No83 絵の話 2000.9.3更新

写楽は北斎か?

田中英道「写楽は北斎である」を読む

 

なぜ写楽だけが謎なのか?

「写楽は誰か?」なんてことがどうして話題になるのだろう。だって「歌磨は誰だ」

とか「北斎は誰だろう?」などという疑問は全然聞かない。歌磨は歌磨であり、北斎

は北斎に決まっているからだ。写楽だけが話題になる。

写楽が話題になるのは、写楽が十か月しか絵画活動をしていないからだ。その間に百

四十数もの絵を描いた。厳密には木版画だから百四十数種類の版画の元絵を描いたと

言うべきか。

出版元は蔦屋重三郎。この版元は当時の一流である。今の日本の感覚では渡辺プロダ

クションとかホリプロという感じ。最近なら「つんく」とか小室哲也か。しかも制作

タッフは最高の人材。つまり歌磨のスタッフがそのまま写楽を担当している。

写楽はデビューすると同時にたいへんな人気を博した。蔦重の計略はズバリ図に当 たっ

た。しかし、だんだん人気が陰り、絵の図判も小さくなって十か月で浮世絵界から姿

を消してしまう。

日本人にはずっと忘れられていたが、ドイツの美術史家、クルトが明治期になって「写

楽」を出版し、写楽を絶賛する。写楽は「忘れられた幻の浮世絵師」から、いっぺん

にベラスケス、レンブラントと並ぶ「世界三大肖像画家」という破格の扱いとなる。

こうなると、写楽の衝撃のデビューや一年足らずで忽然と姿をくらます謎に満ちた制

作活動が俄然注目を浴びる。時は寛政年間、松平定信による寛政の改革は終わっていた

が、その影響はまだまだ残っていて、浮世絵師などへの弾圧はずっと続いていた。

こういう時勢に流星の如く現われた写楽。誰か他の絵師が一時期正体を隠して写楽に

なりすまし、自由に筆をふるったのではないか、そう推理したくなるのも人情という

ものなのである。

ここから写楽別人説が始まる。

私がソンケイするテツガクシャでもあり日本学の権威、文化勲章受賞者であられる梅

原猛センセイ(カタカナは間違えではありません。深い意味を込めて意識的にカタカ

ナを使っています)によると写楽の謎は邪馬台国論争に匹敵する! とのこと。

それではここで、絵をろくに見もしないでぺらぺらしゃべりたがる大ガクシャセンセ

イ方にケイイとソンケイを込めて写楽別人説をかいつまんで面白おかしくご説明申し

上げよう。

まず、初め写楽が別人だという説は最初から常識だった。写楽は能役者・斎藤十郎兵

衛だったのだ。これはクルトが最初に書いた「写楽」(1910年出版)にはっきり

書いてありその典拠は「浮世絵類考」という浮世絵師を紹介した本だった(この辺の

経緯は梅原猛「仮名の悲劇」(新潮社)74ページ以降に詳しく書いてある)。しか

し、肝心の斎藤十郎兵衛という能役者の実在が証明されない。いろいろな人がいくら

探しても見つからない。だから、そんな人は初めからいない、ということになり、他

の絵師などが次々と候補に上がった。

 

豊国説は無茶苦茶

しかし、私の意見では写楽が別人だとすれば写楽は歌磨か北斎。他には考えられな い。

その二人のみが写楽に匹敵する画力の持ち主だからだ。

たとえば、梅原センセイの豊国説などは全然話にならない。下の絵は左が豊国、右が

写楽。

この絵については「仮名の悲劇」の234から235ページにかけて詳しく書いてあ

る。絵がわからないというのは恐ろしいものである。素人はぺらぺらしゃべらないほ

うがいい。私はどっちの絵が先に描かれたのだろうと気になったが、梅原さんはこの

絵の比較の終わりのところで「豊国が先で写楽が後」と推論されていた。ま、その真

偽のほどはわからないにしても、豊国が後だったら絵が下手になったことになるから

おかしい。しかし、とにかく下の二点の絵の制作者は絶対同一ではない。断言できる。

    

