大特集・印象派大研究

―彼らは何をやろうとしたか?―

印象派展の規模 フランスの第1回印象派展は1874年に163点の作品を集めて開催された。印象 派展というと、小規模なグループ展を想像するが、この作品数からも規模の大きさが おわかりだろう。しかも、一つ一つ作品の大きさもわれわれが普通扱う6号とか8号 (30〜45cm)とは違い、20号から30号ぐらい(60〜90cm)なのであ る。今でもゴッホの絵など来日するが、大きな会場で見るとわからないかもしれない が、ゴッホの絵はどれも相当の大きさがあるのだ。画集でお調べいただけばすぐわか る。たとえば、ゴッホのアムステルダムの『ひまわり』は92.5×73.0cm、ドガ の『アプサント』は92×68cmである。私はこれらの絵を選び出したわけではな く、思いつくままに書き出しただけである。印象派の絵描きの絵は20〜30号が普 通だということは若い頃から知っていた。印象派展ではそういう大きさの絵を一人が 30点ぐらい出展するのだ。印象派展の規模がおわかりいただけるだろう。彼らはこ のような大規模な展覧会を1886年まで8回もやっている。彼らは本気だったので ある。

国を相手の大喧嘩 何がどう本気かというと、フランスの国家がやっている官展サロンとの喧嘩である。 喧嘩は「でいり」と読んでいただきたい。国と喧嘩をしようという勢いなのである。 ものすごい意気込みで絵筆を握っていたことになる。最もその頃は国を相手に喧嘩を するのが流行っていたことは流行っていた。いわゆる「革命」である。彼らは絵画の 革命を意識的にやろうとしたのである。結果として印象派の仕事が革命的だったわけ ではないのだ。ちゃんと計画的に革命を企て成功したのである。

勝 算 この革命の成功率だが、これは相当高かったと考えてよい。印象派展に参加した画家 はみんな中産階級の子弟で、今のわれわれの感覚でいえば、かなり大きな会社の社長 の息子と考えられる。少なくともそういう身分の画家が半分はいた。中産階級という のは最近日本で言う中流のことではない。もっともっと大金持ちのことなのだ。しか も、そういう画家のほとんどは法律を勉強している。法律を学ぶことは当時の金持ち の子弟の常識であったのだ。つまり世事に詳しい。この絵画革命の勝算も高かったに ちがいない。

まずお金 彼らはまずちゃんと絵画の販売ルートを持とうとした。新しい販路の開拓を試みた。 普通の一般家庭(かなり金持ちのだが)に飾る絵を描こうとしたのだ。これは初めは うまく行かなかったが、最後にはアメリカなどにどんどん新しい市場が生まれた。こ の大成功の美酒に酔えた画家はモネやルノアールなど少数の長命な画家だけだった が、最晩年は時代の大巨匠にまで登り詰めた。印象派の画家たちはなかなかのやり手 で、実業家としても一流だったのかもしれない。少なくとも、絵画販売ルートの開拓 者であり、やはり一種の経済の革命児だったと思う。

指導者ドガ この絵画革命運動の指導者は誰だろうか。それは、間違えなくドガである。ドガは年 長者だし、祖父がイタリアの銀行家で資金もあった。また、法律の勉強もしている。 その上、自分自身はサロンに何度も入選しており、なにもサロンと喧嘩をしなくても 画家としてやって行ける実力者だったのだ。ドガには素晴しい眼力があった。絵を見 る目をもっていた。サロンのぬるぬるしたワンパターンの絵画が我慢ならなかった。 しかし、アングルの絵がそういうサロンの絵とは違うということも知っていた。 今の私から見ても当時のサロンの絵はうまい。現代の一部の評論家が再評価をしよう と躍起になるのもうなずけないでもない。少なくとも最近の写真を見て描く精密描写 よりよほどすごい。とにかく、彼らはちゃんと画面を構成し、平面に空間を作り出し ている。驚くべき人体解剖の知識をもち、その描写力はわれわれが評論できるレベル をはるかに超えている。はっきり言って問題にならないうまさなのだ。ブグローとか ジェロームなど当時のサロンの画家を批判する具象画家は馬鹿だと思う。少しでも絵 を知っていたら文句の言える相手ではない。ずば抜けた修業をやり遂げた人達なので ある。ま、文句がいえるとすれば、ドガぐらいなのではないか。ドガはそれぐらいす ごい。 【懺悔】ちなみに、私もたった今、「ぬるぬるしたワンパターンの絵」と書きました  が、これはドガの立場で言ったのです。私も十分馬鹿なので、ブグローさんを悪く  言ったりしますが、私は、22〜3歳の頃ブグローの『バッカス』という絵を見  て、世の中にこんなすごい絵描きがいるのかと夢中で模写をした人間です。その  上、その絵があるボルドーに留学し週に2度はその絵を見て1年ほども暮らしまし  た。罪深いサロンの崇拝者だったのです。ごめんなさい。

