No58 絵の話1998.10.31更新

日本のもっとも偉大な油絵描き

長谷川利行の絵

大東京の感動

長谷川利行が東京の風景に本当に感動していたかどうかはわからない。ご本人が死ん でしまっているのだから聞いてみることはできないし、もし、本人に聞いても本音を 言うかどうか、言葉は当てにならない。

しかし、絵は語っている。長谷川の絵は感動を描いている。少なくともそう見える。 豊かに入り組んだ山や川に囲まれた和歌山や京都に生まれ育った長谷川利行が、だ だっ広い関東平野とそこを悠然と流れる大河に驚いている。確かに感動している。異 郷の地でたくましく創作意欲に燃えた利行の情熱と喜びが直に伝わってくる。 しかし、利行はそれが技だと言うかもしれない。俺の才能だとうそぶくかもしれな い。感動なんかしていない、そう見せているだけだ、と淋しく笑うかもしれない。も ちろん利行が何と答えようと知ったこちゃない。われわれは利行の絵に戦前の日本 の、東京の、下町の、何とも不思議な郷愁を感じる。絵描きの意図とか才能なんてど うでもいい。問題じゃない。

「美術」という訳語

ま、しかし、あれはやっぱり本気で感動していなければ描ける絵ではないと思う。線 が躍動している。タッチが描く喜びに弾んでいる。原初の感動こそ絵画の生命であ り、すべてである。感動だけが汲み尽くせない造形の本当の魅力を生む。技法とか作 為なんて感動の前ではゴミみたいなものだ。天分とか才能なんて何の役にも立たな い。

  

「美術」という訳語がいけない。これが誤解を生む。絵とは必ずしも美しいものでは ない。奇麗にちゃんと整っている必要はない。輪郭から色がはみ出していったていい はずである。それが最近の絵はみんなきちっと塗ってある。丁寧になぞってある。 「美術」は英語では「fine art」である。「fine」を「美」と訳したの は見事だが、誤解を生んだきらいがある。むしろ「冴え」とか「切れ」などという意 味合いが強いと思う。長谷川の絵を見ているとつくづくそう思う。ヨーロッパ絵画な らドーミエとかロートレックというところか。

利行の実力

長谷川利行の絵には、世界の芸術に通用する純粋な「ちから」がある。長谷川の境涯 が生み出した不思議なパワーだと思う。われわれには絶対に真似のできない長谷川だ けの色であり、タッチであり、絵画なのである。あの時代とあの時代の東京が長谷川 利行を作り出したと言える。 利行のほとばしる情熱は、画面を走り、躍り、はみ出さんばかりである。その筆触に 惑わされて、利行は異端の画家、個性派などと言われる。また、生活破綻者としての レッテルから無頼の画家と呼ばれることもある。しかし、絵画については、一流の写 実家である。利行の絵にはすべて立派な空間がある。建物や道や川などの前後関係も 寸分違わず厳格に表現されている。人物像の肌の質感も的確だし、画面構成にも隙が ない。そういう意味でも長谷川の絵は世界に通用する。

 

上の花の3点でもちゃんと花の種類まで識別できる。柔らかい花、しっかりした花 瓶、花瓶が置いてあるテーブル。ちゃんと描き分けている。特に真ん中のバラをご覧 いただきたい。数分で仕上げたこの見事な芸術! 花が生けてあるカップの取っての 下にぽつんと残した白。カップの左下に残した白。この二つの白が驚くべき空間を 作っている。これは偶然残った点なのか。少なくとも利行はちゃんと知っている。す べてを心得ている。しかもそのうえ、バラの美しさにきっちり感動しているのだから あきれかえる。バラの葉も丁寧に描いている。「丁寧に」というのは「時間をかけ る」ということではない。「思いをこめる」ということなのだ。 しかし、絵を売る絵描きなら当り前のこの描写が全然なってないデタラメな大巨匠は 日本中にうようよいる。長谷川利行が生きていたら、きっと飲み代をたかりに襲われ る「巨匠」であるにちがいない。

佐伯との比較

利行の魅力、実力は夭折した天才画家佐伯祐三と比べればさらに歴然である。一番左 が利行。右の2点は佐伯の有名な傑作である。

佐伯はやはり若い。色の冴えが全然ちがう。もちろん佐伯も悪くはない。純粋で真面 目な青年画家である。しかし、利行の隣では色がまったく濁ってしまう。絵がモノ トーンになってしまう。色というのは実に不思議である。利行だってふんだんに色を 使っているわけではない。緑と赤、それから黒っぽい色とバックの白ぐらいだろう。 肌色の分、むしろ佐伯の方が色数は多いぐらいだ。 さらに、さっきの風景画と佐伯の風景を並べてみる。上の2点が佐伯。下の2点が利 行。佐伯のは油絵で、利行は水彩だから一概には比較できないが、佐伯はやはり硬 い。利行のほうが伸び伸び描いている。描く喜びが大きい。

  

  

長谷川利行が三船の椿三十郎なら、佐伯祐三は加山雄三が演じた若侍というところ か。佐伯はまだまだこれからだったと思う。 【参考図版】上から順に 長谷川利行(1891〜1940)「葛飾C」(74.0×12.0cm 1891~1940年 水墨 紙) 長谷川利行(1891〜1940)「浅草龍泉寺」(22.0×29.5cm 1927年 水彩 紙) 長谷川利行(1891〜1940)「上野駅」(23.0×13.5cm 1929年 水彩 紙) ドーミエ(1808〜1879)「歌うピエロ」(35.0×26.5cm 1868年 油彩 板) ロートレック(1864〜1901)「イヴェット・ギルベール」 (186×93cm 1894年 エッセンス 紙) 長谷川利行(1891〜1940)「カーネーション」(55.0×46.0cm 1937年 油彩) 長谷川利行(1891〜1940)「バラの花」(19.5×18.0cm ?年 水彩 紙) 長谷川利行(1891〜1940)「牡丹」(40.9×31.8cm 1937年 油彩) 長谷川利行(1891〜1940)「ムーランルージュの躍り子」(32.0×22.4cm 1836年 油彩) 佐伯祐三(1898〜1928)「人形」(39.0×30.5cm 1925年 油彩 キャンバス) 佐伯祐三(1898〜1928)「立てる自画像」(73.5×48.0cm 1925年 油彩 キャンバス) 佐伯祐三(1898〜1928)「リュクサンブールの木立」                   (71.0×59.5cm 1927年 油彩 キャンバス) 佐伯祐三(1898〜1928)「下落合風景」(60.5×72.7cm 1926年 油彩 キャンバス) 長谷川利行(1891〜1940)「浅草龍泉寺」(22.0×29.5cm 1927年 水彩 紙) 長谷川利行(1891〜1940)「上野駅」(23.0×13.5cm 1929年 水彩 紙)


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