No96 絵の話 2002.4.21更新
ヨーロッパ絵画への憧憬2
わが先輩たちへの賛歌
出会い一番知りたいのは「長谷川利行はマチスの本物を見ていたか?」という点。同様に中
村彜はレンブラントやルノアールの本物を見たのだろうか?
この辺が一番知りたい。つまり、われわれの先輩たちはどのようにヨーロッパ絵画と
接してきたかという点だ。
左:レンブラント「使徒パウロに扮した自画像」油彩 キャンバス 1661年
91×77cm
右:中村彜「帽子を被る自画像(にがむし)」 油彩 キャンバス 1905年
79.0
×59.5cm
集英社の現代日本美術全集「中村彜/須田国太郎」の図版解説によれば幼年学校時代
(14歳頃)にレンブラントの絵ハガキを所持していた、とあり、1909年(22
歳)に丸善で高価なレンブラント画集を買った、とある。上の絵は画集購入の4年前
に描かれたことになる。
ここで気になるのは当時の印刷技術である。第一にカラーだったかどうか? これが
どこにも書いてない。当り前すぎて誰も書かないのか。カラーであるはずもないが。
白樺派
昔の小説などに、絵の好きな中学生が印象派の絵画に出会い本当の絵画に目覚めて行
くような話がある。この印象派の紹介者が白樺派である。白樺派が日本洋画に果たし
た功績は計り知れない。
この辺のことをとてもわかりやすく書いてあるのは「原色現代日本の美術―大正の個
性派」(匠秀夫・小学館)。画集だから図版もたいへん豊富だ。
私は以前、1930年は日本の洋画界の一つの焦点であるというようなことを述べた
が、この画集の解説では1910年に支点を置き、それから10年間、ちょうど大正
時代とほぼ重なる10年間に的を絞って話を進めている。
文学雑誌『白樺』が創刊されたのも1910年4月だった。
その後、白樺主催の美術展が数次に渡って行われる。この美術展は大型の複製画を並
べたらしいが、これはもちろんモノクロだったはずだ。しかし、1912年の第4回
展のときはロダンのオリジナル彫刻3点とルノアールの裸婦の小品(本物)が展示され
た。こういう白樺派の業績は上記「原色日本の美術―大正の個性派」(p125)に
詳しいので、是非ご参照願いたい。しかし、カラーかモノクロかについては一切触れ
てない。おそらくモノクロだということが当り前すぎるからだと思う。
飢えた狼白樺派のやったことは語り尽くせぬほど立派だった。
しかし、その前にヨーロッパ美術の真価を忘れてはならない。紹介者がいなければ知
ることもできないが、知るべき相手がどれほどかが一番重大である。ヨーロッパには
間違えなく感動に値する美術が存していたということ。
ある古本屋でルノアールと梅原の裸婦が並んで置いてあるのを見たことがある。下の
2点だ。そのとき「ああ、やっぱりルノアールは凄ぇな」と心のなかで叫んだものだ。
こう並べてみるとルノアールの力量がはっきり確認できる。
左:梅原龍三郎「黄金の首飾り」油彩 キャンバス 1913年
47×45cm
右:ルノアール「足を拭く浴女」 油彩 キャンバス 1905年 84.0×64.8cm
右:中村彜「女」 油彩
キャンバス 1911年 81.0×72.5cm
それにしても、3作品の制作年代をご覧いただきたい。ほとんどズレがない。中村が
白樺派の影響を受けて「女」を描いたことはまずまちがいない。何と早い反応であろ
うか!? 日本の若い洋画家たちが飢えた狼のようにヨーロッパ美術を求めてい
たことが伺える。
画家たちの年齢これは私個人の感覚なのかもしれないが、自分が生まれた後に活躍していた画家は物
凄く新しいように感じる。たとえば、上の梅原(1888〜1985)と中村(1887〜1924)
などたった一つ違いなのだ。私は梅原本人を上野の国画会で見ている。それに対して
中村はほとんど歴史上の人物。とても同世代とは思えない。当然、梅原は長谷川利行
(1891〜1940)より年長! 頭がおかしくなる。
さらに、あの熊谷守一(1880〜1977)は青木繁(1882〜1911)よりも2歳年長なのだ。
調べてみるものである。
長谷川は熊谷を慕っていた。長谷川は萬鉄五郎(1885〜1927)とは6歳違いだから、
やはり同時代と言える。長谷川の絵はしょっちゅう見ているし、最近萬にも引かれて
いるからよく見る。絵も新しい感じを受けるので、それほど古い人だとは感じていな
かったが、実際はかなり昔の人。
しかし、梅原が村上華岳(1888〜1939)と同年齢。当然、安井曾太郎(1888〜1955)
も同輩となると、これまたちょっと驚く。小出楢重(1887〜1931)もほぼ同年代。
ほかに、中川一政(1893〜1988)が萬より8歳、佐伯祐三(1898〜1928)が13歳下。
三岸好太郎(1901〜1934)は16下。鳥海青児(1902〜1972)と小磯良平(1902〜
1987)が17歳年下である。
日本画の横山大観(1868〜1958)はほとんど浅井忠(1856〜1907)とか黒田清輝(1866
〜1924)の世界の人。まことに興味は尽きない。
中村彜の劉生批判岸田劉生(1891〜1929)は中村彝より4歳年下。あの独特なリアリズムで画壇での名
声も確固たるものだった。これに対して、中村は遅れて来た田舎出の画学生。岸田が
アカデミックな文展に派手に反旗を翻しても、中村は文展のなかで地道に活動を続け
ていた。そんな中村の岸田批判は以下のようなもの。作品を比べながら味わっていた
だきたい。
左:中村彝「エロシェンコ氏の像」油彩 キャンバス 1920年
46.5×43.3cm
右:岸田劉生「麗子五歳之像」 油彩 キャンバス 1918年
45.2×37.9cm
「自然の各相と特質とを再現するのに全然その方法を誤って居る。画面が硬く、寒く、
貧しくなるその原因がどこにあるか。それについての反省と努力とが全然欠けている
としか思えません。……実在がもつ偉大性に対してかくまで冷淡無感激である彼等が、
僅に物の配列や先入的色彩感覚によって画面に宗教的崇厳を暗示しようとしても、そ
れは無理です」
この時代の美術界は、中村がいた文展系、梅原、安井など新帰朝者が集まる二科展、
そして渡欧していない岸田が率いる草土社の3つの勢力があった。たとえば、小出楢
重などは当初岸田に引かれるが、後には二科に入っている。梅原も岸田に引かれた時
期があった。
私自身の感想では、中村の言いたいことは実によくわかり、中村に傾きたい。とは言っ
ても、今にして思えば、文展も二科も草土もない。いい絵があるだけだ。上の2点は
誰が見たって両方ともいい。画壇なんてバカバカしいってこと。