唇 寒(しんかん)集3

 

01年4月15日

「絵の話―第5集」は今だに完成しない。火曜日までには何とか仕上げたい。

今回の「絵の話」は古典絵画の話ばかり。レンブラントからピカソまで。1話だけ自

分の若いころの絵の話が入っている。もちろん、現在もすべてこのHPで公開してい

る。小野某のおかげである。

今夜はNHKの日曜美術館のルドンも見ずに水泳に行ってしまった。

午前中は近所の公園でお絵描き。午後も厚木の先まで絵を描きに行ったが、収穫はな

かった。

というわけで、本日は更新はこのトップページのみです。

先週更新した「2000年度他薦作品集」(2000年度に買っていただいた絵)は、

こうやって並べて見ると、やっぱりいい絵かもしれない。どこか落ち着いた感じがあ

る。

よーく見直して深く反省しなければいけないが、あんまりそっちにばかり汲汲として

いると絵が小さくなる。絵とはまことに一筋縄ではゆかない。

 

01年4月22日

4月19日付朝日新聞の「折々のうた」に「生きるとはかの料亭の活船(いけぶね)

に/名指さるるまで生きる魚かも」とあった。黄 霊芝(こうれいし)という台湾の

人の日本語の歌。意味はお判りかと思うが、人の一生は、客が指名するまで泳いでい

る料理店の水槽の魚のようなものというようなところだろう。

しかし、人の一生は料理屋の水槽の魚とは違うと思う。

死というものは突然来る。1秒後かもしれないし、数十年先かもしれない。これは判

らない。また、死は必ず来る。これもまた避けられない。泣いても喚いても人は死ぬ。

だから、死ぬときに泣いたって喚いたっていい。どっち道死ぬのだ。土に還るだけだ。

自然現象に過ぎない。泣いて喚いて嫌がって、思いきり駄々をこねて死んでも、そっ

と静かに死んでも、とにかく死ぬ。絶対に死ぬ。問答無用だ。

問題は「いかに生きるか」である。

人は「結果において」一定期間を生きる。短い人もいれば、長い人もいる。とにかく

一定期間生きる。しかし、これはあくまでも「結果において」であって、前提条件で

はない。

われわれの死は、テレビドラマが臨時ニュースで遮断されるように、突然襲いかか

る。有無を言わさぬ「現象」である。

では生とは何か? 生とはこの瞬間である。たった今である。これが生である。ここ

に生の何とも名状しがたい可憐さがある。生まれたての小犬のようないとおしさがあ

る。

これに対して、死は現象なのだ。条理の極み、自然の摂理である。

生は不可思議である。理にかなっていない。反自然的な現象である。だいたいにおい

て無理がある。生きるということは逆らうこと、無謀なこと、無計画、無利益、無目

的。大いなる無駄!

だからこそ、無窮に愛おしい。ただひたむきな息づかい。

われわれは生を賛えなければならない。無条件に生を好み、いとおしみ、慈しみ、全

エネルギーを振り絞って生を謳いあげなければならない。これが人の営みの総てであ

る。

われわれは死に向かって進行しているのではない。

たった今を生きているのである!

 

というわけで、われわれ絵描きは「生」を描かなければならない。もちろんこれは、

生まれたての小犬を描かなければならないという意味ではない。ま、生まれたての小

犬は最高のモチーフには違いないが、画題は何でもいい。抽象でもいい。間違っては

いけないことは、線だとか色だとかアートだとかに迷うことである。「売れる」とか

「評判」などにも動じてはならない。

数週間前にこの項で述べたロダンの言う「真実の美」。これはまさに「生を謳った歓

喜」に他ならないのだ。「生」とはもっとも愛すべき足手まといの邪魔ものなのだ。

 

この小文についてさらに詳しくいろいろな偉い人(空海とか道元とかパスカルとか芭

蕉とかアリストテレスとかラザフォードとかホーキングとかアインシュタインとかそ

ういう人たち)の引用などを加えて書いてゆきたいのだが、話のなかに絵は出てこな

いし、理屈っぽくてつまらないから、やっぱりよそうかとも思うし、また一方、どう

せそのうち説教ジジイになるんだから、まだ元気な今のうちに居直って書いておこう

かとも思ったりもする。実に迷っている。

結論においてやっぱり書く!

