No45絵の話1998.4.19更新
印象派の宿敵を見る
アカデミズムという怪物
モンスターとの出会い
ブグローを初めて見たのは1971年の冬だった。私が21歳のときだ。鎌倉の神奈川県
立近代美術館の「ボルドー美術館名作展」の一室であった。この山羊と戯れる裸婦がそ
の作品「バッカイ」である。私はこれを見て正直驚愕した。
この流麗な油彩画はどうだろう! いったいこの絵画のど
こに欠点があるだろうか。完璧な空間、不動の構成、 わが
目を疑う質感、隙のないデッサン。これこそまさしく完全
絵画。究極の油彩タブロー。
しかも、この絵は横185cmの大作で、等身大で描かれているのだ。今の日本洋画壇に
も人物の精密描写はある。上野の都美術館では技巧を凝らした力作が年々公開されている。
しかし、この絵はそれらのどんな絵よりも重厚である。そして、現代の日本の精密描写と
の決定的なちがいは、この絵が動きを描いていることだ。こんな激しい動きの瞬間を捕え
た精密描写が日本の美術界にあるだろうか。全然ない。日本の精 密描写は全部じっと動
かない堅苦しいポーズばかりである。時間を掛ければ誰だって描けるつまらない絵だ。み
んな写真を見ながら馬鹿丁寧になぞっているだけだから だ。絵画の不安定な気迫など微塵
もない。もちろん魅力もない。もとの写真のほうがよっぽど奇麗だったりする。
続々と出てくる巨獣
「世の中には凄い絵描きがいるものだ。昔の絵描きは立派なもんだ」。21歳という生意
気盛りの私は西洋絵画史を完全にマスターしているつもりだった。すでにこの頃 には中国
の宋元画にもかなり詳しかった。しかし、こんな画風はどこの国のどの時代にも当てはま
らない。「昔の絵描き」とは言っても、全然その具体的な時空が浮かん でこないのだ。
絵の横のプレートを見て私は自分の目を疑った。1862年とある。「そんな馬鹿 な!」
モネが22歳のときである。もうガンガン描いている歳だ。クールベ、ミレーは数々の代
表作を世に問い、マネやドガは新進作家として画壇にその名を馳せ始めて いた。これは何
と印象派が旗揚げをしようというほんの12年前のフランス絵画なのである。ブグローと
はいったい何者なのか?
ウイリアム=ブグロー(1825〜1905)。19世紀フランスアカデミーの寵児。パ
リのボザール(美術学校)を1850年に最優秀の成績で卒業。ローマ賞(4 年間のイタ
リア給費留学)の資格を得る。その後も多くの優秀賞、叙勲を受ける。
現在ほとんど知られていないが、19世紀のフランスには国家的規模の巨大な美術組織が
あったのだ。もちろん充実した素晴しい活動を展開し、驚くべき成果を生み出していた。
上の2作品はもちろんブグローとはそれぞれ別人。こういうずばぬけた描写力の怪物 が19
世紀のフランス画壇にはゴロゴロいたのだ。特に私が好きな左の絵はドバ=ポンサンなる
画家の、なんと1883年の絵。右は、これまた1884年の絵で、画家 はジェローム。
こんな年代のフランス絵画はふつう印象派に決まっているのだが。
【注】これら19世紀の後半の精密な絵画が今の日本洋画壇の精密描写とは根本的に違う
点は、上にもちょっと触れたが、まだ十分な写真技術がなかったことだ。写真は1822
年に発明されているが、発明当初はモデルが6〜8時間もじっとしていなければならなかっ
た。1834年の写真でも30分かかる。有名な疾駆する馬の連続瞬間写真は1872年
にやっとできる。一般に普及するのはさらにずっと先である。1800年代の半ばにナダー
ルという写真家が多くのヌードを撮っているが、まだ不鮮明なモノクロ写真で、絵画のほ
うが写真に影響を与えていた、と見るほうが妥当だろう。
この19世紀のフランスアカデミズムの怪物たちは尋常ではないデッサン修行によっ て桁
はずれの描写力を有していたのである。さらに2点ほどお目に掛けよう。
左の絵はカバネルという画家の手による1863年の『ヴィーナスの誕生』。横225cm
の大作だ。右は横33cmの小品だが、乳房の表現は見事である。アルマ=タデマという
オランダで生まれ、イギリスのロイヤルアカデミーで活躍した画家の1881年の作品。
いかがだろうか。まだまだ凄い絵描きは尽きない。この鉄壁なパリ画壇に挑みかか り、こ
れらの目を見張るパーフェクト絵画群を美術史から葬り去った男たちがいた。
それが印象派の画家たちである。 話はここから始まる。しかし、今回はここまで。 みな
さん、これから1週間、このフランスアカデミズムという怪物をじっくり味わっていただ
きたい。図書館や大きな書店に恵まれている方は下記の美術書が参考にな る。じっくりご
覧あれ。25年前の間抜けで慌て者の私などは、すぐさまブグローの『バッカイ』の図版
を手にいれ、模写を始めたぐらいだ。目が覚めるのに数年は掛 かっている。1週間ぐらい
ならなんでもないであろう。もっとも、ブグローはゴッホも褒めているくらいだから、実
際凄い絵描きであることに間違いはない。
【参考図書】
全集 美術のなかの裸婦3『神話・神々をめぐる女たち』集英社
全集 美術のなかの裸婦9『風俗と女たち』集英社
別冊宝島・誘惑美術館 西岡文彦 宝島社
次回はフランスアカデミーの敗北をお送りする。
おわり。