唇 寒(しんかん)集63<22/1/1〜>

22年5月28日(土)

通底する筋

5月24日のブログで「今度の『唇寒』のテーマは『通底する一本の筋』」と書

いてしまったが、これは5月14日付けの『唇寒』のテーマ『一筋の共通項』と

同じ。繰り返しか?

たとえばカンディンスキー(1866〜1944)。彼は描きたいものを描きたいよう

に描いたのだろうか。晩年の抽象表現は楽しかったのか? 若いころの描写力

から察してああいう具象絵画も描きたかったのではないだろうか? たとえば、

カンディンスキーの若いころの広大な風景画などを見ると、カンディンスキー

が目の前の風景に感動しているのがわかる。歳をとったって風景は眼前にある

わけで、その大空間の素晴らしさがわからないわけがない。そういう目の前の

大風景はターナー(1775〜1851)でもモネ(1840〜1926)でも中国の牧谿

(1280頃活躍)でも同じように感じて絵にしていると思う。その気持ちは私だっ

て同じようなものだ。

本心、絵なんてどうだっていい。目の前のパノラマが凄いのであって、これは

恒久不変なんじゃないのか。いやいや、鳥だった同じように思ってい見ている

ような気もする。サバンナに寝っころがっているライオンだって気持ちよさそ

うだ。チャチな絵画理論はぶっ飛ぶよね。ま、私は描くけどね。描きたくなる

もの。描くよ。絵ってそういうもんだと思う。

ややこしい絵画理論や美学から絵を解放したのが印象派だったんじゃないのだ

ろうか?

風景だけじゃない。人体の美しさも同じだし、静物の存在、細かい空間の妙。

見れば見るほどきれいだよね。牧谿の《柿図》もシャルダン(1699〜1779)の

静物画《パイプと水差し》も同じような目で見ている。理屈を言えば切りがな

いけど、少なくともものを見る共通項はうかがえる。

そこのところ、鳥やライオンのことは置いおいても、人間の目はかなり共通で

あり、共感があるのではないか。春になって咲く花々に対しても太古から続く

脳の奥の奥のほうの歓喜がうずくんじゃなのだろうか。そこんところを描くん

だよね。それが絵描きっしょ。

この絵を描く心。絵心? そういうのは人の本能だと思う。大谷翔平がグラウ

ンドを走り、藤井聡太が将棋盤の前で呻吟する。そういう人の本来持っている

行動の喜びを思い出すべきだと思う。

難しいことじゃない。単純なんだよね。

描きたいから描く、のだ。

 

22年5月21日(土)

40〜50歳のセザンヌ

ブログではここのところセザンヌ(1839〜1906)の絵を続けてアップしてい

る。1880年前後の風景作品。セザンヌが40歳のころだ。セザンヌは1882年43

歳のとき1度だけサロンに入選している。それは審査員ギュメの弟子という名

目で特例の入選だった。とにかく当時は公募展はサロンしかなかったから、画

家になるためにはサロンに入選することが最大の課題だった。ま、セザンヌの

入選は実力とは言い難い。しかし、実力とは言ってもどういう基準の実力なの

かはとても疑問。セザンヌ40歳前後の風景画はかなり魅力的だ。私はムチャク

チャいいと思っている。

いい絵の反対はつまらない絵。つまらないのは映画でもドラマでもお笑いでも

全部同じ。

「つまらない」対して「いいとか魅力的」ってどういうことだろう?

私はそれは状況が創り出すような気がしている。

黒沢明監督の映画は、やっぱり戦後10年間が一番いいように思う。それは社会

状況とも密接に関係しているのではないだろうか? 

セザンヌの40歳から50歳ころはサロンにも受け入れられず、期待した印象派展

もイマイチ。セザンヌは第4回展以降の印象派展には出展していない。

田舎に引っ込んで思うように絵を描いたと考えて大過はないと思う。で、この

ころの絵は輝いている。

1999年に横浜美術館で開かれたセザンヌ展のカタログの年譜(この年譜はとて

も詳細)に貴重な一行を発見。「1888年アルルにいたゴッホがセザンヌの風景

画への讃辞をテオやベルナールに語っている」とあった。やっぱりね。誰が見

たって、このころのセザンヌの風景はピカイチでしょう。というか、その「誰」

がゴッホ(1853〜1890)なんだからとても嬉しい。いい絵がわかる人間同士な

ら同意しちゃうよね。なんかとても気分がいい。モネ(1840〜1926)やルノワー

ル(1841〜1919)とも交流が続いている。

この辺の絵画史小説を1本書くか。ワクワクドキドキだね。

 

22年5月14日(土)

一筋の共通項

結局ひねくれた根性。さもしく狭い貧乏性がいけない。私が君子なら、人の

ことなんてどうでもいいはずだ。現代アートだろうが、超細密描写だろうが、

商業美術だろうが、他の人が何をどう描いたって自由だ。勝手だ。どういう

絵が支持され、多くの人が受け入れようともそんなこともどうでもいい。関

係ない。

でも、ついアートの世界について何か言いたくなってしまう。

ミケランジェロからティツィアーノ、ルーベンス、レンブラントと来て、コ

ロー、ドガ、セザンヌ、モネと続いた西洋美術に通底する一筋の心意気。筆

を持ち画面に向かう深くて限りない喜び。歓喜。

それは東洋の絵にも共通する。

描く喜びこそが人類が、人類だけが知り得た所作。行動。パフォーマンス。

行いのなかに歓喜があり、それが画面として定着し何百年ものちのわれわれ

にもガンガン響いてくる。これこそ絵画の最高の真価だと思う。ま、それは

音楽でも同じだと思うけどね。音楽は演奏というバケツリレーみたいな伝達

で繋がってきた。これも素晴らしい。

絵は過去の先人画家の筆跡(ふであと)がそのまま残っている。ここがまた

凄い。350年も前にレンブラントの手が残した筆の跡がそのまま見られるん

だから、奇蹟とも言える。

NHKの『日曜美術館』でマンガ家さんが熱弁をふるっている。確かにマンガ

も絵だけどね。

本当の絵画には目的がないんだよね。描くことそのことで完結している。何

かを説明するための筆じゃないんだ。

いいけどね。私もマンガは大好きだから文句はない。でもとてもトンチンカ

ンな気もする。

 

