唇 寒(しんかん)集18<04/5/2〜04/8/1>

 

04年5月2日

毎年描いてきた黄色いバラが今年は咲きそうもない。樹が大変弱ってしまい、枝も三分の

一になっていた。バラのオーナーの話では、突然ダメになったとのこと、けっこうショッ

クを受けた。2〜3週間前にこのヘッドページに再アップしたF10の黄色いバラである。

去年思い切り描いておいてよかった。外で絵を描いているとこういうことはよくある。

素晴らしい見晴らしのところにヘナチョコ建築ができたり、可憐な花が咲く空き地が道路

になってしまったり、どんどん描いておかないと次々に開発されてしまう。しかし、この

バラは金井画廊で個展を企画してもらってからずっと描いてきた愛着のある花だった。四

方八方に伸び伸びと大きく広げた枝に大輪が競うように咲く。公園の方に向かって花開く

から、足場もよく自由自在に描ける。だいたい花は早朝に描くので見物人もほとんど来な

い。私の独壇場だった。残念!(エンタの神様をご覧の方はあの気持ち悪いお笑いのノリ

でどうぞ)

  

今週も時間が逆流するが、4月29日、先週もお知らせした根津美術館にとにかく行った。

私の個展と重なる展示は後期の展示で前期を見逃してはならない。徽宗皇帝の「桃鳩図」

もあった。しかし、熱海のMOA美術館所蔵の梁楷の「鷺図」は来ない模様。あのたら

した墨が紙ににじんで広がった効果をそのまま鷺の羽毛に見せた梁楷の神業を是非ご覧い

ただきたかったが、残念!(同上)私は精密な複製ポスターを持っている(現在行方不明

だが絶対ある=これを私は存在論と言っている=馬鹿ですから=コンタクトレンズを落と

したときなども存在論に従いじっくり探す)。

本題に入る。まず入場料1000円は安い! だってどの絵も1点あれば入場者を集められ

そうな名品ばかり。それがずらずら並んでいる。最初の1点目からいい。α波出まくり。

右脳全開。脳内麻薬炸裂。一枚一枚説明できないが、玉澗(本当の字は門構えの中は「月」)

の大きな山水があれほど集まったことはないのでは? 「山市晴嵐図」(前期展示)を雪

舟の破墨山水と比べていただきたい。墨の冴えが全然違うのに驚く。もちろん、破墨山水

も真似のできる絵ではない。だからこそ玉澗の偉大さがさらにわかる。

もちろん、牧谿もたっぷり見られる。根津所蔵の「ぬれ雀」は前期後期とも展示。「ぬれ

雀」については絵の話を是非お読みください。 牧谿「ぬれ雀」(水墨画の世界5)

玉澗や牧谿、梁楷以前の夏珪、馬遠、李唐などももちろんずらずら。

子供のころから父に中国には凄い絵があると聞かされてきた。八大山人や石濤より凄い絵

だと言われてきた。20歳ぐらいのときに高田馬場の芳林堂で小学館の「原色日本の美術」

の請来美術(絵画・書)という本を開いたとき、これが父の言う中国の絵かと思い知った。

一番驚かされた絵は牧谿の「遠寺晩鐘」である。このことについても画像付きで絵の話に

詳しく書いてある。最高の風景画(水墨画の世界3)。もっとも今回の南宋絵画展には「遠寺

晩鐘」も来ないらしい。そのかわり、徳川美術館の「遠浦帰帆図」(後期展示)が来る。

根津美術館の「漁村夕照図」(前期後期とも展示)もいいが、「遠浦帰帆図」も物凄くい

い。数年前の五島美術館の牧谿展でも見たが、また見られる。是非行きたい。ああ、私の

絵が売れますように。売れたらカタログも買っちゃう!

 

と、ここで素晴らしいコレクターの話。もちろん私の絵もご所蔵(私の絵を買ってくださ

る方はみんな凄いコレクターなのです!)。金井社長にプリントの冊子をいただいた。平

成9年1月19日の日本経済新聞に記事が出ているぐらいだからお名前を公表しても怒ら

れないと思う。山本勝彦さんというサラリーマン(といっても超大企業の部長=当時)。

この方の絵描きを泣かせる一言「百の褒め言葉より、黙って一点買ってあげることが最良

の作家支援」。私なんて絵を買っていただければすぐ「南宋絵画」展のカタログなどを手

に入れてさらに絵画研究(好きなだけかも)を深めるのに、なかなか山本さんのようなコ

レクターはいらっしゃらない。さらに山本氏の言は続く「絵を買うといっても、ゴルフ1

回で版画が買える。海外旅行やブランド品で油絵が買える」。私の絵は安いから、ゴルフ

1回でも油絵。自分の目で選んだ絵を持つということの意味を強調なさる。やはり本物の

文化人は言うことが違う。「自分の眼で選ぶ」「印刷物でない世界で1点だけの油絵を所有

する」というようなレベルに達している絵画愛好家は本当に少ない。日本にはほとんどい

ない。全国で3000人と言われている。そのほとんどが社長クラスの人。山本さんのよ

うに普通にコレクションしてくださる一般人がフランスぐらい増えたら、私の絵画生活は

バラ色に輝くのに。ま、実際のところ今でもバラ色。ただ明日がないだけ。

みなさま、菊地理展に殺到してください。もちろん買わなくてもいいんです。金井さんが

飾ってくれた私の絵を見てやってください。絵の話の小冊子(A4フルカラー図版数枚付

き)を鋭意製作中です。ご希望の方に差し上げます。

 

テオ画材舗を覘くと、今月はクレサンキャンバスの12番が安い。

12番は日本製キャンバスでは絶対に味わえない極上のベルギーキャンバス。

このチャンスに是非味わってはいかが。

クレサンキャンバスの接写写真はこちらで見ることができる(裏も表も)。

なお、インターネット上には知ってか知らずか、クレサンと称して日本製キャンバスを売 っ

ているサイトもある。くれぐれもご注意ください。

 

