唇 寒(しんかん)集33<10/1/2〜5/29>

 

10年5月29日

最近物忘れが激しい。一番酷いのは映画。さすがに映画館で見た映画は覚えているけど、テレビやDVDで見た映画はほとんど忘れている。

テレビの映画など、ずっと見ていて、家内に「それ見たじゃん」と言われ、それでも思い出さず、見終わる30分ぐらい前に「あぁ、見た!」な

どと、やっと気がつく始末。昨夜はビデオ屋で、映画を物色しているとき、家内に「それは見た」と何度言われたことか。ホント、昨夜の

ビデオ屋ではショックを受けた。これはそうとう重症だと自覚した。覚えてないとは恐ろしい。ま、それだけ映画が単調でつまらないとい

うことかもしれない。だけど映画なんだから、2時間ドラマじゃないんだから、映画と言えば、お金も掛かっているし、俳優も本気で頑張っ

ているんだから、それをほとんど忘れているなんて、酷すぎる。脳細胞の一部が破壊されていることは事実。これは致し方ない。歳ととも

にどんどん壊れることになっている。悲しいけどね。

だけど、歳をとらなければ表現できないような絵はいっぱいある。ミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」(これは彫刻)も富岡鉄斎

(1836〜1824)の山水図も90歳近くならなければ描けない。描けないうえに、誰でも本当にそういう画境に行けるのかどうかは保証がない。

そういう画境があるということだけは、私は知っている。知っている絵描きも少ないと思う。知っていても自分がそこにいけるとは限らな

い。と言うか、普通に考えれば不可能。全世界に数人しかたどり着けなかった画境なのだ。無理だよ。その前に90歳まで生きるのが大変。

身体が持たない。私は少なくとも、とにかく身体だけは持たせようとしているが、それもいい加減。ジジイ腕立て伏せは続けているけど、

ジジイ腹筋はやっていない。腹筋をやらないと腰が持たないらしい。身体は持っても金が続かないのは確実。私は国民年金だから、絶対に

生きていられないのだ。ま、聖路加病院の日野原先生みたく働き続けるしかない。こんなグータラの超ジジイに仕事あるのか? ありっこ

ない。適当なところで死ぬしかないか。普通、やるだけやるな、やっぱり。

 

10年5月22日

たった今、バラの絵を描いてきた。すばらしい赤い蔓バラだ。先週までヘッドページにアップしていた10号(本日最近の絵に更新)も同

じバラ。もっと大きいキャンバスに描きたいと、今朝は15号に描いた。実は50号ぐらいに描きたいけど、最近50号前後のキャンバス

の準備がない。数年前はいつも2〜3点地塗りをしておいたものだ。だいたい50号前後だと風景が多くなる。でも、道路や公園にイーゼ

ルを立てて、立ち葵とかバラとか桜もいっぱい描いた。ハナミズキも描いた。

50号なんて売れっこないし、キャンバス代もバカにならない(私のキャンバスはベルギー製でとても高価)。だけど、大きい絵を描いて

おかないとSMとか3号もなかなか筆が言うことを聞いてくれないのだ。やっぱりでかい絵を描かなきゃダメだ。私のSMは安物ではない。

すべて本物。現物を見て描いているし、大きい絵を描いた後に描いている。絶対真似ができないSMなのだ。ま、大きい絵を描いてから描

けばいいんだから、やろうと思えば、誰でも描けるけど、そんなバカな画法を実行している絵描きはいない。超贅沢な画法かも。

今回のロールキャンバス(29番荒目双糸)からは40号と50号を採る! 

それにしても、ああいう立派な蔓バラが近所にあるのはありがたいことだ。朝日に輝いて目も眩むばかりだ。頭が変になるほど美しい。脳

髄に来る。きっと、原始時代のころから見続けている遺伝子の深いところの歓びが雀躍しているんだと思う。その歓喜を筆に乗せてキャン

バスにぶつける。これほどの幸福はない。まったくいつ死んでもいいよ。

で、今朝のバラの絵だけど、どうもあんまりパッとしなかった感じ。絵は難しいのだ。

 

