唇 寒(しんかん)集4

 

01年6月24日

今、町田市立博物館で土門拳の「日本の彫刻」という写真展をやっている(7月1日

まで)。今日初めて見に行った。自転車で行ったのでけっこう大変だった。

残念ながらお目当ての天平彫刻は6月3日までで終わっていた。今は平安前期を中心

に鎌倉、室町までの仏像など。写真なのでもう一つつまらないが入場無料だから文句

も言えない。明恵上人がいた高山寺の小犬の彫刻は有名だが、「汗血馬」がよかった。

鎌倉時代の馬の彫刻。精悍な肉付けはちょっとギリシャ彫刻の「セレネの馬」を想わ

せる。

 

本日の更新は、この「唇寒」のバックナンバーを集めた「唇寒集」。4月に作った「絵

の話」第五集以降の分を掲載する。「唇寒」は毎週更新してしまい、そのままお蔵入

りとなるので、今後は数週間分をまとめて「唇寒集」のほうに再掲載することにした。

 

また、私が20代の後半に通っていた美術研究所「鷹美アトリエ村」が去年の暮、閉

所となってしまった。今このHPでも掲載中の「習作時代2」のなかの裸婦はすべて

この研究所で描いたもの。3年半通った。自由にたくさんの習作を描かせて頂いた。

本当に残念に思う。その「鷹美を懐かしむページ」というHPを、「おすすめホーム

ページ」に常設リンクをした。

 

ところで、5月の個展以来わがHPのアクセス数が180を超す週が多くなり、先週

は198。ついに200を狙えるところまで来た。みな様ありがとうございます。

ちなみに、以前はとりあえず週に100を超えれば一安心。ま、だいたい130ぐら

いが平均だった。ときに90を割り込むような週もあった。

 

 

01年7月1日

中村コレクション展が近づき、パンフレットを送っていただいた。「数千点といわれ

る所蔵作品より100余点を厳選」とある。表には吉岡憲、三岸節子、池田満寿夫、

四谷十三雄の四点がカラー図版で掲載されており、裏面に出展作家が細かい字でずら

りと並んでいる。

な、なんと私の名前もある。中村さん本人が出展予定と言っておられたから出してい

ただけるとは思っていたが、これは簡単なことではないかもしれない。アイウエオ順

に並んでいる。私の前はあの木内克、後が北川民次、真下に曽宮一念と田崎広助とあ

る。初め家内がパンフレットを見て「名前ないよ」と言うから「終わりのところに

『他』とあるだろ」などと言っていたが、よく見るとちゃんと出ている。

大変なところに入ったものだ。

私は絵描きだろうか? 

結論からいうと私は絵描きだと思っている。私の絵を買ってくださる人がいるのだ。

銀座や京橋で価格を出して展示し、売っているのだ。これで、絵描きではありません

と言ったら詐欺である。

しかし、何度も言うように絵だけでは生活できない。私は普通の庶民である。最近流

行の言葉で言えば「生活者」だ。しかしこれはダサい。そこで寅さんの言葉を借りて

「渡世人」とでも言おうか。たとえば、木内克は生まれたばかりの子供を親に預けて

夫婦で15年間も滞欧した。普通では考えられない行為だ。私にはできない。ここが

渡世人の辛いところである。

また、私は美術という分野を是認していない。普通人には家族がいて、暮らしがある。

まず初めにそういう最低限の環境があるだろう。愛欲があって生きるエネルギーがあ

る以上、誰だって同じような環境がある。自分も似たように生まれてきたのだ。ツバ

メだって、ライオンだってそんなに変わるものではない。親がいて、子が生まれ、何

とかやり繰りして暮らして行くのだ。がんばるのだ。これが渡世人である。

これに対して、「絵を描く」とは何だろう?

