唇 寒(しんかん)集12 <11/24〜2/9>

 

02年11月24日

等迦会が近づいた。昨日、今年の絵も何とか出来た。よろしくご高覧ください。

ご希望の方には招待状をお送りします。下記メールアドレスまでご遠慮なくお知らせください。

2002年12月2日〜9日(9:00〜4:00・初日1:00〜・最終日〜2:00)

東京都美術館(上野公園内)

 

東京・港区の白金に北里大学研究所病院という大きな病院がある。駐車場にはやたらとベ

ンツが止まっている。その病院に家の息子が、半月板損傷・後十字靱帯切断という怪我の

ため手術し、2週間の入院となった。えらい修行をくっらっている。

驚いたのは、その病院の壁面である。ありとあらゆる壁面にやたらと絵が飾ってある。油

絵が多い。特に鈴木信太郎はいっぱい。信太郎だらけ、という感じ。自由に入れるからそっ

ちにおいでの折には一度ご覧になるといい。ヘタな美術館へ行くより凄い。とにかく、

絵が大きい。前回日本の家屋には4号(33.3×24.2cm)前後で十分、0号(18.0×14.0cm)

でも楽しめると書いたが、その病院の絵は100号から8号ぐらいまでで、30号、40

号というのもゴロゴロ飾ってある。鈴木信太郎の30号だといったいいくらだろう。現

在の実質的な取引でも300万円はくだらないはずだ。もともと1000万円以上の絵。

信太郎以外でも岡田謙三とか森田茂などちゃんとした値のついている絵が並ぶ。私が見た

のは1階と2階と8階だけ。他の階(確か10階まであった)や病棟、大学の施設にもそ

れぞれ並んでいるのではないか?

ま、私個人としては、鈴木信太郎に惚れ込んでいるわけでもないから見て廻らなかった。

第一その前に、私のような薄汚いオヤジが病院内をキョロキョロしながらうろついては迷

惑だろうという遠慮もあった。鈴木信太郎ではなく長谷川利行だったら、かまわず見て廻っ

ていたろう。

鈴木信太郎(1895〜1989)は二科会から離れて一陽会をはじめた画家。芸術院会

員で文化功労者。資産家の子息だった。日本の巨匠はほとんどみんな金持ちの息子。今度

たくさんの作品を見たが、ボナールを思わせる透明感ある色調で、不快な絵ではない。日

本の巨匠にも貧乏くさい気持ちの悪い絵も多いから、信太郎はいいほう。ただし、空間描

写などは甘いというか、「ない」と言ったほうがぴったり。「考えていないんだ」とか「平面

的に処理している」いうなどという評論もある。私は絵がぼやけ弱くなると考える。ボナー

ルにはずっと厳しい空間がある。

 

ところで、また中野孝次だが、今度は「人生の実りの言葉」という本が文庫になったので

買った。自伝的な面が多い分「清貧の思想」などよりかなり落ちる。「清貧の思想」も自

分は大学教授で一定の収入があり、やめてからも旺盛な文筆で十分豊かなはずなのに「清

貧」もねぇだろう、と貧乏人の下司なかんぐりが入るから、どうも素直には読めない。こっ

ちは泥まみれの、言ってみれば「濁貧」。「へっ、ご立派でございますねぇー」と言い

たくなる文面も少なくない。

その「人生の実りの言葉」の中に「四十、五十にして」という章がある。論語からとって

いる。「若い奴を軽視してはいけない。若い奴の中にも凄いのがいるかもしれない。しか

し、40歳50歳になっても名の出ないような奴は恐れるには足らない」というような話。

私を含め、40歳50歳で名の出ない絵描きがいたら(うんざりするほどいると思うが)、

いちいち気にすることはない。私の父も絵描きだったが「本物の絵描きは死んでから

30年も経たなければ認められやしない」とよく言っていた。どの道、絵で飯が食えるな

んてことはない。認められっこない。それが普通だ。40歳50歳などまったく無理。い

くら孔子の言葉でも気にすることはない。好き勝手、自由自在に筆を振るいましょう。

このホームページでも「プロの絵描き」とか「本物の画家」とかいろんなことをしゃべっ

てきたが、そんなもんの基準はない。一枚でもそこそこの値(ン万円とかン十万円とか)

で絵を買ってもらったなら、それはすでにプロである。売っておいて「私はアマチュアだ

から」などと言われたのではそれだけのお金を出して買った人に対して申し訳ないではな

いか。売った責任ということもある。

どうやって生活し、子供を育てようと大きなお世話だ。俺は生きて、絵を描いて、死んで

ゆく。好きなようにさせていただく。「名」なんて関係ない。「孔子、てめぇ、いちいち

うるせんだ」って気持ちである。

禅家では「仏に会いては仏を殺し、達磨に会いては達磨を殺す」という物騒な言葉がある。

この伝で孔子も殺しちゃう。ゴメン。

ところで、ノーベル賞を貰った田中耕一さんのご両親は並外れて立派な人。お母さんはお

札の肖像にしたくなるような偉人である。田中さんのお父さんは3年ほど前に亡くなった

が、実際には叔父さんなのだ。お母さんとは血がつながっていない。この二人の4人目の

子として田中さんは育てられた。田中さんは大学に入るまでこのことをまったく知らなかっ

た。田中さんの本当のお母さんは田中さんを生んですぐに死んでしまったのだ。それに

しても、親戚の子を自分の子と同じように育てたこのご両親の「当たり前」の暮らしぶり

はどうだ! 人間として当たり前のことだが、この当たり前のことを当たり前にできるだ

ろうか? 私には絶対できない。ノーベル賞を貰った田中さんは天才的なひらめきを持つ

科学者だが、あの粘り強い研究姿勢は育ての親から受け継いだものだと思う。あんなにす

ばらしい「当たり前」で「普通」の両親はいない。名を成した田中さんはもちろん立派だ

が、あの両親はもっと偉いと思う。

 