10年5月15日

いまブログでは、古典芸術の画家や彫刻家を仏像に当てはめて遊んでいる。

私が如来像と慕う芸術家は死ぬ寸前まで自分のやりたいことをやり通した人だ。それが、誰が見ても素晴らしい作品、特に私が見て素晴ら

しい作品を残してくれた画人たちに思いを巡らせている。で、80歳を過ぎて、90歳にまで達してようとして、さらに絵を描き続けた人。

その絵が輝いていること。こういう画人は死を恐れていない。暗くならない。本当の仏教の悟りがどんなものか知らないけど、富岡鉄斎

(1836〜1824)の最晩年の絵はどう見ても死を恐れていない。常人ではない。誰だって歳をとって死が近づいてくれば心が塞ぐ。暗くなる。

それが普通だ。絵も暗くなってしまうものだ。フランスのプッサンほどの達人でも、最晩年の絵は暗い。鉄斎の絵はまったく暗くない、ど

ころかむしろ色彩が最高に輝いている。

鉄斎を見る限り、画道というものはあるんだなぁ、とつくづく思い至る。純絵画の道だ。絵によって修行をすることはできる、ということ。

私は絵画(と彫刻)の真実を確信している。その道を歩みたいと切に願っている。ま、実際には、踏み外してばかりいるけどね。

 

10年5月8日

アイスは食べているけど、プールの回数券はまだ買えない。

やっぱり、どうしても絵は意図したとおりには出来ない。意図なんてない。私の絵は確かに私が描いているけど、私の意図では描いていな

い。作意はない。目の前のものを写しているだけだ。「うわっ、奇麗だ」と思う気持ちを筆に乗せているだけだ。

筆の偶然もあるし、ボロ布の偶然もある。パレット上の混色の偶然もある。そういう偶然は私の意思とは無関係だ。確かに私の筆で私のパ

レットだけど、偶然の重なり合いで生れた線や色は私の意思を超えている。離れている。

買ってもらえるような絵は、私が描いたのだけど、私の意図ではない。私の意図を超えている。だから、つい「上手く行っちゃった」と口

走ってしまう。これはまずい(らしい)。特に画廊ではいけない科白(せりふ)かも。絵は決して安い買い物ではないのだ。「上手くいっ

ちゃった」はねぇべ、となる(らしい)。

「上手くいっちゃった」じゃないとすると、「頂きました」みたいな表現がいいのか。誰から頂いたのかというと、ま、絵の神様ってとこ

ろか。

私としては、「いい絵」は滅多に出来ない。いろいろな偶然が重なって、上手くいっちゃったのです、と言いたいだけなのだ。だから、こ

の絵は価値があります、とも言いたい。だって、公表年間600枚描く男なのだ。そういう絵を1点10万円(3号=27.3×22.0cm)という価格で

売っているのだ。全部の絵が「いい絵」なら年収6千万の大金持ちではないか。

そんなバカなことはない。「上手くいっちゃった」は嘘偽りのない私の本心である。

で、絵とはそういうふうに出来るものだと確信している。

 

10年5月1日

金井画廊でそこそこ絵を買ってもらったので、これからしばらくはアイス(3個〜5個で300〜500円)が買えないとかプールの回数券(3000円)

が買えないということはないと思うが、お金は掴まないことには安心できない。懐の春は当分来そうもない。

イッキ描きは短時間の勝負。こういう短期決戦はもともと日本人が得意とするところだ。和歌やもっと短い俳句の伝統もある。特に俳句の

松尾芭蕉の教えには学ぶべきところが多い。

たとえば、「すべての俳句は辞世の句だ」という教え。これはたいへん意味深い教えだと思う。「一期一会」なんていうカッコよすぎる言葉

もある。お相撲さんは「毎日一番」とか「この一番」などと星勘定を忘れてその日の相撲に全力を尽くすことを本旨とする。

『ロダンの言葉』(岩波文庫p10〜11)にも「ああ、誠実でなくてはならない。生涯のいかな時でも、いくら自分を強いと信じたとて、自分

の彫刻のうちに甘く出来切らないある部分があるのは知っているが、公衆がそれに気付くものか、また今度よくやる事しよう、と考えるよ

うではなりません。公衆がそれを認めなくても、自分自身が認める。困難をごまかす習慣がついてきて、投げやりな彫刻で満足するように

なり、やがて、まるで悪い彫刻になって来ます。自分の良心と妥協してはいけません。何でもないというほどの事でもです。後にはこの何

でもない事が全体になって来ます。・・・芸術はのろさを要求する。人々の、殊に青年の頃には思いも及ばないほどの辛抱を要求します。

会得することも難しいしまた作る事も難しい」

若いころはこの全文を暗記していた。今は埃だらけの本から書き写した。

 

