唇 寒(しんかん)集16<03/10/26〜04/1/25>

 

03年10月26日

都心に全然行っていない。上野も行っていない。テレビの美術番組もほとんど見ていない。

絵の本もさっぱり読んでいない。絵について最近思うことは「もっともっと描かなければ!」

という程度。若い頃とあまり変わらない。というわけで、あまり書くことがない。

上の絵は最新作です。

本日の更新は「唇寒集15」です。

 

03年11月2日

久しぶりに昨日上野へ行った。西洋美術館のレンブラント展が目当て。他にピカソ展や大

英博物館展もやっていた。が、レンブラントを見ただけでもうすでにフラフラ。それでもがん

ばって東京国立博物館に向かう。狩野永徳展とか伊能忠敬の地図展、ダイヤモンドの飾り

展などの特別展をやっていたが、一切見ずに東洋館に進む。最上階の中国宋元の水墨画の

部屋。いつも、各階の展示を見ながら上って行くのだが、昨日は初めてエレベーターを使っ

てみた。やっぱりエレベーターはいい。

中国絵画の部屋は6階(最上階)だとばかり思い込んでいたら、エレベータでは3階だっ

た。だけどやっぱり最上階。つくりがごちゃごちゃしていてよくわからない。帰りは各階

の展示を見ながら階段を下りた。

昨日は文化の日の前の日だからか、庭園を開放していた。東博の庭園に入るのも初めて。

脚がパンパンなのにがんばる。

帰ろうとしたら、長谷川等伯の松林図屏風を特別展示とある。老骨に鞭打って本館に入る。

文化の日の連休とはいえ、サービス過剰である。ここでもエレベーターに乗ってみたが、

金井画廊のエレベーターより怖いぐらい。

 