しかし、読めるものでなければ価値はない。私は小林秀雄ではないのだからして、分

けのわからない文は誰も読んでくれない。

 

本日も更新はトップページのみです。タイトル画は牡丹の絵です。

 

01年4月29日

今朝久しぶりに「題名のない音楽会」を見た。ムソログスキーの「展覧会の絵」を中

心に、羽田健太郎さんが19世紀のいろいろな音楽を少しずつ紹介する。音楽に精通

する羽田さんのお話はテンポよくわかりやすい。ただし、ときどき漏れる駄洒落やク

スグリは頂けない。どうもインテリのジョークは、偉い人が上のほうから降りて来て、

下々を笑わせてあげる、みたいで鼻持ちならない。人に笑ってもらいたかったら自分

が一番下になって素裸にならなければダメだ。笑いを嘗めてはいけない。

ま、それはともかく、音楽家は本当によく音楽を知っている。即興でさっと弾く。あ

れが本当の専門家だ。絵描きは何も知らない。馬鹿ばかり。昔の絵を見ないし偉い絵

描きの簡単な伝記も言えない。酒ばかり飲んでいる。羽田さんにしても、ショパンな

どを心から尊敬し、ピアノを道具以上のものとして慈しんでいる。鍵盤に向かうとき、

すっと自然に背筋が伸びる。見ていて気持ちがいい。

 

最近経済報告を全然やっていないが、もちろん相変わらずの借金まみれ。どうにもな

らない。ま、しかし3月の日税展をご辞退した甲斐があってか、去年よりもずっとい

い。ただ、この一年分の借りがあるから苦しい。これを夏以降なんとしても軌道に乗

せてクリアしなければならない。たいへんである。

そういうわけで、連休中はどこにも行かない。家の回りでうろうろしている。体裁よ

く言えば水泳連休というところ。さっきも泳いできた。泳ぐのは気持ちがいいが、苦

しくもある。体重を維持し、体調を調え続けるのも楽ではない。病気の人には怒られ

るかもしれないが、水泳も散歩もリハビリみたいなもの。本当のリハビリとは比べも

のにならないのだろうが、健康管理もハンパな気持ちではできない。

ところで、2〜3日前の朝「もしかすると俺は幸せ者かもしれない」と思ってしまっ

た。当然私の家内も幸せ者ということになる。もちろん金はまったくないが、なぜか

いつも笑っている。よくまぁあんなに笑えるものだ。

今までのことを考えても、とにかくこの歳まで絵を描いて生きてきた。よくよく考え

れば、こんな幸運はない。絵が売れないとか、認められないとか、絵で食えないとか

不平を言うのは罰当たりである。ふざけるな! 子供も一応育っている。かなり危な

いが、もう一息で子育ても終わりそう。はっきり言って、私は大したことしていない。

ただ運があっただけ。大雑把に言ってだいたい世の中の景気もよかった。

神様、ありがとうございました。残りの人生もよろしく! まだもう少し絵を描きた

いので。

本日の更新は「今月の絵」です。花と馬の絵。

 

01年5月6日

いよいよ明日から金井画廊の個展が始まる。毎日電車(恐怖の田園都市線)に乗って

都心に通う。とても心配だ。若い奴の足を踏まないように気をつけよう。

 

1年間にわたって、リコーさんによってたくさんの絵を掲載いただいた「楽天市場」

が4月いっぱいで終わった。シクシク。

 

最近の政治について。

石原慎太郎。いろいろ気に食わないが、汚職をしている気配も今後するような様子も

ない。そういう点においてまったく潔白、という感じ。これがいい。これは政治家と

して最低限の基準だが、ほとんどの政治家はこの基準に達していない。そういう意味

では、長野県知事の田中康夫もまず大丈夫、って感じ。今度首相になった小泉さんも

今までのどんな総理大臣とも異なり、政治屋の顔ではない。そこに期待できるか?

