唇 寒(しんかん)集26<07/5/6〜07/9/30>

 

07年5月6日

見たい展覧会が目白押しだ。どんどん見ているが、とても間に合わない。『翼の王国』の7

月号の東京特集でモネを取り上げるから、モネ展は是非見たい。『翼の王国』とモネ展は関

係ない。だって、『翼の王国』は7月に飛行機に乗るが、モネ展は7月2日に終わってしま

うのだ。だけど、記事の関係でモネのことを読み直しているから、とても興味がある。

町田の国際版画美術館でやっている『中国への憧憬』展も、思ったよりいい絵が来ているら

しい。クロッキー会のときにカタログの見本をパラパラ見たが、よさそうな感じだった。こ

の豊橋でもヨーロッパの名画展をやっている。実は昨日美術館に行ったのだが、金がなく(

財布を忘れただけ。ご安心を)、見られなかった。コローが見たかった。また行くかも。

N氏からチケットをもらっている『モディリアーニ』展も見たい。が、これは見られる。

ほかにも見たい展覧会はいっぱいあるが、今はちょっと覚えていない。

豊橋にいる間に豊田にも行く予定(東京の人が思うより、豊橋と豊田は遠い)。ティツアー

ノ展をやっている。

そういえば、どこかでラファエロの先生のペルジーノ展もやっているらしい。これも見たい。

今朝は『新・日曜美術館』で山種美術館を特集していた。私は日本画はよくわからないが、

例の明治天皇みたいな風貌の山下先生がいいことを言っておられた。

「画家を応援するなら、絵を買ってあげてください」

まこと涙が出る名言だ!

 

07年5月13日

ホームページの整備が全然できない。ギャラリーの「花」のページも作ってない。街中が薔

薇だらけだ。薔薇を描かなければ。

今朝は「新日曜美術館」を見た。

近代日本洋画の渡欧者6人が紹介されていた。2人ずつ3組に分かれる。

1組目は黒田清輝(1866〜1924)と浅井忠(1856〜1907)。2組目は安井惣太郎と梅原龍三

郎(1888〜1986)。3組目は小出楢重(1887〜1931)と佐伯祐三(1898〜1928)。解説者は

芳賀徹。比較文化学が専門とあった。

安井に生没年がないのは面倒だから。

近代洋画の話は興味を引く。面白い。しかし、反論がたくさんある。

たとえば、佐伯が一時帰国したときの絵は良くないというが、私は下落合風景などはとても

よいと思う。

また、イギリスに留学した夏目漱石が、日本はヨーロッパに200〜300年の遅れている。

その遅れを20年とか30年で取り返すのだというようなことを言っている。日本人画家た

ちも同じような考えだったという。そのこと自体はそうだろう。しかし、それが正しかった

かどうか、特に美術については疑問だと思う。遅れを取り返すとか追いつくとか、そういう

考えは狭い。

美術の真実、絵画の真実というものがある。ただひたすらその真実を追い求めるべきではな

いのか。東洋も西洋もないと思う。第一、東洋の美術は、西洋に引けをとらない。少なくと

も同じ方向を向いていた。天平や鎌倉の仏像は、徹底したリアリズムを追求し、その先にあ

る美術の真実を捉えたと思う。リアリズムは方法に過ぎないのだ。いつの時代もここのとこ

ろを間違える。

 

07年5月27日

ブログでも書いたように、25日はモデルにすっぽかされた。ここのところ、あまりこうい

う目に遭っていないが、たまにはあることだ。その分として、というわけではないが、土曜

日は4時間バラ広場で頑張った。夏のような日差しで帽子を忘れたから、フラフラになった。

発電機がいかれた車は、なぜかまだ走る。町工場のオヤッサンの話では、いつ止まるかわか

らないが、何かの拍子で機能しているという。その車に予備の帽子はなかった(必死で探し

た)が、タオルが1本入っていた。ああ、何という神の思し召し。水道で頭から水を浴び、

タオルで拭って頭に巻いて、また描いた。

上の絵はその直後の絵だ。再度見てみると、大したことはない。このほか11枚描いたが、

どれもイマイチ。ああ、もう二度と行きたくねぇ。バラ広場は極楽だが、絵を描くとなると

地獄かも。

 

