唇 寒(しんかん)集30<08/11/1〜09/2/28>

 

08年11月1日

前回分の10月25日は豊橋展のため、豊橋に行っていたので更新をお休みした。2週間ぶり

の復活である。ブログは復活したが、私自身はズタズタに打ちのめされた。

ご存知のように私の個展開催とともに株が最安値をつけた。びっくりした。まさか、そのせい

ではないと思うが、絵は1点も売れなかった。交通費、輸送料、額縁代、画廊の貸し賃など、

すべて持ち出しだが、持ち出す元がない。過去3年間60万円弱の売り上げがあった。これで正

月を越せたのだ。今年はいよいよ終わりだ。

とにかく自殺する気はない。

会期中の「何でも鑑定団」に岡鹿之助の「パンジー」が出た。贋物で5000円。本物なら3千万

円とのこと。これは個展に好影響かと思ったが、まったく反応なし。ちなみに、私の絵はすべ

て真作である(=あたりまえだが)。

そのあと、「我はゴッホになる」という単発ドラマがあった。棟方志功の伝記だ。過去に2度

もドラマ化されたという。そういえば渥美清のを少し覚えている。このドラマもけっこう面白

かった。これまた好影響かなと期待したが、ほとんど反応なし。

豊橋のギャラリーの前には豊橋美術博物館がある。上村松園(1875〜1949)とその息子と孫の

展覧会をやっていた。私は松園を尊敬している。だけど、帰りに寄ってくれるお客様は1%に

も満たない。別世界だと思っている方がほとんど。

会期中に孫の上村淳之の講演もあった。だけど、その影響も少なかった。というか、講演では

「油絵の技法は簡単だが、日本画は難しい」というようなことをおっしゃったそうだ。私もそ

う思う。だけど、「だからどうなのか?」というところで意見が分かれる。上村先生は、だか

ら日本画は素晴らしいという結論だと思う。もちろん私はちゃんと拝聴していないが、それじゃ

あ、ますますわが会場は閑古鳥だ。

ま、ブログにも書いたが、絵を褒められようが貶されようが、買っていただこうが素通りされ

ようが、とにかく私は描きたいように描き続けるだけだ。

 

08年11月8日

油絵は簡単な画材だと思う。そこが魅力なのだ。

絵具というのは、まず第一にキャンバスにくっつかなければならない。キャンバスみたいなも

のを支持体というらしい。板でもボードでもいいわけだ。とにかく、物理的にくっつかなけれ

ば始まらない。これが凄く難しい。しかも、油絵にはマチエールがある。デコボコだ。しかし、

このマチエールという言い方にもいろいろ問題はある。マチエールっていうのは、物質のこと

らしい。ま、しかし、ふつう画肌のデコボコをいう。デコボコができるほど厚く塗ると剥がれ

るおそれがある。ターナーの絵などけっこう危ないらしい。

もちろん油絵にもややこしい規則はある。それに臭い。服が汚れるし、手もべとべとになるな

ど、いろいろ欠点はある。上村先生も少しは経験があるのだろうか? 別分野のことは言わな

いほうがいいようにも思う。とにかく、日本画のほうが難しい(らしい)。だけど、油絵は簡

単だから表現が自由だ。豊かだ。勝手に描ける。

日本画も富岡鉄斎(1836〜1824)の絵を見ていると物凄く自由に描いているように見える。日

展の日本画は塗り絵みたいだ。だけど、別分野だから何か言ってはいけない。

 

08年11月15日

 

08年11月22日

今朝の更新をすっかり忘れていた。夜になってしまった。申し訳ありません。

 

そろそろ限界が来ている。ギャラリーを更新しないとヤバイ。2年近く放ったらかしだ。その

間にたくさん絵を描いているし、まともな絵もある。交換しなければならない。その前に花の

ページは飯村さんのギャラリーをお借りしたままだ。いまや、私は花作家になっているという

のに、これではまずい。この「唇寒」のバックナンバーも物凄くたまってしまった。毎日少し

ずつやれば出来る仕事だ。ああ、情けない。

と書いてから1週間が過ぎた。実はバックナンバー集も作った(今日は更新できない)。近日 中に更新します。

 

ブログでは古典絵画について考えている。私みたいな姿勢でいいのだろうか? こんな古臭い

考えでは通用しないような気もする。が、しかし改めるつもりはまったくない。通用しなくたっ

ていいと思っているのだから救えない。

この前の豊橋展で、私がいないときに来たお客さんが「ああ、これが絵だ。これこそ絵だ。久

しぶりに『絵』を見た」と言ってくれたらしい。まったくありがたい。私はアートをやってい

るわけっでもないし、芸術を創造しているわけでもない。そんな大それたことをしているわけ

じゃない。ただ「絵」を描いているだけだ。

 

