唇 寒(しんかん)集44<14/4/3〜6/28>

 

14年6月30日

金曜日に箱根の彫刻の森美術館に行った。20年振りかも。前よりなんか狭く感じた。

お目当てはピカソ館。ピカソ晩年の傑作がわんさか展示されている。以前にあった絵画館も見たかったけど、彫刻館に変わってしまっていた。もっと絵が

見たかったぁ〜。

一番素晴らしかったのは空気。美味かったぁ〜〜〜。2年前の南フランスの空気を思い出した。空気が美味いって嬉しいことだよね。それだけでも田舎暮

らしは贅沢と言える。

ピカソは60歳から第二の作家人生を歩んでいる。リタイヤした方々は必見かも。60歳から30年余り。普通の人の人生1回分をしっかり味わった、という計

算だ。

60歳のときのピカソに迷いはなかった、と思う。私が思うピカソの人生最大の危機は45歳だと思っている。それまでも危なっかしい。ピカソが本当のピカ

ソになるのはマリー・テレーズに会って以降だ。これが45歳。ピカソはマリーに出会って危機を脱する。1928年のリトグラフ『顔』は、マリーの美しさを

そのまま描いている。美しさに感動するピカソの喜びの筆触がある。このリトグラフは箱根美術館も所蔵しているはずだが、今回このリトグラフの展示は

なかった。

マリー以降、ピカソの絵は女性によって支えられてきた。道徳的には『?』もある。でも、晩年のピカソこそわれらがピカソなのではないか。少なくとも

私は晩年のピカソに強く惹かれる。女性や家族の絵もいいが、闘牛シリーズも見逃せない。陶器の絵付けもいいし、陶器そのものの造形も悪くない。どれ

もこれも欲しくなるような作品だった。

彫刻の森美術館は是非また行きたいと思った。空気を食べに行きたい。なんと町田から1時間余りでついてしまうのだ。都心に行くより早いかも。入場料

が1500円。私にはちょっと高額。絵が見たかったら近所のポーラ美術館にもよりたいけど、そっちは1800円。足を伸ばして熱海のMOA美術館まで行けば、

日本や中国の名品(水墨画など=2月がおすすめ)に出会える。これまた1800円。100円引きのパンフは簡単に手に入るけどね。

 

14年6月21日

絵は不思議だ。

最近、徐渭の『牡丹図』(花卉雑画巻・泉屋博古館蔵)の複製を毎日見ているけど、飽きることがない。もちろん実際の牡丹はもっともっと綺麗だ。だけ

ど、実際の牡丹より徐渭の絵のほうが見たい。実際の牡丹を見たいと思う気持ちと徐渭の絵の牡丹を見たいと思う気持ちは全然ちがうようにも思う。

ここのところは、パスカルが「原物には誰も感心しないのに、絵になると、事物の相似によって人を感心させる。絵というものは何とむなしいものであろ

う!」(『パンセ』L)と言ったのに対して、ドガが「このむなしさそのものが芸術の偉大さなのだ」とコメントしていることにも通じる、か?(このエ

ピソードは集英社の「現代世界美術全集」の『ドガ』107ページにある)

ま、パスカル(1623〜62)はレンブラント(1606〜69)とほぼ同時期の人だ。近代絵画を切り拓いたドガ(1834〜1917)から言わせれば「何もわかってい

ない昔のお兄ちゃん」というところ。パスカルは絵について何もわかっていないけど、ものへの洞察は鋭い。絵画についても問題の核心をついている、か

も。

花の絵について言えば、モネだってルドンだって、本物の花をそのまま描いているわけではないだろう。花に感動した自分の気持ちを描いているのだと思

う。

こんな考察では浅くて情けないか。ここのところ『哲学入門』(戸田山和久・ちくま新書)を読んでいるので、物事を難しく言わないといけないような強

迫観念にとりつかれている。

花に感動している自分の気持ち、じゃなくて、自分の姿とか存在みたいな? そういう言い方? それを描いているんじゃなくて、描くという行為によっ

て自己完結しようと喘いでいる? その喘ぎに陶酔している。その喘ぎの中に喜びがある、とか? そういう喜びだけで満足するべきなのだ。出来た作品

は二義的なものだ。何かだんだんイッキ描き理論になってきた。

 