まったくばかばかしい非生産的行為。私は絵を描く根源は線を引きたいとか絵の具を

塗りたいとかいう本能に近い欲求だと思っている。スポーツに近いと思う。走りたい

とか泳ぎたいとかボールを投げたいとか蹴飛ばしたいとか、そういう気持ちに近いと

思う。そして、この気持ちがもっとも大切だとも思っている。これが「絵心」という

ものだろう。

この自分自身のピュアな絵心をどうやってキャンバスに焼き付けるか、ここが一番む

ずかしい。このとき、褒められたいとか、買ってもらいたいなどという野心が顔を出

すとすぐ絵に表われダメになる。また、形を取りたいとかいい色を出したいなどとい

う造形的な欲望でさえも惨めな絵になってしまうものだ。

古典絵画を見渡すと、ちょっと信じられないような執着がある。絵画に対する飽くな

き探究心が感じられる。われわれ現代人の比ではない。それは絵画技巧などで到達で

きるような領域ではないのだ。おそらく宗教的なとてつもない境地なのだと思う。重

大なのはここであり、絵画ではない。だから美術なんていう分野は認めたくないのだ。

しかし、私は絵を見るのも大好きである。絵画に対して無限の可能性を感じている。

昔の絵描きは絵を描くことによって、とんでもない高みに昇り、驚嘆すべき作品を残

して来た。もしかすると作品は絵描きよりも大きな存在なのだ。

こんなものはわざとできるものではない。絶対に無理である。

ただただ絵の神様におすがりして、少しでもましな絵を描かせてもらえるように、嫌

われないように低姿勢に生きて行くしかない。

私の絵でも、おそらく買ってもらった絵は私以上に魅力的なのだと思う。だって私の

絵を買ってくれる人は誰もみなさん私より偉い方ばかりなのだ。だから買ってもらっ

た絵はいろいろな偶然が重なって瞬間的に生まれた絵なのだと思う。その瞬間には絵

の神様が私の身体のなかを通って腕から筆先に作用したに違いない。

やっぱり美術なんて分野はない。人がいて、絵ができる。これだけのことだ。

 

今週は更新はありません。すみません。

 

今週のアクセス数は152。最近ではかなり少なめ。しかし、6月の月間アクセス数

は766と年内最高を記録。まことに感謝いたします。

 

01年7月8日

突然、「なるびクロッキー会展」が決まった。場所は成瀬駅の南口から小川高校方面

へ徒歩5分ほどの教会跡。期間は7月11日〜20日。なるびクロッキー会でクロッ

キーをしている人のグループ展だ。作品は裸婦に限らず。ちゃんと集まるか保障はな

い。ま、なんとかなるでしょう。竹口哲氏のご好意で、開催の運びとなった。

今朝のNHK「新・日曜美術館」は中川一政。バラの絵はいいと思った。

私の祖父は蒔絵師だった。私は直接会っていない。その祖父が父(洋画家)に言った

言葉「他人の絵を見て、それがいいと思ったらそいつは自分より十年うまいと思え」

だから、私は他人の絵をなかなかいいと言わない。しかし、中川一政の絵は分厚くて

いいと思ってしまった。ま、いいものはいい。致し方ない。

 

今週は更新は「今月の絵」

 

今週のアクセス数は183。やっぱり増加傾向? まだまだ不安定。

 