さて、レンブラントだが、やっぱりいい。レンブラントについては何度も書いているので

同じことの繰り返しになってしまう。今回はレンブラント派と銘打って弟子や周辺画家の

絵もたくさん来ていた。比べると、レンブラントは格段にいい。何がいいのかわからない

けれども、とにかくいい。色がよく付いているとか、絵が透き通って見えるとか、文字に

書けばそういうことだ。絵画に対する態度がいいのだと思う。ここが一番の要なのだ。つ

まり、影をつける場合でも、ハイライトを入れる場合でも、ま、とりあえずは対象を正確

に描写するために入れる。ふつうはそうだ。弟子や周辺画家はみんなそうしている。レン

ブラントだけは違う。レンブラントはそうしたくて、色を置きたくて、絵の具を付けたく

て付けているのだ。そこのところが根本的に違う。描くこと自体が目的で、写実とか描写

とか効果などは結果に過ぎない。もちろん考えているし、効果が出れば嬉しいのだが、そ

れは本来の目的ではない。描くこと自体に喜びがあり、目的がある。それがレンブラント

の筆触だ。とにかく、本物の大きな油彩画がはるばる海を渡って来ているのだから、見に

行ってください。レンブラントの筆使いを現物で堪能してください。12月14日までや

っている。等迦展と重なるので、等迦展もよろしく。

次は中国絵画。やっぱり文化の日連休だから超一級品が並べてあった。まことにハッピー。

伝石恪の「二祖調心図」が目に飛び込んでくる。続いて梁楷、馬遠、因陀羅とズラズラ。

入って右のケースには李迪(りてき)の「紅白芙蓉図」。フロアー真ん中の陳列ケースに

は「瀟湘臥遊図」が全巻。反対側には伝陳容の「龍」と夏珪の「山水図」が。その他、見

たい絵が軒並み。もっともここには牧谿はない。東京国立博物館様、本当にありがとうご

ざいました。

水墨画は禅宗の絵画である。もうそういう世界はわれわれにはわからない。とにかく見て

いると胸がスーッとするのだ。勢いよくさーっと描いてある。肝心なところ。人物の目な

どは細い筆で描いてあるが淀みはない。すすっと描いてある。速描きだが重厚で空間も確

か。不思議な絵だが、とにかく目の前にある。まさか宇宙人が描いたわけでもない。こう

いう精神状態に達した画家がいたわけだ。心技が頂点に達してできた絵だとしか思えない。

そういう意味不明な精神主義はいただけないが、文句のある人は博物館で見てください。

でも、今日で展示替えかも。

本館は日本の絵や陶器。東洋館に比べるとだいぶ落ちる。ちゃっちい。長谷川等伯の松林

もつるつるして見える。おっと、「松林」の悪口を言うとあちこちから文句が来る。なにしろ

日本最高の水墨画。水墨表現の極地らしいから。私はタイムマシンで等伯に会って訊きた

い。絶対、牧谿など中国水墨画が最高と言うはず。誰が見たってわかる。一目でわかる。

焼き物だって宋の白磁や青磁はキーンとした緊張感に満ちている。日本の古九谷なんて問

題じゃない。いやいや、古九谷もいいですよ。認めますよ。だけど、よく見比べなきゃ。

現代のものなんて全然話にならない。みなさん博物館に行ってください。とにかくいいも

のをたくさん見てください。

本日の更新は「唇寒」のみです。

 

03年11月9日

11月26日に運送屋が絵を取りに来る。それまでに仕上げなくてはならない。100号

2枚。まこと馬鹿馬鹿しい重労働。止めても誰も困らない。100号なんて描いたって誰

も喜ばない。悲しい独り芝居である。去年は最高級の賞までもらったが、それで絵がよく

売れたわけでもない。もっとも、まさかあんな絵に賞がもらえるとも思っていなかった。

実はすでに2枚描いた。もちろん失敗。その2枚目の絵は今も私の脇にある。見られたも

のじゃない。だから見せられるはずもない。こんな調子で26日までに絵ができるのだろ

うか。

今朝の朝日新聞の書評欄にモランディ(1890〜1964)の本が紹介してあった。モランディは

イタリアの画家。静かな静物画や風景画を描き残した。ああいう画家を想うと、じっと地

に足がついた暮らしをしなくてはいけないと強く感じる。絵も一筆一筆大切に、描ける喜

びに感謝しながら、じっくり丁寧に描かなければいけない。もちろんこれはのんびりぐず

ぐず描くということではない。

本日の更新は絵画教室第7弾「風景を描く」です。

 

03年11月16日

100号搬入の日が刻一刻と近づく。絵は全然出来ない。さすがの自信過剰バカ親爺もまっ

たく意気消沈。情けない精神状態。出来上がる絵はグチャグチャぼろぼろ。「俺ってこんな

に下手だったっけ?」と、自分で自分に呆れ果てる。

今さら描写力をつけても間に合わない。とは言うものの、79だか80歳だかで亡くなっ

た六代目三遊亭円生は50歳を過ぎて芸を磨いたという。私の父も50歳を過ぎてからた

いへんな量の絵を描いた。毎朝毎朝デッサンを描き続けた。最晩年のモネの精進も素晴ら

しい。「まだまだこれから!」と思ってみても、とにかく今年の絵には間に合わない。

フォーヴがあってピカソがいた。もうそれだけでわれわれは自由自在だ。好き勝手に描け

る。形も色もどう描いたっていいんだ。どこからも文句は来ない。第一、何の制約も受け

ない私がどんな絵をどんな風に描いたって誰からも怒られるわけじゃあない。

長津田駅構内の本屋の包装紙は棟方志功の人物版画。あんな一世代も前の絵描きなのに自

由勝手に描き殴っている。自分の小ささが情けない。

俺たちは描きたいものを描きたいように描けばいいんだ。徒弟制度もないし、教会もない

し、王様、諸侯もいない。思いの丈をキャンバスにぶつけるだけ。考えてみれば、こんな

幸せはない。こんな自由はない。

しかし、別な見方をすれば、こんな恐ろしい状況はない。全部すべてガラス張り。

ま、どうジタバタしたってこの己からは逃げられない。勝手にしやがれ、ということ。

 

