唇 寒(しんかん)集19<04/8/8〜04/11/21>

 

04年8月8日

今年も嬉しい夏休みが来た。嬉しいには嬉しいが9月からの経済状況を考えるとぞっとす

る。

ま、9月からのことはジタバタしてもどうにもならない。とにかく夏休みを楽しもう!

夏休みといっても大したことはしない。図書館と本屋とプールをぐるぐる廻るだけ。後半

は豊橋に行くが、そこでも同じことを繰り返す。ただ豊橋の本屋は成瀬や町田の本屋より

ずっと楽しい。本格的な大規模書店だからだ。売れない本でもちゃんと置いてある。やっ

ぱり本屋はああでなければいけない。売れない本でも置いておけば人を呼ぶのだ。人が来

ればいろいろなものが売れる。そういう理屈もある。ただコンピュータで売れる本を調べ、

売れる本だけを仕入れ、並べておくコンビニ方式では本屋がどんどんつまらなくなる。本

屋が町の文化のオアシスではなくなってしまう。

 

少し前に、知らない絵描きの個展会場に入ったら、その絵描き(オジサン)が若い女性の

お客さんに「どれか1点選ぶとしたらどの絵かな?」と聞いていた。若い女性が何かを選

んだら「じゃあ、その絵を差し上げましょう……というわけにはいかないか!」と言って

大声で笑った。

「はあ? どれか選べと言ったから選んだだけ。こんな絵ゼッテェいらねぇ!」

とその女性は思ったのではないか? 

会場でああいうセリフは絶対に言ってはいけない、と肝に銘じてしまった。言いっこない

けど。鳥山明のマンガだったら「アラレちゃん」の「すっぱまん」とか「ドラゴンボール」

のサタンのキャラ。もっとも、作者の顔も若い女性の顔も絵もほとんど見なかった。でも、

やっぱり絵だけはけっこう見ちゃったかな? 見たくなかったけど、会場に入った以上見

ないというのは失礼すぎるし、こればかりは致し方ない。

どうもその絵がイッキ描きみたいな感じ。少なくとも数分で仕上げた油絵のように見える。

私の絵もこんな風に見えるのだろうか? まったく恐ろしい。

と言うわけで、おそらく来週の更新はお休みです。ご容赦ください。

 

テオ画材舗を覘くと、9月30日まで目玉商品40%引きのセールらしい。

このチャンスに是非クレサンを味わってはいかが。

クレサンキャンバスの接写写真はこちらで見ることができる(裏も表も)。

なお、インターネット上には知ってか知らずか、クレサンと称して日本製キャンバスを売 っ

ているサイトもある。くれぐれもご注意ください。

 

04年8月17日

この更新日は8月17日だが、書いているのは14日。

11日は甥っ子の子供たち(1歳男と3歳女。私は大叔父に当たる)が来て、今回はけっ

こうちゃんと遊び、12日はバラ園で油絵を描き(失敗)、13日は豊川(日本一の清流?)

で、鮎と泳いだ。今日はプールへ行って、明日は海へ行く。その翌日はヨットハーバーと

バラ園に行き、再度油絵を描く予定。

早い話が今は夏休みの真っ最中ということ。

面白いのは、上記のような場所へ家内と一緒か一人で行くというところ。50過ぎ(私は

半ば)で、子供や孫も連れずに海や川やプールへ行くのはちょっと普通じゃない。私は

(おそらく家内も)とにかく水の中が好きなのだ。あの水圧が心地よいのだ。子供のころか

らプールに入ると上がってこないタイプだった(泳ぎは下手だった。今はかなりうまい)。

風呂は5分もはいっていればのぼせてしまうが、海やプールなら1時間入っていても大丈

夫。よく泳ぐから健康にもいいのだろうが、そんな深い考えはない。ただ泳ぎたいから行

くだけ。海や川は魚がいるから楽しい。豊川の鮎は、浅瀬で水に浸かっていると足をつつ

いてくる。ついでに言っておくと、私は豊川で一度死に掛かった。海では何度も死に掛かっ

ている。海や川は本当に恐ろしい。沖で足が攣れることもよくある(落ち着いて水中で攣

れた足の親指を引っ張り、それから十分マッサージをし、足をなるべく使わないようにゆっ

くり岸に向かって泳ぐ)。

以上のような綿密な計画を立てても、それでも十分暇なのが夏休み。

暇になると「文化」が生まれる。新しい出会いがある。今回は養老孟司の本を読んでいる。

ここ半年で物凄くメジャーになった医学の先生。脳が専門だと思っていたら実は虫が専門

らしい。メジャーになったのは「バカの壁」(これは立ち読みしかしてない=遅読だから

ほとんど読んでない)。部屋に転がっていたのは、家内が図書館で借りてきた「まともな

人」(中公新書)。「中央公論」に毎月連載されているエッセーを集めてある。

養老先生はテレビによく出る。だから昔から知っていたが、まったくほとんど興味がなか

った。テレビの表情やしぐさ、ものの言い方を見ていると、自分だけわかっていて、一人

でフフフンと笑い、勝手に喜んでいるからだ。門外漢の素人には全然わからないし、なぜ

かわかりたくもなくなる。まさしくバカの壁。

やっぱり文字はいい。よくわかる(それでも不明の箇所は多い=これもバカの壁)。

まず、一番気に入ったところは、出来るだけ遊ぼうとしているところ。ぶらぶらダラダラ

いい加減に過ごそうとしている。ここがいい。仕事をしようとしない。好きなことをしよ

うとしている。そこがいい。人間、こうでなければいけない。こうでなければ話が出来な

い。始まらない。

学生時代、ある友人が言っていた。「一日を4つに分けて、一つは勉強、一つは好きなこ

と、一つは食事や風呂など、一つは睡眠に当てる」

これは至言である。人生も同じでありたい。絶対そうあるべきだ。こんなことはヨーロッ

パでは常識。一日の3つをすべて仕事に当てているのは日本人ぐらい。あとの一つで風呂、

食事、トイレ、睡眠をまかなっている。これでは死んでしまう。というか、死んでいるよ

うなもの。

仕事というのは、実際は世間に役立つことだ。みんなが喜び、幸せになること。これが仕

事である。私たちは幼い頃からそう習ってきた。

 

と、以上が8月15日の朝までの記述(少し修正した。絵はイッキ描きでほとんど直さな

いが、文章は何度も推敲する)。ここから8月16日の夜。

今日は予定どおり海へ行った。がんばって伊良湖(いらご。島崎藤村の「椰子の実」の詩

で有名な渥美半島の尖端。台風情報ではいつも登場する)まで足を伸ばしたが、クラゲと

訳のわからないプランクトン(だと思う)に身体中刺され5分も泳いでいられない。バカ

野郎! 駐車場代500円返せ! 