04年5月9日

金井展の真っ最中である。今日で三日目が終わった。ありがたいことに三点の嫁入り先が

定まっている。根津美術館のカタログも買えそうだが、品切れとの情報も。よい展覧会は

口コミで広がり、入場者が末広がりに増える。

ということは私の個展もこれから増えなければならないのだが……。

  

初日に持参した最新作(前々日に描いた)のバラは、I様にお買い上げいただいた。私が

会場に着くとすでにいらして、まだ濡れているバラの絵を金井さんが額装して数分でお決

めになった。もちろん作家としても会心の作である。

また、本日開場前に望月家の庭で描いたバラを2点持参したが、これも展示していただい

た。どうも会期中は精神状態が変化するらしく絵がうまくゆく。

 

実は今年の個展は心配だった。去年は今までで一番お買い上げが低調だったのだが、絵は

いいと思っていた。去年を超えるのは至難の業。もしかすると今年はダメかも、と不安だ

った。ところが、並べてみると予告どおり(昨年11月ごろ「色彩画家に変身するかも」

と宣言した)、絵が明るくなった。もちろん金井社長の選別と配置がものを言っているこ

とは大前提。とても選ばれないだろうと諦めていた作品を選び取り、額を合わせてくださ

った。

 

小冊子はぜんぜん進まず、会期が3日も過ぎてしまった。先週「A4フルカラー図版数枚

付き」と宣言したが、残念ながらとても間に合わない。申し訳ありません。

しかし、とにかく150部制作予定です。

 

04年5月16日

昨日、金井展が終わった。

3日目までの勢いはすぐ消沈して、全部で5点買っていただき、涙の最終日も終わった。

しかし、去年よりも買ってもらえそうな雰囲気はあった。少し景気の上昇を感じた。ほん

の少しである。

 

今日は相模原のフクヤマ画廊にお邪魔した。福山さんの貴重な日曜日の午後を2時間も奪

ってしまった。福山さんご免なさい。

フクヤマ画廊は楽しい。1年ほど前にお邪魔したときは長谷川利行のガラス絵があった。

花の絵だった。割れたらおしまいというガラス絵を手にとってまじまじと拝見させていた

だいた。今日はなんと長谷川が4点(厳密には5点)もあった。F0の女の子の顔のガラ

ス絵、SMぐらいの裸婦、浅草の風景(8号)、荒川風景(4号)。荒川風景には裏にも

絵があり、こっちは壜が3つ並んでいた。だから4点だけど5点。ガラス絵以外はすべて

油彩画だった。私が一番いいと思ったのは裸婦。壜の静物画付きの荒川風景もとてもよか

ったがちょっと傷みが多い。ま、しかし、貴重な長谷川の絵には違いないのだ。傷みが多

いなどと贅沢は言っていられない。

何度も言うように、いい絵はタッチが違う。筆への思いが違う。惜しむように慈しむよう

に画面に置かれた絵の具は長谷川利行の切なる絵画へのいとおしみを伝えてくれている。

こうやってゆっくりそばで見ると本当に絵画というのは絵描きそのものを伝えるずば抜け

たメディアだなと思い知る。

裸婦は肉付けも出来ているし、肌の質感も出来ている。立派な絵だと思う。

もう一枚、松本俊介のデッサンもよかった。場末の何もない風景画。よくもこんなつまら

ない場所を描いたものだと呆れる絵。しかし、不思議なことにその小さなデッサンからは

物凄く豊かな思いがあふれ出ている。ちゃんと人の歩く道が描かれている。いい絵だと思

う。

 

他には、ありとあらゆる美術展のカタログがテーブルの下に積んである、というより詰ま

っていた。出光の鉄斎展は、実は行かなかったが、カタログを見るとやっぱり行けばよか

ったと後悔した。鉄斎はほとんど見尽くしていると自惚れていたが、見ていないいい絵が

まだまだある。惜しかった。福山さんは今日まで根津美術館でやっていた南宋絵画展も前

期と後期2回行ったとのこと。私は結局前期しか行けなかった。もっとも後期の東京国立

博物館の名品は去年の11月に見たばかりだし「ま、しょうがないか」と諦めた。

 

まだ書くことは山とある。金井画廊では金井さんと毎日顔を付き合わせていた。画廊のお

客さんは波のように、いらっしゃるときは絶え間なく次々と見えるが、おいでにならない

とパタンと見えない。1時間とか2時間、金井さんと二人きりということも少なくない。

こういうときに金井さんの画廊哲学を拝聴する。本心を申し上げると私はついこの前まで

絵を買う人の気持ちがよくわからなかった。「なんで絵なんて買うんだろう?」といつも

不思議だった。私は生まれたときから絵の中にいた。父が絵描きだから当たり前。10代

の後半からはそのまま自然に自分の絵の中に埋もれていた。つまり絵だらけの人生なのだ。

だから絵なんて買う人の気が知れない。これが偽らざる心境。

ところが、ここに来て絵を買うことの喜びがやっと見えてきた。これがわからなければ本

物の絵描きにはなれないかも。先の福山さんのいろいろな言葉にも今さらながら思い当た

る節がある。詳しい話は来週のお楽しみ。

 

上の絵は先週お話したバラの絵。今回の金井展で最初に買っていただいた絵である。

 

04年5月23日

今日も上野へ行った。用事もあるが、東京国立博物館を見る楽しみもある。

用事は都美術館。ついでに公募展の絵をちらりと見る。すごい人出。日曜日ということも

ある。ある公募展が講演会を企画していた。会場の前は人の山。ちょうど終わったところ

で講堂の中から溢れるように人が流れ出ていた。その公募展の見本のカタログを散見する

と、やっぱりワンパターンの展覧会絵画。ずいぶん年配の方もいた。展覧会の受賞とか地

位などの欲望の渦に巻き込まれ、いい服着て上野に繰り出す。ずいぶん遠方の方もおられ

るに違いない。煩悩と執着。恐ろしいような世界。別に私は自分がお釈迦様だと自惚れる

わけではないが、お釈迦様が人間の世界を見るとこのように見えるのではないかとちょっ

と感じた。少なくとも、カタログをぱらぱらめくると絵画の感動からはかけ離れた別世界

が見える。もちろんこっちが勘違いをしているのかもしれない。確かにキャンバスに油絵

具で描いてある。私とそんなに変わらない画材を使っている。しかし、目的や意思は全然

違う。私はただただその瞬間瞬間の自分をキャンバスにたたきつけたいだけだ。いかに正

直に、いかにまっすぐにそのときの自分を描ききれるか、ここに最大の関心がある。とい

うか、そんなことも考えずに描いている。花や裸婦はきっかけに過ぎない。花が咲くから

描くのだ。裸婦も美しいから描く。風景は気持ちいいから描く。重大なのは描くという行

為で、これを続けるためにありとあらゆる謀略をめぐらす。自分を騙し、家族を騙し、世

間を騙す。だからやっぱりゴメンナサイなのである。

 

