唇 寒(しんかん)集32<09/8/1〜12/26>

 

09年12月26日

昨日はクリスマス。これって今年最後のホームページか? 言いたくないけど、やっぱり早いかな?

まだ読み終わっていない『日常生活のなかの禅』(南直哉 講談社)はやっと佳境に入ってきた。すなわち「悟り」の考え方だ。で、どう

も私の思っていたことが正しかったみたいだ。とは言っても私も長い間ずいぶん迷ってきた。もちろん、いまも「迷いがなくて悟った」と

いうわけではない。むしろ、人格が豹変するような悟りはない、ということを悟っただけだ。道元禅師の言っていることは、悟りはない、

というか、坐禅をしていることがそのまま悟り(つまり釈尊との一体化)だ、とおっしゃっていた。

これを、絵画生活に当てはめれば、「描いてるときはみなゴッホ」というわが絵画教室のキャッチに行きつく。ゴッホは一つのたとえで、

ティツアーノでも牧谿でもいいわけだ。ギリシア彫刻のフィーディアスでもかまわない。

今回、『日常生活のなかの禅』を読んで(まだ読み終わっていない)、つくづく自分の方向性がそれほど間違っていなかったのだと自信を

持った。ダイジョブ、ダイジョブって感じだ。もっとも『日常生活のなかの禅』の中盤の哲学みたいな「自己」と「非己」の論述など、よ

くわからない。半分眠りながら読んでいたから、というか、あの辺りはすぐ眠くなる。ま、また読み直す。人生は長いから全然問題ない。

わからないほうが楽しいかも。

最近、まったく絵が売れないから言うけど、私は偉大かも。絶対買いだと思う。

この最後のフレーズを南師が読んだら「渇!」が入るだろうな。でも売れないと困るんだよね、まったく。絵描きだから。

よいお年を。

 

09年12月19日

いま町田の市民ホールでマチス会をやっている。20日まで。私も今日行ってきた。近所の方はご高覧ください。でも物凄い寒さです。

ホームページとブログの区別は難しいけど、できるだけこっち(ホームページ)には絵画的主張を描くつもりだ。でも、この前からブログ

のほうで大絵画論をぶってしまった。彫刻家の木内克(きのうちよし)の言葉を引用してイッキ論を語った。昔から言っていることの繰り

返しだ。

年内にコンテナ倉庫を解約するので、いま毎日引越しをしている。古い絵がたくさん置いてある。ちょっと見てみると、いい絵もあるけど、

「何でこんな絵とってあるんだ?」と首を傾げたくなるようなお作も多い。家内が見たら即廃棄だ。見せないようにしよう。

まったく、絵の管理も大変だ。金も掛かるし労力もバカにならない。マチス会の会員の先生もおっしゃっていた。「何で絵なんて描いてい

るんだ?」と。

おっしゃるとおり。先週も書いたけど、絵を描くしかないんだよな、これが。歳をとって、絵があるだけでもましと考えるべきだ。

 

09年12月12日

20日ほど前のテレビで、矢沢永吉が「自分を天才だと思わなければ、こんな仕事やってられないよ」と言っていた。あんなメジャーな矢沢

と比べるのも図々しいが、私もたまに絵を買ってもらえる身として、私の絵の支持者は私が「俺は天才だ」と言えば、気分がいいかもしれ

ないが、残念ながら、高校生のときに絵描きになろうと思ってから今日まで自分を天才だと思ったことは一度もない。私の父も一時期自分

が天才だと言っていたが、私には理解できなかった。

私が40数年間絵を描いてきたのは、これは偶然である。偶然の幸運なのか不運なのかはわからない。とにかく、ずっと続けてきた。水泳も

同じ(こっちはまだ40年にならない)。絵を止めなかったことは珍しい。確かに希少かもしれない。別に偉くはない。処世術の立場から言

えば、相当の馬鹿である。

いつも言うが、小磯良平は上手いと思う。天才かもしれない。だけどつまらない。漫画家の浦沢直樹とか鳥山明だって天才的に上手い。だ

が、純絵画としては問題にならない。絵は上手くたってダメだ。形が取れたって不十分だ。もちろん、造形なんだから形がより正確なほう

が楽しい気はする。写実は絵画の一要素ではある。だが、すべてではない。

以下のような考えは、道元禅師からは遠く、南直哉師に怒られるかもしれないけど、私はこう考えている。絵の神様がいて、いい絵を描か

せてくれる電波を雨のように降らせている(ニュートリノみたいな感じ?)。われわれ絵描きはパラボラアンテナみたいなヤツを頭の上に

付けて絵を描くのだ(私の頭は多少滑りやすいかも)。神様の電波を上手くキャッチしてキャンバスというモニターに映し出す。これが絵

描きの仕事だ。ピントがぴたっと合った絵が傑作だ。われわれは神様じゃない。宮司みたいなもの。伝道師か? 恐山の巫女か? だけど、

絵の神様との連絡を怠る(=描かない)と、モニターは曇りかすむ。宮司は身を清め、控えめに生活しなくてはいけない。私の暮らしは十

分控えめだが、気持ちがまだまだ清純ではない。深〜い反省が必要かも。

 

