唇 寒(しんかん)集9

 

02年6月8日

本来なら、明6月9日の夜中に更新するはずだが、出かけるので本日更新となった。

そのかわり、6月2日の分の「唇寒」は「唇寒集8」に入れておいた。大作である。

『アウトローと呼ばれた画家―長谷川利行』(吉田和正・小学館)で、参考になった

のは、長谷川を認めなかった絵描きの代表が安井曾太郎だったというところ。だから

安井はつまらない。長谷川も分からなかったということ。作家の久米正雄も長谷川の

200号の大作「鉄工場」(残っていない)を「これは絵ではない」と批判した。

反対に認めていた絵描きはたくさんいる。正宗得三郎、東郷青児、里見勝蔵などが思

い浮かぶ。熊谷守一は長谷川の師だともいう。松本竣介や吉岡憲など若手は数限りな

い。

それにしても、あの時代の本を読むと、絵を描こうなどという若者はみんな金持ちの

子息。長谷川の父親だって相当羽振りがよかった。私みたいな貧乏人が絵を続けられ

る今の世の中はやっぱり少しはましなのか? 私の父親もかなり頑張ったと思う。

 

本日の更新は「唇寒」だけです。次週は大幅にページを改める予定。

「たっちゃんハウス」で私の豊橋展の様子もご覧ください。

 

たっちゃんハウスでは菊地理ネット展をやって貰っている。数日前に再度見たが、長

谷川利行の次の次という扱い。驚きました。

掲載作品はすべてたっちゃんこと原田さんにお買い上げいただいたもの。だから私に

も懐かしい展示だ。是非見てください。

 

2月3日は、けっこう知られていない地球や宇宙のコーナーを発展させた「宇宙の寸

法」の 「広がる宇宙」を更新。小林秀夫の「無常ということ」をカバーしました。

また、「偉大な天文学者たち」を少し書きました。

 

5月27日から6月2日までのアクセス数は206。なんとか200台を保つ。

 

「京橋界隈」も是非ご覧ください。

お近くにおいでの節は金井画廊にお立ち寄りください。

 

次のなるびクロッキー会は6月29日(土)、7月9日(火)、8月17日(土)。

時間は午前10時から午後1時まで。場所は町田市立国際版画美術館アトリエ。

なお、来年3月18日〜23日の国際版画美術館市民展示室作品発表会の作品を募集

中です。

わが学習塾のページもご覧ください。3月11日に更新。

とうよう塾ホームページ「かがやく子どもたち」です。

 

02年6月16日

わがイッキ描きの強い味方が現われた。池田満寿夫の「私のゴッホ」(中公文庫『私

のピカソ 私のゴッホ』)の111ページに

  (前略)時の試練に十分に耐えられるのは、もっとも迅速に(ほとんど加筆なし

   に)描かれた作品なのである。

とあった。これは私の絵のことではないか! 