01年7月15日

「大巧は拙なるが如し」という中国の古い言葉がある。「本当にうまい絵は一見下手

そうに見えるものだ」という意味。もちろん、生涯を絵に捧げようという人間なら「大

巧」を目指す。出来た絵は一見下手そうに見えなくてはならない。ここに甘えて本当

に下手では困る。まずある程度まで描けなければ話にならない。

絵を知らない人はまずとにかく巧みな絵を持ち上げる。細密描写は誰でも一度は心曳

かれる絵画である。

しかし、何事も極端はいけない。

もちろん、何の技巧もなく、ムードだけの「拙なる」絵画は願い下げだ。また反対に

うまさばかりをむき出しにした精密画も疲れる。

ちょうどいいのが私の絵だと主張するわけではない。われわれの求めるところ、「ちょ

うどいい絵」ではなく、真なる「いい絵」というものを求めようとして頂きたいだけ

である。

画家はもちろん、コレクターにも、鑑賞者にも、画商にも本当のいい絵というものを

追求していただきたい。もちろん私だって掴取っているわけではない。絵なんて誰に

もわからないのが大原則である。

一番腹立たしいのは何にもわかっていないのにわかったような顔をして物知り顔に他

人に説教しようという輩。もっとも自分がわかっていないということがわかっていな

いのだから悪意はないのだ。ばかばかしいような空手形。

不幸なのは、自分がわかっていないことがよーくわかっている多くの善良な美術愛好

家だ。本当に気をつけたほうがいい。そういう人はもともと謙虚だからついつい相手

の話を鵜呑みにしてしまう。困ったものだ。果ては大枚を叩いてどう見ても救い難い

迷作をゲットしたりしてしまう。もっとも、説教しているほうはもっと酷い絵をしこ

たま買い込んだりしている。

呆れ返って物も言えない。知らず知らずに、驚くようなデタラメワールドが出来上

がっている。こういう世界は絵だけではなく、あちこちに散在しているらしい。

昔親父が言っていた。電気屋の女房が洋服屋に騙され、洋服屋の女房は電気屋に騙さ

れる。それが世の中というものだ。確かにそういう一面もある。

絵のことを何も知らないで、ネクタイでも選ぶように絵を買ってしまい、美術館まで

始めた人もいると聞いた。これは無理。絵はネクタイではない。

つまり、抽象画がわからないという人にネクタイを選ぶのと同じようなものと説明す

る。モンドリアンが聞いたらさぞかし怒り狂うだろう。山口長男なら殺人事件になる

かもしれない。

冗談ではない。

私自身は具象の絵描きのつもりだが、私だってネクタイ氏よりは抽象画に理解がある。

はっきり言って泥臭い日展系の具象よりはスマートな在野の抽象画のほうがずっと楽

しい。

ネクタイ選びと同列にされては抽象画家も我慢ならないだろう。

絵画はデザインでもないし、イラストでもない。純絵画が美しいのは、人間の素裸な

叫びだからだ。確かに技巧は要る。技巧はなくては話にならない。しかし、その裏に

は全身全霊の人間がいるのだ。絵画の美しさはそこにこそあるのだ。

 

ところで、「なるびクロッキー会展」は一応順調に開催された。作品もそろった。

期間や時間は上記のとおりだが、場所が問題。国際版画美術館ではない。横浜線町田

駅から東神奈川方面へ一つ行った駅「成瀬」で下車。南口(階段《エレベータ、エス

カレータもあり》を昇るほう)を出て、右に進む。「ブラウニー」というパン屋があ

る。その手前(角は三和銀行の自動預金コーナー)を左に曲がり、あとはまっすぐ。

3〜4分ほど少し登り具合の広い道を進むと左側に教会跡が現われる。教会跡と言っ

てももう屋根に十字架はない。ワンブロック手前に石材店がある。そのもう少し先。

さらに行くと都立小川高校に行き当たる。

 

今週は長野の梅野記念絵画館に行ったので、更新はこのページだけ。長野報告は来週

にご期待ください。

今週のアクセス数は168。少し下降ぎみ。

 

01年7月22日

独立美術協会の前身は「1930年協会」だ。この1930年前後の洋画界には一つ

の大きな潮流があったと思う。この美術の動向は数百年後にも語り継がれる日本美術

の主流になるにちがいない。それは、天平仏、絵巻物、鎌倉彫刻、室町の水墨、桃山

の障屏画、江戸前期の琳派、江戸後期の浮世絵などに並び称される不動の足跡ともな

ろう。

このことは、明治以降の総合的な油彩画展を見るとよく理解できる。

今回、長野の梅野記念絵画館で「中村俊文コレクション展」を見ても、1930年前

後の日本洋画壇の目覚ましい活動が偲ばれた。そんな遥かな時代の雰囲気が味わえる

ほどの個人コレクションというのも大したものだ。私が生まれる20年も前の時代の

絵描きたちの筆跡に囲まれて、私は幸せな一時を味あわせてもらった。

特に私が心ひかれた作品は別府貫一郎(1900〜1992)という人の小さな風景画だった。

そして、最近の平面作品のコーナーに混じって私の絵もあった。一つぽつんと時代錯

誤の油絵という感じ。まるで時代の鬼っ子。滅多にいない貴重な存在ではあるかも知

れない。

ところで、成瀬の「なるびクロッキー会展」も無事終了した。100名近くの方にご

高覧いただき、それなりに成果はあったと思う。

皆様、まことにありがとうございました。

 

本業多忙のため、本日の更新はこのページだけです。

今週のアクセス数は133。ついに昔に戻ったか?