03年11月23日

横浜の関内駅近くの公園にロダンの彫刻がある。「瞑想」という女性像。45歳のときの

作品だ。

やっぱりどうしてもロダンはいい。ロダンの画集を見直すと、ますますいいと思う。私の

持っている画集は集英社版とタイムライフのもの。それから1967年のロダン展のカタ

ログぐらい。安物ばかりだ。黒い表紙の単行本があるが、それはちょっと高い。たまに図

書館で借りて見るだけ。クロッキーの画集はいいのを3冊持っている。どうしても絵のほ

うに興味が行く。第一、彫刻は立体なので画集での再現が難しい。少なくとも6方向ぐら

いからの写真が見たい。斜め下や上からの角度も欲しい。写真家が意欲を見せてライティ

ングに凝ったりすると細かい部分がよく見えない。ま、写真自体が芸術なんだろうが、こっ

ちはロダンが見たんだからゲイジュツは勘弁してもらいたい。

それにしても、本当にロダンは理解されているのだろうか? ロダンがいいならもう少し

私の裸婦も売れそうなものだ。

コマーシャルはともかく、ロダンが素晴らしいのは、ロダンの彫刻にはいつもギリシャが

あるからだ。ピカソの絵にもギリシャがある。やっぱりギリシャはすべてだと思う。われ

われはただただギリシャに憧れてギリシャを慕って、幼い子供がお父さんの真似をするよ

うにギリシャの線を求めて生きているだけなのだ。ただそれだけ。ただそういう一生であ

る。それだけで十分満足なのだ。まことにギリシャ彫刻にはいくら語れど語りつくせぬ魅

惑がある。それは人間の本源に関わる造形だから。生の喜びと性の歓喜が脈打っている。

生と性、これは人間のすべてである。いや、生物の根本である。その一番グッと来るとこ

ろにドーンと押し寄せてくるのがギリシャ彫刻の線であり、肉付けであり、塊なのだ。

本心私は鉄道も好きだ。あのレールが曲がっているところに、力強く大きな電車が入って

くるとたまらなく胸が躍る。鉄道模型も楽しい。複雑に鉄路が絡み合う東京駅とか上野駅

は最高! 遠い遠い田舎からやってくる列車はなぜか懐かしいし、これから山々を越えて

遥か海辺の町に向かう列車も、意欲に満ちていて逞しい。

ま、とにかく鉄道は楽しいのだ。

しかし、それよりずっとのめりこめるのがギリシャ彫刻。比べるのもヘンだが、この気持

ちをわかってもらいたいからなんでも比べちゃう。おそらくきっとロダンもピカソも同じ

気持ちだったと思う。ロートレックの絵にもそういう線がある。私の勘違いで全然的外れ

かもしれない。ただの独りよがりかもしれない。ま、どうでもいい。楽しいんだから私の

勝手である。でも、おそらく私のほうが正しい。間違いない(漫談の長井の口調で:ご存

じない方スミマセン)。

 

ちなみに、100号はいまだに出来ていない。

 

本日の更新は絵画教室第8弾「静物を描く」です。

また、本日からひとまとめに絵画教室のページを新設。

 