致し方ないから、赤羽根というサーフィンの盛んな場所で泳ぐ(こっちは駐車場代無料!)。

浮き輪もボードも何にもなしで、身体一つで波に乗る。けっこう面白い。物凄いスピード

で浜辺に運ばれる。途中で波に巻き込まれ、前後左右天地がまったくわからなくなる。少

し収まってから立ち上がると、膝ぐらいの場所にいる。本日は5回ほど揉みくちゃにされ

た。ちなみに、昨日はちゃんとプールへ行き、2000メートル近く泳いできた。

ここで少しみなさんの役に立つことを書く。海から出ると、身体中がベトベトで思わず真

水のシャワーを浴びたくなる。しかし、ベトベトのまま10〜15分我慢していると、驚く

ほどサラサラになるのだ。だから真水のシャワーは要らない。

さて、昨日の続き。

「仕事というのは、実際は世間に役立つことだ。みんなが喜び、幸せになること。これが

仕事である。私たちは幼い頃からそう習ってきた。」とここまで述べた。

人を幸せにし、自分も幸せになるのだ。これが仕事の建前だ。

しかし、実体はかなり違っている。だいたいが楽しくない。幸せじゃない。仕事が全然な

いのは寂しいが、仕事は嫌なもの。出来ればやりたくない。生計が立つならブラブラして

いたい。仕事が急にキャンセルになり、突然休みが飛び込んできたときの幸せは言葉に尽

くせないほどだ。もっとも私は桁外れの怠け者だから、世間一般の基準にはならないかも

しれない。

とにかく、お金をもらえる仕事のほとんどは世間の役に立つ。人を便利にさせ、幸せにさ

せる。そこに多少の幸せもある。多少はあるが、大部分の人はお金のために仕事をする。

幸せのためではない。お金によって幸せになろうとしている。これはこれでいい。実際お

金が人を幸せにするかどうかは不明だが、とにかくそういう風に思っている人は多い。

それで、お金のために必死で働く。仕事の建前は喜びだが、本音は金。だから、誰もが必

死になる。みんなが必死で働くと世の中が活発になり、正常に機能する。実にうまく出来

ている。もともと仕事はそれ自体が喜びでもあるから、永続きもするし、広く全世界でみ

んな働いている。

しかし、お金という漠然としたもの(養老先生は「幸せの可能性」と呼んでいる)、それ

自体にはほとんど価値はないものを得るために全人生を犠牲にするのは道理に合わない。

だから、仕事もするが、同時にしっかり遊ぶ。仕事は遊ぶためにする、ここのところをきっ

ちりしておかないと死んでも死に切れない。仕事は嫌なもの、やりたくないものと決めて

かかるべきである。それでもちゃんと喜びはあるのだから心配ない。お金のために働くの

だ。ここが資本主義のいいところ。この辺の区切りをおろそかにしたのがマルクスさんな

のではないか? 

もっとも今の私は全生活を掛けて金を稼がなければならない立場。だけどやっぱりきっち

り泳いでしまう。絵も描く。だって人はいつ死ぬかわからないのだから。

 

04年8月22日

楽しかった夏休みも終わり、もっとも過酷な仕事の季節を過ごしている。外を15分歩く

だけで1日のエネルギーを使い果たしてしまいそうな酷暑。真冬のほうがずっといい。

夏休みの最中は仕事の日が近づくことを恐れ、生きているときは死期を恐れる。われわれ

は物心ついたときからずっと恐れながら生きている。ま、しかし、現実にはそれほど恐れ

ることはない。仕事なんて実際に始まってしまえばどんどん出来る。もともと仕事には喜

びもあるのだから、どうということはない。

死ぬことだって、もちろん恐ろしいには恐ろしいが、死のことばかり考えていては暮らし

てゆけない。死ぬことを全然考えていない極楽トンボも救われないが、死ぬことばかり心

配していては何にもできない。つまらない。人はみんな死ぬ。死ぬのは怖いが、気が狂っ

て死んだ人はほとんどいない。だいたいの人は普通に死んでいる。ちゃんと脳内麻薬が出

て、訳のわからないうちに死ねるようになっているのだ。人の身体はそういうふうに出来

ているのだ。ご安心のほどを。

良寛様も言っている。「病気のときは病気のように。死ぬるときは死ぬるように」(出典

不明。記憶だけ。確か大地震が来たときに言ったのだと思うが、どの本に書いてあったか

覚えがない。図書館読書はこういうときに困る。やっぱりいい本は買いたいものだ。)

また、将棋の升田名人も言っている。「笑えるときに笑っておけ。すぐ泣くときが来る」

繰り返しになるが、泣くのも決して悪くはない。たまには泣いたほうがいいこともある。

笑ってばかりいたのでは、顎が痛くなる。

それにしても金がないのは困る。もっともっと働かなければ。不景気とはいってもこんな

に平和で豊かな国に暮らしているのだ。働けば必ず食えるはず!