 

昨日ふと思ったのだが、私は小学4年生のころ、よく戦争の夢を見た。たいへん怖い

夢で、夜中に目が覚めるほど。私は1950年の生まれだから戦争は知らない。

もしかすると、結婚前の親の体験は子供に遺伝するのだろうか?

親のいろいろな経験は教育と学習によって子供に伝わる。そうやって生物は進化する。

本当だろうか? 教育をしない下等動物や植物はどうするのか?

受精以前の親の経験は子に遺伝する可能性がある。こんなことは医学的には常識なの

かもしれないが、あまり聞かない。もし、受精以前の親の経験が子に遺伝するなら、

人が若いときに物覚えがよかったり、いろいろなことに興味を示す理由の一つが明ら

かになる。

若いときの修業はとても大切ということ。

 

本日の更新はけっこう知られていない地球や宇宙のコーナーを発展させた「宇宙の寸

法」です。

 

週間アクセス数報告:5月第1週115。4月の月間611。

 

次のなるびクロッキー会

6月23日(土)、7月3日(火)、7月10日(火)。

時間は午前10時から午後1時まで。

 

01年5月13日

金井画廊の個展は残すところ3日間となった。今日は金井社長に「京橋界隈」のリン

クを申しつかったので、忘れないうちに済ませておく。

個展の情況は予想もしなかったほど買っていただき、びっくりしている。反響もよく、

とりあえず「成功」と言えるらしい。実は私は企画してもらう個展はまだ数回目なの

で、経験不足でよくわからない。とにかく、私が自分で貸画廊でやったのではとても

あんなに買ってもらえない。金井社長の理念と経験がものを言うのだろう。とは言っ

ても、金井社長はお客さんにうまいことを言うわけではない。あんまりしゃべらない。

私が言わなくてもいいことをぺらぺらやってしまう。

コレクターというのはとても凄い人たちだ。絵を買ってもらったから持ち上げるわけ

ではないが、あの人たちには絵に対する一つの哲学というか理念みたいなものがある。

絵描きとは別の、絵に対する愛情がある。全然知らない人が私の絵を買う。安くても

数万円はするのだ。高い絵は何十万円もする。絶対に名前で買うのではない。だって

私など美術年鑑にも載っていないペエペエなのだ。

とにかく何時間も私の絵を見ている。驚くような観察である。何万円、何十万円も出

すのだから見るのは当り前だ。買う人は私に義理があるわけではない。コレクターと

私の間には絵しかない。絵だけが唯一の媒体である。まったくピュアな世界なのだ。

さらに驚くのは、私の裸婦を女性のコレクターが買うこと。またはご夫婦で見えて奥

さんの意見も聞きながら裸婦を求められる。本当に油断ならない。ちゃんと描かなけ

れば全部ばれてしまう。まことに恐ろしい鑑賞者群! 絵描き仲間や美術評論家を圧

倒する眼光である。とにかく凄くよく見ている(内緒だが、私より見ている:ゴメン

ナサイ)。

金井社長もコレクターのことをよく理解し、尊敬している。そしてそういう目のある

人たちがこの美術界の核を担わなければ日本の美術界は消滅してしまうということも

知っている。しかし、号数万円できっちり絵を描く絵描きとそれを支えるコレクター

の輪はまず消えまい。この小さな世界は間違えなく残る。

いっぽう、一部に心ない画家や画商がいる。法外な画料を設定して詐欺まがいの商法

を繰り返す輩も跡を断たない。数万牧も刷るような印刷物をリトグラフと偽って百万

円近い価格で売っているところもある。高名な画家の日本画の複製画もたいへん怪し

い。