とここで先週の続き。絵を買う人のこと。

私は前から私の絵を買ってくれる人はみんな私より立派であると申し上げてきた。これは

ゴマをすっているわけでもなんでもない。本当の嘘偽りない気持ちである。もちろんIQ

も高いし、おそらく学生時代の偏差値も私より高い(現在なら中学生の範囲ならかなり自

信がある=仕事だから主要5科目70ぐらいは大丈夫かな?)と思う。そしてもっとも肝

心のEQ(いい人の度合い)は絶対に敵わない。私もけっこういい人ぶっているが、中味

はうすっぺらい。単純で気が短いクソ親爺だ。

金井画廊の金井さんの偉いところは、私の絵をおすすめするときに絶対に言わない一言が

あるから。それは「この絵は将来必ず値上がりします」という殺し文句。画商の常套句。

ほとんどの画商がこれを言う。金井さんは絶対に言わない。私はここが気に入っている。

絵を買うというのは自分の目を信じるということなのだ。今流行のことばで言えば自己責

任なのだ。絵に金を出すわけじゃなくて、自分の目に金を出すのだ。だから、本当のコレ

クターは自分のコレクション展をやる。世間の人に自分の「目」を見せたいのだ。コレク

ションというのも一つの偉大な行為であり、つまりパフォーマンスなのだ。真摯な人間の

熱烈な行動である。

絵描きとコレクターは同時代に生き、同じ空気を吸って、お互いに時代の文化を作り上げ

ているのだ。

コレクターがいなければ絵描きもいなくなる。

しかし、絶対にコレクターは存在し続けるし、絵描きも描き続ける。人間だから。

この切羽詰った真剣勝負の場が個展会場なのだ。画廊なのだ。これはやっぱりどうしても

面白い。まったくやめられない。

くれぐれも絵を投機の道具に使ってはいけない。絵を名前で買ってはいけない。買う人が

自分の目で見て、買ってもいいと思ったら買うべきである。もちろんコレクターでなくて

も人間である以上、誰もがコレクターでありうるのだ。そのときが初めて買う1枚目の絵

でも自分の目で見、自分で感動して買うならもうすでにコレクターである。1号10万円

前後の絵なら(私の絵は号3万円=むちゃくちゃお買い得)、自分の目で買うしかない。

これが戦いなのだ。勝負なのだ。フランスなどでは絵を買うのは普通のこと。たいていの

人はそういう認識を持っている。絵を買う楽しみを知っている。ちょっとした真剣勝負を

繰り返している。

モネも言っている「私の絵を買った人は私の絵がこんなに値上がりするなんて考えてもい

なかった人ばかり」と。

 

04年5月30日

「13歳のハローワーク」という本が書店にうず高く平積みされている。大変な売れ行き

らしい。今年の金井展の最中に金井さんから画家の項目だけでも立ち読みすることをすす

められた。著者は村上龍。彼も確か多摩美大の出(中退かも)だという話。読んでみると私

のために書かれたような文面。立ち読みだから正確ではないが「絵が売れているとか売れ

ないとか、そんなことは関係ない。数年でも数十年でも絵を描き続ければ、それは絵描き

である」というようなことが書いてあった。画廊に見える方は私が絵だけで生活している

ことを期待なさる。残念ながら私はそれほど悪党ではない。もっと地道な人間である。さ

らに、一枚の絵に時間がかかることを期待される(私の絵を買ってくださる方は、最近で

は時間が掛かっていないことを期待する=恐ろしい)。世間一般でも「プロの画家」な

る幻想があり、絵だけで生活している画家を高く評価する。みなさん「プロ」という言葉

に弱い。「プロ」が似合うのは野球とサッカーと相撲と囲碁と将棋ぐらいか? その他、

どうしても使いたいのならカードライバー。タクシー、バス、長距離トラックなどの運転

は間違いなくプロ。ときどきプロとは程遠い乱暴者もいるにはいる。

これに対して、たとえば郵便配達の人は完全なプロだが、当たり前すぎて誰もプロとは言

わない。魚屋、八百屋、肉屋、豆腐屋なども同様。列挙していったら切りがない。そう言

えば、「プロ」と呼びたい職業がもう一つあった。殺し屋。

話を戻すと、近代日本の最高の画家、富岡鉄斎は自分は画家ではない。神官であると主張する。

人類史上最大の風景画家(人物、花、動物も抜群にうまい)、中国南宋の牧谿は禅僧であ

った。日本の絵画史の頂点にいる雪舟も禅僧。近代日本の最高の油絵具の使い手、長谷川

利行はホームレス。これが絵画史の実態である。何度も言うように、あのゴッホは絵で牧

師の仕事をした。絵画史上には、純粋な絵描きもたくさんいるし、絵で生活した「プロの

画家」も少なくない。しかし、最高の画家はプロではないのだ。レオナルドもプロの画家

ではない。プロの絵描きの絵は二流である! 