07年6月3日

『翼の王国』に私の文が載って2ヶ月以上過ぎた。今は第3作目が載っている。ドガ、ピサ

ロ、ヴュイヤールと来た。次はパスキンだ(ここまでの投稿は終わっている)。しかし、今

のところこの連載が絵の売れ行きに影響を与えることはない。また、文章に対しても何の問

い合わせもない。いいこともないが、文句も来ないのだから喜ばしいことなのかも。ま、可

もなく不可もなし、というところか。このホームページのアクセス数もほとんど変わらない。

ちょっと増えている気もする。

テレビではクレームもプラス要因らしい。『エンタの神様』というお笑い番組はクレームが

多い芸人もどんどん使うみたいだ。番組がどんどん酷くなって、私が大好きだった番組が、

今や大嫌いな番組に逆転した。

『翼の王国』の編集の人によく聞いていないからわからないが、もしかするとクレームも着

ているのかも知れない。現在のページ作りを考え直す提案も頂いている。

画家の話を書くにしても、いろいろな美術書に書いてある月並みな話ではつまらない。かと

いって荒唐無稽な話は書けない。史実に沿って、私の目で見た私独自の思いを書かなければ

ならない。当たり前のことだ。

さらに、来月(7月号)の東京特集では連載とは別に私の印象派論が載る。また、私の絵も

載ってしまう。さて、どういうことになるのか。良い反響がないので家族からの風当たりは

とても厳しい。原稿料は頂いているのだから、それで十分ではあるが、やっぱ90万部の雑

誌に毎月連載されているのだから、もう少し反響がありそうな気もする。ま、みなさん絵な

んかに大して興味がないということだろう。

とにかく、自分の好きな画家のことを(ある程度)好きなように描いていいのだ。こんな幸

せはない。原稿料もくれるし、未知の美術館にも行ける。一昨日はひろしま美術館に行った。

素晴らしい作品をたくさん見られた。歳のせいもあり、物凄く疲れたが、やっぱり嬉しかっ

た。昨日は疲れが残りまだボーっとしていた(それでも1万歩は歩いた)が、今日は元気

だ。これからプールに行く予定。

 

07年6月10日

ブログは「絵で生きる」シリーズを書いている。

一昨日の金曜日は、三浦半島に絵を描きに行った。その6号をギャラリーマチスの個展に並

べていただいた。「荒磯」という題名だ。写真を撮り忘れたからアップできない。

葉山町の森戸海岸の少し先で描いた。なんとその名もロイヤルビーチ。日本で一番偉い人の

御用邸がある。しかも、いまその御用邸にいらしているのだ! だから、海岸の辺りはお巡

りさんだらけ。

私はロイヤルビーチの端っこのほうで描いたので、誰にも邪魔されなかった。邪魔なのはギ

ラギラの太陽だけ。海岸の砂もあちこちにすぐ入り込むから、少し邪魔。絵にもくっつく。

10号から0号まで6点描いた。描き終わったのは3時半ごろで、さっき海に入っていた唯 一

の家族もとうに上がっている。車に常時積んである海パンにはき替えて、たった一人のロイ

ヤル海水浴。初めは温かった海水も少し進むとまだ冷たい。心臓麻痺かと心配したのもつか

の間で、よく考えればチョー気持ちいい。海水はよく浮く。三浦半島の山を見ながらプカプ

カ浮かんだ。「絶景かな、絶景かな」

まったくどこまで行っても足がつく。物凄い遠浅だ。夕方の海はけっこう波がある。とって

も面白い。

絵も描いたし、最高の気分だ。

ああ、ひろしま美術館の記事がまだだった。また明日から頑張ろう!

 

07年6月17日

先週の「唇寒」を読むと、ロイヤルビーチで描いた「荒磯」をアップしなければ筋が通らな

いが、まだ写真に撮ってない。今は朝なので、今日中のアップには間に合うかも(間に合っ

た!)。

三浦半島の西側によく行く。ロイヤルビーチは一色海岸というのが正式名らしい。この前絵

画教室で行ったところは、私は森戸海岸だと思い込んでいたら、真名瀬漁港が正しいみたい

だ。何事も思い込みはいけない。

上記のとおり、今はギャラリー・マチスで個展をやっている。毎日通っている。歩いて40

分かかる。電車や車を使っても20〜30分はかかる。

個展会場に訪れる方でリタイヤした男性が物凄く増えた。絵を買わないことを申し訳なさそ

うにするが、FO号で7万円と表記してあるものをそう簡単には買えない。こっちとしては、

もちろん買っていただきたいが、買わないのが普通だ。私だって、他の人の会場で絵を買っ

た経験などない。むかし、骨董品屋などで掛け軸を数本買っただけだ。

ま、原則買わない。買うところではない。まずは見るところだ。画廊も基本的に見ていただ

くのが大前提だと思う。見ていただかなければ始まらない。私みたいな買わない客でも、い

いと思えば、他の人に伝える。たくさんの人がおいでになれば、買われる方もいるかもしれ

ない。ヴラマンクが言っていたが「絵が売れるのは宝くじが当たるぐらい珍しい」のだ。

初めから「1点買おう!」とおいでになる方は少ないと思う。そういう方でも絵が気に入ら

なければ買いっこない。見るだけに来られる方でも、気に入ってしまうと買う場合もある。

こういう場合がけっこう多い。とにかく絵は一点ものだ。一点しかない。誰かがその絵を買っ

てしまうと、もう終わりなのだ。もちろん、私にとってもお別れだ。二度と同じ絵は描けな

い。私は同じ場所で5〜6枚絵を描くから似た絵はあるが、似ていても大きさが違うし、そ

の似た絵群みたいな絵は二度と出来ない。筆とパレットとそのときの自分は一度限りだから

だ。当たり前である。

やっぱ、画廊は絵を買うところではなく、見るところだと思う。

本日、1点買ってもらえた!