22年5月7日(土)

スタンダード理念

『国立西洋美術館 名画の見かた』(渡辺晋輔<しんすけ>/陣岡<じんが

おか>めぐみ・集英社)のなかで自由学芸(労働から解放された高貴な自由

人が身に付けるべき学芸)という言葉が出た。とても興味深いけど、「それ

じゃあ、創作者はどうやって生計を立てるんだよ!」と絡みたくなる。

印象派の画家の多くは資産家の子息。明治期の日本の画家や小説家も金持ち

のお坊ちゃんがほとんどだ。売れない絵や小説に没頭していてもメシが食え

ないということはない。

そんなこと言ったら、平安時代の歌人はみんな宮廷人。下界の貧乏人は芸術

どころの話ではない。

ま、私自身、貴族でもなければ資産家の子息でもないけれど、こうやって絵

を描いてこられたのは、日本が豊かな文化国家だったからだと言えなくもな

い。世界的に見て戦後日本の方向は悪くなかったようにも思う。別に自民党

政権を擁護するつもりはないけど、大過なかったと言わざるを得ない。

で、「自由学芸」の話だけど、商業イラストや人気コミックも確かに絵だけ

ど、われわれの絵とはかなり違うように思う。特にわがイッキ描きは「描き

たいものを描きたいように描く」んだから、とんでもないワガママ絵画。も

しかすると、このわが主張こそが最先端自由学芸なんじゃないかと思う。最

先端というか、不動のスタンダードスタイルだと確信している。

ところで、『国立西洋美術館 名画の見かた』(p94)のなかに「その結果

彼(=ラファエロ)の作品はアカデミズムと結びつけられてしまうのですが、

それはもちろんラファエロの責任ではありません」という記述がある。これ

は明らかにアカデミズムを否定的に述べている。美術史の世界では自然にア

カデミズムは「つまらない」の代表なのだ。ここのところをよくよく心得て

いただきたい。現代アートのほとんどは美大から発信されていて、それはア

カデミズムということなのである。なんでわからないのだろうか? 世の中

は頭のいい人ばかりなのに、本当に不思議だ。特にNHKは東大出ばかりなの

に現代アートにしつこくこだわる。バカなのか? 美術常識がなさすぎる。

 

22年4月30日(土)

性急に過ぎる

私はいわゆる現代アート(とかモダンアートとかコンテンポラリーとか現

代美術など)にちっとも魅力を感じない。世間一般の評価も高くない。そ

れでもサザビーズなどの美術オークションでは千万とか億の単位の金額で

取引されている。信じがたい。羨ましい。

ま、私は億のお金は要らないけどね。今のところ毎月30万円あれば豊かす

ぎる暮らしになる、と思う。冷蔵庫や洗濯機、エアコンなどを買い替えな

いとヤバいから、そういう金も要る。わが家の経済はどうでもいい。普通

に暮らせて絵を自由に描ける暮らしがしたいだけ。今でもけっこう自由か

も。

西洋美術は19世紀から20世紀にかけて大変革があった。社会的、政治的、

思想的、科学進歩など、いろいろな要素も加わり、一般市民の意識も大き

く変わった。大変革の時代だと言える。世界が一つになった感じもある。

当然絵や彫刻も、大きな意識変革があり、とても自由になった。

自由になり過ぎて頭がおかしくなった感じもある。バカになったのか?

そして、現代アートの発信元が美術大学(=美術アカデミズム)だという

のもトンチンカンナ話。

印象派の絵画革命もアカデミズムへの反抗から始まったのである。それは

私が何度も繰り返しているし、ある意味、美術史の常識でもある。世界中

のいろいろな魅力ある美術はアカデミズムからは生まれない。江戸時代の

浮世絵も南画も江戸狩野派から生まれたわけではない。私から言わせれば

江戸狩野なんて見たくもない。浦上玉堂(1745〜1820)は見たくて見たく

てたまらないもんね。絵の前に立つと魅せられるよ。

現代アートが変革のための変革、みたくなっていて、しかもその土台がア

カデミズムなんだから話にならない。

歌だって、レコード会社で売っていたけど、路上ライブからいいものがいっ

ぱい出ている。というか今や路上ライブじゃなきゃ魅力ないんじゃないの?

ホント、美術業界、頭冷やせよ、と言いたい。

 

22年4月23日(土)

魅力ある絵とは?

魅力ある絵ってどういう絵なんだろうか?

魅力ある絵の反対はつまらない絵だ。見たくもない。

真なる魅力ある絵はずっと見ていたい、何度も繰り返し見たい絵。

そういう絵ってどうやって描くんだろう?

私は「状況の絵画」であるべきだと思っている。

絵描きが切羽詰ったところからギリギリの筆を見せた場合、みたいな?