越後の良寛さんも言っている。歌詠みの歌と料理人の料理、書家の書はいただけないと。

みなさん、この良寛さんの言葉に頷けませんか? 絵描きの絵がいいはずがない。

絵で重大なのはどのように描いてあるかではなく、何が描いてあるか、絵描きは何を描き

たいのか、そしてどのように生きたのかなのである。

そういえば、あのルーベンスでさえ外交官だった。

本当のプロ、プロ中のプロの絵と言えば、フランス19世紀の大巨匠ウイリアム=ブグロ

ー。あれこそプロ。そしてあの絵こそプロの絵である。やっぱり同時代ならコローの方が

ずっといい。

プロの画家として尊敬できる人はレンブラントぐらい。しかし、レンブラントは本当にプ

ロの画家だろうか? 確かにレンブラントは自分の絵を売って産を成し、破産後も絵で生

活した。表面だけ見ればプロの画家だ。しかし、レンブラントは絵が好きな爺。絵が好き

で好きで筆を持たずには生きていられない爺。それがレンブラントである。レンブラント

は絵描きである以上に、筆を持ってのた打ち回った一人の人間である。子供たちに次々に

先立たれ、枯れるほど涙を流した一介の悲しい爺、それがレンブラントだ。最後の息子も

レンブラントの死の数年前に死んでしまう。それでも自画像を描いた。悲しみにくれる自

画像を描き続けた。あんな絵は絶対にないのだ。悲しい人はいてもそれを絵に残した奴は

いない。ズタズタボロボロになっても絵筆を放さなかった人間はいない。しかもあんなに

絵画的表現力を持っている男。レンブラントはこの世に絵画のなかった太古に生まれても

最初に絵を描き始める一人だろうと言われている。まったく同感である。

つまり、レンブラントはプロの画家なんて枠ではくくれない偉大なる人間なのだ。結果と

してたまたまプロの画家だっただけである。

 

ここで、先週の反省。まず第一。上野の公募展について。この前は都美術館で、ある公募

展の講演会の終わりにぶつかってしまい、講堂から人がぞろぞろ出てくる様子に何か宗教

の集会ような異様な感じを抱いてしまったのでつい過激な発言になったが、以前にも言っ

たように公募展に罪はない。

もともと公募展は明治期の画家たちが自分たちの絵を発表することから始まった。もちろ

んフランスのサロンの真似だと思う。戦後、民主化が進み、会も巨大になってゆくと会を

支えることが難しくなってきた。そこで、画家としては修業も十分でない人々を会員にし

ていった。これが公募展凋落のシナリオ。いまや、公募展は奥様方のサロンともなってい

る。もちろん奥様方は真面目に絵画に取り組んでおられる。だから悪いわけではない。下

手なくせにエバったクソ爺たちの会より幾層倍もましだ。

また、先週、ある会の一般出品者のカタログをじっくり見たが、ちゃんと描いている人が

賞を取っている。レベルで賞が決まっている。これも一縷の希望。けっこうまともである。

私は人がたくさん集まることは何でも危険だと考える危険思想(?)の持ち主。宗教団体

や政治団体は一番怪しい。国会議員は最悪。オウムは極悪。第一お釈迦様はいつも一人で

いろと教えているのだ。

公募展も人が集まった団体。やっぱり危険である。それでも宗教や政治に熱中するよりず

っといい。金だってそれほど掛からない(と思う)。

 

反省の二。画廊のこと。先週の言い回しだと画廊では絵を買わなくてはならないような話

になってしまった。これは誤解を生む。原則として画廊は無料で絵を見るところだと思う。

いま生きている絵描きが描いたばかりの新作に出会える場所が画廊である。そこには一

番フレッシュな絵画活動がある。歌の世界でいうならライブハウスのようなもの。だから、フ

レッシュだが、荒削りだったり、全然見込みのないものもあったりする。と言うよりほと

んどの個展やグループ展は見るに耐えない。もちろん金井画廊みたいなところの企画展な

ら私のを除けば十分見ごたえがある。

問題は、これら画廊の展覧会を見るのは無料というところ。ここをしっかり肝に銘じてい

ただきたい。画廊は商店ではない。だから、95%見るだけの人ばかりである。それはい

い。画廊は絵を見る場所なのだ。

しかし、画廊は国や都などから援助をもらっているわけではない。画商がやっているのだ。

または、絵描きが場所を借りてやっている。ここのところをよーくお考えいただきたい。

私が銀座の貸し画廊で個展をやっているとき、初日のパーティ目当てに来る客もいる。残

念ながら私はパーティはやらない主義。他人の初日のパーティにも行かない。酒は飲めな

いし、チャラチャラしたところは苦手だからだ。家で寝っころがっていた方がずっと楽しい。

飲み物や酒をせがむような客も来る。一度は怒鳴りつけたこともある(私は喧嘩は弱いが、

怒鳴ると怖い)。ごく一般の貧乏人が数十万円のお金を掛けて絵を発表しているのだ。そ

んなヤツにたかるのは、タカリとしても最低である。しかもそのタカリ野郎が絵を描いて

いる人間だったりすると腹が煮えくり返るほどの怒りがこみ上げてくる。

こういうタカリの類は別格としても、画廊は無料で絵が見れるからと画廊巡りばかりして

いる人も少し反省して欲しい。ちゃんとした社会人であるなら世の中の構造というものを

考えるべきではないか。毎年でなくとも3年に一度(5年に一度でも)は絵を買うとか、

買いそうな人を紹介するとか、何か画廊に有益になることを考えてあげないと画廊はどん

どん潰れてしまう。

画廊やライブハウスは、その町、その国の文化程度のバロメーターでもある。バロメーター

だが、国や都県は何も援助していない。市民が勝手にやっている。ここが資本主義のいい

ところ。公共団体が援助しないなら愛好家が支えるしかない。私も金井画廊で企画しても

らう以上画廊側の人間と言えなくもないが、金井さんとは独立した関係である。むしろ、

私こそ金井画廊の経営を圧迫している張本人。強力な敵対人間。だからこそ、声を大にし

て申し上げたい。絵を見て、本当に心底感動したら買ってあげてください。予算がないな

ら仕方ないから誰か紹介してあげてください。みんなで画廊を支えましょう! 

