アーカイブス『絵の話』1

突然・池田満寿夫と金田石城の対談に割り込む 1997年ごろ

その5 エバルな! ”ビジュツ”

 

美術はエバッている!

美術とか芸術はエバッていると思う。エバリすぎである。図に乗っている。芸術家なら何をしてもいいと思っている節がある。池田さんもそのことに触れて、芸術家たちのボヘミアン的

行動にうんざりしている。最近はましになったのかもしれないが、絵描きは昔から多少の奇行は許されるようなところがあった。二科会の裸踊りは有名だったが、まことにばかばかしい

お祭り騒ぎだ。だいたい明治以降、絵で名の通った人はみんな旧家の子息で、結局落語に出てくる若旦那みたいなものである。放蕩が過ぎ、親に勘当されて出入りの職人の家を点々とす

る。職人の家にしてみればたまったものではない。ま、世話になった旦那の息子ということで目をつむる。世間全体が絵描きに対してそういう「しようがねえな」というところがあった。

 

芭蕉の警句

しかし、これは昔からあったらしい。奇を衒うという奴だ。松尾芭蕉の弟子に基角という人がいて「草の戸に我は蓼(たで)くふほたる哉」と反骨の精神を詠んだ。わたしは一般人は住 まないような草庵に住んで、苦い蓼(たで=「蓼食う虫」の蓼)の様なものを食い、蛍のように夜起きて暮らしているというような意味だ。自分は普通じやないとエバッている。 これに唱和して、芭蕉は「あさがほに我は食(めし)くうおとこ哉」と詠じた。わたしは早寝早起きをし、朝顔を眺めながら飯を食う普通の男ですという意味である。明らかに基角に対 して諭している。これは俳句というより警句にちがいない。

不可思議? 不滅のアカデミズム

芸術家だかアーティストだか知らないが、衣食住に無関係なことをしているのだからもうちょっと遠慮があってもいいのではないか? みんな平等な民主主義の世の中だというのなら、

せめてエバルことばないだろう。本当に偉い人は威張らないという。

その点池田満寿夫さんは全然エバッていない。とても立派だと思う。

今や美術は学校の教科である。ずっと前から、百年以上も前からアカデミズムはロクでもないと知っているのに、美術が学校の教科になり、国立の芸術大学まである。日展は公益法人で、

芸大を出て日展の無鑑査、どこでもいいから美術大学の先生というと、今やたいへんな文化人である。発言力も大したものだ。どんな絵を描くのかと見てみれば、信じられないような古

くさい半抽象である。勘弁してもらいたい。そういう一生もー生だから本人の勝手だが、いったい大学で何を教えているのやら?

 

学校の先生

本当のことをいうと、わたしは中学の美術の時間はなかなかいいと思っている。古今東西の美術史を学び、いろいろな作品に触れる。まことに楽しい時間である。わたしも中学時代の柴

山先生にはたいへん多くを学んだ。もっとも美術の評価のほうはいいかげんで、何かの偶然でわたしの父が国画会の会員と知るや、一遍に評価が最優秀になった。ためしに高校では、自

分から父のことをしやべってみたら、10段階評価で3が7に跳ね上がった。実にいいかげんである。対談のなかにも同じような話があって、石城さんは「学校の先生って無責任です。そめ

程度なんだもん」といい、池田さんはそれに答えて「そう。教師なんて、そういうものですよ」と来る。さらに、前のところで、「画家はね、やっばり学校の先生が一番多いですよ」と

いい、「一番楽なのは先生ですよね」と締めくくる。物凄いことを言う。ま、しかし、中学や高校の美術の時間はアカデミックとは言えないと思う。ただ、学校の先生個人の問題として、

先生をやりながら創作するのは難しいかもしれない。やはり安定してしまうこともある。もっとも、対談の終わりで、池田さんが絶賛している書家の井上有−は長く学校の先生をやった

人だった。一概には言えない。

問題は美術大学にある。が、池田さんも多摩美大の客員教授だそうだからして……。

 

わたしの意見

わたしは美術というジャンルは怪しいと思っている。美術とか芸術などという分野は認めたくない。だから芸術家もいらない。『芸術家になる法』も何もないということになり、この池

田さんと石城さんの対談そのものを否定することになってしまう。

ま、この『芸術家になる法』という本は面白いから読んでみてください。

ところで、わたしの意見だが、芸術家などは不要である。先ず、ちやんと生活するべきだと思う。正業に就く、ということである。しかし、その道で大成することはない。もちろん絵の

ほうでも大成はない。大成したって文化勲章である。まともな画人は誰ももらっていない。生きて行ければいいのである。一応人並みに子供を育てて、何とか年金を払ってそこそこの満

足で生きて行くなら、時間はけっこうあるものだ。

ときには生活苦も襲ってくるが、好きなことをしているのだから致し方ない。絵を描くとは子供がひとり余分にいるようなものだ。しかもかなり手がかかる赤ん坊である。そのかわり、

無我夢中で絵を描いている時間は至福のときである。うまく行かなくて苦しいときもあるし、油臭くなるし、手や服も汚れる。金にならないのにクタクタになる。本当に辛くて嫌なのだ

が、不思議にそれが一番いい時間なのだから困る。

わたしは絵があるから歳をとってやることがないという心配はないようだ。あのNHKの生涯教育とかいうダサイ奴に参加しなくても済む。それだけでもありがたい。

 

酢屋道全のこと

京都の北の鷹峯(たかがみね)というところで酢を売って暮らした老禅坊主がいた。酢屋道全とか通念とか呼ばれたが、本当は、桃水雲溪(とうすいうんけい)という。江戸初期の曹洞

宗の禅僧である。若い頃は、当代一流の禅僧たち(沢庵や隠元)と交わったが、後に寺を捨て、教団とも一切係わりをもたずに、乞食の群れに暮らしたり、わらじを作って売ったりして

生き延びた。七十余年の生涯だった。この禅僧の詳しい伝記は、岩波新書の『日本の仏教』にあるが、さらに詳しい本は『野聖桃水和尚』(宮崎安衛門著・春秋社刊)である。わたしも

持っているが、まだ全部読んでない。不勉強ですいません。

桃水には絵を残した記録はない。ところが、桃水と同じような禅僧がけっこういる。絵も措いている。徐々にご紹介するが、これらを知ったらヨーロッパ美術なんてどこかにすっ飛んで

しまう。日本はいい。捨てたもんじやないどころか、本当の本物は日本にこそあるのかもしれない。                           長カッタケド、おわり。

 

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