08年11月29日

テレビの「笑っていいとも」で「若き天才と言えば?」というお題が出た。私は即座にモーツァ

ルトと答えたが、「いいとも」のゲストはほとんどが石川遼。他にイチローとか福原愛だった。

負け惜しみで言えば、若き天才なんてつまらない。

今日天才的な彫刻家の話を聞いた。その若き彫刻家は芸大にいたが、他の芸大生に向かって「

才能のない奴がいくらやったって何にもならない」と口走ったそうだ。で、芸大を辞めて日展

で特選をとったと言う。

ま、今の私に言わせれば、日展で特選をとったから何だつーの? となる。才能のない奴がやっ

たって何にもならないけど、才能のある奴がやったって何にもならない。絵や彫刻は電車とか

飛行機ではないのだ。道路や橋でもない。もともと何にもならないものだ。

人の営為とは結果ではない。「やる」というそのことに何かがあるのだ。何千年、何万年の規

模で言えば電車や橋だって何でもありゃしない。

さらに言えば、宇宙へ行ってどうなるの? と言いたい。

だけど、人は頑張るのだ。「やる」のだ。それが人というものだ。呼吸みたいなものだ。好き

なことをすりゃいい。どうせみんなすぐ死ぬ。ま、だけど戦争だけは止めたほうがいいと、つ

くづく思うけどね。

 

08年12月6日

いま横浜展の真っ最中である。相変わらずの不景気。でも、この個展の寸前にブログを見た方

が1点買ってくださった。また、個展でも1点買っていただいた。まことこの不景気に申し訳

ない。その後も不景気ながらも少しよい反応がある。ま、ほとんど反応だけだ。

私は自分の子供が絵描きにならなくて良かったと喜んでいる。心の底から喜んでいる。絵描き

は無理である。絵描きなんて職業はない。

父も祖父も絵描きだったのに、私の子供は絵に無縁だ。この前、息子がそのことを詫びた。そ

んなもの、詫びられても・・・ 

私の父は絵描きが最高であると思い込んでいた。私は最高の職業なんてないと思う。どんな職

業だって、自分がやっている仕事が最高なのである。当たり前だ。人間の営み自体が偉大だ。

最高だ。

 

08年12月13日

先週のこの欄の文章を娘が読んで「お父さんは絵描きが最高の職業だと思っている」と妻にチ

クった。

いったいどういう読解力で読めばそういう正反対の結論になるのか!?

よくよく読めば、絵描きも最高の職業かもしれない。どんな職業も最高なのだから。でも、私

は父のように絵描きが最高だとは思っていない。どんな職業も立派だと思うぐらいの客観性は

持っているつもりだ。

絵を描くのは面白い。楽しい。苦しみもあるが、それがまた楽しい。口では説明できない。だ

けど、それはどんな職業にもあるのではないか。そんなことはわからない。私は「わからない」

ということはわかる。断定できるわけがない。他人の人生は生きられないのだから当たり前だ。

それにしても凄い不景気だ。誰かが「不景気だ」と言えば言うほど不景気になる。それが不景

気というものだ。その不景気を煽っているのが政府自民党だ。ここでは政治の話はしたくない

が、この不景気に消費税のアップの予定はないべ。時期を明らかにしないなら初めから言うな

よ。あんな、12000円のばら撒きより、1年間消費税なしのほうがずっと景気対策になると思う。

イギリスでもやっている。

小泉元総理の悪口も多いけど、あの人は総理をやっていた。麻生さんは総理でいたいだけ、と

いう感じがする。それって何なんだ。ロクに絵も描かずに絵描きぶっている奴もたまにいるけ

どね。

 