14年6月14日

ゴッホは死んじゃったからわからないけど、60歳以降の晩年の絵でいいものを残した画家は案外少ないかもしれない。絵も、一般の職人技と同じで40〜50

歳ぐらいが最高と言う人もいる。

ヴュイヤールの晩年もイマイチだし、プッサンの晩年の絵もあまりいいとは感じない。マルケはどうなのか? だいたいマルケは若い頃の絵が抜群にいい。

壮年のころの絵もびっくりするぐらい簡素に描いていて凄いリアリティがあるけど、若い頃の絵のほうが厚みがある感じもある。ルオーの30歳代までの絵

は神がかっている。ユトリロは1911年まで。それ以降は見るに堪えない。

若い頃の絵のほうがいい画家はとても多い。そっちが普通かも。

私がこのホームページやブログで絶賛しているモネもピカソもティツィアーノもミケランジェロも富岡鉄斎も、みんな例外なのかもしれない。

ターナーは晩年も素晴らしい。ドガも落ちていない。

ま、私自身の場合は、作品の出来不出来(できふでき)は問題ではない、絵を描くこと自体が大切なのだ、という説だからどうでもいいわけだ。また、絵

は描けば描くほど上手くなる、という説だから、上手くはなるはずだ。それが魅力的ないい絵かどうかは別問題。どっち道、私自身の最大の問題は描き続

けることなんだから、絵の出来はどうでもいいことになる。描く行為にこそ価値がある。

 

14年6月7日

ああ、6月になってしまった。このホームページも整備していないし、キャンバス販売の価格表も作っていない。YouTubeなんてまったく遠いところにある。

もうしっかり飽きているスパイダーソリティアだけは続けている。もっとも最近、娘がこのパソコンをよく使うのでスパイダーソリティアも出来なくなっ

てきた。飽きているからどうでもいいけどね。

それにしても、私は山口長男(たけお1902〜1983)の教えをよく守っている。もちろん面識はない。面識はないけど、弟子の方は私の個展に来てくれるし、

山口の作品展があれば見るようにしている。よく分かんないけどね。小磯良平よりいいのかな? もちろん気持ちの悪い絵ではない。

ブログでも述べたように、山口の教えは直接ものを見ること、デッサンで描くこと、色を信用しないこと、繰り返し描くことなどである。まったく私の方

法だ。

山口は麻生三郎(1913〜2000)と同時代に武蔵野美術大学の教授をやっていた。麻生は才能あふれる達者な画家である。心酔する画学生も多かったらしい。

山口は自分で不器用(ぶきよう)な絵描きと自重している。

私自身は、小磯良平や麻生三郎のような器用な画家だとは思っていない。だけど、山口とも異質な感じ。私の説は器用とか不器用(ぶきよう)とかどうで

もいい。ピカソが天才だと言い張るなら、とにかく真剣に1万枚の油絵を描いてから言っていただきたい。私はおそらく1万枚以上描いている。で、ピカソ

はどうか? 

やっぱ天才かなぁ〜〜〜?

いやいや、まだ勝負は着いていない。まだまだ描いてから結論を出す。だけど、ピカソが天才だろうが秀才だろうが、そんなことどうでもよくなっている。

少なくともピカソは素晴らしい画家である。尊敬できる。

 