 

04年8月29日

明日からサロン・ド・ヴェール絵画教室の作品を中心とした展示会が始まる。インターネ

ットで知り合ったアトリエ アートボックスのインプレッションさんも出展してくださった。

昨日はその飾りつけ。

私が先生だから私が飾り付けをする。飾り付けは大仕事である。個展でも大仕事、グルー

プ展だと、誰の絵をどこに飾るかで大変もめる。実に困る。わが絵画教室には望月さんと

いう強い味方がいるから、私への風当たりも大分軽減される。さらに、3階から金井さん

が来てくれた。金井さんは金井画廊の主で、このドゥ画廊も経営している。飾り付けの名

手である。20年以上の経験がある。これまた強い味方。大変助かった。

飾り付けが終わって、ざっと見てみると、なかなかいい展覧会である。びっくりした。

世間一般の絵画教室の発表会はみんな同じような絵ばかりが並び本当につまらない。ど

の絵も先生の絵が風邪をひいたような作品になっている。先生の指導が強すぎるからかも

しれない。私など、ほとんど何も教えない。ちょっと不満が出ているほど。この前も「ガラ

スの器はどうやって描くんですか?」と聞かれて、「どうっやて描くんですかね」と無責任な

答をしてしまった。事実描き方なんてないもの。「ガラス、ガラス」と思って筆を重ねれ

ばガラスになる。これが油絵の具というものだ。だって、油絵の具は描いたり消したりし

て、自分独自の画法を模索できる画材だから。無責任で本当にゴメンナサイ。

絵画教室でいつも言っていることは「キャンバスの上ではわれわれ絵描きは王様であり、

神様なんです」ということ。すなわち自由に描けるということである。どういう線を引こ

うが、どんな色を使おうが、描き手の自由。誰からも文句は出ないはず。

また、「みなさん、上手に描きたいんでしょうが、いくらがんばったって描けやしません。

描けば描くほど下手になることもあるんです。それより、いま絵を描いている喜びを味わ

ってください」とも言っている。だから、当教室では自宅へ戻ってからの加筆は禁止とい

うことになっている。このタブーはほとんど誰も守らないが、加筆してうまくゆくことは

まずない。左脳ばかりが働いてつまらない絵になってしまう。現場で実物を見るというこ

とは右脳を活かす最大の秘法なのだ。

絵を描くのは喜びである。たった今筆を持って描いている。熱中している。そんな人の後

ろから「ああ描け、こう描け」などとうるさいことが言えるだろうか? いくら言ったっ て、ど

うせ物凄い傑作が出来るわけではない。それじゃあ、楽しく描いた方がいいではないか。

というようなところが私が絵画教室に寄せる思い。見かけは一見不真面目な指導者による

酷い絵画教室のようだが、絵画の一番重要なところはお伝えしているつもりである。おそ

らく世界一素晴らしい絵画教室にちがいない。嘘だと思ったら京橋の展覧会をご覧くださ

い。自由奔放個性豊かなグループ展になっている。少なくとも描く喜びに満ち溢れている

はず。

と、今朝久しぶりに「美術はたのしっ!」を見た。アンリ=ルソーの「蛇使いの女」がテー

マだった。ご存知のようにルソーは下手な絵描きである。アングルやダヴィンチのように

描こうとして描けなくてああなった。しかし、自信はあった。自分の絵が古典絵画に匹敵

する何かを持っていると知っていた。その何かとは線や形ではない。絵の厚みである。

絵の具の複雑な重なりがかもし出す調和である。ルソーの絵はずっしり重い。あれが難し

いのだ。

絵のうまい下手なんてゴミみたいなこと。絵画の初心者のみなさん、自信を持って描いて

ください。うまい下手より喜びが大事。

ところで、絵の厚みは短時間で仕上げるイッキ描きの最大の弱点。一番難しいところ。イ

ッキに描いてしかも厚く見える、これが私の造形上の永遠のテーマなのである。

 

やっと、養老孟司先生の「まともな人」(中公新書)を読み終わった。この本は「文芸春秋」

の連載をまとめたものだが、古いシリーズが2冊ある。午前中、それを買いに行ったが、

置いてなかった。「毒にも薬にもなる話」と「『都市主義』の限界」(中公新書)。政治の話

が多いが(だから読みやすいこともある)、意見は私とほとんど同じ。私の「絵の話」を

パクったのではないかと思うほど。ンなわけない。お互い全然知らない同士なのだ。子供

の教育のことなどもほとんど一緒。私の塾がいかにいい塾か、本当によくわかる。養老先

生と同じような理念を持ってやっているのだから。まったく凄い塾なのだ。山上憶良の

「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も」の歌も引用なさっていた。

ここで、前々回の話に少し付け加える。前々回、人生には「遊び」が大切、と述べた。し

かし、子供がいる以上、遊びが犠牲になることはある。子育ては大いなる遊びだからだ。

子供のために人生がぼろぼろになることもある。致し方ないか。もっとも子供に金を掛け

過ぎて災いになることも多い。まこと生きてゆくのはつくづく難しい。

 

04年9月5日

明日から上記のように、等迦会東京支部展が始まる。お近くにおいでの節はよろしくご高

覧ください。

サロン・ド・ヴェール絵画教室の作品を中心とした悠遊展は盛会のうちに無事終わったら

しい。途中で忙しくなってしまい、初日と最終日しか行けなかったので、実態は不明。お

話では、やっぱり都心での展示は反応が違う、とのこと。

中野孝次は、死後は散骨などと言っていたが、生前に立派な墓を作ってあったらしい。年

金もしっかり貰っているようだし、どうも「清貧の思想」とか「風の良寛」などとは程遠 い

みたい。ま、しかし、そういうことをちゃんと述べるから正直には正直。また、その学識

の高さ、正確さは「やっぱり学者は凄い!」と驚く。

良寛みたいな桁外れの道者がそんなにたくさんいるわけがない。

本日は短めです。

 

04年9月12日

もう少し、中野孝次を弁護しておくと、中野には子供がいない。3歳年上の奥さんがいる

だけ。中野が先に亡くなると(実際にそうなった)、残った奥さんがいろいろ困る。奥さ

ん自身のお墓もない。そういうしがらみがあるらしい。20台の若さで世間を捨てて修行

に入った良寛とは根本的に違うのだ。修行というとオウムを思い出すが、良寛はたった一

人で山に籠もっていた。徒党を組むオウムなどとは比べられない。良寛の詩を読むと、良

寛は非常な寂しがり屋だが、実体は孤独に物凄く強い。寂しがり屋だからなおさら偉い。

 

今日は5月に貰ってあった招待券を使って竹橋の近代美術館に「RINPA展」を見に行った。

琳派をローマ字で表記したから、世界の琳派か? クリムトなども一緒に展示してあった。

本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山。酒井抱一までがギリギリセーフか? 江戸

後期になるともう駄目。明治に入ったらガタガタ。何をビビっているのだろうか? 何が

怖いのか? 何が欲しいのか?

