アーカイブス『絵の話』1

突然・池田満寿夫と金田石城の対談に割り込む 1997年ごろ

その4 真正なる絵画

 

アカデミックでないこと2

アカデミックな絵は駄目なのである。ブグローもジェロームも面白くない。描かれている人物の顔に気品がない。プグローの女神よりミレーの農婦の方がずっと聡明で気品に満ちている。

ミレーのような絵を目指さなければならない。アカデミックではない絵である。それでは、「アカデミックではない絵の道」とはどんな道なのだろか?

ミレーでいえは神と向かい合うことだろう。話が神とか仏になってくるとわけがわからなくなる。一番わかりやすいのは吉川英治の『宮本武蔵』という小説である。すなわち、佐々木

小次郎がアカデミックで、宮本武蔵はそうでないという図式が明快に描かれている。「そうでない」とはどうなのか? それは『宮本武蔵』を読んでいただくのが一番速いが、つまり、

生涯真実を求めて在野に生き、安住を嫌った孤独な戦士というところか? そういえば、池田さんが若いとき、伴侶だった富岡多恵子さんが池田さんを「武蔵」と呼んでいた。確かに、

その後アメリカに渡った池田さんは凄かったらしい。あらゆる版画の技法を短期間にマスターして、まったく新しいやり方で自分の作品をうちたてたという。

 

美術という枠

昨日古い「芸術新潮」を読んでいたら、日本画家の加山又造さんの談話があって、いろいろと長く書いてある。戦後の日本画を概観して、そのなかで自分はどうやって描いてきたかとい

うようなことが述べてあるのだが、所詮美術という枠のなかでの話であり、そういう意味では池田氏もアカデミックである。

ミレーは美術を捨てている。ミレーは神という真実を採ったのだ。己の絵画技法は神にささげている。サロンに出すのではなく、神に見せる絵を描いたのである。神、神というが、わ

たしはキリスト教徒ではない。別にここで布教しているわけでもない。ただ、ヨ一口ッパてにはキリスト教が本当に生きていて、子供の頃からしっかり祈りの習慣をもっている。成長し

て、そういうものに反発するにしても深く信仰するにしても、真剣に生きようとする姿勢がなくてはならない。自分の人生を大切にするという思想だ。美術とか学問などはその方便にす

ぎない。美術という枠を超えることが肝心である。絵描きである前に人間であるということだ。

 

日本画壇の限界

明治期の日本人画家が懸命に追ったヨーロッパだったが、われわれはついにヨーロッパに届くことはなかった。明治期の先人はヨーロッパの絵に感動し、画面に魅入られて、それらを追

い求めた。いくら追っても届かなかった。それもそのはずである。

ヨーロッパの絵は氷山の一角にすぎないのだ。海面下にはドデカイ塊が隠れている。キリスト教という塊である。真実に生きるという知恵である。だから、現代の映画だって欧米には及

ばない。たとえば「ジュラシックパーク」と「ゴジラ」を比べていただきたい。「この辺までやっておけば売れるだろう」「採算はとれる、そうとう儲かる」という下心で作った映画と

「本当の巨獣映画を作り上げるんだ!」という意気込みで作った映画とでは、もう根本的にできが違うのはあたりまえである。

 

肝心なこと

われわれは絵で食いたい。絵が売れて欲しいと思う。嘘ではない。しかし、人生は一度しかないのだ。適当なところで妥協して一番肝心なものを失っては話にならない。それなら他の道

で生計をたててたほうがずっといい。なにも絵描きになることはない。まともな人間であることのほうが幾百倍も肝心である。わたしの父は絵で食っていたが、「絵なんてどうでもいい。

自分の子供をちやんと育てることだけ考えてりゃいいんだ」と言っていた。そうすれば絵もよくなるという意味だろう。ココガアマイ。

 

希 望

もっとも、われわれ日本人も絶望することはない。われわれにはキリスト教はないが、仏教がある。葬式仏教では話にならないが、けっこう本物の仏教も廃れ切ってはいない。細々とか

もしれないが、何とか命脈を保っていると思う。

先の加山さんの談話の終わりに、室町時代の水墨画の話があり、当時の日本美術界は中国の水墨画を学ぶことで駄目になったが、ひとり雪舟だけを得た、というような記述があった。こ

れは今の日本画が欧米の影響で駄目になり、ひとり加山又造を得たとでも言いたいのだろうか? ばかばかしい。日本の美術史が全然わかっていない。雪舟はちやんと修行を積んだ禅僧

なのである。絵描きではない。れっきとした仏教徒である。俗世間の加山さんとはわけが違う。

明治期の日本画家・富岡鉄斎は自分は画家ではない、神官であると語っているし、村上華岳はわたしは画家にならなかったら宗教家になっていたと言っている。わたしはゴッホは牧師だっ

たのだと今でも固く思い込んでいる。真髄がわかっているまともな人間はちやんといるのだ。キリスト教にしても仏教にしても日本の神道にしても、これらは人間がこの地上にいつまで

も長く生き続ける知恵を教えているのだ。技術や物(地位や名誉やお金も含めて)に滅びない知恵である。それを語り、残して行こうというのが本当の人の道だろう。美術の革新とか、

美術界の発展なんてどうでもいいことなのである。加山さんみたいなエライ人が美術なんていうまやかしものにいつまでも囚われていると、若い人たちが勘違いしてしまう。はっきり言っ

て邪魔である。

 

さらに続く

池田さんの対談からはだいぶ離れてしまった。しかし、ま、話としては、わたしの一番言いたいところへ行ったし、「くたばれ!クソ美術!」というテーマで一貫していたような気もする。

とにかく次回は、最後に軌道修正して終わりにしたいと考えています。

つづく。

 

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