03年11月30日

今年も不本意のまま2枚の百号を上野に送った。不本意だろうが何だろうが百号を描くの

はこの時期だけ。やっぱりどうしても続けないわけには行かない。百号をやっていると、

絵の具だらけになる。身も心も油絵三昧。なんだか血液までが画溶液になっちまったよう。

こうなると、絵もうまくゆく確率が高くなる。本来ならいつもこういう状態でなければい

けない。しかし、実際はなかなかそうとばかりも行かない。この辺は運動選手と一緒。心

身を調整してがんばる。春の個展と秋の上野で精一杯。

もっとも、個展の絵はいつも描いている。

百号はモデルなしで描くから大変である。失敗ばかり。だからついついギリシャ彫刻の写

真の本ばかり見てしまう。こんなによくギリシャ彫刻を見るのもやぱっりこの時期。

ギリシャの本で一番おすすめなのは岩波新書(青)の「ギリシアの美術」。新書なので写

真は悪いが著者の澤柳大五郎が精魂傾けて書いている。「ああ、本を書くときは、このよ

うな気持ちでなければならないのか」と驚嘆する。ついでと言っては何だが、同じ岩波新

書の「仏教」(渡辺照宏)も素晴らしい。

つまらないのがNHK(日本放送出版教会)の「NHK大英博物館3:ギリシャ・パルテ

ノンの栄光」。本の終わり頃に大量に出てくるパルテノンの復元は止めてもらいたい。ギ

リシア美術の清新なエネルギーからどんどん遠ざかる。澤柳先生が嘆いているローマの模

刻のほうがはるかにまし。第一、パルテノンの本尊がそれほど大事だろうか。それは、原

作の本物を見られるのなら是非見たいが、それは絶対無理。木っ端微塵に壊れてしまった

のだ。それなのに、金ぴかテカテカなつまらない復元像に貴重なカラーページを割く。そ

んなものより、大英博物館の本物をいろいろな角度から見せて欲しい。私がこの本を買っ

た訳は86ページのネレイデス・モニュメントが目当て。最盛期を少し下るこの彫刻群に

出会ったときの驚きは忘れられない。薄い布をまとって踊る半裸の女性像はまさに女神。

これが本当に大理石なのかと疑いたくなる完璧な肉付け。鑿の一彫り一彫りには、もちろ

ん原作者の意欲が漲っている。ところが、この写真がなかなかない。やっと手に入れたの

は全部英語の3万円ぐらいした洋書(THE ART OF GREECE ABRAMS)。そのあと、この本を

見つけた。

おすすめの写真集は古本屋でよく見る「図説パルテノン」(中尾是正・グラフ社)。澤柳

先生のものでは講談社の世界の美術館の「ギリシア国立美術館」。このシリーズは写真の

ピントに凄みさえ感じる。こんなようなことを前にも書いた気がするが、おすすめなので

何度でも宣伝します。

 

本日の更新は「唇寒」のみです。

03年12月7日

家内が私の絵を乱暴だと言う。ま、だから売れないと言っているのかもしれない。しかし、

絵は商品ではないのだから、突然丁寧に描けと言われても困る。何度も言うように、絵が

売れることは嫌ではない。売りたくないとは全然思っていない。私の絵でよければ是非買

っていただきたい。しかし、絵は売る目的で描いているわけではない。売れるのは結果で

あり、それは嬉しいことだ。だって、絵はどんどんたまり、2つの物置もいっぱい、貸し

倉庫もいっぱい、どうにもならない。売れれば少しははける。それに、買ってくれた人は

絵を大切にしてくれる。それも嬉しいことだ。

家内と西洋美術館に行くと、行くたびにモネの絵を見てびっくりする。物凄く乱暴に描い

てあるからだ。だいたい美術館にある絵はけっこう乱暴に描いてある。いっぽう、銀座の

ギャラリーにある絵はすこぶる丁寧である。

モネに限らず、フォーヴの諸作はもちろん、ピカソもミロも乱暴である。

学芸員の方に言わせれば、それは「乱暴な絵」とは言わず「勢いのある絵」というべきである、

となる。

私の絵は乱暴なだけかもしれない。

それではなぜ乱暴に描いてしまうのか?

それは、無論いい加減な気持ちからではない。私はかなりいい加減な人間だが、絵を描く

ときはけっこう真面目なつもりだ。それが証拠には、私と一緒に描いている人が私の絵を

買ってくれることでもわかる。一度などはできたてのほやほやをご所望になられた。

おそらく、昔の偉い画家はピカソもマチスも狙いは同じだったと思う。ロダンもロートレ

ックも同じ狙い。この私の予想が外れると、私の人生はすべて無駄になる。ま、もっとも

正解は誰にもわからないのだから、私は自分の予想を信じてこれからも描き続けるつもり。

予想とは。

目の前の対象を瞬時に写し取ること。古代ギリシャの彫刻家のように。

これである。

この説に従ってもう一度昔の巨匠の画集を見直していただきたい。

本日は決定的な告白でした。

したがって、本日の更新は「唇寒」のみです。

 