本日の更新は唇寒集11です。

 

02年12月1日

明日から等迦会が始まります。よろしくご高覧ください。

ご希望の方には招待状をお送りします。下記メールアドレスまでご遠慮なくお知らせください。

2002年12月2日〜9日(9:00〜4:00・初日1:00〜・最終日〜2:00)

東京都美術館(上野公園内)

本年度「等迦会賞」をいただいた。

等迦会は美術団体としてはたいへん小さな会だ。

私も若いころは(父が審査をしていた国展以外の)いろいろな公募展に出品したが、すべ

て落選。私の絵ではもう上野は無理だとずっとやめていた。やめて15年ほどして等迦会

の知り合いの方から強く出展をすすめられ、すすめられているうちに、と思い、出展した

ら、「新人賞」をくれ、特例で準会員にしてくれた。40歳を過ぎていたから、お情けで

よくしてくれたのだろうと思っていた。

ところが、その後、会員にしていただき、松本静太郎賞というなかなかの賞(副賞は個展

開催権)もくれた。今回は会の名のついた賞を受けた。まことに驚く。だって、私は会に

はおんぶに抱っこで、何もしていない。もちろん会費は払っているが、飾りつけなどの手

伝いもここ2年ほどやっただけ。本当に何の情実もないのだ。私みたいなスカにいい賞を

与えても会の利益になるのだろうか?

「作品のレベル」などという妄想は信じがたい。スポーツやゲームと違い、絵の良し悪し

などどうとでも言える。もちろん、私は自分の絵を悪くないとは思っているが、こんな厚

遇を受ける覚えは全然ないのだ。本当に申し訳ない。

もしかすると、等迦会はちゃんとしたいい会なのかもしれない。ま、だいたいの会はある

意味、ちゃんとしている。文句を言えば切がないが、たとえば、公募で金儲けしようなど

という会はまずない。だからこそ、東京都も安く会場を貸し出している。むかし岸田劉生

やら石井柏亭などが純粋に絵画的主義主張のぶつかり合いで分裂したりしたのを、いまだ

にやっているのだ。馬鹿馬鹿しいとも言えるが、狭い仲間内の他愛のない諍いであること

も確か。可愛いもん。

等迦会はマイナーな会だが、けっこう真面目。私みたいな不良同人に賞をくれること自体

真面目な証拠だ。本当に申し訳ない。

都美術館の公募展にも、小さな絵を数千点も並べた怪しい会もある。出品料だけでも相当

な額だろう。いくらかは知らないから、確かなことは言えないが、とても怪しい。もし、あれが

金儲けの会で、石原都知事にでも知れたら、さぞ怒ることだろう。まっこと恐ろしい。

 

昨日は上野の芸大の美術館にウィーン美術史美術館名品展を見に行った。ティツイアーノ

のローマ法王の絵はほとんど絵の具を使っていない。もちろんちゃんと厚く見える。ルー

ベンスの晩年の風景画はかなりしびれる。レンブラントの息子の肖像も久しぶりに見た生

粋のレンブラント。デューラーの小さな婦人像の画面の中での黒の分量と位置はさすがの

冴えを感じた。チケットに使われていたベラスケスの『マルガリータ王女像』の右手はほ

とんど描いてない。洋服の白い模様は絵の具をちょんちょんと置いただけ。このような細

かいテクニックは本物を見ないと分からない。芸大の美術館だけに芸大生とか教授とから

しき人が多かったような気配。プッサンの大画面の前で美しい(?)女性を連れたさしず

めインテリ男性が「すばらしーい」と呟いていた。三流のテレビドラマ(「不機嫌な果実」か)

の一シーンを見てしまったような、申し訳ない気分になった。ま、プッサンはまこと素晴

らしかったが。

 

ところで、この前テレビで彫刻家の佐藤忠良の特集をやっていた。佐藤は90歳を超える

高齢者だが、とても元気。50歳を過ぎるまで売れなかった。娘の佐藤オリエは「若者た

ち」というテレビドラマに出演していたから、そのことのほうが有名かもしれない。

佐藤の彫刻は町田市の50m室内プールの玄関に立っている。そのほかあちこちで見かけ

る。私はそれほど凄くいいとは思っていない。この前もNHKかなにかの美術番組で特集

していた。今回の番組では、画家の吉沢なにがしの肖像彫刻(正確には塑像)を作ってい

た。この画家はそろそろ100歳。

番組で、佐藤は大きな蕪を引き抜く童話のレリーフを作っていた。3人の男女が蕪を引き

抜く様子を描くのだが、蕪を引き抜くのではなく押し込んでいるように見えてしまうなど

と苦労している。私が100号を描くときと同じだなと思い、思わず笑ってしまった。軸

足とかをしっかり決めないと立っているように見えなかったりする。佐藤のは引き抜く動

作だからもっと難しい。

佐藤の作品はどうももう一つ納得できないが、番組の中での言動には心和むものがあった。

なかなかいいところがある爺さんだ。

まず、自分のことを「われわれ凡人は」などと言っていた。やたらエバッタ絵描きが多い

が、こんなちょっとしたセリフに謙譲の姿勢が見える。また、(芸術の)真理はあるとは

思うのだけれどなかなか掴めない。掴めそうで掴めない。とも言っていた。ああ、90歳

を過ぎても掴めないのか、俺と同じか、とがっかりしたが、佐藤には限りない親しみを覚

えた。最後に、床に落ちた粘土のカスを集めていた。カスを集めてまた使うのだ。粘土を

少しも無駄にしない心意気は芸術家というより職人のもの。佐藤自身、自分を「粘土屋」

と、少し誇りを持って自嘲していた。「鉄屋」とか「鉄道屋」などと罵り合って話がまと

まらない道路関係4公団民営化推進委員会の方々より相当偉いという感じ。

本日は、等迦賞をいただいた等身大の裸婦2点(上の絵)をアップした。

 