なんか、反省すると言いながら論旨が先週と同じになってしまった(感じ)。

 

04年6月6日

このホームページをはじめ、いろいろなところで繰り返し述べていることは

「世界中の傑作絵画はほとんどすべてイッキ描きである」という話。

ところが、これがまったく行き渡らない。泣きたくなる。もちろん私自身はうんざりする

ほど繰り返し言ってきているが、私に会ってそういう話をする人はごく少ないし、このホ

ームページを読んでくださる方にも限りがある。このホームページを冊子にした「絵の話」

は第7集まで作ったが、それも百の単位で製作しているだけ。知れている。

考えてみれば行き渡るはずがない。

やっぱり絵を描く人の多くは絵をよく見ていない。本当の古典絵画を見ていない。どうし

ても自分ばかり描いてしまう。見るより描く、という人が多い。もちろんそれもけっこう

だが、見るのも大事だと思う。「見る」といってもただ眺めるだけではなく、問題意識を

持ってじっくり見て欲しい。たとえば筆触。筆のタッチ。これこそ本物でなければ十分味

わえないのだから、美術館へ行ったら是非まずは筆触に注視していただきたい。

モネもドガもセザンヌもみんな速い。ロートレックも速い。ドーミエも速い。誰も彼もほ

とんど全員イッキ描きなのだ。

東洋の水墨画はもちろんすべてイッキ描き。これはちょっと見歩いている人ならたいてい

ご存知。

問題はやっぱり油絵だ。

油絵は何ヶ月も掛けて少しずつ描くものだと思い込んでいる方が、どういう訳か少なか

らずおられる。本当に困る。いったいいつどこらあんな観念がはびこったのだろう。テレ

ビのせいだろうか? CMやドラマで絵を描いている場面などが出ると、クラシック音楽

などを聞きながら、コーヒーカップを片手に優雅に作画に取り組んでいる。あれがいけな

いのかもしれない。

私が最近絵画教室に持って行く画集はモランディ、マルケ、ヴィヤールのもの。3人とも

もちろん一回描きだ。薄描きであることは画集を見てもはっきりわかる。筆の跡がけっこ

う乱暴に残っている。それでも少し離れて見ると、バックは空に見え、室内ならば離れた

壁に見える。その見事な業を味わっていただきたい。

どうしてそれほどうまいのか? それはデッサンが出来ているからなのだ。絵とはまずは

デッサンなのだ。デッサンがなければ始まらない。これが土台である。土台がなければ家

は立たない。99%のデッサンに少し色を置いておけば絵は出来る。すごく単純なものだ。

単純だから難しい。単純だから思いがこもる。単純だから瞬時に描ける。そして、ほとん

どの絵は失敗する。うんと描いてほとんどボツ。これが絵の描き方。うまく行った絵だけ

残しておく。個展で飾る。褒められるはずである。舞台裏はてんてこ舞いなのだ。

だから、いい絵の具といいキャンバスを使いたい。

 

04年6月13日

ここのところ、「最近の絵」を全然更新していない。「最近の絵」はこのトップページで

ご紹介した絵を数枚まとめて再アップする。だいたい毎月1回更新すると4〜5枚、6週

間で6枚。これが望ましいペースだ。ところが去年の秋ぐらいから12枚とか18枚にな

ってしまった。タイトルも「今月の絵」から「最近の絵」に変えた次第。今は24枚ぐらい溜

まっている。これではタイトルをさらに変えて、「最近の絵のエッセンス」にしなければ

ならない。つまり、24枚の中から10枚ほどに絞り込む必要がある。

こんなになってしまったのには、いろいろ事情があるが、実はCD作品集を作っている。

カラリオ作品集はもう一つぱっとしなかった。もちろん売れ行きも悪かったが、注文が来

ても全然楽しくないのだ。経費は掛かるし手間もかかる。あれではもちろん商売にならな

いし、商売抜きの自己宣伝にさえならない。とても対応しきれない。そこで、CD作品集。

これなら手間はかからないし、費用も安い。売値を1000円にしても自分自身納得で

きる(おそらく)。そのうえ、収録作品数は3倍。150点ぐらい収められそう。購入者

は好きな作品をプリントアウトすればよい。その際に、高画質モードでやってもらえば、

上質の複製画が出来る(ハズ)。これはインターネットのホームページをプリントアウト

してもよさそうだが、実際には不可能。とても複製画になるようなプリントは得られない。

CD作品集でなければ無理。解像度が全然違うからだ。

こういう話を大雑把にホームページに公開してしまうと、真似をする人がいっぱい出てき

そうでちょっと背筋が寒くなるが、重要なのは公開システムのオリジナリティではなく、

作品のオリジナリティなのだから気にすることもないかも。むしろどんどん真似をしても

らって作品で戦った方がいい。

私のCD作品集は消費税、送料などすべて込みで1000円ぐらいと思っている。とりあ

えずはパソコンに高画質で収めてある1〜2年間の絵で作る予定。好評で、続けられそう

なら昔の絵もちゃんと集めてCD画集にする、って感じだろうか? CD作品集のほうは、

ここ1ヶ月間ぐらいに出来るはずだが、まずはご期待ください。ところが、この5月の金井

画廊の個展の絵をほとんど撮ってない。だからもう一つ役者不足。あれからも新作をどん

どん描いているが、どうだろうか? 

たとえば、上の2点『春爛漫』と『黄金のバラ』はない。この写真は金井画廊で盛装して

いる姿。当然キャンバスはクレサン、絵の具はブロックスである。 

 

ところで、なるびクロッキー会の回数券制度を開始した。6回分だと10000円(1回

1700円以下)、13回分は20000円(1回1500円余り)。ちなみに通常1回

2000円。ふるってご利用ください。もちろんクロッキー会はちゃんと継続して行く所

存です。回数券の有効期限はなし。

 

04年6月20日

ホームページのアクセス数を増やすには、まず、地道に毎週更新すること。これが第一だ

と思う。そういう地道な努力(?)を前提として大きく伸ばすのは、どこかの掲示板に書

き込むといいかも。先週、インプレッションさんの表紙の絵(コーヒーカップの水彩画=

この絵は私の表紙の絵とは違い、いつでも見られる)がよかったのでインプレッションさ

んの掲示板に書き込んだせいか、週間アクセス数が400を超えた。そういえば、以前は

大分のアートギャラリー美慶さんの掲示板に書き込むとアクセス数が増えた。

ちなみに、インプレッションさんは青森在住。大分とか青森とか、やっぱインターネット

はスケールがでかい!

