然で描ける。でも、ドガの言葉をよくよ

く吟味すると、偶然に見えてはいけないのであって、実際には偶然に描けたのかも知れない。見かけは画家の意図のように見えるが、実際

には偶然、ということだ。ただ、私は正直、というか、バカだから偶然、偶然と言ってしまう。「上手く行っちゃったんですよ」などと口

走る。ま、偶然は必然にはちがいない。

絵の透明感だって、デッサン力とか絵具の使い方以前に、画材の選択がある。私のキャンバスも絵具も超一級品ばかりだ。偶然とは必然か

もしれない。

絵を描くときは万全の体調で望んでいる。だいたい午前中を狙う。こういうことも大切なのだ。一晩中絵を描いていた、制作は夜中だけ、

みたいな画家もいるけど、人間は午前中が一番元気である。誰だって知っている。その午前中の元気なエネルギーをキャンバスにぶつける

べきだろう。私は、絵は、最後は元気さだと思っている。

公募展の会場に、ベタベタ絵具を付けた、考え込んだ絵が並んでいるけど、絵は左脳では描けない。エネルギーと右脳で描くものだ。「い

くら考えたっていい絵はできないよ」と言いたい。

明るく元気なバカ爺。朝ドラの主人公の女子高生みたいな? やっぱり笑うしかない。

菊地理は太宰治というわけにはいかない。バーにも行かないし、タバコも吸わない。金もない。最高にカッコ悪い。

 

11年2月26日

まったく絵はわからない。われわれは、とにかく形をとろうと筆を執る。特に人体はフォルムが命かもしれない。

静物も風景も下の土台なり大地なりがバーンとしっかり感じられるように描く。もうこれだけが絵画の生命だと思っている。

そういう絵画の骨格みたいなものを狙いながら、面白い線や色を獲得できる場合がある。一番の大本は描きたいという意欲であり、情熱だ。

それがどれほど大きいかで、絵画の出来は決まってしまう。

しかし・・・というか「だから」かもしれないが、自分ではイマイチと思った絵がいいと言われる場合もある。買ってもらえる場合もある。

そうなるともう私にはわからない。自分で「これならいいだろう」と思った絵でも受け入れられないこともある。まったくさっぱりわから

ない。

絵とは絵描きの支配下にあるものではないのだ。安部公房が「文学は関数だ。作家はその変数に過ぎない」というようなことを言っていた

が、これは、作り手も材料の一つだという意味だろう。文学でも絵でも音楽でも料理でも同じ。素材がよくて、作り手の意欲があり、ま、

修練も積んでいて、それでもなお良い悪いがある。料理なら上手いまずいがある。作り手のその日の体調もある。

どうにもならない。

統計的、経験的に上手くゆく環境(これが関数?)を作り出して、そのなかで創作する(こっちが変数を代入するか?)しかない。しかも

大量に創作して(いろいろな変数を入れてみる、みたいな?)選んでいただくしかない。

つまり、最高のモチーフ、最高の画材、万全の体調で、描けるだけ描く、これがわがイッキ描きである。

 

11年2月19日

「この絵なら文句はないだろう!」と言える絵が年間100枚描けたら素晴らしい。

それを全部買ってもらえたら年収1000万円の大画伯になってしまう。

私は年間600枚の油絵を描く、と公言している。傑作が年間100枚ということは6枚描いて1枚傑作という計算になる。これは無理。

@ 買ってもらえるほどの傑作は実のところ50枚ぐらいしかないと思う。実際に買ってもらえるのは半分以下。結局赤字作家に成り果てる。

A 買ってもらえないまでも、展覧会に出せる絵なら100枚ぐらい出来る。

B 潰すのは惜しいというランクの絵だと、200〜300枚。絵がどんどん溜まってしまう。

しかし、こういう判断は主に私ひとりでやっていて、たまに家内が口を出す。年に一度金井画廊の金井さんが選んでくれるぐらい。絵画教

室やクロッキー会の方々のご意見も貴重だ。私ひとりの判定はときに狭く、また甘いことも多い。他の人の判定は「ああ、そういう見方も

あるのか」と教えられることがしばしば。

 