02年12月8日

等迦会は明日が最終日です。よろしくご高覧ください。

今日は久しぶりに充実した日曜日だった。午前中は仕事をし、午後一でプール。飯を食っ

て上野の授賞式。挨拶をしたり、歌を歌ったりで、慣れないことをすると老骨に応える。

そして、夜はホームページの更新。ま、本日は「唇寒」のみでご容赦いただく。

先週の月曜日は通勤ラッシュに混じって上野に飾り付けに行った。年に一度の等迦会への

ご奉公だが、通勤ラッシュはやっぱ凄まじい。毎朝やってる方々に心の底から敬意を払い

ます。

飾りつけは午前中で終わる。「もしや」と思い、ピカソ展に足を向けると、やっぱりやっ

ていた。月曜なので空いている。他の美術館はほとんどお休み。

ピカソは凄い。デッサンが多く、1300円の入場料は高すぎると思うが、実は私はデッ

サンが見たい。本当の絵描きはデッサンのなかにいるから。

ピカソ展の特集号の「芸術新潮」を図書館から借りてきた。わが早稲田大学の美術史の先

生が解説をなさっている。ピカソの14歳のときの石膏デッサンを評して「生身の人間の

ようだ」と書いてあったが、それより凄いのはバックの黒。本当に14歳かと思われるよ

うな深いバックなのだ。やっぱりピカソは天才と言うしかない。あのバックが14歳で描

けるとは! 私はピカソのお父さんが偉かったのだと思う。いくら素晴らしい才能があっ

ても絵画技法をインプットしなければ、デッサンは描けない。ちゃんと教え込んだのは間

違えなくお父さんだろう。大変だったと思う。

ピカソ展でもつくづく思うのはピカソは絵が好きだということ。本当に絵の好きな少年だっ

た。それはデッサンの一筆一筆に溢れ出ている。当たり前すぎる話だが、絵描きは絵が好

きでなければ始まらない。ピカソはまこと絵が好き。

それから、くれぐれも申し上げておくが、あの結婚式の大きな油絵。あれは本当にうまい。

14歳であれが描けるのは素晴らしい。まず、油絵はけっこう難しい。大きい絵は更に

難しい。人物画はちゃんと修業してないと描けない。しかもそれが群像となると更に難し

い。隅の方にちょっと顔を覗かせるのは至難の技。ルーベンスやベラスケスがやっている

が、あれは簡単にはできないのだ。悔しいけど天才と言うしかない。

私は以前このホームページでピカソを特集した。そのとき木原武一さんがピカソ

をけなしているので、ピカソを強く弁護したが、やっぱり私は正しい。「木原さん、今度

のピカソ展を見ましたか? ピカソは女性を蔑視していたというような推論でしたが、私

にはそのことは不明としても、ピカソは絵描きとして最高だということが今回よくわかった

でしょう」と言いたい。14歳で絵画技法を身につけ、絵が好きで好きで、描かずにはい

られない人間。そしてそのまま90歳まで描き続ける。奇跡の画家、それがピカソである。

 

02年12月15日

今朝はNHKで富岡鉄斎を見て、地塗りをし、午後から平塚美術館の原精一展に行った。

鉄斎はいつものように老人パワーが主題。この話は私もこのホームページの「絵の話」

に画像を付けて書いた。しかし、ちょっと調べるとそのパワーの秘密がわかかる。そのこ

とはこの「唇寒」(7月12日)に詳しく書いた。

NHKではここのところは語られていない。京都の町の中で悠々自適。じっくり画境を深

めた、というような解釈。実際にはかなりの苦境でがんばったのだと察せられる。鉄斎が

晩年を生きた大正時代が経済的にも精神的にも豊かな時代だったという解説もなかったと

思う。豊潤なる大正時代が世界の鉄斎を生んだとも言える。とにかく大正は想像をはるか

に超える「良き時代」だったということは忘れてはならないだろう。

平塚美術館の原精一展(12月23日まで)では、ご近所で開業されているH医師にお目

にかかり、H先生のおかげで招待券で鑑賞できた。H先生は物故作家の収集家で原精一の

作品を出展なさっている。私の父の絵も持っておられる。

原精一は私の父が若い頃、西洋画を学んだ師である。わが家ではずっと「原先生」と言い

続けてきた。ここで突然「原」と呼び捨てにすることはできない。あちこち先生だらけで

中国みたいだが、やっぱり先生は先生である。

私は原先生の絵を子供の頃たくさん見ている。だからとても懐かしい。会場に入るとタイ

ムスリップしたみたいで、おそらくα波がいっぱい出ていたことだろう。私が知っている

原先生の絵はほんの10年間ほどで、小学校の高学年になった頃には父はすでに疎遠だっ

た。しかし、先生の晩年には再び交流があった。1974年に、私は父と上野のデパート

にサンパウロ美術館展を見に行き、そこで原先生に偶然出会い、三人で美術展を見た。先

生はセザンヌの絵(奥さんを描いた絵)に痛く興味をもたれていた。私が24歳、父が5 2歳、

原先生は66歳という計算になる。

客観的に原精一展を俯瞰すると、やはり売れなかった前半がいい。特に16年に及ぶ軍隊

生活は凄まじい格闘だった。とにかく絵の好きな人であることは確か。若いときに軍隊に

いたので、腕に遅れをとるまいと必死でデッサンを繰り返した。その絵がたくさん残って

いて、やっぱりいい。原精一は線の画家だと思う。色はもう一つだし(黒の多用が目立ち、

画面が濁ってしまう)、空間への意識も弱い。抽象絵画が台頭し、空間とは別のところに

絵画の表現を探っていた時代でもあった。私自身は絵画に空間描写は欠かせないと考えて

いる。

売れてからの絵には疑問もあるが、とにかく多くの戦争が繰り返された激動の時代を絵を

捨てることなく生き抜いた。描きに描いた。ひとりの絵描きが歩んだ足跡がどーんと並べ

られると、われわれは平伏するしかない。やっぱりハンパじゃない。ふかーく反省しました。

そのあと、H先生のお宅へお邪魔して、収集作をたくさん見せていただき、貴重なお話も

伺った。もちろん父の絵も拝見した。今の私と同じ52歳のときの絵だった。原先生とサ

ンパウロ展を見た年の絵だ。少し売れ始めた頃の絵で、悪くない。

父も原先生も鉄斎も、みんな頑張ったなぁ。そう言えば、昨日は12チャンネルでレンブ

ラントもやっていた。レンブラントもめちゃくちゃ頑張った。私も褌を締め直さなくてはな

らないか?