 

それにしても絵の話は難しい。少し前のこの項でデッサンの必要性を強調した。無論デッ

サンは絵画の命である。しかし、「私はデッサンが描けます」ということがことさらに強

調されている絵もある。そういう絵はいただけない。美術研究所に何十年も通った人の絵

なんかにはそういう絵も少なくない。デッサンが目的になってしまっている。デッサンは

あくまでも手段。まず伝えたいことがあり、そのためにデッサンを利用する。デッサンと

いう言葉を「絵のうまさ」と置き換えても同じこと。うまいだけの絵はいらないのだ。

伝えたいこと。それはまず感動だと思う。美しいものや素晴らしいものを見たときの感動

ではないか? さっきも台風前の海を見に行ったが、いくら見ていても飽きない。波の動

きは千変万化。まこと凄まじい。風に揺れる緑の木々も見飽きない。空気の層が美しいの

だろうか? 

裸婦や花は対象そのものが美しい。そこにはもちろん空気の層もある。キャンバスとパレ

ットがあり、筆を持ってその場に立っていられるというのは、極上の幸福である。たっぷ

り画溶液をしみこませ、絵の具も十分吸った太目の筆の最初の一撃でほとんどの絵は決ま

ってしまう。まずは描く前にじっと見ることである。

絵筆で何をしたいのか。描いた絵を売って金儲けをしたいのか。褒めてもらいたいのか?

絵描きになりたいのか? いったい何がしたいのだろう?

金も欲しいし、褒めてももらいたい。しかし、根本はそんなところにはない。本物の絵描

きだったら、対象(空想でもいいと思う)とキャンバスと絵筆があるだけだろう。

そういう絵を目指さなければならない。

また、そういう絵が見たい。

それは、ギリシア彫刻であり、ミケランジェロの絵や彫刻であり、レンブラントであり、

ドガである。こういうクラシックを感じさせない絵は絶対にダメ! 写真を見て描いてい

る絵など話にならない(=写真を見て描いている絵は物凄く多い)。そういう絵を売って

プロの画家気取りになっている奴も多い。ま、相手にしないことだ。どうせバカばかり。

人が生きていくために、どうやって金を稼いだっていいに決まっている。泥棒とか詐欺で

ない限り、ちゃんとした仕事なら何だっていいのだ。まったく、プロだとか何だとかうる

さい。絵を知らない奴に限って、そういうつまらないことにギャアギャア言う。

中村彝は兄の軍人恩給で食っていたし、長谷川利行は乞食。佐伯祐三だって絵が売れたの

は佐伯が死んでから。ドガやセザンヌもずっと家の資産で生活していた。ちゃんとしたい

い絵は売れないものだ。絵の分かる人なんていほとんどないのだ。そんなこととっくの昔

からの常識。

重大なのは、この世界には感動できるものがあちこちにあり、描き切れないぐらいあちこ

ちにあり、われわれにはそういうものを見るとむずむずする右手首がある。これが絵描き

であるための最低条件であり、これ以上でも以下でもない。他のものは何もいらない。

 

04年6月27日

人は何がやりたいのだろう? 何が欲しくて、何が望みなんだろう。どうなりたいのか?

まず金が欲しい。だけど、蔵が建つほどは要らない。普通に暮らせれば十分(こういうキ

ザで甘い考えは絶対に金を呼び込まない!)。

金は諦めるとして、次に取り合えず気持ちいいことが出来ればいいか。しかし、他人が絡

むとめんどくさい。他人が絡む気持ちいいことと言えば、異性との交渉。これが第一だが、

これは面倒なことでもナンバーワンだ。色恋沙汰は若い人に任せておいた方が無難。年寄

りがやりたがるのはやたらエバること。他の人を支配下に置く。少年野球のコーチなんか

にときどき怪しい人がいる(ま、ほとんどのコーチはボランティアで立派な方ばかり)。

会社の上司なんかで全然お金は出さないくせに若い者を引き回しエバりたがく輩もいる。

大体が最低の人間。

ひとりで楽しむ気持ちいいことといえば、酒を飲んだりパチンコをしたり、健康を考える

なら魚釣りか? 魚釣りも魚が可哀想かも。ちなみに、私の父は小鮒釣りが大好きで、魚

の神様の祟りから肺ガンに犯されたのではないかと察している。だから、私は父が死んで

から小鮒釣りを断った。

もうお分かりのように、結論は「絵を描くこと」に落ち着く。

しかし、油絵は臭い。家族に多少迷惑がかかる。

絵を描く最大の理由は「気持ちいいから」ということになる。他人に迷惑がかからないし、

健康にも悪くない。私のような現場主義者は外で描くことも多いので特に健康によい。い

や、まったく気持ちいい。先週と同じような結論になってしまうが、これ以上でも以下で

もない。

ところが、絵を描き始めると、やっぱり褒められたくなる。これが諸悪の根源。実際には

褒められたって大したことはない。気持ちよければいいんだから。しかし、これがなかな

か難しい。

褒めてもらいたい。うまいと言われたい。公募展に入選したい。賞が欲しい。地位が欲し

い。尊敬されたい(=エバりたい)。さらにエスカレートして個展をやって絵を売る。絵

で生活する。絵描きになる。とこうなる。

いま絵を描いているあなた、その瞬間はもうすでに完全なる絵描きですから! それで全

部ですから! 褒められも入選も賞もステータスもエバりも個展もプロも一切すべて迷い

ですから! 人が何と言おうと関係ないですから! 自分の絵を描いて気持ちよければ、

それで完結ですから!