03年12月14日

モネやロダンやロートレックの狙い。それは

「目の前の対象を瞬時に写し取ること。古代ギリシャの彫刻家のように」

と先週述べた。

この狙いは上記3画家だけではない。ミケランジェロもティチアーノもルーベンスもみん

な同じだったはず。

これが本物の絵描きや彫刻家が狙ったもの。

以上が私の予想だった。この予想というか推論、または憶測。これが正しいかどうかは知

らない。どうだろうが、もうこの歳になっては取り返しはつかない。一応長い年月をかけ

て何回も確かめてきたのだからまず絶対間違ってはいないとは思う。

どうであろうと今の路線を進むだけだ。

もうここまで来たら重大なのは狙いとか目的ではない。やり方だ。

そうは言っても大したことはない。ただただギリシャ彫刻(現物は見られないから写真だが)

を繰り返し見るだけ。見てはなぞる。ただそれだけ。たくさんなぞる。そのほうがいい。

「なぞる」というのは模写をするということではない。同じように描くということだ。

いったいギリシャ彫刻とはどのように作られるのか?

われわれは学者やNHKではないから難しいことはわからない。復元をしようというので

はない。ただギリシャの精神を知りたいだけだ。その情熱、息吹、技。

別に、2500年前のパルテノン神殿を見たいわけではない。もちろん見られるのなら是

非見たいが、それは絶対に無理。今残っているギリシャ彫刻でいい。その残骸で十分わか

るから。十分満足。

ミケランジェロは最盛期を過ぎたギリシャ彫刻のラオコーンを見て「河の男」を作った。

ロダンも、ギリシャを想ってトルソを作った。顔や手足のない像などギリシャ時代にはな

かったのだ。ギリシャ時代の彫像は完璧に彩色まで施された完成品。それが戦争や自然災

害で、色は剥げ落ち、手足が壊れ、顔も失われた。すなわちトルソになった。その壊れた

彫像からでも作者の創造の喜びや意欲がほとばしり輝きあふれ出ている。それがギリシャ

彫刻。本当に不思議だ。だから、ミケランジェロも「河の男」でなぞり、ロダンは数多く

のトルソでなぞった。一生繰り返した。

私のやっていることも同じ。現代のモデルを描いているが、描きたいのはギリシャの線、

肉付け、塊なのである。いい歳をしてそれをやっている。それを繰り返している。それで

十分満足なのだ。

本日の更新は「唇寒」のみです。

 

03年12月21日

さすがの私も年末で忙しくなってきた。

本日も更新はこのページだけ。実は来年の干支の猿特集を組もうと思ったが、今日はちょっ

と無理。明日以降にできたらアップしておく。もっとも、ほとんどの方はもう年賀状は書

き終わっているのではないか?

ところで、いくら歳を取っても知らないことはいっぱいあるものだ。知ろうとしなければ

知ることはできない。まったく驚いた。

「賀春」という言葉は目上の人に使ってはいけないらしい。このインターネットの年賀状

のマナーの所に書いてあった。私はもう30年以上「賀春」一本。先生だろうと社長だろ

うと上司だろうと先輩だろうと年上の親戚だろうとかまわず「賀春」。まさかこれが目上

の人に使わない方がいい言葉だとは思いも寄らなかった。しかし、それではどういう言葉

がいいかという段では「明けましておめでとうございます」だそうだ。「賀春」も「賀正」

も「迎春」もダメとある。そんな馬鹿な! 致し方ないから今年は「謹賀新年」とした。

一応、今年は「謹賀新年」とやったが、「賀春」がダメというのはどうも納得できない。

小中高生向きのサイトだったのではないか。

わたしは墨をすって筆だけで絵と文字を200枚あまり書くが「明けましておめでとうご

ざいます」などと長くてはやりきれない。書くのも面倒だし、第一狭いハガキの中にはそ

んなスペースはない。「賀春」が一番いい。文字としても、末広がりで格好がいいし、大

きく書けるから気持ちもいい。

ま、とにかく今年は「謹賀新年」で行く。

本日の更新は「唇寒」のみです。

 