そしてまたいっぽう、数万人の美術愛好家が国立の美術館に列を作る。美術界にはそ

ういう大きな裾野もある。まだまだ捨てたもんじゃない。

さらに、真面目な美術史家もいる。地道な研究をしっかり続けている。

私の絵は今日までで14枚買っていただいた。凄いことである。とにかくこんな個展

は私も初めてだ。こんなに買ってもらった経験はない。ここでさらに気を引き締めて

頑張らなくてはならない。絵の神様がまだ絵を続けてもいいとおしゃっているのだと

受け止め、もっともっと画業に励みたいと思います。

もちろん今回は買ってくださらなくても、わざわざ見に来ていただいた多くの方々に

も深く感謝いたします。これからもよろしく叱咤激励ください。

あとまだ3日あります。今朝描いた新作のバラを明日持って行きます(実は今日持っ

て行けばいいのに忘れたのです)。金井社長のお眼鏡にかなえば飾ってもらえます。

お近くにおいでの節は是非ご高覧ください。

 

本日の更新はありません。先週の更新はけっこう知られていない地球や宇宙のコーナー

を発展させた「宇宙の寸法」です。

 

01年5月20日

今朝(5月20日)の朝日新聞一面のコラム「天声人語」の文末に世阿弥の言葉が

あった。

「命には終りがあり、能には果てあるべからず」

「能」が長い間生き残ってきたことを世阿弥は予言したのだというような解釈だった。

そういう解釈も無理はないだろう。私も世阿弥の原文を読んだわけではないし、第一

「能」など見たこともない。だから私も強く主張するつもりはないが、どうも世阿弥

の言う「果てあるべからず」は違うように思う。

もともと中学生の時分から疑問だった。学校で「芸術は永遠なり」と教えてもらう。

モナリザもダビテ像も、作家は死んでしまっても芸術作品だけは永遠に残っている、

という意味らしい。しかし、どうもこれはおかしい。だってモナリザもダビテ像もい

つかは必ず壊れる。今朝の「天声人語」でも話の初めはアフガニスタンのバーミヤン

の大仏だった。あの大仏は完全に壊されてしまった。永遠ではなかった。

あんな素晴しい芸術作品がおかしいではないか?

第一永遠とは何だろう? 合理的に考えればそんなものはない。人類は必ず滅びるし、

太陽も燃え尽きる。当然地球も終わる。冷静に考えれば中学生だって察知できること

だ。

それにもかかわらず、世阿弥が「能は果てあるべからず」と言ったのは、能を演じて

いるその瞬間、能を観ているその瞬間のことを言っているのだと思う。その瞬間は永

遠なのだ。

絵も描いている瞬間は永遠であるべきなのだ。そういう悠久の瞬間(とき)のなかで

描かれたものは、観るものを必ず永遠のかなたに連れて行く。

永遠とは瞬間のこと。その瞬間の感動のことにほかならない。

われわれはギリシャ彫刻の破片を観ても悠久の瞬間(とき)を感じることができる。

時間を超えた人間どうしの感動を味わうことができる。それこそが無限の幸福なので

ある。

 

先週「あとまだ3日あります。今朝描いた新作のバラを明日持って行きます(実は今

日持って行けばいいのに忘れたのです)。金井社長のお眼鏡にかなえば飾ってもらえ

ます。」と書いたが、そのバラは上の絵。金井社長にたいへんお褒め頂き、次の「マ

チエールの探究者たち」展に出展してもらえることになった。

さらに私の父の裸婦も出展予定。

「京橋界隈」も是非ご覧ください。

お近くにおいでの節は是非ご高覧ください。

 

本日も更新はありません。

近日中に「今月の絵」としてバラの新作を数点アップします。

 