まず顔が違う。表情の描き方が根本的に異なる。写楽が芸術なら豊国は漫画である。

それから豊国の人体は全然描けていない。骨格がない。写楽は身体がしっかり描けて

いてしかもそのうえ人体の動きまで描いている。こんな絵描きは滅多にいないのだ。

豊国には動きを描こうなどという意識さえもない。豊国さんも悪い人ではないのだろ

うが写楽と比べられたらかわいそうだ。

豊国の描く顔は球体をなしていないのだ。着物の下には身体がない。骨や肉がない。

こんなものを並べて評されたのでは気の毒である。梅原センセイがカラー図版で示

す決定的な証拠、二代目中村仲蔵などは

一目そっくりだが、豊国のほうはまるで

仮面でもかぶっているように見える。写

楽の絵はちゃんと人の顔に見え、さらに

上から化粧をしているように見える。

ちょっとした口の線の違いが驚くべき絵

画的効果を発揮しているのだ。これだか

ら絵はこわい。「似て非なるもの」の代

表である。

ちなみに、この図版のなかの左下のとこ

ろには「写楽絵と豊国絵の重ねあわせ」

と題して「間判の写楽絵(赤)と豊国絵

(青)を、仲蔵の顔が同じ大きさになる

ようにして重ねた。こうしてみると、仲

蔵の顔の造作の把握の仕方がまったく同一であることがわかる」とある。歌舞伎の言

い方で「型破り」(褒め言葉)と「型なし」(けなし言葉)というのがあるが、写楽

が型破りだとすると豊国はまさに型なし。江戸の庶民から絶大な声援を貰った豊国だ

が、まことに江戸っ子は絵がわからないトンチキばかりで、情けない。

歌磨、北斎以外にレベルをクリアしている浮世絵師は鈴木春信とか勝川春章、安藤広

重などだが、写楽が活躍した寛政6年(1794)には春信も春章も死んでしまって

この世にいないし、広重は生まれていない。歌磨は41歳、北斎は34歳であった。

他に六大浮世絵師の一人鳥居清長も41歳だったが、清長の絵とはまるでちがう。そ

うするとやっぱり歌磨か北斎ということになる。

 

謎は解けた!?

ところが1993年に内田千鶴子という人が斎藤十郎兵衛を見つけてしまった(「写

楽考」三一書房)。これで写楽別人説の論争は終わる。写楽はやっぱり斎藤十郎兵衛

だった。信じ難いことだが生まれながらの天才というものはいるのである。能役者が

突然描いた絵が世界レベルの肖像画!「ああ、北斎とか歌磨なら私もこれから、まだ

まだ努力をして少しでもましな絵描きになれたものを」と意気消沈した。何しろ北斎

がかの富嶽三十六景を出版したのは72歳のときなのだ。50歳の私にもまだ22年

もの猶予期間があったという計算になる。

むかしNHKテレビで池田満寿夫が写楽探しをやっていた。池田氏の結論はがっかり

するほどたわいないもので、誰も納得していない。私も全然同意できない。本当に池

田さんは写楽の絵がわかっているのだろうかと疑いたくなるような話だった(池田説

はNHK出版から「池田満寿夫推理ドキュメント これが写楽だ」として出ている)。

しかし、そのとき徳島(阿波)の現代の街の様子が映し出された。市電が停車場に止

まると続々と阿波地方の老若男女が降りてくる。その顔を見てびっくりした。どの顔

もどの顔も目が丸くて小さい。ちょっとつり上がっている。顔の輪郭がラグビーボー

ルのようで、すなわちガキデカ(ご存じない方も多いと思う。山上たつひこという人

のギャグ漫画)の顔なのだ。そしてそれはそのまんま写楽の描くあの顔そのものであ

る。

「さあ、どうする!」

もう写楽は阿波の能役者斎藤十郎兵衛と決まったではないか!