11年2月12日

絵具は物質である。塊である。抵抗感がある。もちろん、色彩でもある。色としての特質と物質としての特質は全然別なもので、これらが

絵画に生命を与えることもあるし、絵画を壊してしまうこともある。それは絵描きの腕とパレットの具合と筆の偶然が生み出す。そういう

ものの兼ね合いで、びっくりするほど上手くゆく場合もあるし、全然ダメになってしまうことも多い。

だいたい、絵具はシミなのだ。白いキャンバスを汚すことだ。もちろん私のキャンバスは必ず地塗りがしてあるから、白いキャンバスでは

ないけどね。

シミを形に見せる技が絵画技法の根幹である。絵具のシミを裸婦の肉に見せる、これが技だ。筆にたっぷり含ませた絵具をグイと塗って海

の岩礁に見せる。上手くゆくかどうか、瞬間の勝負だ。これが面白い。油絵は水墨画とちがって、失敗したらボロキレで拭い取ることがで

きる。そういう甘さがある。しかし、水墨画だって、失敗作は捨てるわけだ。失敗したって絵描きが死ぬわけじゃない。ここは実際の真剣

勝負とはちがう。拭い取れるという甘さに頼っているといつまで経っても絵はできない。思い切らないと絵は生まれない。息を止めて、イ

ッキにグイとやらないと、しようがないのだ。滝から飛び込むつもりで筆を揮う。そこは思い切りでもあり諦めでもある。

こういうような格闘をいつもやっているのがイッキ描きだ。スポーツ選手にとても近い。だからローテーションを組んで、描くときにはい

っぺんに大量に描く。普段は休んでいる。鉛筆で腕慣らしをしているぐらい。

何度も申し上げているが、イッキ描きは綺麗に仕上げる必要はない。王様や教会に納める絵を描いているわけではない。この下の「イッキ

描きとは?」に画像付で述べているように、レオナルドなら、レオナルドが最初に紙片に殴り描いたペンの下絵を狙っている。その清新な

絵画への情熱を、そのままタブローにしたいと考えている。『モナリザ』ではなくデッサンのほうだ。この私の考えにとても近いのはティ

ツィアーノの最晩年の油絵の大作である。これも、下の「絵の話」のなかで何度も画像付でお話した。ロートレックの巨大な油絵も同じコ

ンセプトだと思う。モネの『印象・日の出』もドガの晩年のパステルも同様。中国・宋元の水墨画も明末清初の徐渭や八大山人の水墨画も

すべて同様である。

富岡鉄斎も上記のことをよく心得ていた、と思う。

長谷川利行は奇蹟のようにイッキ描きを実践している。油絵具の特質を腕で知り尽くしている。不思議だ。精神も高雅だった、と思う。

本日まことに長文でした。申し訳ありません。

 

11年2月5日

カンディンスキー展を見て、感じたことはカンディンスキーはたくさんの絵を描いているということ。これはドガ展でもゴッホ展でもモネ

展でも同じ感想である。もちろん、東洋の長谷川等伯や雪村や牧谿の展覧会を見ても同様の感想を持つ。

だから私もたくさんの絵を描くようにしている。たくさんキャンバスを張って、地塗りして、たくさん描く。昔の偉い絵描きの真似をして

いるだけだ。もちろん父親も「うんと描け、うんざりするほど描け、その絵が油壷から今出して油だらけになっているように見えなければ

いけない。それはうんと描いているという意味だ」と言っていた。それが絵描きだ。絵は理屈じゃない。描くことだ。描かなければ始まら

ない。

カンディンスキー展にはカンディンスキー以外の画家の絵もたくさんあった。比べて思うことは作画量がちがう、ということ。筆の動きが

ちがう。全然ちがうのだ。戦争に志願して40歳前後で死んでしまった画家の絵もあったけど、それじゃあ、絵描きにはなれない。兵隊には

なれるけど、絵描きにはなれない。絵描きは生き延びて絵を描き続けなければ、絵描きと言われない。

もちろん、言われなくてもいいけど、とにかく絵描きになりたかったら絵を描くことだ。当たり前である。

それから、昔の偉い画家の絵をたくさん見ること。つまり私の生き方だ。もちろんそれほど大したものではない。好きなことをやっている

だけだ。

 