 

01年7月29日

今日は参議院選挙の投票日だった。私もちゃんと投票した。そのあと屋外プールで30

分ほど泳いだ。閉まる前だったし、涼しかったこともあり、客はわれわれ夫婦だけ。

まことに快適な休日であった。

夜は野球と世界水泳を交互に見て、現在午後10時20分。選挙の大勢は決した。

私の父は「政治家なんて口のうまい奴にやらせておけ。あんなものはつまらない仕事

だ。政治なんかで世の中がよくなってたまるか。戦後の日本を救ったのは吉田茂なん

かじゃない。進駐軍相手の娼婦たちだ。こんなことは歴史の教科書には絶対に書いて

ない」と言い切っていた。いっぽう、金儲けに奔走している知り合いを見て「金儲け

は、野性動物で言えば餌取りと同じ。人間は馬鹿だから腹がいっぱいなのに狂ったよ

うに餌を取り続ける。あんなものは子供のカード集めと変わらない。欲張りにやらし

ておけばいい」とも。

もちろん私のように借金だらけで食うや食わずでは「お前が一番大馬鹿!」と一喝さ

れるだろう。

それにしても、選挙に出た大橋巨泉も、それを揶揄する久米宏も、みんな何かもう一

つつまらなそう。政治の番組を見ているとすぐ動物園の猿山を思い浮かべてしまう。

青島幸雄も立候補していた。退屈なのかなぁ? 野坂昭如も。

みんな才能があり、聡明で体力も人一倍。抜群のIQだと察する。しかし、肝心なも

のが抜けている。掴めていない。だからあんな皺だらけになっても選挙なんかやって

いるのだろう。みんな70歳ぐらいだと思う。まことに可愛そうだ。

やっぱり70歳で自分の絵を見付け出した富岡鉄斎は突き抜けていたと思う。そして、

東洋には大昔から晩年をどうやって生きるかという教えが脈々と伝わっている。仏教

にも老荘思想にも儒教にも「隠棲」という思想がちゃんと残っている。兼好も芭蕉も

良寛も繰り返し語り尽くしている。

 

本日の更新は「唇寒集4」「画歴」です。

なお、「作品展示のお知らせ」はヘッドページで十分機能を果たしておりますので、

今回で終了とします。

今週のアクセス数は175。またちょっと増えている。一喜一憂してはいけないか?

 

01年8月5日

本日8月5日から2週間の夏休みになる。

休みと言っても、家内の田舎に3〜4日行くぐらいで、どっか遠くに旅行するわけで

はない。近所をうろうろするだけ。金がないから致し方ない。

それでも、20分ほど歩くとちょっとした田園風景が残っている。この前も絵(「今

月の絵」にアップ中=8月10日で終了)に描いたが、ここの日の出は馬鹿にならな

い。地元の元校長先生に話したら「田奈(たな)の日の出は昔から有名だよ」と喜ば

れた。

一眠りして、図書館に行く。お盆だからあんまり人がいない。少し先には大きな古本

屋もある。2週間で2千円ぐらいまでなら買っても罰は当たるまい。

昼は麺類。100円ショップの干麺を茹でて食う。刻み葱と海苔と山葵は奢りたい。

そのあと、これまた100円ショップで買ったビデオに録画しておいた将棋番組を見

ながらうとうとする。

夕方からは屋外プール。ほとんど誰も泳いでいない。2〜30分で1000メートル

余り、けっこう一生懸命泳ぐ。

帰ってくるとテレビはだいたい野球。飯を食って風呂に入って寝る。

ま、こういう日が続く。いたって健康、低費用。

暇だから、さぞかし立派なHPは作れそうだが、恵まれすぎていると人間だいたい何

にもしない。

というわけで、本日の更新はこのページだけ。明日以降も暇なので一応作ろうとはし

ています。しかし、来週は出かけるので更新できないかもしれません。

 

先週の更新は「唇寒集4」「画歴」です。

なお、「作品展示のお知らせ」はヘッドページで十分機能を果たしておりますので、

7月22日で終了としました。

今週のアクセス数は170。7月のアクセス数は708。5、6月のは及ばないが

700台をなんとかキープした。

 

01年8月10日

明日から出かけるので、本日更新する。前回申し上げたように、現在夏休み。普段も

だらだらしているが、もっとさらにだーだーである。息をするのもめんどくさい。やっ

ぱり人間ある程度忙しくなくてはダメだ。「凛」という言葉がある。きりっとした女

性などに使う形容だ。その対極にいるのが今の私。ゴメンナサイ。

それでも、毎日千メーター以上泳いでいる。8日には3時間に及ぶサイクリングもし

た。図書館にもせっせと通っている。ま、私なりには充実しているのかも知れない。

しかし、絵は全然描いてない。このHPの「絵の話」も進んでない。

水泳の世界記録をいくつも出したオーストラリアのイアン=ソープは何か月も練習を

休むという。アメリカの選手も同様で、練習ばかりやっているのは日本選手ぐらい。

何かというとすぐ「頑張ります」と来る。そんなに頑張ってばかりいては疲れてしま

う。ときにはドーンと休んで、空っぽになるのも悪くない。空っぽになるのだから、

休みはもちろん充電ではない。

絵のことでは最近1910年代の日本洋画壇が面白い。中村彜が岸田劉生を批判して

いたりして、けっこう楽しい。また、万鉄五郎はやっぱりいい。5〜6年前までは全

然分からなかったが、ここのところやっと万の考えていたことが見えてきたか?