宗達の直感も光琳の意匠も、何もない。すべて木っ端微塵に消え去っている。

そのあと、4階から2階の常設を見る。中村彝の「エロシェンコ」はやっぱりいい。画集

で見るのとは大違い。本物は凄い。同じ部屋の村上華岳もよかった。日本画とか洋画とか、

そんな画材料の問題ではないのだ。絵描きの心意気である。どれだけの思いで描いている

か? どれだけ絵が好きか? 最後はそういう問題。筆にこめる思い入れなのだ。宗達の

筆致には中国宋元画への憧れがある。遥か異国の先人たちに思いを馳せている。もちろん

一種のルネサンスに違いない。その息吹きは時代とともに見事消え去った。地球の裏側の

ウイーンまで飛んで行ったか? クリムトの方がずっと自由に遊んでいる。

「遊び」と言えば、前々回「養老孟司には遊びがある」というようなことを書いた。この

「遊び」を「飲む打つ買う」の遊びと勘違いされては困る。私の言う「遊び」というのは

自分の好きなこと、養老先生なら虫取り、私だったらお絵描きのこと。絵なんて遊びなの

だ。ここが大事。プロだとかアマだとか言っているうちはまだまだ低レベル。そう言えば、

さっきの中村彝と村上華岳の部屋に鏑木清方の大作が並んでいたが、真剣に命を懸けて遊

んでいる人たちの中にどうしてプロが入るのだろうかと不思議に思った。まったく場違い

な感じ。博物館の先生方はそんな区別もつかないのだろうか? しっかりしてもらいたい。

戸張弧雁の小さな彫刻もよかった。久しぶりの竹橋だったがいい目の保養をさせていただ

いた。長谷川利行がなかったのが寂しいところだが、2004年9月12日(日)、無為

な一日ではなかったと思う。

 

04年9月19日

この2〜3日、久しぶりにいやというほど文章を書いた。原稿用紙で30枚近く。自分の

絵について個展でお客さんに説明するように記述して欲しいとのご希望。インターネット

で絵を売る企画だ。文章について家内の評判は悪くなかった。ま、しかし、インターネッ

トで絵が売れるかどうか? とっても難しいと思う。数年前リコーさんが楽天に1年間掲

載してくれたが、全然売れなかった。ただし、今回の企画を立てた人はネットでいろいろ

なものを売ってきたという。そのかわり絵のことはまったく知らないらしい(そこがいい

かも)。リコーさんが売ろうとしたのは原画ではなくデジタル複製画だし、いろいろな面

で少し違う。絵について原稿用紙1枚以上の解説を、という指示は少し前に聞いたネット

販売の要領にも沿うもの。ここも、期待できる点。ま、とにかく私は作品の画像と文章を

提供するだけでいい(つまり資金などの提供はない=そんなこと言われても金はないが)

らしいから、とにかく指示どおりに書きまくった。合格となるか否かはまだ不明。話を持

ってきたのは昔からよく知っている方なので、問題ないと思う。その人ごと丸々騙されて

いるとお笑いだが、金をむしりとられるわけではないから。近いうち、ネットに登場する

でしょう。

 

先週は養老孟司と甲野善紀の対談を読んだ。養老先生についてはさらに他の本も読んでい

る。

ところで、以前に「まともな人」の前編とも言うべき「毒にも薬にもなる話」と「『都市主義』の限

界」が中公新書であるかのように述べてしまったが、あれらは別の本だった。中央公論社の

本だとは思うが、まだ現物を手にしていないので、詳しくは言えない。

申し訳ありませんでした。

先週読んだ本は「自分の頭と身体で考える」。実際の対談を四分の一以下に要約してある

ので、養老先生と甲野さんの二人がそれぞれ別の話をしているような感じ。それでも十分

面白かった。特に甲野さんはこれまた新発見。古武術の人としてとても有名らしい。こち

らの話はまた後で。

養老先生の主張は一つ。人間の脳の限界と自然の複雑さを知れということ。これを繰り返

している。おそらく「バカの壁」(まだ読んでない)も同じ主題だと思う。同じ主張だが、手を

変え品を変えお話してくれるのでよくわかる。私の言いたいことをうまい具合に言ってくれ

る。

本物の大学教授はやぱっり凄い。溜飲が下がる話が多い。

私にとってポスト中野孝次として当分楽しませてくれそうである。

 

04年9月26日

わがホームページのアクセス数は毎週400以上。個人ページとしては少なくないとの話。

まずは、ありがとうございます。

それなのに、「最近の絵」を全然アップしていない。この「唇寒」の最近のバックナンバーも

作っていない。申し訳ありません。

だいたい私は銀流しの「思いつき人間」である。銀流しとは新しがり屋のこと。主に、や

たらと流行を追う衣服を着る人などに使う(聞きかじりだけで書いています。辞書は引い

ていません)。もちろん私の今来ているシャツは10年も前のボロ。私は衣服については

決して銀流しではない。

何か、新しい事を始めるのは好きだが、地道にしっかり継続するのが大嫌いである。つま

り、飽きっぽいということ。根気がなく、散漫。

まことに申し訳ありません。とにかく、近いうちに何とかします。

 