と、ここまでが大前提。しかし、絵のレベルがあまりにも低いのでは寂しい。やっぱり上

達したい。高レベルのところで楽しみたい。そこで古典絵画が必要になる。昔の彫刻や絵

が見たくなる。模写をしたくなる。画集を買い、美術館へ行き、また自分でも描く。こう

いう世界に入ってゆく。これが楽しい。ヘナチョコ画壇でステータスごっこをやってるよ

りずっといい。

以上がわがイッキ描きの世界である。

実は美術なんてどうでもいいのだ。重大なのは人が平和に生きるということ、これだけで

ある。イライラしてはいけない。

 

04年7月4日

上にお知らせしたようにテレビに出ることになった。もちろん、放映されるかどうか、絶

対的な保証はない。とにかく明日撮影とのこと。

そのなかで、ベラスケスの最高傑作(と言われている)「ラス・メニーナス」の話をする。

ベラスケスというのはディレクターさんからのご指摘。そこで、むかし読んだベラスケス

を引っ張り出しあれこれ復習する。

17世紀のヨーロッパ世界に入り込んでゆく。同時に若い頃の自分に戻ってゆく。なかなか

楽しい。ベラスケスもだが、ルーベンスやらプッサンやらレンブラントやらよく追い掛け

回したものだ。女の子も追い掛け回したが、上記のようなバロックの巨匠を追い掛け回す

ことでエネルギーが分散され、ストーカー行為で逮捕されずに済んだ。

大昔の巨匠を追い掛け回すとは、画集を買う、美術館へ行く、美術展を探す、模写をする

などなど。けっこう忙しい。

以前にも、絵画三銃士━筆技の極み(バロック絵画の妙技)で申したとおり、17世紀のヨー

ロッパの油彩画は一つの頂点を極めた。19世紀のフランスアカデミズムの油彩技法とは根

本的に異なる業の極致である。それは、まさにイッキ描き。あの驚くべき写実絵画はほと

んど瞬時に仕上げられているのだ。ここのところはテレビでもお伝えしたい。制作ディレ

クターもその解説を望まれておられる。いま書店に並んでいるTASCHEN社の「ベラスケス」

の図版でもその辺のところははっきりわかる。

絵筆を持つわれわれはこのような古典絵画の妙技をよく知るべきである。今朝もNHKの

「日曜美術館」でローマ彫刻「棘を抜く少年」の解説で、ローマよりさらに古いギリシャ

彫刻では神や女神の像を作っていたが、ローマになると、何気ない少年のしぐさを彫刻に

する、というように日常的な情景を表現するようになった。などと言い、これは美術が進

歩したからというような言い回し。その解説を受けて聞き手のアナウンサーが「現代彫刻

のようですね」などと答えていた。いつも言うように現代のものは、彫刻でも絵画でも最

低劣悪である。神や女神を作っていたギリシャが最高。「棘を抜く少年」のローマはガク

ンと落ちる(落ちると言っても十分凄い)。何が、現代の美意識だ、馬鹿馬鹿しいことを

言ってもらっては困る。現代の美意識は最悪。自分たちの足元である地球を破壊しようと

いうような意識なのだ。全然ダメ。話にならない。以前この項でも述べたが、朝日新聞の

「折々の詩」で大岡信が幕末の歌人の和歌を現代の和歌に比べても引けを取らない、とい

うような意味のことを書いていた。ふざけてもらっては困る。緊張感あふれる時代に生き

た幕末の歌人が、こんなダラダラした現代日本の歌人に負けるわけがないではないか! 

当たり前すぎる。

とにかく、古典は凄いのだ。

われわれが絵を描くとき、手本とすべきは古典である。それ以外にはない。全世界の古典

芸術を師とすべきである。生身の人間は不要なのだ。特にエバっている先生は要らない。

よく見て模写をすればよいのだ。ただそれだけだ。本当の絵画世界とはそういう世界であ

る。だって、昔の巨匠も更に昔の巨匠を模写しているもの。これが自分の絵を高いレベル

に保つ唯一無二の方法だと思う。ローマ彫刻なんかほとんど全部ギリシャ彫刻の模写なんだ

からして。

 

04年7月11日

また、一週間が過ぎた。何という速さだろう。「最近の絵」の更新が全然出来ない。いっ

ぽう、月曜日は朝から上記のテレビ番組の収録を行った。遠い昔の出来事だったような感

覚。時間の感覚というのはまこと不思議。

テレビ収録は、ほとんどが初めての経験で不慣れなことばかり。カメラが回り始めて、ベ

ラスケスの話となったら、私は舞い上がってしまい震えだすのかと思ったら、けっこう普

通にしゃべれた(ような気がする)。こういうときに丹田呼吸は実に役に立つ。

とにかく、18日に放映される運び。今朝も「美術はたのしっ!」を見た。予告を見てい

たら、来週のテーマは「ベラスケスの『ラス・メニーナス』」。私への課題と同じではな

いか! これは本当に5分ぐらい放映されるかも。ま、90秒がいいところだと思うが。

でも、あんなに宣伝してくれたのに出演料までくれるらしい。となると、けっこう長いか

も。

 

ところで、「最近の絵」の更新もはかどらないが、「CD作品集」もちっとも進まない。

アナログの作品集「躍動」の販売は打ち切り、CDに移行したい。が、どうも難しい。今

週中に何とかしたい。

 

04年7月18日

ついに本日朝8時30分、私のハゲが全国に放映されてしまった。

だいたい前回予告した通りの放送だったと思う。ただし放送時間は90秒ぐらいか?

収録中はちゃんと丹田呼吸をやっていたので上がることもなく、普通にしゃべれたし、普

通に絵も描けた。上の絵がイッキ描きの実演で本日放映された作品。実はこの前にF3号

に試し描きをやった。そっちも悪くない。上の絵にも狂気がある。特別な状況のなかでし

か出来ない絵だと思う。

それにしても、テレビというのは不思議な機械だ。いくら取り繕っても自分の真の姿がす

べて映し出される。まったく修行が出来ていないのがよくわかる。全然ダメ。こんな経験

は二度とないだろうが、とにかくもっとがんばらなければ。ナニヲ?

