No56 絵の話1998.7.27更新

マチスからの警告

感動と反省の実録

一枚のマチス

2〜3週間前、散歩の途中で古本屋に立ち寄った。もっともわたしは散歩などしていられ

る身分ではない。経営が危うく、半月先が見えない自営業者である。しかし、やっぱり健

康第一だから散歩をする。何と言っても身体が資本である。

例によって画集のコーナーへ行き、買いもしないのに画集をパラパラやっていた。マチス

(1869〜1954)の画集だった。わたしはもともとマチスが好きではない。なんか冷たい感じ

がするし、どうも空間があやふやだからだ。だからわたしの本棚にはマチス画集が少ない。

手に取った画集のシリーズもほとんどの画家のものを持っているが、マチスのだけはな

い。だから、本屋や図書館ではついマチスに手が伸びる。 正直に言うと、わたしはそのと

き不覚にも、マチスの一枚に感動してしまった。下の絵である。

 この図版は別の本から

 取っているので、色が全然違う。しかし、間違えなくこの絵で

 ある。色が違うので、話が弾まない。ま、図版がないよりまし

 だろう。第一その前に、わたしはこの原  画を見ていない。

 どちらの図版が原画に忠実なのか、それもわからない。この

絵は「ブローニュの森の小道」(63×79cm 1902年 油彩 キャンバス)で、モスクワのプーシ

キン美術館にある。

 

親父の遺言

わたしは図に乗っていた。個展が終わるといつもこうだ。図に乗る、調子ずく、いい気に

なる。まことに馬鹿である。自分が何をやろうとしているのか、何をやっている のか、何

をやってきたのか、全然わからなくなる。たくさんの人が会場に来てくれる。だいたい褒

めてくれる。絵を買ってくれる。だから有頂天になる。親父が生きて いたときは、必ず冷

水を浴びせられた。親父はわたしの個展に一回も来ていない。車で迎えに行ったときも、

途中で気分が悪くなったと引き返したことがある。余程の冷 血親父か教育熱心な男である。

しかし、自分も中学生の息子をもってみると、親父の気持ちが察せられるようになったか?

わたしは親父が死ぬ1ヵ月前に第1回目の銀座の個展をやり、調子に乗って病床を尋ねて

いる。きっとペラペラ個展の自慢話をしたのだろう。親父は癌ですっかりやられた喉を振

り絞って「絵が荒れるぞ」と警告した。さすがに鈍感なわたしもこれは親父の遺言だな、

と胆に銘じた。しかし、もともと能天気なのである。すぐに忘れる。 今度の個展は3回目。

1年半も経っている。不景気の最中、絵もよく売れたし、芳名 の記帳も多く、画商からも

声がかかった。

「これは絵でいけるかもしれない!」 わたしは完全にいかれていた。ブレーキを掛けてく

れる人間はもういない。

 

マチスの声

まさかマチスが目を覚ましてくれるとは。わたしはマチスなんて好きじゃないのだ。 しか

し好きじゃないからこそ、マチスの声がよく響いた。

      

マチスだってちゃんとやっている。ちゃんと描いている。己の道を歩んでいる。本当の絵

画の道である。絵を売って生活するんじゃない。まずちゃんと生き、さらに絵を描く。誰

にも媚びない己の絵を描き切る。マチスはちゃんと全うした。 色彩とか空間とか描法など

というものが、いかにちっぽけで下らないものか。美しい色彩や立派な絵画は、絵画理論

から生まれるのではない。純粋な情熱から生まれるのである。絵が売れるということも入

選も受賞もすべて関係ない。

上の2点は、左が、いかにも長谷川利行が感服しそうな「ビスクラ風景」(34×41cm 1906年

油彩キャンバス)。右は、ミュンヘンの国立美術館でわたしが平伏した「ゼラニウムのある

静物」(94.5×116.0cm 1910年 油彩 キャンバス)である。

 

ヴユイヤールの声

さらに、その古本屋にはヴユイヤール(1868〜1940)の画集が並んでいた。わたしはヴユイ

ヤールは大好きである。当然その同じ画集も持っている。手に取ると確かに同じ 画集だが

作りが変えてある。表紙の絵も違う。わたしはその絵を見て、さらに感動を深めた。正直

喉が詰まった。絵を見て泣けるなど、20代以来の経験である。 その絵は下の右の絵(部

分)「散歩道」(原作 215×98cm 1894年 ディステンパー《泥絵の具》キャンバス)。左は同

じ画集に収められている小品「じゅうたんの上の 子供」(37×53cm 1904年 油彩 パネル)。

     

絵を愛し、古今東西の長い人間の感動の筆蹟を慕い、真実に生きた先人の画蹟を慈しむな

らば、何としてもわれわれは生き、生き抜き、本当の絵画を絶やしてはならない。ものに

感動した心を正直に画面にぶつける技を求めなければならない。 マチスもヴユイヤールも

ちゃんとやっている。

 

いっぽう俗界では

わたしの妹の友だち夫婦は、90万円も出して、HYという絵描きの版画を買った。明か

にインチキ版画である。絵のことを何も知らないで、つまらないまやかしものに 90万円

も出した。一目見れば売り絵とわかる。感動も何もない。しかも、版画とは言えないまや

かしもの。最近その作家が落ち目だから、別なTSの方を買うという。 どっちも同じ売り

絵である。何の価値もない。TSならまだ前のHYの方がましだ。

ああいうスタイルの絵を考え出したのはHYなのだから。二番煎じよりいいに決まっ てい

る。根本を知らないから全然目が覚めない。しかし、まあ、どっちにしても金に目が眩ん

だ売り絵であり、版画としても転売の利かない紛いものである。絵画的にも あんな塗り絵

のような絵がどうしていいのだろう? あれがいいと言うのならマチスやピカソの絵はデ

タラメなのか? 絵のことを何も知りもしないで金を出すからやくざな画商が次々に悪智

恵をはたらかす。腹も立つが、別世界のことと諦めるしかない。

せめて、90万出すなら90時間ぐらいは古典絵画を研究したらどうだろう。

 

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