 

問題再燃

ところが、今年(2000年)の8月書店に「写楽は北斎である」なる書物が平積み

になっている。

「あれ? 写楽の話は終わったんじゃないの?」

誰が書いているのかと著者を見ると私もよく知っている西洋美術史の俊英・田中英道!

集英社の世界美術全集の「レオナルド」の解説をなさっている。数年前は芸術新潮で

天平彫刻や鎌倉彫刻にも言及していた。この「写楽は北斎である」のなかにもその話

も少しある。二千五百円。私は9月から正真正銘生活できそうもない。二千五百円は

痛い。ふつう単行本は千七百円が相場だろう。二千五百円はないよ。ま、しかし本も

厚いしカラー図版も多い。白黒図版は数え切れないほど掲載してある。仕方ないか。

お盆でもあることだし、父親の供養ということで(父は「写楽は北斎に決まっている

じゃあねえか!」と言い切っていた)、女房を拝み倒した。古本屋や図書館に並ぶ頃

には私は本当に生きていないかもしれないのだから。

 

私の立場

さて、ここで写楽である。

だいたい私は写楽別人説自体を疑っている。写楽は写楽、という説である。もちろん

「説」というほど強い思い入れはない。ろくに調べてもいない。誰だっていい。写楽

の絵はいい絵であり、それが重大なのである。重大なのはそれだけなのだ。いい絵が

この世に存在し、それを私が見る。これがこの世のすべてであり、これ以上でもこれ

以下でもない。だから私は王様であり、皇帝であり、天皇であり、将軍であり、法皇

なのだ。私は最大の幸福者。いい絵はいい。誰が描いたってかまやしない。

まったく本を書く人はよく本を読んでいる。学者は外国の本も原文で読むし、昔の本

も古文をそのまま解読する。しかも物凄い量だ。私みたいな遅読者では相手にならな

い。もちろん梅原センセイも例外ではない。そして文章がうまい。梅原さんは題名を

付けるのも名人級。思わず読みたくなるような書名で、しかも文章がうまいから中味

がぺらぺらでもつい騙されてしまう。日本国は国家規模で騙された(=文化勲章)。

しかし、はっきり言わせて貰うと、写楽について書いている人は絵を知らない。絵を

見ていない。池田満寿夫さんもNHKから頼まれてやっつけ仕事でかたずけたキライ

がある。何しろ私は子供の頃から絵に囲まれている。しかも絵が大好きである。浮世

絵もたくさんあった。物心つく前から北斎とか写楽は知っていた。いつ頭に入ったの

か記憶がない。ルオーとかドガ、ブラマンクなんかも幼馴染みのような付き合い。そ

のうえ私は途切れることなく絵を見、絵を描いてきた。50年という歳月である。人

間国宝みたいな存在なのだ。そういう私が言うのだから間違えない。学者は文字は読

んでいるが絵は見ていない。

まず写楽の絵を見ていただきたい。あんなものが修業もなく描けるわけがないのだ。

頭を冷やしたらどうだろう。千葉すずじゃないが「じゃあ、あんた描いてみなよ」と

言いたくなる。第一線一本引けやしない。冗談じゃない。世の中に絵ほどいらないも

のはないが、絵も修業だけは一人前に厳しい。だいたい文化というものは無駄、贅沢、

不要、不合理の塊である。絵はその最先端を行っている。そのくせ修業だけは桁外れ。

命懸けでやらなくてはまともなものは描けない。

さっきも書いたが、写楽の絵にはデッサンがあるのだ。着物の下に骨があって肉があ

る。それが躍動している。大首絵だったら、頭がちゃんと球体をしている。顔の後ろ

が描けているということだ。レンブラントとかゴッホの自画像のようにちゃんと立体

になっているのだ。たとえば豊国などは全然なっていない。ペっちゃんこである。頭

も身体もペっちゃんこ。ぺらぺらである。写楽の表面だけ真似るからああいうことに

なる。一目見れば歴然とわかる。そういう見方で比べて見ていただきたい。こんなと

ころに長々と書くこと自体ばかばかしい。一目瞭然ではないか!