09年12月5日

ルネサンスの画家や彫刻の仕事は国家プロジェクトで、まさに時代のモニュメントを創っていた。巨大モニュメントの最初の構想はわれわ

れには思いもおよばない情熱と意欲で取り組んだのだと思う。もちろんキリスト教に関係する仕事が多く、作家たちも深く信仰していたと

推測される。情熱にも拍車がかかり、今のわれわれではいくら想像しても考え付かないような心境にあったのだろう。その集中力は、まさ

に神の域に達していただろう。特に、構想の最初の一枚。小さな紙片に走り描いたデッサンは息を呑む緊張感と喜びと意欲を見せてくれる。

それも、レオナルドとかミケランジェロの手による、生粋の真筆だ。彼らが息をつめて一気に走らせた鉛筆やインクの線描だ。

絶対に真似のできない、まさしく世界遺産!

われわれは、まずここから学ぶべきである。そしてここに創造のすべてのエッセンスがある。これ以外にはない。

ゲイジュツとかアートに迷ってはいけない。初発の感動と情熱と意欲。この根本をゆめゆめ忘れてはならない。われわれは、いろいろな面

で動物に劣る。猫の超然とした仕草も真似ができないし、犬のただひたすらの従順さにも敵わない。だけど、われわれは絵が描ける。創造

できる。これが人間の、人間だけが勝ち得た特権だ。

そして、クラシックの清新なエネルギーと気力に満ちた迫真の画面を目の当たりに出来る。先人たちのパワーシャワーを全身に浴びて、未

熟ながらも私たちも筆を執ろう!

(このホームページの「イッキ描きとは?」にレオナルドの小さなデッサンがあり、「絵の話」の「色彩のちから」(ノンジャンル)にラ

ファエロのカルトンが掲載されています。シヌエッサのアフロディテもすぐ下からどうぞ)

 

09年11月28日

一般の方にとって、絵は時間をかけてちゃんと描くものと思われている。これはもちろん間違っていない。だが、「イッキ描き」は時間を

かけない。先週「イッキ描き」は最先端の新画法であると述べたが、ずっと大昔から短時間で描く画法はいくらでもあった。何万年も昔の

アルタミラやラスコーの壁画も相当のスピードで仕上げられている。古代ギリシア彫刻もグズグズした線描はほとんどない。切れ味鋭く鑿

が走っている。スピード感十分の彫像である。ミケランジェロも素晴らしい速度で鑿を揮い、絵筆を執った。モナリザはゆっくり描いたよ

うに見えるが、レオナルドの小さなデッサンは驚くべき早業だった。ティツアーノも速い。バロックのルーベンスのスピードも伝説となっ

ている。絵を見てもわかる。昨日古い芸術新潮を読んでいたら鎌倉彫刻の運慶も素晴らしい早業だったとあった。驚くべきことに、あのレ

ンブラントの筆致も速いのだ。

昔の絵や彫刻は王侯貴族や寺院からの注文なのできっちり仕上げた。しかし、ロートレック(1864〜1901)ぐらいから、仕上げなんて問題

じゃなくなった。画院から禅寺に移っていった中国南宋の水墨画も自由奔放。中国では800年位前にヨーロッパの近代絵画の意識に達してい

たのだと思う。

芭蕉の俳句も「イッキ描き」的創作と言える。もちろんあそこまでの境地に達するのは不可能だろうけど、方向性は同じだと思う。芭蕉も

禅に傾倒しており、臨在禅の居士だった。奥の細道の旅姿は僧形である。私の場合は髪の毛だけが僧形。

 