11年1月29日

マンションの子供たちはどんどん大きくなる。マンションの仕事は3日とか4日休みが続くので、3日ぶり4日ぶりに子供たちを見るから、そ

の成長に驚く。親や学校の先生(塾の先生も)は毎日見ているからそれほどはわからないかも。われわれは、たまに会うからびっくりする。

特に赤ちゃんは見る見る大きくなる。この前生まれたと思ったら、もう6ヶ月、という赤ちゃんが二人いた。今は寒いのでいろいろな服に包

まれていてろくに見えないけど、お母さんに聞いたら、二人とも6ヶ月だった。

幼稚園、小学生、中学生もみんなすくすく大きくなっている。子供は素晴らしいね。

で、先週予告した海の絵だけど、よくよく見比べると、埃みたいな0号が一番よいように思う。上の絵はその0号だ。

この0号のために100号を5枚描いた計算だ。5枚のうち2枚を選んで2日から始まる等迦会に出した。上の風景の前のクロッキー会も含めて100

号を描きながら20点ほどの小品を描いた。何度も言うように100号なんてどうでもいい。重大なのは、100号を描いている合間の20点の小品

だ。100号を描いているときの裸婦のクロッキー会は100号にも好影響を与える。100号は何も見ないで描いているけど、クロッキー会で現実

の裸を見ると、心の底から「ありがてぃな」と思う。実物の裸は桁外れに美しく現実的だ。もちろん現実の裸婦の肌には痣や染みもある。

それも含めて素晴らしい。

ポーズを変えるときの筋肉の躍動には驚嘆するけど、なるべく見ないようにしている。それを見てはいけないような感じがするし、それで

も見えちゃうと、赤面するほど美しい。人体には無限の美がある。その裸を思う存分描けるクロッキー会は夢のような時空だ。

 

11年1月22日

いろいろ片付けていたら、けっこうキャンバスが出てきた。おそらく2月まではキャンバスは間に合いそう。もちろん、張らなければならな

い。冬の東京は十分乾燥しているからいつでも張れる。もっとも、私みたいな怠け者には、この「いつでも張れる」は「ほとんど張らない」

になってしまう。気合を入れて張らなければ・・・

木曜日は100号モードが続くなかで海の風景を描きに行った。相変わらずの三浦半島だけど、三浦半島は地形が入り組んでいるので、描く場

所はいっぱいある。特に西側は大きな相模湾に面していて、風景がでっかい。富士山も見える。東京湾に面した東側のように開発されてい

ない。魅力いっぱいの景勝地が多い。

15号から始めて0号まで6点描いた。

すべて同じ場所で同じ風景を描いた。帰りに1リットルの自家製ペインティングオイルの瓶を割ってしまった。まだけっこう入っていた。

2000円の損失。しかも、ベルギーのブロックスのスタンドリンシードオイルが入っているから、当分入荷されない。残り1本ちょっとで半年

持つか?

100号を描いていると気持ちがでっかくなる。グイグイいける。ガンガン描ける。15号なんてゴミみたいな小品だ。0号なんて埃みたいな

もの。色も絵具も線も思いのまま。

きっとおそらく来週のヘッドページに載せられると思う。乞う、ご期待!