実はこの部分は引用で、出典は『油彩画の技術』(美術出版社 グザヴィエ・ド・ラ

ングレ 黒江光彦訳)。この本は私も若い頃に読んだ。今も手元に持っている。池田

の引用箇所は102ページにある。

今ざっと『油彩画の技術』を読み直してみると、私の画法が如何によくこの書に叶っ

ているか、驚く。私はこの書を20代で読み、読みながら美術研究所に通った。勤め

先はキャンバスメーカーであると同時にタレンス社(レンブラント絵の具)の日本の

代理店もしていたからいろいろなサンプルが自由に使える。さらにクレサンキャンバ

スやブロックス絵の具とも契約したので『油彩画の技術』の中に入って試行錯誤する

ような環境にあった。

『油彩画の技術』は絶対最高の油絵技法だとは断言できない。あくまでも参考書であ

る。しかし、参考書としては最高の参考書。

ラングレ氏の説が正ければ私の油絵作品は何百年も輝き続けるはず。十分に乾燥した

シルバーホワイトの下塗りで仕上がったクレサンキャンバスの上にもっとも堅牢なチ

タニュームホワイトとイエローオーカーで地塗り。溶き油はスタンドオイル。ヴァー

ミリオンは避けカドミウムレッドを採用。混色には細心の注意を払う。ほぼラングレ

氏の言う通りにやっている。

ま、細かいことを言っていったら切りがない。理屈でなくパレットで覚えなければダ

メだ。ちなみに、池田満寿夫は「私のゴッホ」のなかでいろいろ書いているが、ほと

んど分かっていない。若い時に版画の技法に熱中していたのだから致し方ない。その

代わり私は版画のことはまったく不明。

『油彩画の技術』でラングレはゴッホをべた褒め。ターナー、ドラクロワ、セザンヌ

はぼろぼろにけなされている。また、アングルを高く評価している。ラングレの評価

基準はとにかく画面が如何に割れていないか、剥落していないかということ。結論に

おいて、油絵を永く保たせたかったらとにかく描かないこと。これに限る。描かなけ

れば絵が出来ない、とお考えかもしれないが、描けば描くほど油絵は剥落する。生乾

きの重ね描きは最悪。アングルの最晩年の絵(たとえば「泉」など)はほとんど描い

てない。「泉」は日本に来たので私はよーく見た。「泉」が来たときにはもう『油彩

画の技術』は読み終わっていたから、たっぷり楽しませていただいた。晩年のアング

ルの絵は物凄く堅牢なり。なぜなら描いてないから。描きたければ、ゴッホ(や私)

のようにイッキに短時間でやっつけるしかない。

今回も宣伝になってしまって恐縮だが、おそらく私は最高の画材で最高の技法を駆使

しているはずだ。みなさん、私を歩く『油彩画の技術』と呼んでください。

 

ちょっと驚いたこと。ヴラマンク・里見勝蔵・佐伯祐三展(6月15日〜7月25日

安田火災東郷青児美術館)のパンフレットを読んでいたら、里見勝蔵も『白樺』でゴッ

ホを知ったとあった。

里見は1895年生まれだから当り前なのかもしれないが、里見は父と知り合いで(だ

から普段は当然「里見先生」と呼ぶ)、私も2〜3度挨拶ぐらいはしている。あの人

も『白樺』世代とは! 日本に洋画が紹介されたのはそれほど大昔でもないのかもし

れない。

なお、日本洋画を4つの時代に分けると、初期(江戸末期から浅井忠、黒田清輝の時

代)と『白樺』の時代(青木繁から佐伯祐三ぐらいまで)、第3期がマチス、ピカソ、

ヴラマンクなどに影響される時代(私の父とか池田満寿夫など)。そしてわれわれの

時代。われわれ戦後の世代は求めれば何でも見られた。まず1960年の終わり頃か

らフルカラーの画集の時代が来る。そして、自由に海外に行ける国際化の時代。海外

からも多くの美術展がやってくる。われわれは全世界の最高の美術品をたっぷりと味

わい得る世代だった。この恵まれたわれわれの世代の美術が今美術雑誌を賑わわせて

いる絵画であるはずがない。絶対におかしい。今われわれは自由に全世界の一級品を

見ることが出来るのだ。見比べることが出来るのだ。まずよーく見るべきである。

 

本日の更新は「今月の絵」金井展後の最新作です。

 

6月3日から6月9日までのアクセス数は213。また少し増えている。???

 

02年6月23日

6月18日、幸運にもサッカーワールドカップの日本対トルコ戦を初めから終りまで

一人でじっくりテレビ観戦できた。後半、日本は1点を追って攻めに攻めた。40分

を過ぎ、42分を切ったところで、私は「ああ、負けたな」と諦めた。そのとき中田

英寿の顔がテレビ画面に映った。その眼は残り時間などまったく気に掛けない闘志で

輝き、必死でただボールだけを追っていた。

「ドーハの悲劇」は記憶に新しい。サッカーは最後の最後まで分からない。

しかし、中田の眼からはそういう経験とか知識ではない、全然別な瞬間瞬間に生きる

行動者の本能みたいなものを感じさせた。

ほんとうにいい顔だな、と思った。

それにしても最近のサッカーは服を引っ張ったり、足を掛けたり反則が多すぎる。あ

れでは華麗なドリブルの速攻なんてありえない。また、大袈裟に痛がってコートに倒

れるのにもうんざり。あんなことばかりしていると誰もサッカーを見なくなる。

 