09年11月21日

しかし、本当に「イッキ描き」は古臭い画法だろうか? 「イッキ描き」は古典絵画が大好きで、昔のいろいろな絵に惚れ込んでいるが、

こんなことは絵描きなら当たり前のこと。古典絵画に見向きもしないような絵描きはインチキである。

はっきり本心を言えば、「イッキ描き」はとても新しい現代的な画法である。100年まえの「イッキ描き」が尊敬している画人たちとは根本

的にちがう。まず、科学的知識が全然ちがう。この宇宙が130億光年ぐらいだと知っているし、われわれが住む天の川銀河が宇宙に散らばっ

ている何億もの銀河の一つであることも知っている。さらに、すべての生物が30億年前に一つの細胞から生れ、分かれたことも知っている。

今の化石燃料エネルギーに頼る人間の文明は数十年で終わることも心得ている。人間は別のエネルギーを探すか、滅びるかである。ま、し

かし、こういう危機は、いつの時代にもどんな生物にも、あった。この現生人類も幾多の困難を乗り越えて今日の繁栄を勝ち取ったのだ。

だが、100年前の図に乗っていた時代(絵で言えば印象派の時代)と今は全然ちがう。あの頃のヨーロッパの勝利。合理主義の絶対的優勢。

どんどん侵略し、がんがん開発できた『80日間世界一周』の時代。今はそういう時代ではない。

そういういろいろなことを踏まえて「イッキ描き」は生れた。絵画理論についても同様だ。この話はいろいろなところで何度も述べている

が来週また述べる。

ブログでもお知らせしたが、いろいろな方のご努力で私の名前が『美術市場』という美術年鑑に載ることになった。絵画売買の世界では一

目おかれている年鑑らしい。12月上旬の発売。書店でお確かめを。

 

09年11月14日

このホームページでは『ドラゴン桜』の話をしてきたので、全部見終わったことをご報告する。もちろん以前にも見ている。今回も十分感

動しました。『ドラゴン桜』では5人うち3人が東大合格、二人が落ちてしまう。塾の仕事のときも不合格になってしまう子が、当然いた。

私は不合格の子には必ず連絡をした。合格の生徒ではなく不合格だった生徒と親御さんが問題なのだ。そういう人にこそ連絡するのが塾の

仕事だと思っていた。

最近、絵を描いていて、自分が上手いと思うようになった。とくに8月にブランクがあって9月からちょっと焦ってたくさん描いたからか、

上手く行く絵が多い。最先端のアートの世界から見れば、私は古臭いことをやっているのだろう。古くても、かび臭くても、何でもいい。

面白いことをやるんだ。とくに風景が楽しくなった。風景は凄く面白い。奥が深い。当たり前のことだが、最近つくづく楽しい。この10

月、11月、12月も1月も日本の太平洋岸は空気が透き通る。夕方など、この世のものとは思えない景色になる。毎日タダで極楽浄土が

味わえる。絵を描く描かないは別として、とにかくそういう風景の中に浸るのは、目にも身体にもいい。

もっとも、この前の絵画教室の佐島マリーナはダメだった(ような気がする)。一筋縄ではいかないところがまた楽しい。きっと、鉄道模

型より絵のほうが楽しい(と思う)。

 

09年11月7日

古い時代に一つのエポックがある。紀元前500年ごろだ。ギリシアに美術や哲学が花咲き、インドにお釈迦様が生れて、中国には老子や

孔子がいた。

インドの仏教は現代哲学のすべてを包含している可能性がある。超えているということだ。私は全部の文献を読みつくしたわけではない、

というか1%も読んでいないけど、いろいろな偉い人がそう言っているし、私自身の極少ない読書経験からも仏教の教えの底知れぬ素晴ら

しさを察知できる。だからって仏教徒になりきれないところが情けない。

わからない人はいっぱいいるのだ。わからない人でも絵が好きでお金持ちもいる。そいう人は、(私から見ると)「えっ? この絵にン十

万円も」と驚くようなヘンな絵にお金を使う。いい絵が売れるわけではない。長谷川利行(1891〜1840)を理解する人はほんの一握りだ。

だけど長谷川の人気が根強いのは、やっぱり人はちゃんとわかるのだ、ということがわかる。それを頼みに頑張るしかない。

絵が売れるということは、表面的なことだ。皮相のことだ。絵画の良否の根本的な表れではない。売れないと生きていけないから困るけど、

私の表現がそうたやすく理解されるわけがない、という気もある。私はおそらく全世界の最高の絵画や彫刻を見てきている。それを踏まえ

て自分も描いている。もちろん私の絵なんてママゴトだ。だけど、描かずにはいられないから描いてきた。本心、そう簡単に分かられてた

まるか、と思っている。

本日、かなり高慢です。ま、ただのママゴト爺だけどね。

 