 

11年1月15日

さすがに、12日(水)の絵画教室では絵に辟易した。なんとなく描きたくない。ちょっとうんざり。100号とクロッキー会で、毎日絵を描い

ていた。それでも描き始めると面白い。続けて3枚描いた。とにかく私は絵しかない。絵を描くしか能がない。どうにもならない。何もやる

ことがない人よりずっとましだけど、目の前に花や風景があったら否も応もないのだ。筆を執るしかない。

今は管理人もあるし、絵は描いていない。来週の月曜日からまた100号を描く。木曜日には運送業者が来る。実は月曜日からも管理人はある。

遅番なので。午前中に描く。100号と言っても、イッキ描きの集中時間は2時間が限界。午前中で十分なのだ。ただ寒さが困る。真冬は午後1

時ぐらいから3時ぐらいまでに描きたい。まだ人間国宝になっていないから、贅沢は言えない。人間国宝どころか、現実はホー

ムレス寸前の禿ジジイだ。絵を搬出したら2月の家賃を真剣に考えなければならない。とにかく家賃を払わないことには家に篭ることさえで

きない。

さらに、キャンバスもない。張りキャンもないけど、その大元のロールキャンもない。私のロールキャンはベルギー製のクレサンキャンバ

ス最高の荒目だから物凄く高価だ。私はキャンバス屋だから注文すればとりあえず送ってくれるけど、資金がないのに注文するのはあまり

にも苦しい。2月まではギリギリ間に合うか。無理かな?

ホームレス寸前なのに画材料はめちゃくちゃ贅沢。おかしい。

 

11年1月8日

カラリオ4000PXは週に一度ぐらい稼動させないとインクが固まってしまう。とりあえず自分の絵をプリントアウトする。それをファイルに

入れて、たまにパラパラと見る。見やすいように高画質でとる。紙もいいものを使う。

また、2005年から作っているパンフレットもファイルしてある。パンフにはその年の代表作を収めている。自分の判断だけど、最もいいと

思う絵はDMに使うから、パンフには載せない。だから自選最高傑作ではない。普通はDMもパンフも同じ絵でよいのだろうが、私はたくさん

描くから、同じ絵は避ける。

そうやって、自分の絵を見てみると、それほど悪くない。ドガやロダンに見せても褒めてくれるかもしれない。牧谿や徐渭だったら「まだ

まだだけど、続けたら」ぐらい言ってくれるかも。

下手でもないし、上手さをエバってもいない。もともと大して上手くない。

私は子供のころから絵が好きだ。だけどそれほど上手いほうではないと思う。石膏デッサンも油手なので、木炭が使いにくかった。30歳近

くまで木炭デッサンをやっていた。正直、木炭はけっこう使えるようになった。だけど鉛筆のが好きだ。今は油絵が一番使いやすい。鉛筆

でもけっこう描いている。墨はよく使う。

とにかく、私の場合「下手の横好き」に近い。父親にもいつも貶されていたけど、父は究極のところでちょっと褒めるから絵が止められな

かった(かな?)。桁外れに絵が好きだったことが、今も絵を描いている最大の原因だろう。古典絵画や彫刻を見るのも欠かしていない。

美術の森の中に分け入ってしまっている。それが、仏教とか哲学なんかに絡まってもう雁字搦めだ。鉄道模型や実際の鉄道も大好きだけど、

美術の楽しさに比べたら問題にならない。

 

