アーカイブス『絵の話』1

突然・池田満寿夫と金田石城の対談に割り込む 1997年ごろ

その1 男子一生の仕事

 

突然モウカる

町田の金森図書館にはわたしの絵が2点ある(お近くの方はご覧ください=今はありません)。

わたしはここで毎月将棋世界などを借りる。ときどき他の本も借りる。池田満寿夫(いけだますお)と金田石城(かねだせきじょう)の対談『芸術家になる方法』(現代書林)は帰りが

けに棚で見かけた。ちょっと読み始めたら、これが面白い。楽しい一時が転がり込んできた。大モウケである。

 

お2人のこと

池田満寿夫氏はなかなかイケる。金田石城という人は初めて知ったが、こちらも賢い方だと思った。金田氏は角川映画の『天と地と』の題字を書いた書家である。

この対談はほとんど池田氏がしゃべっていて、金田氏は聞き役となっている。個人名を出すのもいつも池田氏で、金田氏は危ない橋は渡っていない。それは別に悪いことではない。金田

氏の勝手である。それよりも池田氏の話を聞き出す態度はごく自然で、人の話を聞く姿勢が自然に身に付いている希有の優等生だと思った。わたしみたいなオシャベリな馬鹿とは大違い

である?

池田氏は誰でもよく知っているが、本質は案外知られていない。もちろんわたしだって知らない。しかし、大雑把な印象は、たいへん真面目で、気さくで、エバッたところのない、しか

もかなり頭の切れる人だと思う。

 

作品は?

さて、このお2人の作品のことだが、これは対談のなかでも語っておられたが、−般的に絵などというものは50年後、100年後に認められることもあるわけで、作品の善し悪しは「言わぬ

が花」なのである。しかし、少なくとも、不真面目な作品ではない。お金や名声のために切り売りしているようなさもしい絵(書)ではない。もうそれだけで十分立派であって、日本国

中の画家や画家を目指す人でそういうレベルに達しているのはほんの数パーセントだと思う。これは本人の自覚だけなのだが、ちゃんと自覚し続けるだけでも偉いのだ。この数パーセン

トが本当のわれわれの競争相手であり、そういう意味では絵画の世界は競争相手がほとんどいない楽な世界である。

また、脱落者(バカバカしくてやってられないから止めちゃうお利口な人)も非常に多い。

 

本質的なちがい

池田満寿夫は根本的なところでわたしとはズレがある。その核心部分は、池田さんが「アート」と呼んでいるところである。アートはもちろん芸術なのだが、美術でもよい。絵でもよい

と思う。「アート」を独立した何かであると思い込んでいるところがわたしとは根本的に違う。池田氏なりの考えは「アート」が目的なのである。そのある理想的な目的に達するために

作業をする。だから方法がいつも付きまとう。わたしの場合は「アート」はあくまでも結果であって目的ではない。だから方法はない。作業そのものがいつも結果だという考えだ。たし

かに池田氏もたいへん近いことを言っておられる。たとえば、アートは男子一生の仕事じやない、などとである。また、良寛の書を褒める。他の禅僧の書や絵を褒める。禅僧の書画をちゃ

んと見ている。般若心経を大きな紙に書いている。しかし、それでもわたしから言わせれば、「本当のところはわかっていない」となる。「じや、おまえはどれほどのものじゃ?」と言

われると、実に困る。ゴメンナサイである。

 

男子一生の仕事とは?

世界のことわざに「絵や音楽では腹はいっぱいにならない」というのがある。また、お釈迦様は歌舞音曲を嫌ったと岩波新書の『仏教』という本に書いてあった。池田さんは男の仕事は

権力闘争とおっしゃっているが、ほんとうは力仕事だと思う(池田さんもそうも言っている)。具体的には第一次産業、すなわち農林水産業である。権力闘争ではないだろう! 城山三

郎さんや司馬遼太郎さんじやないんだからして。権力闘争はやっぱり男のシゴトではなく、男のロマンでしょう。ヒジョーに疲れそうなロマンだけど。

力仕事こそ男の仕事だと思う。これはやらなければいけない。絵はそのほかのことである。力仕事をやって、そのほかに描く。これが理想である。良寛様も言っている。

「世の中につまらないものが三つある。書家の書、歌詠みの歌、料理人の料理。」とである。絵描きの絵だってよかろうはずがない。

 

食うこと

絵を売る。絵で飯を食う。これが最大の課題である。「芸術家になる」とは、芸術大学に合格することではないし、絵を描くことでもないし、書を書くことでもない。作品を売って食う

ことである。これはなかなかできない。いろいろなところで再三申し上げているように、昔の画家はほとんどが金持ちなのである。資産家の子弟なのである。食うこと、食い続けるだけ

でも並み大抵のことではない。だからみんな大きな会社に就職するのである。ただ食うだけでもたいへんなのに、絵を売って食おうなどとは、とんでもない野心である。泥棒みたいな考

えだ。わたしの息子(現中2=今は33歳)がそんなことを言い出したらカンドーである。フリョウになったと思うしかない。絵では食えないし、食おうと思ってもいけない。食い続けるこ

とはゼッータイに不可能である。レオナルドやミケランジェロだって大変だったのだから。

もし絵で食えていたら、そんな絵はロクでもないと考えるのが健全である。日本のインチキ日本画(政治家の金券になっているだけ)とか東郷育児とかである。

 

【ところで】

最近わたしの文にカタカナが多くなりましたが、これは、南伸坊さんの『モンガイカンの美術館』という本のためなのです。わたしはおしゃべりな上に、すぐ人に影響され

るケイハクな人間であります。ところで、この『モンガイカンの美術館』(朝日文庫)はイケます。かなり笑えるし、けっこう核心をついてます。特に現代美術とかいうアヤシゲな、東

京都とNHKがやけに乗り気な、あのゲテモノ。現代美術というより、思いつきデタラメ屁理屈美術といったほうがぴったり来るアレ。あれの嫌いな方にはサイコーの読み物です。もしかす

ると南さんは相当デキます。

 

最初のページ           「唇寒集」目次