でも、その筆には喜びがなければならない。

萬鉄五郎(1885〜1927)は『鉄人アヴァンギャルド』(二玄社)のなかで

「一筆一筆のなかに練る」とか「一つの筆触は、すなわち全人であること

を知らねばなりません」とも言っている。それが、私の言うギリギリの筆

触だ。

それは余裕の筆触ではない。天才的に巧い画家がいくらでも描ける、みた

いに筆を揮った工芸品ではない。器用な殿様が余暇に遊んだ筆触でもない。

生活や富のために仕事として描いた絵でもない。

一番わかりやすいのは中国宋元時代の水墨画かもしれない。江戸時代の文

人画もわかりやすい。

印象派の絵はまさに文人画的な要素をいっぱい持っていた。そういう意味

でも、ヨーロッパ絵画は印象派から目覚めたと言える。

とは言いながら、印象派以前にも唸りたくなるほどの名画名作は五万とあ

る。

それはこのホームページで「オールドマスター巨大美術館」(仮名)とし

てアップしていく予定だ。

 

22年4月16日(土)

メット展モネ《睡蓮》

メトロポリタン美術館展は5月30日まで六本木の国立新美術館でやっている。

六本木と言っても最寄駅は乃木坂だけどね。

そのメトロポリタン美術館展の最後の部屋にある横2m余の大作はモネ(1840〜

1926)の《睡蓮》。1916〜19年の作とある。76〜79歳ごろだ。上野の西洋美

術館などにある《睡蓮》などとはちがい、なんか黒っぽい絵。でも、魅力いっ

ぱいだ。私自身が71歳だから、さらに5年後にこんな大きな絵に挑んでいるモ

ネに平伏しちゃう。71歳でも体調などいろいろ不調で「ああ、歳とったなぁ〜」

と感じているのに、モネは凄いね。モネは86歳まで生きるけど、死ぬ間際まで

ずっと描いている。ミケランジェロ(1475〜1564)、ティツィアーノ(1488/

90〜1576)、富岡鉄斎(1837〜1924)クラスの超ド級画人だ。

モネの晩年は横2mの大きな絵が多い。

今回の《睡蓮》も黒っぽい画面に、たぶん柳だと思うが、自由な線描で暴れて

いる。右のほうに絵具が飛んだような跡もある。でもそれもポイントになって

いる。

まったく絵って楽しいよね。画面の上では画家は王様、皇帝、大統領。自由自

在だ。その喜びをモネは謳っている、ようだ。楽しくて仕方ない、って感じが

ガンガン伝わってくる。晩年のモネには何度楽しませてもらったことか。

1982年秋のモネ展(西洋美術館)で見た《ばら》には腰を抜かした。私が32歳

のときだ。この絵も横2m。モネが83〜85歳のときの絵。最々晩年だ。明るい青

のなかにバラの枝と葉っぱが自由に遊んでいる。濃いピンクのバラの花も、「バ

ラでござい」と威張っていない。枝や葉っぱのなかに溶け込んでいる。

「ああ、この画境に行きたいなぁ〜〜」とつくづく思った。

人と生れて絵筆を持って絵を描いて生きて行こうというのなら、このモネの域

に達したいと願うのが人情。人生は一度しかないのだ。

その後もあちこちの美術展でモネ晩年の横2mの絵に出会った。嬉しくて楽しく

てびっくりして尊敬しちゃう。

今度のメトロポリタン美術館展でも、また別の新しい晩年モネに出会えた。と

ても幸福でした。

 

22年4月9日(土)

上下する自己評価

私もそろそろ父親の死んだ歳74歳に近づいている。で、父の絵を見返してみ

ると、父は巧いなぁ〜、と感嘆してしまう。4月2日付けのブログに載せた裸

婦《桃夭(とうよう)》もムチャクチャ巧くないか? 数年前にアップした

30号の裸婦も上手。少なくとも私の朴訥な絵とは大違い。まさに流麗だ。

自分の絵に対して優越感と劣等感のジェットコースター状態で言えば、今は

まさに劣等感でまっさかさま、ってところ。松尾芭蕉(1644〜1694)の『笈

の小文』でいえば、「ある時は倦みて放擲せん事をおもひ、ある時はすすん

で人にかたん事を誇り」という件(くだり)。芭蕉だってジェットコースター

だったのだ。

ま、それはともかく、父の絵は巧い。それが狙いだったことも明らか。そし

て厳しい絵画修業観を持っていた。私みたいなグータラではなかった。太平

洋戦争への怒りに燃えていた。それが甚大なエネルギーを生んだのだと思う。

われわれは本当に平和だった。2年前から蔓延しているコロナ禍があるけど、

これとよく似た厄災は大正デモクラシーの時代にもあった。スペイン風邪だ。

1918年から1920年とあるから100年余前だ。大正デモクラシーは1923年9月の

関東大震災まで続いた。その後、日本は戦争への道をどんどん転がり落ちて

行った。

現代なら3.11東日本大震災だろうが、被害に遭われ掛け替えない人を失った

苦しみは耐え難かっただろうが、3.11は首都を直撃したわけではなかったか

ら、日本国の存亡という大問題にまではならなかった。

なんにしても大震災や疫病、戦争はご勘弁願いたい。それで緊張した素晴ら

しい絵が描けなかったとしても、そんなのどうでもいい。

ま、私は私なりに描くだけ描くけどね。

 

22年4月2日(土)