11年1月1日

明けましておめでとうございます。

12月30日、私は午後からカンディンスキーと青棋士展(三菱一号館美術館、2月6日まで)を見に行った。そのあと、横浜美術館のドガ展に

行ったけど、カンディンスキーにのめり込み、時間を忘れたため、ドガ展には5分遅刻では入れなかった。

年末なのに金は全然ない。もちろんカンディンスキー展のカタログも買えない(あれは後で必ずゲットする!)。ドガ展に入れなかったか

ら2000円余った。でも、カンディンスキーのカタログは2300円。足りない。どっち道、ドガ展を見る予定だったので足りないのだ。

それにしても、私は今還暦の60歳。頭は禿て残っている毛も真っ白だ。完全なジジイである。それなのに、美術展を追う気持ちは若いころ

とまったく変わらない。ドガ展も31日で終わってしまうので、二度目の来訪だった(=見られなかった)。

人は歳をとっても、人というのは変わらないものだ、と自分でもびっくりする。変わらない自分が変人なのかもしれない。多少頭が足りな

いことは、60年生きているのでうすうす感じている。「うすうす」だから救われない。

身体のほうは大分ガタが来ている。ろくに走れないし、油断するとすぐ腰痛になる。違和感はいつもある。

だけど、絵の趣向など若いころとまったく同じだ。流行歌の趣向は変わったけど、今だってたまには舟木一夫も聴く(ほとんど南佳孝とサ

ザンばかり)。牧谿は20歳のころから知っていて、いまだに一番尊敬している。だから仏教の本も読む。牧谿が禅僧だからだ。これが仏教

に興味が尽きない決定的な事情だ。

今年も金なしアホアホイッキ描き路線で行く。よろしくお願いいたします。

 

 

10年12月25日

サザンの曲の題名はダサい。『恋のジャックナイフ』とか『太陽は罪な奴』など長くていただけない。だけど中身はけっこういい。聴いた

ことがある曲も多い。最近は少し新曲(とは言っても古い曲だから顕彰かな?)を発掘している。で、気に入っているのは『Hellow My

Love』と『TO YOU』。毎日聴く曲にランクインした。『TO YOU』は歌詞の内容が、山崎まさよしが作ってスマップが歌った『セロリ』に似

ている。歌はスマップよりも山崎のほうがはるかにいい。ブックオフで山崎の歌う『セロリ』がかかっていて、こんないい曲だったのか、

とびっくりした。作曲した人間が自分で歌うのだから敵いっこない。

三歳ぐらいの子供がときどきめちゃくちゃな歌を作詞作曲自演しているけど、いい悪いは別として、最高のノリである。あんなのには敵わ

ない。サザンや山崎もそういうノリだ。私もカラオケでサザンの『My Foreplay Music』を歌うけど、もちろん桑田のようには全然歌えない。

上手く歌おうとしちゃうもの。桑田は上手い下手じゃなくてノリノリで歌っている。まったく歯が立ちません。

やっぱり、あたしゃ絵しかないよ。絵だったらノリノリで描けることもある。全部が全部絶好調というわけではない。それは桑田だって全

部の曲が軽快で、全部のコンサートがノリノリってわけではないだろう。だけど、私が絵を描くモードはミュージシャンのコンサートに近

いと思う。少なくとも深刻ではない。だから絵は楽しいのだ。肩の凝りそうな細密描写からは遠いかも。

 

 

10年12月18日

「そして神戸」はつまらなかった。

先週見た長谷川利行もゴッホも生前ブレイクしなかった。一般的には不幸な画家人生と言われている。今までの私の文脈から私が長谷川利

行やゴッホを不幸だとは考えていないことはもう重々お分かりかと思う。

絵描きは絵を描くことが楽しいのだ。絵を描くことに最大の喜びがある。絵さえ描ければ何も要らないのだ。それが本物の絵描きだ。長谷

川利行もゴッホも間違いなく本物の絵描きだ。絵描きの中の絵描きだ。たくさんの絵を描いた。もうそれでいいのだ。それで終わり。絵描

きは絵を描いたら、あとはどうでもいい。

褒めてもらうとか、買ってもらうとか、賞をもらうなどというのは、付随的なこと。もちろんそういうのは目的ではない。結果として「も

らう」のだ。

もちろん、ブレイクも不要、大巨匠になる必要もない。

とは言っても、絵描きも人だから飯も食うし、夜は寝る。金がかかる。私なんか妻もいるから少しは喜ばせなければならない。だから、『美

術市場』に載せてあげると言われれば「是非お願いします」と頭を下げるし、個展を開いて絵を買ってもらえるように頑張る。大きい絵

を描くためには等迦会にも絵を出す。特に私は長谷川やゴッホのように本当の本物にはなりきっていないから、個展や等迦会があると、ヘ

ンなものは見せられないと頑張って絵を描く。頑張ると賞ももらえるし、買ってもらえることもある。こういう循環が絵を続けるベースに

なっているのかも。

とにかく、長谷川利行もゴッホも不幸ではなかった。あれだけ描いたのだから不幸なはずがない。人類最大の幸福者かもしれない。

 