01年5月27日

5月24日(木)都心に出た。銀座のリコー、京橋の金井画廊、上野の美術館2つ、

新宿の日税ギャラリー、そして大胆にも表参道の根津美術館まで踏破するつもりだっ

たが、根津は時間切れでアウト。

先週も書いたように、金井画廊には父の裸婦が展示中(6月2日まで)。久しぶりに

見た。

上野は「ヴェネツィア絵画展」の招待券があり、27日までだったので是非行きたかっ

た。しかし、お目当ての絵は全然ない。どこがヴェネツィア絵画じゃ、とチケットを

よく見ると上の所に小さな文字で「華麗なる18世紀イタリア」とあった。これでは

ティツィアーノもティントレットもあるわけがない。どっちも15から16世紀だ。

招待券なので文句も言えないが、フジサンケイグループの主催で、場所は上野の森美

術館。ちょっと騙された気分。

しかし、歩いて5分の国立西洋美術館では「イタリア・ルネサンス」展(7月8日ま

で)。実は常設のデッサン室の修復が終わったので、久しぶりにドガのパステルを見

ようというのが狙い。ま、せっかくやっているのだからルネサンスも見てみようと、

大枚1300円。

それにしてもこの1300円は安かった。もちろんドガなどすべての常設も見られる。

ちなみにデッサン室は「フランス素描名作展」(6月24日まで)。

こっちのルネサンスは本物。凄いのがごろごろ来ている。

と言うわけで本日の更新は「ルネサンスの奇蹟」

また、先週お約束したバラの新作はもうしばらくお待ちください。今朝描いたアジサ

イ(本日のタイトル画)と一緒に近日中に「今月の絵」に更新します。

 

01年6月3日

小泉人気はますます凄いが、最近のヒットは、閣僚の資産公開で、歴代首相のなかで

もっとも資産が少ないと聞かれ、

「どうってことないんじゃない。別に生活に困らないんだから、いいじゃない」

とのコメント。私はこれが一番気に入っている。

もっとも私は生活に困っているから小泉さんとは同じじゃないが、資産とかお金につ

いての見方は変わらない。しかし、生活に困らない程度に稼ぐというのは実に難しい。

がんがん稼ぐ、じゃんじゃん儲けるとなれば、ある程度の所まで行けるようにも思う

(実際はこれもたいへんだ)が、「生活に困らない程度」となるとまことに難しい。

父は50歳ぐらいから絵が売れ始めた。独り暮しだったから最低限の質素さで耐えれ

ば絵だけで生活できた。事実、そういう暮らしをしていた。私も最近少し売れるから

父のように納豆とタクワンと飯だけで頑張れば独り暮しなら絵だけで生きられないこ

ともない(実際こういう食事はけっこう多いし、また、これが案外旨い)。絵で生活

するというのはそれぐらいのことなら十分耐えられるほど嬉しいものだ。何十年も売

れなかったのだから、夢のようなことなのだ。

ま、しかし私には所帯があるからそんな山籠りみたいな暮らしはできない。そのおか

げで寿司飯も食えるしカレーライスもほうばれる。ありがたい話だ。ありがたいがい

ろいろ面倒な仕事も多い。もっともそれも最低限で切り抜けている。ゆったりしてな

いと絵は描けないからだ。ここが本当に難しい。超低空飛行を続けなくてはならない。

家内はよくがまんしているなと感服する。まことに申し訳ない。

というわけで、はからずも経済報告になってしまったが、だらだらやっていても半年

ぐらいは持ちそうな気配。この6〜7月に頑張れば2〜3年は行ける。だから、絶対

にどんなことがあっても今月と来月は頑張る! そして借金をクリアにして美しい五

十代を送るのだ! 

買っていただいた方には申し訳ないが、絵のほうもそんなにメジャーになる必要もな

い。売名行為にあくせくしたってロクな絵はできない。名を売るよりちゃんとした絵

を描くこと、これが重大である。日本の画壇は馬鹿だから売名行為に張り切る絵描き

も多い。一時期名が売れてもみんなバブル。しっかりした作品がなければどんどん消

えてゆく。私ももちろん買っていただいているのだから最低限のことはします。複製

画だって名が通っていたほうが売りやすいのだし。

 

本日の更新は「今月の絵―バラとあじさい」。新作です。

 

今、表参道の根津美術館で「開館60周年記念展 第2部 国宝 漁村夕照図・鶉図」

をやっています(6月24日まで)。牧谿「ぬれ雀」出展中。絵の話のバックナンバー

に「ぬれ雀」がどれぐらい凄い絵か書きました。そちらもご覧ください。

 

「京橋界隈」も是非ご覧ください。

お近くにおいでの節は金井画廊にお立ち寄りください。

 