 

07年6月24日

前にも述べたが、私は絵を見るのが好きである。昔の偉い人の絵だ。モネとかシスレーとか

ドガとか、そういう絵だ。日本の古い絵もよく見る。もちろん中国の古い絵も見る。さっき

映画「ダイハード」を見ていたら、家内が「古いけど色あせないねぇ」と言った。「当たり

前だよ。われわれは映画を作った人間の意欲とか情熱に感動しているんだもん」と答えた。

いくら名優をそろえて、ハイテクのCGで大画面を飾っても、つまらない映画はつまらない。

もちろん絵だって同じである。われわれはレンブラントの意欲が見たいのだ。情熱を感じた

いのだ。だから、電車に乗って遠くの美術展を見に行く。最近では飛行機に乗って行ってい

る。これはANAの機内誌の仕事だから当たり前かも。

本当は見るだけで満足だ。見るだけでいい。それで十分楽しい。

だけどやっぱり自分でも描いてみたい。

だから絵筆を執った。そうすると、ますます昔の人の気持ちがわかる。絵を見るのが10倍

も20倍も楽しくなる。もう何十年も描き続けている。そうなると、そういう絵ばかり描い

ている人間が滅多にいないヘンな奴、ということになる。絵だって物凄い量を描くから、少

しは見られるようになる。けっこう希少価値が出る。

だけど、絵の出来不出来を気にかけてはいけないと思う。絵は、描くことに意義があるのだ。

描いているときが一番楽しいのだ。生きているのだ。これが絵描きだと思う。

最近、絵の仕事がけっこう増えてきたような気がする。もちろん気のせいかもしれない。ゆっ

たり食えるほど仕事が来るわけでもない。

 

07年7月1日

自動車が壊れ、今度はパソコンが怪しい。車は発電関係がイカレテいる。だから、ライトや

エアコンは使えない。ワイパーも望ましくない。カーラジオやコンポもダメ。ときどきピタッ

と動かなくなる。しかし、また突然エンジンがかかる。不思議だ。ギャラリー・マチスの搬

出はすっかり諦めていた。タクシーに頼むかレンタカーか。どちらにしろ金がかかる。前日

に、ためしにエンジンをかけたら動いた。本当に偉い車だ。いくら「いい子、いい子」をし

てあげてもし足りない。6月30日のクロッキー会も困っていたが、ちゃんと走った。走れば

普通によく走る。昨日は息子の車(これが次の車になる予定)を買いに成城まで走った。往

復60kmだ。実によく走った。最後のお勤めに頑張っている。これで、7月4日の絵画教室と7

日のクロッキー会に走ってくれれば超優等生。最後の最後はもう一度成城まで。車を取替え

に行く。これでお勤め終了だが、そこまで頑張れるだろうか? 13年間、よく頑張った。私

にとっては初めての新車で、きっと最後の新車になる。何度も豊橋に行き、神戸まで2度往

復した。つくばにも行った。絵具だらけで、ボロボロになった。

どうして成城の自動車屋さんかというと、そこで息子の友だちが整備士をやっている。私の

塾の生徒でもある。いろいろサービスしてくれるし、近所に整備士が住んでいるのだから、

これほどの安心はない。誰だってそこで買う。

車もよく頑張ったが、子供たちもずいぶん大きくなったものだ。まったくありがたいよ。

ちなみに、今の車は三菱シャリオ。次の車は私のではないが、トヨタのウイッシュ。よく似

た車だ。2年落ちの中古である。

で、パソコンのほうだが、こっちももう少しなだめすかして使う予定だ。

 

07年7月8日

今は豊橋にいる。目が覚めると、枕元に豊橋市の広報があった。豊橋美術館のお知らせがカ

ラー図版になっている。現存画家の個展だ。入場料が1000円。現存画家の個展で入場料

を取るなんて! 超細密画だ。石の絵など、その質感は驚くべきものだ。量感や空間、すべ

てに申し分ない。もちろんデッサンに狂いはない。

凄い技だと思う。一つの技巧、間違いなく骨の折れる仕事。丹精が籠めてある。誰が見たっ

て驚く。絵を描く人間が一生をかけて取り組む価値のある仕事かもしれない。

凄い!