 

10年12月11日

作品リーフレットはまったく売れない。だから、楽しくスパイダーソリティアをやっている。バックミュージックは南佳孝とサザン。この

二人を数曲聞いても時間があるときは、岩崎良美の「タッチ」を聞く。次にビートルズの「イエスタディー」。007の「ロシアより愛をこめ

て」というような順番。まったくユーチューブはありがたい。さっき、クールファイブの「そして神戸」が聴きたくなった。これはまだ聴

いていない。

今日はこれから御徒町の羽黒洞に長谷川利行を見に行く。帰りにゴッホを見るかも。ドガをもう一度見たかったけど、入場料と電車賃もバ

カにならない。どうせなら、未見のゴッホのほうがいいか、と考え直した。源氏物語絵巻展は見逃した。もう何度か見ているけど、ああい

うものは目の保養にいいのだ。まったく「目の保養」という言葉は絵画のクラシックを見るためにあるような気さえする。

でも、スパイダーソリティアはあまりに非生産的だ。作品リーフレットで自分だけの自分の画集でも作るか。意味ねぇ。

その前に、運動も兼ねて部屋の片付けをやろう!

やっぱ、その前に「そして神戸」を聴くなぁ。

 

 

10年12月4日

作品リーフレットというのを考えた。昔風に言うと額絵である。自分の絵を印刷したものだ。私の絵はインターネットで見ることができる。

もちろんプリントアウトも可能だ。だけど、インターネットの画像解像度は72ピクセル。作品リーフレットは250~300だ。印刷したときの密

度が全然ちがう。また、数年前にリコーの技術マンも驚嘆したカラリオの顔料系プリンター4000PXでプリントアウトする。もちろん最高画

質を使う。用紙もカラリオが開発した画材用紙。大きさはA4に統一した。原材料費もバカにならないが、とにかく手間が大変なのだ。一枚

一枚プリントアウトしなければならない。2〜3年前にカラリオで画集を作ったが、手間が大変なので中止した。この作品リーフレットな

ら以前のように製本する手間もない。入手された方が100円ショップで透明ファイルを買って画集にしていただくこともできる。

ただし、この作品リーフレットは金額が安くない。1枚だと1000円もする。10枚まとめてお買い上げいただければ7000円。これもとても高価。

とにかく町田のブックオフでは学研の日本美術全集が250円なのだ。

でも、私の絵をこんなに鮮明に印刷できるのは私だけだからご容赦願いたい。カラリオだと紙とインクだけで200円ぐらい掛かってしまう。

手間や送料も入れると1000円がギリギリ。だってそれ以下ならやる気が起きないもの。他のバイトをする。

皆様、よろしくご検討ください。

 

 

10年11月20日

いまだに『原始仏教』(NHKブックス・中村元)を読み終わっていない。ずーと読まずに持ち歩いていた。ナンプレに嵌っていたし、他の仏

教入門書などを再読していた。で、ここ2〜3日また少し読み始めた。読み始めると面白い。原始仏教のころから「悟り」というのはあった

らしい。唐や宋の中国の禅僧が悟りを開くように何かのキッカケで悟りが開けると書いてあった。ブログに何回も書いているように、お釈

迦様の言っていることは「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つ(三法印)。「一切皆空」を加えて四法印という場合もある。とに

かく、そんなに難しいことではない。ただ、これらを理屈でなく身体で実感できないと本当に分かった(=悟った)ことにはならない。

私なんか、今日も腹に据えかねることがあり、ついつい大きな声を出してしまった。

尊敬する牧谿や徐渭の国なのに、中国にも頭に来る。尖閣諸島もだが、アジア大会の柔道の判定なんて「ふざけるな!」とテレビに怒鳴っ

てしまう。あんなことをしていたらアジア大会がなくなっちゃう。シー・シェパードの体当たり事件も「双方とも衝突の回避の義務を怠っ

た」とオーストラリア政府が判定したらしい。一目見りゃ誰が見たって明らかだろが!