本日の更新は『今月の絵』です。

 

02年12月22日

重大な間違えがありました。来年1月最初のクロッキー会を1月11日(土)とお知らせ

しましたが、1月18日(土)の間違えでした。まことに申し訳ありません。

正月にどさくさにまぎれて京都にレンブラント展を見に行ってやろうかと企んだ。インター

ネットで調べてみると、国立の美術館なのに年末年始も開館とのこと。行けるかもしれな

い。

レンブラントは絵画の神様ということになっている。いったいいつからそんな扱いになっ

たのだろうか? おそらく印象派からだろう。特にロダンはレンブラントを絶賛している。

だいたいロダンという人は印象派の中でも相当の舌鋒だ。もちろん頭もいいのだろう。

印象派の仇敵はウイリアム=ブグロー。この実力者に太刀打ちできる画家となるとレンブ

ラントを持ってくるしかない。ブグローは、新古典主義の総帥で、もちろんイタリア絵画

の流れを汲む。非の打ちどころのない絵画の優等生なのだ。絵画の本流を堂々と歩んでい

た。どこからも文句を言われる筋はないし、そんな落ち度は何もない。現代で言えば、映

画のジョージ=ルーカスとかスピルバーグといったところ。大巨匠であり、バリバリの現

役。世間の期待も大きい。

この巨大な絵画の城塞に戦いを挑んだのが印象派の面々。正統イタリア絵画の本流に対抗

すべく絵画の神様にレンブラントを祭り上げた。レンブラントはイタリアへ行ったことが

ない画家なのだ。イタリアへは行ってなくても実力は申し分ない。何か哲学的な匂いもあ

るし、神秘的な側面も持っている。

確かにレンブラントは大画家であり美術史には欠かせない存在。しかし、ヨーロッパの中

では辺境とも言えるオランダの一巨匠に過ぎなかった。ずっと前にも書いたが、1708

年、フランスのロジェ・ド・ピルという美術の理論家がもっとも有名な画家75人を20

点満点で採点したことがあった。その75人の中にもレンブラントは入っていることは入

っていたが、決して好成績ではなかった。構図、デッサン、色彩、表現の4部門で採点し

て、レンブラントはそれぞれ15点、6点、17点、12点という成績。デッサンはたっ

たの6点である。総合してみても、平均点ほどしか取れていない。

現在の世界美術の中に燦然と輝く不動の地位は、やっぱりどうしても印象派の喧伝による

ものと思わざるを得ない。

だからといって私はレンブラントの実力は評判ほどではないと見下しているわけではない。

以前にも「絵の話」に書いたとおり、私は文句なくレンブラントを第一級の画家と尊敬している。

ただ、印象派の過剰な祭り上げがあったことはあったと申したいだけだ。そこのところを

頭の隅においておくほうが無難であるとは思う。

しかし、それにしても物凄い不景気が続いている。昔の「絵の話」を見ると、株価が17

000円に下がってしまったと嘆いている。今はその半分以下。絵が売れるはずがない。

私も、フランスへ絵を売り込みに行くか、とかその前に父が開発した大阪や山形で個展を

やってみるかとかいろいろ考えているが、交通費も馬鹿にならないから下見にも行けない。

第一、私の絵で本当に通用するのだろうか? それが一番の心配。原精一展を見ても、い

ろいろ不満はあるが少なくともたくさん絵の具が塗ってある。だからと言って絵が厚く見

えるとは断言できないが、どうも私の絵はさっぱりし過ぎているようにも感じる。本当に

これで通用するのか? 本人にはわからない。もっとも大切なのは「絵画への思い」なの

である。原精一は16年間軍隊にいて切々たる絵画への思いを募らせた。平和が来て故国

へ帰り思いの丈をキャンバスにぶつけた。そこが原絵画の魅力となっている。そういう魅

力の原点が伺える。

それでは私の原点は何か? 何だろう? この話は次の機会に譲ろう。今週は(来週も)

忙しいので、この辺で終わる。

 

