No97 絵の話 2002.4.26更新

雪舟の想い

水墨画の世界6

 

水墨表現の極致

この下にたたずむ鷺をよく見ていただきたい。右は拡大図。鷺の羽毛は誤って垂らし

た一滴の水墨の染みように見える。いっぽう、それはまごうかたない水鳥の羽毛。し

かも水中の小魚を狙って隙のない緊張にみなぎって見える。

     

 左:伝梁楷「鷺図」絹本墨画 南宋時代(13世紀中頃) 横経24.9cm
  熱海 MOA美術館   右:伝梁楷「鷺図」(部分)

さらにその鳥の上にある草の葉はどうだ。横に伸びたこの2本の線描。滑空して来る

もう一羽の水禽。この空間。一気に描き上げられた左の岩。すべてが描き手の意のな

かにある。この小さな画面はおそらく数秒で仕上げられている。こんな絵は世界にた

だ一つしかない。

これこそ雪舟が憧れ、求めた続けた究極の筆捌き。破墨画法の極致。

絵は「どうだ、うまいだろ!」と誇ってもいない。そういうけれんみは微塵もない。

そんな必要もない。一目見れば誰だってわかる。そしてずっと見ていたい。何度も見

たい。破墨画の究極であり、絵画の究極でもある。

さらに、もう一点。

   

 上:伝牧谿「遠浦帰帆図」紙本墨画 13世紀後半 23.3×103.6cm
 下:伝牧谿「遠浦帰帆図」(部分)

この雄大な風光はいかがだろう。不動の大地、満々と水を湛える大河。この絵には悠

久がある。風があり、たっぷり潤った暖気が感じられる。世界最高の風景画はこれだ

と言い切れる。この絵をターナーに、モネに、ロランに見せてあげたい。

この絵もまた数分で仕上げられている。筆に淀みがなく、画面が一つの気で統一され

ている。下図は左部分だ。筆勢がおわかりいただけるだろうか? 日本の古い水墨画

にもこれに似た樹木の表現は多いがこの絵に優るものはない。おそらくこれがオリジ

ナルだろう。これまた雪舟が慕った破墨表現だ。

上の鷺図もそうだが、これらは禅宗に深く関わる絵で、風景のなかに自然の営みが必

ず描かれる。この遠浦帰帆図も右方はるか遠くに帆掛け舟が2艘見えて、絵のなかに

人々の暮らしがある。

 

雪舟の破墨山水

4月23日から上野の東京国立博物館で雪舟展が始まった。

おそらく下の2点も展示されるだろう。左の山水は雪舟渾身の破墨図である。

     

 左:雪舟「破墨山水」(絵画部分)紙本墨画 1495年 147.9×32.7cm
 右:雪舟「倣玉澗山水図」 紙本墨画 1918年 30.3×30.8cm

さらに下に示すような作例もある。

  

 左:雪舟「溌墨山水」紙本墨画 22.7×35.4cm
 右:雪舟「溌墨山水」紙本墨画 22.7×35.5cm

3月17日の『唇寒』で私は「雪舟は絵が下手である」とやってしまった。

まこと、上の梁楷や牧谿と比すれば雪舟は拙い。しかし、なんと愛すべき作画姿勢だ

ろう。

雪舟の偉大な点は自分の画技がどれほどのものかよくよく心得ていた点である。雪舟

の切ないほどの想いが一作一作に満ち満ちているではないか。しかもこれらの絵は弟

子たちに与えられたものと伝わる。そこにさらなる偉大性を感じる。

美術史家諸氏は、雪舟の絵に独自性を認め重厚さを賛える。それらは決して的外れな

評価とは言えないが、雪舟自身が心に抱いていた画面はもっともっと別な、上の梁楷

や牧谿の描く南宋画だったように思う。確かに雪舟の絵には美術史家の語るような魅

惑がいっぱいある。しかし、それはあくまでも結果としてそうなったに過ぎない。雪

舟自身の本意ではない。

雪舟と同時代の他の画人にも、目を奪われそうな見事な山水画がある。

      

 左:牧松周省「山水図」紙本墨画 15世紀末 80.0×33.9cm
 中:村田珠光(じゅこう 1423〜1502)「山水図」紙本墨画 15世紀 45.2×22.5cm
 右:岳翁蔵丘「山水図」紙本墨画 15世紀末 69.3×32.7cm

どれも巧みで、覇気もある。雪舟の「破墨山水」に比べてまったく遜色がない。私は

むしろこれら3作をより高く評価したい。

ただ雪舟には巧拙を超えたもうヤケクソとも言える勢いがある。特に明(みん)から

帰国後の筆致には有無を言わさぬ勢いが宿っている。

 