ところで、朝青龍はすごい。北勝力と比べるとよくわかる。先場所優勝争いまでした者同

士。今場所の成績で歴然と格差がついた。朝青竜は自分の精神と体調をちゃんと維持し続

けた。並外れた人間だと思う。チョウニクラシイケドネ。

 

ほとんどがグループ展だが、上記のように展覧会が目白押し。みなさま、おそばを通りか

かったら覗いてみてください。不明の日時などはわかり次第記します。

 

04年7月25日

鮮烈なテレビデビューから1週間。驚くような反響もなく、寂しい真夏日を過酷に暮らし

ている。

テレビの視聴率は20%が最高級。一桁台前半(5%とか)が続くと番組が打ち切りにな

る。しかし、視聴率1%でも100万人の人が見たことになるという。ちなみに私のホー

ムページは7年半もやっていて7万6千あまりのアクセス数である。これでも個人ページ

としては多いほうだと聞く。テレビは圧倒的に凄いのだ。

さらに、私のイッキ描きの実演は数秒流れただけだが、10分間で描き上げた様子がはっ

きりわかり、その過程も臨場感あふれる様子で伝わったと思う。凄いことだ。もっとも、

今はインターネットでも動画が流せるのは当たり前らしい。ま、しかし、実際にはなかな

かできない。私なら1000年経ってもやらないだろう。

とにかく、私はこの時期忙しい。ちゃんと仕事をしている。人並み以上かもしれない。普

段もこれぐらい仕事をしたらもっと家族に喜ばれるのだが。ゴメンナサイ。

 

04年8月1日

7月、8月は物凄く忙しいが、金の心配はしなくてよかった。ところが、今年は7月が乗

り越えられるか怪しい気配。と言いつつ8月になってしまった。支払いの山は月の中盤に

一つ、後半に一つ、そして5日ごろにまたある。この8月前半の山が危ない。寅さんに出

てくるタコ社長そのものである。

そう言えば、7月22日に54歳になったのだった。この3月には真昼の大空に鳳凰を見

た。実際には鳳凰の形をした雲を見ただけだが、その大きさと現実性には度肝を抜かれた。

そして、54歳。5と4を足すと9である。これはカブ。博打の世界では最も縁起のよ

い数字。いよいよ私の時代が来る! ……ハズ。ま、馬鹿なこと言ってないで地道に働く

方向で考える。

 

中野孝次さんが死んだ。78〜9歳だったと記憶する。平均寿命だが、死ぬにはちょっと

若い気もする。どこかの癌だったらしい。癌で死ぬのはボケることもなく、介護も短い。

家族にとっては楽らしいが、みなさんちょっとお早め。私の父も肺癌だったが、74歳と、

現代としては早いほう。

中野孝治の本はいっぱい読んだ。この項でもよく取り上げた。「清貧の思想」以降はほと

んどすべて読んでいるぐらい。中野孝次の長所はまず第一に正直なところ。自分に不利な

話でも正直に語る。

ドイツ文学が専門だったが、45歳ぐらいから東洋思想に大きく傾いた。特に道元、良寛

について詳しい。絵のことなど、いろいろなところで私とは意見が食い違うが、大雑把に

捉えれば、十分私を楽しませてくれた。「道元断章」(岩波書店)で引き込まれ、「風の

良寛」(集英社)ではまり、「良寛の聲が聞こえる」はさらによかった。ちゃんとした学

者先生ですべて原典に当たって書いている。古典の読解力は相当のレベルらしい。こっち

のレベルが低くて正確な判定はできない。相当凄いことだけがなんとなくわかる。ま、本

に対する思い入れが違い、本を読む量とスピードが根本的に異なるのだと思う。ご冥福を

お祈りします。

 

昨日ついに行ってしまった。一生行くことはないと思っていた。そして、今は二度と行く

まいと思っている。六本木ヒルズだ。MOMA展の招待券が手に入った。

まず、MOMA展。「モダンってなに?」というテーマ。大昔からこんなテーマばかり。

この話ばかり。そして、ちゃちな電気仕掛けのゲイジュツを拝まされる。毎日電気紙芝居

(=テレビ)を見ているわれわれは電気じゃもう驚かない。ただ夜12時まで開催してい

るというのがいい。夕方出かけたおかげで、帰りはすっかり夜も更けて満月直前のお月様

にめぐり合えた。地上54階から見る月は素晴らしかった。いっぽう、地上54階から見

た隅田川の花火は物凄く貧弱。近所の公園でやる線香花火のほうが迫力があるぐらい。そ

して、満月に照らされた帰り道で自分自身の影の深さと美しさに驚いた。街灯で出来る影

とはまるで違う。月までの遥かな距離と巨大な光源が深い影を生むのかもしれない。人間

の作り出した光は小さく貧しい。そんな光をこねくり回して作った仕掛けもつまらない。

現代美術などとエバってもすでに20年も30年も昔の作品。全然面白くない。この展覧

会でよかったのはモネやゴーギャンの油彩画。エゴン=シーレのデッサン。特にシーレの

裸婦に惹かれた。

何度も言うように、重大なのはラスコーの壁画(私は現物を見た)以来連綿と続く人の「

描く」という行為の中の喜びなのだ。線を引く、優しくなでる、グッと力強く止める、は

たまた伸びやかに大きく刷く。点々をリズミカルに置く。そういう動作が絵を描くことで

あり、ここにすべてがあるのだ。左脳で考えたご大層な美学はいらないのだ。

それにしても、六本木ヒルズとはセコい建物だ。何階建てだか知らないが、50も60も

フロアーを作って土地の有効活用だろうか? 私は町田の田舎者だが、こっちにはまだま

だ豊かな自然がある。鳥や虫たちの棲家がいっぱいある。目を上げると緑だらけだ。木陰

はありがたい天然クーラー。贅沢の極致だと思う。ここに暮らして飯が食えたら絶対に私

の勝ちなのだが、どうも敗色が濃い。もちろん負けるわけには行かないから、負けないつ

もりではいる。

 

 

最初のページ           「唇寒集」目次