03年12月28日

先週「猿特集」をお約束したが、やっぱりアップできなかった。今週も無理。

やっぱり年末は忙しい。年始の更新も第1回目は1月4日ではなく11日からになりそう。

ご容赦ください。

したがって本日も更新はこのページのみ。

アップする絵はたくさんあるにはあるのだが。

 

いい絵というのを、描く立場ではなく見る立場から考えてみた。

おそらくいい絵というのは、長く見ていても飽きない絵だと思う。ずっと壁にかけておい

ても気にならない。かと言って外してしまうと寂しい、というような絵ではないか。

それは良寛様みたいな絵だと思う。どこかの大きな家に良寛様が何日も滞在することがあ

る。すると、その家のなかが不思議と和やかになり、家のものがみんな落ち着いて暮らせ

たと言う。良寛は僧だから、説教をしたり、小言を言ったりするのかと言うとそういうこ

とは一切ない。ただ静かに座っているだけだったらしい。

この逸話がどの本に出ていたか、2〜3日前から探しているがなかなか見つからない。

きっといい絵というものはそういうように壁の一部になって家のなかに息づいているべき

なのではないか。

もちろん、描く人間が良寛様ぐらいのレベルであれば最高だが、それは絶対無理。だいた

い絵を描くこと自体すでにデシャバリ自己顕示欲人間である証拠なんだから、良寛に到達

できるはずがない。しかし、そういう方向性を持っていることは毒にはならない。世間に

申し訳ないという遠慮が漂うはずだ。また、絵が、描いている人間以上の力を持つことも

ある。これはしょっちゅうある。そういうことを知っていなければ、とても絵なんてお売

りできない。描いている人間の人格がどの程度かは本人が一番よく知っているのだから。

とにかく、いろいろな偶然が絵のレベルを上げる。その瞬間の感動などが不思議に筆先に

作用して、描いている本人も驚くような画面が生まれることもある。びっくりする。びっ

くりするにはするが、ま、しかし、絵描きも、そういう現象があるということは心得ては

いる。心得ていなくては困る。また、そういう良い偶然はけっこう起こることも知ってい

る。知っていなければ絵なんて描き続けていられない。が、失敗は数限りない。比較にな

らないぐらい多い。それでも、期待できる程度には偶然は起こる。

もちろん良寛様の代わりはできない。ただ、私はそういう方向性で絵を描いてはいる。ヨ

ーロッパだと、ヴィヤールとかイタリアのボローニャのモランディ、風景画のマルケなど

か?

本日の更新は「唇寒」のみです。

 

04年1月11日

恋は儚く、淡雪のように消え去る。

まこと思うようにはいかない。

お盆に会ったときに気が狂わんばかりに部屋中を駆け巡り、ふらふらになるまで追いかけっ

こをした甥っ子の子供たち。幸いにも正月にまた会えた。会えたには会えたが、やっぱり

なかなか思うようには馴染めないもの。4ヵ月半の空白はあまりにも大きい。2歳のお姉

ちゃんはさすがに覚えている。覚えてはいるがすぐに遊び始められない。もともと人見知

りの激しい子(人見知りが激しい方がお利口な場合が多い)。こっちもお利口だから、

人見知りしちゃう。1歳になったばかりの弟はまったく覚えていない。

あの追いかけっこは物凄く疲れる。物凄く疲れるからやらないならやらなくてもいいか、

と思ってしまった。男の年寄りとはほとんど口を利かないお姉ちゃんなのに、わざわざ2

階まで来て、少し私に話しかけた。ああ、それなのに、それなのに。お盆のときは私の娘

もいたが、今回はフランス留学中。どういうわけか息子も不在。若い人がいれば多少は遊

べるのに。

会えるとしても次はまたお盆。8ヵ月半のブランクか。ああ、ほぼ絶望なり。

みなさん、楽しいのはその瞬間だけです。楽しいときは徹底的に楽しみましょう。またの

機会は絶対にない! ま、去年のお盆は全精力を費やして追いかけっこをしたのだから、

もういいじゃありませんか。

このときの様子はこちら「唇寒」バックナンバーの03年8月24日をご覧ください。

赤ちゃんの写真つきです。

 