02年12月29日

重大な間違えがありました。来年1月最初のクロッキー会を1月11日(土)とお知らせ

しましたが、1月18日(土)の間違えでした。まことに申し訳ありません。

NHKの教育テレビを見ていると、なんとも気障っぽいおっさんがパソコンの前で足を組

んで語っている。もうそれだけでも胡散臭い。しかし、他に見るものはないし、年賀状を

書く気力もないからだらだら見ていると、けっこう面白いことをしゃべっている。東大の

大学院の先生と肩書きにあった。名前は失念してしまった。「人間講座『宇宙から見る生

命』」という番組。その3回目か4回目。実は2回目ぐらいも見た。

その回で語っていることは、この前、石原慎太郎知事が失言してまだ騒ぎが収まっていな

い例の年配女性の話。残念ながら私はそのニュースを直接聞いていないが、石原さんは更

年期を過ぎた女性は世の中には不要だとおっしゃったと伝え聞く。物凄いことを言うもの

だ。わが家の娘と息子も同様の発言をしていた。私も若い頃そんなことを思った時期があっ

た。

ところが、この東大の先生の話はまるで逆さま。この先生は、石原知事発言前にこの放送

のビデオ収録を済ませていたと思う。だから、この番組と石原発言に因果関係はないだろ

う。

さて、番組の内容だが、今の現世人類(クロマニョン人)が地球上に出現して約1万年に

なる。この現世人類の繁栄は地球の気候の安定によってもたらされたと信じられてきた。

しかし、地球には40億年にわたる歴史があり、人類が出現してからでも500万年ぐら

いにはなる。その間に、数万年ぐらい気候が安定する時期がなかったわけではない。だか

ら、現世人類の繁栄は気候の安定だけでは説明できない、という話。それでは、現世人類

と他の人類(ネアンデルタール人など)との決定的な違いは何か? それは現世人類には

「おばあちゃん」がいることだと言うのだ。つまり、現生人類以外の人類も猿人も、雌は

更年期が過ぎると数年以内に死んでしまうのだ。現世人類の女性だけが30年ぐらい生き

る。これが、現世人類繁栄の鍵だったと言うのだ。

ここまで番組を見ていて、私は面白いなと思った。その後番組は人間社会における「おば

あちゃん」の役割などを語って終わった。つまり、子供の面倒とか食事の支度などをこな

し、若い女性の社会参加を助けた、などというもっともらしい説明。

そういう実際的な役割は果てなくあっただろう。しかし、それは想像がつく。番組のハイ

ライトは現世人類と他の原人などとの女性の寿命の棒グラフの比較。更年期以降大きく棒

が伸びているのは現世人類だけなのだ。

私は昔から「おばあちゃん」のチカラを少し察していた。20歳前には、今のわが家の子

供のような幼稚な単純思考もしたが、30歳前から「おばあちゃん」の社会意思という巨

大なパワーを背中に感じてきた。世の中は「おばあちゃん」たちが良いと思うものが良い

のである。われわれは「おばあちゃん」に嫌われないように生きるべきである、とうすう

す知っていた。世の良識は「おばあちゃん」が作るのである。これこそ現世人類繁栄の真

の秘密である。子供の面倒とか食事の支度など皮相のことに過ぎない。

と、東大大学院の先生を一蹴して、偉そうにテレビを消した。

 

ところで、私はこの前、美術評論家なる人の襲撃を初めて経験した。もちろん、美術評論

家の書いたものはいっぱい読んできたが、自分自身の絵を論じられたことはない。池田満

寿夫先生はじめ、画家にはけっこういろいろ言われてきたが、美術評論家というのはとに

かく初めて。いろいろな絵を次々話題にして、いよいよ自分の絵の番になるのか、とちょっ

と聞き耳を立てると、果たして、わが作品に話が及んだ。

残念ながら、期待どおり陳腐な話で、具象だとか抽象だとか寝言を言っていた。萬鉄五郎

の頃からだからもう100年も同じ話をしている。全然ダメ。まことに残念でした。

本業多忙のため、本日はこれでおしまい。おそらく英語がぺらぺらの偉い先生お二人をコ

ケにしてしまいました。まずは「おばあちゃん」には怒られないハズ。

 

03年1月5日

重大な間違えがありました。来年1月最初のクロッキー会を1月11日(土)とお知らせ

しましたが、 1月18日(土)の間違えでした。まことに申し訳ありませんでした。

 

1月1日午後3時京都国立博物館にたどり着く。

「大レンブラント展」。

本当に「大」なのか?

初めから疑っていた。「大」というからには『夜景』と『ダナエ』と『トゥルプ博士の解剖講義』が

第1室にバンバンバンと並んでいなければならない。次の部屋には最低でも20点の自画

像が欲しい。それから裸婦の代表作が数点。ほかに風景や肖像画など。最後の部屋はデッ

サンとエッチング。こんなところで如何だろうか? これなら「大」レンブラント展と名乗って

も文句はない。

われわれ(息子と行った)は無謀にも自動車で名神を日帰りで往復した。12月31日暗

くなった頃豊橋に着き、明日からやることがなくなる正月三が日に恐れおののいていた。

しかし、このときすでにそうとう自動車の運転にはうんざりしていた。何しろ高速道路は

一瞬気を許すと赤の他人を巻き添えにしながらあの世逝きという正気では走れない道路な

のだ。理性と知性で固まっている私など、計算上では絶対に走らないはずのに、けっこう

よく使う。しかもたいてい追い越し車線を行く。そのうえ、初心者マークの息子が運転し

ていても、免許が去年からゴールドとはいえかなり怪しい家内が運転していても、しっか

り眠り込んでしまう。一言で言えば「馬鹿」。大阪なら「アホ」。浪速なら「ド阿呆」なのであ

る。

金も掛かるし、危ないし、ひとりで新幹線で行くほうが利口。しかし、息子は中学2年の

とき私と二人で自転車旅行をし、私との冒険に辛くも楽しい思い出がある。スリコミとい

うやつか? 息子に半分運転させれば何とかなると決めはしたが、元日の朝から息子は全

然起きない。出発は昼近くになってしまった。

「なに、もう豊橋まで来ているんだ。東京から測れば京都までは残り三分の一ぐらいだろ

う」と大雑把な胸算用で走り出した。思ったとおり、高速は大した渋滞もなくスイスイ走

れた。しかし、走っても走っても京の香りはない。挙句の果てが雪景色。

今正確にキロ数を調べると、わが横浜町田インターから京都東までは478キロ。途中の

三ケ日インター(豊橋)までが251キロ。インターで降りてからまだ走るし、豊橋に寄

ったら、京都方面を目指す場合、音羽インターから乗るから単純には言い切れないが、「

東京から京都まで車で行く場合、豊橋は三分の一ではなく半分である」というほうが正し

い。くれぐれも!