わがままでゴメン

3月30日のブログで北斎の演出力について述べた。それに対して私自身の写

生絵画は「情けない」と書いたが、本心それほど情けないとも思っていない。

もちろん、葛飾北斎(1760〜1849)に対抗してわが画道が優っているという

思いは微塵もない。

ブログでも述べたけど、別世界なんだよね。

私は北斎に比べれば実にわがままだ。見る人のことなんて考えていない。

「描きたいものを描きたいように描く」

これがわがイッキ描きのモットー。基本姿勢だ。世間の評価なんてどうでも

いい。

それは先週の『唇寒━おいしいところ』にもつながる話。

北斎の絵は基本「仕事」なのである。悪く言えば通俗。売りが目当て。

何度も言うけど、私だって絵を買ってもらいたい。買ってもらえば、一抹の

寂しさもあるけど、どちらかと言えば嬉しい。純文学じゃないけど、純粋を

気取るつもりは毛頭ない。純粋なんて気持ち悪い。

われわれは誰も、メシ食って寝て起きて恋をして死んでゆくだけのこと。み

んな基本死にたくない。だから人殺しはダメ。とにかく、人間そんなに変わ

るものじゃない。通俗も純粋もハチの頭もない。

北斎は通俗に生きたかもしれないが、通俗を超えて、はるか高レベルの画境

に達した。

もっとも、通俗にどっぷりつかって自省もなく、文化人を気取っている輩(や

から)にも腹立つけどね。それもどうでもいい。北斎にそういう感じはない。

気持ちいいぐらいの絵描きのなかの絵描きだ。

現代アートとか言うけど、われわれ現代人が描けばどんな絵だって造形だっ

て現代アートだ。そんなの当たり前ではないか。誰でもみんな時代の子。こ

ればかりはどうしようもない。油絵を西洋絵画というけど、日本人が描けば

日本画だ。これも当たり前。バカバカしくて議論する気にもなれない。

われわれは膨大な書籍に恵まれ、テレビ、映画、ネットなどあらゆる情報を

得られる世の中に生きている。それはまさに地球規模。そのなかでどの情報

を選び、どういう生き方をするか、まったくの個人の自由。自由ということ

は責任でもあり、選択の恐怖でもある。

知能指数も高く、財産もあり、最高の地位についても、一般市民への虐殺指

令を出している人間もいる。そうなったらオシマイでしょ。桜を追って歩き

回っているアホな貧乏絵描きのほうが100倍まし。100倍どころか1億倍ましか。

 

22年3月26日(土)

おいしいところ

昔の大巨匠、ラファエロ(1483〜1520)やルーベンス(1577〜1640)などが

大画面のタブローを制作する場合、構想を練り、下絵のデッサンを重ね、登

場人物ひとりひとりのポーズを決めて、さらに着彩下絵も描く。実際の大画

面を描くのはほとんど弟子たちだ。最後の仕上げでマスターである大画家が

手を入れる。

王宮の壁画ともなれば国家規模の公共事業。大仕事だ。

ルーベンス工房ではオートメーション工場のように大絵画が生まれていたの

だろう。

そういう大絵画制作過程のなかで、画家が一番楽しいのはどの工程なんだろ

う?

最後の仕上げか、最初の着想か、着彩下絵を描くときか。

私の想像では、きっと最初に構想するデッサンとか着彩下絵なんじゃないか

と思う。ルーベンスの着彩下絵はけっこうたくさん残っている。上野の西洋

美術館でも見られる。

その一番おいしいところを直接キャンバスに油彩画で仕上げてしまおうとい

うのがわがイッキ描きの狙い、コンセプトだ。

一枚のキャンバスに絵描きの想いを短時間にギュッと詰め込むという発想だ。

ま、こう言うやり方は昔からある。ヨーロッパでは200年以上も前からあるし、

中国では1000年も前からやっている。私はそれをさらにくっきり示したいだ

けだ。

人はどうしても逆戻りしたがる。

世間ではいまだに工房作品みたいなものを大事すべきだと思い込んでいるフ

シもある。

勿体ぶって「これが芸術作品でござい」みたいな姿勢。アホか。

そういうところに金が動くから、コチトラいつも貧乏だ。なんとか生きている

からいいけどね。ゴッホ(1853〜1890)の絵が1枚100億円? ホントまったく

ゴッホ自身には無関係な話だよね。

もちろんゴッホだってわがイッキ描き画法だけどね。

アカデミズムとも無縁。それなのにアカデミズムの信用信頼も根強い。

まったく不思議だ。

 

22年3月19日(土)

破壊と創造???

20世紀からヨーロッパアートは大きく解放された、と思う。

神話や聖書のヴィジュアル表現や史実の記録または写真の代わりの肖像画な

どなど、19世紀後半に、それまでの絵画に対する観念は大きく変化した。も

ちろん、印象派の活躍が大きく関わった。聡明なる実行者。巨大なエネルギー

が絵画の変革をもたらした。

写真の発明とか、アメリカ経済の隆盛など、いろいろな要因が重なった。

いわゆる前衛絵画が時代の最先端を切り拓いた。

破壊と創造。

ピカソ(1881〜1973)の存在は小さくない。

しかし、頭を冷やして大雑把に美術史を俯瞰すれば、太古の洞窟絵画から20

世紀まで、ヨーロッパ美術のほとんどすべてが具象なのである。これは美術

の99.999%以上が具象ということだ。

そして、東洋も西洋も、美術を腐らせてきたものはアカデミズムなのである。

これも冷静に美術史を見直せばあまりにも明らか。

19世紀フランスアカデミズムはその代表だ。江戸時代の狩野派とか中国宋時

代の画院絵画も同類。安定した官学主義は美術を腐らせる。

ところが、いっぽう、破壊と創造を謳う現代アートのほとんどは美術大学か

ら発信されている。破壊行為がマンネリ化してもう破壊自体が破壊でなくなっ

ている。破壊は常識? 安定しきった美術大学システム(=アカデミズム)

から魅力あるアートが生まれるはずもない。破壊がアカデミズムになっている。

私から言わせれば「何やってんの?」って感じ。

何がやりたいんだろうか? 