10年4月24日

イッキ描きは精神を集中させて短時間に描き上げるから、体調が悪いと描いても無駄である。この前の絵画教室では、風邪を引いていたの

で全然描けなかった。ま、筆慣らしにはなるから、描かないよりましかもしれないが、だいたい絵具の無駄になる。

イッキ描きは体調を調え、雑念を忘れて気持ちを集中させて取り組まなければならない。対象への感動と生命力の描出が狙いだ。

この場合、油絵具は最良の画材である。他の画材はよく知らないけど、油絵具は短時間にしっかりした厚みを持ったタブローも仕上げるこ

とが可能だ。水墨画のように表現することもできる。しかも、乾けば物凄く堅牢である。大画面も描けるし、小品にも対応できる。自由自

在である。割れの防止や間違った混色による変色の知識さえしっかり持っていれば、好き勝手に筆が揮える。

さらに、具象絵画としての最低の基本。まずは空間描写。人体、風景、静物などを描く最低の基本を身に付けておけば、あとは勝手に暴れ

ればいいのだ。もちろん、落ち着いた、じっくりした線描を楽しむことも出来る。筆を置く歓びを味わうべきだ。

はっきり言って、出来た作品なんてどうでもいい。そのときの裸婦の、花の、でっかい風光の、その感動をぶつければ終わりなのだ。

もちろん絵画作品としての多少の仕上げサービスもすることはする。それぐらいは罪ではないだろう。こんな楽しい時間を頂いたのだから、

少しは作品にお返しするのが人の道というものだ。

 

10年4月17日

とにかくどこかに行こうということになった。私は、翌日はクロッキー会だし、筆慣らしに近所の公園にでも行って花でも描こうかと考え

た。桜が終わると百花繚乱の季節が来る。

ところが、家内は「行くとしたら富士山か海だ」と言って引かない。え? 金もないのに富士山かよ、と思った。第一見えるかどうかまっ

たく保証はないのだ。確かに去年はこの時期に行って桜満開の富士をゲットした。柳の下に二匹目のドジョウはいないだろう。だいたい富

士山は見えないものだ。特に春の富士は見えない。

東名を降りてから、山中湖に向かう山道は完全な霧の中、というかきっと雲の中だったのだと思う。諦めた。とにかく山中湖に行って、湖

畔でポットに入れてきたコーヒーを飲んで帰ろう、ということになった。

と、ところが・・・

何回か行っている田貫湖ではなく、手前の山中湖で済ませた。だから桜は付いていない。だけど、眼前にどでかい姿がある。まったく素晴

らしい雄姿。

何回も言うが、空気遠近法で言えば、富士山は空と同じだ。雲みたいなものだ。東名からも見えたのだが、初め私は雲だと思った。雲にし

ては斜めの線がおかしい。あんな雲もあるのかとよく見ると(運転中なのでよくは見られないけど)、富士山の雪が傾斜に沿って斜めに走っ

ているのだ。「あれは富士山だ。でかい!」

奈良の大仏もそうだけど、見るたびに想っているよりでかい。まこと想像を絶する。

で、20号から0号まで7枚描いた。筆慣らしにしては貴重なキャンバスを使いすぎである。

このおかげで次の日の今日のクロッキー会でも筆が縮こまることはなかった。だけどテレピンの臭い問題があって、こっちはまだ完全解決

には至っていない。

(この文章は14日にアップできなかったブログの文章を下敷きにしました)

 

10年4月10日

マンションの仕事では、1ヶ月のうちに1週間の連勤と1週間の連休がある。今は連休の最中。この前の金井画廊展のときも脚がガクガク

になった。今回も気をつけないといけない。もっとも今回は途中1回代務が入っているから、10日間ぶっ続けで休んだ金井画廊展とは違

うと思う。家にいると買い物とかにも行くから、金井画廊に座っているより運動すると思う。

等迦会の同人で、私のブログをいつも読んでくださる方(ブログのコメントにもときどき登場してくださるのんのんさん)から冊子を送っ

ていただいた。『私の戦記』という題名。

これがムチャクチャ面白い。圧巻はグラマンに木製の銃で立ち向かうサトウ。腹が痛くなるほど笑えた。彩色の挿絵がいっぱい(というか

全巻絵ばっかり)で、そこにいろいろなコメントが入っている。サトウについてのコメントは「コウイウバカにはあたらないのだ」と書い

てある。「サトウはその後大学にいって高校の先生になってまだ生きている」とあった。80歳以上かも。サトウに会いてぇ〜、と思って

しまった。

この冊子にはのんのんさんの青春時代が赤裸々に暴露してある。自慢話は一切ない。素晴らしい。他の人のお話ではのんのんさんは校長先

生にまでなった立派な方とのこと。

家内の説では私のホームページやブログとは格段の差があると言う。これぐらい面白くないと、誰も読んでくれなくなる、と予言している。

 