 

今週の更新は「唇寒集4」の追加と「今月の絵:裸婦新作2」です。

なお、「作品展示のお知らせ」はヘッドページで十分機能を果たしておりますので、

7月22日で終了としました。

今週のアクセス数はお休み。

 

01年8月19日

豊橋は全国でも有数の喫茶店の町だ。モーニングサービス発祥の地と聞く。あっちこっ

ち喫茶店だらけ。東京の喫茶店と違い、雑誌が山ほど置いてある。漫画も多い。家内

の実家はこの愛知県豊橋市。われわれ家族は豊橋で半年分の週刊誌を読み漁ってくる。

しかし、週間誌はどうしても心がすさむ。記事がどこまで本当かは分からないが、人

間とはこれほどまで醜いものかと気が重くなる。一歩間違えれば、自分も同じ姿か?

あな、おそろしや。

コミック誌もけっこう凄まじい。特に少年誌の漫画は一目見ただけで目を覆いたくな

る。どぎつい絵ばかり。グラビアも昔は「世界の七不思議」とか「超古代の世界」と

か「21世紀の乗り物」など、少年誌らしい企画だったが、最近は若い女の子のセミ

ヌード満載。あんなものは親爺の雑誌を盗み見れば済む。

雑誌といえば、新潮45の7月号はよかった。教育関係の記事は特によかった。ただ、

最近私がヒイキにしている福田和也の記事はダメ。田中真紀子を批判してあったが、

全然説得力がない。福田は石原慎太郎を持ちあげ、最近も「石原慎太郎の季節」なん

ていう本を出したが、あんな威張った口のきき方をする奴のどこがいいのだろう? 

石原には利権がないから政治家としては悪くないようにも思うが、あの自信はどこか

ら来るのか? あんな奴によく小説が書けるものだ(一冊も読んだことはない)。もっ

とも、テレビで「俺は芸術家だよ」と言ったときの顔は照れがあってちょっと可愛かっ

た。ああいう表情が人気の秘密なんだと思う。

 

アスキーが出しているホームページの電話帳「厳選日本のホームページ10万」に私

のページも出ていた。10万とはいっても実際は11万載っているとある。それでも

43万の中から選ばれたとあるから倍率4倍弱。もっともその43万の中には、私の

娘のHP(大学の先生の指示で作らされた)のようなものまでも含まれているのだろ

うから、大した自慢にはならない。

ちなみに、娘のHPは「赤毛のアン」のこと。プリントアウトしたものを見たが、可

もなく不可もない。ただ、パソコンで描いた自画像とアンの似顔絵はイラストとして

はなかなかの出来だった。このHPにリンクしてあげると申し出たが、あっさり断わ

られた。

 

今週からヘッドページの配置を少し変えました。

今週の更新は「水で描く絵」。私が出会った水彩画の傑作を並べました。

 

「作品展示のお知らせ」はヘッドページで十分機能を果たしておりますので、

7月22日で終了としました。

 

先週と今週のアクセス数は合わせて312でした。

 

01年8月26日

今朝のテレビ「題名のない音楽会」で色の白い女性がバイオリンを演奏していた。竹

沢恭子さんという人だそうだ。髪を振り乱してひいている。考えてみると、音楽の演

奏家はけっこう髪を振り乱している。ピアノ奏者もフルートも。指揮者などは下手な

体操より身体を動かしているように見える。

とにかく音楽家は髪を振り乱さなくてはならない。私のような禿げでは勤まらない。

不運にも禿げちゃった音楽家はカツラの着用が容認される。音楽家のカツラは世間が

認める演奏用アイテムになっている。

それにしても、髪を振り乱して演奏する場面をよく見るということは、クラシック音

楽には激しい表現がけっこう多いということにもなる。絵画では細密画や精密描写は

不動の人気を保っているが、音楽には細密な表現だけというのはあまりないのかもし

れない。絵でいうとわれわれみたいなイッキに描いた絵が本道なのかもしれない。

もっとも音楽と絵画は完全に対応しているわけではないから異論も多いと思う。ただ、

ちょっと気がついたから「自己宣伝」に使わせていただいた。

私だって髪があったら、絵を描くときは振り乱れるのに(仮定法過去)。

 

