No100 絵の話 2002.7.7更新

富岡鉄斎の絵

無敵の老人画力

 

近代絵画の最高峰

富岡鉄斎(1836〜1924)の絵はとても強烈だ。しかし、うるさい絵ではない。

厚くて深い。シャープで斬新。思いもつかないような造形がある。しかも明快。

たいへん分かりやすい。

下の3枚は、今回私が選んだ鉄斎の傑作。

      

 左:富岡鉄斎「富而不驕図」紙本着彩 1924年 36.6×27.0cm
 中:富岡鉄斎「朱梅図」紙本淡彩 1923年 150.4×40.1cm
 右:富岡鉄斎「梅華書屋図」紙本着彩 1924年 145.6×40.1cm

鉄斎は「十九世紀から二十世紀にかけての世界美術史の上で、セザンヌやゴッホにも

匹敵する大芸術家」と『富岡鉄斎』(小高根太郎/吉川弘文館「人物叢書」)の「は

しがき」で絶賛しているが、私はそれ以上の画家だと思っている。

とにかく上の3枚をじっくり見て貰いたい。

これこそ東洋人の近代絵画。しかも世界最高である。

「われわれには鉄斎がいる」

そう考えただけでわくわくするほど嬉しくなる。

明治以降の日本の絵画全体の中で鉄斎以上の画人はいない。もちろん長谷川利行でも

及ばない。鉄斎が最高だと思う。

 

鉄斎を慕った画家

鉄斎を慕った日本画家に楠瓊州(くすのきけいしゅう 1892〜1956)がいる。数年

前に古本屋で「孤高の南画家楠瓊州」(渥美国泰/芸術新聞社)を見つけて買った。

もちろん絵がよかったから買ったのだが、鉄斎と比べると問題にならない。


 楠瓊州 右より「葡萄図」「椿図」「月下白梅図」「富士山図」「江山雪霽図」「早伝春信図」短冊

これらの絵は小さな短冊だから比べるのも気の毒だが、鉄斎と比べると絵がぼけてし

まう。もともと絵にはバランスが必要。全体の調子を調えなければならない。しかし、

そっちにばかり気が行くとぼやっとした絵になってしまう。やっぱり絵には斬り込む

ような線描が欲しい。そういう度胸が見えないと面白くない。

下村為山(1866〜1949)の短冊と比べるとよく分かる。これらの図は「孤高の南画

家楠瓊州」のp39にある。


 下村為山 右より「追羽根図」「桃花図」「荀図」「葡萄図」「菊図」「椿図」短冊

こっちのほうがずっと鮮やかで巧みだ。驚くべき筆捌き。これだけ描けてもほとんど

名が残っていない。まったく絵の世界は厳しい。

しかし、鉄斎と比べるなら為山は小さい。自分の巧みさに溺れているのかもしれない。

絵が軽くなってしまっている。

それにしても為山は色のことをよく知っているし、線描の鍛練も相当のもの。本当の

プロの絵描きとはこういうのをいうのだと感嘆する。

また、瓊州も静かな水辺の絵などにいいものがある(「孤高の南画家楠瓊州」の

p80、p81、p86の絵)。

為山も瓊州も、鉄斎に比べれば大したことはないが、他の有名な日本画家(横山大観

とか平福百穂など)よりもずっといい。こうやって絵を見比べていると「有名」とい

うのは実にばかばかしいものだと思う。

 

鉄斎の不思議

ところで、上の鉄斎の3点は鉄斎が88歳から89歳のときの絵。これにはまったく

驚く。鉄斎の年齢は「数え」だから今風に「満」でいうと86歳から87歳。鉄斎は

満87歳で亡くなった。しかし、後1ヵ月ほどで88歳だった。その死の直前まで絵

を描いていた。そして、その直前の絵が一番いいのだ(下の右の絵)。

       

 左:楠瓊州「桃景山水図」紙本着彩 1946年
 中:楠瓊州「水墨山水(斯地独幽静)図」紙本水墨 1941年 133.0×47.0cm 敦井美術館
 右:富岡鉄斎「瀛洲僊境(えいしゅうせんきょう)図」紙本淡彩 1924年 142.7×40.1cm

左の瓊州の2点の絵と比べていただきたい。

瓊州の画面も真面目で好感が持てる。一生懸命描いている。しかし、鉄斎の豊かさは

どうだ。空間や質感も圧倒的にまさっている。本当に不思議?