10年4月3日

金井画廊の個展が終わって、またマンションの管理人が始まった。10日ぶりに巡回したら脚がガクガクになった。まったく情けない。家内

は「金井画廊で『先生、先生』と言われ、今日から管理人じゃあ、たいへんでしょ」と言うが、私にはまったく気にならない。金井画廊で

は先生と言われるが、まさか本気で先生とは思っていない。画廊の体裁上、この禿頭を先生と呼んでくれる。この禿が描いた絵を売らなけ

ればならないから致し方なのだ。

塾をやっているときも私は「先生」だった。子供たちはお母さんに「あの小父さんを先生と呼ぶんですよ」と教えられ、わけもわからず「先

生」と言っている。私だってそれぐらいは察している。ま、あだ名みたいなものだ。

その前に、管理人は確かに「先生」ではないけど、それほど下級クラスでもない。もちろんいつでもウンコの片づけをする覚悟はあるが、

私以外の管理人さんが立派なので、私もそういう扱いを受けてしまう。便乗扱い? まことに、申し訳ない。住民の方も出入りの業者の方

も、案外ソフトな、というか必要以上に丁寧な感触なのだ。フロントで何かを頼むときも「お忙しいのにすいませんねぇ」などと言ってく

れる。こっちは住人の方の頼みごとを聞くのが本業だ。何か別な仕事のついでにやっているわけではない。

とにかく、管理人はそれほど悪くはない。巡回はけっこうハードな運動だけど、別に走るわけではない。歩くだけだ。年寄りにはちょうど

いい運動量だ。

今朝は歯医者さんに行って、歯のクリーニングをしてもらった。3ヶ月に一回のチューンナップ。まこと気持ちいい。口が軽くなる。

 

10年3月27日

金井画廊の個展の真っ最中である。私の実態を見物したい方は東京の京橋の金井画廊においでください。ソファでお湯を飲んでは居眠りを

しています。もちろん、上野のパンダほどは面白くもない生態です。私は尿酸値が高めのためいつもお湯を飲んでいなければならず、失礼

があるかもしれませんが、ご容赦ください。3月31日(水)だけは絵画教室のため午後3時か4時ごろの到着になります。

ブログでもいろいろなことをしゃべって、いろいろなことを考えているが、やっぱり禅僧は偉いかもしれない。当たり前だが、禅では便所

掃除が重要な修行だ。マンションの管理人もいつでもウンコの始末をする覚悟がいる。そこがいい。私は18歳のときに新聞配達の住み込み

に入ったが、もちろん、便所掃除は当番制で回ってくる。初めて他人のウンコを掃除した。気持ち悪かったが、「ああ、これが人が一人で

生きるということか」と思った。

たった今、ブログでも「われわれは野生動物である」と書いたが、まことわれわれは野生動物である。

そんななかで絵を買っていただこうという以上、うんざりするほど線を引かねばならない。年間600枚の油絵ではまだまだ少ないかも。絵具

が馴染んで、画溶液が血となり汗となって、手の先がそのまま絵筆になるほど描いて描いて描き捲くらなければならない。もっともっと描

かなければならない。

フサロもデ・クーニングもコタボも私と同じように考えている。絵描きはまず描かなければ始まらない。ルノワールも長谷川等伯もうんざ

りするほど描いた。そういう意味ではみんな同胞だ。みんな仲間だ。どの絵がいいとか悪いとか、そんなことは二の次の問題なのだ。

私もまだまだ当分描く!

 

10年3月20日

等迦会は凄く小さな公募展だけど、新人賞のチャンスは1回しかない。新人奨励賞は数人もらえるけど、新人賞は1人だけ。どういうわけか

私はその新人賞を貰った。新人賞を貰った人はみんなだいたい会を辞めている。残っているのは私ぐらいだ。その後も、等迦会賞とか、小

さな会だが、そのなかでは大きな賞ばかりいただいた。これはこれで小さな自慢なのだ。もちろん、受賞運動などはまったくやっていない。

審査員に対してお金のばら撒きもない、どころか、会費もまともに払っていない(早めにちゃんと払います!)。

金井画廊の金井さんは私の家まで絵を選びに来て、額装して展示してくれる、本格的な、昔ながらの画商さんだ。画商としての一家言もお

ありだ。この金井画廊で毎年企画展をやってくれる。もう今年で11回目だ。これは絵描きとしては実に恵まれていることなのだ。でっかい

幸せなのだ。

それは上を見れば切りがない。文化勲章とか、賞金1千万円の○○大賞とか、日展特選とか、いくらでも挙げられる。

だけど重要なのは、自分が好き勝手に絵を描くことだ。自由自在に筆を揮うことだ。これはかなり実現している。だけど、もっと大画面に

絵を描きたい。歳も歳だから、ここ10年ぐらいの間に200号を数枚描きたい。だけど、今の経済状態では無理。画材はなんとかなるけど場所

がない。

100号の等身大を続けていれば、もっとでかい絵はいつでも描けるだろうとは思うけど・・・岡本太郎ぐらいの大きさの絵は描きたいなぁ〜、

やっぱり。せっかくこの世に生れてきて、絵を描いているんだから。

ぶっとい刷毛で、右や左に走り回って裸婦の群像を仕上げたいよ。

 