・・・と腹の虫が収まらない。

悟りには程遠い。

私は自分が悟っていないどころか、悟りからはかなり隔たっていることが分かる。バカだもん。

まったく、わたしゃ、絵を描いて、歩いて、泳いでいればいい人間だ。いろいろな難しいことは考えないほうがいい。テレビも見ないほう

がいい。

 

 

10年11月13日

南佳孝とサザンオールスターズをパソコンのユーチューブで毎日聴いている。南はジャズ風? サザンはロック風? 南はムード派って感

じがする。けっこう中身は空っぽだ。タバコの煙が充満する深夜のバーでグラスを片手に聞くって感じだろうか? 私にはまったく縁がな

い。でも『二人のスローダンス』とか実にカッコいい。最近は『羅針盤』に嵌っている。1日に1度は聴きたい。

サザンはもっと切実だ。生の叫び、みたいな。生は性だけどね。

そう言えば、父は「絵画とは?」と訊かれると、即座に「生命力!」と応えていた。ドガも「絵画とは(全世界どんな絵画も)生命を本質

的な特殊性において要約することだ」と言っていた。東洋の絵画(自分の絵も含めてだけど)は映画『酔拳』(ついこの前テレビでやって

いた)みたいな不思議な心の開放と集中力などが大切なようにも思う。この開放が難しい。

ま、筆を持ってキャンバスに向かっているだけでも、そうとう開放された様子になっているのかも。昔塾で教えていた男の子。よくバイク

で走り回っているのを見かけた。高校生になっていたのかどうか? 一切しゃべりたくない様相の若いヤツになっている。こっちも話しか

けないし、向こうから話しかけてくることなど考えられないヤンキー。顔や目付きも中学のころとは全然違っている。それがバイクを止め

て話しかけてきたのだ。びっくりした。絵を描いていると、そういうことがよくある。

だけど、もっともっと開放された、普段でも心を開いていないと、なかなかましな絵は描けない、かも。でも、そういう精神論みたいなも

のになっちゃうと、手の打ちようがない。

少なくとも、南や桑田は、開放された自由な気持ちで歌を作っている。こういう心境になれなくてヤクに走るミュージシャンも多いのでは。

ヤクとは根本的に違うと思う。

 

10年11月6日

この三日間は超ハッピーだった。11月3日は絵画教室で海に写生に行き、4日はバラ園でバラを描き捲くり帰りに50mプールで泳ぎ捲くり。

5日はクロッキー会だ。三日間で油絵21枚描いた。もう死んでもいいのでは。私のテーマである風景、花、裸婦を連続で描き捲くったこと

になる。水墨裸婦10枚を加えると31枚の絵を描いた。もう地塗りしたキャンバスのストックがない(実は0号1枚だけある)。「描く、泳

ぐ、歩く」のテーマは一応納得できるところまでやった。歩くが少し足りないかも。

こんなに幸福で、その描いたものを売ろうなんて図々し過ぎるのではないか。描くだけでもうハッピーなのだからそれで完結だべ。

ま、「歩く」についてもマンションの巡回が中心だから、歩いてお金をもらっている。無料奉仕は水泳だけか。「描く」についても売れ

るかどうかはわからない。だけど、嬉しがって描く絵は酷いことにはならない。嫌々描いた売り絵では面白くもなんともない。楽しく描

いて結果として買っていただくのが正道だ。もちろん今さらこの方向を転換できるわけもない。売り絵を描くには私の画材は高価すぎる。

まったく油絵絵画道にどっぷり浸かってしまった。ハッピーなんだから文句はない。家賃の心配などなく、もう少し安定して暮らせたら

超ハッピーなんだけど、世の中そんなに甘くはない。

 

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