絵とか彫刻を美術というが、まことにこれだけ美しいなら美術だろう。

瓊州の絵は左が54歳、右が50歳のときもの。親子ほども歳が違う。世間一般の常

識なら50代の壮年に描いた絵が90歳に近い老人の絵に負けるわけがない。スポー

ツなら当り前だし、ほとんどの技術的な作業でも同じだろう。剣道など老いた達人の

話はよく聞く。しかし、どうも信じ難い。「老人力」というのも最近流行ったが、しょ

せん言葉。

絵や彫刻の世界では正真正銘ちゃんと残っている。人間には果てしない能力があるの

だ。限りなくどんどん成長する。成長しながら死んで行く。まったく物凄い動物。普

通なら信じられないが、ちゃんとそういう人がいる。

鉄斎自身の作例でも明らか。

      

 左:富岡鉄斎「蓬莱山図」紙本着彩 1924年 144.3×39.2cm
 中:富岡鉄斎「夏景山水図」紙本淡彩 70歳代 124.5×60.7cm
 右:富岡鉄斎「越渓観楓図」紙本着彩 1869年 136.7×48.2cm

右から34歳、70歳代、89歳(すべて数え歳)。

鉄斎のほかにも、葛飾北斎、雪舟、ミケランジェロ、ティツィアーノ、コロー、モネ、

ピカソなど80歳を過ぎて衰えるどころかますますよくなった巨匠がいっぱいいる。

中国の水墨画家は伝来が不明なので何とも言えないが、おそらく相当の歳まで描き続

けたのではないか? こういう画人のエネルギーの源を知りたいものだ。私の今のや

り方では会社の定年と同じ、60歳が限界。80歳で絵を描くなど、考えただけでも

息が切れる。

    

 左:富岡鉄斎「水郷清趣図」紙本淡彩 1923年 130.7×31.0cm
 中:富岡鉄斎「小黠大胆(しょうきつだいたん)図」紙本淡彩 1920年 29.8×22.5cm
 右:富岡鉄斎「長守富貴図」紙本淡彩 70歳代 109.8×42.7cm

右から70歳代、85歳、88歳。この3点などどれもよく、甲乙つけ難いが、やっ

ぱり88歳の絵が一番凄い。まったく不思議だ。

 

鉄斎の自画賛

鉄斎の絵にはたくさん文字が書かれている。鉄斎自身「わしの絵を見るなら、まず賛

を読んでおくれなされ」(集英社「富岡鉄斎」p83)と言うが、あんなもの読めるも

のではない。鉄斎は桁はずれの学識があるのだろうが、それはあくまでも近代以前の

方法で身につけたもの。とてもわれわれにはついてゆけない。

ただ、鉄斎はもともと神官だが、仏教や老荘思想にも精通しており、そういう画題は

ちょっとわかるから楽しい。しかし、文字に挑む気力はない。

     

 左:富岡鉄斎「布袋遊戯図」紙本墨画 1921年 130.4×31.5cm
 右:左の部分図

この絵は禅宗の画題。しかし、明治期の禅画でこんないいものは知らない。顔もいい。

禅画もヨーロッパが入ってからは「禅は個性」だとか何とか言って、気持ちの悪い絵

ばかり。勘違いも甚だしい。この鉄斎の自由な画境はどうだ。十分個性的。こんな風

に布袋を描いた絵はない。鉄斎には申し訳ないが、賛など読まなくても鉄斎の心意気

ははっきり掴める。

   