今は養老孟司の「涼しい脳味噌」(文芸春秋)を読んでいる。読み始めてたった16ペー

ジで膝を打った。最初から3つ目の話「日本の思想」というエッセイ。小林秀雄、丸山真

男(他に福田恆存、富岡幸一郎も)といった我慢ならない方々のことが述べてある。もち

ろんこういった面々に比べて私は低劣である。比べなくてもガクンと落ちる。口で敵うわ

けないし、理屈だってきっと向こうが上。知能指数がまるでちがうのだから相手にならな

い。

だけど昔からおかしいと思っていた。粋に高そうな和服かなんか着て、穏やかに微笑んで

いたりするとますます我慢ならなかった。もちろん読んでわかる文章ではない。オイラに

わかるわけがない。この前までの愛読書(今もトイレで読んでいる)中野孝次にも通じる

かも。どうもインテリはいただけない。寅さんなら「お前さしずめ、インテリだな」と上

目遣いに警戒する輩。

養老孟司は強い味方だ。何てったって東大である。東大卒だけじゃなくそこの教授だった

のだ。並の偉さではない。桁外れの大先生である。

その先生が言ってくれた。「頭でばかり考えるからいけない」と。「口先だけじゃあ始ま

らない」と。理屈だけでは道路も出来ないし、橋も架からない。もっとも今の日本は道路

を作り過ぎらしいが。

2〜3年前に買った長谷川利行の画文集は「どんとせい!(Don't say)」というタイトル。ぺ

らぺらしゃべらずにどんとしていろ、という意味もあると思う。穏やかな知識人たちにも

言ってやりたい科白だ。

若い頃は実存主義が気に入っていた。「考えるな。考えれば考えるほど実存から遠のく」と

か「すべての言論は観念に過ぎない」などとシビレる断片にグサっと来たものだ。ところが、

大学の講義では教授が口角泡を飛ばして実存主義を語る。語っちゃおしめぇだろ、実存主

義は。挙句の果てにマルクス主義も実存主義だという。オイ、オイ、オイ。誰がどう見た

って合理主義の極致だろが。

やっぱ、仏教はいいよ。修行だもん。と行き着くところへ行き着いて、これからは各論、

などとうそぶき、まずは薬草を極める、なんて思ったりもしたが、三日坊主にもならず、

絵画道こそ行動。プレイ。パフォーム。ビヘイバー。仕上がった絵は実体。現物。眼前の

事実などと喜び、修行こそ最高と叫んだら、今度はオーム。勘弁してくれよ。無差別殺人

かよ。何がハルマゲドンだよ。お前らがその元凶だろが。これだから集団は怪しいっての。

絵は一人だからいい。

この前、ある直木賞作家のエッセイを読んだ。やっぱり小説家はああなのか? 文字を持

つものの弱さを感じた。どこかに「平和のために文学を書きたい」などという記述があっ

た。本気かよ。本気なら口に出すなよ。赤の他人でも赤面するぜ。

わが子供たちは恋愛と結婚は別、などという陳腐な新思潮を語る。おめぇら何様のつもり

だよ。おれたちゃ、ほんの数百万年前に地球に現れたばかりの有性生殖の哺乳類だぜ。し

っかりしてくれよ。寝言を言ってもらっちゃ困るよ。好きだからくっつく、くっつくから

子供が出来る、子供が出来たら育てる。これだけのことである。われわれはみんなそうや

って生まれてきて育ててもらったのだ。だから、若い人も繰り返す。

え? それじゃあつまらない? つまらないか面白いかやってみなけりゃわからない、っ

ーの。(けっこう手応えあるよ)

どうも話が飛ぶ。ここらで結論らしきものを。

中国へ渡った若き道元に道を教えた老典座(お寺の料理長)は「文字とは一、二、三、四 、五」、

「真理とはありのまま」と答えた。

 

そういえば、今朝テレビをつけたらまた私の絵が映っていた。再放送するなら教えてよ!

(インスタント=ジョンソンの言い回しで。眉毛は八の字で嘆くように)。

 

04年10月10日

本日出かけるので、朝一の更新となる。前回分見ていない方、ごめんなさい。早めに「唇

寒」バックナンバーと「最近の絵」を更新する所存。

今回から、画像処理にフォトショップを使う。前回まではフォトデラックスだった。両方

ともAdobeのソフトだ。私はどっちでも同じだろうと操作の簡単なフォトデラックスを使っ

ていた。ところが、この前、豊橋・フォルム展のDMを作る際に、印刷屋さんからフォトシ

ョップを指定され、致し方なくそこらに転がっていたCDからインストールしてみたら、開

けてびっくり玉手箱! 相当な違い。やっぱフォトショップは一段上。新しい作品集もす

べてフォトショップで作る方針である。

 

「秘め事は密なるをもってよしとすべし」という。

秘め事とはすなわち恋愛である。泥棒や詐欺ではない。まして人殺しでもない。恋愛は内

緒でやるからいい。これがすなわち、二人だけの秘密。デートの味わいも深くなる。デー

トを重ねるとどうしても金がかかる。親にバレないようにデートをするから、小遣い銭で

は足りなくなってくる。そこでアルバイトを始める。そのうち、子供が出来てすべて白日

の下にさらされる。子はカスガイ。男女を結ぶカスガイだけではない。子供が出来てしま

えば、親戚縁者誰もが祝福してくれる。アルバイトではすまなくなり、就職もする。人間

の営みというのは、ま、だいたいこういったものだと思う。

これが最近とてもおかしくなっている。まず第一に就職がある。その前が受験。すなわち

お勉強である。なんか意味なく勉強する感じ。すべて前もって準備しておく。ハラハラも

ドキドキもない。恋愛の秘密もない。

だいたい勉強というのは遊びである。遊学というぐらい。人の活動を仕事と遊びに分ける

なら、勉強は誰が考えたって遊びの部類だ。ある程度真剣に勉強をしたことのある人なら

誰だって知っている。勉強は楽しい。その勉強が就職の道具に成り下がる。本当にくだら

ない世の中になったものだ。

就職とは、イコール仕事だが、これは子供を育てるためにすることである(もちろん自分

たちが生きるためでもあるが)。

平和が続くと女性主導の思考がまかり通る。安全第一。細く長く。つまらなくてもみんな

仲良く。

娘や息子の恋愛を親が支援する。恋人ぐるみで面倒を見ている家庭が物凄く多い。びっく

りする。

これは、絶対におかしい!