最近の更新、けっこう知られていない地球や宇宙のコーナーを発展させた

「宇宙の寸法」もよろしく。

 

週間アクセス数報告:5月第5週182。5月756。

 

01年6月10日

ルネサンスの続編をお届けすべく、いろいろ見ているがなかなかこちらの思惑どおり

にはいかない。特にミケランジェロを書きたくて昔読んだ本などをひっくり返してい

るのだが、どうもう書きたいところの出典がうまく見つからない。サンパウロ美術館

のプッサンの図版も今だに見つかってないし、レンブラントを評したゴッホの言葉(こ

の絵は炎の手によって描かれた)も確認できていない。ちゃんと検索できるようなソ

フトを作っておかなければダメだ。検索にはPCはもっとも優れた器械なのにいま一

つ使いこなせていない。ロクでもない駄文を打ってはHPに恥を晒す道具にしてしまっ

ている。

ま、ミケランジェロについてはもうしばらくお待ち願うとして、本日の更新は「宇宙

の寸法:巨大隕石の衝突」。NHKの「宇宙」は今夜ですでに第3集。これは本当に

毎月1回のペースなのかと思うほど早い。とてもこっちは追いつかない。ちなみに「隕

石の衝突」はNHKは第1集だった。第2集が「地球外生物」で、今夜が「火星」。

もちろん面白いが、5千6百kmしか離れていない(最接近)火星では「宇宙」と呼ぶ

には近すぎる。

 

今、表参道の根津美術館で「開館60周年記念展 第2部 国宝 漁村夕照図・鶉図」

をやっています(6月24日まで)。牧谿「ぬれ雀」出展中。絵の話のバックナンバー

に「ぬれ雀」がどれぐらい凄い絵か書きました。そちらもご覧ください。

 

「京橋界隈」も是非ご覧ください。

お近くにおいでの節は金井画廊にお立ち寄りください。

 

最近の更新、けっこう知られていない地球や宇宙のコーナーを発展させた

「宇宙の寸法」もよろしく。

 

週間アクセス数報告:6月第2週177。5月756。

 

01年6月18日

わがホームページ(HP)は毎週日曜日の夜に更新してきたが、諸般の事情(日曜日

に真鶴へ車で行ったら、福浦港で車のバッテリーが上がってしまい、修理などで帰宅

の予定を大幅にオーバー)で今回は月曜日の朝になってしまった。申し訳ありません。

さらに、前回この欄で「5千6百kmしか離れていない(最接近)火星」と書いてしまっ

たが、もちろんこれは明らかな過ち。5千6百kmでは日本からオーストラリアぐらい

までの距離に過ぎない。私の100円電卓だと8千万km(最接近)と出た。これまた、

申し訳ありません。

度重なる失態、重々反省しております。

 

雑誌は買っても邪魔になる。図書館で借りるに限る。しかし、「新潮45」は人気雑

誌だから最新号はなかなか借りられない。もちろん買う予算もない。私にとっての最

新号は4月号とあいなる。4月号は3月とか2月に出るので、中身はさらに古い。こ

のHPのネタが古くなるのはこのためである。なんてったって4月号の「新潮45」

ではまだ森政権。あちこちに森内閣への批判が溢れている。そんな中、雑誌の終わり

頃(p287ぐらいから)に目を見張る記事を発見!