10年3月13日

絵を描くこと、発表すること、認められること、絵で生活すること。このような生き方を示すきっちりしたマニュアルはない。一般に、大

学を卒業して就職して出世してゆく、みたいなレールは、絵画の世界にはない。一般の社会だって、実際にやってみればそう簡単ではない

はずだ。今週で終わった『不毛地帯』でも、超たいへんだった。

好きなことをガンガンやってゆくしかない。雪の中をラッセルするみたいにドンドン突き進むしかない。ま、しかし『不毛地帯』のように、

うまい具合に石油が出てくれることはありえない。特に絵では難しい。

まず、ほとんどの人は石膏デッサンから始める。とは言っても石膏像はなかなかない。学校にはあるけど、何時間も自由に描かせてくれな

い。美術研究所に入所するしかないか。中学や高校の美術部に入ればある程度描けるかも。

次は生身の人間を描く。これも研究所にいれば描ける。「次に」と言ったが、石膏デッサンは基本だから、といって老年になるまで続けて

いた画家もいた。毎朝、まず石膏像に向かうらしい。

生身の人体。ま、裸婦像か。こっちも基本だけど、これを続けるのもたいへん。モデルを自宅に呼んで描き続けている大画家は多いかも。

石膏像よりずっと楽しいだろう。

まったく、絵の世界で生きてゆくのは難しい。と言うか、どんな世界でも生きてゆくのは難しい。どうせ難しいなら好きなことをやったほ

うがいい、となる。

私は偶然この歳まで絵を描き続けることができた。奇蹟みたいな話だ。石膏は描いていないけど、今でもギリシア彫刻の美術書の図版をエ

ンピツで写したりしている。また、裸婦はクロッキー会で昨日も描いた。少しは絵も認められている(感じはある)。だけど、豊かに生活

することはもちろん出来ないし、最低ギリギリで生活することもままならない。

 

10年3月6日

冬季五輪のスノボーの金メダリスト、ショーン・ホワイトが、メダル獲得後に見せてくれた技はダブルコークを超えたダブルマックツイス

トだった。

キム・ヨナと浅田真央の演技をじっくり見比べると、やっぱりかなり接近している。遜色はない。浅田がつまずかなければ、どっちがどっ

ちかわからない。回転数の多い浅田の勝ちだったかも。

今回は冬季五輪をけっこう見た。ホームページも3回連続でオリンピック話になってしまった。

絵の話もいっぱいあることはある。家内が野見山暁治にはまっているので、その話も少しあるし、長谷川等伯展の真っ最中なので、等伯の

話題もある。まだ行っていないが、3月22日で終わってしまうので油断ならない。そのあくる日から私の個展。見逃した人は私の絵で我慢し

てください(ここ笑いです)。

世の中の絵描きにもいろいろなランクがある。プロの画家とか言っても全然売れていない人もいる。私以上に売れていない人も多い。アマ

チュアと言ってもプロを目指している人もいる。その境界線はない。また、画壇美術に邁進している人もいるし、個展で発表し続けている

人もいる。個展だって、画廊企画と貸し画廊でやるのとではランクがちがうという考えもある。貸し画廊でやるほうが自由でいいという人

もいる。画壇美術は公募展などの美術団体だが、ここ数十年コンテスト形式の発表の場も流行っている。とは言っても安井賞も終わってし

まい、最近は一時期ほど活況を呈してはいない。公募展もピンからキリまである。それぞれの長所短所があり、一概に分類できない。日展

系とか在野などという分類もあった(今もある)。等迦会などは物凄く小さな会だ。それでも公募展だ。

以前こういう話もいっぱいしたけど、興味のある人は多いと思う。

 