 左:富岡鉄斎「一休戯謔図」紙本淡彩 1924年 108.0×33.8cm
 右:左の部分図

絵は表現なのだ。鉄斎がどれほどの思いをもっていたか絵を見れば一目でわかる。わ

かるだけでも有難い。自分自身鉄斎の境地まではとうてい達しえないが、とにかく凄

いということはわかる。どういう心持ちで、どのようにしてあんな凄い絵を量産でき

るのか、まったく不明だが、とにかく良いということだけはわかる。

ま、賛も読めるように頑張ってはみる。

 

鉄斎への道

絵は頭じゃない。考えたってダメ。そんなものは知れている。重大なのは気合いなの

だ。問題はいかに気合いを入れるか。それを保つかである。試験で失敗すれば「ああ、

もっと勉強しよう!」と気合いが入る。子供が産まれれば「ちゃんと育てなければな

らない」と気合いが入る。借金を背負えば「返済しなければ」とこれまた気合いが入

る。われわれはそういうストレスのなかで生きている。それが生きがいにもなる。絵

描きはそういう気合いを画面に焼き付ける。キャンバスに叩き付ける。これが意地で

もあり、ストレス解消の方策でもある。

いっぽう、色気もまだまだ残っている。異性を見れば魅力を感じるし、美しい花や景

色に見とれることもある。そういう気持ちが絵を描かせる。

それでは鉄斎の作画動機は何なのだろうか? いったい何が鉄斎に絵を描かせるの

か? 気力の源は何なのか?

    

 上:富岡鉄斎「静坐息機図」紙本着彩 扇面額装 1921年 17.6×53.0cm
 下:富岡鉄斎「東山秋霽図」紙本着彩 扇面額装 1920年 16.5×52.6cm

おそらく「生きること」だと思う。それは「生への執着」というような欲深いもので

はない。もっと自然な素直な思い。「朝目が覚めて生きているから描く」というよう

な淡々とした感情なのではないか。

わからない。わかりっこない。わかったら鉄斎だ。だからとにかく、私は酒は飲まな

いし、煙草も吸わない。スポーツも続けている。苦手だが、出来るだけ本も読むよう

にする。絵も描き続ける。鉄斎にはなれないと思う。そんなに長生きするだけでも大

変だ。とても不可能だが、全然可能性がないわけじゃない。とにかく鉄斎の絵は70

歳ぐらいまでまったく大したことないのだ。私より下手なぐらいだ。私は70歳まで

まだ20年近くもある。ずーっと先なのだ。

とりあえず、鉄斎教で行くしかない。

「われわれには鉄斎がいる」

団体美術に混ざって、安井賞だの宮本賞だの血眼になり、「異才」だとか「天才」だ

とか言い合って、喜んだり悲しんだり。まことに情けない。いっぽう、インチキな売

り絵を描き、なけなしの貧しい画技でとぼとぼ生きている「プロ」もいる。実にばかば

かしい。一度の人生、どうやって生きるか頭を冷やしたほうがいい。

富岡鉄斎がいるではないか。

われわれは鉄斎を知った。その絵がわかる。素晴しいと思う。もうこれだけで十分幸

せである。あとはやるだけやる。生きるだけ生きる。出来るところまで頑張る。それ

だけだ。

鉄斎が嫌なら、北斎も雪舟もミケランジェロもティツィアーノもコローもモネもピカ

ソもいる。いっぱいいる。楽しいよ。ダメもとで描こう! 人生捨てたもんじゃない

のだ(俺は本格的な馬鹿かもしれない。アシカラズ)。

 

おすすめの鉄斎の画集は集英社の現代日本美術全集1「富岡鉄斎」。できればワイド

版のほうが図版がきれいだが、この画集は部分図が多い。中央公論社の日本の名画3

「富岡鉄斎」は全図で出ているし、内容もいい。新本になくても古本屋にけっこうあ

る。古本屋には展覧会の図録もあるが、生誕150年 中国展帰国記念「富岡鉄斎展

図録」はフルカラーで楽しい。もちろん私はこの展覧会も2回ぐらい見た。読み物と

しては最初に引用した『富岡鉄斎』(小高根太郎/吉川弘文館「人物叢書」)が一番

よかった。私は図書館で借りて読んだあと、いいので買った。鉄斎の質素な暮らし

振りなどもよく書いてある。

 

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