赤ん坊の出生率がどんどん低下している。子供を生まない人が増えている。一番不思

議なのは、出産、育児、養育をコストと考えている点だ。子供を育てるには確かに金

が掛かる。だからコストというのかもしれない。コストが掛かるから生まない。まこ

とに理に叶っている。

しかし、その前に、「お前の存在が一番コストなんだ!」っつーの。

「死ねよ!!」と言いたい。

そんなつまらない計算をするために算数習ったんじゃないだろ。

山上憶良の和歌でも読み返せ。

「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」

っていうぐらいだ。

だんだん言葉が悪くなるが、子供を生むとか生まないとかいう世代は私よりずっと年

下だから許していただく。

死にたくないなら、恋愛はどうか? これもコストである。彼女が欲しがるものなら

命を掛けてでも手に入れるのが男だ。「谷間の百合」とはそういうこと。恋があって

愛が生まれ、子供が出来る。「ああ、大変だ」という思いを忘れさせるほど赤ん坊の

笑い顔は得難い。赤ん坊は宝である。

大きくなって生意気なことを言われても、あの赤ん坊が成長して言っているんだと思

えば我慢も出来る。「よくぺらぺらしゃべれるようになったものだ。ああ有難い」そ

う思えるのが親である。一人前の人間とは「親」のことなのだ。出来ることならみん

な「親」になるべきである。

存在も恋愛も出産もすべてコスト。理に叶ったものではない。そんなことは縄文時代

から分かり切ったこと。それでも人は生きて行くのだ。そこのところに詩が生まれて

絵が出来る。これがすなわち夏目漱石の「草枕」だ。

「子供はコスト? このドけち野郎! 懐の銭でも数えて一生暮らせ」っつーの。銭

冷えで腹でもこわせば、また金が掛かるぞ。ざまあねぇや。

第一、自分自身生まれて来たんだろ。恩返しということもある。それとも子供がコス

トなんて物凄いことを言う人間は木の股からでも生まれたか? 

子供も作らず、スマートな腹で、冷房の利いたガラス張りの超近代ビル群のなかをい

い服着てちゃらちゃら歩いていなよ。10年も経たないうちに化け物のババアになる

ぞ。その代わり、長い髪をなびかせて後ろを振り向くなよ。姿形は20代、顔だけは

50っつーのだけはご勘弁願いたい。あれほど怖いものはないから。

 

本日の更新は佐々木豊「画風泥棒」(芸術新聞社)を読んだ感想。芸大−安井賞−壁

塗り−日本画壇絵画を糾弾させていただく。画像はありません。

 

6月9日から6月16日までのアクセス数は274。信じ難い増加。?????

 

02年6月30日

今、ワールドカップの決勝戦が終わった。2−0でブラジルの勝ち。大騒ぎの1か月

だった。そんなに騒ぐほどのものなのか? おかげで今日も野球がない。息子が決勝

戦のチケットは5万円もすると言っていたが、満席である。わが町・成瀬からJR横

浜線で一本。20分ほどの駅(小机)にあの巨大なスタジアムはある。建造中からよ

く見たものだ。ま、戦争の代わりにサッカーで戦うというなら、こんないいことはな

い。馬鹿騒ぎにはうんざりするが、これが平和だと言うなら我慢も出来る。

第一、その前に私は51歳。この歳はもうテレビの視聴率調査の対象外なのだ。つま

り、すでに隠居ということ。シルバー年齢にも入れて貰えず、世の中からは仲間はず

れ。一番辛いところ。サッカーは若い人のもの。大いに騒いでください。

 

ところで、まことに、絵描きでは飯が食えない。先週アップした「画風泥棒」の先生

方もみなさん大学などで教鞭をとっておられる。純粋に絵だけで生計を立てている人

は滅多に見ない。この前珍しくそういう人の噂を聞いたが、評判のよかった絵は同じ

図柄で何枚も描くとのこと。これって絵描きなんだろうか? プロの画家? 職業画

家? まことにそんな絵だけは描きたくない。ユトリロも晩年は自分の若い頃の絵を

模写していたというから酷い話だ。もっともユトリロの絵はほとんどパリの絵ハガキ

を見て描いている。これも有名な話。しかし、それでもユトリロの絵には厚みもある

し冴えもある(全然ダメなのも多い)。

この前はテレビでセザンヌをやっていたが、セザンヌも贅沢な絵描きだ。あんな面白

くもない静物や山の絵を描いて、造形に趣向を凝らし、新しい純絵画の魁(さきがけ)