もともと「いい仕事」というのは切羽詰ったところで産まれるのだ。NHKのプロジェクトX

だって大体いつも切羽詰っている。いい文章ができるときも同じだし、絵なんて展覧会前

が一番よくなる。私など会期中にも描く。会期中の絵はたいていいい(上の絵もこの5月

の金井展の会期中。どうして売れないのか、まったく不思議)。絵について、前もって十

分準備しておくのは全然ダメ(キャンバス張りと地塗りは別。その他最低限の道具や材料

は当然準備が必要)。とにかく、いい絵の最大の敵は「余裕」なのだ。

ギリギリでやっつける。ここが大事。人生も世の中もほとんどたいていそういうものだと

思うのだが。如何だろうか? もうすぐ野たれ死ぬ男の世迷言か? おそらくきっと絶対

違いなく私は正しい。

 

04年10月19日

豊橋のフォルム展はなかなか好評だ。フォルムのマスターも初めて褒めてくださった。私

みたいな絵描きはたくさんいそうで、なかなかいないはずなのだ。だって、桁外れのバカ

だから。高倉健の「唐獅子牡丹」という歌の「馬鹿じゃ出来ない、利口はやらぬ」という

歌詞を思い出す。親父もよく歌っていた。しかし、豊橋は遠い。伊豆の下田より遠い。も

っとも、新幹線のひかりだと1時間余りで着いてしまう。下手すると都心に行くより短時間

かも。ひかりは凄い!

 

と、またここで中野孝次。卒業したんじゃないのかよ! と言われそうだが、ついちょっ

と読んでしまう。やっぱり文章が読み易いのかも。語り口がうまいのだ。良寛が出てきた

り、老子が出てきたりして興味をそそることもある。大和書房の「幸福の原理」という本。

なんか大人気ないタイトル。50歳を過ぎると原理は要らないよ、と言いたくなるから。

そのパート5の「手仕事」という所に京橋の金井さんが感涙しそうな文章があった。そこ

は柳宗悦(やなぎむねよし)を引用しての話。柳は民芸の美を求めて日本全国を歩いた人。

東京の駒場の日本民芸館にそのコレクションが保存されている(私は行ってない)。柳の

コレクションは多いが、一つ一つ一期一会という気持ちで買うのだそうである。ここのと

ころが泣かせる。「幸福の原理」の63ページ「一生に『今この一個』をのみ買う」とい

う小題があるところ。中野は柳の「民藝四十年」(岩波文庫)から引用している。引用の

引用になってしまうが、その触りを少し写す。

  実は物を持つとは、全一に持つという意味がなければならぬ。その全一とは数多い物

  の中の一つではなく、一つそれ自身の中の一つなのだ。このことは、ちょっとわかり

  にくいかも知れぬが、真に美しいものは、ただ色々あるものの一つではなく、左右の

  ない現下の一つなのだ。それは数の世界にあるよりも、数なき一つなのだ。仮りにそ

  れを多数の中の一個としてより持たないのなら、美しさを見届けての持ち方とはいえ

  ぬ。私は量の世界で買っているのではないのである。

と言いつつ、物凄い量のコレクションになってしまったらしい(笑い)。

もっとも、柳のコレクションは実用の品。生活の中で生きているもの、使い込まれている

ものばかりなのだ。それを「民藝」と呼んだのだろう。それは「眺めるために作られる鑑

賞用の美術と決定的にちがう」と、中野は言う。

ここからは本論(短いからご心配なく)。やっぱり中野は美術がわかっていない(柳は大

丈夫だと思うが)。本物の美術は眺めるために作られはしない。もちろん生活の実利に叶

うために作られるのでもない。私がここで言いたいのは、もちろん絵のことだ。絵とは熱

烈なる告白なのだ(ルオーの言葉)。絵描きのギリギリ切羽詰った叫びである。止むに止

まれぬほとばしりである。もちろん、実用ではない。そういう分け方をするなら「遊び」

だ。人の暮らしの中の心の隙間にしみ込む潤いに過ぎない。しかし、それは結果だ。出来

た作品の効用だ。描くほうはそんなことは全然考えていない。叫んでいるだけ。わめいて

いるだけ。筆を振るい、油まみれになって格闘しているだけだ。美術作品とは計画的に意

匠を凝らして出来上がるものではないのだ。ここのところを絶対に間違ってはいけない。

いま東京都現代美術館でやっているピカソ展を見に行ったが、一番美しかったのはマリー

=テレーズを描いたデッサンであった。マリー=テレーズに出会うまでのピカソは訳のわ

からぬ造形地獄に陥っていた(と思う)。なけなしの才能を振り絞ってチンプンカンプン

な立体をやっていた。そういうのを一生やっている人もいる。そういうのを信じて、そう

いう大学まである。頭がいかれている。美術という妄想に取り付かれているのだ。「美術」

なんてない。人がいて、惚れて、生きて、死んでゆくのだ。ただそれだけのこと。どうし

てわからないのだろうか? 「美術」もないし、「原理」もないのだ。

ピカソはマリー=テレーズに惹かれた。熱烈に恋した。幸運にも二人は結ばれた。普通は

それで終わり。それで十分。過不足なし。しかし、ピカソには止むに止まれぬものがあっ

た。絵筆である。熱烈な思いは肩から腕、腕から手首、手首から指先へと連動する。描か

ずにはいられない、自分でもどうすることもできない線描への渇き。これが絵描きという

ものである。「眺めるためにために作られる鑑賞用の美術」? チャンチャラおかしいこ

とを抜かすな、と言いたい。知った風な口を利くものではない。何も知らないくせに、ふ

ざけるな。

あまり死人に鞭打ってはいけないかも。

むろん、ピカソの恋とかその後の暮らしなど、世間一般の常識から云々して、正しいかど

うか、母親が違う子供が何人もいていいものかどうか、そういうことはよくわからない。

男の一つの憧れではあるかも。だけど、マリーやフランソワーズや他にも何人もいて、そ

れぞれの女性は幸福だったのだろうか? 子供がいないよりはいいかもしれないが、みん

な苦しんだのではないか? これはロダンの女性関係についても同じ疑問がある。私など

ピカソやロダンみたくもてるわけじゃあないから、醜男の僻みにしかならない。だいたい、

マリーに会ったときもすでに奥さんや子供がいたし、マリーとの歳の差は30歳前後だっ

たはず。ピカソはマリー以降、性愛を絵画の情熱の源とした。マリーがきっかけだった

と思う。ピカソは生涯死ぬまで性愛をテーマとした。90歳までも。いっぽう、富岡鉄斎

はどうだったのか。私は鉄斎の方法、すなわち東洋の方法に果てしない興味を持っている。

 