雪舟の正体

雪舟は1467年に47歳で明に渡った。そこで、自分の師である周文、そのまた師

である如拙の画力がいかに素晴しいかを知った。当時の明の画家よりもはるかに優れ

ていたのだ。

モンゴル民族・元の侵攻で、宋の時代からの水墨画の本流は日本に来ていた。中国本

土には宋の精神文化を継ぐものがほとんど残っていなかったからだ。

雪舟は2年間だけ中国にいてさっさと帰ってきてしまった。その後、雪舟は日本に伝

わる中国絵画を研究し直し、旺盛な制作意欲をありとあらゆる画題にぶつける。

下の雪舟は私がイチオシの山水図巻(部分)。雪舟展ではお見逃しなく。

雪舟等揚(1420〜1506)54歳頃の傑作である。弟子の雲峰等悦に与えた画本。


 雪舟等揚「山水図巻」(部分)紙本墨画 1474年 23.6×554.5cm

どうしても美術史に関わる方は美術を一つの分野として見る。絵画的効果を第一とす

る。雪舟を専門画家と言いたがるのもその現われ。しかし、雪舟は禅僧なのだ。仏教

には求めても求めても尽きない魅惑がある。雪舟が仏教のそこのところを知らないは

ずもない。それは絵画の究極を突き止めることではなく、人間の本性を探し、万物の

真理を掴むことだ。絵画は一手段に過ぎない。一表現に過ぎない。これは梁楷、牧谿

が筆をふるった南宋時代でなくとも、「もののけ」がまだそこらにうごめく室町時代

でなくとも、この現代にだって十分罷り通る真実である。

別に仏教でなくったっていい。普遍的な真理こそ一番重大なのだ。

ま、しかし、雪舟が仏教徒である以上、仏教は絶対。すべては仏の御心の現われ。雪

舟は仏性を描いているのだ。

 

気合いを込める

先日テレビでキックボクシングの試合を見た。東洋の小柄な選手が20cmほども背が

高い白人と戦っていた。結果は東洋の選手が負けたが、小さな東洋人はよく戦い、後

半はけっこう押していたように見えた。飛び上がるように相手の顎にパンチを入れる

瞬間の気合いは見事なものだった。

破墨山水ももこういう気合いで描くのだと思う。情熱などいうよりもっと張り詰めた

瞬間の気の充実を画面にたたきつけるのではないか?

     

 左:日観「葡萄図」紙本墨画 元時代 154.0×42.0cm
 右:愚谿右慧「葡萄図」紙本墨画 14世紀末 65.7×48.4cm

ここに示した2枚の葡萄図は甲乙つけ難い傑作だ。しかし、よく見ると左の日観は緊

張感に溢れている。愚谿もこの絵だけ見ているとたいへん立派なのだが、こうやって

2つ並べると、どうしても墨がうるさい。

下の2作はもっとはっきりわかる。

        

 左:伝梁楷「鶏骨図」紙本墨画 元時代 78.0cm×32.4cm 松永記念館
   右:宮本武蔵「布袋観闘鶏図」紙本墨画 江戸時代初期 71.3cm×32.2cm 松永記念館

この2作については、武者小路実篤が伝梁楷の描く布袋の表情を高く買い、武蔵のク

ソ真面目な布袋を「大袈裟だ」と断じた。いっぽう、伝梁楷の図も美術史家から長く

無視されてきた。

しかし、この2作を見比べれば、布袋の表情も蜂の頭もない。伝梁楷の気迫が俄然優っ

ている。誰が見たって一目でわかりそうなものだ。武蔵の絵は比べるのも気の毒。だ

らしなく見えてしまう。鶏も餌でも啄んでいるかのようで、とても争っているように

は見えない。伝梁楷画の迫力を感じ取っていただきたい。

 

破墨とは?

最後に「破墨」の意味だが、これはいろいろな本に「よくわからない」とある。「溌

墨」との混同、という説もある。私の思うところは、「溌墨」は純粋な水墨技法に近

く、「破墨」は画人の心境というか心持ち、気構えのようなものが関わった言葉かと

も取れる。禅画僧独特な言い回しなのではないか? 

破墨は私がやっているスーパークロッキーにたいへん近い画法だ。むろん私の絵は油

絵だが、禅画僧の作画姿勢に学ぶところは限りない。私は墨もよく使うが、やっぱり

油彩画のほうが表現が豊かなように感じる。まだまだ未熟なのでなんとも言い切れな

いが、少なくとも絵画には無限の可能性があることは確かだ。

 

 

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