となる。寅さんなら「けっこう毛だらけ、猫灰だらけ。オシリのまわりはクソだらけ」

とでも言うところ。ま、しかしセザンヌの画面は透き通っている。タッチに思いがこ

もっている。画題は面白くないが、絵は飽きない(と思う)。それにしても、とにか

く生活の心配をしなくていい(もっとも、銀行家の父親にいつ勘当されるかとハラハ

ラしどおしだったという)のだから、われわれ渡世人とはまるで違う。

考えてみれば、平安時代の文学だって一部の貴族のお遊び。ほとんどの庶民は暮らし

に追われていた。もちろん、文学も残さずにただ遊んでばかりいた貴族のほうが多かっ

たのだろうから、紫式部も清少納言もやっぱりそれよりはずっと立派。前にも書いた

が、古代ギリシャの美術は素晴しいが、たくさんの奴隷によって支えられた社会であっ

た。

私なんか、うまくやったほうかもしれない。子供が生まれて20年、よく生きてきた

もんだ。絵もけっこう好きなように描いてきた。子供は身体はでかいが、まだ独りで

は生きてゆけそうにない。4〜5年はまだまだ大変だが、とりあえずもう少しでクリ

ア。もっともこれをクリアすると、こっちも死ぬだけ。いつも言うように、偉そうな

ことを言っても所詮有性生殖の哺乳類に過ぎない。絵を描く意地も情熱も「生きてゆ

く」ストレスが産み出すのかもしれない。私も大きな絵を描けるのはここ5年と踏ん

でいる。四畳半ではなく、だだっ広いアトリエで思いきりでかい絵が描きたいものだ。

しかし、小さい絵も大切。どんな大きさでも思いを込めるという点は同じでなければ

ならない。長谷川利行の絵のように。

 

ところで、先週の「画風泥棒」の「天才」たちの絵がどうしてつまらないか今日になっ

てやっと分かった。あれはすべて左脳β波の絵だからである。つまり頭で考えた絵。

私は不遜にも「馬鹿」などと評してしまったが、むしろ頭が良すぎるのだ。愛知県立

旭丘高校は名古屋の名門校。愛知県豊橋市出身の私の家内が言うのだから間違えない。

本当に天才なのかもしれない。ただし、20歳まで。私の慕う80、90歳の大器と

は桁が違う。もちろん30歳までの修業は物凄く大切だが、18やそこらで「天才」

などと言われ調子に乗ったのでは先が知れている。左脳β波も必要条件ではあるが、

右脳α波に気がつかなければ限界は見える。ヨガとか禅など瞑想の効用を知るべきで

ある。これらには神秘としてだけでは片付けられない科学性がちゃんとあるのだから。

 

と、本日の更新は「唇寒」だけ。次週はいよいよ富岡鉄斎に登場願う。上でも述べた

有性生殖の呪縛からも脱し、ちゃちな左脳β波の画壇美術など見向きもせず、超然と

我が道を歩んだ真なる大器。鉄斎の絵は60歳を過ぎ70歳からどんどんよくなり、

80歳でも進展は止まらず、とうとう90歳で死ぬまでとどまることはなかった。ま

るで昇華したように死んでいったのだ。なんてったって最晩年の絵が一番いいのだか

ら。

本当の老人力とは富岡鉄斎のパワーだろう。

もちろん、画壇など見向きもしなかった。

長谷川利行が日本洋画史上最大の油絵描きなら、富岡鉄斎は明治以降の日本絵画史上

最大の画人。私が絵画に無限の可能性を感じるのは鉄斎などわれわれの思考の埒外の

超人がいるからである。とにかく、次週は鉄斎の素晴しさを見ていただく。そして、

鉄斎が超人とか宇宙人というレベルに達していたのがまったく嘘ではないということ

を納得していただく。

 

6月17日から6月23日までのアクセス数は226。着実に元に戻っている。

 