09年10月31日

『ドラゴン桜』をやっと見た。でも、まだ2話残っている。最終話だけはテレビで見たが、DVDには2話ずつ入っているので最終回(5)も

借りるしかない。もっとも、旧作だから100円だ。悩むほどのこともない。

テレビの『なんでも鑑定団』を見ていても、よくあんな贋作に騙されるものだと驚き呆れる。ああいう人は全然美術館に行っていない。ふ

だん美術館で本物を見ていれば、一目見て品格の違いがわかるものだ。養老先生は骨董がわからない人がいること自体を不思議がる。でも、

わからない人は昔からいたと思う。大昔から贋作があるのだから、騙される人も大昔からいたわけだ。

また、昔のもののほうがいいということを知らない人も多い。現代美術のほうが優れていると思っている人がたくさんいるのだ。これにも

びっくりする。音楽でも同じらしい。『音楽を考える』にも中沢新一の言葉として古典のすばらしさが語られていた(p52)。

芸術は暮らしが不便なら不便なほど優れているのではないか、などと考えてしまう。アルタミラやラスコーの壁画が史上最高の絵画かも。

ま、しかし美術史にも山や谷があることはあると思う。ルネサンス美術はゴシック美術より新しいけど、やっぱりルネサンスのほうがいい。

日本の仏像でも平安後期のものより鎌倉彫刻のほうがいい。でも、ルネサンスよりはさらにずっと古い古代ギリシアのほうが魅力的だし、

仏像も鎌倉よりは500年ほども遡る天平のほうに惹かれる。

 

09年10月25日

『ドラゴン桜』は未だに見ていない。これでは見たいという情熱が消えてしまう。ま、楽しみは後に残すとしよう。それに、昔一度は見て

いるのだ。そんなにムキになることもない。

受験勉強と絵画の修業を比べると、その大きさの違いに改めてびっくりする。受験勉強は長くても2〜3年だ(私は5年やった)けど、絵

の修業はほとんど一生だ。簡単には勝負がつかないという長所もある。これが欠点だと言う人もいるかもしれない。とにかく、物凄く長い

マラソンだ。受験勉強に上手い方法があるように、絵画修業にも合理的な方法はある(だろう)。私は古典絵画(=平面)をたくさん見て

模写をして、また同時に立体(=自然)からも学ぶ。これに尽きると思う。こればかりだ。これだけで十分大変。十分面白い。生涯をかけ

る価値もある(と思う)。

ま、私の場合は結果として生涯をかけることになってしまった。宮本武蔵じゃないけど後悔はない、というか後悔しても取り返しがつかな

い。私は一銭もなく家もなく、あるのは水泳の習慣と絵の習慣だけなのだ。で、今でももちろん古典絵画と写生をやっている。同じことの

繰り返しだ。

ただ、長く描いていて思うことは、絵は線だということ。ドガもアングルもそう言っている。きっとロートレックもわかっていた。ピカソ

も知っていた(と思う)。東洋では千年以上前からそのことに気がついている。書の線も含めれば、さらにもっと古い。

線は頭で考えて引けるものではない。生まれながらの才能ということもない。ただたくさん引くだけだ。

たくさん引くといっても、大量の選挙用の達磨の顔を描くために引くような線ではない。また、腕がしびれるほど絵を描くという漫画家の

線ともちがう。だけど、そういう線もあまりないがしろにしてはいけない。最近、大津絵は大いに認められているし、江戸時代の浮世絵だっ

てサブカルチャーだったのだ。

 

09年10月17日

豊橋で『ドラゴン桜』のDVDを1枚だけ(今回見られなかったところ)見た。面白かった。その他も見たくて近所のレンタルショップに

行ったが借りられていた。『ドラゴン桜』は高3まで偏差値40に届かないヤンキーでも、1年間勉強すれば東大理工学部に合格できる、

という思想。幼少時から自由に遊べず、勉強を強いられている子供たちって何なの? しかも東大でもなく、慶応だったりして。慶応でも

十分だけどネ。私も合理的な勉強を1年間やれば、大学受験は相当のところに合格できると思う。幼少時からの勉強はアホらしい。大学受

験なんて、そんなに凄いもんじゃない、と思う。だけど、小さいころからの読書(子供向け図書でよい)と算数の九九だけはやっておいて

貰いたい。お願いします。また、いま「合理的な勉強」と書いたが、これを発見するのも大変だし、それを信じて1年間頑張るのも強い精

神力がいる。なかなかできるものではない。今の日本の18歳で、国公立を含め10〜20のトップ大学に合格できる人数は、一つの大学

が数千人合格と計算すると8万〜10万人ぐらいか? ま、これぐらいの若者が能力の限界を知るのか? というか、きっと自分の能力は

無限にあると悟るんだと思う。18歳の人口は120万人ぐらいだから1割弱の人が、若いころにある程度必死で勉強した計算になる。自

分の能力の無限性を知って自惚れて馬鹿になるか、真諦は別のところにあると精進を続けるか、自分の能力を社会に活かすか、ほとんどの

やつは一度は馬鹿になる、と思う。

今日は絵に全然関係ない話だった。

 