14年5月31日

いい絵とは何なのか? なんか訳がわからなくなる。

見たい、見ていたい。美術館では通り過ぎても、またその絵の前に戻ってしまう。隅から隅まで見たい。ずっと見ていたい。家に帰ってからも忘れられな

い。しばらくするとまた見たくなる。そういう絵は、だいたいいい絵だ。まず間違いない。しかし、そのときはわからなくても、後でいいと分かる絵もあ

る。いいと思っていてもよく見てみると大したことのない絵もある。ここのところが難しい。

自分の絵となるとさらに難しい。身びいきになってしまう。

描く立場ならなおさら難しい。描くときの心得だ。

私はとにかくデッサンで攻める。裸婦なら骨格と肉付け、風景なら大地の地勢、花なら幹、枝、葉っぱという構造を掴む。

そういう対象の構造を掴むことが肝心だ。

その前に何を描くかだ。

描くものに感動しなくてはいけない。感動しても、その感動を追い払って構造を見極めることが肝心だ。感動は熱くなるけど、描くときは冷静でないと描

けない。冷静と言っても、描きたいという気持ちを抑え過ぎてもいけない、と言うかそれは抑えきれないけどね。だから描くんだ。

われわれは、本当に描きたいものを描く。描きたいように描く。この当たり前の原則を忘れてはいけない。

絵は出世の道具でもないし、金を稼ぐ手段でもない。60年も生きていると出世はどうでもよくなる。総理大臣にもなりたくないし、文化勲章もいらない。

本当にやりたいことをやらなければいけないと思う。もちろん自己完結のなかでだ。自分で始末出来ないことはやれない。そんな才覚もない。

私にはもう絵を描くしか能がない。それで十分幸福だ。ま、そうなってくると、「いい絵」なんてどうでもいい、ということになる。作品は結果だもん。

描くときには関係ないよ。出来栄えばかり考えていたら筆がビビって絵にならない。

イッキ描きはその矛盾を孕んだまま突っ走る。とにかく描かなきゃ始まらない、のだ。

 

14年5月24日

では、裸婦はどうか?

バラの葉っぱのように魅力的か。裸婦は女性の裸なんだから魅力的でないわけがない。

裸婦は肉付けが難しい。そこが楽しい。肉付けというのは『ロダンの言葉』(岩波文庫)に繰り返し出て来る。もちろんロダンの言うのは彫刻の話だけど、

絵だってものの見方という点では同じである。やっぱり裸婦は肉付けの醍醐味が一番かもしれない。

肉付けというのは肌の表面の筋肉の凸凹を追うことだ。だけどこれは表面の凸凹ではない。内側から出ているのだ。色立体みたいな感じ。色立体ってご存

知だろうか? 色の棒が無数に出ている美術の教材だ。千手観音みたいなやつ。ああいう風にたくさんの棒が身体の内側から出ていてそれが肌の表面の凸

凹を作っているのだ。その凸凹を皮膚が覆っている。

ドガの裸婦や馬の筋肉の表現はロダンの肉付けをよく説明してくれている。

もちろんギリシア彫刻は完璧である。

どうしても、肉付けの喜びの糸を繋いで行きたい。ま、後世のことはどうでもいい。少なくとも私だけは肉付けを楽しみたい。いっぱいやってみたい。

そうすると、バラと裸婦はまったく課題がちがうということだ。バラに肉付けはない。

風景には大地の肉がある。それは基本だ。地勢を描くということだ。同時に大気がある。これまた別の画題。

しかし、絵は、最後は造形なのだ。厚みとか線描、筆致。

色彩も? いやいや色彩は危険である。色彩に惑わされてはいけない。色香に迷うのは世の常。見ない振りを極め込むしかないか。見て見ぬ振り。むきに

なって相手にすると泥沼にはまる。

 