豊橋で満タンにしたガソリンがほぼ空っぽになった。一日で500キロ近く走った。帰り

道では、筋肉自慢の逞しい大学アメフト部のホープもやたら「お父さん、お父さん」を連

発し、そう連発されてはこっちはお父さんにならざるを得ない。なんたって本当にお父さ

んなんだから。

そのうえ、ケイタイという便利なものがある。甥っ子の子供が可愛い盛り。生後2ヶ月の

赤ん坊を連れて豊橋に来ている。赤ん坊を抱くことなんて滅多にない。絶好のチャンス!

早く着かないと帰ってしまう。帰りの道も遠かったーぁ。

心優しい甥っ子の計らいで、赤ちゃんとたっぷり遊びました。

考えてみれば最高の元日だったかも。

ま、しかし、元旦の京都は最悪。初詣で渋滞だらけ。びっくりしたぁ!

 

と、ここでやっと「大レンブラント展」の話。おしゃべりですみません。

もちろん理想とするレンブラント展は出来ない。もともと無理。そんなことは百も知って

いる。知ってはいるが、ちょっと意地悪を言ってみたくなる。「大レンブラント展」は大

袈裟ではないのか?

結論から申せば、許します。「大レンブラント展」でけっこう。久しぶりに感動させてい

ただきました。

一番見たかった絵は「机の前のティトゥス」。むかし「奥様は魔女」というアメリカのテ

レビコメディドラマがあって、その家の玄関に掛かっていた絵が確かこの「机の前のティ

トゥス」だったと記憶する。もしかすると別な絵で、窓から半身を出している女の子の絵

だったかもしれない。「机の前のティトゥス」もレンブラントの息子で14歳のときの肖

像とある。私はもっと小さな女の子を描いたものだと思い込んでいた。言われてみれば、

14歳の男の子という感じもする。

レンブラントは20歳の初めから華々しく画壇にデビューする。約20年間栄光の日々が

続く。40歳頃から家計が傾き、晩年は63歳で死ぬまで不幸だった。少なくとも4人の子供

を死なせている。日本で言えば江戸時代初期の人だから、医療も十分ではなく赤ん坊が死

んでしまうのは致し方ないとしても、その悲しみは計り知れない。一人残った息子のティトゥ

スもレンブラントの死ぬ前年に27歳という若さで亡くなっている。何という不幸! 

画家としては認められ、最期まで絵の注文は途絶えなかったが、経済的にはまったく恵ま

れなかった。

これが、われわれが最も尊敬し理想とする画家の生涯である。

さらに、いま某ネットオークションに私の父の絵が出ている。12号の裸婦で、父の画文

集(単行本)の表紙を飾った60歳のときの代表作。それが何と3万5千円。そのうえ、

買い手がいない。私に金があれば買いたいが、今のわが家の経済状態ではとても家内が納

得しない。父は49歳のとき母と別れ、ひとりで駅から30分以上歩く知人の別宅に一人

暮らしをした。お湯なんて出ないし、もちろん風呂もない。毎日風呂に入れないので、朝

起きると水をかぶった。真冬でも励行して、そういう中で、絵を描き続けた。絵について

は大変真面目な男だったと思う。厳しい絵画観を生涯捨てず、絵画についての造詣の深さ

は類を見ない。あれだけやって、あの絵が3万5千円では話にならない。

勝手にしろ! という気持ちだが、とにかく私は絶対に絵はやめない。

ああ、それにしてもあの絵が3万5千円とは! 金というものは、つくづく物の真価を語っ

ていない。

 

03年1月12日

ついに平成15年・西暦2003年が始まってしまった。恐怖の年である。もちろん空か

ら大魔王が降りてくるわけではない。

この2月から3月にかけて、これからの、できれば3年間、最低でも1年間を生き抜くた

めの関が原の戦いに入らなければならない。生死の分岐点という意味では関が原だが、

戦況はむしろ桶狭間だ。大手予備校の中学部が2ついっぺんに、わが町・成瀬に開校する。

これは「お前は死ね」と言われたようなものだ。売られた喧嘩は買わないわけには行かな

いが、どう見ても勝ち目はない。

いよいよ北は北海道から南は九州・沖縄まで絵を描きながら売り歩く行商の旅に出るとき

が来たか? 52歳。もしかすると一番カッコいい年齢かもしれない。武道家だったら鼻

の下に髭かなんかを蓄えた一番強そうな年齢だ。売り出し中の若いチャンピョンを一瞬で

蹴り飛ばしたりして。ま、実際には若い奴のほうが強いだろうが。

とにかく「行商」ということになった場合、このページをお読みの全国の方は、なにとぞ

よろしくお願い申し上げます。あなたの町に行きますよー!

 

ネットオークションで、父の絵(12号)が3万5千円という悪夢のような新年だった。今

の私にはその金もない。絵描き仲間のT氏が買い取ってくれた。もう一枚海老の墨絵

(1万円)も同じ仲間のI氏が買った。みんな私より10年以上年下で、子供もまだ小さ

く毎日の暮らしに追われている仲間だ。しかし、あの2枚の絵は悪くない。あれらの絵が

3百万円にも、3千万円にもなるように、これから我々ががんばらなくてはならない。こっ

ちの戦いは、塾の桶狭間より厳しいが、やるだけやるしかない。もうこの歳になっては、

それしか生きる術はないし。

 

03年1月19日

朝日新聞の相撲記者は完全に貴乃花に切れている。貴乃花が取り組み後に全然口をきかな

いからだ。6日目の土佐ノ海戦では注文相撲と書いてあった。見たところ、一度は当たっ

ている。だいたい土佐ノ海はいつも相手を見ないで突進する。あれでは変化される。7

日目も土俵際で多少もつれた。それなのに、「完敗」とあった。今もNHKの男子駅伝を

見ようとしたが、選手のインタビューばかりなのでテレビを切った。われわれはスポーツ

選手の話なんか聞きたくない。駅伝なら走っている姿、水泳なら泳いでいる姿、相撲なら

土俵での激突が見たい。インタビューなんていらない。しかし、貴乃花は今日も負けたみ

たいだから、終わりかもしれない。

 