人体は美しく、花は華麗に咲き、大自然はまだ十分驚嘆の姿を見せてくれる。

海辺の朝焼けの美には息を呑む。山の大気、星空。いっぽう、部屋の片隅の空

間のなかにある物の陰影にも驚く。ちょっとした光の変化でいつも見ていた花

瓶が不思議な存在感を示す。

こういうのって、ヒトだけが持つ視覚機能の勝利なんじゃないのか。鳥が空を

飛び、魚が自由に泳ぎ回るのを羨ましがるけど、ヒトにはヒトの特殊能力があ

る。いろいろな自然の状況を「ああ、綺麗だぁ〜」と感嘆できるのはまさにヒ

トだけが持つ特殊技能と言える。それを絵にできることもヒトだけの技能だ。

そのことをフェルメール(1632〜1675)やレンブラント(1606〜1669)は教え

てくれた。

絵描きは昔の人の絵をたくさん見て、大自然の姿を堪能するべきだと思う。人

生は一度しかない。本当にやりたいことをやるべきだ。本当に描きたい絵を描

きたいように描くべきではないのか。

とは言うけど、これは安定した美術大学システムのなかで「破壊と創造」を繰

り返すよりもずっと厳しい。苛酷。

でも、限りなく楽しいよね。大自然を味わい、レンブラントやターナー(1775〜

1851)と会話する。モネ(1840〜1926)やゴッホ(1853〜1890)に教えを受ける。

昔の中国や日本の画人からの筆のささやきに耳を傾ける。

最高の人生なんじゃねぇのかぁ〜〜〜。

お先真っ暗だけど、私の勝ちだと思う。

 

22年3月12日(土)

新釈『般若心経』!

坐禅だけではなく、将棋の考慮時間や絵を描いている時間などの忘我の時間て、

よくよく考えてみると『般若心経』に書いてあることかもしれない。

観音様が「般若波羅密多」を深く行じられたということは、忘我のときをお過

ごしなったという意味ではないか。そういうときに自分のまわりの状況はどう

なるのか? 一切の苦しみを乗り越えられる、と説いている。

よくわからなかったのは、「不生不滅、不垢不浄、不増不減」の意味。若いこ

ろから疑問だった。生まれもしないし死にもしない。えっ? 死なないの? 

それって凄すぎる。不老長寿か? と単純に解釈して、「ンなことあるわけな

いじゃん!」と思いつつも、昔の偉いお坊さんたち、良寛さまや道元禅師、きっ

と牧谿(1280頃活躍)や雪舟も。仙腰a尚も繰り返し唱えたお経なんだから嘘

はないだろうと、また考え直したりした。

汚れもしないし綺麗にもならない。風呂に入らなくてもいいのか? 洗濯の必

要もない。

「不増不減」は金の心配もいらないという意味だろうか? と思い悩んだ。

まったく凡夫の単純思考では深遠な般若の教えは理解不能。

これは、忘我忘時の集中の時間を言っているのかもしれない。全然違うかもし

れないけどね。でも、寝食を忘れて物事に熱中するようなこともある。そうい

うときなら「不生不滅、不垢不浄、不増不減」であり、それは「度一切苦厄

(一切の苦しみから解放される)」なのかもしれない。

ま、そう考えるといろいろな疑問がするすると氷解するよね。

しかし、これはまったくの間違いかもしれない。

でも絵を描く時間が「行深般若波羅密多時」ならば、牧谿の絵などはまさにそ

の瞬間をヴィジュアル化したもの。悟りの視覚化ということなのだろうか?

ああ、また高輪の畠山記念館で牧谿の《煙寺晩鐘》が見たくなった。風が渡っ

ている《遠浦帰帆図》(京都国立博物館)も見たいぃ〜〜〜。

 

22年3月5日(土)

人間はいろいろなことを忘れて熱中しているときが一番幸福なんだと思う。それ

は忘我のとき。我を忘れ時間を忘れる。それこそが諸法無我、諸行無常なんじゃ

ないかと思う。一番幸福ということは涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)というこ

と。つまり、仏教の教えの核心である三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)

は人間が物事に熱中しているときに達せられる。

私で言えば、一番手っ取り早いのは絵を描くこと。しかし、絵を描くと言っても

何か目的があってはいけない。褒めてもらう、買ってもらう、入選、受賞、勲章

などなどの邪念があってはいけない。

絵を描くことそのことに専心しなければいけない。

そんなことができるのだろうか?

 

将棋で長考中の藤井聡太五冠は、きっと没我の境地にいるように思う。他のプロ

棋士が長考しているときよりも深く思索にふけっている感じがする。将棋の勝敗

は考慮の深さに関わっているのではないか。勝敗、スコアを超えた別世界に埋没

しているのではないだろうか。

絵だと、ゴッホ(1853〜1890)や長谷川利行(1891〜1940)がそういう世界で絵

筆を揮っていたように思われる。

 

道元禅師は、上記のことを坐禅で実現させようとした。しかし、坐禅はあまりに

もつまらない。

 

ま、私みたく歳をとったら、長い間の集中も困難。短くていいと思う。1日に30分

でもいいし、10分でも5分でもいい。そんなにずっと涅槃寂静の状態を保持し続け

るのは無理というものだ。瞬間的に涅槃寂静に入れれば十分満足。涅槃寂静には

未来も過去もない。現在もない。まったくの別世界。異次元空間に入り込む。

それは水泳のときにもある。続けて長く(15分ぐらい)泳いでいると何が何だかわ

からなく瞬間がある。それこそが涅槃寂静なんだと、最近気がついた。

 

こういう考えは過程主義と言えるだろう。プロセス主義ということ。結果主義の対

極だ。道元禅師の主張は究極のプロセス主義。「坐禅をしているときが悟りのとき

だ」という教え。

その真似をして私は「描いているときはみなゴッホ」というコピーを作った。

15年前までやっていた学習塾では「受験の目的は合格ではなく受験勉強することに

ある」と謳った。

将棋だったら「考慮しているときこそが勝利」という思想か。

 

