アーカイブス『絵の話』1

突然・池田満寿夫と金田石城の対談に割り込む 1997年ごろ

その2 子供の絵

 

子供の絵は素晴らしい

子供の絵は素晴らしい。特に小学三年生ぐらいまでの子供の絵は実に素晴らしい。わたしもむかし近所の子供に絵を教えていたのでよく知っている。本当に子供の絵はいい。ここまでは

池田氏と同意見である。また、子供の絵でも小学校四年生ぐらいからだんだんつまらなくなってくる。これもまったく同意見であり、池田氏のご慧眼に敬服する。わたしと同じ意見だな

んて、ほとんど天才である。ン?

 

どうして駄目になるか

どうして四年生ぐらいから駄目になってしまうかというと、それは、先生に褒められたいとか、うまく描いてやろうなどという野心が出てくるからである。つまり知恵の実という奴であ

る。失楽園ということだ。それで、いっペんに駄目になる。ここら辺までは池田氏とわたしは完全に同意見である。

 

子供の絵は、美術館は買わない

池田さんは「子供の絵はいいが、美術館は子供の絵を買わない。子供の絵では歴史を動かせないからだ」と言う。池田氏は美術史というものをものすごく重要視する。他の本でもピカソ

の「ゲルニカ」は歴史に残る絵だから、ピカソの「新古典主義の時代」の絵よりよいというようなことを言っていた。「ゲルニカ」が、ピカソが写実に傾いた「新古典主義の時代」の絵

よりいいか悪いかは今は論じないとして、それが歴史に残る絵だからいいというような見方はないと思う。ちなみに「ゲルニカ」は第二次大戦中に描かれた反戦の絵である。とにかく、

池田さんは美術史を一つの基準にする。とても重要視する。わたしに言わせれば、美術史なんて知ったこっちゃない。前回も書いたが、池田氏はアートを独立した何かだとお思いである。

わたしはアートなんて怪しいと思っている。第一、美術というジャンルさえ疑っているぐらいだ。美術なんてなくてもいい。美術なんてなくても人は生きて行けるのである。少なくとも、

絵を判断するのに、美術の歴史に残るからいいというような基準は知らない。歴史に残らないいい絵だって無数にあると思う。

 

子供の絵は誰も買わない

子供の絵は素晴しい。確かに素晴しいが、誰も買わない。もちろん美術館だって買わない。美術館が買わないのは別に歴史とか何とかいう話ではないのだ。子供の絵は所詮子供の絵だか

ら買わないのである。子供の絵は美術作品とは言えないからだ。なぜなら、子供は一人前ではない。一人前でない人間の絵では評価できない。ふつう子供には生活力もないし、生殖力も

ない。つまり、生きる苦しみもないし、恋の悩みもない。だから、子供の絵はいくらよくても大人の絵(=人間の絵)とは言えない。もっとも大人でも一人前でない人もいる。これはサ

イテーである。絵も売れない。わたし自身そういう甘いところがある。

 

それでも子供の絵はいい

子供の絵は誰も買わないが、それでもやっぱり子供の絵は素晴しい。それでは、子供の絵とは何なのだろうか? 子供の絵は大自然と同じなのである。空がきれいであり、雲が流れてい

て、それと同じように子供の絵は雄大である。花が可憐で、小鳥が愛らしく、それと同じように子供の絵は心豊かなのである。子供は自然の一部なのだ。もともと無料で楽しめるのが自

然である。だから子供の絵に金を払って買おうなどと言う者は誰もいない。そこらにあるのだ。もしなくなってもまたどんどん新しくできる。美しい雑草のように。

 

プロとアマ

大人の絵というものはもともと汚い。子供の絵は美しく、大人の絵は汚いものだ。大人自身が汚いからだ。大人は校滑である。スケベである。生きることに汚く、色欲を貪る。だから大

人の絵は汚い。絵はすべてを写し出す鏡なのだ。何を言っても駄目である。すべて絵に出ているからだ。だから、今流行りの大人のアマチュアの絵は見ていられない。プロのほうがまし

である。なぜなら、プロの業というのは自分の汚い本性を隠す技術だからである。しかし、それでもこちらが腕を磨けばその技術にも裏が見えてしまう。やっぱり汚い。アマより汚いぐ

らいだ。

 

救 い

この人間のどうしようもない実態に救いほないのだろうか?

ここでどうしても話が宗教に行く。仏やキリストのちゃんとした教えが一つのヒントになる。もちろん、金儲けのインチキ教は駄目。だから仏教美術もルネサンス(キリスト教の美術)

も素晴らしいのだ。ギリシャ美術も然りである。音楽だってヘンデルよりバッハだろう。この話は長くなるからまた別のところでゆっくりやりたい。

 

比べられない

ところで、池田氏は子供の絵の対極として大人の絵の代表にポロックをあげている。また、ピカソをあげている。彼らは子供の絵に学び、あらゆることを知って、しかもそれを壊してい

るというわけだ。そこに彼らの偉大さがあると言う。彼らの絵は子供の絵に学んだが、子供の絵よりずっと素晴しいという。そうかもしれない。しかし、これは比べること自体意味がな

い。全然土俵がちがう。ピカソもポロックも子供の絵からいい所をかっぱらって自分の絵に生かしたが、これは風景を描きに戸外に出たモネと同じような理屈である。悪いことではない。

立派なアイデアである。新しい創作である。

 

美術にとって重大なものとは?

しかし、絵とはそれだけではないだろう。アイデアは欲しいが、アイデアだけでは苦しい。先が見える。創作にアイデアは不可欠である。どこかに新しい驚きが欲しい。しかしそれは所

詮飾りに過ぎない。重大なのは土台であり、柱である。絵の土台とは何か? 美術の柱とは何か? これを次回のテーマにしたい。

というわけで、次回のテーマは「アカデミックとは?」です。

つづく。

 

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