1月5日に書いたNHK教育の「人間講座『宇宙から見る生命』」の先生は松井孝典とい

う人だった。14年ほど前の著作(「地球・46億年の孤独」徳間書店)を図書館で見つ

けた。まだ全然読んでないが、著者の略歴には将来のノーベル賞候補とあった。番組のほ

うはあの後も続けて見ているが、けっこう面白い。やっぱり、夜空にオリオン座が輝く季

節には宇宙の話が聞きたくなる。ああ、どっか遠くの海か山へ行って満天の星空を見たい

ものだ。

 

前回、図らずも私の経済状況をお知らせしたせいか、励ましのメールなどをいただいてし

まった。大分の美慶さんは私の個展をやってくれるとのお電話。まことに恐縮する。美慶

さんが商売になるといいのだが、やっぱり絵を描くときは売れるようには描かないなぁ(山

下清調に読んでください)。やっぱり、好きなようにぐちゃぐちゃに描くなぁ。

昨日のクロッキーでは、レンブラントとロダンとわが父親の亡霊が出てきて、実にうるさ

かった。亡霊が出たからといってうまく描けるわけではない。自分の未熟さを思い知らさ

れるだけ。展覧会のことなど少しでも考えようものなら、父は「何考えてんだよ。お前は

馬鹿だな。俺の傑作だって3万5千円だよ。金のことなんてどうでもいいの。ちゃんと足

を踏ん張れての。目の前のモデルをよく見な。綺麗だろ。描けやしないよ。だけど描くし

かないもん。抱きつくわけにいかないんだから。張り倒されるよ。もし、万に一つ、抱き

つかせてくれても、すぐ子供ができちゃってエラいことだよ。頭冷やせっての」。

19世紀フランスアカデミズムの裸婦群は驚くべき写実性で若い女性の素肌を表現した。

ウイリアム=ブグローの大きな実物を見たならば、その肌の表現に腰を抜かす。油絵の具

というものは女の素肌を描くために発明された画材なのかと思い知らされる。あれは一つ

の極致なのである。つまり、写実は終わったということ。

17世紀のフランスの哲学者パスカルの「原物には誰も感心しないのに、絵になると事物

の相似によって人を感心させる。絵というものは何とむなしいものであろう!」という言

葉に対して、ドガは「このむなしさそのものが芸術の偉大さなのだ」と語ったという。

ま、この話は今の私のクロッキーの話とは少し違う。だって裸婦を見たら誰だってその美

しさに感心するもの。パスカルの言葉で思い浮かぶ絵はシャルダンの台所の静物画などだ。

さらに思い浮かぶことは、数年前にも書いたが「ものまね」の魅惑。トーク番組に松方

弘樹が出ていても誰も見ないが、ドンドコドン山口が松方のものまねをしていたらみんな

大喜びだ。しかし、これはむなしくはない。チョー楽しい。

裸婦の美しさとわれわれの絵は天と地との隔たりがある。われわれは裸婦を再現すること

はできない。永遠にできない。「それでもお前は絵を売る人間か」と言われれば、ちょっ

とたじろぐが、われわれは裸婦への思いを描いているのである。絵の前の裸婦との一期一

会をキャンバスにぶつけているのである。これを忘れてはおしまい。われわれは劣情をそ

そるために裸婦を描いているのではないのだ。レンブラントもロダンも熱烈な思いを絵の

具や粘土に託している。それが見えなければ、芸術は消え去る。私の父の絵が3万5千円

では、われわれの思いなど誰にもわかってもらってないのだろう。勝手にしやがれ、とい

う気分だ。

ここで、また父親が登場する。「お前は馬鹿だな。絵がいくらだろうが知ったことか。絵

なんてものは描いちまえばこっちのもの。描いたモンの勝ち。俺の絵をもう一度よーく見

てみな」

 