テレビをつけると「題名のない音楽会」をやっていた。5分ほど見ただけだ。一般の腕自慢

が指揮棒を振る企画らしい。私が見たのはイガグリ頭の少年の最後のところと、50歳のサ

ラリーマンの全部(といっても3分ほど)。指揮の姿は絵を描くのに似ていると思った。特

に100号を描くときはよく似ているが、私のほうがよく動く。ある程度描くと、一筆置い

ては後ろに下がるので、行ったり来たり実に忙しい。やっぱりわれわれの絵は体力勝負かも

しれない。行ったり来たりに妥協したら終わりだ。

それにしても超細密描写とはあまりにもちがう。ほとんど別世界だ。

 

07年7月15日

今朝は「新日曜美術館」を見ていたために「題名のない音楽会」を見忘れた。それにしても

美術と音楽は大きく隔たってしまった。音楽ではまず演奏できなければならない。演奏の修

得には莫大な時間と金が掛かる。もちろん才能も必要だ。そして、何百年も同じ要領で練習

をする。練習曲もほとんど変わらない。少なくとも数十年の単位ででは同じだろう。その点、

絵画は、よく言えば自由、はっきり言えばデタラメである。ムチャクチャだ。おそらく芸大

でも音楽科と美術科では全然違う雰囲気なのではないか。音楽科は練習ばかりの訓練所で、

美術科は若き芸術家の自由な表現の場。

ああ、若き芸術家! まことに馬鹿馬鹿しい。修練のない芸術家はいない。20歳代の前半で

芸術家気取りでは、周りはやりきれない。

それにしても、美術はおかしいと思う。狂ってる。これからどうする気なのだろう。

もちろん、私の知ったこっちゃない。私は、美術史なんてどうでもいいが、それにしても性

急過ぎると思う。美術史があるとしても、もちろん、美術の進歩なんてとても信じられない

が、「進歩」といわず「変化」だとしても、もっとじっくり、気長なものではないか。先を

急ぎすぎると思う。

だって、油絵技法の修得だって、ちゃんとやったら並大抵のものじゃあない。ずっと描き続

けなければならない。ちょっと休むとすぐ描けなくなる。私もここのところ1週間以上描い

ていない。もうそうとう不安だ。これは芸術の問題ではない。もっとそれ以前の腕の問題。

技術の問題。表現の最低ライン。これを維持するだけでもそうとう骨だ。しかし、絵は描け

ば描くほどうまくなる。これは絶対間違えない。

ま、しかし、うまいだけでは始まらないから困る。

今朝見た「新日曜美術館」の話はブログに書いた。

 

07年7月22日

今朝は、濃密なときの流れにゆったりと身をゆだねながら、独自の表現へと変貌してゆく「己

(おのれ)」を凝視する瞬間でもあった。それは、逆に死の翳を見つめる冷たい、宇宙のよ

うな沈黙、静寂の只中で苦しむ一つの「いのち」だった。

「新・日曜美術館」を見ていたら、なぜか上のような言葉がスラスラ浮かんできた。もちろ

ん、意味は不明である。

今日は「靉光(あいみつ)」だった。靉光(1907〜1946)はシュールレアリストとされてい

る。等迦会にも靉光賞がある。最近の「新・日曜美術館」は戦争と画家特集らしい。靉光は

戦争に召集され、戦死したわけではないが、戦後帰還するときに病死した。戦死と変わらな

い。戦争の犠牲者である。

だけど、絵の説明はさっぱりわからなかった。

私も代表作は美術館で見ていると思う。はっきり記憶にない。ま、しかし、まず見ている。

東京・竹橋の近代美術館にあるのだから見ていないはずがない。

で、靉光の絵はどうか?

まず、基本的にそうとう描ける。これは間違いない。

しかし、あの路線は難しい。一生は物凄く長いから、あの路線だと息が切れる。ピカソは危

なかった。もう少しで顎が上がりそうになった。ピカソはテレーズに救われた。テレーズに

出会って、絵の前の描きたいものを描くという当たり前の大前提に気がついた。

しかし、靉光は苦しみながら戦争の犠牲になってしまった。不幸である。

この絵を現代のわれわれが言葉で説明しようとすると、とてつもなくトンチンカンになる。

どだい無理な話だ。止めておいたほうがいい。口で説明できないから絵なのだ。じゃあ、お

前はなぜ毎月『翼の王国』で絵の話をしているのか、と言われれば、基本の大前提はしゃべ

りたいから、である。ドガの絵のことについて言いたい、しゃべりたい。説明したい。だか

ら、書いている。別に絵そのものを解明しようとしてるわけじゃあない。無理だもの。絵は

すでに絵筆によって解明されて目の前にある。

 