本日の更新は「唇寒」のみです。

 

04年1月18日

まこと、よく絵なんて描くものだ。ぜんぜん売れない。すでに53歳の半ばである。われな

がら偉いと思う。この間、下の子供が成人式をやった。男の子だから金はかからない。冬

休みにバイトをしていたから懐は私よりいいはず。

一応これで無罪放免である。なんか莫大な借金を返したような気がしないでもない。現実

にはまだ大学生なので、気を緩めるわけには行かない。上の娘も本来なら卒業なのにフラ

ンスに留学している。困ったものだが、浪人も留年もしなかったのだから致し方ないか?

そうすると息子も留学するのだろうか? あな、恐ろしや。

とにかく何とかしなくてはならない。

それにしても、どうして絵が売れないのか? 褒めてくれるのは絵を描いている人ばかり。

だいたい絵を描いている人は金がないし、第一他人の絵を買うわけがない。

嘆くよりも、この歳まで絵を描き続けられたことに感謝すべきなのかもしれない。

いろいろ思うところはあるが、今の路線で乗り切るしかない。やるだけやる!

なぜか年頭所感になってしまった。

本日の更新は「今月の絵」改め「最近の絵」です。

なんと大量14点(自分が更新を怠けただけですが)。

 

04年1月25日

40度を超える高熱を味あわせていただいた。ここ3年ほどは風邪をひいても喉や咳で収まっ

ていたのだが、今年のは凄かった。ま、喉や咳だけでも十分苦しいが。それにしても40度

を超えたのには驚いた。滅多にないこと。医師の検査によるとインフルエンザではないと

のこと。ということはこれからまたインフルエンザにかかる可能性もあるのか? もう勘

弁してもらいたい。山積みだった仕事がさらに溜まってすでに気力の限界である。

 

最近読んでいる本は藤沢周平から津本陽へ。藤沢の『蜜謀』という歴史小説は、よく読み

通せたと自分でも驚いているほどつまらなかった。ただ上杉謙信が偉かったことを学んだ。

次の『三屋清左衛門残日録』は面白かったが、内容はほとんど残っていない。ビデオで見

た『たそがれ清兵衛』の場面がたくさん浮かんできた。映画の『たそがれ清兵衛』は藤沢

のいろいろな短編小説を継ぎ合わせているらしい。藤沢と言えば、その前に読んだ『蝉し

ぐれ』もそうだが、舞台が東北の日本海側なので、その季節感が味わえる。当然藤沢の出

身地なのだが、やっぱりふるさとの描写は上手いものだ。津本は剣豪小説。しかし、ハン

パな知識で書いてないから凄みがある。こちらは鹿児島の話が多い。示現流。アメリカの

ニューヨークには町のあちこちにバスケットボールのポールがあると聞くが、鹿児島には

剣の稽古に使う立木打ちの小屋があちこちにあって誰でも自由に使えたと言う。強いはず

である。昔読んだ何かの資料に、江戸時代、全国民に対する武士階級の割合は9%ほどと

あったと思う(記憶違いかもしれない)。薩摩(=鹿児島)だけは30%も武士がいたと

聞く(この話は津本の小説からではない)。

ついでに、津本の故郷は知らない。

 

上の予定をご覧いただいてもお分かりのように、クロッキー会をいっぱい予約した。3月20

日は迷ったが「絵は描いた者の勝ち」という30年前の黄金律に従った。ああ、キャンバス

張りと地塗りが間に合わない。

本日の更新は「唇寒」のみです。

1月18日の更新は「今月の絵」改め「最近の絵」です。

なんと大量14点(自分が更新を怠けただけですが)。

 

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