No46絵の話1998.4.26更新

名画の顔を見る

フランスアカデミーの敗北

美術史の謎

前回に引き続きウイリアム=ブグローの絵からご覧いただく。この絵は、54歳 (1879年)のときの大作(218×300cm)。画力の素晴しさは一目瞭然。  壮年ブグローの充実し切った意欲が画面から溢れんばかり  だ。デッサンは言うに及ばず、構図も見事な渦巻きを作り文  句なし。しかも画面全体が明るい。明るい絵画は印象派から  始まると言われるが、このアカデミズムの巨匠はちゃんとそ  こら辺も心得ている。これだけ描ける絵描きがいったいどう  して美術史から消えたのだろう? 同時代のコローやクール  ベ、ミレーなどがたいへん有名なのに、ブグローはほとんど             一般に知られていない。もちろん画集もない。実に不思議 である。今回はこの謎を解きたい。

印象派は知っていた

ブグローが一般に知られないのは絵がつまらないからである。この画家はボッティ チェリのように埋もれた画家ではない。総合的なフランス絵画展ではよく日本にも来 ている。ついこの前もストラスブール近代美術館展で大作を見たばかりだ。もちろん 驚くべき描写力。考え抜かれた美しい色彩で見事な聖母マリアが描き出されていた。 しかし、やっぱり話題にならない。どうしても絵がよくない。もちろん印象派の画家 たちはブグローが月並なことをよく知っていた。そして、そのブグローが「絵画はラ ファエロ一人いればいい」と広言していたこともあり、ルノアールなどはラファエロ もつまらない画家だと思い込んでいたのだ。  

騙されたルノアール

ルノアールはイタリアでラファエロの本物を見て「私は騙されていた」と叫んだそ うだ。ルノアールが見たというのは右のラファエロである。 ルノアールはこの絵をふざけ半分で見に行った。ルノアー ルの手紙にそうある。ところが、そこに見たものは「自由 で堅固、単純で生気に富む絵。真実な肉付け。心打つ母性 の表情」だった。ルノアールはこれらの賛辞にさらに「もっ とも」とか「想像しうる限りもっとも」などと強い修飾を 施している。ルノアールの感動は限りないものだったのだ。 どうしてルノアールがラファエロの絵をふざけ半分で見に 行ったのか、その本当の真相は知らないが、ルノアールたち印象派の画家がもっとも 憎んだあの19世紀のフランス画壇の総帥・ブグローが「絵画はラファエロ一人い ればいい」と広言していたことからも察しがつく。すなわち、ラファエロはアカデミ ズムの元祖のような存在、ルノアールらの立場から言えば「つまらない絵の典型」 「悪しき絵描きの代表」「悪魔の画人」というところだったのだろう。 ところが、ルノアールがそこに見た実際のラファエロは当時のフランスアカデミズム 絵画群とはまったく異なった、まさにルノアールたちが求める「絵画の本質」を見事 描き切った正義の画人だったのである。

写生と写実

それでは「絵画の本質」とは何か。それは上のルノアールの言葉にある「自由」「堅 固」「単純」「生気」「肉付け」「表情」などがそのままキーワードになる。これら の言葉も頭に置いて下の二つの顔をくらべていただきたい。左の図は、上掲のブグ ローの絵の顔のところを、右はラファエロの聖母像(上の聖母像とは別の絵)からや はり顔の部分を拡大したものである。

この2つの顔を見て、絵とはつくずく技術ではないなと思う。技術的に見るなら、左 のブグローのほうがラファエロをはるかに凌いでいるからだ。無理もないことで、ブ グローは老練とも言える54歳。一方のラファエロは弱冠24歳のときの仕事だ。誰 がどう見てもブグローの描写力を評価するだろう。しかし、絵画として自分の部屋の 壁に掛けるとなると話は別だ。私はもちろんラファエロを選ぶ。思うに、大多数の人 がラファエロを採るのではないか? だって、いくら美人だからといっても見も知ら ない街のお姉ちゃんの顔を部屋に飾る人間はいないだろう。それに対し聖母は万人の 母である。優しさの象徴である。ほっと心が安らぐ放伸のまなざしを持っている。 ラファエロは24歳にして、自分が何を描いているのかちゃんと心得ているのだ。こ こが重大である。写生と写実の違いをよく知っている。 ブグローも、この絵は実はニンフを描いているのだ。海の精である。聖母とはちょっ と異なるにしても、モデルをそのまま写生したのでは能がない。やっぱりもっとあど けない表情が欲しい。ルーベンス(右の絵)はちゃんと知っていて見事なニンフの表 情を描き出している。

もちろん、ラファエロもルーベンスも自分の絵を誰か個人の部屋を飾るために描いた のではない。おそらく、ラファエロは教会のために、ルーベンスはフランスの宮殿に 掛けるために描いたのである。

19世紀フランスアカデミズムの本質

また、ブグローの絵は、今で言うと『タイタニック』というところではないか、と思 う。イギリスのターナーなども同じだが、この時代の絵画は一般大衆から現代の映画 に期待するのような思いで受け入れられていたと推測できる。 「今年のブグローはどんな絵だ?」とか「ジェロームは何を描いた」とか「カバネル の色彩は?」などと、絵画愛好家はもちろん、もっと一般的な人々にまで待ち望まれ ていたのではないだろうか?  そういう意味では、18〜19世紀のサロン絵画はルーベンスなどよりずっと大衆性 の強いものだったと言える。もちろん現代の絵画よりもはるかに一般大衆の待望の的 だった。当然画家の腕もグングン上がり、「描写力」ということだけ取り上げるなら 絵画史上最高のところまで達していたのではあるまいか。 まことに当時のフランスにおいてはどこの誰だって筆一本あれば、最高の栄誉と富貴 が獲得できたのだ。今がアメリカンドリームなら当時はフレンチドリームというとこ ろか。

絵画とは人間である

ところが絵画というものはもっともっと奥が深かった。   それをちゃんと知っていたのは印象派の絵描きたちだ。世の中捨てたものではない。 わが世の春を謳歌していたサロン絵画に挑み、「絵画の真実」を貫き通し、それを世 に問い、最後には勝利をもぎ取った。あの鉄壁なサロン画壇を美術史から葬り去った のである。 それでは絵画の真実とは何なのだろう。もちろん私だって知らない。下手な説明よ り、上のブグローのヴィーナスの顔の部分(左)とラファエロの先生だったペルジー ノの聖母の顔の部分(右)をじっくり見比べていただきたい。

私はこのペルジーノはどんなラファエロよりもいいとさえ思い込んでいる。いかがだ ろうか? 絵画とは人間なのである。 「絵画の真実」そのものではないのだろうが、「品性」ということが一つの重要な要 素であることは察しがつく。やっぱり絵画は目で見なければ始まらない。百聞は一見 にしかず、上の二つの画面ははっきり「絵画の真実」をものがたっていると思うのだ が。


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