04年11月4日

ついに更新日がグチャグチャになってきた。10月31日は豊橋フォルム展の搬出で更新は

無理と知っていながら、お知らせしなかった。ま、11月1日に更新しよう、などと軽く考

えていたら、風邪をひいてしまい、11月3日はお休みだから、この日でいいと思っていた

ら絵画教室。風邪も治っておらず、まだ本日も不調。しかし、書くことはいっぱいある。

 

まず、長谷川利行展。東京駅八重洲口、駅前の大通りを渡り、その通りを日本橋方向に歩い

て1〜2分のところに不忍画廊がある。ここは長谷川の絵を戦禍から守った木村東介ゆかり

の画廊(木村の娘婿、荒井さんが経営)。金井画廊とも懇意。11月1日から長谷川利行展

をやっている(20日まで)。

実は、豊橋へ行くために東京駅に来たが、1時間ほど時間が余ってしまった。不忍画廊へ行

けば長谷川が1〜2枚掛かっているかも、と思い足を運んだ。そしたら何と12年ぶりの長

谷川利行展だという。まことについている。

やっぱり長谷川はいい。展示作品の小さな画集があったからそれも買った(1500円)。

まだ時間があったので東京駅のステーションギャラリーに寄る。佐藤哲三展。これは、と思

う絵は2〜3枚か。利行に比べるとガクッと落ちる。

小さな画集の解説にあった高崎正男のことが頭に浮かんだ。高崎正男は天城俊彦と名乗って

画廊を始めた。長谷川利行を売り出すためだ。高崎は利行を木賃宿に缶詰にして絵を描かせ

た。2年間20回にも及ぶ個展を開いた。45歳ぐらいから長谷川利行はうんざりするほど絵

を描いている。私は長谷川利行を日本最高の油絵絵描きと言ってきたが、そこまで長谷川を

高めたのは高崎である。晩年の宝石のような小品群がなければ画家・長谷川利行はいなかっ

たかも。もちろん長谷川はどんな小品にも手を抜くことはなかった。すべて全身全霊。喜び

を持って作画した。売るための絵は1点も描いていない。

実は、この日、新横浜ではなく東京駅から新幹線に乗ったのは根津美術館に用事があったか

らだ。いま根津美術館では特別展「宋元の美」(7日まで)をやっている。とは言っても絵

ではない。中国の漆器展である。絵は伝牧谿の「荷葉図」だけ掛かっていた。一点だけああ

やって掛かっていると、その美しさを再び思い知る。

ところで、驚くことは長谷川展の若い頃の8号ほどの風景はこの宋元の漆器を知っていたか

のような色合いなのだ。マチエールの凸凹も漆器を思わせる。

長谷川利行の解説には、デッサンがデタラメとか半描きなどとよく書いてあるが、長谷川は

素晴らしいデッサン力を持ち、東洋の美にも精通していたと思う。長谷川を認めなかった安

井曽太郎は裸婦の木炭デッサンで有名だが、総合的なデッサン力は長谷川の方がずっと優れ

ている。デッサンとはものの見方なのだ(ドガの言葉)。さらに、長谷川の絵が半描きだと

言うなら、いったい、長谷川の絵のどこにどの絵の具を描き足せばさらにいい絵になるとい

うのか、いったい誰にそんな画力があるのか。長谷川の絵はどの1点だってすべて完璧では

ないか。もちろん長谷川自身だって自分の絵に筆を加えることは出来ない。その絵を描いた

その瞬間の自分に戻れるわけはないからだ。絵というもの、絵画というものをよくよく考え、

よくよく見据えなけばならない。

 

最近見た展覧会をお知らせしておくと、東京国立博物館の中国国宝展、東京芸大の興福寺仏

像展など。両方とも物凄く混んでいる。東京国立博物館の東洋館宋元画の部屋は凄い! 人

はほとんどいない。第一級の宋元画がずらり。特に梁楷は東博の梁楷を全部並べてある。ほ

とんど梁楷展の様相。他に陳容の龍、夏珪の山水、李迪の芙蓉、李氏の瀟湘臥遊図巻。十二

羅漢図のうちの数点。いつまで展示かは不明だが、文化の日前後の東博は毎年見逃せない。

中国国宝展にも目を瞠る美しい仏像があった。興福寺は奈良時代からのお寺で阿修羅を初め

天平仏も魅力なのだが、今回は鎌倉彫刻のみ。もちろん十分素晴らしい。

 

04年11月14日

今年は等迦展の100号はまだ全然描いていない。こんな年は今までなかったと思う。毎年

ヤバイが、今年はもっとも危険。ダメかもしれない。ま、全然ダメと思って出した絵が等迦

会賞だったから、絵はわからないけど。明日は描きます!

 

更新がグチャグチャになってなぜか10日間空いた(勝手にそうしただけだが)。10日間

もあったから絵の更新なども出来るかな、と思いながらやっぱりやらなかった。そのかわり、

11月12日からネット通販が始まったらしい(未確認)。絵を買わなくても見るだけ見

てください(見るのはもちろん無料)。絵と長めのコメントがある。20点ほど出展した。

 

