No47絵の話1998.5.5更新

悟りの絵画

ティツイアーノの世界

続・名画の顔を見る

別冊宝島の『誘惑美術館』で西岡文彦はブグローやカバネルをエロチズム絵画としてちょっ

と非難しているようだが、私はエロでもポルノでもそんなことは絵画の本質に は関係ない

と思っている。ブグローなど19世紀フランスアカデミズムの致命的な欠陥は絵が下品な

ことだ。金や名誉に生きる人間はさもしい。特に絵描きは画面にすべて表われるから誤魔

化しが利かない。絵のなかに顔が描いてあればなおさらはっきりする。絵のなかの顔は自

画像でなくても絵描きの顔なのである。

下の左の絵はNo45でご紹介したカバネルの『ヴィーナスの誕生』の顔の部分。右はテ

ィツイアーノの『フローラ』(25歳頃)のやはり顔の拡大図だ。「いい絵」というもの

がどういうものか、品格の差を十分ご覧いただきたい。

      

これらを見比べて左がいいと思う人は絵に手を出さないことである。大損をする。 ところ

で、もちろん私だって金も好きだし、名誉も欲しい。問題は絵と天秤に掛けたときどうか

ということだ。金のために絵を道具にするか、絵のために己を捨てられるか、というとこ

ろである。先人の絵を心から愛し、絵に命を削った昔の絵描きを本当に慕うなら、そうい

う人たちがどれほど素晴しい人間か、嘘偽りなく感得できるなら 道は一つしかない。

たった一度の人生を何のために費やすのか、答はわかり切ってい る。

 

2枚の『荊冠』

 さて、左の絵は私が25歳のときルーブル美術館で見たものだ。

 「あっ、この絵は見たことがあるが、どうも変だ。前よりつるつるして気持

 ちが悪い」と感じ、

 「前見た絵は確かもっといい絵だったが?」と不思議に思った絵である。

 実はこの絵はルネサンスのヴェネツィア派の巨匠ティツイアーノの『荊冠』

で、前見た絵というのは、1〜2週間前にミュンヘンの国立美術館アルテピナコテークで

同画家によるほとんど同じ図柄の『荊冠』だったのである。

右の絵がそれで、種を明かせば、上の絵は53歳前後の絵、右は80歳頃の絵なのだ。

同じ絵描きが描いて同じ図柄、大きさもほぼ等しい(120号ぐらい)。これでは間違え

るのも無理はないかもしれないが、絵と しては相当差がある。もちろん80歳の方が俄然

いい。

まったく絵は楽しい。こんな世界は滅多にない。53歳と80歳が競争して、80歳の方

がはるかに優れているというのだから腰が抜ける。ここに絵画世界の無限の深さを感じる。

何度も言うよ うだが絵画とは人間なのである。しかし、こんな絵の比較を見ると、絵描き

はまず長生きしなければならないことになる。まず第一にそれが一流の条 件なのか? こ

れはハンパなことではない。中国の老子の言う「大器晩成」とはこのことにちがいない。

晩成しなければ大器ではない、ということだ。早熟な天才など、絵の世界では話にならな

いガキなのだ。絵では早熟は当然、問題は70、80からである。

 

悟りとは?

それにしてもティツイアーノは偉大だ。まことに素晴しい。仏教で「悟りを開く」と言う

が、それを目で見せてくれている。左の絵には迷い、恨み、執着、反抗が見える。右はど

うだろう。諦め、脱俗、離脱、無抵抗。言葉にすると悟りというのはちょっと人間を放擲

しているような感を受けるが、実際は積極的に働きかけていなければならない。ここのと

ころは実にわかりにくい。第一私自身悟りを開いていないのだから説明できるわけがない。

しかし、本によると今書いたようなことが述べてあ る。これを目のあたりに見せてくれ

るのが絵画だ。実に素晴しい。下の絵は例によって顔のところを拡大した図だ。顔を見る

となおさらよくわかる。

     

また、絵というのは、原画の前に立つと不思議なパワーを感じる。名画には画家の気 合い

が何百年も生き続けている。まったく凄い。これも絵画が印刷物ではダメで、オリジナル

でないとなかなか通用しない由縁かもしれない。 前出の西岡氏は『絵画の見方』(宝島社)

のなかで、これら2作品を比べて筆致について述べ、80歳の優位を語っておられる。

また、美術出版社の全集『世界の巨匠』でもはっきり80歳のほうを賞賛している。誰が

見ても明らかである。

 

無限のパワー

下の2点もティツイアーノの『埋葬』で、左が35〜40歳頃、右は69歳の作。2作と

も120号ぐらいある。

  

この比較だと若描きも悪くないが、やはり硬いし、色がない。絵が硬いのは必ずしも 欠点

ではないと思うが、69歳の方は絵が伸び伸びしていて大きい。ダテに歳をとっていない、

ということだ。こんな凄いジジイは滅多にいない。 最後に、ティツイアーノの精華を2

点。これぞ悟りの絵画である。素晴しい自由な線と色。ここまで自在に描ければさぞ幸せ

だろうと思う。左は『ニンフと羊飼い』80 歳から86歳頃、横187cm。右は『エウ

ローペーの略奪』69歳から72歳、横204cm余り。

     

   

かのルーベンスが生涯慕い続けた大巨匠ティツイアーノをたっぷりと堪能していただ きた

い。これぞ芸術、これぞ絵画! 

下に再度ブグローをお見せしておくので、じっくり比較されたい。ブグローなんてうまい

ばかりでつまらない絵描きなのである。

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