14年5月17日

頑丈な絵というのがある。石壁や鉄板のように堅固で跳ね返すような強い絵だ。たとえば、ゴッホの絵。オヴェール時代の雨の絵とか。サン・レミ時代の

森の下草の絵も頑強だ。

木村忠太の40号ぐらいの横長の絵を名古屋の日動画廊のウインドウで見たことがある。何が描いてあるのか分からないが、灰色の美しい絵だった。画肌に

強い抵抗感があった。それは悪いことではない。

そういうのをマチエールというのかもしれない。画肌の凸凹をマチエールと呼ぶ場合が普通だ。しかし、マチエールとはもともとは物質のこと。絵具の物

質的な効果を上手く表現した絵という意味だと思う。私はそういう風に思っている。

描く立場ではどうだろう。やたらに絵具をいっぱい使えば出来るのだろうが、これも実は簡単な描き方ではない。絵がグチャグチャになっちゃう。

たとえば、バラの葉っぱ。一枚ずつむしって(やったことはない)見比べればみんな同じようなものだ。色も形もそっくりだ。だけど、それが枝から生え

て艶やかに機能している姿は、もちろん同じじゃない。よく見れば、色も形も大きさも違う。それが光を受けて輝き、裏から光を通して軽やかに透けて見

えるのもあり、重なって下のほうで重厚に黒光りしている葉もある。実に複雑だ。この時期のバラの葉っぱは見れば見るほど美しい。

あれを描くとなると、やっぱりゴッホみたく描きたい。だけどあんな風に頑強なマチエールはまず期待できない。それは晩年のモネのような筆致のほうが

真似しやすい。もちろんモネのほうも簡単には真似出来ないけどね。

しかし、描くときには、まずはゴッホ、モネレベルの画肌を意識していたい。徐渭や牧谿となると、さらに素晴らしい。墨一つで複雑な植物の生態に迫っ

ている。

そうなると、ま、以上のような野望を抱きながら、もちろん、筆を揮いながらだけど、絶対的な失望のなかで描いている。出来っこないのだ。『絵の出来

なんかどうだっていい』という発言の裏には以上のような古典絵画への敬慕がある。絵の出来なんかどうだっていい。3時間バラ園にいるだけでハッピー

なのだ、ということになる。

ざっと計算して、少なくとも20年間は春と秋のバラを描いてきた。年間最低30枚描いたとして600枚描いたことになる。きっともっと描いている。それで、

自分で満足のゆくバラの絵は何枚あるのだろう。買ってもらった絵も含めて、多く見て20点というところか。情けない。だけど20点あるだけ凄いかも。

そういう絵がモネやゴッホの後裔として、牧谿や徐渭を継ぐものとして、それだけのレベルに達しているのかどうか、自分ではとても『うん、OK!』と

は言えない。でも、これからももっと描く予定。私はそういう絵の世界のなかで絵具まみれになっている。すっごく楽しいのだ。

 

14年5月10日

人生の成功って何だろう?

成功経験のない私には語る資格もない。

五代目三遊亭圓楽と三遊亭楽太郎(現・六代目圓楽)は自分たちが人生の成功者だと語っていた。小説家の浅田次郎も自分を人生の成功者だと

思い込んでいる。マンガ『バガボンド』の作者の井上雄彦もそういう節がある。

人生の敗残者、負け犬である私から見ると、上記の人たちを羨ましいとは思えない。ああいう風にはなりたくない。・・・と言っても63歳だからもうなれ

そうもない。なれても先がない。

私の希望はもう少し大きい絵(200号(259.1×194.0p)とか)が描きたいことぐらい。だけどそれも切々たる望みではない。どうでもいい。描ければ描

いてみたいな、ぐらい。

20号(72.7×60.6p)でもけっこうでかい。毎年100号(162.1×130.3cm)は5〜6枚描いている。それだけで幸せだ。続けて描くから500号、と自分で勝手

に慰めている。

好きなことをやってお金がたっぷりもらえれば、とりあえず人生の成功者かもしれない。でも、私みたくお金がなくてもやりたいことをやってる人間もた

まにいる。

私のやりたいことは、絵を描くことと泳ぐこと。

マンションの管理人だから見回りで歩きまわるから、よく歩いている。マンションの日は1日15000歩ぐらい歩く。これはけっこう大変だけど、体調にはす

こぶるいい。実際、私は6年前に管理人になって以来生き返ったように元気になった。

泳ぐのは喘息予防のためもある。

でも、歩いているとき、泳いでいる最中、そういうときは至福のときかもしれない。絵を描いているときは言うに及ばない。極楽だ。絵の出来は二の次だ。

だけど、上手くいく場合もあるから、それも楽しい。買ってもらったときも嬉しい。

心配ばかりの金なし人生だけど、確かな喜びの瞬間はある。

私は誰がどう見ても人生の負け組だけど、喜びを知っている。味わっている。楽しんでいる。苦しい暮らしの中でもけっこう余裕があるかも。

 