先週は「水で描く絵」を更新しました。なかにアップしたドラクロワの水彩画をご存

じの方は少ないと思う。油絵でも水彩でも画材の特性というものがある。このページ

でご紹介した絵は理屈ではなく身体や腕で水彩画の持ち味を出し切った屈指の名画。

惚れ惚れする画面である。修練に修練を重ねた画家だけが到達した水彩画ワールドを

たっぷり堪能してください。これが本当の絵ってもんです。

 

今週のアクセス数は210でした。夢の200台突破! 1日平均30アクセス!

いよいよイッキの時代か? 誠にありがとうございました。

先週ご報告した「厳選日本のホームページ10万」は実数11万ではなく、14万5

千でした。これだと倍率は3倍強に減ります。

 

01年9月2日

不覚にも「タイタニック」を見てしまった。そして、ウカツにも唯一の濡れ場だけを

見損なってしまった。前評判ほどには悪くなかったように思う。主人公のジャックが

絵描きだったのには驚いた。その絵があまりにも下手なのでこれにもびっくり。もう

少しなんとかならなかったものか。

それにしても、ああいう映画を見ると「やっぱり死にたくねぇ」と思ってしまう。最

近は死もそれほど怖くなくなったか、などと悟ったような思いになることもあったが、

「まだまだだなぁ」というか「ずっと死ぬまでダメだろう」と方向違いの悟りを開い

てしまうのであった。

 

「小説・倫理学講義」というのを読んだ。カントだのニーチェだの哲学者の諸説が紹

介され、推理小説仕立てだから読みやすくなっている。講談社現代新書で笹沢豊の著

作。しかし、半分読んでやめてしまった。もう私の歳ではカントやニーチェは読めな

いのかもしれない。ばかばかしくなる。カントは嘘はいけないと言う。悪人に追われ

る友人が自宅に逃げ込んできた場合も、嘘をついてはいけないから、悪人に「友人は

わが家にいる」と正直に伝えなければならないと言う。そんなばかばかしい話がある

だろうか? 「十代しゃべり場」じゃないんだから、私だったら大嘘をついてその悪

人も張り倒す(もっとも私は全然強くない。アシカラズ)。昔の哲学者は頭もよくて

偉いのかもしれないが、所詮みんな金持ちの坊や。われわれ渡世人とはちがう。

みな様、読書はお若いうちに是非。

われわれには東洋の仏教や老荘思想などのほうがずっと納得できる。それは、お釈迦

様もお城の王子様だったには違いないが、城を出て乞食の放浪をしている。われわれ

には想像もできないような嫌な思いをし、桁違いのイジメもくらっているはずだ。そ

ういうなかで、人がどうやって生きて行くのかを説いている。ちゃんと実践の道を示

している。ここが東洋の凄いところ。

ドイツのある宗教研究家が言った。「仏教は宗教ではない。修行である」と。

 

ところで、世間の景気は最悪ですが、私のところは回復の見込みが見えてきました。

もう一歩でおそらく軌道に乗るでしょう。ご心配をおかけしましたが、今後は地道に

本業に励みます。なお、いくら本業に励んでも絵を描く時間は有り余っていますので

ご安心ください。ただし、それでいい絵が出来るかというとこれはなかなか難しい。

だいたいいい絵は不安定のなかから生まれます。もっとも、私の渡世は零細稼業。軌

道に乗っても人並み以下ですから「安定」には程遠いのです。ただ、私が馬鹿ですか

らすぐ油断して、だらだらしてしまうだけです。

 

8月19日には「水で描く絵」を更新しました。なかに取り上げたドラクロワの水彩

画をご存じの方は少ないと思います。水彩の特性を見事に活かした傑作。このページ

に紹介した水彩は他の画家の絵も全部いいものばかり。長い年月ただひたすらに絵の

腕だけを磨き続けた達人たちの筆の跡。本当の絵ってもんをたっぷりご堪能ください。

 