22年2月26日(土)

2月19日のブログは「宗教と美術」と題して書いた。そこで「純粋美術、純粋造

形みたいな幻想を持っている。それは現代アートの世界的な傾向かも」と述べた。

これは、動機と結果という話でもある。

現代アートの趨勢は「結果オーライ」なのだと思う。動機は要らないという話だ。

ヨーロッパ美術に驚嘆した明治大正期の若い画家たちは、ヨーロッパ絵画の原動

力はキリスト教への信仰だと思い、彼ら自身もキリスト教の洗礼を受けた。中村

彝(1887〜1924)や岸田劉生(1891〜1929)、藤田嗣治(1886〜1968)など。

彼らはヨーロッパ美術の根幹に迫ろうとした。

私ももちろんヨーロッパ美術を尊敬している。しかし、中国宋元の水墨画もド凄

いと思っている。中国の仏像も日本の奈良、平安、鎌倉の仏像にも平伏しかない。

私は自分が東洋人であることを少しも卑下していない。だいたい東洋とか西洋な

んてどうでもいいんだよね。

動物学のレベルで言えば、人類(=ヒト)の99.9%は同じようなことをしている。

喰って排便して寝て起きる。異性に惹かれ繁殖する。

新しい美術というけど、統計学的に言えば、3万年前から絵を描いてきた人類(お

そらくもっと古いと思うけど証拠がない)にとって、ここ100年や150年の新しが

りって何なんだ? バカとしか思えない。頭冷やせよ、と言いたい。

長い美術史を俯瞰すれば、美術は宗教と深くかかわっている。というか、美術は

宗教心の表出でしかない。そしてこれはとてもまともな現象だ。それ以外にない

と思う。純粋美術、純粋造形なんてチャチなお遊び、人間の傲慢、バカな幻想に

過ぎない。

 

22年2月19日(土)

ゴッホ(1853〜1890)の絵をじっと見ていると、絵画の本質が見えてくる、感

じがする。

ゴッホって絵が下手だ。いわゆる達者な画家ではない。でも、おそらくきっと

世界で一番愛されている画家だと思う。

いま並行して『ゴッホの手紙』(みすず書房=わが学生時代の分冊版ではない)

を読んでいるけど、やっぱりかなりの情熱家だ。

絵についても、自分の絵を売りたいとは願いつつ、実際に筆を持ってキャンバ

スに向かうと、売りたい願望は一切なくなってしまったようだ。目の前の対象

(=自然)への熱烈なる愛情と絵画への思いではち切れそうになってしまうの

だろうか? また絵筆で信仰の強さも訴えている。キリスト教的に言えば人々

を導こうとしているのか? 

その熱中度、集中度は並はずれている。

私が「ああ、筆の人だなぁ〜」と感嘆し脱帽する人、「まったく敵わないな」

と思える人はゴッホ、長谷川利行(1891〜1940)だ。また、雪村周継(1504〜

1585/1492〜1573)なども絵描きのなかの絵描きだと思う。そういう意味では

もちろん葛飾北斎(1760〜1849)も素晴らしい。彫刻家だけどミケランジェロ

(1475〜1564)も凄い。油彩画家で言えばティツィアーノ(1488/90〜1576)

も同類か。モネ(1840〜1926)も。

私なんかはそういう先人たちに少しでも近づくように生きて来ただけだ。もう

71歳だからどうにならないけど、でも、まだ少しでも近づくように頑張ろうと

は思っている。

 

22年2月12日(土)

You Tube《美術の沼びと》ではモネ(1840〜1926)を24回にわたりたっぷりしゃ

べった。合計7〜8時間になるかも。いろいろな知らないこともあり、クマサク

氏にご教授いただいた。

モネの次はゴッホ(1853〜1890)。この画家についてもしゃべりたいことは山

ほどある。第1回目でしゃべり尽くしてしまったかもしれないけどね。

大雑把に言えば、モネは作画量とその晩年の成果。ゴッホは作画密度、美術史

上空前絶後の集中力にあると思う。人はあそこまで物事に熱中できるのか、と

思ってしまう。

ホント自分の未熟さを痛感する。それはオリンピック選手や大谷翔平、将棋の

トップ棋士を見ていても同じだけどね。

人間には一つの物事に集中できる特技がある、のかも。もっとも、虎が獲物を

狙う瞬間の集中力も凄まじいものがある、のか?

むしろ原始の秘めたる力、人の持っている本来の能力を掘り起こすことなのか?

とにかく、モネにもゴッホにも感嘆しかない。

生物学レベルまで話を持って行けば、ヨーロッパも東洋もない。人類という大

きな括りになっちゃうけど、本心、私が描いている絵は東洋画だと思っている。

もちろんそれは卑下ではない。ま、誇りでもないけどね。油絵を使おうがテン

ペラで描こうが、東洋人が描けば東洋画だと思う。

われわれは21世紀の東洋画を描いているのだと思う。これはがんじがらめの状

況。どうジタバタしたって逃れられない宿命だ。

だから私はイッキ描き。現場主義で修正なし。すべて1回描き。スポーツにも似

ているかも。相撲には酷似している。もっとも、絵は失敗したって大ケガはし

ない。とっても安全。

わがイッキ描きの真意は「現場、無修正、1回描き」にありか? 油絵だけど東

洋画?水墨の禅画法に従っている。

古来からある絵画技法にも則った、最先端の素晴らしい描法なのかも。

 

22年2月5日(土)