08年12月20日

絵を変えるという課題がある。父は自分の絵がどんどん変わることを自慢していた。私にはほ

とんどそういう問題意識がない。だから、もちろんわざと変えようという気もない。ギリギリ

いっぱいいっぱいで描いているかぎり、その人間が変われば絵も変わる。絵と人間の間に遊び

がなければ当然そうなる。安部公房が、作家と作品の関係について、作家は変数で作品は関数

だ、というようなことを言っていた。安部公房は理数系の出だから数学で言っているが、これ

は人が変わればその作品も変わるという意味だ(と思う)。当たり前のことを言っているが、

職業的に文を書く通俗小説なら、そんなこともないと言いたいのかも。

私もいろいろな人と絵の話をして、いろいろな人の主張を聴いているとわけがわからなくなっ

てくる。

絵を描くとはどういうことか? いい絵とは何か? 何がなんだかこんがらがってしまう。

私は、最高の画家は中国・南宋の牧谿だと思っている。ま、梁楷でもいいし、夏珪でもいい。

あの辺の人なら誰でもいいけど、便宜上、牧谿ということにしている。

で、私自身も東洋人だし、画材料は西洋の油絵だけど、絵では南宋の絵画を目指している(と

は言ってもはるか彼方で、目指すというより、そういう方向って感じかも)。

こういう私の絵画への思いを口で説明するのは到底無理である。東洋の絵ったって、西洋絵画

を認めないわけじゃないし、じゃなぜ水墨画を描かないんだとか、いろいろな質問が出てくる。

もちろん、すべて答えられるが、そんなことしていたら絵を描く暇がない。絵描きは絵を見て

もらうのが一番。よくないと思えば見なければいいのだ。それだけのことだ。みんな誰でも見

たい絵を見ればいいと思う。

 

08年12月27日

澤柳大五郎の『ギリシアの美術』(岩波新書)は素晴らしい本だ。あの本には建築や壺の話も

あるので、お目当ての彫刻の話は少し減っている。また、その彫刻の話でも最初のところは圧

巻。ギリシア彫刻の素晴らしさが実感できる。昔の新聞の写真のような粗悪な図版であれだけ

説得力があるのだから、フルカラーの図版を使って、このインターネットでギリシア彫刻を理

解してもらえたら、どんなに楽しいだろう。私の裸婦への思いもわかってもらえるかも知れな

い。もちろん、私は自分の絵をギリシア彫刻に繋がるなどとは思っていない。とんでもない話

だ。しかし、ギリシアの彫刻家の心意気を知っていただきたい。少なくとも、私はそういう方

向でありたいとは考えている。先週、南宋水墨画への指向を述べておきながら、今週はギリシ

アかよと、おっしゃるかもしれない。だけどこれが共通するんだな。だけどもちろん、ギリシ

アは彫刻だ。大理石の塊だ。硬くてでかい。南宋水墨画は紙と水と墨。柔らかくてコンパクト

でしっとりしている。そういうところは違う。当たり前だ。だけど、やっぱり人間の思いは共

通している。造形への純粋な希求は似ている。

ああ、そういうページが作りたいけど、こんな調子では100年経っても出来そうもない。あ

の画像つき絵の話のページを作ったのは本当に私なんだろうか!?

 

09年1月3日

 

09年1月10日

で、先週の「自己実現」だが、これは一歩間違えると「自己満足」になってしまう。気をつけ

ないとヤバい。

自己現実だと勝手に思い込んでいたら、単なる自己満足だったのではあまりにも悲しい。しか

し、世間に揉まれず、一人でやってゆくと、どうしても自己満足に陥る危険はつきまとう。

この前、テレビでさんまとキクタクが競泳をやっていた。北島康介が見守るなか、ブレスト50m

の勝負だった。結局さんまが勝ったが、その二人のタイムは45秒前後。私は45秒ではとて

も泳げないと思う。こんなにしょっちゅうプールへ行って、けっこう身体が熱くなるまで泳い

でいるのに、おそらくきっと45秒は切れない。クロールでもやっとだと思う。昔スイミング

スクールへ通っていたときは、クロールなら36秒ぐらいだったが、今は40秒も切れないと

思う。

絵でも、こういう自己満足は恐ろしい。だけど、今さら過酷な受賞競争に邁進するのは無理で

ある。絵とか音楽とか俳句などはそういう競争社会から離れたところにあるべきだとも思う。

言い逃れかもしれない。

ま、脳科学でちゃんと導いてくれる日を待ちましょう。

 