09年10月8日

本来なら9日の深夜に更新するのだが、本日豊橋に行くので今から更新しておく。来週は正常に戻る予定。今回は豊橋に行ってもプールで

泳ぐぐらいで、川でも海でも泳がないから生きて帰ってくると思う。

『ドラゴン桜』は昨日の水曜日も見られない。絵画教室だからだ。だけど、今朝は見られた。最終回だった。左と下に台風18号情報のテ

ロップが入っていたので見にくかった。

8月は絵画教室はあったがクロッキー会はなく、池袋の東武展も終わったばかりだったので、あまり絵を描かなかった。また、マンション

も早番が多く、早番が多いと絵も描けない。私はだいたい午前中に絵を描く。午前中のほうが頭も身体も冴えているからだ。たまに夕方風

景を描く場合はある。レオナルドが夕方の光で描け、と言ったし、クロード=ロラン(1600〜1682)は実際に夕方の風景を山ほど描いた。

コローもいっぱい描いている。夕焼け風景はドービニーが一番有名だけど、レオナルドが言ったのは夕焼けを描けではなくて、夕方の光で

描けだから、ちょっと違う。ロランやコローはちゃんと理解している感じがする。それにしても、今頃の夕方は本当に奇麗だ。これから冬

に向かってますます美しくなる。

で、8月の夏休みのおかげで、筆の感じがなかなか戻らない。やっと最近少し動くようになったかも。歳なんだから、あまり休みすぎるの

はいけない。全然休まないで朝から夜まで絵を描きっぱなしって人はけっこう怪しいけど、休みすぎるととんでもないことになる。

 

09年10月3日

ずっとお金には困っているが、『人は死ぬから生きられる』で過ごした楽しかった9月後半も終わってしまった。熱も冷めたか? インフ

ルエンザの熱よりましかも。ああいう本は滅多にない。

私より年上の年配の男性が「ああ、面白くない。正月も全然楽しくない。待ち遠しくない」と嘆いておられた。だいたいの大人は、正月な

んて楽しくないと思う。ま、子供が喜ぶ姿を見て、楽しむぐらいか。わが家にはそういう「子供」ももういない。血縁では子供でも、実際

にはみんな大人だ。

『男はつらいよ』の団子屋にも満男という子供がいた。終わりごろには満男も就職して、すっかり大人になってしまった。寅次郎がいつま

でも子供じみているからあの団子屋は賑やかだった。

今は、テレビドラマ『ドラゴン桜』の再放送をやっている。昨日今日と急にマンションの早番が入ってしまい、見られなかった。月火も早

番。水は絵画教室。木曜日にやっと見られるが、もう終わっているかもしれない。

『ドラゴン桜』は偏差値35の底辺私立高校のヤンキー高校生が東大をめざすお話。そのコンセプトは私がやっていた中学生の塾と同じだ。

もちろん私の塾は東大を目指したわけではない。偏差値60ぐらいの高校が目標。現実はなかなか思うようには行かないが、(私の息子も

含めて)偏差値40ぐらいの子が60に迫る場合もあった。そのコンセプトとは、受験なんて上手に切り抜けて自分の好きなこと(部活と

かバンドなど)を思いっきりやる、ってこと。

『ドラゴン桜』の先生は阿部寛、相手役が長谷川京子。高校生が山ピー、長沢まさみ、小池徹平、ガッキーなどなどまだ完全ブレイク前の

アイドル集団。とても楽しいドラマだ。

 

09年9月26日

やっぱり「悟り」はないらしい。「悟り」というのは8月8日に書いた『ドラゴンボール』だったらスーパーサイヤ人みたいな、何かのきっ

かけで、身体が「ゾワッ!」となって、光り輝くみたいな・・・。鎌倉時代に建長寺の住職をした中国僧の兀庵普寧(ごつたんふねい 

1179〜1276)は、自分は悟りを開いたから如来である。建長寺のご本尊の地蔵菩薩は格下だからと言って礼拝しなかったらしい。この話は

極端で、きっと後世の尾ひれがついているのだろう。悟りについてのいろいろな逸話はこのほかにもいっぱいある。

でも、悟りは無理みたいだ。ほとんどがインチキ。ま、『20世紀少年』の「ともだち」だと思ったほうがいい。現実なら麻原彰晃? あ

り得ない。

茂木健一郎と禅僧の南直哉の対談『人は死ぬから生きられる』(新潮新書)でも、p124の最後の行に茂木先生が「そうなると、ブッダの言

う解脱というのはどういう状態のことになるんですか?」と核心に迫る。南師の答えは「これは、この世では起こらんことだろうと思うん

です」と冷静。ブッダや道元は死ぬ間際に「なすべきことをなし終えた」という自己肯定は出来ただろう、それが悟りかも、と言っている。

私の言葉で言えば「己をまっとうする」ということか?