自分評価はジェットコースターのように上下する。

大谷翔平の野球や藤井聡太の将棋は、何をどうするかはっきりしているからい

いが、絵となると、油絵を描いていること自体、時代錯誤かも、と思ってしま

う。いやいや、本心では思っていないけどね。絵は歌と同じなのだ。普通に描

けばいいに決まっている。

NHKがよく取り上げる現代アートを見ていると、油絵なんて描いていていいのか、

と一瞬迷う。描かずにはいられないから描くに決まっているんだけどね。

絵描きだった父はそういうのを見ると「描けないからやってんだよ」と一蹴。

家内は私がそういう番組を見ていると「気持ち悪い」と一言で終わり。家内は

プレバトの絵画コーナーも大嫌いだ。わが家ではプレバトは俳句コーナーしか

見ない。

絵を描くこと自体に、ほんの少しだけど上記のような迷いがある。絵の出来や

描き方についてはもっと迷う。すごくいいと思ったり、ぜんぜんダメだと思っ

たりする。

で、これまでの人生を振り返ってみると、ま、こんなところだろう。妥当かも。

バブルが終わったころに銀座で個展を始めた。終わっていたんだよね。だから

致し方ない。私の父は50年前に絵画ブームを味わい、35年前にバブルの恩恵を

受けた。

私にはそういう幸運は来なかったけど、戦争もなく、なんとか生きてきた。子

供も二人いるし、孫は4人いる。もうそれだけでいいようにも思う。

たぶんまだ当分死なないから困るんだけどね。ここ1〜2年でかなり衰えたけど、

普通に歩けるし、普通に泳いでいる。いろいろ細かいところで老化を感じてい

るが、見た目は健康だ。

絵もまだ当分描ける、感じ。

ま、やれるところまでやる。当たり前か。

 

22年1月29日(土)

久しぶりに油絵を描いた。20号から始めて、8号、4号、SMと描いた。SMは2枚描

いた。合計5枚。

20号を描き始めたとき、「やっぱ、油絵って面白れぇ〜」と感じた。

8号まではすいすい描けた。

4号でつまずいて、SMは苦闘した。でも、別角度の風景が綺麗だったのでそっち

も描いた。

描きに行く前に、録画しておいたNHKの日曜美術館を見た。新春特集で、今年の

展覧会の見もの、みたいな始まりだった。しかし、内容はさっぱりわからない。

現代アート? メトロポリタン美術館展だけが参考になった。紹介する人もマ

ンガ家とか俳優さん。なんか「好き」を連発していた。「あんたが好きだからっ

て、それが何?」と思ってしまった。

ああいう最先端アートを見てから、時代錯誤とも言えそうな油絵を描くのもア

ホかもしれない。でもやっぱり油絵は面白い。油絵の味わいを知っている人間

もほとんどいないのかも。枚数だけでは私の油絵制作量は並はずれているから、

私の喜びは誰にもわからないのかもしれない。致し方ない。

マンション管理人の仕事も7月で定年だし、絵を描いている場合じゃないんだけ

ど、絵は描き続けていないとヒジョーにまずい、のだ。せっかくこの歳まで描

いて来たのに、ここで止めるわけにもいかない。

テレピンがなくなってしまった。ネットで調べたら高騰していた。でも買った。

まだ油絵は続ける。ロールキャンバス(ベルギー製クレサンキャンバス荒目双

紙=安もんじゃないよぉ〜〜)もたっぷり買ってある。

 

22年1月22日(土)

私の父も「絵は仕事じゃねぇよ」と言っていた。絵を描くことは仕事ではないと

いう意味だ。だけど楽しみとは言っていなかったように思う。一般的には絵は訴

えであり叫びでもある。詩でもある、のか? 喜怒哀楽の表現だと思う。それは

確かに仕事とは言えない。そういう叫びが共感を貰い、作品として認められ買っ

てもらうこともある。そうなるとお金ももらえるから、結果的に「仕事」と考え

られなくもない。しかし、結果仕事でも道筋は仕事ではない。金目的で叫ぶヤツ

はいないと思う。

そこのところで、「純文学か通俗文学か」とか「純絵画とは?」みたいな話になっ

てくる。めんどくさい。

葛飾北斎(1760〜1849)の波の絵《神奈川沖浪裏》は大衆受けを狙った、言って

みれば観光案内みたいな面もあった。それを否定するのはむずかしい。

しかし、結果として今や波浪表現の世界的地位を確立している。世界一なのでは?

それはロシアのアイヴァゾフスキー《第九の波》(1850年)とかターナー(1775〜

1851)の《難破船》、クールベ(1819〜1877)の《嵐の海》やモネの数々の波浪

表現を超えた大人気作品になっている。北斎のような波の描き方は古くは中国の

宋元画にもあり、尾形光琳にも《波濤図屏風》(メトロポリタン美術館)など数々

見える。北斎はそれらを集大成し、東洋波浪表現の典型を生み出したとも言える。

話が脇にそれたが、純と通俗の話に戻すと、大衆受けや金銭目的でも、そういう

ことを乗り越えた芸術作品はあるということだ。

古代ギリシアのパルテノン彫刻なんて国家規模の一大公共事業とも言える。彫刻

家は公務員? 今風の芸術家からは一番遠いところにいる、感じ。でも、パルテ

ノン彫刻は人類彫刻史上最高傑作と言えるのではないか。

こういう歴史上の真実をどうやって説明するのだろう?