10年2月27日

冬季オリンピックはえらいことになっている。フィギアが最大の山場を迎えている。私が注目したのはアメリカの超美人アスリート、リン

ゼイ・ボン。アルペンスキーで素晴らしい滑走を見た。

ああいう選手は美の極致を求めているのではないか。人類が達成できる最高の美。ホモサピエンスの進化の最高の、究極の美しい姿。だっ

て、オリンピックの最中にテレビで一般の女優やタレントを見ても、ちっとも美しく見えない。当世の最高の美少女とかも、オリンピック

選手の目の輝きには到底およばない。闘う女性(男性も)はまっこと美しい。

ボンはもともと美しいのだ。それが世界最高のすべりを見せてくれる。滑っているときは顔は見えないけれど、身体の切れはこの世のもの

とも思えない。170キロのスピードが出ているという。そのなかで見事に身体をコントロールしてゆく。たった2秒のなかに数名の選手がひ

しめく。ちょっとしたミスがスピードを変えてしまう。金メダルと銀メダルの差はコンマゼロゼロ秒。だけど、画面で見ているとはっきり

わかる。「あっ、この人、速えぇ」と見分けられる。

テニスのシャラポワとかも超美人だ。まったくホモサピエンスの究極の姿かも。テレビで見られるだけでも幸せです。

ボンとかシャラポワは真なる美を追求しているのかもしれない。

2回連続でオリンピック話になってしまった。

ちなみに、ボンは大回転で転んだけど、大事には至らなかったらしい。まったく命懸けだよ。

 

10年2月18日

本来なら2月20日の更新だが、都合で、本日18日に更新する。

冬季オリンピックの真っ最中だ。4年に一度のドキドキわくわくの競技が次から次に繰り広げられる。ちょっと目を離すと、すぐ終わっちゃ

う。民放のバラエティ番組は、コマーシャルなどで面白そうな場面を引っ張る。引っ張りに引っ張ってやっと始まるとがっかりするほどつ

まらない。これに対してオリンピックは素晴らしいテンポで競技が進む。その内容も目を見張る素晴らしさ。選手の顔も輝いている。ふだ

ん見ているバラエティタレントの顔はあまりにも凡庸だ。まったく見劣りがする。やっぱり、一つのことに熱中している人の顔はいい。目

も輝いている。服装がイマイチと批判された選手も決勝に残った。あの雪や氷の上のスピード感溢れる競技はまさに命懸け(実際に一人の

選手は亡くなった)。国を代表する勇士たちだ。

身体能力というか運動神経というか、まことにどうやってあのように身体を自在に捻れるのか、一瞬の判断でクルリと回ってしまう。モー

グルもスノボーも息を呑む見事な動きだ。

ほんとオリンピックは楽しいね。

本日、絵にまったく関係のない話でした。

少し前にスノボーが終わった。日本選手はバランスを崩して敗退したけど、金メダルを取ったアメリカのショーン・ホワイトは金メダル確

定後なのに命懸けのダブルコークを見せてくれた。満点のサービス精神。感動させていただきました。男だねぇ。

 

10年2月13日

金井画廊の金井さん、絵を持つ喜びも強調する。壁に飾る段階を超えた喜びだそうだ。ここら辺は貧乏人の私には理解できないが、「活き

た絵」の話は一応わかった(ような気がする)。

「活きた絵」というのは、「描きおろし」という意味もある。反対の絵はオークションなどに出る「名前だけの絵」だ。有名画家の駄作。

買う人は名前で買ってしまう。これが対極にある。

金井さんではない別の画商さんは、ある程度有名な物故作家ばかり買う人もいるが、こういう買い方はまだレベルが低いとおっしゃってい

た。

瑞々しい新作を画廊で見て、自分の眼で判断して(出来れば画家とも話をして)買うのが一番なのだろうか? こんなところが絵画商の理

想の絵画売買なのかも。

名前で買うのは本当に危険である。贋物がうようよしている。贋作の海に飛び込むようなものだ。特に初心者は絶対に止めたほうがいい。

『なんでも鑑定団』を見ていても、たくさんの贋作が世に出回っているのがわかる。

とにかく、間違えのない真作は画廊で売っている絵だ。それは、誰が何と言おうと「現代絵画」である。同時代の絵だ。コンテンポラリー

だ。そういう美術分野があるらしいが、そんな「現代絵画」とか「コンテンポラリー」なんてのは、すべて普通名詞である。ある特殊な作

品にそういう名を冠するのは基本的な国語力が足りないのだ。

新作を扱う画廊の絵は、それほど高価なわけではない。贋作のほうがずっと値が張る。この21世紀に同時に生きる人の絵を、自分自身の目

で選ぶべきである。それが美術を存続させる道でもある。それが文化というものだ。

 

10年2月6日

今は等迦展の真っ最中である。

公募展についてはブログでいろいろなことをしゃべっているから、またここで繰り返すこともないが、公募展はお祭りであると同時に、やっ

ぱり作品発表の場でもある。国が大枚をはたいてドでかい美術館を造った。設計はかの黒川紀章だ。この美術館は、早い話がでっかい額縁

ということ。ここに絵を飾るということは国の額縁に絵を入れるということだ。国家規模。数年前までは都美術館だから、都のプロジェク

トか。どっちでも似たようなものだ(東京都の予算はカナダ一国と同じぐらいと聞く)。

画家が一年かけて、ま、その総決算として大作を発表するのだ。誰でも一応は精魂傾けて描く。それが何百枚もずらりと並ぶ。丁寧に一枚

一枚見れば、みんな一所懸命だ。

 