09年1月17日

いい絵のエッセンスって何だろうか? これを昔から考えている。レオナルドにも牧谿にも共通するエッセンスだ。筆を執ってキャンバス

なり紙なりに向かう。息を吸い込んで、じっと止める。ゆっくり吐きながらすーっと筆を下ろす。この瞬間の心持だ。緊張感と言えば緊張

感だが、もっと嬉しい感じもある。楽しい瞬間だと思う。ここのところが知りたい。

たとえば、レンブラントが「ダナエ」を描く最初の瞬間を見たい。知りたい。もちろん「ダナエ」はイッキ描きではない。時間が掛かって

いるし、何度も描き直している。だけど、最初の瞬間があったはずだ。最初に漠然とだろうが、こんなような絵にするぞという構想は浮か

んでいたと思う。長い旅に出る最初の一歩だ。この気持ちが知りたい。

私はイッキ描きと主張しているが、最初の構想はでかいほうがいいと思っている。レンブラントみたいな分厚い画面を作るんだという意気

込みでぶつかるべきだと考えている。

「描きたい」という欲望と「絵が描ける」という喜びと「なんとかモノにしよう」という緊張感が上手い具合にミックスして左脳ではでき

ない作為を超えた絵が描けると思う。われわれにできることは体調を調えておくこと、腕を慣らしておくこと、いい絵を目に焼き付けてお

くことなどだと思う。

 

09年1月24日

やっぱり牧谿の絵はいい。ここのところ、牧谿の絵(印刷物)を見直しているが、実に不思議だ。久しぶりに見直してみると、牧谿ってこ

んなだっけ? と思えるぐらい薄っぺらに見えた。簡単に描いてある、というか簡単すぎるだろ、と思った。で、じっと見つめたり何度も

見直したりしているうちにやっぱり、どっしり重い感じがしてくる。

いっぽう、大徳寺の「観音猿鶴図」の観音様など、物凄く複雑な精密描写だな、と思い描いてから図版を見直してみると、今度は思いのほ

か簡略に描いてある。こんな絵だっけ? とこれまた不思議になる。

牧谿の生没年はまったくわからない。南宋時代から元の初めにかけて活躍した。はっきりわかっているのは、蜆子和尚(けんすおしょう)

図が1254年ごろの絵だということ。1279年に南宋が滅亡していること。「観音猿鶴図」は1291年以前に描かれたということ。1294年以前に

牧谿は死去しているということなどだ。だから、私が丸暗記で「1280年ごろ活躍した禅画僧」と言っているのはけっこう正しい。

くれぐれも申し上げておくが、これは日本の雪舟より200年ほど昔だということである。この時間差はなかなか実感できない。私も60年近く

生きてきてやっと50年の長さがうっすら把握できる程度だ。

 

09年1月31日

絵を描くとはどういうことだろう? いったい何のために描いているか? 絵って何か?

美術は中学校の必修科目でもあるのだから、絵画が終わっているとは思えない。「絵画が終わっている」というのは、映像やイラストやコ

ンピュータグラフィックに取って代わられた、という意味で言っている。しかし、そういうことはありえない。筆を使う喜びとか、絵具や

墨でグーッと線を引く快感は人間本来のものだ。現生人類である限り、永遠だと思う。スポーツにも近い。

先週も述べたが、牧谿などの方法が最上だと感じる。絵画を修行として捉える。だけど、われわれは坊さんじゃない。ま、坊さんも同じ人

間だから、根本的には変わらないのだろうが、われわれには欲望がある。一般には五欲と言われるヤツ。財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡

眠欲だっけ? 特に色欲は難しい。睡眠欲と飲食欲も自信ない。財欲と名誉欲はないかも。

もうこの歳になったら、自分の思う方向で行くしかない。自己流だとか野狐禅だとか言われても、言ってるほうもけっこう怪しい。現代の

仏教教団など中がどうなっているのか、伏魔殿? それは外務省だっけ? ま、だいたい江戸時代から酷かった、というか室町時代からい

かれていた。それらの話は一休さんや良寛さんが伝えている。

自分の方法でやるしかない。

 

09年2月7日

仏教教団を批判すれば切りがないが、ちゃんと頑張っている人もいる(と思う)。テレビで見ていると、永平寺の修行も厳しいし、天台宗

の山を走ったり火の上を歩いたりする修行も凄い。どこまで本当か知らないけど、まさか全面的にテレビ局のヤラセってことはないと思う。

ま、あんなことはできない。お釈迦様も修行はしなければならないが、苦行はいけないとおっしゃったらしい。

第一、われわれは坊さんじゃない。絵を描くことを修行と考えているだけだ。絵に限らず、どんな仕事だって修行と思わなければやってら

れないのではないか? ブログでも書いたが、サラリーマンは毎日地下鉄に乗っているけど、この東京にいつ大地震が来ても不思議はない

のだ。そうすると、地下鉄に乗るのは凄い度胸である。大渓谷に渡した綱渡りより難しいかも。

まともに暮らす、普通に生きるというのは並大抵のことではない。考えようによっては、この世に生れれば、誰でもみな修行僧みたいなも

のだ。問題は自覚の有無ということになるかも。

とにかく、私は修行だと思う。絵も修行である。上手いとか下手とか、いいとか悪いとか、受賞とか落選とか、売れるとか売れないとか、

そういうことは芭蕉の「不易流行」で言えば、「流行」の部分だ。われわれが考えなければならないのは「不易」のところである。それは、

とりあえずは修行と思って描くことだと思う。

 