07年7月29日

昨日、『翼の王国』の取材で横浜美術館へ行った。

コレクション展と企画展をやっている。企画は森村泰昌だ。古典絵画の中に自分の顔などを

入れる作品。私にはわからないから見なかった。というか見たくない。気持ち悪い。

「あっ、レンブラントだ」などと近づくと、あの顔が入っている。騙された自分に腹が立つ。

あの顔もキモい。見たくないのに、コレクション展でも一部屋使って巨大なパネルが並べて

あった。横浜美術館も、けっこう、しぶとい。帰りに図書室(前にも書いたが、私は美術館

の図書室に最低1時間は篭る)に行ったらそこにもイーゼルを立ててポスターがずらりと並

んでいる。勘弁してもらいたい。ちょっとした暴力だ。私をどこまで追い詰める気なんだ。

しかし、ここの図書室は素晴らしい。ポスターのほうを見ないように頑張れば、1日いても

飽きない(と思う)。

コレクション展にはお目当ての絵(ルドンとカリエール)があった。

日本人画家の部屋は、どの絵も焦げ茶色の画面。そのなかで1点だけピンク色に輝く絵あっ

た。長谷川利行(1891〜1840)だ。まったく疲れが取れる。来てよかった。これこそまさに、

役得だ。

どうして長谷川はいいのだろう? 普通の風景を普通に描いているだけだ。森村のような奇

抜なアイデアはない。この前、富山近代美術館の「美術のおくりもの」展(8月26日まで)

で見たムンク(1863〜1944)の風景「オースゴールストランの夏」(1890年代 油彩 キャ

ンバス 4号ぐらい)もとても同意できた。普通のつまらない風景だが、物凄く美しかった。

チラッと見てすぐいい絵だとわかった。どこがどういう風にいいのだろう。不思議だ。言葉

では表せない。なにかとても懐かしいのだ。同じ気持ち?

 

07年8月6日

先週は選挙で更新が出来なかった。月曜日の午後になってしまった。

選挙結果は自民党の大敗だ。

この歳になると、選挙も本当に馬鹿馬鹿しくなる。父も50歳を過ぎたころから投票に行って

いない。私は中学生の塾をやっていて社会科も少し教えていたので、選挙に行かないと具合

が悪い。今は無罪放免。もう行きたくない。先週は知り合いの方に頼まれたので行った。選

挙違反ではない。ビラしかもらっていない。

政治について素朴な疑問がある。

私の家は昔から貧乏で「保守政党は悪、革新政党は善」という前提だった。わが両親はけっ

こう教育熱心で、子供を染めていた(と思う)。ちなみに、私の子供はまったく自由に投票

する。当たり前のことだが、けっこうまともな家庭なのかも。

ところで、保守政党は悪だろうか? もちろん悪であるわけがないが、顔つきはあまり頂け

ない。どっちかというと革新政党のほうがまともに見える。しかし、日本はとても繁栄して

いる。まさか政治が良いからではあるまいが、悪くもないという気がする。

政治家も生きているのだから、生活の糧として政治活動をする。政治が仕事ということだ。

これは絶対避けられない現実だ。そうすると、汚職にもなる。ついついお金に手が伸びる。

当たり前かも。やっぱり政治は無理だよ。多くの人を動かすような活動はどうしてもヘンに

なる。宗教だって怪しい。サザンのコンサート(行ったことはない)も正気じゃない。

絵はいいね。たった一人の世界だもん。

いま夏の真っ盛り。暑くて絵が描けない。まさに夏休み。休むしかない。

 

07年8月12日

知る限り、人類史上最高の人物表現はギリシア彫刻だ。その後の西洋美術の人物表現の最高

のお手本となっている。もちろん、ルネサンス期の画家や彫刻家もギリシアを慕った。ルネ

サンス(文芸復興)とはギリシアに帰ろうという文化運動だ。

風景画の最高峰は中国の南宋絵画だと思う。

私はこの二つをお手本として絵を描いてきた。私が尊敬する東西の古典美術もすべてこれら

の芸術を慕ったものだ。私もこの流れにいると思っている。錯覚かもしれないが、そう思い

込み、毎日を暮らしている。もうこれでいい。

生きなければならないし、家族もいるから、今のままだとちょっと困るが、私としては満た

された気持ちでいる。

もちろん、とても拙いから、向上心があり、まだ死ぬわけにはいかないが、ま、こんな気持

ちでずっと行くんだとは考えている。これでいい。

よくわからないのは、私が考えている美術の本流からは遠いところにある絵などが高い評価

を受けていることだ。面白くない。ま、しかし、これも世の常。致し方ない。

ちなみに、下にリンクしてあるシヌエッサのアフロディテはギリシア彫刻である。異論が多

いが、私が尊敬する澤柳大五郎は紀元前450年ごろの原作だとおっしゃる。

中国の南宋絵画については、このホームページの「絵の話」の「中国・日本の水墨画」に画

像付きで解説してある。

 