モネはどうか? モネもずばぬけた画家である。しかし、最初の印象派展のとき、ドガは39歳で、モ ネは33歳である。ルノアールは32歳、シスレーは34歳。ピサロだけは年長で 43歳であった。この5人ではドガだけが画家としてやって行ける実力を持ってい た。モネはてんで若僧であった。そのかわり張り切っていたし、エネルギーに満ちて もいた。素晴しい可能性を秘めた新進作家だったのだ。

マネの行動 また、マネも印象派の指導者によく挙げられる。しかし、私は絶対認めない。マネは 印象派展に参加していないのだから初めから話にならないではないか。貧乏くじは引 かないという主義なだ。マネは確かに当時としては革新的な絵を描いている。画家と しての資質は素晴しい。画面上での冒険をやったということも理解できる。しかし、 それでは本物とは言えない。マネは最後まで結局安全地帯にいた。印象派の若い画家 たちの命懸けの喧嘩(でいり)はマネのとっては所詮対岸の火事だったわけだ。 身体を張って冒険をするから絵も冴えるのである。そこに絵画の醍醐味がある。絵は 色彩理論ではないのだ。理屈やアイデアだけで絵ができたら、楽なものである。事 実、ドガは、ブグローなどサロンの画家たちの血の出るような絵画修業を認めてくれ ない。画家としての姿勢を、生き方を問題にしているからなのである。

ピサロのこと グループの最年長者ピサロは穏やかな好々爺を演じていた。いや実際にそういう人 だったらしい。無口でただみんなについて行き、若い人が困っていると助け船を出す という理解ある便利なおとうさん役であった。ピサロの絵にはまことにそういう好ま しい筆使いが感じられる。しかし、本当は大した頑固者であると思う。私は若い頃か らピサロが好きで、伝記なども読んだものだが、ピサロは初めはコローに師事してい た。その傾斜ぶりも並外れていて、サインも「コローの弟子ピサロ」とやっていたら しい。そのあと、印象派の影響を受け、特にモネやシスレーとは区別がつかないよう な絵を残している。晩年には新印象派に傾倒し、スーラばりの点描を描く。最後にま た印象派風に戻るが、まことに新しもの好きというか、素直というか頑固というか、 ちょっと計り知れない画人である。その不思議なところがまた魅力なのだろう。

純粋に絵画的だろうか? さて、印象派の画力はどれほどのものなのだろう? 純粋に絵画的に見た場合の革新性 についてである。 これはまさに絵画革命に値する美術史上類を見ない大勝利であったと思う。このこと を述べていたら切りがない。よく言われる色彩理論、構図論、題材の目のつけどこ ろ、瞬間性、紫の影、浮世絵に対する謙譲の姿勢。何を取り上げても真の絵画を探究 する感動的な作画態度が頭に浮かぶ。ギリシャに対する、ルネサンスに対する、バ ロックに対する、ロココに対する、古典主義に対する、ターナーなどのイギリス絵画 に対する、バルビゾン派に対する、そういうすべての先人の芸術に対して印象派の画 家は吸取紙のようによく学び、よく盗んでいる。とにかく、文句のない画業である。 しかも個人の仕事ではない。その当時の選り抜きの頭脳と情熱と画力を持った最強の 集団が一斉に取りかかった大革命である。すべての道はローマに通じるなら、すべて の絵の道は印象派に通じると言えるだろう。人の悪口では人後をとらない私だが、印 象派に何の文句もありません。「お父さんの負け」である。