題名が凄い。「タリバーンよりひどい平山郁夫の文化破壊」と来た。これはさすがの

私でも言えない。福田和也の「世にも恐ろし巷談」という記事の一テーマ。福田さん

は「作家の値打ち」という本を書いた文芸評論家だ。「作家の値打ち」は現代の小説

を100点満点で採点した勇気ある著作。その判定結果には「?」もあるが、ま、と

にかく面白い。暇潰しには最高の読み物。石原慎太郎に最高点を付けて、いろいろな

ところから押し寄せる圧力の緩衝材にしているところが世古いが、これぐらいはやっ

ておかないと命が危ぶまれるような著作。まことに福田和也という人は命知らずだ。

今回の記事の要点は、京都、奈良の名刹の壁画を平山、東山などの日本画家が手がけ

ているのは、アフガニスタンで石仏を片っ端から破壊しているタリバーンより酷い文

化破壊行為だと言い切る。物凄いことを言う。人ごとながら「オイ、オイ」と背筋が

寒くなる。ま、しかし「瓦版」はこれぐらいでないと読書も付かない。ここまで書く

なら「評論家」も創作者として認めたくなる。

タリバーンの蛮行は誰がどう見たって弁護できない。もちろん私も目を覆った。人為

だから腹も立つ。もうこれは天災と考えるしかない、と自分に言い聞かせたりもした。

お釈迦様本人が「形あるモノは必ず壊れる」とおっしゃっているのだから、諦めるし

かない。しかし、仏像は本当に「モノ」なのだろうか? この辺のところも含めて福

田氏の記事は興味を引く。

それよりも何よりも、タリバーンの問題に抗議した「正義の使者」平山郁夫に挑みか

かる心意気を賛えたい。平山が世界各国の朋輩と一緒にタリバーン非難声明を出した

と述べた直後に「この人こそが、わが国の文化破壊の元凶だと睨んでいるのですがね」

と来る。ここから1ページにわたり現代日本画の最高峰(画料だけ)の「ゲイジュツ

サクヒン」を「紙芝居以下」「ポンチ絵」と酷評。まことに溜飲が下がる。福田さん

は相当見識ある文化人と認めたい。

ここで話が少し戻るが、仏像は本当に「モノ」なのだろうか? という疑問。福田氏

は仏像は文化財(=モノ)ではないだろう、という主張。仏像を文化財に「おとしめ

た」フェノロサまで登場して、仏像を「活仏」として扱うタリバーンのほうがよほど

好きだとおっしゃる。

ここで前回に引き続き、再び上野の西洋美術館なのだが、まことに大したものが来て

いる。私は火曜日(6月12日)に2度目の「礼拝」に行った。その日は根津美術館

で中国の水墨画(牧谿「ぬれ雀」など)も「拝観」させて頂いた(贅沢させてもらっ

てます)。われわれはこれらの絵や彫刻を美術だとか芸術だとか言って、いい気にな

り、文化人気取りで美術館を巡っているが、「図に乗るんじゃない! 何が文化だ、

何が芸術だ」と言いたい。

だいたい今上野に来ているボッティチェリの「受胎告知」なんて絵は薄暗い教会のは

るか高いところにあって、ありがたく拝観させていただく礼拝物である。それが海を

渡ってこんな異教の地にまで運ばれ、人間どもの目の高さまで降りて来るとは。

われわれは上野のルネサンス美術にしても中国の水墨画にしても、これらがすべて宗

教の産物であることを忘れてはならない。宗教ったってそこらに転がっている金儲け

主義のインチキ宗教ではない。本当に暮らしに根付いた生きた宗教だ。ここのところ

をしっかり踏まえておかないと、とんでもない間違えをおかす。いや、もうおかして

いる。

このホームページでも「宇宙」をやっているが、そろそろ人類は頭を冷やさなければ

いけない。何にもわかっちゃいないんだから、そっと静かに暮らさなければダメだ。

「神秘」ということを知るべきである。まず、おのれの「無知」とか「無力」を胆に

銘じなければいけない。

それにしても、どっかの国で穴に落ちた幼女を救った女の子は素晴しい。あれこそ本

当の天使。久しぶりに生き仏を見せていただきました。やっぱり痩せていなければ救

われないか?「食を控えて独り寝をせよ」は江戸時代の禅僧仙崖さん(本当の「崖」

には上の「山」はついてない)のお言葉。

本日の更新は以上でご勘弁ください。

 

今、表参道の根津美術館で「開館60周年記念展 第2部 国宝 漁村夕照図・鶉図」

をやっています(6月24日まで)。牧谿「ぬれ雀」出展中。絵の話のバックナンバー

に「ぬれ雀」がどれぐらい凄い絵か書きました。そちらもご覧ください。

 

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