14年5月1日

来週から更新日を土曜日に変更する。どうも水曜日は忙しい。金曜日のほうが暇みたいだ。

若い頃からの主張は「色彩は絵画の要素ではない」というものだ。色は重要ではないと言っている。それなのに、私自身はいつも色のことを考えている。

ズルイかもしれない。

色彩は理論だとボナールが言ったが、私も同意見だ。というか、ボナール先生にしたがっただけ。ゴッホも毛糸で色彩研究をしていた。私もいつも12色相

を考えている。赤の隣の緑は綺麗だ。黄色には薄紫がよく合う。白は重要なポイントになる。そういうのはけっこう楽しい。コバルトブルーはイエローオー

カーの中に置くと輝いて見える。コバルトブルーは高価な絵具だ。ほんのちょっと隠し味的に絵の中に入れておくと絵の厚みが増すように感じる。実際の

絵を見ると、多くの大巨匠がこの方法を使っている。そういうのを見つけながら美術館を巡るのも楽しい。

そして、絵はやっぱりモノクロなのだ。それが基本だ。そのモノクロの中にちょっと色を置く、これが絶大な効果を生むのだ。これもドガの言っているこ

とだけどね。実際の風景もほとんど灰色である。そのなかに赤い花があるから綺麗なのだ。遠くの新緑も美しく見える。

で、線は修練である。「色彩は理論、線は修練」これが私の主張だ。私も今まで何十年も、集中してたくさんの線を引いてきた。これもドガがアングルから

学んだことを実践しただけのこと。だけど長年やっていて、そういう私みたいな線人間はけっこう少ないかもしれない。

だから、絵は才能ではないと思っている。考えて実験して練習するだけのことだ。少なくとも私はそれだけの人間だ。私自身には才能なんてないと思う。

でも、けっこう下手の横好きで長年絵を描いている奴は少ない。だって、ふつう人は絵なんて描かない。何十年も絵を描き続けるなんておかしい。普通じゃ

ない。

私は結局絵が好きなだけのジジイなのだ。それだけの話だ。

 

14年4月24日

絵を何かの道具にしてはいけない。生活の糧にしていけない。自分の地位や尊敬されるための道具にしてはいけない。禅で言えば、富貴栄達を追ってはい

けない。名利(みょうり)の道に走ってはいけない。

では、絵の中の線や色は絵のための道具にしてよいのか。絵を構成する線描や色彩を、上手(じょうず)な絵を仕上げるための小道具にしてもよいのか。

絵の中の一筆に魂を篭めなければいけないのではないか。

きっとそんなような考えが表現主義の根幹だと思う。

全然ちがうかもしれない。

しかし、禅の書画には一筆入魂みたいな教えがある。

実際に描いている身としては、一筆の重要性は当たり前すぎて語るのもバカバカしい。諦めかけた絵が最後の一筆でよみがえった場合もある。最初の一筆

は絵画をほとんど決定してしまう。息を止めて、気合を篭めなければ絵全体が腑抜けになる。

やっぱり絵画とは自己主張かもしれない。いやいや、自己主張ではない。

イッキ描きは、どう考えても表現主義とは言えない。自然主義だ。だって、いつも現場で実物を見て描く。そして、その対象から受ける感動を筆に託して

いる。しかし、自分の感動を正確にそっくりそのまま再現することは出来ない。それは永遠に不可能だ。不可能なことは大前提。でも、一応は再現しようと

している。というか、山の線や花の色に自分の思いを託しているのかもしれない。いやいやそんなしゃれた、余裕のある関係じゃない。ダメと知りつつも

再現しようとしている。その葛藤が筆の跡である。

やっぱり泥沼である。

 