02年7月7日

6月24日から30日までのアクセス数は281。マジで1日平均30以上。このア

クセス数のなかには自分のアクセスは含めていないから正味30なのだ。6月の月間

アクセス数は1033。本当に34を超えている。さらに昨日までのアクセスも落ち

ていない。実に不思議。

これはちゃんと「絵の話」を作らねばならないと、張り切って作ったのが今夜の 「富

岡鉄斎の絵―無敵の老人画力」。画像20枚以上の大作となった。この「絵の話」は

よくよく数えてみると100回目(前回の画像なしの「画壇美術」は98回だと思っ

ていたら99回だった)。別に記念したわけではない。富岡鉄斎が記念作になるとは

実にめでたい。そういうわけだからではないが、この「富岡鉄斎」はデジカメを何回

も撮り直し、水曜日から掛かりきり。文章も何度も読み直した。HPは絵とは違って

イッキというわけにはいかない。5日も掛かってしまった。

そろそろ女房から雷が落ちる。1銭にもならないことに熱中していては誰だって怒り

たくもなる。やることをやっていればともかく、経済状態もまだまだ不安定。来年以

降も危ないのだ。私の考えには「じたばたしても仕方ない」というところもある。

ここで20年以上も塾をやっていて、それでもまだ信用されないのなら、私にも責任

はある。英語も数学も抜群の指導方法だと思うのだが、ま、致し方ない。同じように

続けて行くしかない。続けられるだけでも凄いのだ(塾を選ぶ親子にはこれがわから

ないんだよな)。

 

6月24日から6月30日までのアクセス数は281。本物かも。6月の月間アクセ

ス数は1033。

 

02年7月12日

明日から出かけるので本日「唇寒」のみ更新する。

富岡鉄斎にはなれない。

鉄斎は1837年に生まれている。明治維新の1868年のときは31歳。幕末は勤

皇の志士として活躍した。命懸けである。今の世の中で想像すればアフガニスタンと

かイスラエルのような状況のなかで活動家として生き抜いた、というところか? そ

ういう激動の青春時代を過ごしている。どれほどの胆力の持ち主か、われわれとは鍛

えが違う。

さらに鉄斎は子供の頃から耳が遠かった。完全に聞こえなくなったのは最晩年だが、

けっこう不自由していたのではないか。こればかりは本人になってみないとわからな

い。私は思いのほか大変だったと考えている。また、眼はサルトルのような斜視だっ

た。若い頃は特に複雑な心境だっただろう。こういうことも後の鉄斎を作る遠因になっ

ているように思う。

第三は、逆死。1918年、鉄斎が数えで83歳のときに頼れる息子の謙蔵が胃癌で

亡くなる。46歳だった。孫も4人いた。この精神的ショックと孫のために頑張ろう

とする闘志は尋常のものではない。われわれではとても想像できない。最晩年の鉄斎

の不思議なエネルギーがこの辺に由来すると考えることに無理はない。逆死から7年

近く鉄斎は頑張った。物凄いことだと思う。

以上のような点から、われわれは鉄斎にはなれない。なりたくない。とても耐えられ

ない。

しかし、鉄斎の絵を見ることは出来るし、画集なら毎日見られる。壁に貼っておくこ

とも出来る。模写も出来る。鉄斎がいたということを思いながら絵を描くことも出来

るし、慕うことは自由である。いくら慕っても誰からも文句はない。昔のおじいちゃ

んだから家内も焼餅を焼かない。

ついでに、以下のような時代状況もある。

鉄斎はとても長命だったので、江戸時代から大正時代までを生きた。最晩年は日本全

体がとても豊かな恵まれた時代だった。いわゆる大正デモクラシーの最盛期だ。美術

界も洋画界は活況を呈していた(1920年は中村彝33歳、萬鉄五郎35歳、長谷

川利行29歳、村上華岳32歳など)。学問も緻密な腰を据えた研究が多いと聞く(立

花隆の「面白い本ダメな本」)。幕末からの内戦や戦争も一段落した時期で、文化が

大きく花開いた。ちなみに、鉄斎が死んで7年後の1931年、満州事変が起きる。

 

7月1日から7月7日までのアクセス数は276。1日平均39以上。「?」

 