今週のアクセス数は199でした。2週連続200台突破はならず。3回ほど計算を

やり直しましたがどうしても199。私の自転車の1日の最高走行距離は199キロ、

ボーリングのハイゲームは199。というわけで、199には慣れております。8月

の月間アクセス数はなんと810。本年度最高。一昨年の暮れから正月にかけてカウ

ンターが壊れたかと思われるアクセス数があったので、それを除けば過去最高でした。

 

01年9月9日

7月から8月にかけて長野の梅野記念絵画館で行われた「中村コレクション展」の前

期を拝見した際、このページで1930年代の日本洋画壇の活動を取り上げた。その

後、原色現代日本の美術「大正の個性派」(小学館)でおさらいをしていると、この

本では1910年を時代の節目と見ている。このあたりの記述はなかなか読ませる。

中村彜が岸田劉生を批判してたりして面白い。

この小学館の原色シリーズは講談社の世界の美術館シリーズに対抗して「原色世界の

美術」から発行された。しかし、講談社の「世界の美術館」は普及型の大型美術書の

傑作である。なんといっても写真がよい。ピントに気迫がある。今でも古書店でよく

見かける。澤柳大五郎が執筆した「ギリシャ国立美術館」と「アテネ美術館」のギリ

シャ彫刻の写真は本当に凄みさえある。

こういう美術書が世に出てから随分長い年月が流れたものだ。「原色現代日本の美術」

などつい最近かと奥付けを見たらなんと昭和53年とある。今から23年も前だ。執

筆者の匠秀夫は今や美術評論界の重鎮だ(と思う)が、筆者紹介の写真の若いこと!

相変わらずの遅読で、まだ全部読んでないが、近いうちにこの辺の話をまとめたいと

考えている。今までの私の認識とは違うところも多く、ちょっと反省している。ま、

しかし大筋では大過はないようにも思う。

人間なんて何千年、何万年同じようなことをしている(食う、寝る、排便する、生殖

する、威張りたがる)のだが、その時代時代の人間の世の中に生きる意識というよう

なものを掴み取るのは本当に難しい。

難しいが、さっきもテレビでちらと見たレオナルドの「貂(てん)を抱く婦人」の肖

像は実に素晴しかった。筆の先に寸毫の言い訳もない。対象に迫る冷徹な目と絵画に

対する並外れた熱烈な思いが画面に隙間なくみなぎっている。自分の才能を絶対に信

じ切る姿勢、またそうかと言って才に溺れるわけではなく、慎重に大胆に筆を運ぶ緊

張感は実にすがすがしい。

500年も前の絵を見て「いい!」と思えるのは、何年経ってもやっぱり人間は皆同

じと言うことか? そこの共通の感動がもっとも重大だと思う。絶対に新しさではな

い。もちろん新しさは必要には必要なのだが、肝心なところを忘れては救われない。

 

8月19日には「水で描く絵」を更新しました。なかに取り上げたドラクロワの水彩

画をご存じの方は少ないと思います。水彩の特性を見事に活かした傑作。このページ

に紹介した水彩は他の画家の絵も全部いいものばかり。長い年月ただひたすらに絵の

腕だけを磨き続けた達人たちの筆の跡。本当の絵ってもんをたっぷりご堪能ください。

 

今週のアクセス数はなんと302。200台を突破するどころか、300を超えてし

まいました。「唇寒」の最初に「タイタニック」と入れたからでしょうか? おっと、

ここにも入ったから来週も期待できるかも。

 

01年9月16日

今日の「新・日曜美術館」は雪舟の龍図三副対が取り上げられていた。

この絵が雪舟の真筆かというテーマだが、番組の論調は否定的。私は本物を見ていな

いが、一見「まず真筆はない」と感じた。しかし、室町ぐらいの絵だと思う。雪舟の

少し後ではないか? 一休の流れを汲む画僧ではないか?