さっきユーチューブで過去に南師がテレビで語ったところを見ていたら私がブログで「微分思想」と言っていることみたいな話をしていた。

足元を見ろということだ。

 

09年9月19日

茂木健一郎と禅僧の南直哉の対談『人は死ぬから生きられる』(新潮新書)はびっくりするぐらい面白かった。読むのが遅い私でもスラス

ラ読み終わってしまった。

テレビにばかり出ている茂木健一郎。一体どうしちゃったの? 脳科学の研究はやっているの? 実に心配である。ここら辺の話もしっか

り出てくる。茂木先生は脳科学より生命哲学のほうに行ちゃっているらしい。

で、この対談のキーワードはリアリティかな?

題名から入れば、人は生よりも死にリアリティを感じている、死があるから生がある。死を見据えた生でなければ、活き活きした生たりえ

ない、みたいな話・・・かな?

で、古来より「リアリティ」を言葉にするというテーマがある。空海は「真言」と言った。空海は「リアリティ」を強引に言葉にした。お

釈迦様は「無記」。そこから先は言わないということ。禅は「不立文字」。初めから言わない。道元も禅僧だけど、道元は言い続けること

でしか表せないと言っている、らしい。

では絵とは何か? 実体である。目の前に、ある。『煙寺晩鐘』は言葉ではない。実体だ。だけど表現にはちがいない。じゃあ、音楽はベー

トーベン(1770〜1827)の『運命』が頭の上から降ってくる。言葉ではない。ベートーベンの叫びか、拳骨か。部屋全体がベートーベンに

なっちゃう。

私にとっては『煙寺晩鐘』はまさしくリアリティである。

で、一番肝心な「悟り」についてだが、これは来週にまわそう。

ブログでも当分『人は死ぬから生きられる』を解体し続けるか・・・?

 

09年9月12日

まだ読み終わっていない『脳内現象』(茂木健一郎・NHKブックス)の211ページにロジャー・ペンローズ(確かホーキングの友達だと思う)

と古代ギリシアのプラトンの説が書いてあって、「人間の意識が完全なるものに接続する」という共通の主張があるらしい。これって禅で

言う悟りのことかも。この辺のところははっきりわからない。茂木先生が禅の話に言及していないから。茂木健一郎と禅僧の南直哉の対談

(『人は死ぬから生きられる』新潮新書)があるからあれでも読んでみるしかない。目次をみる限り私の望むような対談ではないみたいな

ので、読む気が起きなかった。

ところで、ブレイクとかメジャー、昔の言葉で言えば「有名になる」ということはあまり必要ないように思うようになった。ま、メジャー

になれば金も入るから、今みたく暮らしに追われることはない。それは極楽だけど、メシさえ食えれば、人に知られないほうがいいに決まっ

ている。

だいたいブレイクなんて馬鹿馬鹿しい。この前の興福寺の阿修羅騒ぎも馬鹿げていた。阿修羅が素晴らしいのは知っている人には十分わかっ

ている。そんなこと今さら騒がれても・・・て感じだ。あの像は奈良に行けばいつでも見られる。東大寺・三月堂の執金剛神とはわけが違

う。興福寺はオープンなお寺だ。世間の騒ぎというのはああいったもの。われわれはそんなものに振り回されず、自分の信じる道をまっす

ぐに歩けばいいのだ。ま、その道があやふやだと困るけど。その辺はしっかり固めておかないとまずいにはまずい。

 

09年9月5日

このホームページの「絵の話」に「最高の風景画」として牧谿の『煙寺晩鐘』を取り上げている(『遠寺晩鐘』と表記されることもある)。

私が『煙寺晩鐘』を初めて見たのは20歳のころだった。モネ(1840〜1926)からターナー(1775〜1851)へと風景画の関心が移り、ターナー

に熱中していた(今も熱中しているけど)。ところが、ここで、水墨画を知る。もともと、父親から石濤とか八大山人(明末清初の画人)