次のなるびクロッキー会

8月17日(土)、9月16日(月・祝)、9月23日(月・祝)。

時間は午前10時から午後1時まで。場所は町田市立国際版画美術館アトリエ。

なお、来年3月18日〜23日の国際版画美術館市民展示室作品発表会の作品を募集

中です。

わが学習塾のページもご覧ください。7月2日に更新。

とうよう塾ホームページ「かがやく子どもたち」です。

 

02年7月21日

昨日、菊地俊雄先生が亡くなった。79歳。42年前からの交際。東芝中央病院で長

く耳鼻咽喉科の医長をなさっていた。新潟医大を出て、東京大学の大学院を卒業。東

大医学部の講師もなさった。父の絵をたくさん買ってくれた。私が生きていられるの

も菊地先生のおかげかもしれない。下北沢から町田のつくし野に移られて、版画美術

館の「如魯の会」で一緒に油絵を発表した。

絵がとても好きな先生で、自分も描かれるし、コレクションも多い。長谷川利行や須

田刻太、松田正などをよく見せて貰った。喜多村知先生も持っていた。ほかに名のな

いヨーロッパの画家のいい作品があった。何とかいう女流画家の水彩は何度見ても見

飽きなかった。

私の子供たちは私のせいで鼻が悪く、何度も診察していただいた(特別料金)。私自

身は申し訳ないので遠慮した。家内に「おさむさんは絵を描いていますか?」と聞く。

家内が「最近は忙しくて全然描いていません」というとたいへん機嫌がいい。「展覧

会が多くて毎日描いてます」というとどこか不機嫌。変わった先生なのだ。医者より

も絵描きの方がいいと思っておられる節があった。

2ヵ月ほど前に「私ももうじき死ぬから、お父さんの絵をお返ししましょう。もちろ

んお金は要りません」と言われ、十枚ほどの作品を取りに伺った。「おさむさんが持っ

ておられたほうがいいでしょう。そのかわり売ったらダメですよ」と釘を刺された。

菊地先生は父のシンガポールの傑作を持っている。「あれもくれるのかな」と期待し

て伺うと、目当ての絵はなかった。「やっぱりあの絵は手放さないのか」とちょっと

残念なような、父には誇りのような。

自分で死ぬなんて言う人にかぎって長生きをするものだ。菊地先生も弱っているよう

だが、まだまだ余生を楽しむのだろうと勝手に思い込んでいると、7月の初めに先生

から電話。「手放したい絵があるが、最近絵は売れますか?」と言う。「こんな世の

中ですからなかなか売れませんね」と答える。が、ふと気がついて「長谷川(利行)

なら売れますよ」と言うと、しゃがれた声で「あれは売りません」と来た。まだまだ

しっかりしている。「画集はどうですか?」「画集ですか。難しいですね。本屋に当

たってみましょう」「『原精一』とか『杉本健吉』です。もし売れそうもなかったら、

おさむさんにあげますよ」「そうですか。それは悪いですね。杉本健吉はテレビなん

かに出て最近人気もありますから売れるかも知れません」などと言ったが、限定の画

集の市場が最近どうなっているのかさっぱりわからない。私も原先生も杉本先生も嫌

いではないが、家も狭いのででかい画集は邪魔だな、なんて罰当たりなことを考えて

いた。「実は私、今入院しているんですよ」と言う。「えっ? やっぱり悪いんです

か? どちらに?」「飯田橋の逓信病院」「何でまたそんな空気の悪いところに入っ

ているんですか」「息子(医師)の紹介で」「それじゃあ、しょうがないか」などと

言いたいことを言って電話を切る。下手に見舞に行くなどと約束すると、待つ身も辛

かろうと、黙っていた。明くる日すぐNTTで病院の電話を聞いて見舞時間を尋ねる

と午後ばかり。午後では行けない。ご自宅へ電話して病状を聞くと、夏は越せるとの

こと。それじゃあ、21日(本日)に行こうと昨日見舞の品も用意していたのだが。

まことに残念。……致し方ない。

今ごろはあの世で父と口喧嘩でもしながらいっぱいやっていることだろう。ちょっと

羨ましいが、私はもうしばらくこっちで駄作をひねる。まだまだ欲が抜け切らない。

 

本日は、真夏の裸婦6点をアップ。最新作です。

 

7月8日から7月14日までのアクセス数は246。けっこう減らない。

 

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