番組を完璧に見ていない(90%以上は見た)ので、番組のなかで言っていたのかも

しれないが、だいたい雪舟とか牧谿などは確かに実在の画家なのだろうが、古い美術

界では画家というより絵のレベルを示す基準になってしまっていた。ちょっといい絵

はみんな雪舟になってしまう。さらに大陸風だと牧谿。時代が下れば等伯とか宗達、

光琳などに割り振られる。

それにしても、日本美術の専門家が若返っているので驚いた。私の知っている学者は

松下隆章、田中一松、中村渓男など。衛藤駿など若手かと思っていたら、もうテレビ

などには出ないほど偉くなっているのかもしれない。時代はどんどん流れている。若

い学者もしっかり手堅い意見を語っている。なかなか頼もしい。

しかし、雪舟の話のなかで突然モンドリアンが出てきたりするのは頂けない。雪舟が

どれぐらい偉い絵描きなのかわからないのだろうか? 情けない。

どうしてもヨーロッパが凄いと思い込んでいるのだ。東洋の思想や芸術作品がどれほ

どのものなのかわかっていない。東洋美術を専門にしている学者でさえヨーロッパが

勝っていると信じ切っている。

ヨーロッパ自身が東洋の優位を語っているのに、アジアの先進国たる日本の知識人が

目覚めていない。誠に情けない。

ヨーロッパは所詮合理主義の塊に過ぎない。合理主義の敗北は20世紀が始まってか

らずっとわかっていた。わかっている人には十分わかっていた。それでも目先の利益

に目が眩んで合理主義が突っ走った。

いま、地球環境が危ぶまれ、人口爆発が目の前まで迫り、つい5日ほど前には信じ難

いテロ行為があった。今度はそれに対して報復、報復と繰り返す。テレビは日夜報復

報道を流し続ける。NHKの大相撲など、放送中ずっと上にテロップが流れ、見にく

くて仕方ない。

頭を冷やしたほうがいい。もうヨーロッパの合理主義は終わったのだ。近いうちに原

油もなくなる。原油が無尽蔵にあったにしても今度は二酸化炭素で地球が覆われる。

すべて終わりなのだ。これは比喩でも脅しでもない。科学者なら誰だって予想できる

現実である。

あんな物凄い事件はもう二度とご免だ、というのが普通の感覚ではないのか? 二度

と起きないように手を打つのが政治家の仕事だろう。報復なんかで再発が止められる

のだろうか? 年がら年中あっちもこっちも厳重警戒を続けるつもりだろうか? ば

かばかしくて話にもならない。アメリカの大統領や補佐官が背広もネクタイもとって、

いったい何を話し合っているのか? しっかりしていただきたい。

話を戻そう。「雪舟は禅僧というより専門画家に近かった」というような発言もあっ

た。私は雪舟純禅僧説である。こう見えても私は東洋哲学を専攻したのだ。特に禅に

ついてはかなり詳しい(つもりだ)。美術の人は誰も彼も「専門画家」というのが大

好きだが、ヨーロッパ最高の画人であるレオナルドもミケランジェロも専門画家では

ない。中国の最高峰・牧谿も禅僧である。前にも書いたが、ゴッホは神父なのだ。雪

舟の絵がいいのは雪舟が生涯禅の修行を怠らなかったからだ。今日の番組でも雪舟は

一ヶ所に定住しなかったと言い、自由人だったと繰り返す。「自由人」? なんでそ

んな言い方をするのだろうか? 禅僧なら一ヶ所に定住しないのは当り前である。雪

舟がちゃんとした禅僧だったから、生まれも入滅も不明だし、住所もわからないのだ。

禅僧がどんな修行をするかぐらい、そこらの新書にもいくらでも書いてある。そして、

雪舟がそういう厳しい禅の(名利を離れてただひたすらに修行を積む)道を歩んでい

たからあのような素晴しい絵を残したのである。その地道で静かな生き方はヨーロッ

パの絵描きが何百人集まっても理解できっこない。

いま、池田満寿夫の「絵画を語る」(白水社)を読んでいるが、池田さんも最後まで

絵画という独立したジャンルを信じ切っていた。「天才」とか「方法」とか「業績」

などという言葉があちこちに出てくる。

それは違う!

池田さん自身、闘って闘って闘って闘いながら死んでいったではないか。最後まで求

め続けていたではないか? 闘うものに才能なんてどうでもいいことなんじゃないの

か。方法なんてどうにでもなるだろう。業績なんてクソ食らえである。

われわれは普通に生きて行く。これは修行である。絵筆をとった。これはたまたまで

ある。絵は限りなく深く深くわれわれに応えてくれる。おそらく人類で最高の知恵、

仏の教えまでも一瞬で目の前に展開してくれる。

また、キリスト教も素晴しい。イエスは命を懸けて説いた。

「右の頬をぶたれたら、左の頬を出せ」

この素晴しい人類の知恵を、財産を今こそじっくりかみしめなければならない。

 

今週のアクセス数は251。先週にはとても及びませんが、200は軽くクリア。

この数は果たして本物でありましょうか!?

 

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