 

写楽は北斎か!?

田中道英さんは写楽の絵を一枚一枚取り上げて春朗(北斎の寛政6年以前の名前)の

役者絵と比べている。まことに疲れる。田中さんの「写楽は北斎である」は読む本で

はなく、見比べる本なのだ。遅読の私はますます遅読になる。しかも老眼になり始め

ているからよく見えない。図版が小さく白黒ばかり。写楽の絵は他の本で見られるが

春朗となると図版が全然ない。田中さん本の小さな白黒で見るしかない。まことに情

けない。

ま、とにかく写楽が誰だっていいが、誰かだったら北斎である可能性が一番高い。あ

れだけ描けて歌舞伎に詳しい人間は滅多にいない。北斎は春朗時代(20歳〜35歳)

ずっと役者絵を描いていたのだ。つまり風景画家・北斎は20歳代の一番大切な時期

に嫌というほど人体画を描いている。しかも歌舞伎の絵。ほとんど決定だろう。写

楽が35歳というのも頷ける年齢。北斎の36歳以降の作品を見ても納得できる。

      

上の2枚は左が1801〜4年の可候(=北斎)。右が当然1794年の写楽。北斎

は1792年、33歳のとき師の勝川春章と死に別れ、問題の1794年に勝川派を

破門されている。そして1795年写楽が消えた後、二代目俵屋宗理を名乗って美人

画を始める。1798年頃から可候と号した。まったく怪しい。状況証拠は揃ってい

る。もっとも他の別人たちの状況証拠もけっこう頷けるから困る。また、上の2点に

関しては絵としては写楽のほうがいいように思える。しかし、北斎の絵も洗練された

美しさがある。写楽は写生を元に描いているから実在感が強い。おそらく北斎のは想

像画だろう。

下の三枚の絵は左から春朗(=北斎の若い頃の名、1790年)→写楽(1794年)

→北斎(1807年)と並べてみた。まことにそっくりである。ただ似ていると言っ

ているのではない。これだけ描ける絵描きはいないといっているのだ。しかもちゃん

とうまくなっている。

    

ちなみに、春朗は15年間も役者絵を描いたが「見立(みたて)」といって実際に歌

舞伎を見て描いたのではなく、それまでの絵組みなどを参考にして描いたそうだ。写

楽は「中見(なかみ)」といって実際にその歌舞伎を見て写生をしてから描いたとい

う(「写楽は北斎である」P149)。

それでは最後にこれを見れば「写楽は北斎」と唸ってしまう作品をお見せしよう。親

父もこの絵を私に見せて「これは北斎だろう!」と言い切っていた。

写楽が別人だったとして、その別人は自分が写楽であることを隠しているわけだ。つ

まりバレないように描いてあることになる。たとえばその別人が北斎だとしたら、北

斎が自分を隠して描いているのだからこれを暴くのは至難の業だ。北斎以上の画力が

要ることになる。北斎が犯人でこちらは探偵という設定。しかし、北斎が犯人だとし

たら、その犯行を見破るのはまず永久に不可能だろう。あんなに凄い奴がいるわけが

ないし、今後も出そうにない。

結論から言うと、写楽が誰なのかはわからない。

状況証拠としては北斎がたいへん怪しいが、写楽の絵を全部思い浮かべ、実際に見て

みる。いっぽう、北斎の絵を全部思い浮かべ、こちらも実際に見てみる。やっぱりど

うしても繋がらない。

だいたい、「写楽が誰か」などと詮索すること自体不遜である。写楽の絵をちゃんと

理解出来ていたらそんな生意気なことはしない。黙って見ている。拝見させていただ

く。これほどありがたいことはないではないか。

ところで私は昨日古本屋で写楽の画集を百円で買った。1985年に平凡社が二千五

百円で出した「浮世絵八華」というシリーズの「写楽」である。平凡社は私が大学卒

業のとき就職試験を受けて落ちた出版社。どういうわけか溜飲が少し下がった思いだっ

た。私も少しトンチキかも知れない。

 

 

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