話はぜんぜん変わるが、絵を投機目的で買うのは危険だ。売るほうも「俺の絵は高くなる」とか「この先生は歴史に残りますよ」などとい

うのは王道ではない。ま、実際にそう思って買う人はほとんどいない。金井画廊はそういう方向は取っていない。

絵だって消耗品なのだ。それでいいのだ。「いい。部屋に飾りたい」と思って買っていただくのが一番。それ以上でも以下でもない。何度

も書くが10万円の絵でも10年飾れば、年に1万円。月に900円にもならない。一日なら30円以下だ。安いものだ。ふつう油絵は最低でも30年、

実際には100年は大丈夫。30年で計算しても一日3円以下になってしまう。タダみたいなもの。いいと思ったら皆さん、どんどん買ってくだ

さい。

だけど、投機目的の人はよく買ってくれるんだな、これが。ああ、投機目的の方もどんどんご来場ください。お願いします。

 

10年1月30日

ニッポンの未来はワウワウワウワウ、世界が羨むイェイイェイイェイイェイ・・・

と数年前なら大ヒットだが、もうその数年前から傾き始めていた。今ははっきり凋落の一途を辿っている。それがニッポンの現状、そして

未来だ。モンゴルもスペインもイギリスも一度は世界を制覇した。ニッポンだって経済で世界中を唸らせ、羨ましがらせた。今後の展望は

ない。坂を転げ落ちるように、奈落の底に向かうだろう。今後は、その凋落のスピードをいかに抑えるかに掛かっている。

で、絵だが、おそらくこれもダメだろう。ま、その前に日本が世界に躍り出ていた時期にも大したものはなかった。これも不思議だ。

昔から国が栄えれば文化も栄えた。しかし、国がどんどん衰えたのに、それに反比例するように文化が繁栄した例もないことはない。南宋

文化だ。かの牧谿が活躍した時代だ。あの時代は水墨画だけではなく、仏像もいいし、陶磁器 も素晴らしい。宋詩といって宋の漢詩も有名。

学問でも朱子学が発達した。その前に水墨画の土台たる禅宗が繁栄の最高潮に達した。

ああ、21世紀の牧谿になれるかなぁ?(=絶対無理!)

でも、一応理論武装はしているし、実際にたくさん絵も描いているし、まあ、運動も怠らず続けているのだけれど・・・ ダメか。

私自身の家計は日本経済以上にガタガタである。

 

等迦会の授賞式は3日ではなく6日だったので、やっぱりいけない。マンションの遅番だった。新会友になったNさんにお願いした。

 

10年1月23日

とにかく、木曜日に等迦会の絵を運送業者に渡した。今年は審査も飾りつけも行けない。でも、授賞式には行かないとまずい(知り合いの

方がいっぱい出したから入選証を貰う。自分の受賞はまずない。絵もイマイチだし・・・)。おそらくマンションと重なるけど、早番だか

ら、ギリギリ間に合う、と思う。

絵画教室が毎週続く。この前は真冬なのにバラを描いた。もちろん室内の花瓶のバラ。Sさんの奥さんが生けてくださった。お花の先生だか

ら本格的な生け花である。だけど、私はどうも外に咲いている立ち木のバラが好きだ。やっぱり勢いがちがう。天に向かって枝が伸びてい

る。当たり前だが、生気がある。

それにしても、一般の方に絵のことを理解してもらうのは難しい。まず不可能だ。いろいろな説明をしたあと、びっくりするようなコメン

トを頂く場合もある。「ああ、まったく話が通じていないな」と悲しくなる。もちろん再度説明する気もない。無理である。口で言っても

わからない世界だ。ま、それでもホームページとブログは続けるつもり。

だから、ここで次の文章が出てこない。私は人気作家でもないし、文化勲章はもちろん、コンテスト形式の絵画展で大賞も取っていないの

だから、無論説得力はない。私の絵の話など何の保証もない。禿ジジイの御託である。

だけど、絵は気を入れていっぱい描くことが大切だと思う。大画面も描いてみる必要がある。写生が一番いい。写真を見て描いてはいけな

い。とにかく、自分を追い込んでたくさん描かないと、たくさん描いた歴代の画家たちの心境は理解できない。で、100号を描いていると、

やっぱりピカソが見たくなる。ピカソは偉かったな、とつくづく思う。

 