07年8月19日

この8月18日の裸婦のクロッキー会に合わせて、筆ならしに豊橋の風景を数点描き、今朝

また家の近所の芙蓉を描いた(こっちは筆がなれていて、充実しているから描いた)。ここ

数日の間に都合20点ぐらい描いている。指の先が筆になり、身体を巡る血液が画溶液になっ

ている感じはない。まだまだ足りない。

ただ、今朝、芙蓉を描いているときに、無理だよ、と思った。なにが無理かというと、全日

空の『翼の王国』の記事だ。そんなに上手くは書けない。無理だ。今は10月号の記事を書

いている。編集部からはOKが出ているが、家族の反応がイマイチ。

しかし、私は作家ではない。無理だ。わが家族(とは具体的に妻と娘=最高に辛辣な批評家)

はR25とか週刊文春の愛読者だが、ああいう第一線の雑誌の記事と比べられては敵わない。

何度も言うが、無理だ。私は絵描きなのだ。今朝芙蓉を描いていてつくづく感じた。俺は絵

描きだと今さら思い至った。

無理だ。書けるわけがない。文春とか新潮に書いている人間は桁外れの筆力を持っている。

主張もある。私には僅かな主張はあるが、あんなにこなれた名文は書けない。

しかし、絵は相当こなれている。とろけている。絵具の中に具象があり、色の中に形が潜ん

でいる。筆と絵具とキャンバスがぐちゃぐちゃに混ざり合って、摩訶不思議な平面世界が展

開している、とまでは言わないが、そういう具合になりつつある。こんな絵描きはそうざら

にはいないのだ。こういう絵画世界を目指そうとする意識さえもない。中国、日本、ヨーロッ

パの名画はみんなすべてこの世界を目指しているが、そんなことに気がつきもせず、意識的

に目指さないで、自然にそういう画面に達している絵もたくさんある。

とにかく、私は絵具まみれ、油まみれのただの能無しオヤジだ。絵以外に能はない。

本日、「唇寒」バックナンバーの22を更新しました。これから毎週半年分ずつ更新します。

 

07年8月26日

修行について、ブログに書いていたが、結末がわからなくなったまま、天才論の話に移ってし

まった。で、今朝また修行について考えた。

修行は修業ではない。修行は仏教などの宗教的な修行だ。修業は、板前さんや大工さんなど

の技能を身につけるために頑張ること。もちろん両方が重なる部分は大きい。両方とも頑張

ることだからだ。ただ目的がちがう。

仏教の修行は悟りを開くために行うと言われる。道元禅師は修行しようと決意すればもうす

でに悟り、坐禅を組めば仏(悟った人)と言われた。だから、悟りを開くために修行をする

というのもおかしいことはおかしい。

で、とりあえずの仏教では悟りとは輪廻から解脱することだと説明してある。この迷路に迷

い込んでわがブログは挫折した。

私は超高級志向(道元とかギリシア彫刻とか南宋絵画など)のくせにIQが足りない。思考

力がない。早い話がバカだ。だからすぐ迷路に迷い込む。で、挫折する。

だいたい、悟りを開くのが輪廻からの解脱なんて信じることは出来ない。なにが輪廻だ! 

死んだ後のことが分かってたまるか、ての。誰か偉いお坊さんが言った。空海だっけ? ジ

ンと来るのは「生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始に暗く、死に死に死に死んで生の終に

冥(くら)し」輪廻思想を言っているのかも。空海は中国語がペラペラで、書も平安の三筆。

詩(というか偈(げ)かも)もいい。ヤッパ一流はいいね。この出典は『秘蔵宝鑰(ひぞうほう

やく)』で、私が読んだのは岩波新書の『死の思索』(松浪信三郎)だった。この『死の思

索』には、空海の引用の前に、論語から孔子の言葉が書いてある。「いまだ生を知らず、い

ずくんぞ死を知らん」。この言葉にも痺れる。

松浪信三郎には『実存主義』(岩波新書)という名著があったが、なぜか今は絶版。あの本

にはお世話になった。

で、われわれ一般人の悟りとは、怒らないとか、他人に迷惑をかけないとか、よく働くとか、

明るいとか、人の話をよく聞くとか、言うべきことはちゃんと言うとか、よく寝て食べて運

動して排便するとか、歯を磨くとか、そういうことだ。輪廻なんて「そんなの関係ねぇ」ので

ある。宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』なんて、ま、だいたい悟りの姿かも。いつもニコニコ笑 っ