モンスター そのうえ、この印象派の方法は全世界に波及し、何と百二十年以上にわたって絵画世 界を支配してきた。技術の上でも精神の上でも販売方法の面でもである。驚くべき影 響力、比類なき普遍性。もうほとんど仏の慈悲のようである。しとしととそぼ降る雨 のように大地にしみわたってきた。表現しようのない大革命であったのだ。当然、影 響は直後に現われる。次世代に、ロートレック、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌと続 く。ボナール、ヴィヤールと来て、マチス、ルオー、ブラック、ピカソと待ってい る。どうにも止まらない人材の群れである。こんなにすごいのがゴロゴロいたのでは 印象派の息吹が跡絶えるわけがない。それだけ魅力的な仕事をやってのけたというこ とだろう。土台がいいから、それを慕う後輩も超一流である。印象派はまったくすご いモンスターのようなひとつの社会を作り上げた。近代絵画の社会である。

滅亡か、変貌か さて、これからである。とにかく、これからの時代は印象派の時代とは違う。絵の販 売ルートを根本的に考え直すときにきている。すでに帝国主義は終わったのだ。本当 の民主主義になってもらわなければ困る。そうしなくては人類は終わるだろう。資源 に限りがあり、二酸化炭素の問題やオゾンホールの問題もハンパではない。社会主義 や共産主義は駄目だったらしいが、わたしは資本主義も危ないと思っている。資源が ないのだから話にならない。資源が無尽蔵だった百年前とは根本的に違う。もし人類 が生き延びるなら、まったく新しい考え方で行かなければならない。少しずつ使うと いう思想である。もともと人類は何千年も何万年もそういうやり方で生きてきたのだ から、絶対できるはずである。

現代美術じゃ救われない 新しい人類の社会がうまく生き延びたとして、それが絵描きの生き方や画面にどう出 るかはわからない。しかし、そこのところを頭に置いとかないと絵描きも生き残れな いだろう。馬鹿の一つ覚えのように新しい芸術とか前衛とか現代美術などと、そっち のほうにばかり目が行っているとぽつんと取り残されかねない。考えてみれば「前 衛」という言葉も古くさい言葉である。ホコリだらけで喘息が出そうだ。「現代美 術」とかいう言葉もずいぶん長く使われている。わけがわからないまま何十年もたっ ている。印象主義ならとっくに評価されていた。おそらく、消えてなくなるだろう。 あの現代美術を評論する言語はわたしの若い頃二十数年前、革命家だか実存主義者だ かがよく使っていた言い回しである。わたしは自分が頭が悪いからわからないものだ とばかり思い込んでいた。最近やっとわかってきた。あれは下手な翻訳言葉をそのま ま日本語にした猿真似言語だったのである。サルトルやボヴァールはもっとずっとこ なれたフランス語で粋に自分の胸のうちを語っていたのだ。なにも知らずに今だにあ のわけのわからない日本語を振り回しているノータリンが現代美術のブレーンなので ある。本人たちはカッコいいと思っているから許せない。勘弁してもらいたい。頭を 冷やせ。どこが美術じゃ!

新しい絵画 しかし、新しい絵画の足音を感じないわけではない。この間なくなった池田満寿夫さ んもかなりわかっていた人だと思う。わたしとは根本的なところで多少意見が食い違 うが、それは当然のことで、同じだったら気持ちが悪い。他に欧米には期待できそう な画家がけっこういる。世の評論家たちは勝手に「抽象表現主義」などというジャン ルをでっち上げて括り付けようとしているが、やはりこの前亡くなったデ=クーニン グはそんな主義主張は問題にしていなかった。シュリーマンという絵描きの絵にもい いのがあった。「現代美術」というタイトルの本が本屋にあったので、パラパラめ くってみたが、なかなか面白いので買った。けっこういいのがある。世の中まだまだ 捨てたもんじゃない。 【ついでに】『現代美術』のなかのシュリーマンはもう一つぱっとしませんでした。  いわゆる現代美術といわれる最近の絵描きでよいと思ったのは、Pierre  BONCOMPAIN(6),Eugene Leroy(61),Martin Disler(78),Pat Steir(89)などで  す。ほかにもいます。今挙げた画家の画集は薄っぺらい本ですが、京都書院が出し  ている「アートランダム」のシリーズに入っています。画家につけた番号はアート  ランダムの番号です。別に印象派の後えいというわけではありませんが、ちょっと  いいので。