14年4月17日

今年の金井画廊展では裸婦の絵を1点も買ってもらえなかった。おそらく過去初めてのことだと思う。

『え〜ぃ、ヤケクソだい! もう裸婦なんて止めた』とも瞬間的に思ったけど、止められるわけがない。去年の11月に『私は裸婦を描くために生きている』

と語ったばかりだ。

15日のクロッキー会は、金井展後初めてだった。どうせ買ってもらえないなら、どう描いたってこっちの勝手だ。少し買ってもらえるからスケベ根性が出

る。売れないとなれば自由自在。好き勝手に殴り描き出来る。と、これまたヤケクソになった。どうも根性がひねくれている。

ま、今まででも十分好き勝手に描いていたと思うけどね。

ピカソの1971年ごろのインクのデッサンを見ると、これまた好き勝手に描いている。死ぬ直前のデッサンだ。あんなに有名(ゆうめい)になり、90歳も過

ぎていればまったく自由自在だろう。10号から15号ぐらいの紙に描いている。

ピカソはやっぱり楽しいね。

箱根のピカソ館に行く予定はまだ消えていない。先週見た町田市立国際版画美術館のピカソ展で間に合わせようとも思ったけど版画だけじゃつまらない。

と言いつつも、今週の土曜日も無料だから行くかも。マンション勤務があるが午前中にちょっと行ける。

で、裸婦だけど、やっぱり描くなぁ(当り前か)。6月のアトリエも2回予約した。

 

14年4月10日

6日(日)のサンデーモーニングのスポーツに張本と一緒に33試合連続安打の元広島の高橋慶彦が出ていた。そのとき、一振りで素振りをどれだけ練習し

ているバッターかすぐわかると言っていた。張本も同意見だった。

確か『振り込んでいる』というような言い方だったと記憶する。

絵でも一目見れば線の修練はすぐわかる。書でもわかると思う。

絵は方法で描くものではない。絵というのは、私が言うところの『純絵画』のことだ。イラストやアニメだったら方法がある。純絵画に方法はない。あっ

たら面白くない。それでは、美術大学が成立しないではないか、と言うだろう。私は成立しないと思っている。美術大学は要らない。街の絵画教室は要る。

だって、生徒のみなさんは絵画教室でのみ絵を描く人がほとんどだから。絵を描く場として必要なのだ。

私は自分がプロの絵描きだとは思っていないけど、とにかく自分一人で絵を描きに行くからアマチュアではないかも。中国の董其昌に嫌われるから職業画

家にはなりたくないけど、絵が売れないとヒジョーに困る。私みたいな年収200万円男にはとても困るのだ。私は董其昌の嫌う『売り絵描き』ではないと

思う。好かれないかもしれないけど『買ってもらう絵描き』だ。もっとも、今の金に直して年収2000万円は下らなかった官僚の董其昌に私の収入について

ゴタゴタ言われたくもないけどね。

ところで、私は董其昌の絵で、いい絵を知らない。池大雅も富岡鉄斎も董其昌をたいそう尊敬している様子だけど、董其昌の傑作ってどんな絵なんだろう?

よく比較される徐渭だったら、傑作はいっぱいある。徐渭は科挙に落ちて官僚になれなかったフーテンだ。私と同じだ。もちろん私は初めから官僚なんて

目指していないし、目指せるようなそんなに聡明な学生ではなかった。無論、私が徐渭になれるとも思っていない。徐渭は奥さんを殺してしまった画家だ。

私が家内を殺すことは、まずない。申し訳ないと思っている人を殺せるわけがない。殺されても文句はないけどね。

 

14年4月3日

ゴッホは2時間で30号を描き上げる。おそらく加筆訂正はしていないと思う。1回描きだ。私も3時間で15号から0号まで6〜7点の絵を描く。面積的にはゴッ

ホより小さいかもしれない。ま、3時間と言っても描いている時間は2時間にもならない。だいたい初めの1時間は見ているだけだ。花でも風景でも静物で

も同じ。裸婦は、当然だけどどんどん描く。裸の女性が目の前にいるのに「見ているだけ」のはずもない。

私の描法は大きい絵から始める。15号(65.2×53.0cm)がない場合でも最低10号(53.0×45.5cm)からは描きたい。20号(72.7×60.6p)から始める場合

も少なくない。この前の海は40号(100×72.7cm)から描き始めた。

私の描き方はゴッホに近いけど、何枚も描くから、ゴッホより気が多い。移り気であり、散漫なのかも。描いているときは集中していると思うけどね。自

分としては、意識が飛んでいるぐらい集中している。集中は楽しいかも。

今も桜が私を呼んでいる。早く描きに来いと言っている。行くよォ〜〜〜〜。

もう、行った。火、水で合計10枚描いた。

 

 

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