09年2月14日

先週はホームページの更新をすっかり忘れ、一日か二日ずれてしまった。申し訳ありませんでした。

先週までで概論は終わった(ことにする)。すると、今週から各論ということになる。しかし、ここで各論を発表するほど自信はない。ま

た、今までたくさん述べている。早い話がたくさん見てたくさん描くことぐらいだ。見るというのは、自然(人体、風景、花など)を見る

ことと美術館で古典絵画などを見ること。ふだん印刷物でもいいから古典を見ること。そして、自分もたくさん描くことだけ。

ブログのほうでは文人画論をやっているけど、ま、狭い意味での文人画はとても少ない。なにしろ、文人というのは中国社会の階級名(確

か上から二番目)なんだから、ふつう、われわれは文人ではない、なれない。だけど、文人画の精神を倣うことはできる。画論については

いろいろ間違っているけど、富岡鉄斎(1836〜1824)の方法は妥当だと思う。

ほかにも、松尾芭蕉の主張も同意できる。それは、ヨーロッパの画家たちよりもずっと説得力がある。魅力もある。

成り行きで油絵を描いているけど、東洋の絵画も思想もすーっと入ってくる。どう考えてもしっくり来る。

 

09年2月21日

先週はホームページの更新をすっかり忘れ、一日か二日ずれてしまい、今週は、これから豊橋に行くので、1日半早い更新になってしまった。

「いい絵」というのはどういう絵だろう? 今までいいと思った絵のことを思い出してみると5つのケースがある。第一はもちろん美術館や

画集で出会った古典絵画である。第二は子供の絵。特に小学校3年生以下の子供の絵には驚かされる。第三は、むかし美術研究所で長

期に休んでいる人が久しぶりに来て描いた絵。毎日せっせと描いている自分が空しくなることもあった。第四は、絵画教室を始めて教える

立場になったとき、入会してきた人の最初の絵。未知の絵画教室で緊張して描くせいだと思うが、初めての絵はだいたいどの人の絵もよい。

第五は絵ではなく書だったが、アマチュアの書道の展示で、初孫の名前を書いた色紙。その一点だけ凛とした筆触。印象深かった。

このように思い出してみると、われわれがいい絵を描く道筋も見えてくる(ような気がする)。熟練とか練達であることは最低条件かもし

れないが、それ以上に新鮮、緊張、喜びなどが重要だと思う。

 

 

09年2月28日

人生は修行である、という考えは当たり前のように広まっているらしい。無論私の発見ではない。自分の子供が辛い目に遭っている場合な

ど、また、それが本人の成長のためには致し方ない場合など、「修行だから」と考えるのは救いになる。60年近く生きていると、だいた

い苦しみと楽しみは裏表だとわかってくる。

仏教の教えは、人生は修行だということだろう。だけど、仏教は巨大になりすぎて、いろいろな儀式や用語、既成概念が多すぎる。たとえ

ば、「悟る」などというと、馬鹿馬鹿しくなる。もう「悟る」という言葉は使えない。耐用年数が過ぎている。一つの独立した化け物みた

いになっている。だから「世の中のことがわかる」というように言い換えたほうがいいかも。この言い換えが適切かどうかはわからないけ

ど、仏教の「悟る」はおかしくなっている。あの茂木健一郎先生も拡大解釈をしている。悟れば全知全能になるみたいに思い込んでいる。

ま、悟ればお釈迦様みたいになれるのだから全知全能かもしれないけど、そんな物凄いことにはなれっこない。

だけど、たとえば人生は修行だと本当に全身全霊でわかるなら、これは素晴らしいことだ。

そういうまともな思考はいつも惑わされて軌道がずれる。絵を描くことがその軌道修正になるなら、こんなによいことはない。少なくとも、

絵を描いているその最中だけでもまっすぐな修行でありたい。私の場合、水泳はかなり修行に近いかも。ま、絵も水泳も好きなことやって

るだけだけどね。

 

 

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