No84 絵の話 2000.9.10更新

続・写楽は北斎か?

浮世絵師のアイデア

 

大芸術の誕生

大首絵を発明したのは喜多川歌磨である。おそらく蔦屋十三郎との共同開発だろう。

浮世絵史上稀に見る大発明である。この発表が寛政3年(1792年)。直前に蔦重

は幕府から財産半減の厳刑を受けている。歌磨大首絵の成功で蔦重は立ち直った。

    

喜多川歌磨
左から「歌撰恋之部 物思恋」「北国五色墨 切の娘」「歌撰恋之部 深く忍恋」
                                 すべて大判 
 

が、しかし、寛政6年、贅沢な雲母摺(きららずり)を幕府が禁止にする(もちろん

歌磨の大首絵にも雲母摺は使われていた)。すでにこのときは写楽も雲母摺使った役

者の大首絵を出版していた。寛政11年には幕府は大首絵さえも禁止にする。

もどって寛政6年、歌磨の大首絵の美人画に続いて東州斎写楽を使って役者絵の大首

絵を出していた(一度に28枚)。人気商売だから次から次へと新製品を出さなけれ

ばやって行けない。

    

東州斎写楽
左から「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」「四代目岩井半四郎の乳人重の井」
「市川鰕蔵のの竹村定之進」                  すべて大判 

写楽の役者大首絵は今までの役者絵とは根本的に違っていた。まったく新しいアイデ

アだった。どこが新しかったのか? 

すなわち、写楽は役者の個性を描いたのだ。ふつう役者絵には文字が入っていて誰誰

のどんな役かがすぐにわかるようになっていた。もちろん写楽の大首絵にも入ってい

るのだが、そんなのを読まなくても一目見れば「二代目瀬川富三郎」とか「四代目岩

井半四郎」とわかるような描写なのだ。これが「役者の個性を描く」という新しい錦

絵だった。写楽の絵は「役者の個性を描く」などというレベルを超えて「役者の迫真

の演技を描」き、「うなり声を描」き、「瞬間の躍動を」描き切ってしまった。こう

いうアイデアも半分は蔦重のものだろうが、写楽は蔦重の意図をよく飲み込んで思う

存分腕を奮った。蔦重も写楽が好き勝手に仕事が出来るようにいろいろ配慮してくれ

た。二人の息はぴったり合い、世界を驚かす大芸術を生み出した。背景には寛政とい

う時代や江戸という都市があった。いろいろな偶然が重なり合ったと見るべきだ。

 

絵の題名が面白い

写楽の役者絵がどの役者が何の役をしているところを描いたものなのか、江戸時代の

歌舞伎ファンは一目見てわかったはずである。これを現代の美術史家が究明するのは

けっこう骨が折れるらしい。昔とは題名が変わったりしている。写楽の絵の題名は長

いものが多い。「写楽は北斎である」から採ってみても「三代目大谷鬼次の奴江戸兵

衛」とか「四代目岩井半四郎の乳人重の井(めのとしげのい)」など。

      

東州斎写楽
左から「中山富三郎のさざ波辰五郎女房おひさ、実は貞任妹(さだとうのいもうと)てりは」「二代目中村仲蔵の百姓つち蔵、実は惟高親王」すべて間判 

もっと長いのは「四代目松本幸四郎の大和のやぼ大尽、実は新口村孫右衛門」とか「二

代目中村仲蔵の百姓つち蔵、実は惟高親王」とか「中山富三郎のさざ波辰五郎女房お

ひさ、実は貞任妹(さだとうのいもうと)てりは」など「……、実は〜」というのが

たくさんある。もちろん芝居の役割通りに描いただけなのだろうが、「東州斎写楽、

実は葛飾北斎」なんてのがあるのではないかと疑りたくなる。

 

「写楽」という名

また、「写楽」という名前にもいろいろな意味付けがなされている。「あほくさい、

しゃらくさい」は有名だし、漫画家の石ノ森章太郎が写楽=歌磨説で「死やらく生」

と考えた話もある。私が今度「写楽は北斎である」で気がついたことは前回も述べた

が春朗(=北斎)は15年間も役者絵を描いたが「見立(みたて)」といって実際に

歌舞伎を見て描いたのではなく、それまでの絵組みなどを参考にして描き、写楽は「中

見(なかみ)」といって実際にその歌舞伎を見て写生をしてから描いた(「写楽は北

斎である」P149)という点。つまり写楽の絵は写生なのである。絵を描くのに「写

生は楽である」「写生は楽しい」という意味も込めていたかもしれない。寛政6年以

前の北斎(=春朗)はまだ若く写生では描かせて貰えなかった。ところが、写楽は蔦

重の後ろ楯もあるから自由に役者を見ることが出来た。

     

左:春朗(北斎)「市川鰕蔵の山賊、実は文覚上人」(寛政3年、1791年11月)
右:東州斎写楽「三代目市川高麗蔵の弥陀次郎、実は相模次郎」(寛政6年1794年11月)細判 

もちろん私は写楽が北斎であると断定していない。はっきり言って断定できない。し

かし、もし写楽が北斎なら、今まで写生できなかった役者を自由に芝居小屋に出入り

して写生できる身分に昇格したことはとてつもなく大きな喜びだったと推測すること

は可能だ。画面も飛躍的に進歩したであろうことは想像に難くない。

 

 

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