03年1月26日

幸田露伴の「努力論」(岩波文庫にあるらしい。実物は見てない)をわかりやすく解説し

てくれたのが中野孝次の「自分を活かす気≠フ思想」(集英社新書)だ。わが「イッキ

描き」は漢字で書けば「一気描き」なのだから、「気」はもの凄く大切なキーワードであ

る。去年この本を読んだ。

「気」は気功術に通じる「気」である。「やる気」とか「負けん気」とか「気を使う」「気に

食わない」「気に障る」「気に入る」などなど「気」に関する言葉は実に多い。これらの

「気」はすべて同じもの。人の身体の中にある摩訶不思議なもやもやした存在を指す。

露伴は気の種類をいろいろ挙げ「張る気」を良い「気」とする。いろいろな「気」を解説

するのは面倒だから名前だけ挙げておくので内容を察知していただきたい。「散る気」「弛

む気」「逸(はや)る気」「亢(たかぶ)る気」「凝る気」など。このなかで、「亢る気」

とは独りよがりになるような気らしい。「凝る気」は小さく凝り固まって巨視的にものが

見えなくなるような気。

「張る気」はやる気満々でしかも落ち着いていて身体中に力が漲っているような、すべて

がうまく行くような気。この気の状態を長持ちさせるれば充実した生活が送れるということ。

ところが、さらに読み進むと「澄む気」というのが出てくる。しかも、これは絵を描くと

きの最高の「気」だという。褒めてもらいたい、巧いといわれたいなどという気持ちや賞

を貰いたい、買ってもらいたい、巨匠になりたいというような邪心。そういう迷いをすべ

て捨ててただひたすら「張る気」を重ねて到達する純白な衝動によって絵を描く「気」。

これが「澄む気」だと説明されている。

中野孝次は具体的な例として、熊谷守一、良寛、池大雅、田能村竹田などを挙げている。

さらにさらに、「澄む気」を重ねれば「冴ゆる気」となるらしい。この気については幸田

露伴自身が体得していないから詳しく語らないとある。中野孝次は熊谷守一の境地がこの

「冴ゆる気」だったのではないかと推論する。

ざっとこんな本だが、一冊読み終わると「まぁ、そういうことはあるだろう」と納得でき

る。中野孝次の実例が的確だったかどうかには疑問も残る。

幸田露伴の「気」のランクにそって正月に見た「大レンブラント展」を思い出すと、レン

ブラントは「冴ゆる気」まで到達した一人かもしれないと思われたりする。もちろん、中

国の宋元時代の水墨画はどれも相当のレベルまで行っている。夏珪の山水など「冴ゆる気」

のもっとも明確な実例のようにも感じる。

絵は見るものであり、一目見てしっかり目に焼きつくものである。まこと名画には画家の

気概がほとばしっている。

幸田露伴の「努力論」は絵画の見方の一つの方向を与えてくれる。

 

03年2月2日

最近絵がすこぶる不調。今日当たり「今月の絵」を更新したいのだが、アップできる絵が

6枚あるかどうか。困ったものだ。もちろん絵は描いているが、ろくなものしか出来ない。

自信がないというか、これがスランプというヤツか。スランプなどと一人前なことも言え

ない状態。

実はここの所、このパソコン将棋にも全然勝てない。いつも「最強」レベルで戦っている

のだが、負け続けたので、コンピュータが勝手に「レベル8」にしてしまった。これには

勝ったので、自分で「レベル9」に直し、これにも勝ち越している。そろそろまた最強の

「レベル10」にする予定。パソコンとはどこか腹の立つ機械だ。「馬鹿野郎!」って感じ

だが、パソコンを罵っても結局自分に言っているようなもの。鏡に向かって叫んでいるの

と変わらない。

将棋はどうでもいいが、絵は展覧会が近づいているので困る。本当は、将棋が一番切実

だったりして。将棋といえば羽生善治だ。1〜2ヶ月前も対談集を読んだ。ラグビーの平

尾誠二とスポーツライターの二宮清純、それからロボット工学の金出武雄。平尾は名人に

までなった人に「羽生君」と言っていたが、いくら友達でも名人に「羽生君」はないだろう。

気になって内容が掴めないまま二宮との対談に進んだが、二宮を読んでいるとやっぱり平

尾の話のほうが面白い。現実に戦っている人間の声だった。驚いたのは金出先生。右脳と

か左脳など信じていないと言う。その説明は長くてわからないので、興味のある方はご自

分で読んでいただきたい(『簡単に、単純に考える』PHP研究所のp194〜)。

ま、わたしは右脳左脳はあると思う。

ところで、最近やっと中野孝次を卒業した感じ。最後に読んだのは「人生の実りの言葉」

(文春文庫)。中野孝次の良い点は正直なこと。これは文筆家の最低限のルールのようだ

が、実際には本当に正直な人は少ない。わたしもつい見栄やはったりに走ってしまう。中

野はもともとドイツ文学が専門で、40歳頃ドイツから帰国した後に東洋思想の素晴らし

さに気がついたと言う。わたしはこういう転向者が大好きだ。東洋の凄さが証明できたよ

うな思いになれる。

しかし、中野孝次もだんだん飽きてくる。だいたい内容に斬新さがあったわけではない。

ただ確認するだけのこと。たとえば、芭蕉の句はすべてが辞世の句だったなどという話は

若い頃から知っていた。知っていたが忘れてもいた。そういうことを思い出させてくれる。

われわれが絵を描くときも一期一会の気持ちで筆を持たなければならない。ついつい忘

れてしまう。やっぱり遅読でも何でも本は読み続けていないと馬鹿になるか?

 

03年2月9日

昨日のゴッホには驚いた。久しぶりの景気のいい話。夢のようなことはあるものだ。新聞

やテレビで盛んにやっているからみなさんご存知だろう。

ゴッホといえば、去年の暮れに池田満寿夫の『わたしのピカソ わたしのゴッホ』という

本を読んだ。中公文庫で500円ぐらい。『わたしのピカソ』も『わたしのゴッホ』も独

立した話で、中公文庫には他に『ピカソ断片』と『わたしのモディリアニ』も入っている。

前にも書いたが、この『わたしのゴッホ』のなかで池田はゴッホの早描き(わたしは「速

描き」と書く)に何度も言及している。中公文庫のp111では、早描きは技法的にも優

れた描法と称え、p132では印象派以降の画家はそれまでの画家とは「比較にならない

ほど多作」と述べ、「とりわけゴッホは、誰もが考え得る限界を追い越してしまった」と

言っている。そうすると、わたしの速さはデタラメな速さと言うしかない。なんってたっ

て油絵でクロッキーをしているのだ。実用新案特許でも出したい。本心を言えば、わたし

はもっともっと速く描きたい。ぱっと見た対象への感動を瞬時にキャンバスに焼き付けた

い。

ま、しかしこれは別に新しい描き方ではない。大昔、1000年も昔から絵描きはみんな

速描きだ。中国の水墨画をご覧いただきたい。このホームページの「絵の話」でもたくさ

ん紹介した。中国だけではない。ヨーロッパの画家たちも素晴らしい速描きなのだ。ちょっ

と画集を見れば誰だってわかる。本物を見ればさらに歴然。ルネサンスの巨匠たちのデッ

サンは狂気のスピードだ。

わたしの新しいところは油絵で写生でクロッキーをしている点だと思う。おそらく誰もい

ないだろう。モデルに聞けば一番よくわかる。

ちなみに、上の絵(「ボディ」)は5分ポーズである。

わたしを人間国宝にしてください。お願いします。

 

先週『今月の絵』を更新しました。わたしとしてはこんなところで精一杯。ご容赦あれ。

 

とうよう塾のホームページもよろしく。最近どんどん更新しています。

 

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