今朝半年振りぐらいでNHKの日曜美術館を見た。マチスだった。

その数日前に新聞の美術欄なるものを読んだ。マチスもそうだが、ちょうどマチスぐらいの

時代から「美術」なるものが台頭してきた。それが「プロ」と複合して世の中を汚染し始め

た。しかし、まだマチスには救いがある。吐息がある。人の息遣いが感じられる。そのマチ

スの息遣いを感じ取ったのが日本の長谷川利行あたりかもしれない。だから長谷川もちょっ

と怪しい。汚染寸前でセーフか。

本当の絵画とは何だろうか? 純絵画とは? 逡巡しつつギリギリで思い留まっているのは

宮崎進か? ピカソは純絵画の道を突き進んだと思う。

「プロ」なんていう言葉に誤魔化されてはいけない。イラストレーターは間違いなくプロの

画家だが、ゴッホやピカソはイラストレーターではない。絶対にちがう。よーく考えていた

だきたい。一体何になりたいのか? どういうことをして暮らしたいのか? 極言すれば女

にもてなくてもいいし(実際全然もてない)、金も要らない(実際全然ない=借金だらけ) 。

表向きの本音はその真逆だが、本音の本音はやっぱり本当の道を歩みたい。

新聞の美術欄にはいわゆるある現代美術を評論していた。好意的な扱いだと思う。「だと思

う」というのは2〜3回読んでも何が書いてあるのかよくわからないからだ。おそらく書い

ているほうもまったくわかっていないのだと思う。だってありもしない幻想を述べているの

だから。妄想と言ったほうがいいか。いや、ムードとか感じか? 確かなのは作家の経歴だ

け。きっとおそらくどっかの美大(きっと芸大)を(優秀な成績で)卒業しているのだと思

う。だってあんな作業は誰だって出来るしどうにでも理屈を付けられる。早い話が誤魔化し。

別な言い方ならまやかし。全然楽しくないマジック。納得できない大仕掛け。ワクワクし

ない鉄道模型(誤解のないように申し上げるが、私はマジックも好きだし、鉄道模型も大好

き)。「あっ、何か面白そうなものがある」とそばに行ってみると何でもないただのガラクタ。

だいたいが薄汚い。現代美術などと新し風の名前を付けても30年も経っていたりする。

そんなアホ、スカ、ゴミ、ブー、ペケ、クズ、タリラリランを何かとんでもない価値のある

もののように奉る、もうほとんどインチキ宗教と変わらない。

昔の偉大な芸術を茶化す。パロディ化することで自分の作品(ザグビンとお読みください)

を同列にでもしたつもりか? 左脳を使い過ぎなのである。頭がよすぎるのだ。もうこうい

う類の話はしたくない。時間の無駄。馬鹿馬鹿しい。

何度も言うように、ゴッホは牧師である。富岡鉄斎は神官、雪舟も牧谿も禅僧なのである。

レオナルドは科学者(医学者)で、村上華岳は宗教家になりたかったのだ。もっとも偉大な

芸術家はプロではない。当たり前である。絵画の王道というのがある。あるにはあるが、絵

は壁に飾ったりするから、つい奇麗なもの、つるつるして滑らかなものに走る。フランスア

カデミズムもそうだった。ただ、人間は馬鹿じゃないからちゃんと軌道修正する。印象派が

それをやった。王道の絵画とはゴツゴツしている。マチスの作品(サクヒンとお読みくださ

い)も物凄くすっきりしているように見えて、そばで見るとザラザラだったり、塗り斑があ

ったりする。最近流行の村上なにがしの工房作品(読み方はご自由に)とはまったく正反対。

 

われわれは絵を描いているときに生きている。絵を描いているということが生である。そこ

のところを絶対に忘れてはならない。

「美術(=アート)」なんて分野の活動はないし、「美術(=アート)」なんて初めからな

いのだ。そういえば、今日も日曜美術館で「アート」「アート」と連発していた。

 

04年11月21日

「アート」という世迷言が世間を狂わしている。池田満寿夫もアートに迷っていた。

アートなんてないのだ。

われわれは磐石なものを願う。欲しがる。これを言えばおしまい。グーの音も出ない。そう

いう絶対的な何かが好きだ。若い人の歌なら「愛」。これを出したらおしまい。「愛のため

に生きる、お金じゃない」と来られたら絶対に勝てない。戦前なら「天皇」。近藤勇なら将

軍家。みんなそういうのが好きで、どこかでそういうのを望んでいる。ま、「お金」って人

もいる。正直で好感が持てたりする。美術家なら「アート」が切り札。絶対の威力を持って

いる。だいたいみんな磐石は大好き。

ところが、われわれの実体はすべてが不安定。たった今のこの存在すら怪しい。無限の宇宙

は無限すぎる。でかすぎる。宇宙が神だとか、全宇宙などと口にするが、宇宙のでかさは桁

外れ。人類が知っている最速の量子が光だ。これがとんでもなくのろまになってしまうほど

広い。地球の公転スピードはおよそ30km/秒。物凄い速さだ。このスピードで太陽の周

りを一周するのに1年もかかる。太陽と地球の間がどれほど広いかご想像いただきたい。し

かし、太陽系の一番はずれまで行くにはもっともっと遠い。太陽と地球なんて一つの点になっ

てしまうほど冥王星は遠い。太陽系は冥王星の外側にも大きく広がる。このでかい塊を引き

連れて太陽は天の川の周りを回っている。そのスピードはなんと秒速200km。螺旋状に

回転しながら回っているので、1周するのに2億年とか2億5千万年かかるらしい。太陽系

の年齢が45億年というからいままで最低でも18周はしている計算だ。壮大な話である。

このドでかい星の塊を銀河という。われわれの銀河は天の川銀河と名づけられた(最近の話)。

隣の銀河がかの有名なアンドロメダ大星雲。こういう銀河にはそれぞれ太陽のような恒星が

2億個ほどもあるという。そして、今見えている宇宙には天の川銀河やアンドロメダ銀河の

ような銀河が数億個は確認できるらしい。人間の小ささがご理解いただけるだろうか? 広

さで言えばとにかく広い。この宇宙にもビッグバンという始まりがあったという。なんか大

宇宙がちっぽけな粒だったとは淋しい限りだとがっかりしていた矢先に、ビッグバンはあち

こちで起こり、今も起こっているという新説まで飛び出している。つまり、こういう大宇宙

が無数に存するというのだ。そんなアホな。

話を初めに戻せば、われわれのいるこの場所は訳がわかんないってこと。われわれは不安定

きわまりない存在なのだ。

われわれは自転車だと思う。止まったら倒れる。水泳である。手足を動かさなければ沈んで

しまう。マグロである。凄いスピードで泳いでいないと死んでしまう。だから絵描きは絵を

描く。ただそれだけのことだ。アートなんて全然関係ない。

(本日の話題の宇宙の色々な数値は記憶だけで書いているので間違っているかもしれません。

だいたい合っていると思いますが、今週中に確認しておきます)

 

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