10年1月16日

木曜日からマンションの早番が続いている。この土曜日までで、一般のサラリーマンの人には当たり前かもしれないけど、私にはとても辛

い早朝出勤。このホームページのこともつい忘れていた。

南直哉の本もひととおり読み終わってしまい、いま読む本がない。本を買う金もないし、図書館に行く元気もない。

わが絵画教室はたくさんの人が等迦会に出品するので、絵を見て回るのが忙しい。私は絵に手を入れない主義なので、漠然としたアドバイ

スしかできない。実に申し訳ない講師である。ま、だけど、みなさんお利口だし、小学校や中学のときの図画や美術の成績は最高。何の心

配もない。ちなみに私の成績は中ぐらいだった。

等迦会の熱気でこの真冬の寒さが吹き飛んでいる気配すらある。冷めているのは私だけか。

地塗りはしたけど、まだ全然描いていない。運送屋が21日に絵を取りに来る。まだマンションも続くし、プールを休む予定もない。本当

に絵が仕上がるのか?

今年も裸婦を描く。今年はこの前のクロッキーの2分ポーズから絵を起こす。もちろん碌な絵は出来ないだろうが、描いているときはギリ

シア彫刻のフィーディアスかルネサンスのミケランジェロになりきっちゃう。気楽だね。

 

10年1月9日

去年の12月中ごろ『日常生活のなかの禅』(南直哉 講談社)を読んでいて「非己」というのがよくわからなかった。この「非己」につ

いて『語る禅僧』(南直哉 朝日新聞社)に詳しく書いてあった。その話を今回しようと思ったが、長くなるし、ちょっと情熱も冷めてし

まったので、「非己」についてはブログで解説する。

南師への興ざめについても生意気な文章をブログに書いてしまった。しかもそれを家内に見られてしまい、こんなのアップするの止めとけ

と言われたが、もうアップした後だった。だけど、私自身はそれほど生意気とも思っていない。どう考えても南師は自信過剰だ。確かに道

元禅師の方法をまともに守って頑張っている。一生かけて道元に仕えようとしている。それこそまさに信仰である。だけど、現在の曹洞宗

と道元が始めた教団とでは比較にならない。曹洞宗はいまや日本一の宗門なのだ。道元の弟子は50人前後だった。まったく規模がちがう。

曹洞宗は税金も払う必要のない宗教法人で、その規模は一流企業でも及ばないだろう。民主党よりでかいかも。磐石の組織なのだ。

宗門の中からいくら立派なことを語っても、私は賛同できない。どこから語ろうと、内容が立派ならばいいだろう、というものではない。

南師のわかりやすい解説を読んで、私が思っていた「道元の禅とはこんなものかも」という推察がほぼ正しかったので、とても嬉しかった。

だけど、もちろん私は道元の弟子ではない。また、臨済宗の昔の立派な禅僧も素晴らしいと思っている。絵については臨済宗のほうが作品

が多い。牧谿も雪舟も臨済宗だ。芭蕉も臨済禅の居士だった。

南師の覚悟に比べれば、私はひん曲がっているかもしれない。だけど、私にも覚悟がある。道元も慕っているし、牧谿なら一目で引き込ま

れた。もう40年も前のことだ。

 

10年1月2日

明けましておめでとうございます。

さすがに『日常生活のなかの禅』(南直哉 講談社)は読み終わった。『老師と少年』は短いし、文字もでかいからすでに半分読み終わっ

た。だけど、今のところこっちは詰まらない。新潮社もよくこんなもの本にしたな、って感じ。

で、先週も述べたように、私の方向性はだいたい間違っていない。20歳代の前半から道元の『正法眼蔵』に出会い、仏教のことをいろいろ

読んできた(原典ではない。新書や文庫程度)のだから、ここで、間違っていたとなってはたまったものではない。

一言で言えば、身体を大切にして、たくさん絵を描くこと、ということだ。それだけのこと。でも、今も腰を痛めて、酷い正月を迎えてい

る。2年前の正月は尿路結石で死ぬほど痛い目にあった。

容赦なくゴキブリを叩き殺す無慈悲がこういう正月にさせるのかも。だけど、私はこれからもゴキブリを殺し続けるし、蚊だって許さない。

家の中にネズミがいたらやっぱり殺す。ハイ、仏の道に背いています。

でも、水浴や丹田呼吸なども続ける予定。別に悟りたいからではない。こうなってくると、単なる癖かも。絵も描くし、水泳もやる。

今年は着実な商売をする。今の状態ではジリ貧だもの。ちゃんと生きます!

 

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