ま、作家は作品制作に没頭する、それでいいようにも思う。

 

22年1月15日(土)

NHKテレビの大谷翔平特集番組で、大谷が野球は「仕事」か「楽しいこと」かと

いう選択をしていた。少し考えてから申し訳なさそうに「楽しいこと」と答え

た。莫大な年俸を貰っているから「楽しいこと」と答えるのは気が引けたのか

も。

オリンピックの水泳選手なども「楽しく泳げた」と言っていた。私たちが若い

ころのスポコン(スポーツ根性)主義は終わったのかもしれない。

お笑いも多くが子供のころからの友だち同士がコンビを組んでいる。上の組織

から組まされたコンビではないし、お笑い作家が作った与えられたネタをやる

こともない。シンガーソングライターみたく、ネタも自分たちで考えている。

そうでなければ通用しなくなっている。

音楽世界も、昔みたくレコード会社が企画した楽曲を専属歌手が歌うという方

式は少ない。先頭に立っているのはシンガーソングライターばかり。

「楽しく」主義(自作自演主義)は、絵だと印象派の時代から始まったのかも

しれない。中国では1000年も前から禅宗絵画があり、あれはまさに自由奔放だっ

た。

いっぽうでアカデミズムも根強い。絵画界ではなかなか滅びそうもない。

また、印象派は奇抜なことをした、という思い込みもはびこっている。確かに

当時としては前衛芸術だった。

しかし、私は、印象派はあくまでも現実を楽しく描いた集団だったと思ってい

る。目の前の感動をまさに小鳥が歌うようにキャンバスに謳った。そこのとこ

ろが一番たいせつだと思う。これは音楽でも絵でも文学でも詩でも俳句でも映

画でも踊りでもスポーツでもゲームでも、全部同じだと思う。

絵画界が根本から目覚める日が来るのだろうか?

来てもらわないと困るんだよね。

 

22年1月8日(土)

「いい絵」とは何か?

つい忘れてしまう。

「いい絵」というのは筆の喜びが感じられる絵である。筆が目的になっていな

い。筆自体ですべてが完結している絵である。一筆一筆、その一瞬一瞬に画家

の存在が籠められている絵? 早い話が、一筆一筆に喜び(悲しみや怒りかも)

が現れている絵、ということ?

ブログに全文画像付きで掲載した『西洋絵画鑑賞ガイド』<ずっと見ていたい、

何度も味わいたい〜〜筆の喜びとは?〜〜>に詳しく述べてある。もちろん、

西洋絵画に限ったことではない。東洋画でもまったく同じだし、彫刻だって同

じだ。

『鉄人アヴァンギャルド』(萬鉄五郎・二玄社)のなかに、上記のことを描く

ほうの立場から「人間が美を作る考えで出発するなら、つまりそれはセンチメ

ンタルな遊戯だ」と書いてある。「美を作る」じゃなくて富貴栄達のためだっ

たらもっとトンチンカンナことになる。同書に「一筆一筆の間に練るほかはな

い」ともある。また「一つの筆触は、すなわち全人であることを知らねばなり

ません」とも。

いっぽう長谷川利行(1891~1940)は『長谷川利行画文集 どんとせえ!』(求

龍堂)のなかで「絵を描くことは、生きることに値するという人は多いが、生

きることは絵を描くことに価するか」とも言っている。

本心を言うと、萬鉄五郎(1885~1927)の絵には、私はまだよくわからないと

ころもあるが、長谷川利行の絵だったら、まったく言葉どおりの素晴らしい画

面を残してくれていると思う。

人間は機械だ。心臓が止まれば死んでしまう。生きるというのはそれだけのこ

と。機械が止まるまでのこと。しかし、この瞬間の喜びは永遠なのである。

絵は、その瞬間を紙やキャンバスに焼き付ける行為だ。それが「絵」だ。

 

22年1月1日(土)

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

もちろん私は美術史家ではない。だからすごく適当な探し方だった。ミケラン

ジェロ(1475〜1564)が発掘された古代彫刻を見てものすごく感動した話が見

つからないのは大問題ではなかった。「ないなぁ〜」というほどの心の端っこ

のほうの引っ掛かり、程度。

しかし、『論語』を読むと孔子は「古(いにしえ)」を尊(たっと)ぶ。もう

古がすべて。自分は古の現代語訳をやっているだけ、みたいな言い方だ。具体

的には『詩経』をメチャクチャ推奨している。

それなのに、ミケランジェロが古代彫刻に感動した話がミケランジェロの本に

ほとんど登場しない。不思議だ。ミケランジェロの本を書いている著者はほぼ

現代人だ。そういう人から見るとミケランジェロは古(いにしえ)だ。だから

古を尊んでいることになる。孔子の方向性に合致している。それなのに、ミケ

ランジェロ自身の「古への尊び」を記述しないのはおかしくないか?

私がパラパラ見たのは、美術出版社の『巨匠の世界』シリーズのミケランジェ

ロの『彫刻』と『素描上下巻』合計3冊。合田雄二と丹羽五郎の本など。そのほ

か画集なども。ま、錚々たるミケランジェロ本だと思う。どれも「古」たるミ

ケランジェロを讃える内容だ。その苦悩、創作、情熱? みたいな? ミケラ

ンジェロの魅力爆発って感じ。

そこにあれだけの絵や彫刻が現存しているのだから、まったくわれわれはハッ

ピーだ。

だけど、私はミケランジェロ自身の創作の根源を知りたい。古代彫刻発見の場

面はその貴重な一シーンなのではないか。そこを書かずして何のミケランジェ

ロ本なのか!

ミケランジェロは言ってみれば二流の古代ギリシア彫刻ヘレニズム彫刻に熱狂

した。可愛いね。大袈裟な筋肉マンの彫刻だ。ギリシア盛期のフィーディアス

はもっと控えめでもっと美しい。大理石のなかに人体の言い尽くせない力を内

包しているようだ。石を削ってあるだけなのに、ああいう造形がどうして生ま

れるのだろうか? 本当に石? と訊きたくなる。あの大きさも魅力の一つだ

ろうか。

たとえば、大英博物館にあるパルテノン東破風の《三女神》。ミケランジェロ

があんなの見たら卒倒するだろう。《セレネの馬》、あれ見たらどうなっちゃ

うんだろう?

 

 

 

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