ていられたらかなり気持ち悪いが。

ま、以上のような人間、ぶりっ子ではない、本当の、根っからの「いい人」を目指すのが修

行である。そういう人が描いた絵なら悪いはずがない、というわけには行かないかも。

もちろん私の場合は、怒りやすい、借金をしている(=他人に迷惑)、グータラだ、人の話

を聴かずおしゃべり、言いたいことが言えずにグジグジ悩むなどなど悟りからは物凄く遠い。

だからまだまだ当分修行が必要だ。

「これから毎週半年分ずつ更新します」と先週宣言したとおり、本日、「唇寒」バックナン

バーの23を更新しました。

 

07年9月2日

京都五山「禅」の文化展を東京国立博物館に見に行った。新聞屋さんに貰ったチケットだ。

夫婦で行くつもりが、会期をうっかりしていて、家内が実家に介護に行ってしまった。一枚

余る。チケット売り場で財布を出していた年配の女性に差し上げた。ダフ屋はやっていない。

で、もちろんカタログは買えない。もっとも、めぼしい作品の図版はほとんど持っているか

ら、カタログはいらない。重いし、邪魔なだけ。だいたいが一度見たものをもう一度見に行っ

ただけだ。いいものは何度見てもいい。出来れば自分の家に飾りたいぐらいだ。

復習の意味でブログのほうで少しご紹介した『禅のこころ』(飯塚関外・講談社現代新書)

を読み返す。宋元の水墨画のことが書いてある(252ページ)。

「内面的(精神的)には禅の境地の表現であり、対象は天地人間のすべてを把握し、描法は

すこぶる簡素で雄勁で幽玄でしかも奔放で、墨と毛筆を駆使して乾坤を我がものとして端的

に表現するものであるから、中国においても日本においても絵画史上の大きな革命であった。

いわんや欧米の絵画の観念から見るならば甚だしく特異なものと思われるわけである。(中

略)墨絵は禅によって生まれ、禅によって育ち、禅によって完成されたもので、世界にはまっ

たく類のない独自の芸術であり文化である」

私とほぼ同意見だ。とにかく禅宗の書画は素晴らしい。人間の生死のど真ん中の問題にまっ

すぐに向かっている。ただ、私はギリシア彫刻とかインドのガンダーラ美術とか中国の南北

朝から唐にかけての仏像など、同じような精神文化があると思う。日本の天平彫刻や鎌倉彫

刻も同類だ。飯塚の言うとおり禅の水墨画は「世界にはまったく類のない独自の芸術であり

文化である」ことは確かだ。確かだが、それ以外に素晴らしいものがないということはない。

逆に言えば、われわれにも十分可能性はある。人類史上の文化芸術がずば抜けて素晴らしく、

人間業とは思えないほどの境地に達しているからって、現に生きているわれわれが絵を描い

ちゃいけない法はない。

水道を捻れば水が出る。トイレも水洗。洗濯も食器洗いもスイッチ一つ。風呂も快適では、

生死の問題が切羽詰ることはない。私など毎月借金に追われているからまだ生死の臨場感が

あるほうかも。ま、生死のこと生殖のこと、こういう根本的な問題を問題としていない限り

目を見張る作品は生れない。

高尚な大問題より、9月17日からの銀座展を何とか見られるものにしなくてはならない。

「これから毎週半年分ずつ更新します」と8月19日に宣言したとおり、本日、「唇寒」バッ

クナンバーの25を更新しました。

 

07年9月9日

今日は重陽の節句だ。ほとんど関係ない。

なんか、ブログとホームページが区別がつかなくなってきた。それに、今日更新するはずの

「唇寒」バックナンバー25ももう更新してある。これは不思議。26は来週でもいいし、

当分お休みでもいい。だって、もう今週に追いついているもの。

ま、ホームページには大ギャラリーがある。これはブログでは無理。ギャラリーもそろそろ

一新しなくては。

ところで、個展1週間前である。最高の作画チャンスだ。明日は『翼の王国』の取材で島根

に行く。もちろん油絵を描く。それから4日間連続で描きまくる。指の先が筆になり、身体

中の血液が画溶液になるぐらい描く。花と風景ばかりだ。きっとこれでキャンバスが尽きる

が、もう致し方ない。先のことはどうでもいい。これからの4日間がすべてである。天気も

いいとは限らないが、雨が降ったら雨を描くしかない。もう目の前にあるものを手当たり次

第に描くだけだ。ビビルことはない。もともと絵描きになりたかったのだ。その絵描きにな

った。絵を描くしかないではないか。失敗を恐れている暇もない。この4日間で生涯の最高

傑作を10点は仕上げる! 