の絵は教えられていた。さらに「中国にはもっと凄い絵がある」とも聞いていた。その「もっと凄い絵」をいつも探していた。博物館や美

術館や本屋をうろうろしていた。大学のころはとにかく暇だ。時間がいっぱいあって、周りの女の子のことをやたらかまわず好きになって、

いつも腹が減っていた。

高田馬場の芳林堂という本屋(今もあるらしい)で、小学館の『原色日本の美術』の「請来美術・書画」を発見。この本には中国から日本

に来た最高の宋元美術が詰まっている。無人島に持ってゆく一冊の本なら、この本かも。

その中に牧谿の『煙寺晩鐘』がでっかくカラー(とは言っても墨絵だけど)で載っていた。

「えっ? これってターナーよりいいんじゃねぇーの? こんな絵があんのかよ!」

『煙寺晩鐘』はもともと瀟湘八景図の中の一枚。このレベルの絵があと7枚存在することになる。これがちゃんとあるのだ。だけど全部揃っ

てはいない。東京の根津美術館、出光美術館とか名古屋の徳川美術館などに蔵されている。私はすべて見た。

さらに、牧谿は人物画や動物、植物も描く。もちろん素晴らしい。

 

09年8月29日

上にも書いたように、『翼の王国』の11月号が流れてしまった。牧谿の『煙寺晩鐘』について書こうと張り切っていたが、2月号だと何にな

るか、今のところ不明だ。

11月には東京・高輪の畠山記念館で『煙寺晩鐘』が公開される(11月21日から12月6日)。私もぜひ見に行くつもりだ。今までにも何度も見

ている。牧谿展でも3度見たし、畠山記念館にも何回か行っている。素晴らしい絵だ。きっと世間の人々はあの絵をちゃんと理解していない

と思う。それは悲しいことだが、きっちり国宝になっているから、その辺は凄い。1200年の後半から1300年初めのころの絵なんだから、古

さだけでも国宝だ。そんな昔の中国の絵が残っていることが凄い。紙に墨で描いてある。

この絵も含め、なぜ牧谿の絵がたくさん残ったかというと、茶道で大切にされたからだ。茶道は絵や陶磁器をたくさん大切にしてきた。まっ

たく日本には素晴らしいセレモニーがある。

もちろん、茶人趣味などといって見下す向きもないことはない。確かに、ちょっと鼻につく場合もある。だけど、とにかく茶道は牧谿を残

したのだ。もうこれだけで十分偉大である。牧谿以外にもたくさんの書画を伝えた。そして、僧侶の書いたものを第一と崇めた。ここも茶

道の筋が通っているところ。絵描きの絵はランクが下がる。牧谿は最古で最良の僧侶の絵なのだ。信じがたい奇蹟なのだ。牧谿の絵を和尚

画という。和尚さんの絵ということ。本当に牧谿は六通寺というお寺の住職だった。

700年以上昔に牧谿という僧がいた。たくさんの絵を描いた。今も残っている。それが見られる。こんなことってあっていいのだろうか?

ちなみに『煙寺晩鐘』は伝牧谿という扱いだが、限りなく真筆に近いと言われる。あれを描いた人が牧谿その人かどうかはわからないけど、

あの絵はずば抜けて凄い。誰が描いたっていい。問題じゃない。でもやっぱり牧谿だと思うけどなぁ〜

 

09年8月22日

私の息子は道元禅師の系列の仏教系の大学を卒業した。アメフトばかりやっていて、部活中心の大学生活だった。体育会系ということ。息

子は法学部だが、部活にはいろいろな学部の先輩後輩がいる。当然仏教学部の猛者も来る。息子の先輩には永平寺で修行している豪傑もい

る。これが大笑い。

話を聞くとほとんど悟りを開いている。

「坐禅てなんでやるんすか? 意味ないんしょ」と訊くと「ない、ない。意味なんて全然ない。道元さんの真似してりゃいいの」

「飯とかいっぱい食えるんすか?」とにかくアメフト部は相撲部みたいなところなのだ。彼は身長185cm、体重80kg。でも、永平寺も「肉と

魚以外は食い放題」とのこと。

「朝早くて眠くないんすか?」「全然。だって夜メッチャ早いもん」

だって。

彼は帰省したときはパチンコに没頭しているらしい。学生時代にパチンコで500万円すったという。ちなみに私は約40年前、パチンコに狂い

50万円はすっている。悟りを開く近道はパチンコかも。

 

09年8月13日

本来の更新日は15日だが、これから豊橋に行くので今日の更新となる。13日〜14日に8日分のホームページを見たい方も今は「唇寒集」や

「最新作」があるのでご覧いただける。もちろん、それほど価値のあることが書いてあるわけじゃないけど、ま、一応今の方法ならいつ更

新しても大丈夫。

個展主義なんて言葉もあるらしい。古典主義を洒落たつもりか? 