「これから毎週半年分ずつ更新します」と8月19日に宣言したとおり、本日、「唇寒」バッ

クナンバーの25を更新する予定だったのに、もう更新してありました。

本日は個展案内を少し更新。

 

07年9月16日

今日は銀座展の搬入日だ。一応50点の絵を額装した。まだ大きい絵は裸だ。これからやる。

F50号からF0号までだ。額装に落選した絵も50点ぐらいある。絵の数は十分だ。

で、先週「この4日間で生涯の最高傑作を10点は仕上げる! 」と宣言したが、10点は

無理だったかも。

今日の表題の絵が最後の絵だ。13日の朝描いた。

私の絵にしてはやけに奇麗で気持ち悪い。しかし、こういう絵は二度と描けないのだから大

量生産の売り絵とは違う。一般の方は「大量生産の売り絵」という意味がわからないかもし

れないが、本当にそういう絵はあるのだ。もちろん油絵でちゃんとした額に入れる。けっこ

うな巨匠もそんなような絵を描いている。値段も決して安くはない。ま、私は別に悪いとは

思っていない。われわれとは別分野の仕事だ。

何度も言うように、私が絵を描くのはどう見ても「仕事」ではない。ワークかもしれないが、

ジョッブでもビジネスでもない。『ゴッホの手紙』に絵を描くことを「仕事」と書いてあるが、

あれは翻訳でそうなっているので、ゴッホもワークと綴ったのではないか? もちろん、パ

トロンのテオに出した手紙だから、相当ハッタリがある。で、ゴッホは絵を描くことを何度

も仕事と言うのかもしれない。

この辺の話もブログと重なってしまう。いまブログの話題は「文人画」。そっちも見てみて

ください。

9月10日の『翼の王国』の島根取材から始まった泥沼制作だが、島根があまりにもきつく、

11日、と12日の半分はほとんど放心状態。それでも原稿だけは書いていた。12日の夕

方から画材を引いて(車がないのでカートに入れて引き歩く)、歩き出した。ま、だいたい

いつも目をつけておく近所のポイントだ。島根で6号2点、4号、3号、SM、0号と6点

描いてきた。12日の午後は20号2点、10号、6号、0号と5点描いた。13日の朝は

10号、6号、3号、SMと4点描いた。合計15点。最後の2点でやっと筆が馴染んでき

たかも。上の絵は一番最後の芙蓉である。ま、個展前の緊張の中での風景と花だから確

率が高い。11点ぐらい残せる(「生涯の傑作」となったかどうかは不明)。打率7割以上だ。

ちなみに私の裸婦の打率は2割以下。裸婦はお買い得です。

今週はヘッドページ以外の更新なし。

 

07年9月23日

今日は銀座展の最終日。予想外の不調だった(今はまだ朝で、これから最後の1日があるか

ら逆転サヨナラ満塁ホームランが出るかもしれないけど=結果はこの欄の最後をどうぞ)。

絵がよくないのだろうか? 暇だから近所の画廊を少し回ったが、特別に私の絵が悪いとも

思えない。ギャラリーためながではトム・クリストファーという外国人画家の個展をやって

いた。流石にこの人なら絵描きだなと感じた。まず十分描いている。こういう人はなかなか

いない。化繊のキャンバスにアクリル絵具で描いてある。大きな絵ばかりだ。物凄いコント

ラストで大都会の喧騒を描き出している。見ているだけで疲れてくる。五月蝿い絵だ。五月

蝿い絵は強い絵でもある。主張がある。タッチが見え、絵描きの息吹が伝わる。イッキ描き

だ。

自分の画廊に帰ってくるとびっくりするぐらい落ち着く。私もイッキ描きだが、麻生地に油

絵具だからずっと渋い。値段は格安だ。この銀座で、ちゃんとたくさん必死に描いている絵

描きはトム・クリストファー以外では私ぐらいである。腕の鍛錬でなら勝負できると思うが、

売れ行きはまったく不調。本当に不思議だ。

で、銀座展だが、逆転サヨナラ満塁ホームランはなかった。ただ、0号を1点買っていただ

き、ギリギリ画廊費が出た。展示の労力、額縁代、電車賃、店番代など一切なし。世の中は

甘くない。

最後の最後に、娘が同僚を連れてやってきた。10号のバラの絵に強い興味を示し、物凄く

悩んでいた。娘の言。「友だちを裏切ることはできない」

なんで父親の絵を買ってもらうことが裏切りなんだろう? 絶対お買い得なのに。しかし、

強くは勧められない。そんなに自信はない。家族からの信用はゼロだ。

ああ、10号ならば、上の経費はすべてまかなえる。

今週もヘッドページ以外の更新なし。

 

 

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