だけど、モチベーションを保つにはとりあえず個展が一番手っ取り早い。モチベーションを保つのはけっこう難しいのだ。父が若かったこ

ろはまだ公募展が活性化していた。生きていた。公募展に入選、受賞、地位を上げるなど、絵描きの大きな目標だった。今でも頑張ってい

る画家は少なくない。だけど、冷静に見て、どう見ても公募展は終わっている。長く考えても昭和とともに終わったって感じ。

毎回言うように、私が等迦展に出しているのは大きな絵を描くためだ。大きな絵を描いていないと、小さな絵も描けないのだ。少なくても

本物の絵描きではないだろう。私は最低等身大の人体、と勝手に決めている。だから100号はぎりぎりセーフ。

もう少し絵が売れたら、もっと大きな絵にも挑戦したいけど、その前にこっちの体力が終わっちゃうかも。父も65歳ごろから200号とかは描

かなくなった。ま、長く頑張れるように水泳、マンション巡回に励みます。

 

09年8月8日

09年夏の絵画論も一段落して、展覧会も当分ない。絵を描く必要もないけど、芙蓉が咲いているから、おそらくきっと描くと思う。

世界最高の美術は、ギリシアもルネサンスも、東洋の仏像も水墨画も、どれもこれもすべて宗教の産物だった。宗教あっての美術なのであ

る。そして、わが仏教はどうもなかなかイケテいる。西洋が20世紀にやっとたどり着いた実存主義や現象学や深層心理など、2500年前に

すでに知っていた形跡がある。そこから出発して、ただひたすら修行をせよと教える。さらに素晴らしいのは「悟り」という問題提起。見

性(けんしょう)とか解脱とか大悟徹底などという。ハッと気がつき世界がすべて見えてしまうらしい。身体からよい香りがして、声も美

しくなり、顔立ちも穏やかになる。ま、『ドラゴンボール』のスーパーサイヤ人て感じか? 

だけど、道元は悟りを求めてはいけないと言いつつ、頭を丸めてお坊さんになり修行の道に入ろうと決心することは最高の心境だと言い、

修行として坐禅をすること自体、すでに仏であると言う。坐禅は仏の姿だ。

私も真似をして「描いてるときは皆ゴッホ」というコピーを考えた。

現在私は絵が売れないと非常に困る家計状態だから、偉そうなことは言えないが、やっぱ絵は売ろうとして描いてはいけないような気がす

る。第一、私のお客様は売ろうとして描いた絵など求めていない。

心構えとしては、花や風景、人体などちゃんとよく見て、その美しさを十分ありがたいと思って、修行として描くべきである。

そして、うんざりするほどたくさん描くこと。そうすれば、造形的に面白い線描や色彩が現れることもある。

そのためには、個展をやること。これがシンケン描きの極意。

以上が私の09年夏の絵画論のまとめである。

 

09年8月1日

7月後半からこのホームページやイッキ描きブログで、絵画についてずっと論じてきた。

今まで述べていることの繰り返しみたいなものだが、本人は新しいアプローチで語ったつもりだ。

絵描きとはいったい何者なのか?

たとえば、18世紀イギリスのターナーは誰もが絵描きであることを疑わない。正真正銘絵描きの中の絵描きだ。それはうんざりするほど

たくさんの絵を描いたから。一般には生涯2万点の絵を描いたことになっている。実際はさらに多いと思う。これが絵描きというものだ。

うんざりするほどたくさん絵を描く人間、これが絵描きだ。

絵描きになりたかったら絵を描けばいいのだ。ただそれだけのことだ。

ヨーロッパの昔の画家はキリスト教絵画を描いた。東洋でも仏画があった。水墨画は禅林で躍進した。私が最も尊敬する人体表現はギリシ

ア彫刻だが、あれも神殿を飾った宗教美術だ。

しかし、現代に宗教はない。少なくともアートは宗教から独立した(様相を見せている)。私はそういうアートをまったく信用していない。

じゃあ、お前の絵は何なんだ、ということになる。

そこで、シンケン描きという話をした。また、修行としての制作もある。さらに、実存主義から仏教へ、そして禅から呼吸法と修行の教え

を学んだ。この辺のところはまだブログでも未完成。今しばらくのご猶予をいただきたい。

ついでに、唇寒や最新作の更新も今日は無理。今週中に何とかします。

 

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